第三十一話 お馬のグルメ

「うす」


 目の前にいるのはスラッとした長身の動物だ。茶色の体に黒いたてがみ。顔は長く、優しげに潤んだ目をニコニコさせている。

 その見た目通り、彼は野馬ノウマの仔、シンクエ・エクウスだ。アニマルアカデミーにおける五番目の動物の仔で、私の兄貴分に当たる。


 そういう私はエナム・バンテン。野牛の仔だ。

 ここアニマルアカデミーにおいては動物たちの食レポを集めるというミッションを受けている。


「俺が来たということは、あれだぞ。お前の食レポを集めるという仕事もラストに差し掛かっているということだ」


 シンクエの野太い声が響いた。

 どういうことだろう。アニマルアカデミーにはまだまだ動物たちはたくさんいる。食レポは到底集め切れているとは言えない。

 まだまだ終盤なんて思えなかった。


「わからないか、ふふふ」


 謎めいた笑い声を漏らしながら、その目はやはり優しげに私を見つめていた。一体、何なんだろう。


「まあ、少しはヒントを出しておくか。

 一を知って十を知るという言葉があるだろう。データの収集は何も一から十まで行う必要はないんだ。

 それにな……。いや、これは言うのをやめておくか」


 シンクエは途中で言葉を濁した。いや、気になるよ。言いかけたなら、最後まで教えてくれないか。


「俺はヒント屋でもヒントマンでもないんだぞ。それにあまり教えちゃ、エナムの成長の妨げになるかもしれないからなぁ」


 そうは言いつつも、シンクエはさらに続けた。


「アニマルアカデミーの意志は一つなんかじゃない。一つの思惑だけを分析していても、わからないことがあるだろう」


 そして、再び「ふふふ」と謎めいた笑みを浮かべる。

 言い切ってもらっても、何の話かいまいちわからなかった。


 まあ、いいや。そろそろジェーデンの女将さんの食堂に向かおう。お腹も減ってきたし。


「いいだろう、ふふふ」


 シンクエはやはり謎の笑みを浮かべた。


          ◇


 カランカラン


 食堂のドアに取り付けられた鐘が鳴る。それを聞いて、にこやかな笑顔のジェーデンの女将さんが顔を出した。


「あらぁ、シンクエちゃん、エナムちゃん、いらっしゃい。うふふ、シンクエちゃんは本当に久しぶりじゃない。たまには顔出してよ。

 今、お料理作ってるから。楽しみに待っててね」


 笑顔のまま、私たちの、いや、シンクエの様子を窺っているように感じた。


「いやあ、女将さん、それは申し訳ない。

 こっちも何かと忙しいんでね。祭りの準備とか。女将さんも祭りには出るつもりじゃないんですか」


 シンクエは少し不思議なことを言った。祭り? そんな話は聞いたことがないぞ。


「うふふ。シンクエちゃんはそんなことをしてるの。シンクエちゃんがお祭りを開くなら、楽しいものになりそうね。その時は参加させていただくわ」


 そう言って女将さんは笑う。しかし、シンクエには全く笑みはなかった。


「何を言ってるんですか。祭りを始めるのは女将さんだと、俺は思ってるんですけどね」


 真顔のまま、淡々と言葉を重ねていた。これには、女将さんからも笑顔が消える。


「何を言っているのか、わからないわ。でも、食事を前に料理人に言うことなのかしら?」


 何か、ジェーデンの女将さんから不穏なものを感じた。まさか、料理に毒物を混ぜようなんてつもりはないと思うけど。

 それにしても、この両者は一体何の話をしているのだろう。


「そこは女将さんが料理人だということを信頼しますよ。来週にはニコさんが来るんでしょう。少なくとも、それまでは食堂という体裁を守らないと」


 優しげに目を潤ませたまま、シンクエは言った。

 ニコさん? 来週、ニコさんが来るというのか? 食レポに? 初めて聞いたけど、本当だろうか。もう一回来てるんだけど。


「そうね。信頼してくれて、ありがとう」


 それだけ言うと、笑みを失ったまま、女将さんは厨房に戻っていった。


「すまんな、エナム。巻き込んだ形になってしまった」


 うん? 巻き込まれたのか? 正直、何が何だかわからない。


「それはそのうち、否が応でもわかるさ。だが、どういうことかは考えていてくれ。それがお前の力になるはずだ」


 何だかわからないことは変わらなかった。


          ◇


「乾杯」


 私とシンクエは琥珀色の液体の注がれたジョッキを合わせた。カチッとした音が鳴ると、そのままビールを一息に飲む。


 今回頼んだのはコシヒカリエールだ。米を使用したビールらしい。

 意外にもしっかりした麦の香りが感じられた。苦味もたっぷり。けれど、決して不快ではなく深い味わいを感じる。そして、その奥には米の甘さがあった。

 炭酸までもが上品なもののように思える。

 うん美味しい。


「うむ。まるで、田んぼの黄金色の風景が浮かんでくるようだな。見ろ! 空には虹がかかっている。そんな味わいのビールだ」


 シンクエはその味わい深さと爽やかさを独特の表現で語る。いいビールだからかな。


「お料理を持ってきたよ。さあ、召し上がれ」


 ジェーデンの女将さんが私とシンクエの前に皿を置いた。干し草のサラダが盛られていた。


「これは美味そうだ。それでは、女将さん、いただきます」


 そう言って両手を合わせると、干し草を食べ始めた。私もそれに倣う。

 豊かな味わいの干し草を味わい、飲み込み、そして反芻する。幸せな瞬間だ。


「うん、美味い! 高原を駆けているような、そんな爽やかさ、生き甲斐、それに満足感。やはり、女将さんの料理は素材からして違うな。エクセレントだ」


 そう言ってシンクエは干し草を飲み込んだ。

 そういえば、馬は反芻しないんだったっけか。胃も一つしかなかったように思う。


「ああ、馬は反芻しない。胃も一つだ。その分、大腸が大きくて、そこで食物を発酵させる。セルロースも消化できるようになっているぞ」


 そうか、反芻できないのか。それは可哀想に思えるが、仕方のないことだろう。


「生物としての成り立ちが違うからな。

 牛は少量の食べ物を移動しながら消化することで、肉食動物から逃れた。馬は多量の食べ物を必要とするが、肉食動物に襲われた場合には逃げ足がある。

 どっちが有利だったかで言うと、牛のような偶蹄目かもしれんが、俺たち奇蹄目も洗練された進化を遂げているんだ」


 そんなものなのか。

 確かに、正面から勝負して勝てるのは素晴らしいことだ。けれど、そもそも勝負しない、つまり肉食動物に鉢合わせないようにする戦略の方が生き延びる確率は上がる。


「はい、次のお料理よ」


 ジェーデンの女将さんが新たな皿を持ってきた。

 それに乗っているのは丸くてこんがり揚げられたコロッケだった。その横にはニンジンのグラッセが添えられている。


 コロッケを口に入れる。熱々だが火傷するほどではない、まさに適温。中身はジャガイモだが、衣には大豆が使われている。

 噛み締めるごとに、大豆の旨みとジャガイモの甘さが混ざり合い、抜群のハーモニーを奏でているようだ。


「んー! いい味じゃねぇか。なんだ、爆発するような凄みを感じさせるな。ジャガイモにこれほどのポテンシャルがあろうとは……。豆もいい仕事してるぞ。

 それになんだ!? ニンジンのグラッセ。甘い。この甘さが嬉しい。まさに砂漠をさまよってる時にオアシスで飲む水のような清涼感のある逸品だな」


 確かにニンジンのグラッセは甘い。それでいて、ほどよい塩味も効いており、バターの風味もいい。コロッケの付け合わせにピッタリだった。


「デザートはアップルパイよ。味わって食べてね」


 甘い香りが漂う。こんがりと焼けた美しい円形だ。格子状に成形されたパイの形も綺麗だった。


「こりゃあいい。んー! リンゴ、酸っぱいよぉ。けど、甘くて美味しい。蕩けるようなリンゴの味わいをシナモンの香りが増幅させる。

 まるで、宇宙の誕生を見ているかのようだ。リンゴの宇宙とシナモンの宇宙。それにしっかりとしたパイ生地の歯応え。これもまた新たな宇宙だ。

 マルチバースの宇宙がユニバースに統合される。そうか、これがビックバンなんだ」


 わかるような、わからないような例えでシンクエが表現してくれた。

 アップルパイは美味しい。リンゴの蕩ける熱が堪らない。瞬く間に食べ切ってしまう。

 だが、シンクエはまだアップルパイを食べている。私よりも多くのアップルパイを出されているようだ。先ほどの話だと、牛に比べて馬は量を食べなきゃいけないんだったっけ。


          ◇


 こんなところでお馬のグルメは締めたいと思う。

 同じ草食哺乳類の代表格であるが、異なるアプローチで進化してきた動物だ。グルメの感覚も似通っているようで、違いが出ていたんじゃないだろうか。


 そして、気になることもいろいろあった。ジェーデンの女将さんとの鍔迫り合いのような会話もそうだ。あの両者にはどんな思惑があるというのだろうか。

 それに、来週はニコさんが来るという。二回目なんだけど、確かにメインにはなってなかったから、いいのかな。


 というわけで、次回は人間のグルメとなった。このレポートの読者には人間が多いようだが、改めて人間がどんなグルメを好むのか、見つめ直す機会になったら幸いである。


 それではまた来週、この時間、この場所でお会いできることを願っている。

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