無窮のレウルカ

仲原鬱間

無窮のレウルカ


 お前を殺すたび、俺の中に知らない感情が生まれる。


 その未知の感情を、俺はまとめて〈愛〉と呼ぶことにした。


     ◇


 公国最北領・フォルトニクスの春は短い。

 長い冬が終わり、雪が解けると、国境を接してさらに北に住まうゴド族の攻勢が始まる。花の芽は兵士と軍馬に踏み躙られ、国境沿いの春の野は両軍の屍の転がる墓地と化す。もう何十年も続いていることだ。

 冷涼な痩せた土地を治める領主には一人娘がいた。シルヴィアという。シルヴィアは盲目だった。

 幼い頃に眼病を患い、そのまま光を失ったシルヴィアは、今年十六になる。銀雪の髪に翠玉の瞳、口数は少なく、まるで人形のような娘だった。

「ねぇ、物語の続きを聞かせて頂戴」

 北方の娘は氷のようだ、と婿候補の男たちから評されるシルヴィアであったが、実際は夜毎に侍女に御伽話の読み聞かせをせがむ純真な少女だった。

 シルヴィアは、物語の中で姫君の元に現れる、「王子様」に憧れていた。

 いつか自分を、この退屈な北の地から連れ出してくれる王子様。

 涼やかな風の吹き込む窓から、待ち人が迎えに来ることを願って。シルヴィアはその日の夜も、自室の窓から外を見つめていた。次の夏、リラの花が散る頃には、四十も年上の隣境の領主と結婚することが決まっていた。

 物語に耳を傾ける気分ではなかったので、寝支度を手伝ってもらった後、侍女は早めに下がらせた。まだ冷たさの残る春の風の吹く暗闇には、シルヴィアだけがいる。

 シルヴィアは窓の縁をなぞる。庭で放し飼いにされている番犬の声がした。見知らぬ侵入者に吠える声ではない。顔見知りの誰かが訪ねてきたようだった。

 さぁ、と風が木立を渡る音がした。

「誰――!?」

 突然、シルヴィアの手を、何者かが掴んだ。鞣された革の感触。するりと部屋に入り込んできた何かは、シルヴィアが悲鳴を上げる前にその口を優しく塞いだ。

 柔軟な身体つきの獣にも似たそれは、小さな子供にするように、しぃ、と歯の隙間から音を出す。シルヴィアが頷くと、口元を抑えていた手が離れた。

「……誰?」

 もう片方の手の指は、まるで恋人のように絡み合わさったまま。シルヴィアは無声音で、もう一度尋ねる。

 ――躊躇うような間の後、抱擁があった。

 融和する二人の体温の中で、時は止まっていた。早鐘を打つ心臓の音さえも、しばらくして腕が緩むまで聞こえなかった。

 生身のかさついた手が、火照るシルヴィアの両頬を包む。注がれる視線は熱く、永遠の闇さえ溶かしてしまうようだった。

 シルヴィアははっと我に返って、見えない目を固く瞑った。

 しかし、予想とは裏腹に、熱は離れていった。恐る恐る目を開けるも、そこにはいつもと同じ暗闇があるだけ。

「一体、誰なの」

「――急にごめんな。可愛いお姫様」

 夜風に囁く木々のような、耳触りの良い男の声で返事があった。

 微かな衣擦れの音。男は姿勢を低くしたようだった。

 シルヴィアは目を見開いて、闇の先を見据える。

 温かな体温が指先に触れた。

 来訪者は恭しくシルヴィアの手を取り、滑らかな甲にくちけた。


「俺は……あんたの王子様さ」


 シルヴィアは頬を紅潮させた。彼は正真正銘、シルヴィアの王子様に違いなかった。



 ――さて、退屈なお姫様のために、昔話をしようか。

 それから男は、毎晩シルヴィアの部屋を訪れるようになった。夜、窓を開けておくと、猫のように入ってきてシルヴィアのベッドに腰掛ける。

 『ミーシャ』と名乗ったその男は、シルヴィアが眠りにつくまで、実際に彼が経験してきたという冒険譚を語ってくれた。

 ミーシャの話を聞いてわかったことは、彼が遠方の国の貴族であるということ、戦争が起こったら空を飛ぶ乗り物に乗って戦う征空士せいくうしであるということ。それから、彼の『お姫様』を心の底から愛しているということ。

 シルヴィアも、ミーシャを愛していた。初めての恋をしていた。

 毎夜の御伽話の読み聞かせは必要なくなった。最初は不審がっていた侍女も、純情な娘も結婚を控え、もう子供ではなくなったのだろうと納得した。

 春はだんだんと過ぎ行き、代わりに涼やかな夏がひっそりと近づきつつあった。

「ねぇ、わたしの王子様は、『幸せのリラ』って知ってる?」

「なんだ、それ」

「花びらが五つあるリラのこと。普通、リラの花って花びらが四つでしょう? そのとっても珍しい『幸せのリラ』を、見つけたことを誰にも秘密にして飲み込むと、愛する人と永遠に幸せに過ごせるの」

 部屋は庭に咲くリラの甘い香りに包まれていた。

「それ、本当か?」

 シルヴィアの目元を指で撫ぜるミーシャは声色を変えて聞き返した。

「お姫様は見つけたことある?」

「秘密。言ったら意味がなくなってしまうわ」

 花の香りが染みた指先を、こっそり手の内に隠す。

 一つ一つ手で形を確認しながら探して、来訪者が訪ねてくる前にようやく見つけた小さな花は、今は清らかな恋心と共に、少女の胸の奥にあった。

 愛する人と――闇の向こうの王子様と永遠に幸せに過ごせますように。シルヴィアは眼裏の暗闇に、愛する者の顔を思い描いた。

 男は笑ったようだった。

「確かに。誰にも秘密にしないといけないもんな。俺も、後で誰にもバレないように探すよ。永遠に一緒にいられるように」

 シルヴィアも、桃色の頬を緩める。

 たとえ彼が見つけられなくとも、シルヴィアの願いは叶うに違いなかった。

「――じゃあ、いい事を教えてくれたお姫様に、俺からもとっておきの話をしよう」

 シルヴィアを腕の中に閉じ込めて、ミーシャは語り始めた。


「これは、俺の冒険の――全ての始まりの物語だ」


     ◇


 南の島がどんなところか、想像がつくかい?

 ――ああ。ここよりずっとずっと暖かくて……そう。海に囲まれている。見渡す限りの水平線。絶海の孤島ってやつだ。

 派手な色の果物? それは、場所によるな。が墜ちたところにはなかった。もしあったら、もう少しは楽しめたかな。食い物は、僅かに残った保存食と、餓死する手前でようやく釣れる魚。あと、食ったら余計に腹が減るような小さな蟹とか。湧き水がなければ、確実に死んでいただろうな。

 島には、本当に何もなかった。

 でも、そこには俺の全てがあった。

 飢えと、絶望と……悲しい思い出ばかりのはずなのに、あの海と空は今でも記憶の中できらきらと輝いて、俺を生かしている。

 戻りたいとさえ思う。あの何もなくて、全てがあった南の島に。俺は、ずっと焦がれている。夢の続きを、もう一度見たいと願うみたいに。

 ――ああ、今も、夢みたいだ。夢の中で夢を見ているような気分だよ。

 ……続きを話そうか。

 当時、俺はとある王国の征空士だった。王国は、ある国と、ずっと戦争をしていた。この国とゴド族みたいなものだ。聖戦とも呼ばれていたが、長く続きすぎていて、もはや伝統とか習慣と言った方が近かった。

 王国の歴史はその国との戦いの歴史で、主戦力となる空中戦に特化した飛行機――征空機せいくうきに乗って戦う征空士は、王国軍の花形だった。王国の男の子は皆、征空士を目指したものさ。

 ……俺? 俺は、望んでなったわけじゃない。

 王家の男は皆、王国軍で何かしらの役職を与えられる。

 半分王家の血を引いた卑しい生まれの邪魔者に与えられたのが、王国空軍を率いる正統な後継者たる兄上様の弾よけの役割だった。ただ、それだけさ。俺の意思は、全く関係ない。

 でも、いざ征空機に乗ってみたら、俺には才能があった。

 初陣で誰よりも多く敵国の〈竜〉を撃ち墜としてから、俺の役目は兄上様の征空機に星を刻むこと――つまり、兄上様に代わって武功を上げることになった。

 笑えるだろ。俺は名簿に名前すらないから、どれだけ敵を撃墜しても成果として認められない。機体はスペア機みたいにまっさらなまま。

 悔しかった。空を飛んで、〈竜〉を墜として、俺にはそれしかないのに、全部なかったことにされる。誰も俺を認めてくれない。俺の唯一の誇りは、兄上様が女を口説く時の自慢の種になる。生まれが卑しいから、空の高くで濾過されないと、征空機に乗らないと、俺は俺ではいられない。地上は、とても息苦しかった。

 ……優しいな、お姫様は。でも、その時の俺は割り切ることができなかったんだ。純粋で、諦めることも知らなかった。今よりずっと、ずーっと若かったから。今は俺の年の話は置いておこう。

 それで、比較的大きな作戦を次の朝に控えたある夜のことだ。格納庫で自機の最終チェックをしていた俺のところに兄上様がおいでになって、こう言った。

「もし〈翠星ユヴェネスカ〉を墜とせたら、正統な王族の一人として認めてやろう」

 俺が応えられないでいると、兄上様はふんと鼻を鳴らして、格納庫を出て行った。去り際に、俺と一緒にいた整備士の肩をぽんと叩いて。

 〈翠星ユヴェネスカ〉は、大昔の星の名前だ。今はもうない、夜空の果てで緑色に輝く星。

 征空士たちの間でそれは、最も多くの征空機を墜とした最強の〈竜〉を意味していた。

 要するに、敵のエースだ。〈翠星ユヴェネスカ〉の体には、撃墜した敵の数だけ不気味な模様が刻まれていた。王国の奴らは、怖がって誰も相手にしたがらなかった。

 俺が〈翠星ユヴェネスカ〉と戦って勝てるかは、正直わからなかった。

 兄上様も、俺が勝って帰ってくると信じて言ったわけではないだろう。多分、死ね、って意味合いの方が強かったと思う。

 それに、たとえ兄上様のお言葉通り〈翠星ユヴェネスカ〉を墜として無事帰還したところで、俺の居場所は用意されてないに違いなかった。

 〈翠星ユヴェネスカ〉も、浮かばれないだろう。兄上様の自慢話にされたんじゃ。

 あいつは、そんな風に扱われていい存在じゃなかった。決して。

 出発の朝は、飛ぶのにはもってこいの、よく晴れた、澄んだ朝だった。滑走路の端から反対側の端まで、はっきりと見渡せた。

 許可が出て、征空機が離陸のための滑走を始めた。その時までは兄上様に言われたことについてごちゃごちゃ考えていたが、機体が宙に浮いて、地上との繋がりが途絶えて、俺は決心した。

 誰よりも自由に空を飛ぶ翠星ユヴェネスカ〉と、決着を着けるって。

 地上のどこにも俺の居場所はなくて、空だけが俺の居場所だった。

 どうせいつか死んでしまうのなら、俺は空で戦って、空で死にたかった。

 綺麗なまま死にたかったんだ。好きでいられる自分のまま終わりたかった。地上の俺は、とてもじゃないが見ていられないから。

 兄上様を先頭に、王国空軍は敵の領域を目指して飛んだ。

 敵の本拠地は空の上。だから、〈竜〉はいつも上から来る。横から朝日を浴びながら、俺たちは目一杯顔を上に向けて〈竜〉を探した。地上の目標を探すときとは全く逆だ。

 やがて遠くに影が見えて――潮騒のような羽音と共に、敵はやってきた。

「頼んだぞ。どぶねずみ」

 兄上様はそう言って、編隊の先頭から離脱していった。高貴な血の流れる尊いお身体に何かあってはいけないからな。基本的に戦わないんだ。

 だから、兄上様は知らなかった。

 〈翠星ユヴェネスカ〉が、二体いることを。

 二体の〈翠星ユヴェネスカ〉は、どちらも同じような大きさで、体は若草のような淡い緑色。まるで双子みたいだが、見分けるのは簡単だった。

 兄上様みたいに大量の武功が体に刻まれた〈翠星ユヴェネスカ〉。

 それから、俺みたいにいつまで経ってもまっさらなままの〈翠星ユヴェネスカ〉。

 無冠の方が本物だ。

 兄上様がいなくなったおかげで、俺の前方はガラ空きだった。

 無数の傷に縁取られた計器を確認して、俺は偽の〈翠星ユヴェネスカ〉に突っ込んでいった。

 敵機が接近してくるのに気づいて、見た目だけの偽物は身を捻って逃げた。

 入れ替わるようにして後方から出てくる、見敵必殺の死神。

 本物の〈翠星ユヴェネスカ〉。

 本物の〈翠星ユヴェネスカ〉に狙われて、帰ってこられた征空士はいない。だから、実は〈翠星ユヴェネスカ〉が二体いて、スペア機みたいな弱そうな方がめちゃくちゃ強いなんて、証言できる奴はいなかった。皆、死んだから。

 俺以外は。

 まあ、それはさておき、俺と〈翠星ユヴェネスカ〉は――

 いや。『レウルカ』だ。

 レウルカ。

 〈翠星ユヴェネスカ〉に乗っていた、誰よりも自由に空を飛び、誰よりも多く王国の征空機を撃墜した最高の〈竜遣い〉だ。

 俺とレウルカは、何度か空の上で会ったことがあった。

 でも、互いに相手を狙うようなことはしなかった。

 理解者だったから。お互いの、一番の。いや、唯一の。

 俺たちは知っていた。

 『孤独』は、空の中では『自由』となり、誰よりも自由な奴が、誰よりも多く敵を殺す。

 俺とレウルカは理解者であると同時に、お互いの自由の証人だった。

 重ねていた。だから、心の底から望んでいたにも関わらず、照準を合わせることを――殺し合うことを避けていた。

 ずっと、感じていたかったんだ。孤独を誇り、その翼で自由に空を飛ぶ自分が、そこにいることを。

 でも、その日の俺は心に決めていた。

 青い空の中で、全力でレウルカと戦うことを。

 俺を殺すのはレウルカだった。レウルカを殺すのは俺だった。あいつ以外、考えられなかった。

 前方、朝日に透けるような緑色の〈竜〉に狙いを定め、俺は撃った。

 引き金を引くと同時、レウルカの〈竜〉は予知していたみたいに体を傾け、避けた。

 意思を問うように、一瞬だけ、〈竜〉はその場でホバリングした。

 高速で擦過しながら、俺はコクピットの中で頷いた。

 それが見えていたのかはわからないが、応えるように、後ろでぶん、と大きな羽音がして、若草色の〈竜〉は急上昇した。

 俺も機首を引き上げ、レウルカを追った。

 二人きりでパーティーを抜け出すみたいな、そんな高揚感は俺たちの速度についてくることができずに、すぐに置き去りになった。

 下は一面の海。水平線を挟んで空。雲はなく、どこまでも青い世界で、俺たちは戦った。

 お互いの自由を証明するかのような、激しいダンス。

 地上のものを繋ぎ止めようとする見えない手に必死で抗って、征空機の中でめちゃくちゃになりながら、それでも俺は笑っていた。

 幸せだった。

 生きてきた中で一番、幸せだった。

 俺はどぶねずみなんかじゃなくて、自由に空を飛ぶ征空機だった。

 そして、全力で俺を迎えてくれる相手がいた。

 今までにあった嫌なことは全部プロペラに切り刻まれてどこかへいった。

 全速で〈竜〉を追いながら、愛してるぜ、なんて、何も考えずに呟いていた。

 誰からも愛されず、誰も愛さなかったクソのくせに。

 贅沢すぎるくらいの、最高の最期になるはずだった。

 ――でも、もし神様がいるのなら、そいつはこの世界で一番意地の悪い奴に違いない。

 俺が空で死ぬことを、幸せなまま俺が死ぬことを、そいつは許さなかった。

 異音がした。嫌な音だった。

 数秒と経たず、エンジンが停止した。

 心臓が止まってしまったも同然だった。俺の心臓はまだ、うるさいまでに動いているというのに。

 高度を下げながら、エンジンを再始動させようとした。

 でも、駄目だった。俺はレウルカのいる空から脱落していった。

 まだ高さはあったから、そのまま滑空して海に不時着することもできた。だが下は一面の海。成功したとしても、溺れ死ぬのは予測がついた。

 上方から、若草色の〈竜〉が接近してくるのが見えた。

 透明な翅が太陽を透かして、すごく綺麗だった。

 せめて、空で殺してくれ。俺はそう言う代わりに機首を上に向け、撃った。

 結果は見ずに、操縦桿から手を離して、目を閉じた。

 レウルカなら、意図を汲んで、俺を殺してくれるはずだった。

 まだ空の中にいるうちに眠ることにして、俺は意識を手放した……

 

 ……さて、ここまでが前置きだ。

 これから、一番肝心なところを話そう。

 ご覧の通り、俺は今でも、こうして生きている。

 何故、俺が生きているのか。

 そして、自由な空から墜ちた俺たちが、どうなったのか。


 あの、南の島での話だ。


     ◇


 ――波の音がした。

 夢の続きを見ようとシーツにくるまるように、俺は眠くもないのに目をつむって、その音を聞いていた。

 青い空の反対側にあるような、温かく、停滞した瞼の裏の赤い闇。現実から目を背けようとして見つめるその景色こそが、現実に他ならなかった。

 やがて俺の耳は、繰り返し刻まれる潮騒の中から、じっと息を潜めていた心臓の音を拾うようになった。

 心音も、呼吸も、何もかも正常だった。

 観念して目を開けると、じわりと痛みを伴って、青色が広がった。空は、とても遠くにあった。

「くそっ……」

 振り下ろした拳が、砂浜を叩く。

 俺は死ねなかった。殺してもらえなかった。

 空を飛ぶには重すぎる身体を起こして、周囲を見回した。

 地上の楽園のような、暖かな海辺。高速で切り裂かれる風の唸りの代わりに、吐きそうなくらい波音だけが退屈に響いている。

 宝物みたいに貝殻が散らばる砂浜の向こうで、波打ち際にぶっ刺さっている征空機。風防は粉々に砕け、片翼は根本から折れていた。そいつはもう、翼ではなく墓標だった。飛ぶ術を失った、俺の末路だった。

 あそこで、空の中で死んでおけばよかったものを。

 こんなところに不時着なんかして、どうしろっていうんだ。

 征空服の上を脱いで、自分の身体を改めた。運の悪いことに、五体満足。怪我も擦り傷くらい。肋骨が心臓に突き刺さっていたり、頭が半分欠けていたりもしていなかった。

 ふと思い至って、自分の右腿のあたりを探った。

 だが、装備していた拳銃は、そこにはなかった。

「君が探しているのはこれか」

 背後から声。俺は咄嗟に方向転換して身構えた。

 少し離れた疎らな草地で、〈竜〉が翅を休めていた。

 日差しに透けるような若草色の〈竜〉。

 〈翠星ユヴェネスカ〉。

 無冠の、本物の〈翠星ユヴェネスカ〉がそこにいた。

 そして、その手前で俺の拳銃を手にしているのは、翠玉の瞳をした、黒い髪の〈竜遣い〉。

 ――綺麗に空を飛ぶ奴は、姿形も綺麗なのか。ぼんやりと、そう思った。

 そいつは俺が想像していたよりも若くて、華奢で、小さい顔の割に目が大きくて、鼻筋が通っていて、顎が細くて……体つきと声は男に違いなかったが、思わず見とれてしまうような姿をしていた。

「これを探しているのかと訊いている」

 俺が答えなかったから、〈竜遣い〉はちょっとむっとして訊き返してきた。

「あ、ああ、そうだ」

「何を笑っている」

「いや……」

 指摘されて、口を手で抑えた。

 普通の顔になるのに、三秒かかった。

 俺は手を下ろして、その場に直った。せっかく真面目な顔を作ったのに、安心したような、嬉しいような気持ちが込み上げてきて、すぐに口元が緩んだ。

「俺を殺せ、〈翠星ユヴェネスカ〉」

 目線の先には、銃を手にした、最高の死神が立っていた。

「何なら、上からその〈竜〉の機銃で撃ってもらってもいい。お前に殺されるなら、本望だ」

 正直に伝えると、尖った耳をした〈竜遣い〉は眉間に皺を刻んだ。不機嫌な子供みたいな顔だった。

「断る。ここで君を殺すのは得策ではない」

「どうして」

「協力が必要だ。僕の〈竜〉は再び飛べるようになるまで時間がかかる。この島で、しばらく生活することになる」

 俺が視線で問うと、そいつは長い耳をぴくぴくさせながら後ろの〈竜〉を振り返り、

「君が撃った」

「まさか、あれが当たったのか」

「そうだ。治るまで休ませる必要がある」

「それは、悪いことをした」

「全力で戦っていたのだから、仕方ない」

 物語の妖精みたいな横顔は、微かに笑っていた。まるで、楽しかったことを思い出すみたいに。

「……また飛べるようになるまで、どのくらいかかる」

「わからない」

 〈竜遣い〉は首を振った。

 沈黙する〈竜〉を見る。飛行能力を失っているのであれば、翅の付け根に被弾したのだろうか。それか、紅くて大きな眼。征空機じゃないから、どこに傷を負い、どんな不具合をきたしているかは俺には判断できなかった。

 ただ、飛べないのが可哀想だった。

「君は〈竜〉が治るまで僕に協力する。いいな」死神が念を押す。

「ああ、わかった。でも、ここから出る時には忘れず俺を殺してくれよ。飛べないのに生きていても意味がない。こんなところで一生バカンスなんて、死んだ方がマシだ」

「助けが来るかもしれないだろう」

「本気で言ってるのか? 俺の仲間は絶対に助けに来ない。俺の身に何があっても絶対にだ。全財産賭けてもいい」

 とは言いつつ、賭けに負けて差し出せるものなんて自分の身体と命くらいしかないが。

 自信満々の言い方がウケたのか、〈竜遣い〉は小さく笑ったようだった。自嘲するように唇を歪め、

「僕も、おそらく助けは来ない。自力で脱出するしかない」

「はは。お互い、悲しくなるくらい人望がないな」

「人望なんて、飛ぶのには何の役にも立たない」

「〈翠星ユヴェネスカ〉様の仰る通りだ――まあ、までよろしく頼むぜ」

 そいつは何か言い返そうとしたみたいだが、結局何も言わずに、ふいと背を向けた。

「僕は〈翠星ユヴェネスカ〉じゃない。レウルカだ。君は? 〈二叉槍バイアスタ〉」

「王様の槍ってか。光栄すぎて辞退したいくらいの呼び名だ。俺は、えーと……ミーシャ。ただのミーシャだ」

「ただの?」

「今は飛んでないから」

「じゃあ、僕も今はただのレウルカだな――は、アヌゥルカ」

 〈竜〉に翠玉の瞳を向けて、レウルカは言った。

「女の子なのか」

「若くて聡明な雌竜めりゅうだ」

「へぇ。そう言われてみれば確かに女の子っぽいな。何だか可愛く見えてきた」

「アヌゥルカをそんな目で見るな」

「は? 別にやらしい目で見てる訳じゃない。前々から綺麗だと思ってたけど、近くで見たら大きな目が可愛いな、って。それだけだ。間違っても〈竜〉に恋したりはしない。え、まさかお前、そういう趣味が……」

「ない!! 馬鹿野郎!!」

 今まで散々罵倒されて生きてきたが、笑顔になれたのは初めてだった。

「冗談だって。そんなに怒らないでくれ」

「……こんな奴が〈二叉槍バイアスタ〉なんて」

 レウルカは整ったお顔を皺くちゃにして呻いた。

「もっとスマートで合理的で、使えるか使えないかでものを判断するようなクールな奴だと思ってたか?」

「少なくとも、もっと精神的に成熟した奴だと思っていた」

「俺もだ」

 レウルカは俺を睨みつけた。

 おかしくて、俺は笑った。隣からは大きなため息が聞こえた。

「どうせ俺を殺すんだから、仲良くしようぜ。な?」

「頭がおかしい」

「お前のせいだよ」

 それから、俺たちは島の探索を始めた。

 まずは雨風をしのげる場所。並行して、食料になりそうなもの、ここでの生活に使えそうなもの。

 漂流物を目当てに、何も言わなくても相手の考えがわかる長年の相棒みたいに、黙々と海岸に沿って歩いた。

 俺たちが墜ちたのは、外周が体感で一時間かからない程の小さな島。

 海岸には木材とか、網の切れ端が点々と落ちていたが、めぼしいものは特になかった。使えそうなものといえば、大破した征空機くらい。修理できる見込みはないから、適宜バラして使おうということになった。

 鬱蒼と生い茂る木々の中も一通り探してはみたものの、果物も、植物も、小さな生き物も、すぐに口にできそうなものは発見できなかった。これも、征空機に積んであるなけなしの非常食を分け合って食うということで一致した。

 物的な収穫はほとんどなし。ただ、砂浜から少し上がったところの岩場に、拠点にできそうな洞窟があった。

 岩の裂け目のような横穴は、高さには余裕があるが、幅はやや窮屈で、俺が何とか横になれるくらい。岩の床は固くて、当然眠るのには適さない。

「見ろ、湧き水だ」

 奥の暗がりで、レウルカが声を上げた。

 駆け寄って、引き金を引くには頼りない細い指が示す先を見る。壁から、ちろちろと水が漏れ出ている箇所があった。

「おお、やったな。これで水には困らない」

「器が欲しいところだ」

「手元にあるのは缶詰の缶くらいだな。食った後に使うか。風防が生きてたら、水を貯めるのに使えたんだけどな」

 粉々に粉砕された風防を思い浮かべる。頑丈なキャノピーと勝負して、俺の頭はよく無事でいられたものだ。

「じゃあ、あとは火か」レウルカは足元の水溜まりに目を落とした。

「いよいよ本番って感じだな」

 太陽は西に傾いていた。日が暮れる前に、俺たちは一度砂浜に戻って荷物を回収することにした。

「アヌゥ……アヌちゃんはどうするんだ? このまま?」

「洞窟には入れないから、ここにいてもらう。明日になったら日よけの屋根を作るよ」

 いいな、アヌゥルカ。レウルカは翅の根本――コクピットに該当する部分に触れる。

 翅を閉じた〈竜〉は、木々と一体化するように静かに佇んでいた。日陰の、無感情な紅い眼。心なしか、暗い顔をしているようにも見える。

「早く元気になれよ、アヌちゃん」

 我知らず、呟いていた。

 〈竜遣い〉が、緑色の目を俺に向けた。微笑んでいるようにも見えた。

「アヌゥルカが治ったら……僕を殺して、代わりにアヌゥルカに乗って逃げるか?」

「馬鹿なことを言うな。それはない。絶対に」

 レウルカは訝っているというよりも、むしろ唆しているような口ぶりだった。

「何故?」

「自分が飛べないからって、鳥の翼をぐかよ。意味がない。揶揄ってるならやめてくれ。意地が悪いぞ」

「わかった。じゃあ、僕に殺されるまでちゃんと生き延びろよ。ミーシャ」

 挑戦的とも取れる笑みを残して、レウルカは征空機が死んでる浜辺に歩いていく。

 華奢な背中に聞こえてしまわないよう、溜め息をついた。

 脱力しても、顎は引いたまま、空を見ないようにする。手を伸ばしたくなるから。

 代わりに、地面に落ちた自分の影と見つめ合った。

 征空機ではなく、人の形をしている。

 ……諦めろ。無音で口にした。

 きっと俺には、卑しい生まれのどぶねずみのまま死ぬのがお似合いだ。


「――どうして君は空を飛んでいる」

 夜。焚き火を挟んで座って、俺とレウルカは釣り竿を作っていた。

 突然訊かれて、面食らう。手元では、落下傘の吊り紐が乱暴に解かれた髪のようになっていた。

「別に、成り行きだ。そうするしかなかったから、そうしただけ」

「僕と同じだな」

 炎の向こうのレウルカを見る。

 暖色の光に照らされた横顔。ナイフで浮きを彫る口元は笑っていた。

「じゃあ、実際飛んでみたら向いてた、っていうのも同じなんだろうな」

「ああ……アヌゥルカのおかげでもあるけれど。彼女は才能があるから」

「飛ぶ才能?」

「そうだな。とにかく反応が速くて、〈竜遣い〉の指示を即座に飛行に反映させる。他の〈竜〉だとああはいかない……それに、何より飛ぶのが好きだ」

「申し訳ないとは思っている」

「謝罪が欲しくて言った訳じゃない。本当に好きなんだ。空を飛ぶのが――いや、遊ぶのが。今日、やっと君と遊べて喜んでいた。前からずっと遊びたがっていたんだよ。アヌゥルカは」

「最高だった、人生で一番楽しかった、って俺が言ってたってアヌちゃんに伝えといてくれ」

 口にしながら、無意味に細い紐を撚り合わせる。嬉しいが、俺にとっては全て過ぎたことだった。

 レウルカは頷くともなく頷いて、しばしの間、無言でナイフを滑らせた。

「君は、僕が見てきた中で一番綺麗な飛び方をする。何か特別な訓練をしていた?」

「質問が多いぞ。もしかして俺のことが好きなのか?」

「アヌゥルカは獲物として君が好きなのかもしれないが、僕は純粋な興味で訊いている。答えろ」

「はぁ……」

 断る理由もなく、渋々、記憶の引き出しを開けた。汚臭が立ち込めるようだった。

「別に、訓練とかはしてないけど。強いて言えば、蝿を追ってた」

「蝿を?」

「いっぱい飛んでたから、皆どこに向かって飛ぶのかなって、目で追ってた。思い当たることといえばそれくらいだ」

 レウルカは目を丸く見開いたかと思うと、吹き出した。

 あはは、とまるで無邪気な子供みたいに、声を出して笑う。

「君にとって〈竜〉は蝿同然というわけだ。なるほど。道理で強いはずだ」

「それ、笑うところか? こんなクソにまみれて育ったような卑しい生まれの奴に、高尚な〈竜遣い〉が――永命種エルフがいっぱい墜とされてるんだぞ?」

「僕にとっては最高だ」

 何がそんなに面白いのか、レウルカはまだあはあはと笑っている。目尻に涙まで溜めて。

「やめてくれよ。どう反応していいかわからない」

「できることなら、上に言ってやりたいよ。〈二叉槍バイアスタ〉の前じゃ、君たちは蝿と同じだって」

「……でも、お前が報告を上げたところで、永命種エルフの連中が怯える必要はもうないよ。俺はもう飛ばないから、安心して長生きできる」

 レウルカは笑いを収めた。二度と空に戻れない征空士を見つめる緑の目の中で、炎がちらちらと揺れている。

「お前に、頼みがあるんだけど」

 俺はさざめく闇と化した海を眺めた。向かい合う空の高くでは、緑色の星が瞬いているのだろう。

「もしお前がこの島を出たら、〈二叉槍バイアスタ〉は〈翠星ユヴェネスカ〉と戦って死んだって、末長く語り継いでほしい」

「……お互いに死力を尽くして戦って、最後には僕が残ったと?」

「ああ――〈二叉槍バイアスタ〉は数多の〈竜〉を墜とした腕利きの征空士で、その機体はもう描くところがないくらい星だらけ、王国の誰より自由に空を飛んで……それで、勇敢にも〈翠星ユヴェネスカ〉に挑んで、大空の死闘の果てに死んだ、って」

「英雄だな」

「お前だけが、その真相を知っている。そいつが高貴な血の流れる王子じゃなくて、卑しい生まれのどぶねずみだったってことを……忘れず、語り継いでくれよ。お前ら永命種エルフは不老不死なんだろ?」

 ぱち、と焚き火がはぜた。

「まだ早いよ」

 レウルカは顔を上げ、夜空の星を瞳に映す。

「それに……不老不死なんて、ただの傲慢さ」

 レウルカは、微笑むように目を細め――それ以上、何も喋らなかった。

 そのせいで俺は、お前は誰にも墜とされるな、なんて追加の頼みごとをする機会を失ってしまった。


 それから、七回太陽が昇った。

 ケチケチ食っていた非常食の缶詰は三日で尽きて、一度だけ入り江で見つけた小さな蟹を胃に入れた。魚はまるで釣れず、ほとんど水だけで命を繋いだ。

 レウルカは、何も食べなかった。少ない食料は俺が独占した。

 永命種だから、とレウルカは言った。飲まず食わずでも生きられると。

 それなのに、朝起きてから日が暮れるまで、ずっと海に釣り糸を垂らしていた。

 いずれ殺す相手の面倒まで見てくれる、優しい死神様だった。

「調子は?」

「今日も駄目そうだ。君は日陰で寝ていろ。体力を消耗する」

 そう言って俺を追い返そうとする首筋は真っ赤に焼けていた。首飾りの革紐の痕が、白く浮き上がっている。

「……自分で食べないのに、いいよ。気を遣ってくれなくて。どうせそのうち死ぬし」

「楽しいバカンスにしようと言ったのは君だろう。僕は釣りを楽しんでいる。だから邪魔はやめてとっとと穴に帰れ」

 翠玉の瞳は海を映していた。

 波間で乱反射される朝日が、蝶の群れのように見えた。同じ青色でも、海は生命に満ちていて、賑やかだ。

 でも、何も与えてくれないのなら、最初から何もない空の方がマシだ。

 地上にまつわる何もかもを振るい落として、魂一つになるまで濾過してくれる空の方が。

 波に揺られる浮きの周囲に、魚の影はない。腹を空かせて死にそうなのは本当のことだったから、俺は言われた通り巣穴に帰ることにした。眠っていれば、多少は空腹も紛れる。

 戻る前にふと気が向いて、アヌちゃんの様子を見に行くことにした。

「アヌちゃん、まだ飛べない?」

 レウルカが作った枝葉の覆いの下で、若草色の〈竜〉は静止していた。

 もちろん、返事は無い。俺は〈竜〉の脚元に座り込んだ。

「……ごめんな、アヌちゃん。俺のせいで、退屈させて」

 〈竜〉は答えない。でも、拒絶はされていないような気配がした。

「レウルカには言えなかったけど、レウルカとアヌちゃんは、俺がいなくなっても、ずっと、飛び続けてくれよ。誰にも墜とされずに。自由に」

 ごろりと仰向けに転がった。

 見ないようにしていた空が目に入る。

 遠い。

 そこに行きたいのに、身体が重くて、地面を離れてくれない。

 いくら自分に言い聞かせても、戦いの高揚感は麻薬のように作用して、何度も空の青色を思い起こさせる。

 戻りたい。こんな不本意な形のまま、終わりたくない。

 卑しい生まれのどぶねずみではなく、征空機の姿で死にたい。

 もう一度あの場所で、青い空の中でレウルカと戦いたい。器は汚れていても、征空機を駆る魂だけは自由だったと、証明したい。

 届かないと知りながら、風を掴むことすらできない手を伸ばす。

 レウルカは永命種エルフだ。

 永命種エルフは、不老不死。天の国に住み、地上の民を見下す傲慢な種族で、殺されない限りは死なない、不滅の存在。

 だから征伐せよと、奴らを空から引きずり下ろせと、王国では教えられる。永命種エルフと戦う征空士は名誉ある戦士で、生命の流れから外れた悪しき種族を討つ、正しき存在であると。

 ――そんなことは、どうでもいい。

 大事なことは、老いも死にもしないレウルカは、命の続く限り、ずっと空を飛んでいられるということ。

 そして、もし、俺の死後、レウルカが墜ちるようなことがあった時――

 俺は、そいつが俺ではないことが、めちゃくちゃ悔しいということ。

 王国で誰にも認めてもらえなかったことよりも、俺が認めている〈竜遣い〉が他の奴に殺されることの方が、ずっと悔しい。

 俺は、レウルカの中で最高の征空士であり続けたい。レウルカが、俺にとって最高の〈竜遣い〉であるように。理解者であるように。

 そのために、空に戻りたい。命をかけて自由を証明し合う、戦いの続きがしたい。望む形で終わりを迎えたい。

 諦めなければいけないのに、ずっと願い続けている。

「ミーシャ!!」

 と、俺を呼ぶ声がした。

 身体を起こすと、走ってくるレウルカの、ガキみたいな笑顔。

 誇らしげに掲げられたその手には、陽に輝く魚が一尾。

「獲れたぞ!! 大物だ!!」

「……最高だ」

 顔を覆い、呻く。

 まるで諦めるなと言わんばかりに、死神は、俺を死なせてくれない。


 南の島の暮らしが一月を超えても、アヌちゃんは飛べるようにはならなかった。

 相変わらず、水で命を繋ぐ日々が続く。でも、たまにレウルカが魚を獲ってきてくれるおかげで、俺は痛々しく肋骨を浮かしながらも、まだ生きていた。

 生かされていた。

 まるで、俺が、生きたいと――再び空を飛びたいと願うようになるのを待つように。

「……船だ」

 ぼんやりと眺めていた海の向こうに見えた船影に、思わず声を漏らし、立ち上がる。

 かなり遠い。だが、手を振った。望遠鏡越しにこちらを見ている船員がいれば、気づくはずだ。

 風向きが変わり、貨物船のマストの頂上に王国の旗が翻った。

 俺だ。

 俺はここにいる。

 王国行きの船は遠ざかっていった。

「……どうした、そんな顔をして」

 別の場所で釣りをしていたレウルカが戻ってきた。俺を見て、赤く焼けた頬を緩める。

「船が見えた。王国の船だ。もう、行っちゃったけど」

「そうか……手は振ったか?」

「――振った。ちゃんと振った」

「じゃあ、迎えが来るかもしれないな」

 その言葉が心の底に落ちてくるまで、少し時間がかかった。

 もし、助けが来て、ここから生きて帰ることができたら。

「……レウルカ、」

「ん?」

「俺を殺すの、ちょっと待って」

「気が変わったか?」

 俺が再び口を開くまで、レウルカは薄く笑みを浮かべたまま待っていた。

 温かい感情が、胸の中に広がっていく。希望だとか、光だとか言われる類の。

「俺、もう一度、飛びたい。やっぱり、お前と続きがしたい」

「全財産を僕にくれるって?」

「やる。やるよ。俺の持ってるもの全部、お前にやる。だから、もし王国の迎えがきて、俺が助かって――もう一度飛べるようになったら、続きをしよう。俺、それまで、必ず生きるから。お前と決着を着けるまで生き延びるから、絶対」

 約束だ。エンジンが再始動するように、息を吹き返した想いが口から飛び出していく。「もう一度、空の上で戦おう。もう一度、もう一度……!!」

 レウルカの微笑みが挑戦的なものに変わる。

「やっぱり、そうこなくっちゃ――〈二叉槍バイアスタ〉」

 かかってこい。言われて、胸の奥に灯った熱が目の縁に滲み出る。

「はは……やってやるよ、〈翠星ユヴェネスカ〉」

 涙が溢れそうになるのを誤魔化すように、レウルカの肩を叩く。ありったけの力で。

「痛っ!! この野郎っ……!!」

 俺は征空機の墓標のある砂浜に向かって駆け出した。上を飛ぶ航空機からも見えるように、でっかく『SOS』を書くために。落下傘で作った旗を立てておけば、見つけてもらえる可能性はさらに上がるだろう。

 岩場を駆け下って砂浜に着いた。

 肩を上下させ、笑顔のまま後ろを振り返る。

 追ってきているはずのレウルカの姿はなかった。

「レウルカ……?」

 慌てて道を戻ると、艶を失った黒い髪が、岩場に散らばっていた。

 首元から投げ出された、瞳と同じ色の宝石のペンダント。

 抱き起こした永命種エルフの身体は、驚くほど軽かった。

 命の重みが、まるで感じられなかった。

「レウルカ!? おい、レウルカ!! どうした!?」

「……時間切れだ」

 翠玉の瞳でどこか遠くを見て、レウルカは呟いた。「すまない……」

「お前、こんな細くて……やっぱり、ちゃんとご飯食べなきゃ駄目だったんじゃ――」

 そうかもな。瞼を下ろし、レウルカは小さく笑った。

「だから、不老不死なんて、傲慢なんだ……」

 それ以降、レウルカは立つこともままならなくなって、洞窟の中で、静かに弱っていった。

 岩の壁に確かに刻まれていく日数と、永遠の存在である永命種エルフのあるかなきかの呼吸が、岩穴の暗闇に絶望感となって降り積もっていく。

 太陽は素知らぬ顔で南の島を照らし続けた。命綱も同然だった湧き水も、心なしか量が減っていた。

「アヌちゃん、お願いだ……飛んでくれ……」

 物言わぬ〈竜〉の脚に縋りつき、助けを乞う。

 助けてくれ。

 誰でもいいから。

 あの、不老不死だなんて嘘ついて、人間の世話をしていた永命種エルフを。

 あんなに衰弱しているのに、レウルカは食事も水も拒む。

 意味がないと言って、全部俺に譲る。

 あいつにとって、何が意味があることなんだ?

 あいつを生かすために、俺は何をすればいい?

 この何もない、空っぽの身体から、何を差し出せばいい?

「頼む。もう一度、あいつを、レウルカを、空に……俺は、もういいから……」

 その時、〈竜〉の視線が僅かに上を向くのを感じた。

 直後、聞こえた音に弾かれたように空を見る。

 細長い機影。王国の偵察機が島の上空を飛んでいた。

 砂浜に向かって走る。

 馬鹿みたいな大声を出して、手を振った。

 偵察機は島の上を一周して、去っていった。

 よほど目が悪くない限り、絶対に、見えたはずだ。

 墜落した自国の征空機と、白い旗。砂浜にでかでかと書かれた『SOS』。

 それから、俺の姿が。

 ――助かる。必ず助かる。

 きっと、この前の船から見えていたんだ。それで、確認に来たんだ。

 あれから、まだ五日も経っていない。

 すぐに、靴を履いた魚みたいな水上機がやってくるはずだ。

「レウルカ!! 俺たち、助かるぞ!!」

 洞窟に駆け戻って、報告する。

 落下傘の切れ端の上に横たわったレウルカは薄らと目を開けた。

「王国の偵察機が上を飛んでたんだ。あと少しで迎えが来る。頑張れ」

「……そうか。よかったな……」

 冷たい手を握って伝えれば、生気のない顔に、安堵したような、でも少し悲しそうな微笑みが浮かぶ。

「本当に、よかった……君は、生きていられる……空に戻れる……」

「何言ってんだ。続きをやるって、約束しただろ。お前も生きるんだよ。永命種エルフは不老不死なんだろ。永遠を生きるんだろ……なぁ、そうだろ。レウルカ」

 レウルカは口元に笑みを浮かべたまま、目を閉じた。

「――生命は、遠いところで循環している。有が無に、無が有に……〈竜遣い〉は果てのない流転の水車みずぐるまを回し、永命種エルフはそこから糧を得て、無限を生きる……不老不死なんて、傲慢なんだ……とても、愚かな……」

「何だよ。急に難しい話をしないでくれよ」

「時々、怖くなるんだ……」レウルカは、翠玉のペンダントに手を遣った。弱々しく握る。

「……ミーシャ、君は、僕が別の〈竜〉に乗っていたとしても、全く別の機体に乗っていたとしても、僕がわかるか……? 僕が、僕でなくなってしまったとしても……空を、飛んでいなくとも……」

 ――僕が僕だとわかるか。縋るような声だった。

「断言はできない」

 俺は、無理して笑った。

「でも、その綺麗な色の目が好きだから、同じ色の目をしていたら気づくよ」

「……女を口説くみたいなことを言うな」レウルカも、ちょっとだけ笑みを深めた。

「口説いたことなんか、一度もないよ」

「その顔で? どうだか……」

 どういう意味だよ。聞き返したが、返答はなかった。

「でも、君がそう言うのなら……僕は、永遠を生きよう……共に、どこまでも空に落ちていこう……」

 夢心地でいるかのように囁いて、レウルカは眠った。

 その呼吸は幽かで、もはや死んでいるのか生きているのかすらわからない。

「空は、落ちるもんじゃないだろ」

 反論は、聞く相手がいなくて独り言になった。

 空は、揚力を得て、重力に逆らって、飛ぶ意志を持って、上がっていくものだ。

 でも、天の国に住む永命種エルフは、〈竜遣い〉は、身投げでもするように感じるのかもしれない。

 短い時間しか生きられない者たちの住む、地上へと。

 地獄へと。

 

 ――遠くエンジンの唸りが聞こえた。

 近づいてくる。この島に真っ直ぐ向かってきている。

「助けだ!! レウルカ、起きろ!!」

 飛び起きて、隣で置物のように眠っているレウルカの細い肩を揺する。

 翠玉の瞳が僅かに開かれた。でも、それ以上の反応はなかった。

 早くしなければ。

 外に出るため、レウルカの棒切れみたいになった腕を肩に回し、力を振り絞って立ち上がった。

 とにかく、砂浜に行こう。

 あそこが一番目立つし、障害物も少ない。水上機が着水するなら迷わずその近辺を選ぶだろう。

 レウルカも、レウルカを支える俺も、どちらも痩せ細っているのには変わりない。覚束ない足取りで、壁に手をつきながら洞窟の出口へと進んだ。

 よく晴れた朝の、眩い光が目を刺した。

 その時だった。

 鼓膜をぶち抜くような、爆発音が轟いた。

 地が揺れて、パラパラと岩の破片が降ってくる。

 俺はその場に尻もちをついて、状況を理解できずに、ただただ呆然としていた。

「……君は、賭けに勝ったようだな」

 耳元で、皮肉げな囁きが聞こえた。

「そんな……でも、だって……!!」

 俺は聞き分けのない子供のように首を振る。

 王国は、友軍を助けに来たのではなく、邪魔者を処分しに来た。

 必要がなくなったから。警戒すべき〈翠星ユヴェネスカ〉が、いなくなったから。

 俺は、用済みになったわけだ。

 外を見る。遠くを、征空機が三機、三角形を作って飛行していた。

 先頭を行くのは、たくさんの星を刻んだ機体。

 兄上様自ら、どぶねずみの死を見届けにお出ましになったらしい。

「はは……」

 力なく笑う。

 俺たちが、こんなところで。

「ごめんな、レウルカ……」

 肩を抱く腕に力を込める。

 あそこで俺が撃たなければ。

 レウルカもアヌゥルカも、巻き込まれずに済んだ。

 ずっと、空を飛んでいられた。

「俺のせいだ……」

「……君は、何も悪くないさ……」

 レウルカの長い耳が、ぴくりと動いた。

「謝るべきは、僕の方だ……」

「やめろよ、こんなところで気を遣うの」

「いや……ずっと、嘘をついていた……」

永命種エルフは、飲まず食わずでも平気だって?」

 レウルカは首を振り、微かな笑みを口に含んだ。


「アヌゥルカは、飛べる。最初から、怪我なんてしていなかったんだ……」


 当たるはずがないじゃないか、あんな、へなちょこな弾。

 途切れ途切れの声で言って、レウルカは苦しげに、はは、と掠れた息を吐いた。

「何でそんな嘘ついてたんだよ。こんな、こんなことになるまで……」

「……僕と君は、似ている」

 レウルカは俺の襟元を掴んだ。

 接近する、長い睫毛に縁取られた宝石の瞳。

 悲しげに眉間に皺が寄り、細い眉が下がる。

 ごん、と額同士がぶつかった。

「――殺されたいのが、自分だけだと思うなよ」


 ――永命種エルフは永遠を生きる。

 果てしない生と死の円環の中、循環する生命の水車みずぐるまが生む力を、我が身に取り入れて。

 〈竜遣い〉は、水車みずぐるまを回す。

 生きるべき命を狩り、流れに水を足す。

 それができなければ、〈竜遣い〉は円環に還り、流れの一部となって水車みずぐるまを回す。

 いつか、無窮のその罪が果てるまで。


 〈竜〉の元へ向かう間、背中でレウルカが呟いていたことはよくわからなかった。

 理解できたことは、「死」は確実に近づいているということ。ただそれだけ。

「……アヌゥルカ、」

 レウルカは〈竜〉の頭に手を伸ばした。

 枝葉の覆いの下、〈竜〉は脚を曲げ、〈竜遣い〉に顔を寄せた。

「僕に、後悔はない……しばしの別れだ。必ず――」

 また、島のどこかに爆弾が落ちた。

 レウルカの言葉は、半分爆音に掻き消された。

 黒髪の永命種エルフはこちらを向き、拳を俺の胸に押しつけた。

「やる。僕の代わりだと思え。絶対に失くすな」

 ずっと首からかけていた、瞳と同じ色のペンダントだった。

 俺は、それを受け取ることもできずに、泣き笑いのような、微妙な表情を作ることしかできなかった。

 力尽き、崩れ落ちたレウルカを抱き止める。

 確かにここにいるはずなのに、その身体は抜け殻のように軽い。嗚咽を押し留めようとした喉が、唸るように鳴った。

 視界が歪んだ。堪えきれずに、吐き出す。「――嫌だ」

「お前の形見なんかいらない。そんなん持ってたら寂しくて死ぬ。続きができないのなら、お前がいない空を飛ぶくらいなら、ここで一緒に死んだ方がマシだ」

「アヌゥルカはどうする。一人で行かせる気か」

 悲痛な顔をする俺を瞳に映して、レウルカは微笑んだ。

 震える腕を伸ばし、ペンダントを敵国の征空士の首にかける。

「こんなもの、もらっても……」

「約束の証だ」

 涙と同じ形の石を握り締めた手に触れ、そこに額を重ねる。

「行け、ミーシャ……君は、飛ぶんだ。そして、命ある限り語り継げ。〈翠星ユヴェネスカ〉と〈二叉槍バイアスタ〉の戦いを」


 ――君だけが真相を知る、英雄の物語を。

 僕たちの自由を、証明し続けろ。

 永遠に。僕に代わって、水車みずぐるまを回しながら。

 何度も僕を殺しながら。

 勝負の続きができるまで、僕は何度も生き、何度も君に殺されよう。

 何度でも、何度でも……

 永遠を生きることになる君と、永遠に繰り返そう。

 約束だ。

 だから、今は、

 行け。

 


「どこまでも、どこまでも……空に、落ちていけ――」


 二対ある〈竜〉の翅、その全てが駆動する。

 木立と一体化するカムフラージュが吹き飛ぶ。

 〈竜〉は、ぶん、と羽音を響かせると、右に回転をかけながら大空へと駆け上がった。

 王国一の、征空士を乗せて。

 空に落ちていく。

 果てしない、無窮の青の中へ。

 再度、島に着弾。爆発音は遥か後方。

 構っている暇はなかった。

「――早く帰ろう、アヌちゃん」

 操縦桿を握る。

 飛び方はアヌちゃんが教えてくれる。

 〈竜〉の体内にいることを意識させるコクピット。

 コンソールには、無数の傷跡。

 撃墜した、敵の数だけ。

 本当に、俺たちは似ている。

 〈竜〉の広い視界が、脳裏に投影される。

 下に爆撃機。攻撃のための旋回をしようとしているが角度に迷いがある。突然の〈竜〉の出現に慌てているに違いない。

 ――まずはあいつだ。

 アヌちゃんと俺の思考が重なる。

 空の中の〈竜〉は、嬉しそうだった。楽しそうだった。

 久しぶりに羽根を伸ばせた。自由。遊ぼう。お前、なかなか気が合うな――そんな感じの信号が伝わってくる。

 ――行こう。

 頷く。〈竜〉と俺の感覚が、同調していく。

 額に風。翅で空を叩き飛翔する。

 爆撃機は島とは逆方向に機首を向けた。逃げるつもりだ。

 背面にいれ、ロールしながら体勢を立て直す。一八〇度方向転換。降下しながら一気に加速する。

 瞬く間に後ろについた。

 遅い。

 撃った。

 アヌちゃんの判断の方が、引き金を引いた俺より若干早い。

 コクピットに弾が吸い込まれていく。

 赤色を見る前に離脱する。

 アヌちゃんはご機嫌だ。

 俺との早撃ち勝負に勝ったから。

「お転婆さんめ」

 高度を上げる。

 ――次。

 三機の編隊が、散開するのが見えた。

 二機がこちらに向かってくる。

 兄上様の次くらいに見知った機体。あの日も、俺の前を飛んでいた。

 〈翠星ユヴェネスカ〉に挑みにいく俺を、嗤っていた。

 今も、コクピットの中で笑っているだろうか。

 現れた〈翠星ユヴェネスカ〉が、まるで偽物みたいな、まっさらな体だから。

 あいつらが恐れていたのは、不気味な文様が胴体いっぱいに刻まれた〈翠星ユヴェネスカ〉。

 兄上様も、部下の報告を聞いて安心しているのかもしれない。

 もしそうなら、きっと、いいとこ取りをしに戻ってくるだろう。

 戻ってきたら、教えてやる。

 この無冠の〈竜〉こそが、本物の〈翠星ユヴェネスカ〉だってことを。

 レウルカが、誰よりも自由な、最高の〈竜遣い〉だってことを。

 そのちんけな命に教えてやる。

「行くぞ、アヌちゃん」

 誰よりもはやく、蒼天を駆ける。

 視界に、脳内に、高速の流体、あるいは無限に停止した固体と化した透明なブルー。

 ……ああ、これだ。やっと、この場所に戻ってこられた。

 なのに、お前がいない。

 寂しくて、泣きそうだ。

 ――アヌゥルカ。もしかすると、僕はもう、君と飛べないかもしれない。

 ふと、ふやけそうになる思考に挿入された、レウルカの声。

 アヌちゃんが、ぎゅっと圧縮した情報を頭にぶち込んでくる。

 限界まで引き伸ばされた時間の中、〈竜〉の鮮明な記憶が展開される。

 ――僕は今から、をする。上の奴らは誰も、僕を許さないだろう。

 視界の前方、やや下に、動力を失い、空を滑り落ちていく征空機。

 〈竜〉の記憶の中のレウルカは、いつもより強く操縦桿を握っていた。

 アヌちゃんは、残念がった。楽しい遊びが中断された上に、〈竜遣い〉がそんなことを言い出したから。

 レウルカは微笑んだ。柔らかいけど、少し悲しげな表情。

 ――僕の命は、途中で終わってしまうかもしれない。僕が、僕でなくなってしまうかもしれない……それでも、僕は、続きがしたいんだ。

 ――アヌゥルカ。君は、僕がいなくなっても飛べる。だから、少しの間だけ辛抱してほしい。待っていてほしい。

 ――必ず、またこの空で会うことを誓おう。約束だ。

 ――ありがとう、アヌゥルカ。僕の〈竜〉。君と飛べて、僕は幸せだった。

 ――いつか、必ずこの続きをしよう。

 レウルカは息を吐き、肩の力を抜いた。

 トリガーを引く。

 放たれた弾丸が、不安定に滑空する征空機のキャノピーだけを破壊する。神がかった操縦だった。

 〈竜〉はバランスを崩し始めた征空機に追いつき、上からかぶさるようにして脚で機体を保持した。取りつきながら機速を殺す。

 レウルカはコクピットから出て、風が吹きつける中、〈竜〉の脚を伝って下に降りた。

 征空士は、割れた風防の奥で目を閉じていた。

 ――死んだら許さないぞ。〈二叉槍バイアスタ〉。

 今となっては聞き慣れた、レウルカの声。

 乗り手を失った征空機が、今度こそ墜ちていく。

 海の上に浮かぶ、小さな島へ。

 どん、と。征空機が墜落した音で現実に回帰する。

 〈竜〉は獲物を誘うように上空へ駆け上がる。

「――死なないよ。絶対に。お前と、続きをするまで」

 シートに押し付けられ、潰れる胸から言葉を吐き出す。

 永遠という時間が、どれほどのものなのか、想像はつかない。

 終わりがないということは、何かの罰のようなものなのかもしれない。

 でも、同じ時間の中にお前がいるのなら、

 俺は――

「ありがとな。アヌちゃん。

 あいつがここに戻ってくるまで、ちょっとの間、俺と遊んでいよう」

 ――いいよ。アヌちゃんは乗り気だ。

 俺は笑った。

 横にスライドするように急降下。

 〈竜〉を狙った弾が前方に飛んでいく。

 切り返す。風を切り刻んで再び上昇。

 後ろについた。

 撃つ。

 アヌちゃんと俺の判断はほぼ同時。

 ぐるぐるロールしながらもう一機を探す。

 いた。〈竜〉のめちゃくちゃな機動にビビって距離を置いている。

 はは。ケツを見せるな。

 アヌちゃんが追いかけっこだと勘違いしちゃうだろ。

 彗星のように、〈竜〉が疾走する。

 左にバンクを取りながら、征空機は高度を下げる。〈竜〉相手には、下げた方が多少はスピードで有利になるからだ。

 でも、もう遅い。

 〈竜〉はその角度をぴったりトレースした。

 逆側にフェイントをかけられても、同じように動きをなぞる。

 空で自由になりきれてない奴の動きは、手に取るようにわかる。

 どう動くのか、どこに機首を向けるのか。

 俺はそこに、弾を撃ち込むだけだ。

 トリガー。

 黒煙を引いて征空機が墜ちていく。

 今回は俺の方が早かった。アヌちゃんが次を急かす。

 視界を探る。

 いた。そこまで離れていないところに、星だらけの征空機。

『……聞こえるか、天の国の〈竜遣い〉』

 操縦桿を握り直した時、無線から聞き覚えのある声がした。

『こちらはレオウルスの空軍大佐。敵ながら尊敬に値する、見事な戦いぶりだった』

 同高度を飛ぶ機体から目は離さないまま、ホバリングして待機する。

『貴公のその〈竜〉、随分若いとお見受けする。我が国の征空機を瞬く間に二機も落とした貴公の類稀なる才能も、天の国にとって不可欠のものであろう。敵対している身とはいえ、私にも惜しいと思わせる……』

 勿体ぶって話しているが、何となく、兄上様の言いたいことは察せた。

 気の短いアヌちゃんは既に、楽しい遊びをお預けにされておかんむりだ。

 まったく、逃げるのがお上手な兄上様らしい。

『どうだね、ここは――』

『兄上様。ご無沙汰しております。こんなところまでお越しいただき恐縮です』

『なっ、その声、貴様――!?』

『ご明察の通り、貴方の弟のどぶねずみです』

 狼狽が無線に乗って伝わってくる。頭脳明晰な兄上様も、まさか自分の弟が〈竜〉に乗っているとは思わないだろう。

 でも、頭の作りのよろしい兄上様なら、すぐに理解できるはずだ。

 卑しい生まれの不出来な弟が乗る〈竜〉と、空で出会ったらどうなるか。

 無線を切った。逃げられる前に、アヌちゃんにゴーサインを出す。

 ――陽に透けるような若草色の〈竜〉と踊るのは、無数の星を体に刻んだ王国の征空機。

 また目の縁が熱くなる。

 きっと、俺たちの方が、綺麗で情熱的なダンスを踊れたよ。

 そうだろ、レウルカ。

 いつか、続きをしよう。

 必ずだ。

 コクピットは撃たずに、尾翼を破壊した。兄上様に、空で死ぬ資格はない。

 舵が利かなくなった征空機は、何とか体勢を保ちながら海に向かって滑り降りていった。

 その後、兄上様がどうなったかは知らない。

 俺たちは急いで島に戻った。

 ――レウルカは、瞳に空を映したまま死んでいた。

 爆弾に吹き飛ばされて、胸から下がなかった。

 それでも、柔らかい微笑みを浮かべていた。

 俺たちが落ちていった空を、見つめていた。

 

     ◇


「……あれから、何年経ったんだろうな」

 夢見心地で話を聞いていたシルヴィアは、ふと声を落とした男の顔のあたりを見た。

「長く生きていると、だんだんと、わからなくなってくる。あの島での出来事が、本当にあったことなのか、それとも、俺が見た夢だったのか。でも、俺は生きているし、お前はここにいる」

 不安げな響きに、シルヴィアは手を伸ばす。男の首元には、細い紐のようなものがかかっていた。

 シルヴィアの手を、温かい温度が包んだ。

「ミーシャ……?」

「――なぁ、

 ミーシャは呼んだ。

 御伽噺のような物語の中で、彼と約束を交わした永命種エルフを。

「わたし、レウルカじゃないわ」

「わかってる。でもお前はレウルカなんだ」

 シルヴィアは初めて、自分を抱きしめる存在に薄ら寒いものを感じた。

 開け放たれた窓の外。耳に触れる音は、木々のざわめきだろうか。

 それとも、何か大きな生物の羽音だろうか。

「二十年ぶりの再会なのに、そんな反応されたら、俺だって傷つく」

 シルヴィアはミーシャの腕の中から逃げ出していた。

 扉に背を預け、暗闇を見据える。気配はまだベッドの上にある。

「戻っておいで」

 金属音がした。

 まるで、銃でも構えるかのような。

 扉を叩き、侍女を呼ぶ。母を呼ぶ。国境沿いの戦場にいる父を呼ぶ。

「来ないよ」

 ――俺は〈竜遣い〉だから。溜息をつくように、男は言った。

「どうせ殺すなら、俺はお前の全部が欲しい。生きてから死ぬまで、全部。他の奴には少しも渡したくないんだ。血の一滴も、髪の毛一本も……それが、俺の責任だから。ああ、そんなに悲しい顔をしないでくれ。じゃあ、今から、俺と逃げようか。遠い、暖かい所で一緒に暮らそう。死ぬまで、幸せに」

 シルヴィアは首を振った。


「そうか。

 ――じゃあ、またな。レウルカ」


     ◇


 ――退屈だった。意識を繋ぐなり伝わってくる〈竜〉の不満。

「遅れたのはごめん。探し物をしてたから」

 謝りながら、俺は〈竜〉を飛翔させる。

 〈竜〉はすっかりへそを曲げて、領主の館の屋根から飛び立った瞬間、勝手にひっくり返った。俺の言うことを聞かずに、背面のまま飛び続ける。

「ごめんって。悪いと思ってるから機嫌直して」

 ――お前、下で何探してたんだ。詰るような気配。

「『幸せのリラ』。誰にも内緒で飲み込むと、愛する人と永遠に幸せに過ごせるんだってさ」

 アヌちゃんは黙った。

「愛する人と永遠に幸せに過ごせるってことは、俺たち的にはレウルカと永遠にあの時の続きができるってことだよな? そうだよな?」

 俺は夜通し探して手に入れた小さな花を飲み込んだ。

 微かな、甘くまろい香り。ついさっき別れたばかりなのに、もう会いたくなっている。

 次は、どこでレウルカと出会うことになるのだろう。

 ――昔のお前はもっと簡単だったぞ。アヌちゃんは何故か呆れている。

「そうか? まあ、確かに若かったけど……じゃあ、今は?」

 ――気持ち悪い。

「……アヌちゃんも年頃だからなぁ。長く生きてるけど、俺、今だに年頃の女の子の気持ちがわからないよ。今回も上手くいかなかったし」

 〈竜〉が溜め息を吐く間の沈黙。

「大丈夫。レウルカはレウルカだけどレウルカじゃないってことは理解してる。そこは心配しないでくれ。散々悩んで、悟ったから。でも、いつも受け入れてもらえない。レウルカへの俺の気持ちは、愛でしかないのに。いろいろ乗り越えてようやく名前をつけられた、すごく純粋な想いでしかないのに。なのに、何故かいつも失敗しちゃうんだよなぁ……不思議だよなぁ……」

 俺が打ち明けると、アヌちゃんは観念したように正常の姿勢に戻った。

 全天に広がる北方の夜明けには、まだ星が残っている。

 俺は今だ喉の奥に貼りついている感じのする、星の形をした紫の花に想いを馳せ――「あ!!」

「どうしよう、誰にも秘密にしなきゃなのにアヌちゃんに言っちゃった!! 聞かなかったことにしてアヌちゃん!! 叶わなくなっちゃうから!!」

 ――うるさい、黙れ。アヌちゃんから舌打ちが聞こえてくるようだった。

 また背面飛行をされる前に、俺は大人しく口を閉じる。

 シートに背を預け、見上げた空に緑色の星はもうない。〈翠星ユヴェネスカ〉は、遠い昔に空の果てに消えた。

 それでも俺は、そいつを目指して飛んでいく。

 いつか、あの時の続きをするために。

 高く、高く。誰よりも自由に。

 どこまでも、無窮の空に落ちていく。

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無窮のレウルカ 仲原鬱間 @everyday_genki

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