第2話 翌朝、邂逅
翌朝は、何の変哲もない――それまであかりが過ごしてきたのとなんの変わりもない朝だった。
いつもより早く起きたあかりに母は少し驚いていたけれど、それだけ。だからあかりもいつも通りに行動し、早く起きた分、いつもより何本か早いバスに乗って学校へと向かった。
そう、いつも通り。
鏡に映った自分の左目が未だ薄青く光っていたのも、それに対して母親が何も言わないことも、学校に近づくに連れて昨夜のように左目が熱を持つのも――何もかも、考えないようにして。
異様なくらい静かな校舎に、あかり自身の足音だけが響く。誰も登校していないわけではないけれど、普段よりも早く来た分、人気のなさは顕著だった。
学校指定のスリッパがぱたん、ぱたんと音を響かせ、ひんやりとした朝の澄んだ空気が身体を包む。窓の外を見れば、朝靄に陽が霞んで見えた。
一歩一歩、確実に自分の教室に向かいながら、夢を見ているような心地だった。
左目は相も変わらず熱を持っていて、薄く反射する窓ガラスには青く光る瞳が映っている。
夢であれば、と、それこそ夢みたいなことを思いながら、あかりは自分のクラスに辿り着いた。
扉の前で少しだけ立ち止まって、静かに深呼吸する。そうして、取っ手に手をかけた。
がらがらがら、と無音の廊下に音が響き渡る。拍子抜けするくらいあっさりと――特に立て付けが悪いなんてことはないのだから当然なのだけれど――開いた扉の向こうに、彼はいた。
その姿を認めた瞬間、徐々に増していた左目の熱が、唐突に鎮まる。それこそが、彼が昨夜、その左目で見た人物である証左だった。
窓の方に向けられていた顔が、ゆっくりとあかりの方を向く。その顔を知っている。彼がここにいるだろうことも、あかりは知っていた。
それは偶然などではなかった。
あかりはこの早朝、ここに彼がいることを理屈ではなく知っていたし、彼も恐らく、この時にあかりがここに来ることを知っていて待っていた。
フレームのない眼鏡越しの、色素の薄い瞳があかりを捉え、細められた。
「おはよう。……来てくれると思ってたよ、相模あかりさん。――俺の、【救世主】」
「……おはよう、志筑海くん。そういうあなたは、【魔王】……だね」
こうして同じ学校に通う間柄ながら、互いに個人を認識して言葉を交わしたのは初めてのようなものだった。図書室のカウンター越しの、事務的なやりとり以外、関わることなどなかったのだから、当然のことではあった。
現実的な周囲の風景と、それにそぐわない非現実的な台詞――【救世主】と【魔王】という単語に、なんだかおかしくなってあかりは少し笑う。笑ってしまえる自分が、どこか正常でない状態なのだと自覚しながら。
ただ同級生だという以外の繋がりなど存在しないのに、どうして自分たちが【救世主】と【魔王】として選ばれてしまったのか。その疑問に答える〈声〉はない。
志筑海は、時折あかりが彼を見かけるときと同じような、何の感情も見出せない無表情のまま、口を開いた。
「誰か来るかもしれないし、のんびりしていても仕方ないから、単刀直入に言うよ。――俺は、【魔王】として死ぬことは、別に構わない。世界を滅ぼしたいとは思わないし、そうしないために死ぬことは許容できる。抵抗をするつもりもない。ただ、待って欲しい。俺達に許された一週間、その最終日まで」
その言葉に、あかりが一番に覚えたのは戸惑いだった。
あかりが――【救世主】が、【魔王】である志筑海を殺さなければ、この世界は滅びる。
覆しようのないその絶対のルールを鑑みれば、彼が生に執着しない様子であるのは、むしろ歓迎すべきことだ。それが自分の道徳観念や倫理観に反するものであっても。
拒否や抵抗をされる可能性は考えてはいたものの――そういう態度をとる相手を前に、自分が【救世主】として行動できるのか、あかり自身にもわからなかった。【救世主】だの【魔王】だの、ご大層な呼び名がついていても――存在がそういうふうに〈作り変え〉られたことを否応なく理解させられていたとしても、意識の上では〈人殺し〉に他ならない行為をするのに変わりはない。
【救世主】が【魔王】を殺すのは、とても簡単だ。【魔王】の証である紋様――【刻印】を、髪一筋分でも傷つければそれで事足りる。刃物を以て首を掻き切る必要も、心臓を貫く必要もない。
逆に言えば、【刻印】以外の場所を傷つけられても【魔王】は死なない。そもそも【救世主】以外には傷をつけることすら叶わない。【魔王】の身は【救世主】以外の何物からも守られる。そういうふうに〈作り変え〉られたからだ。
そしてそれは、【救世主】も同じだった。……否、【魔王】に比べれば随分と緩い守りではあるが。救世主の証たる左目を傷つけることは何人たりともできないものの、それ以外については普通の人間と変わらない程度に傷つく。
ただ、自殺だけはできない。自らの意思で生を、【救世主】という役割を放棄することはできない。世界の命運を選ぶことを、投げ出すことはゆるされない。
「……じゃあ、一週間後――に、……決行、で、いいの?」
〈殺す〉とも〈死ぬ〉とも口にできずに、あかりはそう言う。海はそれに、躊躇なく頷いた。
それにあかりは、何かを言いたい心地になって――けれど何が言いたいのかわからないまま、新たに登校してきた同級生の足音が聞こえてきて、暗黙のうちにその場はお開きとなったのだった。
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