君と私の、七日間。―【救世主】相模あかりと【魔王】志筑海の場合―

空月

第1話 始まりの夜

 かつて、どこかで。

 自分勝手に死を選んだ【魔王】に、残された【救世主】は嘆いた。


「お前が死んで――いなくなって! どうして幸せに生きていけるなんて思うんだよ……っ」


 けれど、その嘆きも悲しみも、すべては忘却され。

 世界は当たり前のように存続して、そして――。


  *


【救世主が魔王を殺さなければ、この世界は滅びる】


 深夜零時。唐突に降ってきた〈声〉に、相模さがみあかりは数式を解く手を止めた。

 部屋のオーディオ機器の電源が切れていることを確認して、首を傾げる。ラジオか何かかを切り忘れていたのかと思ったのだが、違うらしい。


(……空耳?)


 他に音を発するようなものが部屋にない以上、そうとしか考えられないが、……それにしてはいやに鮮明に聞こえた。

 ひとまず気のせいだったということにして、あかりは机に向き直った――しかし。


【救世主の証は陣の浮かぶ片目、魔王の証は身体に浮かぶ刻印】


 直後、再び〈声〉が響いた。

 思わず肩を震わせ、再度オーディオ機器に視線を走らせるが、やはりそれらの電源は点いていない。


【期限は七日間。世界の存続と一人の生を秤にかけ、選べ】


 ぷつりと〈声〉が途切れる。同時に、自身を襲った感覚にあかりは息を呑んだ。

 自分が〈崩れていく〉感覚。砂になるように、細胞レベルで分解されていくように、自分が〈崩される〉――〈崩れていく〉。そうして、その端から何か〈異質〉な物と共に再構成されていく。何かが自分に組み込まれる。

 それは圧倒的で暴力的な、それでいて壊れ物を扱うかのように繊細で細やかな、抗いようのない〈相模あかり〉への蹂躙だった。

 手にしていたペンが床に落ちた音を認識しながらも、何をすることもできない。ただ、嵐が過ぎ去るのを待つように、己が〈作り変え〉られるのを耐えるしかなかった。


 ――数分か、数十分か。それすらも判然としない、ただ翻弄されるだけの時間を経て、〈作り変え〉は唐突に終わりを告げた。

 早鐘のように鳴る心臓を感じながら、あかりは否応なく理解する。理解せざるを得なかった。

 自分が先ほどまでとは違う存在に〈作り変え〉られてしまったということを。そして、それに先ほどの〈声〉が関わっているということを。


 【救世主】と【魔王】。


 ゲームや漫画の中ではありふれたそれが、現実に存在するはずはないと、あかりが培ってきた〈常識〉が告げる。

 それなのに一方では、それが実在するのだと、自分はそれに選ばれてしまったのだと、否定を許さぬ絶対的な確信を抱いている。

 世界を滅ぼす鍵――【魔王】。

 世界を滅びから救える唯一の存在――【救世主】。

 かつて人であり、〈声〉の主によって存在を〈作り変え〉られた者達。

 外見も記憶も、人であった時のまま――それでも人とは呼べない存在に変わってしまった。変えられてしまった。世界の命運が定まるまで、それは絶対に覆らない。

 あかりは震える手で手鏡を取り出した。ごくりと喉を鳴らして、思い切って覗き込む。映った己の左目は、薄青く光っていた。――〈声〉が、それが【救世主】の証だと告げたように。

 ぼんやりと左目に熱が集うのを感じて、あかりは顔を歪めた。痛みはない。ただ違和感だけが強烈にある。

 熱はじわりじわりと上昇を続けていく。見慣れた自室の壁がぐにゃりと歪んで溶ける。そうして熱が最高潮に達したとき、唐突に左目の視界が切り替わった。

 ――ここではない、どこか。机の上に置かれたスタンドライトだけが部屋を照らすそこに、何をするでもなくただ虚空をみつめる人物が居た。

 どことも知れない場所を見ていたその瞳が、ふいに向きを変えて――あかりを、見た。

 刹那、それまでが嘘だったかのように集っていた熱が引き、同時に左目に映っていた光景も消え去る。

 あとにはただ、いつも通りの、何の変哲もない自分の部屋が映るのみ。


「……っは、」


 知らず詰めていた息を吐く。苦しいほどに鳴る心臓を押さえて、必死に深呼吸した。努めて冷静になろうとするが、つい今しがた見えた光景がそれを阻む。

 個人の部屋としては不必要と思えるほどに広い部屋。ベッドや机などの最低限の家具は揃っていたものの、まるで展示場のようにほとんど物の置かれていない、生活感が薄いそこに居たのは――。

(あれは……志筑、くん……?)

 一瞬だけ合った視線。感情の窺えない、レンズの向こうの怜悧な瞳。その持ち主を、あかりは知っていた。ほとんど『知っている』だけではあったが。

 志筑しづきかい。それが、あかりの見た人物――あかりにとっての【魔王】の名前だった。

 これまでのあかりにとっては、同じ学校に通う、端正な顔立ちと物静かな佇まいが相まって、ひそかに女生徒の間で人気があるから名前と顔を覚えている、という程度の認識だった。時折図書室に本を借りに来ることがあったから、カウンター越しのやりとりをしたこともある――それくらいの関わり。

 ……世界の存続を願うならば殺さなければならない。そういうふうにさだめられた〈対〉の存在だなんて、冗談のようにしか思えない、希薄な繋がりしかなかった。

「……眠、ろう……」

 自分に言い聞かせるようにして口に出した言葉は掠れていた。けれど、それに気付く余裕はあかりにはなかった。

 知らず身体が震える。解きかけの数式はそのままに、開いていたノートを閉じて鞄に入れる。部屋の電気を消して、乱暴に布団の中に潜り込んだ。

 身体を丸めて、ぎゅうっと目を瞑る。自然と浅くなっていた呼吸を、意識的に深める。

 考えたくない、認めたくないことから逃げていることを自覚しながら、あかりは眠りに落ちていった。


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