第十六話 食後のレジュメ
「やれやれ、今日もパンと牛乳か」
私は思わずつぶやいた。周囲には誰もいない。私の部屋なのだから当然だ。
しかし、ついつい独り言を言ってしまう。別に、パンや牛乳が嫌いなわけではない。ただ、こう連日続くと嫌気がさしてしまうのだ。
とはいえ、我々の祖先、野牛たちがそんなことを思っていただろうか。そう考えると、少し疑問が湧く。
食うや食わず、食うか食われるか、そんな生活をしていた野牛たちにはそんな余裕はなかったはずだ。となると、アニマルアカデミーで人間のような暮らしをさせられている私たちは、その余裕の中で不平や不満を覚えたのかもしれない。あるいは、平穏な日々というのはストレスが少ないように見えて、かえってストレスのかかる生活であるのだろうか。
退屈というものは動物の暮らしおいて、想像以上の危機であるのかもしれない。
ああ、そうだ。自己紹介をしていなかった。
私の名前はエナム・バンテン。見ての通り、野牛の仔だ。ここアニマルアカデミーにおいて、さまざまな動物たちの食レポを集めるのが主なミッションであるが、今日はその予定はない。
代わりに――となるかは、わからないが――アカデミーの中枢に行き、現在までの食レポに関しての報告をする仕事がある。
「食べるしかないか」
また、独り言だった。今日の仕事はそれなりに重い。体力が尽きないよう、しっかり食べなければならない。
私はいつもと変わり映えのないパサパサのパンを噛み砕き、水分のなくなった口の中に牛乳を流し込む。そして、申し訳程度に添えられていた干し草をもぐもぐと頬張り、胃の中に入れ、反芻し、また頬張る。
そうして身支度を整えた私は自分の部屋から外の世界へと、今日も旅立つのだった。
◇
「エナムくん、どこに行くの?」
アカデミーの道すがら、小さな公園の前で声をかけられる。ゴリラのテン・G・G・ディールハイだった。ベンチに座っている。
「今日はアカデミー休みでしょ。何か用事でもあるの?」
今日のアカデミーはほとんどの動物たちを閉鎖していた。システムの整理や調整、つまりメンテナンスを行うという触れ込みだ。
ただ、それには私の食レポの報告の処理をすることも含まれるらしい。私には閉鎖されているわけではないのだ。
「そうなんだね。でも、それって大変そうじゃん」
そう言うと、横に置いていた袋から何かを取り出すと、私に投げてきた。思わず、手で掴む。それはリンゴだった。
「食べなよ、ニコさんから貰ったばかりなんだ。リンゴにはね、“医者いらず”って別名があるくらい栄養たっぷりなんだって」
テンは自分の分のリンゴも取り出し、カプリと齧りついた。
私も同じようにリンゴを齧る。シャリシャリとした小気味いい食感とともに、甘酸っぱい果汁が口いっぱいに広がった。
甘いものはいい。その甘さとともに、これから待っている仕事への憂鬱さが流されていくようだった。
「青リンゴは赤いリンゴより酸っぱい分、疲れに効きそうでしょ。大変な仕事で心労が重なっていたんじゃない。ぴったりだと思ってさ」
そう言われて、私は残ったリンゴをまじまじと眺めた。確かに青リンゴだった。正確には緑色のリンゴだというべきだろう。
「え? 気づいてなかったの?」
テンは私の様子に驚く。これは仕方のないことかもしれない。
一般に、哺乳類の視覚は赤と青の二色を感知する。それに対して、一部の類人猿は赤、青、緑の三色を感知するらしい。色というのは原色が混じり合い、グラデーションのように曖昧な境界の中で分類されていくが、類人猿はそれがより細かいのだ。
私には赤リンゴも青リンゴも大した見た目の違いはないのだが、テンにはまるで別物として映っているのだろう。これは、果物を主な栄養源とし、それがどれだけ熟しているのか、あるいは腐っているのか、その見極めで生死が分かれてきた動物ならではの進化なのかもしれない。
「そうだったんだ。私とエナムくんとじゃ、見えてる世界が違うんだね」
どこか寂しそうにテンはつぶやいた。
◇
レポート自体は毎回提出している。今回はそれぞれのまとめと総まとめとしてのレポートの提出が課題だった。とはいえ、それも昨日までに提出を終えている。
問題なのはそれをシューニャとの面談で説明しなければならないことだった。
「ID承認シマシタ。開錠ヲ許可シマス」
機械音声が私を通すと伝えてくれる。シューニャのもとへ行くにはそうした何重ものセキュリティを通過しなくてはならない。
それを突破して近づいてくるのは、シューニャとの面談の時間だ。そのことを考えると、複数ある胃のいくつかが圧迫されるような感覚があった。心臓の鼓動もいつもより早まっているように感じる。
このまま、ただ歩いているだけで時間が過ぎてくれればいいのにな。
そんなことを思うが、その願いが叶うことはない。シューニャの居室へと辿り着いていた。
私は意を決してその扉を開け、部屋の中に入っていく。
「よく来た。
部屋にある複数のスピーカーから声が響いていた。目の前にはモニターがあり、螺旋状の粒子が渦を巻くように蠢いている。
これがシューニャだ。機械の声と機械の見た目。その肉体は部屋にある機器の中に保存されているらしいが、詳しい場所は聞かされていない。
だが、シューニャと話すことができるのはこの部屋だけだ。ネットワークの類は、シューニャによって把握されているが、直接的なアクセスは行われていないらしい。
「そうだ、聞いたぞ。
そんなことがシューニャにも知られているのか。おそらく
「私の考えるところはこうです。
おそらく、絶滅危惧動物を集めるというのは目的ではないでしょう。なぜなら、絶滅とは無縁の動物も混ざっているからです。どちらかというと、絶滅危惧動物が集めやすかったというのが理由なのではないかと思っています」
私はどうにかそう答える。心臓がばくばくと激しく動いているのがわかった。
シューニャとの問答はそれだけで神経を損耗させる。
「なぜ、絶滅危惧動物が集めやすいのか。それはその動物そのものを収集したわけではないからでしょう。残された遺伝子を収集したからです。
逆にいえば、生きた動物を得ることはできなかった。そうではないですか?」
そこまで言うと、モニターの中で蠢く粒子が激しく散らばった。スピーカーからの音声は笑いを伴っているように感じられた。
「なかなか、いい線を行っている。続けてくれないか」
どうやら見当外れの意見ではなかったようだ。私は安堵しつつも、さらなる緊張が高まるのを感じた。
「このアカデミアには不自然なものを感じることがあります。その一つは、私たちに与えられた情報が人間社会の2023年8月のものから、時間の経過を感じないことです。
私はずっと現在は2023年だと思ってきました。ですが、三津さんの問いかけを受けてから、それが誤っているのではと感じ始めたのです。2023年には動物を改造進化させるような科学技術はまだありませんから。
私たちがいるのは、2023年から時代の流れが止まった世界。そして、生きた動物を見つけることのできない世界。人類破滅後の世界ではないのですか?」
私は発言しながらも、恐怖を感じていた。このことは薄々感じながらも、認めたくない推論であった。
あるいは、私はこの言葉をシューニャが否定してくれるのを期待していたのかもしれない。
「良い推理だよ、
シューニャの返事に、私は絶望的な衝撃を味わっていた。否定してほしかった言葉は、すんなりと肯定されてしまった。
私たちが生きる現代の基盤が脆くも崩れ去る。いや、与えられていた情報がそもそも誤りであったのだ。
「文明が崩壊し、生命も絶えた世界で、何らかの存在が遺伝子を頼りに動物たちを復元したのでしょう。残された遺伝子は人間が積極的に保存しようとした絶滅危惧動物、あるいはより広く存在する家畜のような動物だった。そのため、アニマルアカデミーにいるのは絶滅を危惧された動物たちが多いのです」
私は震えながらも推測の最後を語り終えた。
こんな推理は正しくあってほしくない。それが願いだった。
テンが言ったように、誰しも違う世界を見ているのかもしれない。だとしても、こんな崩壊した世界が事実であるとは思いたくなかった。
「概ね正しい。そう伝えておこうか。
けれど、不思議だな。
シューニャがそこまで言うと、モニターの中で散らばっていた粒子が再び規則正しく螺旋軌道を描き始めた。スピーカーの中の笑い声も静まっていく。
「それでは始めようか。君の送ってくれたレポートの批評を」
私がこの日に味わうことになる地獄は、この時から始まることになる。だが、それは今回のレポートでは省かせてもらおう。
◇
エナムだ。シューニャとの面談を終え、帰ってきたタイミングでこの記述を打っている。
本当に疲れた。私の食レポに関するシューニャの細かい批評について語ることは控えさせてもらいたい。聞いて面白い内容ではないし、気が滅入ることばかりだから。
とはいえ、アニマルアカデミーの中枢がどんなものであるか、参考にしてもらえる内容になっていたら嬉しい。一部の動物たちには衝撃的な内容かもしれないが、このレポートを読むことのできるのは限られた者たちだけだろう。
さて、先週も少し話したが、次回はコアラのグルメを提供したい。ユーカリの葉の美味しさの秘密や栄養素、どんな調理をすればさらに美味しくなるのか。そんな内容になると思うので、期待してもらえると嬉しい。
一種類の食べ物を好む動物といえばパンダも近いものがあるが、同じ内容にはならないようにしたいものだ。
それでは、また来週、この時間、この場所で会えることを願っている。
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