3 ラストミッション

 いつだって、私はその夢を見る。


『レイラ! 早く逃げなさい!』


 燃える館、火炎瓶を持って迫り来る群集、押し飛ばされる衝撃、ナイフを持って父に迫る男たち、血だらけの父、拳銃を構えるケインさん、そして、銃声。


『お父さん!!』


 私は叫び、彼に向けて走るが、私が父であるカールに届いたことは一度もない。走れば走るほど私と彼との距離は引き延ばされ、気づけば彼は遠くへ行ってしまっているのだ。

 夢の中の血だらけの彼は父というには歳が離れていたが、しかし、カールは確かに私の父だった。


『ミッション・コンプリート』


 ケインさんの、冷酷に終わりを告げる声。その声と共に、いつも私は目をさます。


 その夢のどこまでが真実で、どこからが虚構なのかはわからない。だが、それは確かに、記憶だった。

 そして同時に、呪いだった。


「……」


 いやな夢から覚めた私は、ベッドから起き上がり、体を伸ばす。カーテンの隙間から差し込む陽の光が眩しい。薄ぼんやりとした目をこすりながら目を開けると、そこにはケインさんがいた。


 私は今や添い寝をする仲となってしまった(だいたいケインさんのせい)Mr.エイリアンヘッド=スマッシャーを反射的に持ち上げる。


「いい加減その反応も飽きないのか」


 こちらには一瞥もくれずに、ケインさんはナイフなどの武器を点検している。


「なんだかこれをしないと負けてしまうような気がして」

「一人でなんの勝負をしているんだ」


 ケインさんは呆れたような様子を見せた。彼は作業を終えると、やっとこちらに視線を向ける。


「やけにうなされていたようだが?」

「……、ええ。いつものことですよ……」


 私は朦朧とした意識のまま答える。


 どうしてこの場に彼がいるのだろう、と私は未だはっきりしない思考を巡らせる。窓の外を見ても、太陽はまだ登り始めたばかりだ。一体、ケインさんはどうしてこんな朝から——


「とりあえず顔でも洗って来い。真面目な話だ」


 私が疑問符を浮かべると、ケインさんは答えた。


「仕事だ。それも、超が付く大物のな」




 着替えや朝食のために一度仕切り直して、昼。私は机の上に並べられた資料を見ろした。

 ケインさんと仕事をするのは毎度のことだ。仕事のたびにいつもケインさんは多くの資料を作るのだが、今回はいつもよりも気合が入っているように見える。

 その量はまさしく、フローライン・フリューリーの暗殺を彷彿とさせる。


 にしても、国家機密だの、個人情報だの、これだけの情報をよく集められるものだ。……いや、まさか。


「ケインさん、この情報。フローライン女史の暗殺で作った人脈を使いましたね?」


 ケインさんは何も言わず、ニヤリと笑った。言外に肯定する形だ。ケインさんは宣言するように言った。


「標的は、ダマスカス・ハーリー陸軍将軍。陸軍の中心人物にして、フラペニア独立の中心人物」


 にして——私に『カールを殺した張本人はケインさんである』というのを教えてくれた人。と私は心の中でそう付け加える。


 なるほど、標的が彼であるならこれだけの情報を必要としても不思議ではない。

 私は資料の一つを手に取り、目をとおす。


 ダマスカス・ハーリー。

 五六歳、男。

 フラペニア国軍に所属する将軍で、軍部で強力な権力を握っている。

 当時のサラニア王国からの独立に大きく貢献した人物の一人として数えられる。独立の半年後の十一月民主革命によって新生フラペニア王国が立憲君主制に移行してからも、彼の権力は着実に拡大しており、今ではガラム襲撃の対応によって不信感が募っているマゼルダ首相と並べて語られることも多い。

 政治思想は過激的な一面がありで、自著の『再征服』では、かつての広大な範囲を支配していたフラペニア王国を復活させることが理想だと記している。新生フラペニア王国の独立の支援を行なっていたバンダモン帝国とかつては友好関係であったが、彼の思想から現在では少し距離ができている。


 ……と、何度も聞いたことのあるような説明だ。再確認の意味もあるのだろう。その文字列の後には、より詳しい情報が書かれていた。


「それで、彼を殺すにあたっての条件は?」

「フローラインの時の同じだ、確実に殺せること、俺たちに容疑が向けられないこと、話し合いの時間があること」

「となると、また誰かを犯人に仕立て上げるのが手っ取り早いですか」

「今度は、標的が建物から出てこないわけじゃない。最初から選択肢を絞らなくてもいいんじゃないのか?」


 それもそうですね。そう言いながら私は頷く。私はさらなる情報を求めて手元の資料に視線を落とした。


「『ダマスカス将軍は半ば私物化した特殊部隊を持っており、これは一日中ダマスカス将軍を護衛している』」


 なるほど、ダマスカス将軍が私の家に侵入した時、後ろに控えていたのはこの特殊部隊だったらしい。


「『この特殊部隊は諜報員を中心に構成されている』——これは?」

「そのままの通りだ。敵は諜報員を抱えている。だから今回の仕事では、今まで以上に情報漏洩については慎重にならなければならない」

「たとえば、盗聴とか、ですか?」

「それも、ここなら安泰だろう。学生寮の一室でテロの計画が立てられているとは誰も思わない」


 前にその諜報員たちが私の家を訪れたんですよ、などと言えるわけもなく、私は苦笑いを浮かべた。


 私は資料に目を通しながら、思考を整理していく。


「襲撃の場所にするなら、将軍の護衛が少なく、ダマスカス将軍の死体を簡単に処分できる環境があり、できるだけ特殊部隊が介入しづらい場所がいいですね。ならいっそ、人目が一定数ある場所……」

「マリンポート・グランドホテル。ダマスカス将軍は頻繁にここを利用しているようだ。個室の中さえ占拠すれば、外の護衛にはいくらでも誤魔化しが効く」

「死体の処理方法は?」

「あのホテルは、毎日六時にゴミ処理の業者が来る。ゴミと混ぜれば、勝手に処理はしてくれるだろう」


 私はケインさんから資料を受け取る。見ると、そこにはページ一〇枚に渡ってマリンポート・グランドホテルについて詳しく書かれていた。本当に、これだけよく調べたものだ。

 私は資料に目を通す。


 マリンポート・グランドホテル。

 首都マリン北部の港近くに立つ大型ホテル。ホテルの他にも、カジノやプール、映画館なども備えている。

 古くから続くホテルで、外交の舞台になったことも少なくない。十一月民主革命中には、重要拠点の一つとして用いられた。その名残から、正面入り口には政府から寄贈された大鷲の像が置かれている。

 大鷲は旧フラペニア帝国の象徴であり、新生フラペニア王国の国旗にも描かれている。


「大型の施設だから逃走の経路も多い……なるほど、悪くない襲撃場所ですね」

「普段彼がここに泊まる際は、寝泊まりする部屋と、その左右の部屋を護衛のためにとっているらしい。用心深い」


 なんとまぁ、豪勢な話だ。これだけの高級施設であれば、一部屋借りるのも相応の値段がするのだというのに。それだけ、襲撃を気にかけているということだろうか。

 確かに彼ほどの地位であれば、命を狙われることも少なくないだろう——ちょうど、今私たちがしているように。


「次の宿泊の予定は? 三部屋もまとめて借りるているのですから、先の予約まで済ましてあると思うのですが」

「二週間後。その次はかなり先になる……三ヶ月後だ」


 彼はメモ帳をめくりながらそう言った。


「できれば二週間後にやりたいですね。できるかはともかく」


 私はマリンポート・グランドホテルの資料を机の上に並べて、俯瞰する。


 今回の襲撃の障壁になりそうなものは、大きく分けて二つ。


 まず一つ目は、ホテルの警備。

 一流のホテルは、警備も一流。VIPが滞在しているというのなら、緊張感も跳ね上がるだろう。とはいえ、あの首相官邸までも攻略した私たちである。これぐらいなら脅威にはならない。


 問題なのは、二つ目——すなわち、ダマスカス将軍が私兵化する特殊部隊。

 誰も彼も猛者揃い。たった一人につけておくのが勿体無い人材も多い。だが、最も警戒すべきなのは特殊部隊の中心に存在する諜報員である。特殊部隊の人数の推定が、最大から最少で一桁も違いがあるのは、彼らの功績なのだろう。


 さて、将軍が滞在する部屋への侵入自体は、容易なのだろう。

 ホテルの従業員に変装すれば、適当な理由をつければドア自体は開けてもらえるはずだ。緊急性を要する理由——たとえば、電気関係のトラブルで危険性もある、なんて言えばなお入りやすいかもしれない。

 悩ましいのは、そこから。


「部屋に入れたとして。ケインさんなら、敵を無力化できますか?」

「人数や配置によるが、相手が一〇人以下で油断しているなら、公算は大だろう」


 だったら、敵を無力化したのち、ダマスカス将軍を回収して逃げる。というのはどうだろうか。


「ケインさん、罪をなすりつけやすそうな相手は?」

「ダマスカス将軍をよく思っていない連中、反軍閥・親サラニア共和国派の過激派」


 私は机の上から参考になりそうな資料を取る。


レイス、シャルバイース・サロン、新海原出版社——これだ」


 新海原出版社。

 私も知っているぐらいの、それなりに名の知れた出版社だ。それでいて、悪い噂は尽きない。資料を読めば、新海原出版社の編集長とマゼルダ首相は友人であり、首相は革命以前にはこの出版社の前身となる海原出版社から本を出版したこともあるらしい。


「ケインさん、情報収集は得意らしいですね。ところで、その逆は?」

「難しくはないだろう。だが、何を企んでる? レイラ」


 私はニヤリと笑みを隠しきれずに言う。


「ここにある情報を部分的に流すことで、世論の気を逸らすんですよ」

「……詳しく説明してくれ」

「まずは今回の暗殺事件を新海原出版社に繋げます。たとえば、部屋の中におもむろに出版社を名乗る声明文を残しておくとか、できるだけわかりやすく。そうすれば、容疑はまず新海原出版社に向かうでしょう」


 私はケインさんに、持っていた資料を見せる。


「そこに、マスコミへ出版社の悪い噂を垂れ込む。すると、疑惑の視線はさらに強まり、それからはメディアが自分たちで情報集めに励むようになるでしょう」


 私の説明を聞いて、ケインさんは満足したようだ。「相変わらずとんでもないことを考えるやつだ」と呆れたように笑う。


「ところで、ダマスカス将軍といえばクーデターの中心人物で、十一月民主革命にも大きな影響を与えましたが」


 なんて言ったって、革命を終わらせる直接的な要因がダマスカス将軍なのだ。彼の提案した『憲法の制定、国民議会の開設を認める代わりに、国民議会の半数の議席を軍に与える』という提案によって、一ヶ月に続く革命は終わった。


「もしかして、彼はケインさんの師匠とも関係があるのですか?」

「……さすがの勘の良さだな。その通りだ」


 リスクとリターンのバランスの悪さがガラム襲撃の時と似ていたことからも疑っていたのだが、どうやら予想は当たっていたらしい。


「ケインさんの師匠、カール? という人は私がいた孤児院の院長サルマン・カーライルの友人でもあるんですよね」


 私はケインさんの首肯を確認する。


「なら、私が彼と会ったこともあるんじゃないんですか?」


 鎌をかけてみる。カールが私の養父であったことなどとうに知っている。


「いや、レイラが孤児院に入ったのはちょうど師匠が死んだ数週間後のはずだ。少なくとも孤児院の中で会うことはあり得ない」


 だが、ケインさんの返答は私の想像の範疇を出ない。

 私が孤児院に入ったのはお父さんがケインさんに殺されてから。ケインさんが言っていることは嘘ではない。だが、真実というにはあまりにも実際とかけ離れている。


 ……まぁ、元からそこまで期待していたわけではない。この程度で話してくれるなら、最初からわざわざ面倒な計画など立てない。


 ケインさんを尋問するためには、並大抵の計画では成功できない。




 * * * *




『信用、信頼っていうのはな、頭の負荷を下げるためのことなんだ』


 かつて、ケインさんはそう言っていた。


『信用すれば、懸念する必要がなくなる。あいつが裏切るかもとか、これが壊れるかもとか、そういうことを考えなくて良くなる。脳のリソースは限られているからな、そうでもしなけりゃ考えることは膨大になりすぎる。だから人間は、信用したり信頼したりするんだ』


 またあるときには。


『人間、人を信用できなくなったら終わりだ、っていう言葉は半分本当で半分嘘だ。終わるのはそいつの人間性ではなく、人生なんだ。疑心暗鬼は貪欲に人の時間を食い潰す。だから、人を信用できなくなった奴は、碌に自分の人生を考える時間がなくなってしまう。その意味で、人間、人を信用できなくなったら終わりなんだよ』


 最初は、なんて捻くれた考え方だろうと思った。だが、それが裏切り裏切られた末にだどりついた結論だというのであれば、それはきっと、確かに、真実のうちの一つなのだろう。


 ある時、ケインさんは私に言った。


『レイラ、俺を殺すならばどんな条件を提示する?』

『大丈夫、私は裏切ったりしませんよ。しかしあえて質問に答えるとすれば、ケインさんが私を裏切った時が、私がケインさんを裏切る時です』

『俺が裏切ったらどうするつもりだ?』


 うーむ、と私は首を捻った。


『まずはできる限りの情報を消して他国に逃げます。そこで、闇社会の一員でも諜報員にでもなって、そのあとは、じっくりケインさんの命を狙う——ですかね』


 その言葉に、ケインさんはニヤリと笑った。


『それはおっかないな』


 そんな言葉を言われて、私は初めて、彼と同じ土俵に上がれた気がした。かつては追いかけることしかできなかったケインさんの背中。それが、今は私と同じ高さにある。そのことがとても嬉しかった。


『お互い裏切らないようにしよう。それだけで俺たちは仲間だ』

『ええ、そうですね』


 その時の彼は、どんな気持ちでそんな言葉を言ったのか。

 その時の私は、どんな気持ちでそんな言葉を返したのか。


 殺し屋としてのケインさんを信頼できても。

 時々話し相手になってくれる優しいケインさんを尊敬できても。

 結局、私は仲間としてのケインさんを、信頼できずにいた。


 私の父——カールを殺したケインさんを、信頼しきれずにいた。




 * * * *





 自室で私は、男と机を挟んで座っていた。


「予定の通り、暗殺の大まかな流れが決まりました。ダマスカス将軍」


 詳しい計画を説明しようとした私を、将軍は静止した。


「私は計画を知らない方がいい。演技は苦手だ。作戦の途中に、ケイン君に気づかれても困る」


 言っている事は、もっともなように思える。だが、その真意は読み取れない。ただ、言い表し用のない不安感だけを抱く。彼は一体、何を考えている……?


「将軍、あなたを信じていいんですね?」

「信じなければ、君は大罪人として裁かれることになるわけだが」


 冷たくあしらわれる。本当に、どこまでも信用できない人だ。


 お父さんが殺された事件について聞いて以来、ダマスカスは私との作戦会議のために、定期的に私の部屋に侵入するようになっていた。目的は、私にとってはケインさんへの尋問、ダマスカスにとってはケインさんの暗殺だ。


「カールが死んだ理由をケインから聞き出したいんだろう? それだけのために、よくこれだけやるものだ」

「私にとっては、とても大切なことなんですよ。私がカールの養子だったなんて、そんな大切なことを黙っている人は信用できない」

「なるほど、君にとっては仕事のパートナーへの信頼に関わる問題だということか。だがそれで、当のパートナーを殺してしまうのはいいのか?」


 それは散々悩んだことだ。本当にこれ以外の選択肢はなかったのか、もっと穏便に終わらせられる方法はないのか、何度そう思ったことか。

 その結果が、現状なのである。私一人の力では、やれることに限りがある。狐は、虎の威を借りるしか無いのだ。


「ケインさんに恩は感じてますよ。尊敬もしてます」


 しかし——、と私は強調する。


「私はもう、彼の腕を信用しても、彼のことを信用することはできない」




 * * * *




『本日未明、ガラム襲撃の実行者であるアレスターが脱走したと、今朝発表があった。


 アレスターが収監されていたマリン第三特別刑務所は、国内でもトップレベルに警備が厳しい刑務所として知られており、脱獄はこも刑務所においては初の事態だ。現在警察は、総力を上げてアレスターの捜索を行なっている。


 また発表では、刑務官に協力者がいるのではないかとの見方も示されており、すでに有力な候補が——』



 新聞から大体の内容だけを理解して、私は顔を上げた。

 現在はマリンポート・グランドホテルへ向かう途中、車の中だ。隣の席では、ケインさんがハンドルを握っている。


「確かにこのタイミングで脱獄するのは必然を疑いたくなるのは理解できますが、でもやはり偶然でしょう。暗殺に関係するとは思えません」

「やはりそう思うか」


 本当にそうだといいんだが、とケインさんは縁起でも無い事を言う。


 仮にアレスターが今回の暗殺に関わってくるとして、しかし、これだけの情報では対策の講じようがない。あの狂人を安易に利用してしまったのは失策だっただろうか。


 私は考えを一度途切れさせるため、深く呼吸をした。脳内が少しクリアになった気がする。


 いつまでも変えられない事を悩んでいても仕方がない。今は変えられる事を考えなければ。


「そうだ、ケインさん。今のうちに、いざという時のことを決めておきませんか」

「どういう意味だ?」

「不測の事態は、備えておくに越したことはないでしょう?」


 もっともだな、とケインさんは頷く。


「万が一、ケインさんがどうにもできなくなった時」

「具体的には、敵に囲まれて身動きが取れなかったり、予定の通り窓から飛び降りれなくなっと時か?」


 私は頷いて、


「その時は、何かしらの方法で異常を知らせてください。私がどうにかしてワイヤーを持っていきます。それで逃げられますか?」

「ワイヤーの片側にフックをつけておいてもらえると助かる。いざという時すぐに引っ掛けられる」

「わかりました。その時はもしかしたら、私を抱えてもらうことになるかもしれません」


 ケインさんは少し思案するようにしてから、


「それぐらいなら大丈夫なはずだ。その時は、ダマスカスを諦めることになるが」

「チャンスは後からいくらでも伺えばいい。二人が揃っていれば、取れる選択肢はいくらでもある、でしょう?」


 ケインさんは頷いた。


 ふと視線を車外に移すと、前方に巨大な建物の存在を感じた。


「あれが……マリンポート・グランドホテル?」

「その通りだ」


 車はゆっくりと建物へ近づいていく。しばらくして、建物の全貌が見えた。


 鼠色のレンガで固められた、人間を威圧するような巨大建築。その風格は、まるで城とでもいうべきだろうか。『建っている』というより『そびえ立っている』という表現の方がしっくりくる。


 よくもまぁ、こんな建築物を建てたものだ。これほどの建築に、一体いくらの金額が必要になるのか。考えるだけで途方もない気持ちになってくる。


「気圧されるな。俺たちはこれから、ここで仕事をするんだ」

「……は、はい」


 そうだ、圧倒されている場合なんかじゃない。私には、やらなければならないことがある。


 私はちらりと、ケインさんの顔を見る。彼はこちらへの警戒を見せずに、ハンドルを操っていた。


 準備すべき事はした。計画も、不備はないはずだ。あとは、予め決めてあった通りに行動するだけ。大丈夫、何も難しいことではない。


「着いたぞ、レイラ」


 私はケインさんの言葉に従い、車から出て正面入り口からホテルの中に入る。新生フラペニア王国の国旗と、その象徴である大鷲の銅像が私たちを出迎えた。




 鍵の番号を確認して、私は部屋の扉を開けた。

 ダマスカス将軍が入るであろう部屋と同じ階、近すぎず、遠すぎもしない部屋だ。何かあればすぐに逃げれて、あの部屋へ駆けつけることもできる。

 なんて、私はケインさんを罠に嵌める側なわけだけど。


 私は荷物を置き、計画への準備を進める。私はまず、ウェイターの服へと着替える。


 計画における私の役割は二つ。

 一つは、窓からダマスカス将軍を抱えて飛び降りるケインさんをキャッチするためのクッションの設置。

 二つは、クッションでキャッチしたあと、ダマスカス将軍を尋問する場所への誘導。


 そしてケインさんを裏切るのは、尋問する場所へ移動したあとだ。尋問する場所は、私が好きに準備できる。たとえどんなトラップを設置しても、「襲撃に備えるため」と言えばケインさんはそれ以上追求する事はできない。


 着替えを終えた私は、荷物を持ってカジノへと向かった。従業員に扮した私を気にかける者はいない。


 私は将軍を尋問するための場所として、カジノのVIPルームを選んだ。ダマスカス将軍ほどであればVIPルームを使うのは不自然ではないし、女性である私が「将軍と二人だけにして」と言えば他の従業員は察してくれるだろう。人払いはそれだけで事足りる。の為に防音の設備も備わっている。

 これ以上の好条件はなかなかお目にかかれないだろう。


 私がホテルの廊下を歩いていると、ケインさんが現れた。彼には将軍の様子を見てきてもらった。


「ダマスカス将軍はもうすでに部屋の中にいるらしい。準備ができれば、すぐに襲撃できるぞ」


 彼は私に視線を向けず、必要最低限の情報を必要最低限の言葉で伝えた。


「わかりました。私はこれから尋問室の準備をします。そちらの準備は?」

「こっちはもう終わった。準備を手伝おう」


 私は短く感謝の言葉を返す。

 あまり長く話していると怪しまれかねない。今の私たちの関係はあくまでも、客と従業員。それ相応の振る舞いをしなければならない。


 しばらく歩いていると、カジノの正面についた。中は熱気に溢れていて、常にどこかから笑い声が聞こえる。私はそこを素通りし、さらに奥を目指す。


「カジノの入り口はあそこじゃないのか?」

「尋問室には、奥のVIPルームを使います。VIPルームは入り口が別ですから」

「なるほど、VIPルームか。尋問にはうってつけだ。となると、俺がVIP役か? 慣れないな」

「なに、いつものように落ち着いていればいいんです。むしろ不安なのは私のほうですよ」


 こちらへどうぞ、と言いながら角を曲がる。そこにはいくつかの部屋が並んでおり、手前の三つは『Used』の看板がドアノブにかけられていた。部屋に人を入れないためには、あの看板をかけて使われていることを示せばいい。予習通りだ。

 私は空いている部屋を見つけて、ケインさんを案内する。そして、部屋の中から看板を取って、ドアノブにかける。


「ふぅ……」


 私はをそっちのけで椅子に座る。さすがVIPルーム、全ての家具が一級品だ。


「なんだ、もてなしはこれで終わりか」


 ケインさんの残念そうな声を無視して、私は椅子の座り心地をたっぷり堪能する。あれだけの緊張をしたのだ。これぐらいの褒美があっても罰は当たらないだろう。というかどうせ、罰が当たるならもっと他に大きな原因がある。首相官邸襲撃とか。

 そんなものに比べればこれなんて些細な悪事だ、などと考えること数分。私は重い腰を上げて、準備を始めた。


 ケインさんはすでに準備を始めていて、ハンガーにかけた黒いコードの内側に武器を仕込んでいる。どうやらもう、あちらの準備は完了したらしい。


「ケインさん、動くときは注意してくださいね。罠を設置し始めますから」


 自分たちにだけわかるように、ワイヤートラップやトラバサミを設置していく。あるものはわざとわかりやすいように、あるものは決してわからないように。

 罠を見つけて、油断してしまう人間の心理を使用する。


 途中からは、ケインさんも手伝ってくれた。互いにあらかじめ決めておいた場所を示し合わせながら慎重にトラップを設置していく。最悪の場合、腕の一本や二本を覚悟しなければならない。


 最後に、黒幕をでっち上げるべく新海原出版社にゆかりのあるものを部屋にちりばめる。


 これでこの部屋ですべきことは全て終わった。


 私はケインさんとハイタッチしてから、「トラップの最終確認をする」と言ってケインさんを先に部屋に帰らせる。




 * * * *




 部屋に戻るや否や、私はベッドに前から倒れ込む。柔らかな感触が全身を包んだ。だらしないことだが、今だけは許してほしい。

 誰にともなく許しを乞うてから、私は寝返りを打った。


 殺し屋という仕事は、つくづく神経を使う。実行の段になれば、一時でも気を抜けない。特に今回は、ケインさんも騙さないといけない。今までより疲れるのは当然だ。


 転職してやろうかな。私まだ大学生だけど。戯言を心中でほざく。

 なんてしていると、ケインさんが心配げに私の顔を覗き込んできた。


「大丈夫か?」

「えぇ。まだ、クッションの準備をやらないといけませんし」


 私がベッドから起きあがろうとすると、ケインさんはそれを静止した。


「疲れが溜まっているなら、しばらくそうしているといい。クッションの準備は俺がやっておく」

「そんなの、悪いですよ。ケインさんだって今日は働きっぱなしなのに」

「本番に不調で臨まれる方が困る。そこのベッドで寝ていろ。目を瞑っているだけでも体力の回復にはなる」


 少し言い聞かせるような、ケインさんの声。私は若干の抵抗を覚えながら、結局は素直に従うことにした。

 ケインさんはカバンの中からいくつかの金属の棒を取り出す。エアクッションの柱になるものだ。彼は手慣れた動きで柱をつなげていく。


「ケインさんは、よくそんなに動いていられますね」


 いつもより言葉がゆっくりになる。疲れている証拠だろうか。


「経験の差だ。お前は基本裏方だからな、慣れない仕事に疲れるのも無理はない。俺みたいに長年この仕事をしていれば、いつか慣れる」


 そういうものだろうか。


「ケインさんは、優しいですね」

「そうか? 余裕のある者が、余裕のない者を助ける。別になんの不思議もないことだが」

「ケインさんらしい言葉ですね。普通のことを、わざと面倒くさく言う」

「茶化すなら作業に集中するが」

「あ、ごめんなさい」


 ケインさんはテキパキと作業を進めていく。すでに六個あるうちの一個が完成したようだ。

 この六個を現場で組み立てて、クッションに空気を詰める。これでエアクッションは完成だ。


「ケインさんは、この仕事をいつから?」

「師匠——カールに拾われたのが、五歳の頃。訓練はそれからで、暗殺の手伝いもしていた、結局、現地に顔を出したのは一〇歳の頃か」


 なるほど、今の彼はお父さんの訓練の賜物ということか。


 それにしても、具体的な年数を言わないのはケインさんらしい。結局、私は未だ彼の実年齢を知らない。容姿からおそらく二〇代後半でなかろうかと推測するが……その実は一体どうなのやら。

 私と同年代……ということは流石にないだろうが、しかし彼が二〇歳だと言っても、あるいは四〇歳だと言っても、私はそこまで驚かない気がする。

 そういう懐の広さというか、謎の多さが彼にはある。


 あえてここで、「何年になるんですか?」とは聞くまい。質問もとい尋問の時間は後でたっぷりとある。


「それからずっとだな。俺がこうしているのは」


 やはり、彼の肝が据わっているのは、彼が乗り越えてきた修羅場の数によるものなのだろう。


「ガラム襲撃が一年前。その後たびたびお前に仕事を手伝ってもらうことはあったが、ここまで現場に出てもらうのは初めてだ。緊張するのも無理はない。体力だって、最初はそんなものだろう」


 そう言って彼は作業を中断して立ち上がった。


「だからその……なんだ。別にお前を導くつもりもないんだが——少しは仲間を信頼して、休んでくれ」


 ケインさんは少し恥ずかしげに、そう言った。


 その言葉を、私はどう受け取ればいいのだろうか。

 彼の信頼を疑って、裏切って、そして今まさに彼を敵に売ってしまう算段をしている私は、どんな言葉を返せばいいのだろうか。


 いや、きっと、どんな言葉も返す資格はない。

 私はこの、良心の痛みに耐えるしかないのだ。私はこの、苦しみを甘んじて受けるしかないのだ。


 私はすでに、彼を生贄に捧げてしまった。

 どう足掻いても、孤児院でケインさんと楽しく会話をしていたあの頃には、戻ることはできない。


 やるしかない。

 強い感情が、心の底に生まれるのを感じた。


 後戻りはできない。ならば、突き進むのみ。

 やるべきことを、やる。そのための準備は、十分にやってきたはずだ。


 ——だけどせめて、今だけは仲間として。


 私はベッドから起き上がり、大きく膨らんだ荷物へと向かう。ケインさんが呆れたように言った。


「おい、聞いていなかったのか? 休んでいてくれと頼んだはずなんだが……」

「まだ、ワイヤーにフックをつけていなかったので」

「……? ああ」


 彼は曖昧に頷く。

 ワイヤーフック。車中で話していた、ケインさんが身動きを取れなくなった時のための脱出手段だ。彼がどうしようもなくなった時、私がこれを部屋に持っていくことになっている。


「ケインさん、仲間を信頼して一人で休むのも大事ですが」


 私は笑みを浮かべて、ケインさんに言う。


「二人でやるべきことを終わらせて、二人で休む方が大事だと思いませんか?」


 その言葉に、ケインさんは僅かに笑みを浮かべた。


「その言い方、少し俺に似てきてないか?」


 私は疑問符を浮かべる。


「『普通のことを、わざと面倒くさく言う』」

「……、なるほど」


「茶化すならもう一回ベッドに戻りますよ?」と冗談を言ってから、私は再び作業に打ち込む。


 今回は、何がなんでも成功させなくてはならない。一度ケインさんの命を賭けたからには。

 私は決意を新たに、準備を進めていく。




 そうして日は沈み、時刻は零時。作戦開始の時刻になった。


 部屋の外の廊下。誰にも気づかれずエアクッションを設置した私は、ケインさんからの連絡を待っていた。


『ダマスカスのいる部屋から下への連絡は、発煙筒を使う。青色の発煙筒は、作戦成功だ。俺はそのままダマスカスを抱えてエアクッションに向けて飛び降りる。だがもし、投げ下された発煙筒が赤色なら——緊急事態があった証拠だ。手筈通りにワイヤーフックを持ってきてもらえると助かる』


 私は高く聳え立つ建物を眺めつつ、ケインさんからの連絡をまった。そろそろ、青色の発煙筒が投げ下ろされても不思議じゃない頃だ。

 私はじっくりと闇に染まった空を見る。


 ——その時、一つの円柱形の影が見えた。


 ケインさんからの連絡だ!


 私は発煙筒らしきものの影を追う。影が、煙を撒き散らしながら地面へと落下しているのが見えた。私はその煙を見る。そして、その目を疑った。


 その煙の色は、赤色だった。




 * * * *




 私は迅速にエアクッションを解体して、五つあるホテルの出入り口のうち従業員用のものを通り(従業員の服を着ているので適当に言って通った)、最低限の荷物を持ってダマスカス将軍が宿泊する部屋へと向かう。

 幸いと言うべきか、私は将軍と内通している。「元々こういう計画だった」と言う顔で平然と部屋へ入っていけば、将軍はきっと納得してくれるだろう。ケインさんへの尋問は——その場で行うしかない。


 将軍が宿泊する部屋へと着いた。ノックを二つ。男が、右手を隠したままドアを少し開けて顔を出した。中を隠すような仕草だ。


「今何時だと思っている。ホテルマンがなんの用だ」


 私が現在ホテルの従業員の服を着ている(ホテルマンならぬホテルウーマン?)せいで、男は誤解しているらしい。部屋の中は襲撃が起こった直後。このタイミングで従業員に来られれば、警戒するのは当然だろう。


 だからなるべく、刺激しないように。


「私は、レイラ・カーライルと申します。ダマスカス将軍と話がしたいのですが」

「今はとりあえず帰ってく——今、レイラ・カーライルと言ったか?」

「ええ」


 やはり、私の名前に食いついてくれた。何らかの理由でダマスカス将軍から私の名前を聞いているのではないかと思ったが、どうやら当たっていたらしい。


 私はそのまま、部屋の中へと通される。


 中は凄惨な様子だった。頭部や胸部から血を流した死体が無造作に地面に転がっていて、ガラスのコップやビール瓶など割れているものも多い。そしてその部屋の中心に、銃口を頭に押し付けられ、身動きが取れないでいるケインさんがいた。

 彼は平然と部屋の中に入ってくる私を見て、愕然としている。


「……お前のせいか、レイラ」

「ごめんなさい、ケインさん。罠に嵌めさせてもらいました」


 私の言葉に対するケインさんの反応は意外なものだった。てっきり彼は私を責めるのだと思ったが、やけに大人しい。何か言いたげだが、躊躇している様に見える。


 さて、肝心のダマスカス将軍は、と私は辺りを見回す。しかし、幾つもの勲章をぶら下げた軍服はどこにも見つからない。

 見つからないものは聞くしかないか。


「ケインさん、ダマスカス将軍は?」

『ここだ、レイラ君』


 ダマスカス将軍の声だ。声の先にあるのは、一つの無線機だった。いくつかのボタンがついた黒の長方形からアンテナが一本伸びているという、いかにも軍用品らしいデザインだ。


 その時、三週間前にケインさんから言われた言葉がフラッシュバックする。


 ——普段彼がここに泊まる際は、寝泊まりする部屋と、その左右の部屋をとっているらしい。


 つまり、最初からこの部屋にはダマスカス将軍がいなかったということだろう。

 真ん中の部屋は襲撃者を騙すためのダミー。左右の部屋は、襲撃者を左右から侵入されるのを防ぐためではない。

 なるほど、さすが諜報員を抱えているだけはある。騙すのはあちらの得意分野ということか。


 お陰で計画が狂ってしまった。

 まぁ、ケインさんの拘束という目的は達成できたのでよしとしよう。場所は私好みではないが、尋問はするのには問題ない。


「さて、洗いざらいすべて話してもらいましょうか」

「何についてだ」

「私の養父、カールについて」


 その言葉を聞き、ケインさんは唖然とする。彼のこんな表情を見るのは初めてだ。


「……どこで、その話を聞いた」

『私が教えた』


 無線機越しに聞こえるダマスカス将軍の声。


「一体いつから知っていたんだ」

「私がケインさんと一緒にガラムを襲撃して、その一週間後」

「……」


 ケインさんは言葉を失う。その反応を見るに、私は自分とお父さんの関係に知らないふりをして、ケインさんの信頼を勝ち取ることに成功していたようだ。


「レイラ、わざわざこんなことをしなくても聞けばいくらでも——「教えてくれたことがありましたか?」


 私はケインさんの言葉を遮る。


「私は何度も聞いてみましたよ。私と、お父さんの関係について。でも、ケインさんは『まだ知るべきではない』とか『この業界は知らない方がいいことがある』といつもはぐらかして」


 ケインさんは俯く。の目には、後悔の念が見えた気がした。


「ケインさんは、私が突然裏切ったと思うかもしれませんが! でもそれは、私だって同じ気持ちだった!」


 ガラム襲撃の一週間後、ダマスカス将軍から話を聞いた時、私は心底裏切られたと思った。

 信頼と尊敬を向けていたケインさんに、いいように利用されたと思った。


 ダマスカス将軍に、何か思惑があるのはわかっていた。それでも私は、彼の言葉を無視することはできなかった。


 一雫の涙が、頬を伝うのがわかる。ケインさんに裏切られたという衝撃が、今更のようにやってきた。私は涙を拭い、一度落ち着きを取り戻す。


「覚えていますか、ケインさん。あなたが『お互いが裏切らなければ、いつまでも仲間でいれる』って言ったこと」


 ケインさんは顔をあげ、まっすぐに私をみる。


「最初に信頼を破ったのはあなたですよ、ケインさん」

「すまなかった、レイラ」


 今更謝罪の一つでどうにかなるわけがない。私はその言葉を無視する。


「この仕事が終われば、すべてを話すつもりだった」


 戯言だ、と心の中で彼の言葉を吐き捨てる。そんなこと、口では何とでも言える。


『言い訳はいい。早く話したらどうだ、ケイン君』


 将軍が無線機越しに圧力を加える。ケインさんに拳銃を突きつける男が、腕にかける力を強めた。


「……わかった。レイラ、お前はそれを望むんだな?」


 確認するように、ケインさんは私の瞳を覗き込んだ。その迫力に気押されそうになりながらも、私は頷く。

 ケインさんの私を見つめる双眸は全く動かない。それが何を意味するかは、まだ私にはわからない。私の真意を見抜こうとしているのか、私が将軍を裏切って再びケインさんの側に戻ることを期待しているのか。


「今こそ、話そう。俺の知る、全てについて」




 * * * *





「まずはどこから話すべきか——


 ファウス一族の暗殺が、俺と俺の師匠カールの二人で行う最後の仕事だった。

 なるほど、お前がファウス家の一人だったというのはもう知っているみたいだな。


 最後の仕事にて、師匠がまだ四歳でしかなかったお前を保護したんだ。きっと、老後に向けて誰か家族が欲しかったんだろうな。俺みたいな、殺し屋の助手ではなく。なんの変哲もない、普通の家族が。


 それからの数年、師匠は幸せそうだった。報われないばかりの人生だったからな。一生分の幸せを受け取っていたんだろう。そうする権利は、師匠にはあると思っていた。

 だが、そう思わない奴らもいた。


 師匠は完璧に闇社会から足を洗った。だから俺はもう彼が狙われることはないと油断してしまっていた。きっとそれは、師匠も同じなんだろうな。


 十一月民主革命。
 彼には全く関係のない事件だ。だが、いくら無関係とはいえ全く危険がないというわけではない。殺し屋をやめて数年も経った彼には、何かに巻き込まれてもそれに対処する力はもはや残っていなかった。


 俺が師匠の隠居していた館に到着した時、ちょうどデモ隊の一部が館に侵入していた。

 危なかった、と思う一方で少し安心したのを覚えている。念のために、来ておいてよかった、と。俺はすぐに侵入者を追い返して、師匠の元に向かった。

 後になって思えば、デモ隊なんかに構わずに真っ先に師匠の元へ向かっていればよかったんだ。



 どうして俺は、侵入者はデモ隊だけだと思ってしまったんだろうな。



 俺が師匠を見つけた時、彼はもう瀕死だった。

 すぐに黒服の刺客たちを殺した。きっと一〇秒もかからなかっただろう——だが、もうすでに手遅れだった。


 どうにかして足掻いてやろうと思った。だが、師匠はそれを許さなかったんだ。

 師匠は、ただレイラを頼むとだけ言って、自らの死を望んでいた。きっとわかっていたんだろう。自分が決して助からないことに。だから、自分を助けさせることよりもお前を助けさせることを優先した。

 そして俺はその願いを、拒むことはできなかった。


『決して人の心を失うな』と、師匠は言った。

 無茶苦茶だ。俺が心を殺さずに、師匠を撃てるわけがないだろうに。


 燃え盛る炎の中、俺は撃った。
 涙を殺して、感情を殺して、心を殺して——俺は、師匠を殺したんだ。


 そして俺は言った。『ミッション・コンプリート』と」




 * * * *




 部屋の中を、静寂が支配する。彼がここまで感情的になるのを見るのは初めてだった。


 恐る恐る、私は口を開いた。


「それで……その、黒服の刺客っていうのは何だったんですか?」

「最初はデモ隊と同じで、フローラインの手先だと思った。それに違うと気づいたのはフローラインを尋問した後だ。裏取りをしている中で、彼女の証言と俺の記憶に乖離があることに気がついた。そう、その黒服の刺客だ。彼らとフローラインのつながりが一切見えなかった」


 つまり、全く他人が介入してきていた、ということだろうか……?

 まだ、彼の情報の裏どりができていない。そう頭の片隅で思いながらも、私は彼の言葉に聞き入ってしまっていた。


「いや、つながりが見えなかったというのは正確ではない。実は一人だけ、その両方につながる人物に心当たりがあったんだ」

「それは——」


 私は唾を飲む。


「それが、その無線機の奥にいるダマスカス・ハーリーだ」


 その言葉に、私は思わず混乱する。


 いや、まさか。そんなことが……!

 なら私はなんだ。お父さんが殺された理由を知ろうとしていながら、お父さんが死ななければならない直接の理由を作った張本人を手助けしていた間抜けではないか。


 今になって思えば、お父さんを殺したのがケインさんだとダマスカスが知っていたことを少しは疑問に思うべきだったのだ。将軍という高い地位についているからと、つい無視してしまっていた。


「どうして、俺の師匠は殺されたのか。俺はその理由が知りたかった」


 私は無線機を見る。無線機は先ほどから沈黙を貫いていた。


「本来であれば、こんな奴ら簡単に倒せるはずだったんだ。それがどうしてか、こいつらはこの部屋のあちこちに隠れていた。まるで、俺が来るのを知っていたかのように」


 ダマスカスに、作戦は教えていなかったはずだ。説明しようとしたら、『私は計画を知らない方がいい。演技は苦手だ』と断られた——はずだった。


『そろそろネタバラシしてもいい頃だ。教えてやろう』


 ダマスカスの声が、私の思考を中断した。


『ケイン君、レイラ君。君たちの作戦会議は最初から最後まで筒抜けだったのだよ。あの部屋での言葉は、全て我々によって記録されている』


 つまり、全て盗聴されていたということだ。

 それなら、ケインさんの行動が知られていたことにも合点がいく。定期的に将軍が私の部屋に侵入していたのは、記録テープの交換だったのだろう。


 なるほど、つまり私はダマスカス・ハーリーの罠にまんまと引っかかってしまったようだ。

 ケインさんは恨めしげに無線機を睨んでいる。私を睨まないのが、ケインさんらしいな。なんてぼんやりと考える。


「ダマスカス・ハーリー。今の気分はどうだ? 俺たちをまんまと騙せて、いい気分か」

『ああ、そうだな。家においてある秘蔵のワインを今すぐ飲みたい気分だ。数年間かけたこの勝利に、美酒で酔いたい。——だが、それは目標を完全に達成してからにしよう』


 ダマスカスはまるでウィニングランのようなゆったりとした口調で言った。


『レイラ君、利用して悪かったな。私の目的は、最初から君たち二人の拘束だ』


 彼がその言葉を言った瞬間、空気が変わったのに気がついた。複数の足音が、私の背後に集まってくるのがわかる。


 私の戦闘能力は皆無。ケインさんは捕まってしまっている。万事休すだ。


 敵の策に嵌められて死ぬ。なんて私らしい死に様だろうか。


「さぁ、立て。ゆっくりだぞ」


 拳銃に脅されて、ケインさんが立ち上がった。おおよそ、血の処理がしやすいシャワールームにでも連れて行くんだろう。

 歩く途中で、一つの缶がケインさんの足に当たり、こちらに転がってくる。


 私はしゃがみ、それを手に取る。それは予備の発煙筒だった。赤色のもの。


『ダマスカスのいる部屋から下への連絡は、発煙筒を使う。青色の発煙筒は、作戦成功だ。俺はそのままダマスカスを抱えてエアクッションに向けて飛び降りる』


 その瞬間、ケインさんの声がフラッシュバックした。


『だがもし、投げ下された発煙筒が赤色なら——緊急事態があった証拠だ。手筈通りにワイヤーフックを持ってきてもらえると助かる』


 まさかこれは……ケインさんからのメッセージ? 彼は一度裏切った私を信じてこれを蹴ったというのだろうか。

 横目でケインさんを見る。彼と視線が合った。その視線は言う。『お前に託したぞ』と。


 ——やるしかない。


 私は発煙筒に書かれた文言に従い、火をつける。発煙筒から煙が飛び出した。


「おい! 何してる! 早くそれを離して両手を上げろ!」


 私の背後にいた男が叫んだ。それを聞いて、私はその男に向けて発煙筒を投げつける。


 私には、ろくに戦闘の能力は無い。そして確かに今、ケインさんも拳銃を突きつけられて抵抗はできない。だが——


 敵の全員の注目が発煙筒に集まる。その隙を、ケインさんは逃さなかった。

 ケインさんは背後の男を背負い投げの要領で地面に組み伏せ、拳銃を奪う。そしてそのまま、頭に弾丸を一発。男は抵抗をやめた。


 敵が呆気に取られているうちに、私は物陰に身を隠した。すぐに敵は、真っ先に排除すべき存在に気づいたらしい。彼らは私から興味を失うと、ケインさんから隠れるように遮蔽物の影に移動する。


 私は物陰から頭を出す。見えるのは、赤々とした煙をあげる発煙筒と、三人の敵。

 一応私も拳銃は持ってきている。人数次第では加勢すべきかと思ったが、これだけならケインさん一人で問題ないだろう。むしろ私が足を引っ張ってしまいそうだ。大人しくしておく。


 ケインさんは壁の角から一人を撃ち殺すと、角から飛び出し、発煙筒を蹴る。発煙筒が男の顔に当たり、男は悶えるようにその場にしゃがみ込んだ。その隙にケインさんはもう一人を殺す。

 一瞬のうちにこの部屋を制圧してしまった。見事な手際だ。


 私は物陰から体を出す。


「レイラ、助かった。お前があそこで発煙筒を使ってくれなければどうなっていたか」


 ケインさんに害意はないように思える……。だが、私は警戒感を保っておかなければならない。あくまでも私は、裏切った立場なのだ。


「これから、どうします?」

「目的は最初から一つだ。ダマスカスの暗殺。ただ、その理由が強固になっただけ」


 それから、とケインさんは私に訴えかけるように言う。


「今は仲間割れをしていられる状況じゃない。すまないが、一度その拳銃を離して欲しい」


 私は呆れたような素振りを見せる。なるほど、私が拳銃を隠し持っていたことには気づかれていたらしい。さすが、ケインさんとでも言うべきだろうか。


「俺と早打ち勝負がしたいわけでもないだろう?」


 そう言われて、私は物陰から拳銃を出し、机の上に置く。その行為は、私が緊張を解いたことと同義だった。


『おい、そっちはどうなっている? 返事をしろ!』


 無線機から状況を理解できていないダマスカスの声が聞こえる。私は通信機を取り、言葉を返す。


「もう居ませんよ。この部屋に、あなたの部下は」


 その言葉に、ダマスカスは驚いたようだった。一瞬の沈黙の後、


『そうか。それは残念だ。だが録音によって計画を完全に知っている私ならわかるぞ。一回のエアクッションは撤去されている。その部屋から脱出する方法は、君たちにはない』


 瞬間の出来事だった。部屋の扉が蹴り破られた音。咄嗟に、私とケインさんは壁の裏に隠れる。


 直後——弾丸の雨が、部屋の中に降り注ぐ。耳を打つような轟音。闇を掻き消す閃光。

 テーブルは穴だらけになり、ガラスは割れ、ワイン瓶はワインを撒き散らし、ソファーは無惨な姿に変貌する。


 ケインさんの指示に従い、私は地面に寝そべるように体勢を低くする。いくつかの弾丸が壁を貫通するのが見えた。


 永遠にも思える時間がすぎ、弾丸の雨は止んだ。


『これで君たちはもう逃げられない。それとも、もう既に死んでしまっているか?』

「将軍、あなたはさぞ自慢げに計画の全てを盗聴で理解していると言っていましたが、実はそれも想定の範囲内なんですよ」


 なに、と驚くような声が聞こえる。新たに部屋に侵入してきた敵が、緊張感を高めた気がする。


「あまりにも定期的に私の部屋に来るものですから。盗聴か何かを疑っても不思議じゃないでしょう?」

『それが、なんだと言うんだ。君が盗聴を知っていたとしても、君が絶体絶命であることには変わりがないだろう』

「まさか、私が何も対策を講じていいないとお思いで?」


 私は、一本のワイヤーを取り出す。片方の端に、フックが取り付けてあるものだ。ケインさんはそれをみると、彼は私に感心するような様子を見せながらワイヤーを受け取った。


「俺を信じられるか?」


 私は頷きを返す。三、二、一の合図に合わせて、破られたガラスに向けて走る、目標はベランダだ。


『……フン、結局は自棄になるだけか』


 状況の報告を受けたのだろうか。呆れたような将軍の声が聞こえる。

 ケインさんが右手のフックをベランダの手すりにかける。私はケインさんに抱えられて、ワイヤーを信じベランダから飛び降りた。


 瞬間、時が止まったような感覚に陥る。

 部屋の高さは五階。夜も光が絶えないマリンポートの夜景が一面に広がる。時が許すのならば、ずっと見ていたい景色だった。


 振り子のように一階下の窓に衝突し、そのままガラスを突き破って部屋の中に入る。まるで抱き合うような姿で私とケインさんは地面を転がった。


『ワイヤー? そんなの、計画にはなかったはずだ』


 しばらくして、私は無線機から聞こえるダマスカスの声でパニックから立ち直った。私は全身の埃を振り払いながら立ち上がる。


 フックのついたワイヤーの話をしたのは、車の中。車はケインさんのもので、盗聴器は付けられていない。つまり、このワイヤーの存在をダマスカスは知らないのだ。


「だから言ったでしょう?『対策は講じてある』って」


 沈黙。しばらくして、無線機からプツリと言う音が聞こえた。通信を切られたらしい。私は無線機から興味を失って、窓の外に放り投げた。

 背後からケインさんの疑うような視線を感じる。


「まさか……レイラ、俺を裏切る算段をした上で、ダマスカスも裏切る準備もしていたのか?」

「言ったでしょう? 万が一に備えるのが参謀の仕事だって。ダマスカスは元から信用できない奴でしたから」


 その言葉に、ケインさんは笑った。


「なるほど、強かなことだ」

「本当はもっと、うまくやる予定だったんですけどね」

「そのためのVIPルームってことか?」

「ケインさんを準備もしていたんですけどね。『当ホテル自慢のサービスを提供できなくて非常に残念です。またのご利用をお待ちしております』」

「こんな心臓に悪いサービス、二度と御免だ」


 私は辺りを見回す。確かダマスカスの宿泊していた(はずの)部屋の一階下は、空室ではなかったはず。見れば、老夫婦が怯えるようにこちらを見ていた。おそらく、銃撃戦の音が聞こえたあたりからそうしていたのだろう。


 それにしても、視線が私に集中しているように思える——とそこで気がついた。埃やらなんやらでボロボロになってしまっているが、私はこのホテルの従業員の服を着ているのだ。老夫婦は私をこのホテルの従業員か何かだと思っているのかもしれない。

 まぁ、どうせかける言葉を思いつかなかったし言うだけ言ってみよう。


「もう安全です、お客様。すぐに避難指示がなされると思います。お客様たちの安全は当ホテルが責任を持って保証しますので」


 その言葉に、老夫婦は一旦の安心を見せた。よくよく考えればおかしいところだらけなのだが、本人たちにとってみればそんなことはどうでもいいのだろう。ただ、安心できる材料を探しているだけ。


「それでは、ごゆっくり」


 テキトーな言葉を残して、私とケインさんは部屋を後にする。

 ホテルは未だ、寝静まっていた。銃声が鳴ったとはいえ、異変に気がついている者はまだ少ないらしい。部屋を出ても、不審な人影は見えない。敵はこちらの場所を把握しきれていないようだ。


 それだけ確認して、私たちは廊下を歩き始める。


「それでは、ケインさん」


 なんだ、と彼は言葉を返した。


「これからは私たちのターンです。鮮やかな逆転劇といきましょう」




 * * * *




 まずは、状況の整理をしようと思う。


 私たちの目標は変わらず、ダマスカスの暗殺。——もはや尋問なんて悠長なことを言っていられる余裕はない。ここで彼を逃してしまえば、仕事に失敗になるだけでなく、ガラム襲撃の真犯人が私とケインさんであることも公になってしまう。

 そして、ダマスカスの目的は、私たちを殺すこと。彼はこの場を整えるために数年をかけたと言っていた。私たちを簡単に逃がしてくれるとは思えない。

 また、ホテルはこの戦いに参加しないだろう。ホテルからすれば、私もダマスカスも同じ厄介者だ。ダマスカスに楯突こうとはしないだろうが、積極的に私たちへ攻撃を仕掛けてきたりするようには思えない。


 このホテルを一つの戦場と見立てた時、いくつかの要所が見つけられる。

 四つの階段、四つの出入り口、カジノとホテルを繋ぐ一本の通路。誰かをこのホテルに閉じ込めようとした時、これらさえ支配下に置いておけば相手の行動を縛れる。——だが、これには多くの人員が必要になる。


 本来のダマスカスの計画では、必要な人員は私たちを部屋の中に拘束するだけ。ダマスカスが全ての要所を抑えられるほどの人員を今すぐ動かせるとは思えない。

 要所の中で最も重要なのは、五つの出入り口。これらさえ抑えれば、ダマスカスは私たちをホテル内に拘束していられる。


 五つの出入り口はそれぞれ、ホテル正面出入り口、ホテル裏口、カジノ出入り口、従業員用出入り口、搬入用出入り口。

 うちホテル裏口、従業員用出入り口、搬入用出入り口は狭く、トラップを設置するだけで私たちは通れなくなる。この三つを通れなくするのは簡単だ。一方で、ホテル正面入り口は構造が複雑で、防衛がしづらい。ダマスカスは、ここに多く人員を配置するはずだ。


 この時、ダマスカスにとって最も安全な場所はホテル正面入り口だ。居たことが割れてる借りた部屋は論外として、カジノ入り口より人員が多く割り振られた正面入り口の方が安全だと言える。


 つまり、ダマスカスを拘束したい私たちが攻めるべきはホテル正面入り口だ。ダマスカスを殺して、正面から逃げる。これが私たちに残された唯一の勝利への道である。


「——と、いうのが私の推理です」


 説明を終えて、私は隣を歩くケインさんを見る。


「とは言っても、正面入り口を突破するのは至難の業だぞ」

「承知の上です」


 ケインさんは沈黙する。他に方法がないのか考えているのだろう。

 一応、私もいくつか他の案は考えた。例えば、ダマスカスが使う階段を予測して待ち伏せるというもの。だが、ワイヤーを頼りに飛び降りた時の衝撃で出遅れてしまった今、その案をとっても成功するとは思えない。


 それらを加味した上で、私は正面突破が最善という結論に至った。

 そして結局、ケインさんは私と同じ結論に至ったらしい。彼は「その通りだな」と頷いた。


 なんて話しているうちに、正面入り口が近づいてきた。ここからは慎重に進まなければならない。


 私たちは物陰に身を隠す。正面入り口周辺は開けているものの、通路に美術館のような展示があったり、受付カウンターがあったり、大きな柱があったりと意外に隠れられる場所が多い。また立体的な作りになっていて、通路の数も多い。地図を見ながらでないと、迷ってしまうこともあるかもしれない。


 私たちは現在、大鷲の銅像の前につながる通路にいた。先には、二人の人影が見える。物陰から敵の様子を窺っていると、微かに声が聞こえてきた。


「敵は二人なんだろ? どうしてこんな面倒なことしてんだ」

「こっちだって人員は足りてないんだ。将軍サマは部屋で捕まえるつもりだったらしいからな。逃げられた時のことまでは考えていなかったんだろうよ」

「応援はいつ来るんだ?」

「三〇分後だってよ」


 彼らはすぐに上官らしき人に無駄口を咎められ、黙ってしまった。


 私は現在の時刻を確認する。午前〇時二四分——五〇分ごろがタイムリミットだ。それを過ぎれば、いつ敵の応援が来てもおかしくない。


「ケインさん、私が二階から敵の注意を引きます。その後ケインさんは一階を攻撃してください」

「一人で大丈夫か?」

「えぇ、考えはあります」


 二階にいる人数五人程度。あれぐらい、難なくこなせなければこの先を生き残れないだろう。




 私は角から頭を出し、敵の様子を見る。すると、一人と目が合った。餌に食いついてくれたことを確信した私は、全力で背後へと走る。

 背後から、二人の足音が迫るのがわかる。


 発砲音が響く。敵が私に向けて撃ったものだ。だが、全力で走りながら私に当てられるわけがなく、弾丸はただあたりを破壊するだけだった。

 私は角を曲がり、しばらく行って柱の裏に隠れる。


 私には、まともな戦闘の能力がない。銃は重くて五メートルも離れればまともに当たらないし、近接格闘なんてもってのほかだ。きっとあの三人のうち一人でさえも真正面からやり合ったのでは勝ち目がないだろう。

 だが、弱者には弱者なりの戦い方がある。


 その時、背後から金属の擦れる音と共に悲鳴が聞こえた。

 私が設置したトラバサミに、敵が引っかかったのだ。一度引っ掛かれば、簡単に外すことはできない。


「助けてくれ!」「今やってる! クソッ……」「おい、早くしろ。いつ敵が襲ってくるかわからないぞ」


 三人の声が聞こえる。軽いパニックに陥っているようだ。角から顔を出してみる。一人がトラバサミに引っかかり、一人がそれを解除しようとしていて、最後の一人が周りを警戒しているようだ。

 私は懐からツマミとボタンがついた無線機を取り出す。チャンネルは、事前に合わせてあった。


 弱者の戦い方で私が最も得意とするのが、これ——トラップだ。


 私はボタンを親指で押す。瞬間、設置しておいた爆弾が爆発する。

 爆風と共に敵の体が吹き飛ぶ。振り返ってみれば、あっけないものだ。一瞬の不注意が、三人もの死を招く——いや、まだ一人生きているようだ。

 私は拳銃を取り出し、何やら呻き声をあげながら手を伸ばしている、もはや人間とも呼べないような肉塊を撃つ。弾丸は手に当たり、男はそこで動きを止めた。


 私は柱の影から出て、元の道を戻る。


「おい! 気をつけろ、ここには罠が設置してあるぞ!」


 背後から爆音を聞いて駆けつけたらしい敵の声が聞こえた。私はチャンネルを変えて、背後に向けて再びボタンを押す。これで二階にいたのは全員だろう。


 遠くから、いくつもの銃声が聞こえる。ケインさんも頑張ってくれているらしい。私は正面入り口へと向かう。しばらくすると、銃声が鳴り止んだ。膠着状態に陥ったのだろうか。


 正面入り口に着くと、ケインさんとダマスカスが対峙していた。ダマスカスの背後には、何十の人が見える。


 時刻は三四分——設定したタイムリミットまでは、残り一五分ほど。


「まさに勢ぞろいですね。将軍」


 二人の視線が、私に集まった。私は今、一階につながる階段の前にいる。

 正面入り口の中心には大鷲の銅像がある。銅像を中心に、入り口以外の四方をケインさん、私、ダマスカスで囲っている形だ。


「本当はこんなつもりではなかったんだがな。君たちをみくびっていたようだ」


 将軍は相変わらずの様子だ。肝が据わっているというか、超然としているというか。敵が目の前にいるという現状を理解しているのか疑いたくなるほどだ。


 私たちが勝っても、ダマスカスが勝っても、私たちとダマスカスと会うのはこれで最後になる。折角だ、この機会に聞いてみたかったことを聞いてみよう。


「旧フラペニア帝国の復活、西世界の統一。あなたはその夢を追いかけ続け、ここまでやってきた。そうですね?」

「『再征服』か、懐かしいな。私があれを書いたのは八年近く前になる」


 その言葉を肯定の意と受け取り、私は話を続ける。


「なら、クーデターも、十一月民主革命も、お父さんの暗殺も、全てそのためなんですか?」


 その言葉に待ったをかけたのは、ケインさんだった。


「十一月民主革命を起こしたのは、ダマスカスなのか?」

「ああ、その通りだ。クーデター後、王国とは名ばかりの軍事政権になっていたが、抑圧だけではこの国を治められぬのは歴史で知っていた。ならば、余裕のあるうちにできるだけ良い条件で政権を手放すのが良いだろう。民主革命は、私の描いた計画の内だ」

「だから、あなたは最適なタイミングで最適な提案をして、革命を鎮めることができた。そうですね?」

「流石の推察力だな。レイラ君」


 十一月民主革命。ずっと私は違和感を抱いていた。

 多くの軍関係者が政権を委譲して影響力を弱める中、ダマスカス将軍だけはあの提案によって影響力が大きくなっていた。


「第一に、サラニアからの独立。第二に、フラペニア内外での影響力の拡大。第三に、西世界中を巻き込む形でのサラニア・バンダモン戦争の誘発。そして最後に、疲弊した両国の講和の仲介と、西世界連合の組織。それが私の描いた西世界統一への道のりだ」


 ダマスカスは、興奮した様子で両手を広げる。


「この計画が大成した暁には、フラペニア王国は西世界の主導権を握ることになる! 私が夢見た、西世界の統一、旧フラペニア帝国の復活だ!」


 権力を持っているか否かはかまわない。ただ、夢を実現したいだけ。

 その姿は、ある人が見れば歴史に大きな影響を与える偉大な活動家で、またある人が見れば幻想を追いかけ続ける狂人に見えた事だろう。


「旧フラペニア帝国——初めて国を知った時、子供ながらに激しく興奮を覚えた。私の先祖は、これほどに血肉のおどる夢を追いかけていたのかと。気づけば、私も夢に魅入られた一人になっていた」


 私は、二人を見下ろしたままゆっくりと歩く。ダマスカスの背後にいる敵がこちらに銃口を向けているのがなんとも肝が冷える。


「師匠は——カールは、どうして殺したんだ」

「私はかつて、カールを頼って使っていた。彼の殺しの腕は超一流だ。しかし彼は、仕事の中で私がクーデターを起こした張本人であるという証拠を握ってしまったのだ。だから私は、証拠を消した」


 あっさりとした口調だった。まるで、お父さんをただの道具としてしか見ていなかったような。まるで、壊れた道具を捨てるような。そんな口調だった。


「人間という生き物は、どうやらじっとしていられないらしい。調べなくてもいいようなことまで調べ上げて、知ってしまえばもうそいつを生かしてはおけない。カールの暗殺のために、フローラインを使った。フローラインの暗殺のために、君たちを使った。あとは、私直々に君たちを殺せば証拠は全てなくなる」


 使えなくなったから、取り替える。まるでそんな話だ。


「ダマスカス将軍、あなた、一度でも誰かを愛したことありますか?」

「愛、か。どうも私にはそれが、性欲や独占欲や庇護欲をロマンティックに言い換えた言葉にしか思えないんだがな」


 そうですか、と私は歩みを止める。


「レイラ君、君のカールの死んだ理由を暴こうとする行動はきっと愛とやらに基づいたモノなんだろう。私はそれを、理解することができる。だが、共感ができないんだ。結局君は自らの好奇心を愛と言い繕うことで殺人を自己正当化しているだけ、そう考えて冷めてしまう」

「そう、ですか……」


 腹の底で、熱い何かが煮えたぎるのを感じる。


「きっと、私とあなたは一生をかけても分かり合えないでしょう」

「無論だ」

「安心しましたよ。お互い裏切るつもりだったとはいえ、一度は手を取り合った中です。もしかすれば、殺すことを躊躇するかもしれない、そう思ったこともありましたが。杞憂でしたね」


 そうか、とさして興味もさなさそうにダマスカスは答えた。


「さぁ、私の話はこれで十分だ。もう目的は果たされた」


 しかしすぐに彼は口元を歪める——瞬間の出来事だった。

 ホテル正面の扉がゆっくりと開けられ、男が現れた。表情はよく読み取れない。男は、ホテルの中に入ってくる。


「こうして会話をするのは初めてだな、レイラ」


 私の名を知っている……?


 月光が差し込み、侵入者を照らす。

 右手に杖、左手に拳銃。全く手入れされていないことが窺える髪に、どこか魅力を感じる美形の顔。


「これで、キャストが揃った。君は、彼みたいなのが苦手だろう?」

「まさか……」


 侵入者の名は——アレスター。

 伝説級の殺人鬼にして、一時は六人衆の犯罪者組織連合を手中に収めていた男だ。


 私は拳銃を取り出し、アレスターの動きを牽制する。私の拳銃を恐れてか、はたまた全く別の理由からか、彼は立ち止まった。


「ずっと会いたかったぜ、レイラ」


 どうしてその名前を、と言おうとして、私は気づく。彼がここに来れた理由。ダマスカスがキャストが揃ったと言ったわけ。おそらくアレスターは、ダマスカスの指示を受けて行動している。かつて、私がアレスターを操ったように。


「知らない人ですね」

「とぼけんじゃねぇよ。僕はお前の手紙を信じてガラムを襲撃したんじゃねぇか」

「へぇ、成果はどうでした?」


 次の瞬間、彼は大鷲の銅像を撃った。ダマスカスが眉を顰める。私は拳銃を構えているというのに、大した胆力だ。もしかしれば、私がこの距離ではまともに当てられないことを察知しているのかも知れない。

 場の緊張感が高まる——だが、アレスターはすぐに態度を軟化させた。


「すまねぇ、カッとなっちまうとすぐこれなんだ。次はテメェの脳天に撃っちまうかも知れねぇから言葉には気をつけろ?」


 本当に、過去の私はよくもこんなやつを使おうと思ったものだ。おっかなくて仕方がない。無鉄砲というか、不発弾みたいな奴だ。


 増援というのは、彼のことだったのだろうか。

 まだ五十分までは一〇分ほどあるが——まぁ、彼についてあれこれ考察しても有益な情報が得られるとは思わない。どうせ気分でちょっと早く走ってみた、とかそんな感じだ。


「さて、ダマスカス、報酬は話の通りだな? お前があそこの男で、僕がレイラ」


 ああ、とダマスカスは頷いた上で、


「まさかレイラ君を逃したりするようなヘマはしないだろうな?」

「当たり前だ。手足は真っ先に切り落とす」


 ならいい、とダマスカスは興味もなさそうに言い捨てる。

 なんだかナチュラルに怖いことを言われた気がする。


「残念だ、ケイン君、レイラ君。君たちは優秀だ。是非とも私の部隊に招きたかったのだがね。巡り合わせが悪かったな」


「お前が標的でなかったとしても、お前の仲間にはなりたくないな」「私だって、あんなマキャベリストの部下なんて真っ平ですよ。すぐに使い捨てられそう」


 私たちは各々で悪口を言う。


 そうか、とダマスカスは口元に笑みを浮かべて、


「ならば、殺し合いとしよう」




 * * * *




「レイラ、逃げろ!」


 一番初めに動いたのは、意外にもケインさんだった。彼は迷わずにアレスターを撃つ。

 だが、アレスターはふらりと奇妙な動きをして、弾丸を避ける。そしてそのまま、ケインさんに一瞥して真っ先に私へと向かってくる。


「——ッ!」


 私は一目散に逃げた。


 理想は、私とケインさんでアレスターから順に各個撃破。弱者の常套手段だ。局地的な勝利を積み重ねて、全体の勝利につなげる。

 もっとも避けるべきは、私とアレスターの一対一。そうなれば、準備のない私に勝ち目はない。先ほどの戦闘は準備があってこそのもので、アレスターの対策のない私はただの一般人に等しい。


 アレスターは何故か私に執着している。なら私は逃げて、ケインさんにも私を追って貰えば、うまく私とケインさんでアレスターを挟撃できるかもしれない。


 ——もっとも、これは走り出してから考えた後知恵だが。


 私は背後を見る。アレスターはちょうど、二階に登ってきたところだった。アレスターは杖をつきながら私を追っている。全力で走れば、逃げ切れるはずだ。

 だがそこで厄介なのは、アレスターの持つ銃の存在。あれのせいで、私は遮蔽物を渡るようにしながら逃げなければならない。——私が拳銃を持っているのはアレスターも知っているはずなのだが、彼はどうして遮蔽物に隠れないのだろう。


 試しに、私はアレスターに向けて拳銃を撃つ。当たらないのは勿論として、アレスターは避けようと言うそぶりすらない。彼は堂々と体を晒して、左手の拳銃を構えながらこちらに迫ってきている。


「レイラ、お前銃が下手だろ? 当たる訳がねぇんだ。ろくに撃つ練習していねぇやつの撃ち方だよ」


 遠くから銃撃戦の音が聞こえる。ダマスカスの特殊部隊と、ケインさんがやり合っているのだろう。この様子では、ケインさんがこちらに来るのは難しいだろう。


「お前は銃ばっか見てんだ。撃つ時はな、銃じゃねぇ、相手を見るんだ。——こういうようにな」

「——ッ!?」


 暗い通路の中、閃光が一つ。アレスターの左手の拳銃から放たれた弾丸は、私の左足に当たった。

 その痛みに、私は思わず倒れ込んでしまう。次の攻撃を恐れて、私は足を引き摺りながら近くの柱の影に隠れる。幸い弾丸は足の中で止まっていないようだ。見ると、弾丸がえぐった部分からは血が流れ出していた。私は包帯だけ巻いて応急処置をして、もう一度立ち上がる。

 そして遮蔽物に爆弾を設置。残り二つしかない、虎の子の爆弾だ。


「どうだ、何もしてこねぇのかよ?」


 安っぽい煽り文句を無視して、私は足を引き摺って壁を伝いながら逃げる。傷のせいで、杖をつくアレスターと歩く速さは同じか、それ以下になってしまった。

 アレスターはこちらの恐怖を煽るように、闇雲に弾丸を撃つ。


 私は発信機のチャンネルを設置した爆弾に合わせる。そしてタイミングを見計らって、


「何もしねぇなら、お前このまま死んじま——」


 スイッチを押す。アレスターは横なぎの爆風に晒された。狙い通りだ。


 私は拳銃を構えながらゆっくりとアレスターに向けて歩いていく。アレスターは俯きに倒れている。

 アレスターはこれといった欠損こそ見えないものの、左半身は酷く火傷してしまったようだ。真横からの爆発。普通ならまず助からない。


 しかし、その瞬間アレスターの瞳が開き、私と目が合う。

 私は本能的に近くの壁の角に隠れる。次の瞬間、私のいた空間を弾丸が割いた。


「油断したなぁ……ガラムの時もこんなんだったか。反省、反省」


 私は角から顔を覗かせる。彼は左半分に火傷を負い、その美形の一部を無惨な化け物へと変質させていた。化け物の目玉が、ギョロリとこちらを見える。


「やってくれたなぁ、レイラ。そうでなきゃ張り合いがねぇってもんだ」


 気がつけば、この先はホテルとカジノを繋ぐ通路だ。通路はおよそ遮蔽物と呼べるものがなく、通るにはアレスターに無防備な体を晒さなければならない。


 どうにかしてこの先に進むか、この場で勝負に出るか。


 この場で勝負に出るとした場合、もう爆弾を使うほどの余裕はない。準備をするために時間はないし、ましてやこの距離で使えば私もただでは済まない。よって取りうる手段は、拳銃か、格闘。

 どちらも私の不得意分野だ。この場で勝負に出るとしても、勝算はない。


 だが、この先に進んで何がある? 私の行動は、ただ勝負を先延ばしにしているだけではいないのか。逃げるのが悪いとは思わない。勝負時を待つのは重要だ。だが、この先もっと不利になる可能性も十分にある。


「おいおい、いつまでそこに隠れているんだ?」


 杖をつく音。アレスターがすぐ近くにまで来ているのがわかる。今すぐに、決断しなければならない。


 その時、一つのことを思い出す。それは、カジノにあった。

 あれを使えば、アレスターを倒せるのではないか。まるで砂漠の中で、オアシスを見つけたような気持ちだ。


 私の決断は早かった。


 角から銃身だけを出して、引き金を引く。


「——っ!」


 顔を見ずとも、アレスターが驚いているのは手を取るようにわかった。

 弾丸は当たらなくていい。万が一にも当たるかもしれないと思わせるのが大事だ。驚き、それがアレスターの体制を崩した。


 今だ——!


 私は角から飛び出て、左足の痛みに耐えながらカジノに向けて走り出す。

 そしてダメ押しに、背後に向けて弾丸を二発。案の定どちらも当たらなかったが、これでアレスターは完全に体制を崩しただろう。


 その間に、私は全力で通路を走り抜ける。背後を見ると、アレスターは尻餅をついた状態で私に拳銃を向けようとしていた。

 十分な距離を稼いだことを確認して、私は爆弾を背後に投げる。残り一つの、最後の爆弾。アレスターは慌てたように近くの柱の裏に隠れようとしていた。


 これでアレスターが死んでくれれば御の字なのだが。


 私は送信機のスイッチを押す。

 爆風が私を吹き飛ばした。




 * * * *




「向こうには行かせないよ、ケイン君。君の相手は、私たちだ」


 ダマスカスの声だ。俺はカウンターの裏に身を隠す。

 さっきのご高説で、もう聞きたいことは無くなった。もうダマスカスは殺してしまっても構わない。


 できれば、今すぐにでもアレスターを追いかけたいのだが、状況がそれを許さない。俺対ダマスカス、レイラ対アレスターの状況をダマスカスは意図的に作り出しているようだ。

 レイラ対アレスターでは、レイラが負けるだろう。

 そしてレイラが死んだ後、俺は一人でダマスカス、アレスターの両方を対処しなければいけなくなる。そうなれば、俺も厳しい。俺かレイラ、どちらかで勝利を収めなければならない。


 つまりは、俺があの野郎を殺せばいい、というわけだ。


 足音が近づいてくるのを感じる。三人だ。俺はエントランスのカウンターから顔をだす。引き金を引くこと二回。二人に頭へ一発ずつ、まず再起不能だろう。最後の一人が反撃にこちらへ銃を向けてくる。俺は前転の要領でカウンター横から飛び出し、射殺。


「見事な腕前だな。流石、あのカールの弟子ということもある」


 足音からすぐに次の攻撃を察知して、背後を振り返る。敵は一列になっていたのでまず一番近い敵を撃ち殺して、すぐに接近すると、死体を盾に弾丸を防ぐ。死体を投げて残りの敵を怯ませて、その隙に敵を撃ち殺す。


「君は、私を無事に殺して、復讐を無事に終えたとして、どうするつもりだったのかね」


 リロード。

 敵が多い。弾丸は節約しなければ。


 二階から飛び降りてきた奴のナイフを避ける。足払いで敵のナイフを叩き落とすと、相手の拳を掻い潜り、グリップの下部分で殴りつける。相手が怯んだところへ、弾丸を一発。


 数はかなり減らしたはずだが、なかなかダマスカスの姿が見えない。


「君には、復讐以外に生きる理由なんてないんだろう?」


 生きる理由……?


 突然の背後からの銃声に、俺は階段の裏に身を隠す。不味い、やつの言葉に気を取られていた。ダマスカスの言葉に耳を傾けてはダメだ。


 俺は大鷲の銅像の裏に隠れて、一度敵から身を隠す。敵が俺の所在を見失ったのを確信してから、順に銅像を盾に撃ち殺していく。最後の一人が反対側から接近してきたので一度足をかけて転ばせてから、的確に頭へと弾丸を撃ち込む。


「カールの死に際の言葉はなんだったか。あぁ、そうだ。『決して人の心を失うな』だ」


 沈黙。俺は銅像を背に、俯く。


「なのにお前は、自分の心を押し殺してカールを殺し、今もずっと自分の心を殺し続けているんではないか?」


『決して人の心を失うな』

『誇り高き、殺し屋になれ』


 師匠が死に際に残した言葉が脳内に響く。


 沸沸と怒りが込み上げてくるのを感じる。両手で押さえているはずなのに、銃が震えて止まらない。


 俺が誇り高き殺し屋になれているかだって?

 わざわざ問うまでもなく、なれていないに決まっている。


 そうだ、俺はずっとその言葉から逃げ続けていたんだ。誇り高き殺し屋という言葉から、逃げ続けていたんだ。


 殺し屋だって、なりたくてなったわけではない。

 最初はただ、師匠に捨てられて孤児に戻りたくなくて頑張ったことだった。師匠は厳しかった。滅多に休みはないし、褒められることもほとんどない。だが、師匠は一度だけ言ってくれた。


 ——よくやったな、ケイン。


 たった一言。それが何の時のことだったかは、もはや思い出せない。ただ、その時嬉しかったことだけは、強く覚えている。俺はそれから、その言葉をもう一度聞くために頑張るようになった。


 だからきっと、俺は殺し屋ですらないのだ。

 ただ人に褒められたいが為に殺し続ける、殺人人形。今となってはを失って、その復讐に燃えて人を殺し続ける亡霊。


『誰かの道具になんかに成り下がるんじゃないぞ。お前は、お前の良心と判断によって人を殺すのだ』


 それは、もしかすれば、俺を解き放つための言葉だったのかもしれない。

 師匠に褒められるという目的を失って、殺人技術という手段だけが残った。そんな俺を解き放つために言った言葉なのかもしれない。


 だが、結局はそれは失敗に終わった。

 俺は今もなお、復讐以外に目的を見つけられていない。


 いや、きっとこの復讐というのも、ただの言い訳だ。結局は、死に場所が欲しかっただけ。


 足音が聞こえる。前を見ると、そこにはダマスカスが立っていた。背後には、四人の男女が俺に向けて銃を構えていた。


 遠くから、爆発音が聞こえる。レイラが逃げていった方向だ。レイラは生きているだろうか、死んでいるだろうか。気づけば、涙が流れていた。


「レイラ君も可哀想だな。着いてきた男が、こんな情けない奴だったなんて。彼女が知るとどう思うだろうか」


 レイラなら、どう言ってくれるだろうか。強い少女だ。俺が最初に会った時から成長している。子供っぽいところはあるが、心はもうしっかり大人だ。

 きっと彼女なら、何とか言って俺を慰めてくれるんだろう。それが、私にとって何とも情けない。


「ごめんな、レイラ。こんなことに巻き込んでしまって……」


 俺は囲まれてしまって抵抗ができない。そして俺なしでは、レイラがアレスターに勝つのは難しいだろう。


「詰み、か……」

「ああ、その通りだ。惜しいところまではきていたんだがな。手強い相手だったよ」


 敵の前で泣くやつが、手強いわけがあるか。

 結局、終始俺は道具でしかなかった。一人では何もできない。それで言えば、レイラはうまく俺を使ってくれていたように思う。裏切られたが、それも含めて彼女は俺をうまく使いこなしていた。


 だがそれも、これで終わりだ。

 俺はダマスカスに殺され、レイラはアレスターに殺される。


 その時だった。二度目の爆発音が、俺の鼓膜を刺激する。

 方向は、レイラが逃げた方向。彼女はまだ、生きていたのだ。そしてまだ、アレスターに対し必死に争っている。圧倒的に不利であることは知っているだろうに。それでも彼女は、抗い続けている。

 そしてきっと、俺の助けを待ち続けている。


 彼女はまだ諦めてない。ならば、彼女の仲間である俺が諦められる道理があるだろうか。


『誇り高き殺し屋』になれるかはわからない。この行動を、師匠が褒めてくれるかはわからない。だが、やるべきことはわかった。


 自然と、手の震えはなくなっていた。拳銃は再び俺の腕の延長のように振る舞う。俺は拳銃をゆっくりと上げ、ダマスカスの胸へと向ける。


「何のつもりかね、ケイン君」

「殺し合いをすると、お前自身が言ったはずだ。まだ両者はこうして立っている。この先は言うまでもないな?」


 ダマスカスの背後にいた四人前に出てくる。


 敵が引き金を引いたのと、俺が動いたのは同時だった。

 俺は弾丸を回避するように銅像の後ろに回り込むと、銅像をよじ登り、そのままジャンプで踊り場に飛び移る。大鷲の銅像は基礎が弱いらしく、俺がジャンプした衝撃で少し揺れた。


 俺は階段を登ってきた一人に蹴りを入れて背後に登ってきた男ごと下に突き落とす。そのまま胸を撃って、二人纏めてとどめを指す。

 しかし油断してしまった。反対側の階段から登ってきた女が持つナイフが、俺の腹に突き刺さる。俺は痛むのを我慢しながら、女に左手の肘で反撃。女がナイフから手を離したところを、女の手を取り背負い投げの要領で銅像に叩きつける。すぐに左肩のナイフを抜くと、続いてやってきた男に投げる。ナイフは、男の頭に突き刺さった。


「ハァ、ハァ……」


 息が荒い。ナイフの切り傷がだんだんと傷んできた。


「マゼルダめ……どうしてこんな構造に……」


 ダマスカスは、度重なる衝撃によって揺れ動く大鷲の銅像——旧フラペニア帝国の象徴を鎮めるのに執心していた。

 俺は銅像に蹴りを入れる。すると、銅像はダマスカスを下敷きにするように倒れた。


「ハァ、……ハァ」


 腹のナイフの傷が痛む。俺は適当な死体から布を引きちぎり、腹に巻いてひとまず応急処置する。本来ならもう少し手間をかけたいところだが、今は急がなくてはならない。


 俺はゆっくりと階段を降りて、大鷲の銅像の下敷きになって死んでいるダマスカスの前に立った。腹の傷のせいで動きが鈍くなっているのがわかる。


「旧フラペニア帝国の復活のためなら、どんなものでも踏み台にしてきたお前だ。帝国の踏み台になれて、お前も幸せ……そうだろ?」


 ダマスカスの死体の下から、血の海が広がっていく。


「俺は行く。レイラを助けに行かなければいけないからな」


 俺は拳銃をダマスカスに向けて、引き金をひく。


 今度こそ、俺は、俺の良心と判断に従って人を殺せた気がした。




 * * * *




 爆風に押されて、私の足は地を離れる。着地に失敗して、地面を何回転もしてしまった。気づけば、そこはもう、カジノ館の中だ。


「十分な距離、稼げてなかったぁ……。全然爆風に飲み込まれちゃってたぁ……」


 気が逸ってしまってスイッチを早く押してしまったのか。それとも土壇場の緊張感が距離を間違えさせたのか。


 私は泣き言を漏らしながら、ゆっくりと立ち上がる。興奮してしまっているらしい。冷静になれ、私。


 服も端々が焦げてしまっていた。何かの偶然重なれば、私は死んでいたかもしれない。気をつけなければ。


 焼けこげた一帯の向こうで、人影が動くのが見えた。やはりまだ生きていたか、アレスター。しぶといやつめ。

 近くに遮蔽物はない。私は記憶を頼りに、目的の部屋へ向けて駆ける。撃たれた左足が痛む。こればっかりは賭けだった。背後から数発の発砲音が聞こえる。しかし幸いにも私は無傷で通路の角へと一度身を隠すことができた。


 そこで一度私は息を落ち着ける。

 しかし杖をつく音が近づいてくるのがわかる。アレスターもこちらに近づいてきているらしい。私は痛む左足をもう一度鞭打って、全力疾走。


 目標の部屋が見えた——!


 その部屋の扉のドアノブには、『Used』の看板がかけられている。

 それは、本来はただのVIPルームだった。しかし現在、その部屋は私がダマスカスを尋問するために作った、トラップハウスになっている。


 私が不利なのは、私がアレスターの対策にトラップを設置できていないからだ。ならば単純、他のトラップを使い回せばいい。

 あの部屋の中には、数えきれないほどの罠が設置されている。私でなければその全てを回避することは不可能。つまり、アレスターをあの部屋の中に誘い込めれば私は勝てるのだ。


 私は走る。左足の痛みを堪え、ひたすらに走る。

 勝ちはもうすぐそこに見えている。ただ、あそこにたどり着くことさえできれば、私は勝てるのだ!


「……、! ——ッ!?」


 しかしその瞬間、私は右足に激しい痛みを覚える。


 気づけば目の前には地面があった。あまりの混乱に、アレスターに撃たれ、地面に倒れたのだと気づくのに数秒の時間をかけてしまう。

 私は腕を使って上半身を置きおがらせて、背後を見る。半身が炎に焼かれた化け物が、杖をつきながら歩いてくる。


 進まなくては。目的の部屋はもう目と鼻の先だ。

 私は両足の激痛に耐えながら、地面を這うように進む。そして私は扉のドアノブを回し、扉を開けて——


「ぐアッ——!?」


 右足の傷口をアレスターに蹴られ、私はその場で包まるように悶える。アレスターの顔が愉悦に歪んだ。気味の悪い笑い声が響く。


「惨めなもんだな、レイラ。一年前は思いのままに操っていたやつの目ン前で、こんな無様な姿を晒すなんてよ。どんな気分だ? ん?」

「火傷に侵されて醜くなったあなたの顔を間近で見られて嬉しいですよ」


 ここは強気に出なければダメだ——そう本能が訴えかけていた。ここで弱気になると、もう勝ち筋を失ってしまう。


 私の言葉を聞いて、アレスターの顔がつまらなさげになる。


「レイラ、まだそんなことを言ってられる余裕があんのか?」

「あなたに私を呼び捨てで呼ぶことを許可した覚えはありませんね」


 アレスターの弾丸が私の左手を貫く。私は悲鳴をあげた。


「あぁ、いいな。その声だ。俺が聞きてぇのは、生意気なガキの言葉じゃねぇ。悲鳴だよ。もっと俺にも聞かせてく——」


 私は近くにあった消火器を手に取り、アレスターに叩きつける。

 私の攻撃を受けて、アレスターは地面を転がる。その間に私は壁にもたれかかるようにして上体を起こした。


 アレスターがのっそりと立ち上がる。アレスターは私の横に倒れている消火器を蹴る。消火器は扉を通り、部屋の中へ転がっていく。


「ハハ。ああ、いいぜぇ。その隙があれば噛みつこうとする態度、嫌いじゃねぇ」

「あなたに気に入られるぐらいなら殴らなければよかったかもしれませんね」

「そんな生意気なことを言ってられるのも今のうちだ。数日のうちにお前は何も抵抗できない体で、声にならない悲鳴をあげ続けるオモチャにしてやる。死のうとしても死ねない状態で、ずっと苦しみ続けるんだ」


 そして再び、アレスターは私に拳銃を向けた。


「そしてこれは、そのほんの始まりだ」


 アレスターは引き金に指をかける。発砲音が聞こえた。私は思わず目を瞑ってしまう。……だが、来るはずの痛みがいつまで経っても来ない。

 これが死ぬということだろうか、なんて呑気に思いながら私は瞳を開いた。


「大丈夫か、レイラ」


 そこにいたのは——ケインさんだった。

 ケインさんは、どこか憑き物が取れたような表情だった。


 私は辺りを見渡す。そこには、腹から血を流して倒れるアレスターの姿があった。アレスターはまだ意識があるらしい。


「俺は今ので弾切れだ。早く逃げよう」

「VIPルームに脱出用のルートがあります。そっちを使いましょう」


 ケインさんに支えられ、私は起き上がる。罠を回避しつつ、私たちは部屋の中を進んでいく。


 しかし、遅かった。

 発砲音。私の肩を持つケインさんが一瞬、体勢を崩す。ケインさんから鮮血が飛び散った。


 振り返る。そこには、腹から血を流すアレスターが、今にも倒れてしまいそうな様子で立っていた。反撃とばかりに、ケインさんは拳銃をアレスターに向ける。だが——


『俺は今ので弾切れだ』


 ——弾切れの銃からは、弾丸は発射されない。

 アレスターが再度ケインさんを撃つ。二発目の弾丸によって、ケインさんはついに体勢を立て直せないほどに崩してしまった。ケインさんは私共々床に倒れてしまう。

 ケインさんは必死に私に手を伸ばしながら、絞り出すような声で、


「レイラ、早く逃げ——「アレスタァァァァーーーー!!」


 咆哮。痛みなど知るものか。私はケインさんの言葉を無視して、拳銃を向ける。


「当ててみろォ、レイラ!!」


 私に呼応するように、アレスターも叫ぶ。アレスターとの距離は一〇メートル弱。普段ならまともに当てられない距離だ。


『当たる訳がねぇんだ。碌に撃つ練習していねぇやつの撃ち方だよ』

『撃つ時はな、銃じゃねぇ、相手を見るんだ』


 こんな時に、アレスターからの言葉が役に立つなんて皮肉なものだ。私は対象を中心に見据え、引き金をひく。


 視線の先は、アレスターではない。何かのトラップを作動させたわけでもないし、ましてやケインさんを撃つわけがない。こんな局面でも、私はとことん冷静だった。私はただ、ケインさんが助かる可能性が最も高い選択をしたい。


 少女の弾丸は何を穿つか。

 それは、一つの消火器だった。私がアレスターを殴る時に使い、その後この部屋に転がってきて、そして今、私が確実に打ち抜ける場所にあるもの。


 弾丸が消火器に穴をあける。

 その消火器は粉末を噴射するタイプのものだった。穴が空いたことで内部の圧力が急激に低下・爆発し、部屋中に粉末を撒き散らす。——まるで、煙幕のように。


「レイラ! 僕を撃て! 僕を殺せぇ!」


 煙幕の向こうで喚き散らすアレスター。

 私はどうにかケインさんを背負いながら、脱出通路がある窓まで歩く。縄梯子を下ろし、最後の力を振り絞って下に降りた。


 私が車に着くのが先か、ケインさんが力尽きるのが先か。時間は一刻を争う。


「レイラ! 戻ってこい! 僕と殺し合え!」


 アレスターの声が深夜のマリンポートに響く。今、あんな狂人に構っていられるものか。


「脱出装置に、爆破機能を付けていたのは正解でした」


 瞬間、爆発音が響く。今頃、尋問室にいたアレスターは全身を爆風でシェイクされていることだろう。彼の悪運の強さでも、さすがにこれを生き残るのは不可能だ。




 私はケインさんを車の助手席に座らせる。


「レイラ、ありがとう。今まで」

「何変なこと言っているんですか。あなたは生きて、帰るんです」


 私は後部座席から応急処置に使えそうなものをかき集める。大方はホテルの部屋に残してきてしまったが、今は贅沢を言っていられない。


「そして私はいつも通りの日常に戻って、時々あなたが私の家に不法侵入してきて」

「レイラ」

「……今度、ケインさんと行ってみたいカフェがあるんですよ。だから、ここで死なれては困ります」


 私はケインさんの傷を確認しようと、彼の服を脱がせようとする——が、止められた。


「レイラ。わかっているんだろう。もう、俺は助からない」

「……どうして。どうして、そんなことを言うんですか! やらなきゃわからないでしょう!」


 ケインさんは私を宥めるように、私の頭を撫でた。


「少し、話をしよう」

「いやだ、そんな……」


 私は首を横にふる。涙が視界の端を滲ませる。ケインさんは私の言葉を無視して続けた。


「俺は、殺し屋として育てられた。だから、殺し屋に育った。だが、レイラ、お前は違う。お前には誰にも負けない頭脳があるし、いざとなればなんだってできる度胸もある。お前には、殺し屋じゃない生き方がある。きっと、殺し屋じゃない幸せがあると思うんだ」

「殺し屋じゃない、幸せ」

「だからどうか、この言葉を忘れないでほしい」


 ——誇り高き、人間になれ。


 言葉と共に、ケインさんが私の手を掴む。彼の体温が、だんだんと低くなっていくのがわかった。


「それから、最後の願いだ。俺を、撃ってくれないか。今やっと、師匠の気持ちがわかったよ」

「いや、どうして……そんな」

「お願いだ。俺はアレスターの傷で死ぬよりも、お前の弾丸で死にたい」

「……」


 私は戸惑いながら、拳銃を取り出した。涙が頬を伝って、膝に落ちる。きっと、かつてのケインさんも同じ気持ちだったのだろう。


「笑ってくれ、レイラ。悲劇で人生を終わらせたくない」


 そういうと、ケインさんは不器用な笑みを作る。その笑顔を見て、私は空気も読まずに笑ってしまった。


「ケインさん、笑顔が下手すぎです」

「そうか?」


 面食らったようなケインさん。


「そうです。……ふふ、ケインさんの笑うとこ、初めて見たかも」


 そう言うと、ケインさんは自然な微笑みを私に向けた。私もきっと、笑えていたと思う。


「それでは、さようならだ」「……そうですね、さようなら。それから、今までありがとうございました」


 私は引き金をひく。弾丸がケインさんの脳を貫き、ケインさんは旅立ってしまった。私は拳銃を置いて、倒れかかってきたケインさんを抱きしめる。


 彼を弔う言葉があるとすれば、きっと、これしかないだろう。

 私は、とびっきりの笑顔で言う。


「ミッション・コンプリート」

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