書く

 思考の次は、私にとっての「書く」についても触れておこう。刻み込む、と一つの表現は置いたが、それとは違う視点でここでは記していく。

 私にとって書くこととは、一言で言えばエネルギーの発露である。それは承認欲求であり、ストレスの解消であり、無意識下の膨大な暴力的な力の矛先でもあり、単なる暇つぶしでもある。こうしてくだらないエネルギーの種々まで並び立てるのは、分析に虚栄は必要ない、どころかそれがあらゆる細部を曇らせるためだ。私は偽りを書かない。比喩や暗喩、嘘を書くことはある。だが、そのうちに偽りを含ませたことはない。少なくとも、意識的には。

 並び立てた種々のエネルギーのうち、最も重要視しているのは無意識下の膨大な暴力的な力、それに他ならない。私にとって、それ以外のエネルギーは含まれていることを認めざるを得ないものの、その多少に関わらず、大した意味を持たない。ただ、それもある、と認めているにすぎない。常に私が書くことに追い求めているのは、私の、私自身ですら掴み切れぬ無意識下の何者かが書くという行動によって少なからず発露することだけだ。

 ここで言う無意識下のエネルギーを、リビドーと言い換えても間違いではないだろう。私はこのエネルギーに対して、あらゆる要素を見る。それは性欲の一形態であり、死への衝動…いわばデストルドーやタナトスの活動であり、同時に生物として生き残らんとする理屈を超えた本能的な暴力でもある。恐らく、仮に私がこの先死を迎えるまで何かしらを書き続けたとしても、その正体全てを知ることはないだろう。当たり前のように聞こえるが、厳密に、「無意識は意識できないからこその無意識である」と私は考えている。分析によって浮かぶ種々のエネルギーの要素は、それを無意識から前意識、しいては意識上に浮上させてもよいと私の無意識が判断したものの欠片に過ぎない。その許可を得た要素ですら、把握することは容易ではない。意識上の倫理観、自尊心、自己防衛的な思考がそれへの分析、把握を拒否する。より心理学的な用語を使えば、抵抗と言っても良いだろう。私は書くことで、その意識の抵抗への反抗を企てている。

 無論、負ける戦と知りながら。仮に完全に私が、その意識上の拒否に完全なる勝利を得る時が来るとすれば、その先に待つのは狂気か崩壊か、さもなくば死であろう。私はこの戦に勝ってはならないことを知っている。勝てないことも知っている。だが、剣戟を交えて止まない。私の意識と無意識は、今この時も見渡すことすらできない地平線の彼方まで続く荒涼とした戦場の只中で、血を流している。…

 話が脱線しただろうか。していない、と思いたい。が、脱線したと読み取る諸君もあるだろう。私はそれを否定しない。それが事実であるかもしれない。私は書く、という題名の中で、「無意識の膨大なエネルギーの暴力」を語っている。それは私にとって書くことと直結する話題ではあるが、同時に、即座に連結されてはならない話題でもあるのだ。その理由には上述した意識の抵抗の作用を適用していただければ良い。これは読み手にも作用する。無論、私が読み手になる時にも、必ず。

 少し現実へと話を浮上させよう。

 書く上で、私は何ら計画をたてない。プロットや設定、それらを用意するときは、私にとってその書くものが「遊戯」である時に限る。注釈するが、これは他の書き手を否定するものでは一切ない。むしろ一面、私はプロットや計画の上に物を書くことができる人々を尊敬している。ただ、私はそうはなれない。そうなるつもりもない。彼らと私は、書くことに求めているのもや形、その辿る道筋が異なるからだ。私は私の書き方しかできない。そして私は私の書き方しかするつもりはない。そこに自他の優劣について、なんら尺度はない。仮にあるとすれば、そもそもそれは私が決めることではないのだ。つまり、私にとってそれはどうでも良いこと、ということになる。

 そろそろ話を纏めよう。

 私の書く、とはあらゆるエネルギーの発露、特に無意識下の膨大な暴力的ですらあるものの発露である。故に何ら計画性をもたず、衝動的であり、完全な私のコントロール下ではない。

 小説を書くのであれば、私は唐突に脳裏に浮かんだ映像を翻訳する。そこにどんな意味が含まれているかは、書いている時点ではわからないことすら多い。刻み込む、という観点から見れば、私はその映像に何ら手を加えたくない。故に、小説を書くときの私は、翻訳家である。

 今作のような思考そのものを書くのであれば、書きながら、その都度浮かんだ要素を衝動的に書きつけていく。ここにおいて読み手へのメッセージ性や、文章の整合性は大して重要視されない。無意識を書く(あえて簡略に理想として表現しよう)ことが最も私の行いたい「書く」である以上、過剰な歪曲は出来る限り行いたくないからだ。

 総じて、私の「書く」はどこまでも自己中心的なエゴイズムによる。私はこれに今一度名前をつけよう。

 

 それは私の内面のエネルギーによる暴力だ。


 私はその暴力を、文字を使ってここに書きつけている。そして、その暴力の中身を、欠片であろうと掴み取ろうと躍起になっている。…

 

 この辺りでよかろうか。浮かぶ言葉が既にない。ならば、良いだろう。

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