第49話 3月8日
聞き慣れたチャイムを合図に皆が一斉にパラパラと音を立てて目の前に伏せられているプリントを裏返す。私も同じように捲ろうとしたが、答案用紙を机から上手く剥がす事ができず、机の端までプリントを引き摺ってどうにか裏返し、逆さまになっている文字に気付いてプリントを一回転させ、他の人より少しだけ遅れて氏名を記入する。
一年生最後の期末試験。その最終日であり、最後の教科となる家庭科の筆記試験。数学のように計算をする必要も無ければ英語や国語のように文章を読み解く必要も無い。ただ問題文をしっかりと読んで、覚えた単語を空欄に書くだけ。そう言葉にすれば簡単だが、その覚えるというのがあまりに難しい。
何だっけ、と問題用紙と睨めっこをしながら考える。少しして浮かばなければ、そこは飛ばして次の問題へ移る。試験範囲の習った事は全て目を通したのだから、知らない訳が無い。忘れているだけなのだから、時間が経てば思い出せる可能性はある、というよりも思い出せる事に掛ける事しか現状できる事は何も無い。
家庭科で習う事は比較的生活で使えそうな物が多いため、その分私の記憶にも残りやすかった。とは言えやはり暗記が苦手というのには変わりが無く、見覚えのある文章が書かれているのに、よりにもよって空欄になっている所だけが記憶から抜け落ちていて、仕方無く空欄のままにして次の問題へ移る。
一先ず答案用紙の一番右下にある空欄を埋め終わり、顔を上げて黒板の上にある時計で時間を確認する。計算問題などの悩むような要素が無く、比較的スムーズに進められたお蔭でまだ二十分程時間が余っていたため、思い出せなかった箇所も含め、初めから問題を見直していく。
しかし一度思い出せなかった物がそう簡単に思い出せる訳も無く、空欄を埋められないまま時間が過ぎていく。見直しもしなければならないため、暫く考えて出て来なければ、当て嵌まりそうな言葉を記憶の中から引っ張り出してきて埋めておき、時間ぎりぎりで思い出せる可能性に懸けて回答欄の横に小さく印を付けて置いておく。
最後の見直しとして氏名が書かれているかを確認し、印を付けておいた問題を思い出そうと蒼依の髪を眺めていると、試験終了を告げるチャイムが鳴り響いた。
答案用紙が回収され、担当の先生が集計する間、周りからは早く解放されて騒ぎたいという気配が伝わってくる。優等生の鑑のような扱いをされる事もある蒼依も、いつもより少し気持ちが浮ついているのか、身体を横向きにして解放されるのを今か今かと待ち侘びている。
軈て集計が終わり、先生が号令を掛けると、皆が一斉に立ち上がり、礼が終わると同時に教室中が騒がしくなる。
「お疲れ、紅音」
「お疲れ~」
椅子に腰を下ろし、はぁ、と声にしながら息を吐き出し、机の上に身体を投げ出して脱力する。その体勢のまま前の席に座る蒼依の方へ顔を向ける。
「どうやった?」
「もしかしたら満点かもしれないけど、二問くらい全く自信が無いから……いつも通りかな」
蒼依は放り出された私の右手を握ってなんて事無い風に言った。
「私はがんばって九十点行けるかどうかやのに、蒼依は百点取れるかどうかなんやなぁ」
思わず出た溜め息と共に嫉妬と羨望の混じった心の内を漏らすと、蒼依は「記憶力には自信があるから」と笑って答えた。
「私の方が勉強時間長い筈なんやけどなぁ」
その呟きは聞こえなかったのか、蒼依から返事は無かった。
右腕を枕にして左手だけで問題用紙を四つ折りにして、それからゆっくりと起き上がると、右手に蒼依の手がついてくる。
この手は何、と訊く代わりに蒼依の横顔を見つめる。蒼依の視線は自らの右手、私と繋がっている手に注がれており、一向にこちらを見る気配が無い。仕方無く「どうしたん?」と今度は口に出して訊ねた。そうすると蒼依はふと我に返ったように私の方を見て「ううん」と頭を振った。
それから暫く私の右手で遊ぶ蒼依を眺めているうち、チャイムが鳴り、それとほぼ同時にやってきた先生は、チャイムが鳴り終わってすぐに号令も掛けず、私たちが静かになり始めたのを見計らって連絡事項を話し始めた。その頃にはさすがに蒼依も私の手を放し、前を向いて優等生らしく先生の話に耳を傾けていた。
連絡事項と言っても来週は答案返却日になっているだとか、短縮授業になるだとか、そういう既に知っている事ばかりを改めて報されただけだった。
ショートホームルームは五分としないうちに終わり、最後に提出物を忘れずに出すようにだけ注意して、先生は教室を出て行った。それをきっかけとして、次第に教室が騒がしくなる。
「紅音、今日はお弁当?」
蒼依に名前を呼ばれ、ふわふわとしていた意識を現実に引き戻す。
「うん。持って来てる」
「じゃあ一緒に食べよう」
「うん」
午後からの事を考えると空腹感すら薄れてしまう程に食欲が失せる。どうにかそれを紛らわせようと、椅子を蒼依が座っている椅子とくっつけ、蒼依の隣に座って密着するくらいに肩を寄せる。
「どうしたん?」
当然、それを見ていた蒼依が訊ねてくる。
「充電」
「……なるほどね」
蒼依はそれ以上深く訊ねてくる事は無く、鞄から弁当を取り出して私が使ってた机の上に置いた。
「今日はなんかいつも以上にいちゃいちゃしてんなぁ」
そう言いながら彩綾が弁当と椅子を持ってこちらにやってくる。
「体調悪いん?」
「いや、そういう訳じゃないっぽい」
見ると、心配してくれたのは夕夏だった。夕夏も自分の椅子を持って来て、通路を塞いでしまわないようにと彩綾を窓際に追いやって、本来椅子があるべき場所で落ち着いた。
「多分、アルバイトが嫌なだけでしょ?」
蒼依の言葉に、私は弁当箱の蓋を開けながら無言で頷いた。
「そっか、アルバイトかぁ」
「二人はアルバイトとかしないの?」
蒼依はそう訊ねると、水筒の蓋にお茶を少しだけ注ぎ入れ、それを飲み干した。
「やってみたいのはあるけど……」
「やっぱり時間が無いか」
「そうやねぇ。欲しい物もいっぱいあるけど、部活やってるとね」
彩綾が羨ましそうに話すのを聞いて、溜め息を吐きたくなるのを既の所で堪える。
「夕夏もカフェで働いてみたいとか言ってたやんな?」
「うん。憧れてはいる。でもいざやれって言われたらやりたくはないな」
「なんで? レストランとかやったら賄い料理とか貰えたりするし、その店の社員割りみたいなん使えたりするんちゃうの?」
「それはそうやけど、普通に接客が嫌やわ」
「夕夏が笑顔で接客してんの全く想像つかへんねんけど」
「別にそんなにこにこしながらやらんでもええやろ」
「でもマクドの店員さんとかめっちゃ笑顔でやってはるで?」
「いや、真顔の人も居るで?」
「でも笑顔で接客された方が嬉しいやん」
そんな夕夏と彩綾の軽い言い争いを観賞しながら、私と蒼依は黙々とご飯を口に運んでいく。
「それはそうかもしれんけど、そんなに人の顔見て注文する人居らんて」
「私めっちゃ見てるで?」
「彩綾は人と話す時めっちゃ目ぇ見てくるもんな。そら勘違いする人も居るわ」
「いや、それは別に目ぇ見てんのは関係無いやろ」
「でも相手の子はすぐに目ぇ逸らしたりするやろ?」
「夕夏とかね」
「……そうね」
夕夏は何かを言おうと開いた口を閉じて息を吐き出した。どうやら言い争いを制したのは彩綾らしい。二人は漸く弁当に手を付ける。
「そういえば、二人は春休みの予定とかある?」
不意に彩綾が訊ねてくる。何かあっただろうか、と私と蒼依は顔を見合わせ、私は首を傾げた。
「別に無いよね?」
「……今のところは」
少し考えてから頷く。蒼依とデートができれば、と三月の終わり頃と四月の初めの土日は空けてあるが、まだそれを蒼依に話していないし、デートをしようという話もできていないため、予定は今のところ入れられていない。
「個人でも特に無い感じ?」
彩綾に問われて蒼依がそちらに向いた。
「私は部活があるけど……確か三月の終わり頃は休みがあったと思う」
ちょっと待ってね、と蒼依は鞄に仕舞ったままにしていた携帯を取り出す。以前送ってもらった予定表を何度も見たので、わざわざ蒼依が確認しなくとも私が答えられるのだが、私が答える必要も無いかと黙ってやり過ごす。
「紅音は?」
じっと蒼依を見つめていた私は名前を呼ばれて彩綾の方へ顔を向けるが、私が見るのは相手の首元。彩綾や蒼依のように目を合わせたまま話すのは難しい。
「私もアルバイトがあるくらいかな」
「それっていつもと曜日一緒?」
「うん」
「土日は?」
「土日は……一応空けてあるけど……」
「蒼依、紅音がデートしたいって」
どうしようかと私が考えている隙に、私の言い淀んだ言葉を察した夕夏がそれを口にした。
「そんな事言ってないでしょ」
「したいやんなぁ?」
彩綾から目に見えない圧を感じたが、私としても決して否定できる物ではなかったので素直に頷いておく。
「ほら」
「人の彼女を脅すのやめてくれる?」
「脅してへんって。なぁ?」
「圧掛けんのやめな」
夕夏が彩綾の脇腹を小突くような仕草を見せ、彩綾が呻き声を上げて身体をくねらせる。
そうこうしている間に私は一足先に弁当を完食したが、満たされない空腹感に腹が立ち、この胸の奥から込み上げてくる衝動を抑えようと、蒼依の肩に軽く凭れかかって蒼依の太腿をスカート越しに優しく撫でる。
蒼依はちらりと私に視線を向け、自らの太腿に置かれた私の手に触れ、指を絡ませた後、するりと抜けて食事に戻った。
自分でもよく分からない不機嫌を抑えながら意識をみんなの会話に移す。気が付くと話は変わっており、デートスポットについて話していた。
「二人は遊園地とか行かへんの?」
「んー……少なくとも予定は無いね。というか紅音はあんまり遊園地好きじゃなさそう」
「そうなの?」
三人から視線を向けられ、どこを見れば良いのか分からず一通り視線を回した後、蒼依の太腿にある自分の手を見つめる。
「……遊園地はあんまり行かないかなぁ」
「ジェットコースターとか苦手なん?」
「いや、そういうのは別に怖くはないんやけど、楽しめる気はしないよねぇ」
「どういう事?」
「なるほどね」
彩綾が発した疑問そのままの表情で首を傾げる一方で、私の事をよく知ってくれている蒼依は二度三度と頷いていた。
「そういえば文化祭とか体育祭とかもあんまり楽しそうじゃなかったやんな」
夕夏は何となくではあるが分かってくれていそうだった。
「うん。そういう事」
「いや、どういう事やねん」
「要するにそもそも興味が無いって事でしょ?」
「まぁ、そうね」
「ユニバとか行った事無いの?」
突然、彩綾がそう訊ねてきて、「ユニバ?」と無意識的に鸚鵡返しする。
「そう、ユニバとか、あれ何て言うんやっけ?」
「テーマパーク?」
夕夏が横から助け船を出し「そう、それ!」と無駄によく響く声を上げながら彩綾は夕夏を指差した。
「テーマパークも……うん。最近行ってへんから分からんけど、それよりか水族館とか博物館の方が好きかなぁ」
「ゆったり眺めたりする方が好きなんだ」
「そうね」
「じゃあ……」
蒼依が何かを言いかけたようだが、続く言葉が出て来なかった。「どうしたん?」と顔を覗き込むと、蒼依はゆっくりと首を振って「ううん。気にしないで」と微笑んだ。
そう言われれば余計に気になってしまうのだが、蒼依が良いと言っているのだから、私はそれに従うだけだ。掘り下げなければならない場面があるとすれば、それはきっと謎解きをしている時くらいだろう。
「春休みにこの四人で遊園地でもどうかなぁって思っててんけど、紅音的には微妙か」
「あぁ、それで遊園地の話してたん?」
「うん。それで、どう?」
「私は……」
「私が楽しみ方教えてあげるからさぁ、行こう?」
彩綾はそう言いながら私を見て、コロッケらしき物を口に放り込んだ。私はそれを見なかった事にして蒼依の方を見る。
「……蒼依は行くの?」
「まぁ、紅音が行くなら」
「というか蒼依もあんまり遊園地を楽しむタイプには見えへんねんけど」
蒼依の太腿を指でなぞりながらそう言うと、彩綾と夕夏が「確かに」と口を揃えて同意する。
「絶叫マシンとか乗って叫んでるの想像付かんもん」
「お化け屋敷とかあるじゃん」
「絶対お化け屋敷でも叫んだりせぇへんやろ」
「もちろん」
蒼依は鼻を鳴らして言った。確かに蒼依が叫ぶ姿は全く想像できない。驚いた時にどんな声を出すのかすらも想像できない。
「蒼依も絶叫マシンとかはあんまり?」
「私も怖くはないけどって感じ」
蒼依が淡々とした調子でそう答えると、彩綾と夕夏が黙って顔を見合わせる。
「夕夏、このダウナー系二人と遊園地は無理な気がしてきた」
彩綾は内緒話をするように夕夏に顔を寄せ、手で口を覆って声のボリュームを落としたが、この騒がしい教室の中でも普通に聞き取れていた。
「だから言うたやん」
「いや、夕夏と同じタイプの可能性を信じてたんやん」
「夕夏と同じタイプって?」
「怖いのが苦手でめっちゃ叫ぶけどなんだかんだで楽しんでるタイプ」
「そうなんだ」
蒼依が頷き、その向かい側で彩綾が夕夏にまたしても小突かれていた。
「紅音はお化け屋敷は平気?」
「無理」
「だと思った」
確実に分かっていて訊いた蒼依は眉をハの字にして苦笑する。
「この中で一番びびりなんちゃう? 紅音って」
夕夏がそう言うと、蒼依と彩綾が鏡合わせのようにうんうんと頷いた。私も自分がびびりであるという自覚がある上に、この一年で何度も驚かされた経験があるため、否定する材料すらも無かった。
「別に四人で遊ぶだけなら遊園地じゃなくても良いんじゃないの?」
「まぁね。単に私がユニバに行きたかっただけやし」
「ラウンドワンとかどう? あそこなら紅音も楽しめるんじゃない? 身体動かすの好きでしょ?」
「まぁ、そうね」
微かに罪悪感を抱きつつ頷いた。
「あぁ、ラウンドワン良いかも。どう?」
顔を上げると、彩綾が私を見ていた。
「私は良いけど……、三人はええの?」
何もかもを私に合わせてもらっているように思えて、嬉しさよりも罪悪感が上回ってしまっていた。
「うん。私は紅音が居るならどこでも」
蒼依はそう言って私の手を握る。
「私は四人で遊びたいんやし、紅音一人楽しめへんとこに行っても詰まらんしな」
彩綾は危うく好きになってしまいそうなくらい優しい笑みを浮かべて言った。夕夏はその横で頷いていた。
「場所はどうしよ。伏見のとこしか知らんねんけど」
彩綾が携帯を取り出し、慣れた手付きで文字を打ち込む。
「私は分からないし、近ければどこでも」
「伏見やから、蒼依は一番近いから良いとして、紅音は大丈夫?」
「えっ? うん。伏見やろ?」
ぼうっと蒼依の方に意識をやっていた私は慌てて答える。
「そう。桃山駅から徒歩かバスかで……二十分くらいかな?」
「やったら全然大丈夫。寧ろみんなが奈良まで来る方が大変やろ」
さすがにこれ以上気を遣ってもらうのには耐えられそうになかった。
「それはそう。大阪とかやったら?」
「却下で」
奈良に近い所に住んでいるため、左隣にある大阪に行く方が早いのではないかと思われるが、私の住んでいる場所と大阪府の間には山があり、電車もその山を迂回しているため、その迂回する時間を考えれば京都に行くのと大差無い。それに加えて大阪方面に行くと定期券が使えないため、無駄な出費になってしまう。
「遠いか」
「うん」
「じゃあ伏見で」
「日にちは?」
「蒼依の休みって三月のラストの一週間やっけ?」
「うん。別に紅音とデートする以外に予定は無いからどこでも」
何の話し合いも無しに宣言されたデートに驚き、身体を起こして蒼依を見ると、「するでしょ?」と訊かれたため、私は迷わず首を縦に振った。
「で、その蒼依の大好きな紅音の空いてる日は?」
「私は最後の土日と、平日は月曜日と水曜日以外は空いてる」
少し前にも答えたような気がしたが、これくらいの事で何か損をするわけでもないので、余計な疑問として捨てておく。
「おっけー。じゃあどうしよ。金曜とかにする? 土日よりは空いてそうやし」
「予約できるの?」
蒼依が身を乗り出して彩綾の持つ携帯を覗き込もうとすると、彩綾は携帯を机に置いて見えやすいようにしてくれる。
「できそうやけど……あっ、無理やわ。来週までしか無理っぽい」
「本当だ。まぁ、忘れてなかったら大丈夫でしょ」
やたらと蒼依が積極的だが、見た目以上に楽しみにしているのだろうか。確かに蒼依と二人きりでのデートは別日にできそうではあるのだが、欲を言えばそのみんなで集まる日も蒼依と二人きりで居たい気持ちが強い。だからと言って他二人と遊びたくないという訳ではないのだが、やはり蒼依の事は優先順位を高くしたくなってしまう。
「忘れそうやし、一週間前になったらグループで言うて」
「忘れてたらごめん」
「任せろ」
「こういう時の紅音の任せろ程信用ならない物はないよね」
「失礼な」
そうこうしている内に教室から段々と人が減っていく。時計を見ると、そろそろ部活が始まる時間のようだった。
「私らもそろそろ行こか」
「そうね」
微かな疎外感を覚えながら、みんなと一緒に席を立ち、椅子を元の場所に戻す。
「じゃあ細かい予定はまた今度話そう」
軽い鞄を肩に掛け、彩綾が言うと、三人それぞれに返事をして教室を出る。
「それじゃあまた」
「あっ、ちょっと待って」
さっさと別れて部活に行こうとする彩綾を呼び止める。
「私職員室の方寄って行くし、提出物渡してくれたら出しとくで?」
「あっ、ほんまや。完全に忘れてたわ」
彩綾はいそいそと鞄を開け、分厚いファイルとノートを取り出した。私も自分の分を取り出し、彩綾と夕夏から受け取って胸に抱える。
「ありがとうな」
「うん。ついでやしな」
「ありがとう」
「じゃあ二人も部活がんばってな」
「うん。紅音もがんばってね」
犬の尻尾のように手を振る彩綾と手首から先だけを揺らして小さく手を振る夕夏に手を振り返し、蒼依と一緒に二人とは反対側へ歩き出す。
「蒼依の分も出しとくで?」
「いや、私もついていくから、大丈夫」
「そう?」
「ちゃんと充電したいしね」
ドキッとするというのはこういう感覚なのだろうと、私は言葉を失い、ただ頷くだけだった。
廊下を曲がり、職員室のある一棟に繋がる渡り廊下を歩く。ここはいつしか初めて学校で蒼依とキスをした場所だ。
そんな事を思い出したからなのか、私は無意識的に立ち止まる。それから蒼依に視線を送ると、壁際に追い詰められる。
人の話し声が遠くから聞こえてくるが、近くからは足音も何も聞こえない。それを改めて認識すると、蒼依に触れたい衝動に駆られる。しかし生憎と二人から荷物を受け取った所為で両手は塞がっており、私からはどうする事もできなかった。
一歩、また一歩と蒼依が迫ってきて、私の背中が壁に張り付く。それでも蒼依は距離を縮めてきて、蒼依の暖かい手が頬に触れ、私は目を瞑る。
暗闇の中、腰に腕が回され、引き寄せられると同時に唇が重なった。私は荷物を落とさないように腕に力を込めるが、これでは蒼依に抵抗する事ができない。
まぁいいか、と蒼依が満足するまで付き合う事にした。そう決めた途端、蒼依の腕から力が抜け、あっさりと唇が離れていった。
ゆっくりと目を開けると、蒼依に髪を撫でられる。
「もう良いの?」
「うん。怒られても怖いしね」
蒼依は声を潜めて言った。どういう事かと首を傾げていると、視界の端から先生が現れ、目が合った。その瞬間、心臓を掴まれたように息が出来なくなる。
「何してんねや、こんなとこで」
咎めるようなきつい口調に、全身が冷えていくのを感じる。
「荷物を落としちゃって、拾ってたんです」
蒼依は私が腕に抱えているノートとファイルを指差し、余所行きの柔らかい声で言った。
「あぁ、そうなんか。他落としてたりせぇへんか?」
「はい。大丈夫です」
「そうか。気ぃ付けてな」
先生はそれだけ言うと、廊下の向こうへ歩き去って行った。その背中をぼうっと眺めていると、蒼依に腕を引かれ、足が縺れそうになりながらついて行く。
「ごめん、結局怒られちゃったな」
「えっ、ううん。大丈夫。ありがとう」
「やっぱり学校でやるのは危ないな」
「それはもう本当にそう」
「とりあえずそれ出しに行こうか」
「うん」
職員室の前まで移動し、指定された箱にそれぞれファイルとノートを提出する。
「こんなけやんな?」
「うん」
念の為鞄の中を探るが、これでまだ提出物があるとすれば、彩綾と夕夏も出せていない事になってしまう。蒼依も大丈夫だと言っているので、大丈夫なのだろうと思いながらも、心の隅にはまだ不安が残っていた。
「もう部活行く?」
「うん。さすがにね。紅音もそろそろでしょ?」
「うん」
「ほら、そうやって俯いてないで、嘘でも良いから笑って」
「それで笑えるなら苦労せぇへんねんけどなぁ」
「もう」
蒼依の手が伸びてきて、頬を軽く引っ張られる。痛くはないのだが、恐らく変な顔になっているので、あまり見られたくない。
「また夜話そう」
「うん」
頬を抓られたまま頷く。
「じゃあもう行くからね?」
「うん。がんばってな」
「ありがとう。紅音もがんばってね」
「うん」
漸く頬が解放され、手を振り返す。
蒼依が廊下の向こうまで行くのを見送ってやろうと思い、その場から動かず背中を見つめていると、視線に気付いたのか何なのか、不意に蒼依が振り向き、早く行けとジェスチャーをしていた。
私は再び手を振り、重い足を階段に向けて動かした。
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