第三十二話 人間のグルメ

 目が覚めた。そして思う。今日はニコさんと会う日だった。

 何となく、憂鬱になる。悪い人ではないのだろうけど、ちょっと苦手に感じていた。


 自己紹介しておこう。

 私の名はエナム・バンテン。野牛の仔だ。ここアニマルアカデミーで食レポを集める仕事を行なっている。

 今日は人間の仔、ニコの食レポ回ということになる。あの人、一応、二回目の登場なんだけどな。


 いつものように顔を洗い、歯を磨く。

 こうしていると、自分が野生動物からほど遠い存在になったのだと実感した。人間のような知性を植え付けられたのが不幸なのか、野生を失ったことが不幸なのか。答えのない問いが浮かぶが、そんな考え自体に意味があると思えない。

 人とは意味のないことを考えるもののようだ。


 食事のリクエストを送信する。今日はジェーデンの女将おかみさんの食堂へ行くんだ。少なめでいいだろう。

 すると、すぐにボックスが届けられた。中に入っているのはパンとチーズ。それに牛乳だ。


 パンを食べる。固い。無理に噛み砕くと、ボソボソとした食感で味気がない。

 添えられたチーズを溶かしてかけられたなら、まだマシな食事になったんだろうなと思うが、そんな機材は私の部屋には用意されていない。


 チーズも食べる。これまた固い。古くなっているようだ。香りも何もあったものではない。

 そのチーズの僅かな塩気を頼りにパンを食べる。そして、パサパサになった口の中に牛乳を流し込んで、どうにか飲み込んだ。


 これで朝食は終わり。いい気分とは言わないが、この後には女将さんの食堂に行ける。そう思うと元気が湧いてくる。


 ただなあ、今日はニコさんと一緒か。


          ◇


 ガチャリ


 扉を開ける。すると、目の前に何者かが立っていた。

 スラリとした二足歩行、毛皮や鱗ではなく、衣服という外的なもので体を覆っている。毛は僅かに頭部から伸びていた。


「よっ、エナム。待っていたぞ」


 メガネの位置を直しながら、ニコさんが言う。

 ぶっきらぼうな口調だが、優しげな声色だった。だが、少し違和感がある。何というか、優しさが過剰とでもいうか、無理に優しい声を出しているように感じた。

 彼女は私が傷つかないよう配慮してくれているのだろう。ということは、彼女の本心は私が傷つくものだということだ。


「そんなことはないさ。そう勘繰るな。ただ、注意しておこうと思っただけだ」


 ほらね、やっぱりそうだ。何か、私の不備を指摘するつもりだろう。

 具体的な心当たりはないが、食レポを提出する時にはいつもビクビクしている。何か問題がないか、拙さを指摘されはしないかって。

 そういうことを言うつもりなんだろ。


「どうも、ツンケンしてるなあ。まずは話を聞いてくれたらどうだ? まずはそれからだろ」


 わかった。話をしてくれ。

 ……どうも、よくないな。ニコさんの前だと抵抗心が出てしまう。ついつい、反抗的な態度が出てしまうのだ。

 自分を否定されたくないという意識が出てしまうのだろうか。


「うん、素直に聞いてくれ。

 君はさ、食レポに私が二度目の登場だって書いていたな。あれ、たぶん読者はわかっていないぞ。私が君とやった第一話の食レポに、私は出てないんだ。

 確かに私はその場にいたさ。けど、私の音声は拾われてなかった。だから、君が独り言を喋っているていになっていたはずだ」


 え? そうだったの?

 第一話は音声の聞き直しをしなかった。その時点ではニコさんがその部分を担当したからだ。

 とはいえ、まさか、そんな風になっていたなんて。


「ということは、読者の人間たちには、ニコさんが再登場するって言っても通じてなかったってこと?」


 私は項垂うなだれるように呟いた。

 そういえば、前にゴリラのテンからリンゴを渡されたことがあったっけ。その時にニコさんからもらったって話したな。あれもちゃんと説明しなきゃいけなかったってことか。


「そうだな。あるいは、読み飛ばしたかと思ったかもな。あるいは、最初から飛ばし飛ばし読んでいるような手合いもいるだろう」


 むむ、そんな人もいるというのか。そういうものなのだろうか。まあ、いいや。


「それで、そんなことを言うために私の部屋の前まで来たの?」


 私の問いかけに、ニコさんはにこりと笑った。


「違うよ。久しぶりなんだ、積もる話もあるだろう。ゆっくり歩きながら話したらどうかと思ってね」


 うへー。積もる話なんてないよ。なんなら、ジェーデンの女将さんの食堂で現地集合でよかったくらいだ。


「つれないことを言うな。こういうのも楽しいだろ」


          ◇


 カランカランとドアに取り付けられた鐘が鳴った。すると、ジェーデンの女将さんが厨房から顔を出す。


「あら、ニコ。それにエナムちゃん、いらっしゃい。

 ニコ、久しぶりねえ。今日来てくれるっていうから昨日から準備してたのよ」


 そんな話をしながらも、厨房からは美味しそうな匂いが漂っていた。これは私にもすぐにわかる。カレーの匂いだ。


「ふふ、カレーか。あんたのカレーは美味いからな。俄然、楽しみになったよ」


 ニコさんの言葉を聞いて、女将さんは微笑みながら厨房に戻っていく。

 前回のシンクエと女将さんがちょっと険悪だったので、少し危惧していたけれど、良い関係のようで安堵する。


「エナム、君さ、本当にそう思ってるんじゃないよな」


 ぎくり。上手くまとめようと思ったのに、ニコさんが台無しになるようなことを言った。

 ということは、女将さんとニコさんの間にも何かあるのだろうか。


「そんなものはないよ。今はね」


 意味深なことを言う。それじゃ、過去に何かあったみたいじゃないか。


「過去にだってないさ。

 それよりだ、エナム。ビール飲むだろ、牛だもんな。好きなの、何でも頼んでいいぞ」


 それはいつも通りのことだ。

 まあ、ビールを頼むのはやぶさかではないけど。


「ちぇっ。なんだよそれ」


 ニコさんのぼやきが聞こえた。上役らしく、私に奢ろうという腹づもりが外れたらしい。


          ◇


 褐色の液体がなみなみとジョッキに注がれた。今回のビールは日本海倶楽部というやつだ。


「乾杯」


 互いにめでたさのない淡々とした声を合わせ、申し訳程度にジョッキを触れさせる。そして、一息にビールを飲んだ。


 深い苦味があるが、それと同時に甘さも強い。これはヴァイツェンだ。麦の香りを強く感じる。淡い炭酸の感触もいい。

 シンクエであれば、「見ろ! 日本海の荒波が見えるようだ!」とでも言うだろうか。しかし、私には見える風景はなく、ただビールの苦味とその奥にある旨味を味わうだけだ。


「さ、お料理ができたよ。ニコのためのスペシャルメニューなんだからね」


 そう言って、微笑んだまま、私とニコさんの前に皿を置く。予想通りというか、匂いの通りというか、カレーだ。けれど、ニコさんの前には予想外のカレーが置かれている。


「そのカレー、妙に赤くない? もしかして、唐辛子? それに付け合わせのピクルスは玉ねぎだし、その盛り付けられてるのカラシでしょ。全部、毒じゃない?」


 私は驚き、思わず大声をあげてしまった。それを見て、ニコさんは声を出した笑う。


「ハハッ、これが毒か。まあ、見ようによってはそうなのかもな。唐辛子もカラシも刺激物だし、玉ねぎにあたる動物も多い。

 けど、人間にとってはご馳走なんだ」


 そう言いつつ、ニコさんはカレーを食べた。


「うーん、美味い! これぞカレーって感じよね。

 辛さが食欲を刺激するし、スパイシーな味わいがカレーの旨さを引き立ててくれるのよ。お肉も美味しいよ。これは鶏かな。カレーとお肉の相性は最高。

 それを玉ねぎのピクルスと絡めるでしょ。シャキシャキした食感と絶妙な甘さ、酸っぱさが加わって、カレーの美味しさに爽やかさが追加されるのよ。これが堪んないの。

 そして、カラシ。これも酸っぱくてちょっと辛い。いいアクセントなんだ。カレーと混ざり合うと、何とも言えない美味しさ。

 ジェーデンのカレー、久々に食べたけど、ほんとこの味なのよ! こんな美味しいカレー、ほかにないんだから!」


 ニコさんは本当に美味しそうに食べる。毒入りとしか思えないカレーだが、人間には美味しく食べられるものなのだろうか。


「そうね。確かに、人間は食べられるものの幅はほかの動物よりも広いかも。肉なら大抵なんでも食べちゃうし、野菜の種類も多い。牛みたいに草そのものはなかなか食べないかもだけど」


 そうなのか。

 私は今まで、人間は弱い動物だと思っていた。野生動物としては、知恵と器用さでどうにか生存し、文明の力で他の動物を圧倒したのかと。

 けれど、この食性の幅の広さは人間の肉体の強さだと言っていいだろう。


「人間は道具と持久走を武器に狩りをしてきたけど、確かに食べ物の幅が広いのも強みかもしれないな」


 ニコさんが感心したように言った。

 おっと、私もカレーを食べよう。黄色い甘口のカレーだ。

 食べると香辛料の複雑な味わいとともに甘さが伝わってくる。隠し味はリンゴとハチミツだろうか。


「エナムちゃん、付け合わせがいろいろあるから食べてね。

 福神漬けでしょ、辣韮らっきょう漬け、きゅうりの浅漬け、さくら大根、搾菜、もやしのナムル。こんにゃくの煮付けもカレーに合うのよ」


 そう言って、ジェーデンの女将さんがいろいろなお惣菜を持ってくる。確かに、どれもカレーに合った。こんにゃくの煮付けがピッタリ合うのは意外で驚きだ。


「それでさ、エナム。今日の話で不思議に思うこと、なかった?」


 食べるのが落ち着くと、ニコさんが尋ねてくる。

 何を言いたいのか、すぐにわかった。私も疑問に思い、口にしなかったことだからだ。


「けど、そんなことを言っていいの?」


 さすがに躊躇する。けれど、ニコさんはキッパリと断言した。


「構わない。

 すでに人類は滅んでいる。なのに、なぜ食レポの読者は人間なのか」


 あー、言ってしまった。大丈夫かな、これ読者の人たちショックを受けない?


「これを読んだところで、ショックは受けないだろ。現実味がないからだ。

 アニマルアカデミーには人間が何人もいる。けれど、外で活動しているのは私だけ。ほかの奴らは脳だけの存在として、培養液の中で、2023年の夢を見ているんだ。まだ人類が滅んでいないと思い込んでさ」


 ああ、なるほど。動物たちの番号に欠番がいくつかあると思っていたが、それは人間なんだ。

 脳みそだけしかないなら見当たらないのも当然だ。


「奴らにとっちゃ、2023年が現実で、この食レポなんて虚構に過ぎないと思ってる。だから、これを読んだとしても、またエナムが変なこと言ってるとしか思わないんだ」


 そんなものか。ちょっと、もどかしいな。

 けど、そんなことは大きな問題じゃない。なぜ、シューニャの意志がそんなことをさせているか、ということだ。


「それが気になるよな。エナム、それでいい。君はいい線いってるよ。けど、それは宿題だな。

 理由はこれから君が考えなくちゃいけない」


          ◇


 さて、この辺りで人間のグルメを締めたいと思う。

 人間は野生においては最弱。そんな印象を持っていた人もいるんじゃないだろうか。

 それはある程度事実なのだろうが、人間にしかない強みもまた存在する。だからこそ、進化の競争に勝ち抜いてきたのだ。


 ん? なんだろう。

 食堂にまだ女将さんとニコさんが残ってるな。何かを話している。


「それで、ニコ。あんたのエデン計画って、順調なの?」


「ふん、あれがそんなに気になるのか。ま、順調だね。

 年内は無理でも年明けには稼働が始まるよ。そうなったら、もうここはアニマルアカデミーなんかじゃなくなるかもね」


「うふふ、それは楽しみね」

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