体験者と観察者
私の人生は実験である。
この書き出しに、私は「所詮」と前書きをしなかった。以前の私ならばしていただろう。
私の人生は私の人生である。それはそれ以上でもそれ以下でもない。そして、それは当たり前に大切なものだ。その前提の上で、私は実験だ、と言い切ろう。何かを軽んじているわけではなく、私そのものの在り方として。
私という存在を、人生の尺度に置いて分割すると、そこには体験者と観察者の両者がいる。ここでも、私はあえて被験者とは書かない。あくまで体験者である。
人生を人間として現実的に生きる私は、体験者である。それはあらゆる感情、思考、行動によって現実に即し、時には抗い、苦悩する。成功し、失敗し、希望し、絶望する。そこには人生と表せるもののあらゆる体感が含まれる。
一方、肉体という枠の内、同じ領域に属するものとして観察者の私がいる。観察者は、体験者の私のあらゆる内面、現実、環境、事態の推移を、「ただ」観察する。ただ、を強調したことには大きな意味がある。ここでいう観察者は、体験者に何ら手助けをすることもなければ、観察のために体験者をどこかへ投機することもない。その役割は、まさしく、人間としての私の主体である体験者をただ観察する、のみである。
自分を、人生を、俯瞰するという表現はよく使われるが、私の観察者は厳密にそれとは異なる。体験者に何ら作用を加えないからだ。その観察の先に、体験者の人生をより良くするであるとか、逆境に置いてみるであるとか、そういった意図や意志を全く持たない。「体験者がどうなろうと、観察する」だけである。
そうだ。見ているだけで何の意味があるのか?と問いが浮かぶだろう。答えよう。ただの知的好奇心である。それだけだ。無駄だと言ってもいい。この知的好奇心に基づく観察者は、何度も言うように人生の主体たる体験者に何ら作用しない。つまり、生きる上では存在しようとしまいと、どうでもいいわけだ。
無駄、と言い切った前提の上、私は私自身の内の両者に関して、より観察者を重要視する。これは私の核である。なんとも無駄な、無意味な、不必要な核であろうか。…とは、皮肉である。私は人生そのものや命の重さ、人間の生きるという過程を軽視はしない。しかし、それそのものを最も尊重に値し、重要なものだとは言わない。あくまで、私自身においては、と注釈はつけるが。
体験者たる私が苦悩し、死の淵に立たされ、足掻き回ったとしても、観察者たる私は何も思わないだろう。そこに感情はない。ただ、体験者がどう苦悩し、どのように死へ近接し、どういった打開策を取るのか、またはそのまま死へと連行されるのか、それを見、ノートにそのまま書き留めるかのように記録を取るだけである。その行為に私はこれ以上ない愉悦を覚えるだろう。知的好奇心は時に、人生を、命を、容易に飛び越える刹那的な快楽を伴う。私はそれに心酔している。
私はいつか死ぬ。どう生き、いつ、どこで、どう死ぬかはわからない。苦悩の末の自殺やもしれない。寿命を全うした、大往生かもしれない。病死や、突然の事故かもしれない。その時期や過程はどうでもいいが、必ず死ぬ。
そして、観察者たる私はそれを見るだろう。見、記録し、体験者と共に消えるだろう。私はここで観察者に特別な価値を持たせることはしない。記録が、何か意図を持ってなされるわけではない。ただ体験者を見て、記録して、一緒に消えていく。それだけである。
…ただ一つ、その両者を統合した私という存在の知的好奇心だけを、満たしながら。
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