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織田 弥

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 強い風が吹くそのさなか、少女は立っていた。とある学校の屋上、日はすっかり落ち、街は聖夜のイルミネーションに彩られている。

「叶くん……それでも、それでも私は……」

少女が言葉を紡ごうとしたその時吹雪が吹き荒れた。これは、とある少年少女の、救いの物語。


 キーンコーンカーンコーン……キーン……チャイムが四限の終了を告げる。昼休みだ。

「あ〜疲れた!やっと昼飯食える〜」

「大志、あんた授業中にお腹鳴ってたでしょ、みんな笑いを堪えるのに必死だったわよ〜?」

ベンチ一つもない屋上に、弁当箱を持った男女二人組が入ってくる。

「仕方ねぇだろ、雪?腹が減っては戦はできぬって良く言うだろ?」

フェンス側にもたれ掛かり弁当箱を開きながらそう言い放つ大志。あんたはどこに戦いに行くつもりなのよ。と雪は呟き同じように座る。なんでもない学校生活の一幕。しかし二人は何か足りないような気分を相手の顔から読み取ってしまう。会話は上手く続かない。

「叶、大丈夫かな……」

雪は言う。大志はその言葉から並ならぬ不安を感じた。叶とは雪と大志の中学からの友達だ。体が弱く保健室に頻繁に行くのでいつも雪に心配されている。

「どうした〜?いきなり」

とぼける。本当に意味がわからなくなったわけではない。平生、叶に対して、大事に思うあまり過保護になりがちな雪であるから、さらに言えば、悩むに悩んだ末に大きな不安に駆られ軽いパニックに陥ってしまうところのある雪に簡単に心配させまいと言う大志なりの配慮がそこにはあった。当然、そのようなとぼけで流せるはずもなく雪は話を続ける。

「叶、急に保健室に行ったじゃない?体調悪いって言っといてなんて言ってたけど……」

「まぁあいつ、基本的に体調悪いからなぁ……」

「でも、いつもの体調悪い時の顔じゃなかった……」

俯く雪。その顔には明らかに不安が浮かんで見える。

「お前もよく見てんのな」

あいも変わらず大志はしらを切り続ける。大志のどこかよそよそしい様子に雪は腹が立ったようで……

「他人事じゃないの!もし叶に何かあったら……」

叶に対する心配なのか、大志に対する苛立ちのせいなのか、興奮して捲し立てるように喋る雪の言葉を大志は遮った。

「そんときはそん時だ。親友として助けてやるさ」

そう言って大志はまた弁当を食べ始める。雪の顔は浮かないまま。逆に大志は不安を微塵も感じさせない。それどころか余裕さえ感じる。体が弱い叶。心配症で臆病にさえ見える雪。そんな二人の前で自分までもが弱音を吐いていてはいけない。そんな並々ならぬ決意があるのだ。少し前とは打って変わって続く沈黙。それを破ったのはドアの開閉の音だった。

「遅れてごめん!二人とも……」

「叶!体調は大丈夫なの!?」

先ほどまで大志の隣に座っていたはずの雪。叶が入ってきた瞬間。主人の帰りを待っていた飼い犬のように周りを駆けずり回る。そんな雪を叶は大丈夫だからと宥める。

「本当、雪って妹みたいだよね……」

「妹じゃないもん!でも、叶の妹になったら、楽しいだろうなぁ……叶、弟君にも優しいもんね!」

妄想の世界に入っているのか、明後日の方向を向く雪。

「叶の弟はできる子だから優しくされんだ、お前じゃ叱られて終わりだな」

大志が水を差す。それで気分を損ねた雪と軽い口喧嘩が始まる。叶は安心感を感じながら、それでいてどこか寂しさを感じていた。

「ん?叶?どうかしたの?」

ふと雪は叶の寂しげな表情に気づく。それでも叶は、なんでもないよと笑って見せた。大志はそんな叶の表情から言葉にしがたい負の感情が見られたように思えたが、せっかく叶に会えてテンションが上がった雪の手前、そんなことは言えなかった。

「それにしても、重役出勤たぁ、お偉いご身分だなぁ?叶」

「よく言うだろ?ヒーローは遅れてやってくる……ってね」

お互いがお互いに向かって歩み出す。やることは一つ、挨拶がわりのハイタッチ。手を伸ばし待つ叶。その手首から不穏な傷跡が顔を覗かせているように大志は見えたが、真っ直ぐな目のまま首を傾げる叶を前にして、詰問する気は起きなかった。快晴の青空の下、いつもと変わらないハイタッチの音が響く。

「あれ、叶?スリッパは?靴下だけど……」

不思議そうにする雪。持って帰ったわけでもないのに朝からないんだ。叶は答える。どこか違和感を感じられずにはいられないがその話を流した方がいいと大志は直感で感じた。

「あとで探そうぜ」

「ありがとう。あ、でもこのあと二人って……」

叶の言葉に何かを思い出したような雪と大志。

「しまった!俺先生とデートの約束してたんだった〜!」

「デート?クリスマスにはまだ早いけど……」

雪、突っ込むところそこじゃないよ。そう思う叶。話を聞くと数学の小テストで追試になり過ぎた結果、先生から呼び出されたそうである。

「ただの呼び出しじゃない!」

呆れる雪。じゃあお前は何があるんだよと大志が聞くと、雪は図書委員会の集まりがあるらしい。それだけで済ませばいいものの話の最後に馬鹿なあんたとは違うんです。と余計な言葉を皮切りに喧嘩が始まってしまった。

叶そっちのけで喧嘩する二人。

「喧嘩するほど仲がいいって、よく言うよな……」

そう言いながら二人を眺める叶には哀愁が漂っている。早くしないと遅刻するよ。と呼びかけても反応しない二人。全く……と言わんばかりにため息をつく叶。

「オンユアマークス」

叶は陸上競技の準備の合図をする。中学時代陸上部だった大志と雪にはその合図が体に染み込んでいるらしく自然とスタートの姿勢をとる。その間も口喧嘩を続けているのだから無意識の動作なのだろうか。

「セット……パーン!」

叶の合図と共に走り出す二人。

「流石、陸上の本能は抜けてないんだね。てか絶対……わざとだろ」

そう呟き叶はフェンスにもたれ掛かり座り込む。

「あーあ、どうしようかな、どうしようかなんて何言ってんだろ、俺……あーあ」

そんな弱々しい言葉と共に叶の全身の力が抜けていく。叶はただその場にうずくまるのだった。

 無音。誰もいない、何も聞こえない。ただの屋上であるのにその小さな空間は叶を隔離しているようである。いつもは人気がなく落ち着くには最適であるそのオアシスに雪でも大志でもない人物が来ることなど叶には予期することは当然出来なかった。バタン!と金属製のドアの開く音。それと同時に声も聞こえてくる。

「どうしたの?私でよければ、話聞くよ?」

「親切なのはありがたいが、あいにく今はそんな気分じゃないからほっといて……って誰!?」

叶はようやくその違和感を認識した。声を掛けられているというのに、姿を見るまでその異変に気付かないほど彼女はその空間の自然と化していたのだ。

「ひどいな〜同じ学年なのに〜」

「そうなのか、あんまり学校来ないから、わからないな……」

名前も知らない、見たこともない少女の来訪に困惑する叶。ただどこか安心し落ち着いている自分がいるのだから余計に混乱してしまう。それと対象に以前どこかで会ったかのように接してくる少女。その理由はすぐに明らかになった。

「私はよく見るけどな〜?叶くん。よく来るでしょ、保健室」

どうしてそれを、と言わんばかりの顔をする叶。時が止まったかのように硬直する。思いつく限りの可能性を計算しているのだ。

「もしかして、いつもカーテンが閉まってる隣のベット……お前が使ってたのか!?」

「大正解〜お隣さんだよ〜」

腕で大きな円を作り、にこやかに少女は答える。彼女のその雰囲気に叶は調子を狂わされている。

「お隣さんって……地域のご近所付き合いでもないんだから……」

「確かに、話すのは初めてだね……じゃあ友好の印に……」

握手を求め手を差し伸べてくる少女。その時、叶はなぜここまで彼女との会話に安心感を覚えるのか、それを彼女の手首から感じ取れた気がした。叶は彼女の手をそっと握る。

「これで友達だね!」

「なんか苦手だ……」

酷い、どうかしてるよ。と騒ぎ立てる少女。

「どうか?俺の後ろにあるのは緑のフェンスだぞ?同化なんてしてない」

その“どうか”じゃないよ。とキレのあるツッコミをする彼女。

「おいおい、俺のことをピエロだなんて、嘘つきとでも言いたいのか?」

「それは道に化けるだよ!てかもはや嘘つきの域だよ!」

必死にツッコむ少女。叶はつい楽しくなり声を上げて笑ってしまう。案外、仲良く慣れそうだ。素直な言葉が少女に届く。

「むぅ……なんかモヤモヤするけど、まぁそう言ってくれたなら結果オーライ!」

少女もまた、嬉しそうに笑顔で応える。まだ始まったばかりの二人の関係、楽しい時間も昼休み終了の五分前を告げるチャイムにその日は一時的に打ち切られてしまったのだった。


 叶、今日も来なかったな。そう呟く雪の顔から、大志はまたも不安を感じ取った。叶が学校休み出して一週間が経つ。いくら体が弱く体調を崩しがちな叶であっても、ここまで休むことは無かった。

「一週間も来ないとなると、流石の俺も恋しくなるなぁ!」

おどけて見せる大志。しかしその手は握り拳を作り震えている。だがそんな大志の強がりを、不安に押し潰されそうな雪には気付くことは出来なかった。何も言わずに俯いている。

「あ〜あ、それにしてもケツいてぇ〜、急にいじめについての集会だなんて、俺たちは小中学生でもねぇんだから」

話を逸らそうと試みる大志。それが功を奏したのか雪が口を開く。

「でも、先生たちいつもより顔が真剣だった気がする……」

言葉に詰まる大志。ただそれは、雪の言葉に思い当たる節があるからではなかった。雪の一挙手一投足、見落としがないように大志はじっと見つめ続ける。

「きっと何かあったに違いな――」

「それが、最近休んでる叶に何かあったとでも言いたいのか?」

それは……そう言いかけるも雪は言葉にしなかった。否、出来なかったの方が近い。続く筈だった言葉は雪にとって想像もしたくないものなのだから。

「あいつは約束してくれたんだ!次、あんな事があったら、俺たちを頼ってくれるって……」

唐突な大志の怒鳴り声に雪はハッとした。そこでようやく大志の手や、肩の微細な震えに気づいた。お互いかける言葉が見当たらない。訪れた静寂。それを破ったのは一通のメールだった。

「ほら、あいつ、大丈夫みたいだぞ」

大志はスマートフォンの画面を雪に見せた。そこには明日の時間割を訊く叶からのメールが見られた。安堵する雪。

「な、心配しすぎだったって事だ、明日は会えそうだな」

明日が楽しみだ。とあからさまに嬉しそうな雪。

「ほんと、雪って叶のことになると情緒が暴走するよな、好きなのか?叶が」

揶揄う大志。特別な親友だと返す雪。しかし顔は赤く染まっていた。

「素直に言ったら、俺が仲を取り持ってやるのになぁ」

「え!?ほんと!?」

やっぱ好きじゃねぇか。そう笑い出す大志。ここまで上手く罠に嵌ってくれるとは思わなかったのだ。カマをかけられたことに気づいた雪。怒りに体が震えている。

「やっべ、逃げろ!」

「こらー!待ちなさいー!」

雪の怒鳴り声が放課後の夕焼け空にこだました。


 プルプルプル……電話が鳴る。

「叶くん、調子はどう?」

優しい担任の声。叶の肩に力が入る。

「最近は、段々と良くなってきました」

突如途切れた言葉のキャッチボール。微かな隙間でさえ叶にとっては恐怖でしかなかった。

「……そうなのね。それであの件なんだけど……」

叶の肩にさらに力が入る。緊張か、はたまた恐怖か、魔物に支配されているように。

「またもし何かあったら、相談して欲しい」

「で、でも……」

証拠がないのに問い詰めたって本人が認めるかはわからない。それどころか悪化させてしまうかもしれない。そんな担任の言葉に叶は説き伏せられる。その時にはもう魔物による支配は肩に留まらず指先にまで及んでいた。

「君は一人じゃない。きっと助けてくれる友達もいるんでしょう?」

雪や大志の名前を挙げる叶。本当は独りだと感じているのに。結局、困った事があればまた先生に相談する。いつも通りの結論に落ち着いた。否、無理に結論づけられた。呆然と立ち尽くす叶の頭にはただ電話の切れる音が響くのだった。


 担任との電話の翌日。叶にとっては一週間ぶりの登校。朝は起きられず昼からでも良いと言うので、昼からの登校である。雪や大志と歩いているときはなんてことない通学路も、炎が燃え盛る地獄への道に見えた。教室が近づくにつれて足がすくむ。心臓の鼓動が早まる。吐き気さえ覚えた。教室の前につき叶は深い深呼吸をした。決めきれない覚悟を持って中へ入っていく。突き刺すような視線、嫌でも耳に入ってくる陰口を無視して自分の席へ向かう。席についた叶を待っていたのは、机に書かれた沢山の暴力。その落書き一つ一つが叶の首を絞めていく。その時だった。

「おら!」

大きな掛け声と共に叶の視界は奪われた。かと思えば全身の体温が下がっていく。水だ。大きな笑い声が響く。リーダーだと思われる女と、その取り巻きが4人、冷たい目で叶を見ている。

「まったくいい気味ね!涙が隠せてちょうどいいんじゃない?早くどこか行ってくれないかなぁ。見るだけで不快になるんだけど」

リーダーらしき女だ。叶は彼女を知っている。名前は益田麗美。時は夏休み前、叶は彼女に告白された。そんな彼女になぜこのような仕打ちをされなければならないのか、叶には皆目見当もつかない。兎に角叶は逃げたかった。そうして、あてもなく教室を飛び出した。

 叶が教室を飛び出してすぐのこと、昼休みの時間に叶がやって来ると聞いていた雪と大志は、各々委員会の仕事、先生からの説教を終えて戻ってくる。二人で合流し教室に着いた頃にはもう遅かった。

「おい、誰がやったんだよこれ……」

「やっぱり、心配はしてたんだけど……」

二人の体は考えるよりも先に動く。いじめによって切り離された空間を再び繋げるために。

「別にいいじゃない、そんなやつ」

冷ややかな声。益田だ。当然周りには彼女の友達四人がいる。

「てめぇ、何言って……」

益田の方へ歩き出す大志。その足音はどんどん大きくなっていく。

「前々から苛ついてたのよ、そいつのスカしたような態度に!」

「か、叶はそんな子じゃ……」

獅子の如き気迫の益田。気圧される二人だが、雪は微弱な抵抗をみせる。そうだぞと大志も便乗してみせる。叶との一件を知っていた大志には、叶同様、益田がどうしてこの様な行動に出たのかわからなかった。

「お前、叶に惚れて告白したんだろ!?なんでこんなことを……」

大志の言葉にいきなり動きが止まる益田。今の言葉がどうやら益田の地雷であったのだと大志は確信する。

「あいつは裏切ったの……!成績優秀、スポーツ万能、才色兼備と称され、立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花とまで言われたこの私を!」

溢れる自信と迫力に、たいそうな自信だな。そう大志はこぼす。

「いいわ、そこまで言うなら教えてあげる!私があいつをどうやって好きになり、どう振られたかを!」

そう言って、麗美は舞台女優かのように堂々たる振る舞いで語り出す……



それは、なんでもないいつも通りの日の朝。麗美はいつも通り電車で高校まで向かっていた。筈だった……朝の電車は社会人の通勤、麗美と同じように通学をする学生でごった返している。そんな箱詰めの人混みの中、麗美はふと、悪寒がした。満員電車特有の圧迫感とは違う、不快感を覚える。その時だった、自分の尻を触れられていることに麗美は気づく。電車の揺れで偶然当たった、では言い逃れできないほどに執拗に触ってくる。痴漢だ。そう自覚した時、麗美の世界は二人だけとなってしまった。周りに多く人がいると言うのに、聞こえるのはその痴漢の荒い息遣いだけ。尻を触るその手に神経が集中してしまっている。麗美が降りる駅まではあと二駅といったところ。いくら人がいるからといえども、誰も自分が痴漢されていることなど気づかない様子。自分から助けを求めるほかなかった。怖い、気持ち悪い、そんな感情が頭の中を掻き乱す。頭に明瞭に浮かぶ助けての三文字はどうしても言葉できない。恐怖のあまり声が震え、掠れているのだ。蛇に睨まれた蛙のように動かない麗美の体。電車と痴漢の手だけは動いていく。最初は様子を見るかのように触っていたその手も、大胆を極めてくる。麗美の降りる手前の一駅を過ぎた時だった。

「あの……その人嫌がってるんでやめてください」

ヒーローが現れた。痴漢の手が引き剥がされると同時に、麗美の硬直も解けていく。ヒーローを見てみる。見覚えのある学ラン。自分と同じ高校だと言うことに気づいた。駅に降りると、そのヒーローは痴漢魔を連れて行ってしまった。人混みの中であったため、見失ってしまったが、まだ高校の始業時間までは時間がある。麗美はどうしてもお礼が言いたくて、出口で待ってみることにした。

しばらくしてヒーローが出てくる。

「あの!さっきはありがとうございました!その制服、高校、一緒ですよね……名前って……」

勇気を振り絞って声をかける。ヒーローは少し驚いたあとに和かに笑う。

「俺……?俺は、三島叶。確か君は……益田麗美さん、だったよね?」

「ど、どうして名前を……!?」

学年一の美人って有名だから。笑顔で返す叶。麗美はその笑顔にどこからか安心感を覚える。

「ま、気にしないで。当たり前のことをしたまでだよ。怪我はない?」

飄々と言い放つ叶。あまりの人の良さに麗美は声を出せずにいた。麗美は黙って頷く。

「そっか、ならよかった」

先ほどの笑顔よりももっと崩れた笑顔見せる叶に、麗美は夢中になっていた。よく知らない、話したこともないというのに、底を知らない叶の優しさ。人を守るために動ける勇気、強さ。そして温和な笑顔が麗美の心を揺り動かしたのだ。

 それからというもの、叶に瞬く間に惚れ込んでしまった麗美は、叶に好かれようと努力をした。学年一の美人と言われているだけあって、人気者で人脈は広く、その人脈をうまく使って、叶の好きなタイプを聞き出し近づけるように努力した。そしてある日、叶を呼び出し、告白したのだ。放課後の屋上、グラウンドからは部活動をしている生徒の声が聞こえてくる。空は夕焼けに染まってきている。まるで麗美の心の高揚、緊張を映し出しているかのように……ドアが開く。叶だ。痴漢にあったあの日から、恋焦がれてきたヒーローに今日、告白するのだ。

「話って、なにかな……?」

叶が聞いてくる。声が出せない。あの時と同じように。それを救ってくれたヒーローが目の前にいる。麗美は深く息を吸い、覚悟を決める。

「私……!叶くんのことがずっと前から、好きでした!付き合ってください!」

沈黙が続く。返事を待つ麗美はその時間が、普段の何倍も遅くなっているように感じた。

「ごめん。俺さ、人を好きになれないんだよね。だから、ごめんね」

それからのことは覚えていない。ただ何か、今まで自分を動かしてきた感情とは、別のものが湧き上がってくるように感じた。こうして、恋に敗れた一人の姫は、恨みに燃える獣となったのだった。



「だから、私は復讐することにしたの。私を弄んだあいつに、罰を与えるために!」

語り終えた麗美。その姿はまるで悲劇のヒロイン。あたり一体が、麗美の気迫に飲み込まれているようだった。

「そ、そんなの!ただの逆恨みじゃない!」

雪の言葉が沈黙を割る。しかし麗美には通じない。人の勝手だろうと蹴散らされてしまう。

「それともなぁに?あんたもあいつのこと好きなの?」

それは……そう口籠った雪を尻目に、麗美と取り巻きは去っていく。

「まぁいいわ、あんたらも早く、あいつと縁を切りなさい?じゃないと……あんたたちもこうなりたいの?」

こう言い残して。全く、どうしようもねぇ奴らだと大志はため息をつく。その傍らでふらつきながら段々と息が上がってくる雪。

「おい?どうした雪」

雪は答えず走り出す。大志はただ追うしかなかった。

 麗美と大志、雪が言い争っている間。叶は屋上にいた。教室とは違って、落ち着く場所。ただ何も言わず、ずぶ濡れのままうずくまっている。

「久しぶり、どうしたの?いじめられでもした?」

突然聞こえる、心地いい声に叶は驚く。目の前には前にあったっきりであった少女がいた。ただ前とは違って、ドアの開く音は聞こえなかった。

「ま、まぁ、そんなところだよ、てか、お前!どこから……」

空から、と満面の笑みで返す少女。

「やっぱりいじめかぁ、私は勘がいいからね!」

茶化してくる。だが叶にとってこの明るさが自分を肯定してくれているように思えた。

「誰だってこんなびしょ濡れのとこ見たらそう思うだろうよ、けどお前は詮索しないから助かるよ」

不思議そうに首を傾げられる。どこか遠くを見ながら、叶はつづける。

「他のやつと違って、お前はしつこく聞いてこない。だからなんだかここが心地いいんだ」

きっとそれも、俺とお前が同類だからなんだろうなとこぼす叶。少女は裏返りそうで震えたその声から、深い悲しみを感じ取った。そうだね。たった一言だけ返す。それ以上は必要ないと思ったからだ。ただ一緒にいることが、叶の救いになると、そう思ったからである。

「そういえば、どうしてお前は、俺と同じように保健室にいたんだ?」

突然の問い。そしてようやく、彼女の物語、彼女の本の頁が捲られ始める。

「どうしてだと思う?」

質問に質問で返すなよ。そう呟きながら叶は悩む。彼から出た答えは、病気。妥当だろう。しかし少女から帰ってきた答えは、半分正解。という不思議なものだった。

「残りの半分は……」

恐る恐る聞いてみる。

「君と同じだよ」

淡々としながら、それでいてその言葉には鉛玉のような冷たさと痛さが混じっていた。話を聞くと、彼女はパニック障害という病気で、それで周りからいじめられていたらしい。挙げ句の果てには親にもあまり理解してもらえず、いつも責められてばかりだったそうだ。

「頼れる奴は、いなかったのか?」

先ほどまで饒舌だった少女は一瞬固まった。

「一人いたんだ、でも、私が裏切っちゃった」

裏切った。叶は険しい顔で少女を見つめる。少女は微笑して話を続ける。

 職員室前の廊下、スリッパと床が触れ合う音が響く。雪はただひたすらに走っていた。そして、前を歩く担任を見つけて、大きな声で呼び止める。

「先生!今叶はどこに……!」

やっと止まった雪に大志も追いつく。二人は肩を揺らして息をしている。

「あら、二人とも、どうしたの?叶くん……?ここにはきてないわよ?」

先生は知ってるんですか……雪の言葉には、小さい声ながらも重く大きな思いが感じ取れた。いきなりのことで当然のことながら、担任はなんのことかわかっていない。何をかしらと素直に聞き返す。

「叶がいじめられてるってこと!!」

雪の器から想いが溢れかえってしまった。叶に対する心配。麗美に対する怒り。短時間で様々なものが注がれた結果だろう。

「どうしてそれを……」

やっぱり、知ってたんですね。担任の言葉に大志はすかさず切り込む。どうやら、いじめに関する集会を開くにあたって行ったアンケートで知ったらしい。

「前に、学校で自殺者が出た時にやったアンケートで……」

自殺者。不穏な響きに大志がまたも切り込んでいく。

「自殺者、ですか……?」

「えぇ、確か、津島希さん、だったかしらね……」

話に夢中になっていた大志。激しい呼吸の苦しい音が聞こえ、そちらを向くと雪が頭を抱えてふらついていた。行かなきゃ。か弱い声とは裏腹に、力強くまた雪は走っていく。そんな雪をまたも大志は追うのだった。

 「それでね、私言われたんだ。希ちゃん。私がいるから、絶対に死んじゃだめだよ!って」

希。初めて聞く名前。叶は頭に疑問符を浮かべる。

「希ちゃん?」

私の名前。微笑みかける少女。

「そういえば、聞いてなかったな。名前なんていうんだ?」

「津島希。これが私の名前だよ。最近、ニュースとかで聞いたりしなかった?」

津島希。彼女の名前らしい。

「いや、全然、俺、ニュース見ないんだ」

そっか。優しくも憂いを含んだような言葉が、その場を漂った。

「それで、裏切ったってのは、その友達の言葉をか?」

ゆっくりと頷く。その優しい顔はやけに夕焼けに溶け込んでいるように叶は思う。

「てことはお前は……」

自殺した。そう重なった二人の声。お互い何もい言えずに固まる。

「後悔は……ないのか?」

「なんの?」

「自殺したことに対する後悔だよ!」

自殺したことへの後悔。少し悩んで希は空を見上げる。染まったオレンジの中に答えを探すかのように。

「ない…と言いたいところだけど、こうして幽霊になってるってことは、未練があるんだろうね」

他人事のように話す希。自分でもよく判ってないのだろう。

「例えば、その友達に最後の別れを言うとか」

「違うと思うな」

間もなく、すぐに否定されてしまう。そんなに未練になるなら、自殺しないでしょ。そう言われて叶は深く頷く。

「まぁ、これから探すよ。生きてるわけでもないし、時間はたっぷりあるからね」

そうか。叶は希を優しく見つめた。悲しみが少し抜けた穏やかな目。

「叶くんはどうするの?」

虚を突かれる叶。思わず、へ?と声をあげる。

「この状況をだよ」

先ほどの優しい希の声とは変わって、少し力強さが感じられる。少し俯いて、叶はただ笑う。希はその顔に、夕日に照らされた悲しい宝石を見る。

「俺は、俺は……」

「そうこうしてるうちに来たよ?」

誰がだ。そう聞く叶の肩はわかりやすく上がっている。

「君のお友達が。私は一旦お暇するね〜」

明るく言い残して希は消えていった。勝手なやつだ。ため息と共にその言葉は出ていく。ドアが開く。希の言った通り、誰かが来たようだ。

「叶!やっぱりここにいた!どうして黙ってたの!?」

雪だ。今まで見たことのないような顔。少し怖いとまで叶は思った。

「な、なんのことだ?」

びしょ濡れの服を着ていながら、とぼける。誰にだってこんなもの通用しないと解っていながら。

「とぼけんじゃねぇ!益田のことだよ!なんで隠してたんだ!」

「か、隠してたわけじゃない!いつか言おうと思って……」

弁明の為立ち上がる叶、次の瞬間、ガシャン。フェンスの音。気づけば叶はフェンスまで殴り飛ばされていた。

「か、叶!大志!?ちょっとあんた何して……」

あまりの予想外の出来事に混乱する雪。いきなり振るわれる理不尽な暴力に怒りの矛先が大志に向く。しかし大志には届かない。

「うるせぇ!叶、お前前に約束したよな!もう抱え込まないって!なのにどうして……!」

「お前たちにわかるかよ!」

叶の叫びがこだまする。もう一度続けて叶は言う。今度は自分自身に収束していくように。

「わかるわけねぇよなぁ!?お前たちはいじめられたことなんてないんだろ!?」

雪も大志も、何も言えなかった。雪は涙を浮かべ、大志の手は強く握り拳を作り震えている。

「誰にも否定されない!平和で平凡な生き方!あーあ!羨ましいよ!そんな人生歩ませて貰えない俺からしたらよぉ!」

叶の一言一言が、二人の胸を貫く。

「俺だって最初は話したさ!助けを求めようとしたさ!そしたら、なんて返ってくるか……」

機関銃の如く打ち出された叶の叫びは、弾切れのように突然やんだ。次第に鼻を啜る音や呻き声。涙の証拠と言えるものを感じ取れるようになる。

「気のせいだって、考えすぎだって、お前も辛いだろうがお前より辛い奴は沢山いるって」

言葉の嘔吐。叶が苦しんでいることは解っているのに、雪も大志も止める術を知らなかった。

「結局は他人だ、他人のことなんかどうでもいいんだよ!」

「か、家族とか……」

俺の話なんか聞くかよ!そう強く言い捨てる叶。

「運動も、勉強も、全てにおいて才能のある弟ばかり優遇されて!無抵抗という名の優しさだけが取り柄の俺は見向きもされない!」

それでも私たちは……必死に叶に呼びかける雪。私たちがいるのだと、そう呼びかけているのに叶の元には届かない。

「お前たちにわかるか!?わかるわけないよな!いじめをやめさせようとしたら唯一の取り柄さえ消えてしまう怖さを!誰にも承認されない恐怖なんてよ!」

嵐が過ぎ去る。屋上では叶の激しい息遣いだけが聞こえる。

「確かに、昔は助けようとしてくれた奴だっていたさ、すぐに裏切られちまったけどな」

自らを憐れむように笑い声を上げる。私たちはそんなことしない。信じてよ。諦めず雪は言葉を投げ掛け続ける。

「信じろったって無理だよ!このトラウマは一生消えやしない、どうせお前らもすぐ裏切るんだろ?わかってんだよそんなこ――」

大志に詰め寄っていく叶。またも殴られてしまう。

「た、大志……お前、何して……」

「うるせぇ!叶…お前俺たちのことそんなふうに思ってたんだな!」

叶が静かになるのを待っていたのか、今度は俺の番だと言わんばかりに話し始める。

「お前が過去にどんなことがあったのか、中学からの付き合いの俺たちにはわからねぇ、けど俺の想いを、雪の想いを、俺たちの想いを踏み躙ったことだけは許せねぇ!」

俺が何をしたんだよ。そんな叶の反論さえも上から押しつぶす大志の言葉には、とてつもない威圧感が感じられた。

「なぁ、中学ん頃にした約束。覚えてるか?お前がいじめられて苦しんでた時の」

優しい口調にはなったものの、まだ威圧感は押しかけてくる。次いじめられたら、次は雪や大志を頼る。そんな約束。叶はゆっくりと頷く。

「じゃあ俺たちがどんな想いでその約束をしたか、覚えてるか?」

少し間を空けて、今度は首を横に振る。ぽつりぽつり、大志はゆっくりと言葉を紡ぐ。

「確かに、中学からで、付き合いは短いかもしれない。けど、俺たちはお前のこと、親友だって、大切な仲間だって、そう思ってんだ……!」

「私も、叶のこと、大切だって思ってたし、今だって思ってるよ」

叶はようやく、自分の建てた壁の向こう側。自分の世界の外に、二人が待っていてくれたことに気がついた。

「二人とも……」

「だから悔しかったんだ、お前が頼ってくれなかったことが、頼れる人間になれなかったことが、助けられなかったことが、だからこれはお前との約束でもあり、自分との約束でもあるんだ」

自分との約束。叶は弱々しく繰り返す。どんな意味があるのか、自分の中で探すために。

「今度はお前を絶対に助けるって、そんな自分自身との約束、覚悟の表れなんだ。それにお前、本当は、助けを期待してたんだろ?待ってんだろ?」

「どうして……」

じゃなきゃこんなところでうずくまっていたりしない。そんな指摘に、叶ははっとした。そして、自分の中で壁の崩れる音がした。

「その期待は私たちに向けられていた、そう言いたいわけ?」

「あぁ、だから俺たちが来た。お前は一人じゃねぇ。信じろよ、俺たちを!」

叶は二人を見上げる。真っ直ぐな目でこちらを見つめている。その目に偽りはないように思えた。

「そうだよ、叶はこんなになってまで生きてて本当に偉い。だからもう。無理しなくていいんだよ……?」

雪の言葉を皮切りに、叶の苦しみが空へ舞い、悲しみが地に落ちた。

 それからというもの、叶を助けるんだと強く意気込む雪や大志は、大事にしたくないという叶の思いを振り切り、大志は先生に伝えに行ったり。麗美のところへ直接話に言った。雪は前よりも過保護になり、雪に何も言わないで行動すると、心配で泣くほどまでになった。そうして叶は、とあることに気づいたのだった。


 クリスマス・イブの日の夜。誰も居ない、居てはいけないはずなのに、ドアが開く。叶がふらふらと歩いてくる。街はイルミネーションで燦然と輝き、救世主の誕生を祝っている。そんな様子を見て、叶は、ごめんな。そう呟く。体に吹き付ける吹雪が雪や大志に運んでくれたら。叶うはずがないとわかっているのに願った。

「どうしたの?こんな時間に、不法侵入だよ?」

懐かしく、温かい声が後ろから聞こえる。しかし振り返らずに進んでいく。

「もうここにくる意味はないでしょ?あの日あんだけ親友と話したんだから」

今日で来る意味はなくなる。フェンスを登りながら、先ほどからの声の主、希に言う。

「ちょっと!危ないよ!」

「大丈夫、わかってるから」

叶くん、やっぱり……フェンスの向こう側、少しだけある足場に腰掛けた叶に届く。やっぱ希さんは苦手だな。そう茶化して笑う叶。

「この……性格が……?」

「確かに、昔はそうだった。けど今はその勘の良さだよ」

どうして……今にも泣き出しそうな希。叶は優しく続けて話す。

「気づいたんだ。ずっと前から胸を締め付けていた苦しみの正体に」

表情は変わらず笑い続けている叶。希はその笑顔が酷く冷たいように感じた。

「確かにいじめられてたことが苦しいのは間違いない、けど……わかったんだ、世の中で正しいとされてる思想が、言葉が、この胸を焼いているのに」

どういうこと……?希はそう返すしかなかった。ただ一つ、叶が何か大きな魔物に操られているように感じた。

「前の話、聞いてたんだろ?確かに、生きてたらいいことがあるかもしれない、雪も大志も心強い仲間になってくれるかもしれない」

叶は立ち上がり希を見つめる。なら、どうして……微弱な問い。叶がフェンスを力強く掴む音が響く。叶が何か言っているようだが、フェンスの音、吹雪の音に掻き消され希には届かなかった。

「今、なんて……」

「その言葉が俺の魂をこの世に留めているからだよ!生きていればいいことがあるかもしれない、そんな自分から自分への期待が、親友の共に生きたいって期待と想いが、俺の魂をこの世に捕縛する……!」

もういいよ……魂が抜けたように叶は呟く。力が抜けて手がフェンスから離れる。いつ強風に煽られて落ちてもおかしく無い。

「もういいよ……理想論が、正論が、綺麗事が、いつも人を救うとは限らない!そんな事実が嫌になったんだ……」

叶を縛り付けている鎖。それを今叶は断ち切ろうとしている。そう感じた希には、それは良くないことかもしれないが、それでしか叶を救えないかのようにも思える。

「何よりも、そんな事実が存在する世界が嫌になったんだ!」

吐き捨てる叶。希は負けじと言い返す。その言葉が叶を縛る鎖を増やすとわかっていながらも……

「でも私は!君に生きていてほしい!きっとそれが、私の未練……じゃないと私、成仏できなくなっちゃうよ……」

だから、どうかお願い……希の必死の抵抗。叶はいきなり笑い出す。

「同化お願い?俺はカメレオンじゃないからなぁ……」

「今はそんなこと言ってる場合じゃ……」

冗談だよ。叶は希に背を向ける。初めて会った時の会話。その時とは違い楽しさは微塵もない。面白くない。静かに希は返す。

「ごめんごめん……もっと早く言ってくれたら、変わったかもしれないな。なぁ、希さん?」

初めて呼ばれた自分の名前。希はじっと叶を見つめる。

「今日はクリスマス・イブだが、クリスマスって元々どういう意味か知ってるか?」

唐突でありながら意味深に見える問い。

「いきなり、何を……?イエス・キリストの生誕を祝う日のことじゃないの……?」

「そうさ、クリスマスってのはキリストのミサ、救世主誕生を祝う日のことなんだ」

急な雑学の披露に戸惑う希。叶の意図が全く読めない。

「それが、どうしたの……?」

「どうやら、俺にとってのヒーローは、救世主は、神でも、親友の雪でも大志でも、周りの誰でもなかったみたいなんだ」

振り返り希の顔を見る叶。まるで、目に焼き付けるかのように。希は思わず走り出した。

「どうか見ていてくれよ、ようやく、俺の希みが叶うんだ……俺にとっての、救世主は……」

背中から落ちていく叶。希は間に合わずフェンスを虚しく掴む。

「叶くん!……そんな、嘘だ嘘だ嘘だ!死んじゃうだなんて!それでも、それでも私は……君のこと、助けたかった……!」

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ib 織田 弥 @renEso

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