第十二話 イスカンダルの燈 前編
気が付くとボクは、見覚えのある病床に横たわっていた。身体を起こせば、全身に確かな感覚がある。……ここはあの世ではない。
「目が覚めたのですね。間に合わなかったかと、ヒヤヒヤしました」
寝台の傍には、白石の彫刻椅子にエンキドウが座っていた。
「此処は……。どうしてお前がいるんです……?」
「この場所はボクが保有する二次元空間の内部ですよ。消滅しかけていたキミを、直前で引き摺り込みました」
その言葉に、ボクはさぁっと血の気が引く。「何で……。ギルガメシュと一緒に冥界へ帰らないんですか! あいつはお前を連れ戻す為に……!」
エンキドウは手を翳し、ボクの言葉を静止する。
「分かっていますよ。此処へ来たのは、僅かな猶予を得る為です。……自分の言葉でキミと話せる、最後の機会ですから」
「ボクと……。何の話をしたいんです……?」
エンキドウは口を閉じ、静かに部屋の出口へと歩いていく。
「あ、おいちょっと! 無視してんじゃねーですよ!」
「こんな暗い場所では気が滅入る。外へ行きましょう」
傍若無人で何処か吹っ切れた様子のエンキドウに、ボクは渋々ついて行く。廊下の先にあった階段を光に向かって進めば、辿り着いた先は青い空の上だった。真っ白い床石と柵に囲まれた空間の先には、果てしない雲海が広がっている。
「うわぁ……。これって、雲の上ですか」
「バビロンの空中庭園。僕が死にかけだった自分の本体を、四六〇〇年の間保存していた空間です。今は無きエアンナ神殿の最上部を二次元化し、ずっと此処に残していました」
ボクがずっと夢で見ていたのは、エンキドウの保有する二次元空間の光景だったのだ。
「……キミには僕の本心を、話しておこうと思ったのです」エンキドウは唐突に切り出す。「僕がギルガメシュを救おうとしたのは、彼が僕を救ってくれたからでした」
彼はボクの瞳を見詰めた。まるで鏡を覗き込むように。
「僕は天から降り注いだ、神の斧。暴君であったギルガメシュを罰して欲しいと神に請う人々の願いが、天蓋の奥からボクを生んだ。罪深き王を罰する事だけが存在意義として与えられた、一匹の獣に過ぎなかったのです」
誰かの意思に従って動く自分を持たない命を、エンキドウは獣と呼んだ。それはボクがかつての自分に与えた定義と同じだ。今なら分かる。ボク達は天と地の境目を鏡面にした、鏡写しの実像と虚像だったのだと。
「ギルガメシュは僕を世界へと連れ出してくれた。この世のあらゆるものを見聞きして、やがて僕は自分の意思を持つようになった。あんなものが見たい。こんなものが食べたい。キミの隣にいたい。そんな小さな願いの積み重ねが、僕を獣から人間へと変えてくれたのです。……でも同時に、ボクはギルガメシュを人間から
エンキドウの瞳から、後悔の涙が溢れる。彼が己を歴史から消してまで、償おうとした罪の正体。それはギルガメシュを王にしてしまった事だ。
「ギルガメシュは僕と出会って、人間を愛するようになった。牛馬のように使い潰す存在から、守り慈しむ家族として扱い、逆に自分自身の人生を捧げる善き王になった。結局僕は人間達に望まれた獣としての役割を、果たしてしまったのです。……自分だけ人間になったふりをして、隣にいる友を噛み殺した牙で甘い餌に齧り付いていた。その結末を、キミも知っているでしょう」
ギルガメシュは人間達の為に
「僕と出会いさえしなければ、ギルガメシュは人間のままでいられたかもしれない。だから僕は、自分自身をこの世界から抹消する事にしたのです。僕を生み出した人間達も全て彼岸の果てへと追いやって、もう誰もギルガメシュを罰さない世界を創りたかった。……それも全部、当のギルガメシュに拒絶されてしまいましたけどね」
エンキドウは疲れ切った顔で息をつく。「僕はあいつに、何もしてやれませんでした。与えたのは苦しい罰だけ。最後まで、僕は人間達に望まれた獣のままだったという事です」
「……そんな事はありませんよ。
「僕が……。ギルガメシュを人間に……?」
「たとえ命に限りがあったって、どんなに自由な生き方を許されたって、たった一人では人間ではいられないんです。未来は誰かに観測される事で、初めて現在として存在を許される。人間も同じなんですよ。誰かに見てもらえなくちゃ、この世に存在できない。獣とは違って、初めから存在意義なんて持っていないんですから。だからね、お前は誇っていいんです。ギルガメシュとお前は出会って、互いに人間になった。孤独な二つの交わりを、ボクらは『人』と呼ぶんです」
人間達が望んだのは、孤独な獣を殺す事だったんじゃないのか。ボクはそう思うのだ。
「……ああ、よかった。僕が孤独に四六〇〇年も彷徨ったのは、無駄ではなかったのですね」エンキドウは安らかな顔でボクを抱きしめる。「こうしてキミに出会う事ができた。キミと交わって、僕は初めて自分が人間だったのだと信じる事ができました」
「ボクもですよ。お前のお陰で、ボクはベルと出会う事ができました。……ありがとう、エンキドウ。ボクを人間にしてくれて」
そう伝えると、エンキドウは優しくボクから身体を離す。
「だったら、いつまでもこんな所にいちゃいけませんね。……主を失って消えるのは、
不意に空中庭園は崩壊し、足場を失ったボクは雲の中へと投げ出される。エンキドウは落ちていくボクを、別れを悲しむような目で見下ろしていた。
「エンキドウ!」ボクは彼に聞こえるように、声を振り絞る。「見ていてください! ボク絶対に、最果てへ辿り着いてみせますから! お前とギルガメシュが見たかった景色を、必ず届けてみせますから!」
エンキドウは、その言葉に歯を見せて笑った。
「いってらっしゃい、アルカ。キミの旅路を、太陽と月と星々が照らしてくれますように!」
それはボクが生まれて初めて受けた、生みの親からの祝福だった。
「アルカ!」
愛しい親友の声で、ボクは目覚める。自分を抱えるベルの腕の中で、ボクは夜が明けたオケアノスの空の下にいた。
「ありがとう、ベル。お前がボクを人間にしてくれたんですね」再び現世へと繋ぎ留められた肉体が、傍で鳴る鼓動を感じて弛緩する。
「他愛もないわ。乃公は人間を作った王だからな。最果ての景色を見に行くまで、乃公の傍を離れさせはせんぞ」
「ふふ、そうですね。うっかりまた一人旅に出ちゃうところでした。いつか空の上にも、お前と一緒に行けるといいなぁ」
「大地の果てでも、空の上でも、海の底でも。乃公達はもう好きな場所へ行ける。目的地なんて、もう何処にも無いのだからな」
身体を起こせば、かつて
「アルカー! ベルー! 無事だったかい!」
ベルの身体の向こう側から、キザイアの声が空に貫けていく。ボクはベルの手を借りて立ち上がり、駆け寄ってきた彼女と抱き合った。
「おかえり、アルカ。遂にやり遂げたんだね」
「ただいま、キザイアさん。……みんながボクの道を拓いてくれました。鉄学者達の願いが、やっと叶ったんです」
「あたしらは只薪をくべただけだよ。あの炎は、間違いなくアルカとベルの二人が灯したものだ。……だから紡いじまいな。世界の果てへだって、この世界の何処へだって。それを咎める権利のある奴は、何処にもいないさね」
キザイアの後ろからは、エヴァ―ライフの面々やアサシン教団の戦士達が集まってくる。
「アルカちゃん、やったっす! メディチ家の新しい当主が上手く話を着けてくれて、誰も罰されずに済む事になったっすよ!」ハルフィが跳ねながら近付いてきて、ボクの手を掴みぶんぶんと振る。
そういえば、ボクが得た友達はベルだけじゃなかった。彼女達もまた、これからこの世界でずっと一緒に生きていくのだ。
「全てそなたらのお陰じゃ。これからは儂等も法国と商会の重圧に押さえつけられる事なく、職人として自由に生きていけるじゃろう」
シナン達の戦いも、これで終わったのだ。聖地は相変わらず法国の勢力圏とはいえ、その地域を統率する貴族の下で明確な自治権が認められている。ベルの従僕となったフランチェスカの政権下であれば、シナン達も安心して暮らしていける筈だ。
「コジモ・メディチの下で儀式に協力していたメディチ家本家の人間達は、大灯明を復活させた異端として全て本国へと送還される事になった。今後オケアノスを中心としたキングスランド駐屯騎士はフランチェスカの率いる宗家によって政権が敷かれ、アサシン教団はその協力者として運営に参加する事になったのじゃ。これで事実上、キングスランドからは法国の監視が消えた事になる」
「シオン本国として見れば、フランチェスカは大灯明の悪用を防いだ功績者ですもんね。一先ず再び
安堵するボク達とは裏腹に、ベルは少し不服そうである。
「メディチ家をくれてやるとは言ったが……。ここまで上手く成果を搔っ攫われると少し面白くないな。乃公もたまには足を運んで、灸を据えに来てやらねば」
フランチェスカの前途は、まだまだ多難そうだ。
「ベル様もまた遊びに来てくれるんすね! 美味しい料理を作って待ってるっす!」
嬉しそうにはしゃぐハルフィに、ベルはまんざらでもないすまし顔を浮かべた。
「……まあ、それならば乃公もこの場所を、第二の故郷と思ってやらん事もない。根無し草にも、帰る場所ぐらいはあってもよいだろうしな」
ボクとベルの初めての旅は、こうして終わりを迎えた。だがボクは、ふと一つやり残した事を思い出す。
「ねぇ、ベル。少し見に行きたい場所があるんですが、付き合ってくれますか?」
「フン、よかろう。歩くのがきつければ、負ぶってやっても構わんぞ?」
「歩くぐらいできますっての。ほら、あの場所。イスカンダルの大灯明の下に行ってみたいんです」
ボクは周りに目配せし、ベルと二人で黄金の炎へと歩き出す。オケアノス全体の丁度脳幹の部分にあたるその細い半島は、この大陸の最北端へと続く道だ。
ボク達が足を運んでいるのは、イスカンダルが最果てを見出した地。その先にはボクとベルが二人だけの世界で見た、あの砂浜が広がっていた。
あの光景はボク達が見た、最初で最後の未来の形。ボク達は、自分達の未来を掴み取ったのだ。
「美しい水平線だな……。あの先には何も見えぬ。まるで、天と地の境目を見ているかのようだ」
「世界の果てにも、同じような光景が広がっているんでしょうか。先が無い景色というのは、どんな形をしているんでしょうね」
きっとイスカンダルも、ボク達と同じような衝動に駆られたのだろう。存在するかどうかも分からない、
そんなイスカンダルの燈を、ボク達はこの場所で紡ぐ。静かな波打ち際に寄せる潮騒を、太陽がいつまでも祝福していた。
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