第48話 2月28日
清掃の時間が終わり、教室に戻ってきた私は蒼依の席に荷物を移動させる。
「じゃあ私は部活行ってくるから」
蒼依は鞄を肩に提げ、私の頬を撫でた。
「うん。ここで待ってるし」
そう言いながら頬に触れる蒼依の手を取り、指を絡ませて捕まえる。それから教室から私たち以外の最後の一人が出て行ったのを確認してから一歩足を踏み出して蒼依に近付き、自由に動かせる方の手で蒼依の頬に触れる。そして「了解」と微笑む蒼依の唇に狙いを定め、キスをした。
目を瞑り、誰かに見られないよう、ほんの僅かな幸せに浸った後、そっと身体を離して見つめ合うと、自然と笑みが溢れる。
「じゃあ、がんばってね」
「うん。紅音も、がんばってね」
蒼依が私に背を向け、繋いでいた手がするりと抜ける。形容し難い喪失感を握り締め、試験勉強期間にも拘わらず部活に向かう蒼依を見送る。
今週は学年最後の期末試験を一週間後に控えた試験勉強期間なので、本来ならどの部活も休みなのだが、明後日金曜日に行われる卒業式で演奏する事になっている吹奏楽部はその練習の為、特別に部活をやっても良いとされているらしい。
中学生の時、私も卒業式で演奏させられたが、あまりの眠気に抗えず、怒られてしまった記憶がある。自慢する事では決して無いが、自分が行きたいと言った映画館やコンサートでも眠ってしまう私が興味の無い式典で起きていられる訳が無かった。
そんな事を思い出しつつ、蒼依の席に座り、数学の教科書と試験勉強用のノートを机の上に広げたが、すぐに気が変わり、音楽の授業で貰ったプリントが纏められたファイルと音楽の教科書を取り出し、数学の教科書の上に重ねて置いた。
芸術の試験は実技が含まれているからなのか、筆記の試験範囲はそれ程多く感じない。しかし歴史などの個人的に全くと言って良い程に興味の無い事も試験範囲に含まれているため、直前に覚えようとしても頭が覚えようとしてくれないのだ。
一年の締め括りで中途半端な点数を取って悔しい思いはしたくない。ならばそれ相応の努力はしなければならない。いつかのように気分じゃないからと怠ける訳にはいかない。
「よし、やるかぁ」
ぐぐっと身体を伸ばし、脱力すると同時に肺に溜まった息を吐き出した後、パチン、と手を叩き、わざと声に出して自らを鼓舞する。
ファイルを開き、試験範囲の始めの所からノートに書き写していく。その際、大事だと思われる単語や数字などを後で勉強する際に隠せるよう橙色のペンに変えて書く。それを今日やった所まで繰り返し、暗記用のノートを作り上げた。
実を言うと、音楽の勉強は今まで殆どしていなかった為に、今こうして初めからやる羽目になっている。更にその所為で初めの方に授業で教わったのであろう単語に殆ど見覚えが無いというような状態だった。毎日とまでは行かないが、頻繁にやっている苦手な生物や歴史などは恐らく今抜き打ちで試験をやると言われてもそれなりの点数は取れるだろう。
一通り試験範囲を纏め終えると、想像以上の自分の不出来に溜め息を吐き、少し疲れの溜まった腕をだらりと垂らして一休みするついでに顔を上げ、黒板の上に掛けてある時計を見る。長針がいつの間にか一周回っていた。
我ながら長く集中していたものだと感心しつつ、席を立って窓に近付き、閉め切られた教室の外から聞こえてくる音に耳を傾けながら音楽室の方を見つめる。
いつもなら運動部たちの掛け声や喚声などが聞こえてくるのだが、試験勉強期間である今日は吹奏楽部の練習する音だけが耳に入ってくる。
卒業式は明後日なので、恐らくは個人練習ではなく、音楽室に集まって合奏をしているのだろう。蒼依から聞いた話によると、明日は体育館で卒業式の設営と予行練習があり、そこに蒼依たち吹奏楽部も参加する為、今日がちゃんと合奏練習ができる最後の日になるらしい。
蒼依が忙しそうにしているのを聞く度に、ここの吹奏楽部に入らなくて良かった、と思う。その一方で、蒼依が楽しそうに部活の話をしているのを聞いていると、入っておけば良かったとも思う。
その二つを天秤に乗せた時、やはり私は入らなくて正解だったのだと思える。アルバイトでも失敗続きで頻繁に軽いパニックを起こして周りに迷惑を掛けている私がここの吹奏楽部で上手くやっていけるとは到底思えない。
ふぅ、と息を吐き出し、マイナスの方向へ向かっていこうとする思考を吹き飛ばす。ふと空を見ると、今朝と変わらない澄んだ青空が見えた。連日の雨と強い風の所為で花粉が多く飛んでいるという話もあったが、遠くに見える山も街も霞んでいる様子は全く無い。
吹奏楽部の音が止むと、途端に静かになり、妙な寂しさに襲われる。少ししてまた演奏が始まるが、一度芽生えた寂しさは無くなってくれなかった。
私はもう一度息を吐き、席に戻って勉強を再開する。ずっと同じ事をするのは飽きるので、十八時までの微妙に余った時間に苦手な生物の単語を覚えようと思い立ち、机の上に出していた音楽のファイルと教科書、それからすっかり忘れていた数学の教科書などを鞄に仕舞い、入れ替わりで生物の教科書とノートを机の上に出す。
よし、と声にはせずに息を吐き出し、シャープペンシルを持って重要な単語とその周辺情報を前回の続き部分に書き連ねていく。
蒼依や他の人と一緒に勉強をする時は、一緒にやる必要性を作る意味も込めてそれぞれ問題を出し合う形式で単語やそれに関する物事を頭に入れているが、それができない一人の時はこうして只管に手を動かし、文字に起こして頭に入れている。
よく国語の授業などで文章の音読をさせられるが、あれは信じられないくらいに内容が頭に入ってこない。全くという訳ではないのだが、そうするくらいなら一人で黙読していた方が内容を理解できる。とは言え黙読していても、考え事をしている時のように自身の心の声が煩くて内容を理解できない事も少なくないので、手を痛める可能性のある方法だとしても、結局はこうして手で書いて覚える方が性に合っている。
暫く経ち、生物のノートを捲ったタイミングで、突然夢から現実に戻ってきたかのように集中が途切れた。教室には誰も居らず、ただ空気の流れる音だけが聞こえる。
教室の掛け時計を見ようと顔を上げた直後、自分の左手首にある腕時計の存在を思い出して袖を捲る。私が身に付けている物の中で一番の輝きを持つそれはもうすぐ十八時になる事を示していた。
今日は本来部活動が無い日なので、居残りで練習する事もできない筈だ。そうすると蒼依は十八時を過ぎてすぐくらいに帰ってくる事になるが、勉強を再開するにはあまりに微妙な時間だ。
頬杖を突き、シャープペンシルの先をノートに落として点を打つ。それから気紛れを起こし、妹の絵と蒼依の顔を思い浮かべながら何も書く予定の無い空白に蒼依の顔を描こうと試みる。
妹に絵の才能があり、妹の絵を間近で何度も見てきたからと言って、私に絵の才能がある訳でも無ければ技術も無い。
震える手で蛇のように曲がりくねった輪郭を描き、蒼依の癖っ毛をイメージした波線を描いたところで、可愛さなど欠片も無い落書きが出来上がり、ペンをノートの上に放り投げた。
分かりきっていた事にショックを受けている自分が馬鹿らしくなり、席を立って再び窓の方へ移動する。気付けば人の声どころか、楽器の音も聞こえない。考えてみると、部活が十八時に終わるとすれば、それまでに楽器を片付け、音楽室を元通りに整頓する必要がある筈だ。音が聞こえてこないのは当然の事だ。
今のうちに帰る用意をしておこうと、机の上の物を片付け、暇潰しも兼ねてお手洗いを済ませておく。残りの時間を蒼依の席に座り、机に突っ伏して時間が過ぎるのを待つ。
少しして、廊下の方から微かに人の笑い声が聞こえてくる。反響していて何を話しているのかは全く分からないが、楽しそうにしているそれは確かにこちらの方へ近付いてきており、その中に蒼依とよく似た声を見つけた。
その声が何となく私と一緒に居る時よりも楽しそうに聞こえて、迎えに行こうと上げた顔を再び組んだ腕に埋めて寝た振りをする。そうしている内に声は近付いてきて、「またね」「ばいばい」とそれぞれに別れる声が聞こえてきた。その中から近付いてくる足音は一つ、話し声は遠ざかっていく。
軈てその近付いてきた足音は私の居る教室の扉を開いた。
「紅音?」
聞き慣れた低い声が優しく私の名前を呼ぶ。床の木が軋み、椅子や机にぶつかってガタガタと音を立てながら近付いてきて、私のすぐ傍で止まった。
「寝てるの?」
反応したくなるのを抑えながら無視をする。そうすると、蒼依がしゃがむ気配がして、何をされるのかと少し身構える。その次の瞬間、蒼依のひんやりと冷たい手が太腿を撫でながらスカートの中に入り込んできた。
「うぐっ」
情けなくもか細く、可愛らしさなど微塵も無い悲鳴を漏らしながら、私はその擽ったい感触から逃れようと反射的に脚を上げると、机に思い切りぶつかってガタンと大きな音が鳴った。
「びっくりしたぁ。起きてるんじゃん」
蒼依は驚いた勢いでバランスを崩してしまっていたようで、私が座っている椅子を引っ張って身体を起こし、そのままゆっくりと立ち上がる。
「起こすなら普通に起こしてよ」
「寝た振りだった癖に」
「頭撫でたりしてくれるかなぁって思ってたのに……」
わざと拗ねたように呟きながら立ち上がり、机の横に掛けていた鞄を肩に掛ける。
「それで寝た振りしてたん?」
「そうしたら頭も撫でてくれへんし、キスもしてくれへんし。もしかしたら擽ってくるかも、とは思ってたけど、まさかセクハラとは……」
「それは……うん。ごめん」
「わぁ素直」
帰ろう、と蒼依の右手を取り、ずれてしまった机はそのままに教室を後にする。
階段を降りて昇降口の方を見ると、蒼依と同じ吹奏楽部員らしき人たちが昇降口の前で何やら楽しそうに話をしていた。繋いでいた手を放し、何となくの忌避感を抱きながら隣を通り過ぎると、ちらりとこちらを見る人も居たが、案外何も言われる事は無かった。
よく分からない会話を聞きながら靴を履き替え、蒼依とも何も喋らずにまた隣を通り過ぎる。十八時を過ぎて青かった空には赤色が滲み始めており、コートを着なくても快適に過ごせる程に暖かい。雪も殆ど降らなかった所為で存在感が薄かった冬の終わりを感じる。
絵に描いたような夕焼けを眺めながら駅までの下り坂をぼうっと歩く。先程集まっていた人たちや蒼依と一緒に教室の近くまで来ていた人たちはあんなにも楽しそうに話していたのに、今日の私はおかしいくらい話す事が浮かばない。何か話さなければと思えば思う程、どんな話をすれば良いのか分からなくなってくる。
横目に蒼依を見ると、何故か蒼依はじっと私の方を見ていた。
「どうしたん?」
「えっ、ううん」
慌てて首を振り、視線をアスファルトに戻すと、蒼依の手が私の髪を一束掬い上げ、さらさらと落とす。
「何をそんな悩んでるん?」
「……悩んでるというか……何話してたっけなぁって思って……」
そう言うと、今度は頬を軽く突かれる。
「紅音って時間が経つに連れてどんどんこう……何というか、可愛くなってきたよね」
明らかに悪口のような言葉を濁した言い方にむっとするが、言い返す言葉も、この気持ちを表す言葉すらも浮かばず、開いた口を再び閉じた。
気まずい沈黙が生まれ、気分が沈んでいく。そこで頭に浮かんできたのは、教室に居た時に聞こえてきた蒼依を含む吹奏楽部員の楽しそうな声だった。何を話していたのかは知らないし、あの時の笑い声の中に蒼依が居たのかも分からない。けれども私にはあんな風に声を出して大きく笑えるような話ができない。蒼依を楽しませるような話はできない。
「紅音、もしかして体調悪かったりする?」
私は黙って首を振った。
「何か悩みがあるなら聞くけど?」
蒼依が優しく問い掛けてくる。私も口を開いてはみるものの、頭の中で声が考える間も無いくらい引っ切り無しに流れ続けていて、どれを口にすれば良いのか分からず、結局黙り込む。
少しして、蒼依から溜め息が聞こえてきて、胸が締め付けられたような感覚に襲われ、目が熱くなる。
「紅音、ちょっとこっち来て」
蒼依が突然私の手を引っ張って交差点を左に曲がる。こっちの道は以前窯か何かの遺跡があった公園に続く道だ。きっと気分転換か何かをしようとしてくれているのだろうと、私は泣きそうになるのを堪えながら、相も変わらず黙って付いていく。
以前と変わらず赤い錆に塗れた看板を通り過ぎ、階段を上って公園の中に入る。
「どこ行くん?」
何となくここが目的地だろうと予想しつつ、訊ねてみると、蒼依は不意に立ち止まり、こちらへ振り返った。
「何するか分かってる癖に」
やっぱり、と思いながら繋いでいた手を放し、私の逃げ場を無くすように腰に回される手を受け入れる。頬に触れる蒼依の手に導かれるように顔を上げて、夕陽で少し赤く見える蒼依の顔をほんの一瞬見て目を瞑ると、どこか安心感さえ覚えるような、柔らかく優しい唇の感触がした。
手のやり場に困って蒼依のブレザーを掴むまでの間に、啄むような短いキスを何度もされ、上手く息ができなくて戸惑っていた所に、長く、深いキスをされる。口の中を蒼依の柔らかい舌に荒らされ、私の意思とは関係無く声が漏れる。
「可愛い」
蒼依の声が聞こえて、目を開けると、蒼依の顔が迫ってきて、また口付けをされる。ちょっと待って、と口を塞がれた状態で蒼依の胸を叩いて抗議すると、少ししてから解放され、ふらふらと上手く力の入らない足で蒼依から距離を取る。
「ちょっと、大丈夫?」
「……馬鹿」
精一杯の罵倒を投げる。蒼依に手を掴まれ、それを支えにして貰っておきながら睨み付けるが、蒼依は憎たらしい程の笑顔を浮かべていた。
「頭の中すっきりした?」
蒼依に言われて気付く。いつの間にかあれ程騒がしかった心の声が殆ど聞こえなくなっていた。
「うん」
思えば蒼依にキスをされた瞬間、若しくはその少し前から、頭の中は蒼依から与えられる感覚で一杯になっていた。
「それは良かった」
「……最近こんなんばっかりな気がする」
「こんなんって?」
「学校でもちゅーしたり抱き付いたりして、今日みたいに……何?」
私が話し始めると、何故か蒼依が堪えきれなくなったように肩を震わせた。
「いや、ごめん。紅音っていっつもキスって言うのに、ちゅーって言うのがちょっと面白くて」
蒼依はそう言い訳する最中にも笑い声を含ませていた。
「何なんもう……」
「そろそろ帰ろうか」
「うん」
差し出された左手を取り、指を絡ませ、公演を後にする。
気付けば夕焼け空も黒に浸食され、周りにある家々の明かりが目立つようになっていた。どれだけ時間が経ったのだろうかと、不安を感じながら携帯で時間を確認すると、また蒼依がくすりと笑った。
「何?」
「いや、私もそうなんだけど、未だに腕時計じゃなくて携帯見ちゃうんだよね」
「あぁ、確かに」
着けた瞬間は慣れない異物感がそこにあり、何度も何度も触ってしまうのだが、一度忘れると自らの身体と一体化してしまったかのようにその存在を忘れてしまい、ただの大きなアクセサリーと化してしまっている。
「私もさっき教室に居た時とかこっち見ずにあの黒板の上にある時計見てたもんなぁ」
「長年の癖だよね」
うん、と相槌を打つと、沈黙が流れる。以前は平気だった筈のこの空気感に耐えられなかった私は咄嗟に浮かんだ事を訊ねてみる。
「そういえば、蒼依って家でも時計着けてる?」
「ううん。制服脱いだ時に一緒に外してる。別に着けてても良いんだけど、帰ったらすぐ夕飯を食べてお風呂入って、だからね」
「そっか。そうやんな」
あまりに当然の答えに、私は頷くしかなかった。
「もしかしてずっと着けてるん?」
「いや、さすがにお風呂入る時とかは外してるけど……」
何か悩みがあって訊いた訳でもなかったため、またしても返答に困って視線を落とす。
「ほら、別に怒ってるんじゃないんだから、会話がちょっと途切れたからってすぐに落ち込まない」
「落ち込んではないと思う。多分」
自分で言っていて説得力が感じられず、尻窄みになる。
「明らかにテンション低いって分かるからね?」
「そう?」
「うん。紅音って考え事してる時は声掛けても気付かないくらい上の空だし、さっきみたいに頭の中で声がしてるって言ってたような時はすごい不機嫌そうに見えるし、というか実際不機嫌やし。歩くペースもすごい遅くなるし……」
まだまだ続きそうな不満を聞いているうちに、これはもしかして説教をされているのだろうか、と思い至る。そうするとまたその声に邪魔をされて蒼依の言葉を聞き逃した。
「……って言ってる間にも考え事してて聞いてなかったでしょ」
「あっ、うん。よくお分かりで」
説教をされている身でありながら頬が吊り上がるのを感じる。
「まぁ、良いけど。何か悩み事があるんだったら気軽に言ってね?」
それならばと真っ先に浮かんだ事をぶつけてみる。
「アルバイトが嫌」
「それは……がんばって」
「期末試験が不安」
「それもがんばって」
「蒼依の事が好き」
「私も紅音の事が好きだよ」
まさか即答されるとは思っておらず、えへ、と変な笑い声が漏れた。
「何これ」
「蒼依の一問一答お悩み相談室」
「そんなの開いた覚えないんだけど」
いつの間にか、普段通りの下らない会話ができるようになっていた。あまりそれを意識しすぎると、また思考の沼に嵌まってしまうため、できる限り何も考えずに喋る。きっと友人との会話とはそういう物なのだろう。
いつか歩いた大通りに出て、黄檗駅に向けて歩く。辺りはすっかり夜の雰囲気に包まれており、車の走行音がいつもより騒がしく聞こえる。春を感じさせてくれていた陽気も無くなり、心做しか蒼依の手も冷たくなり始めていた。
「今度の試験が終わったらもう一年が終わりなんだよね」
蒼依がふと呟いた。
「そうね」
「なんか、早くない? ちょっと前に紅音と付き合ったような気がする」
「それは嘘でしょ。だってあれ夏休みくらいやろ?」
「いや、夏休み前でしょ?」
「あれ? 夏休みの時ってもう付き合ってたんやっけ?」
言いながら夏休み頃の事を思い返してみると、プールでの嫌な記憶が蘇ってきて、それを追い払うついでにそれよりも前の記憶を掘り起こす。
「まさか記念日を覚えてない……?」
「……」
右から鋭い視線を感じ、私は顔を左に向けて視線を受け流そうとする。しかし次の瞬間、蒼依の手が私の頬に当てられ、半ば強制的に蒼依の方へ向かされた。
「念の為に言っておくと、怒ってはないから。その上で訊くけど、私たちが付き合い始めたのは何月何日でしょうか」
頬に触れていた手が離れ、ゆっくりと視線を足元に落としていきながら不出来な頭を回す。蒼依曰く夏休み前には付き合っていたようだが、それ以前で恋人らしい事をしていた記憶が全くと言って良い程に無い。
蒼依との思い出を振り返っていくと、通学路の途中にある公園でキスをされた記憶が蘇り、それに伴ってそこが告白現場だという事を思い出した。何となく、曇っていたような気がするが、そんな事を思い出しても仕方が無い。
「ヒントは夏」
入学式の日に初めて出会ったというのに、春に恋人関係になるのはあまりに早い。探せばそういう人も居るのだろうが、さすがにそんなにすぐに付き合ってはいないと断言できる。
「制限時間は駅に着くまでね」
ちらりと前方を確認すると、あと五分も掛からないであろう遠くの場所に、駅前のバスロータリーらしき空間と、その向かいにある萬福寺と書かれている看板が見えた。
「もう着くやん」
「だからほら、早く」
蒼依が急かすように私と繋いだ手を揺らす。
「じゃあ七月七日で」
「そんなロマンチックな記念日じゃない」
「六月?」
もう少しヒントをくれないかと訊ねてみるが、蒼依は答えてくれそうになかった。
駅が少しずつ近付いてくる中、頭に浮かぶのは学校の渡り廊下や駅のホームなどで蒼依とキスをした時の事ばかりで、告白された時の記憶が朧気に浮かんできても、肝心の日にちまでは思い出せない。
首を右へ左へ傾け、何かが起きて思い出せないかと思ったが、そんな小さな奇跡も起こる事は無く、あっさりと駅の前に来てしまった。
「時間切れ。ということで、正解は六月十二日でした」
「二倍じゃん」
「覚え方の話は良いから」
思い付いた言葉を頭で考えるより先に口にして、それからちゃんとその事実を受け止める。
「六月ってめっちゃ早くない? 出会って二ヶ月しか経ってへんやん」
「事実なんだから仕方無いじゃん」
「待って。浩二も二ヶ月しか経ってないのに告白してきたん?」
邪魔にならない道の端で立ち止まり、蒼依と向かい合って両手を繋ぐ。
「そういう事になるね」
「早過ぎん?」
「今思うとね、本当に早い」
「ね、ほんまに」
いつの間にか、半年記念日も過ぎてしまっていたらしい。その事実に気付いた直後、とある事が気になった。
「蒼依ってそういう記念日とか何かしたい人?」
蒼依の顔を見ると、繋いでいた手を放され、蒼依の右手が私の頬に触れ、髪を掻き分けて耳を撫でる。
「別に祝ったりとかはしなくても良いとは思ってるけど、まぁ、覚えていてくれたら嬉しいよね」
「……ごめん」
目を逸らし、とりあえずの謝罪を口にしておく。
「でも……そうね。記念日として祝うと、ちょっと贅沢をする口実にはなるから、一年記念は何かしようか」
「何かって?」
「私はもちろん部活があるだろうし、紅音もアルバイトか何かはあるかもしれないし……、夕飯だけでも食べに行ったりしたいかな」
「ん。了解」
メモを取っておこうかとも一瞬思ったが、これくらいなら覚えていられるだろうと頷く。
「じゃあもう遅いし、帰ろうか」
「もう電車来る?」
「さぁ? 分からないけど……まぁ、もう遅いから」
蒼依は親指で私の眦の辺りを優しく捏ねた後、私の髪を撫でる。擽ったい感触が首を通って背中に広がり、蒼依が手を放すとその心地良い感覚は消えてしまった。
偶にはお返しをしてやろうと、徐に手を伸ばし、蒼依の頭に手の平を触れさせ、いつも自分がされているのをイメージして撫でてやるが、その間ずっと蒼依は私の事を見つめてきて、視線に耐えられなくなった私は手を引っ込める。
「あれ、もう終わり?」
「終わり。帰ろう」
蒼依から逃げるように歩き出すと、すぐに蒼依が隣に並んで歩く。少し寂しそうな表情をしているのを見て見ぬ振りをして、順番に改札を通り、いつものように手を振り合ってそれぞれのホームに分かれる。
階段を降りて、何となく向かい側のホームに目を向けると、偶然そこに蒼依が居て、分かっていたかのように目が合った。頬を緩ませながら手を振ってやると、蒼依も小さく胸の前で手を振り返してくれた。
目線を外す口実として携帯を取り出し、その隙にいつもの場所に移動する。軈て電車が到着し、仕事帰りの人たちで一杯になった車輌に乗り込む。それから携帯でカレンダーのアプリを起動させ、忘れないうちにと記念日である六月十二日に印を付けておく。
きっと自力で思い出さない限りはこのアプリを開く事も無いのだろうな、と自嘲気味に笑った。
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