第46話 2月14日

 朝、目を覚ました私はひんやりとした室温から身を守ろうと、足元で塊になっている布団を広げて頭まで覆い隠す。そうすると今度はパジャマが膝の辺りまで捲れてしまい、冷気が裸になった足を冷やす。


 わざわざ直すのもめんどうになり、諦めて布団を畳むついでに身体を起こし、ベッドから出て立ち上がると、不意に意識がすぅっと身体から離れていくような感覚に襲われ、ベッドに尻餅を突く。後ろにベッドがあった事を幸運に思いながら頭を抑え、息を吐いた。

いつ起きるか分からないので驚きはするが、寝起きや風呂上がりなど、それなりの頻度で襲われるため、またか、と慣れてきてしまっている。


 座ったついでにサイドテーブルに置いていた眼鏡を掛け、携帯で時間を確認する。時間は後五分程で六時になるというところで、普段とそれ程変わらない。喉の渇きを感じた私は、立ち眩みを警戒しつつゆっくりと立ち上がり、手櫛で軽く髪を整えながら扉を開けて部屋を出る。


 下の階から漏れ出した光を頼りに階段を降りて両親の姿を探す。父は既に仕事に出ており、母は台所に立っていた。


「おはよう」


 声を掛けると、母は蛇口の水を止めてこちらへ振り返った。


「あぁ、おはよう。ココア飲むか?」

「うん。ありがとう」


 私が返事をする前にはもうコップを取って準備をし始めていた母に礼を言ってからリビングを抜け、洗面所で顔を洗って目を覚ます。


 リビングに戻って炬燵で暖を取りながら朝食に菓子パンを食べる。早起きをするのは良いものの、いつもこれと言ってやらなければいけない事がある訳ではない。なのでもう少しのんびり寝ていてもいいのだが、今日に限ってはちゃんとやらなければいけない事があった。


 ココアを飲み干し、妹が起きてくる前に歯磨きと着替えを済ませ、鞄を持ってリビングに戻ってきた私は、冷蔵庫から昨晩の内に作っておいたチョコを取り出す。


「どう? 出来てる?」


 私と入れ替わりで炬燵に入っている母が訊ねてくる。


「うん。大丈夫そう」


 ネット上で見つけたレシピを頼りに作ったチョコは、やはり店で売られている物よりは形も悪く、一目見ただけで手作りだと分かる仕上がりになっている。とは言え特にこれと言ってアレンジを加えた訳でもなく、砂糖と塩を間違えるなどという初歩的なミスは、入れ物の中身が入れ替えられていない限りはしていないので、味に問題は無いだろう。


 歯磨きをする前に確かめるべきだったかと思ったが、よく考えてみると、今ここでミスが発覚したとしても、代わりを用意する事もできないので、失敗していたならそれはそれで面白くなる筈だ。


 甘いと思い込んで塩辛い物を食べさせられた可哀想な友人たちの姿を思い浮かべながらチョコを人数分包装していると、階段の方から妹が降りてくる音が聞こえてきた。


「お姉ちゃんおはよう……」


 まだ半分くらい夢の中に居るような声だった。


「おはよう、涼音。先顔洗っといで」

「うん」


 ペタペタという軽い足音がゆっくりと離れていくのを聞きながら作業を続ける。


 妹が戻ってくると、まだ少し眠たそうにはしているが、先程とは違って意識ははっきりしているようで、「チョコ出来てる?」と覗き込んでくる。


「出来てるで。ほら」


 袋に入れる最後の一つを手の平の上に乗せて見せてやる。


「おぉー。私の分は?」

「涼音の分は……これ」


 初めの方に包んだ、他の物より一回り大きな袋を涼音に手渡した。中には他の人に配るために作った量産型のチョコと、もう一つ、小さめの生チョコタルトが入っている。


「ありがとう!」


 妹は嬉しそうに袋を両手で持ち、私に礼を言うと、まだ食べる気は無いのか、袋の透けて見える所から中を覗き見るだけで、開けようとはしなかった。私もわざわざ開けて良いよと言う必要性を感じなかったので、一頻り妹を眺めた後、袋に小分けしたチョコを纏めて保冷バッグに入れる。


「お姉ちゃんそれは?」


 もう一つある大きめの袋を指差して妹が言った。自分が貰った物と同じくらいの大きさの袋がもう一つあるのを不思議に思ったのだろう。


「それは私の好きな人にあげる分」

「あっ、家によく来はる人やろ」

「多分その人」

「ふぅん」


 あまり興味は無いようで、妹はちらりとまた袋の方へ視線を向けた後、背中を向けて台所を出て行ってしまった。


 時計を確認すると、思ったより包装に時間が掛かってしまったようで、家を出なければならない時間まで後十分程になっていた。


「やばっ、もう時間無いやん」

「あっ、ほんまや」


 リビングで寛いでいた母がまるで当事者のように驚き、立ち上がって私を急かす。


「忘れ物は無いか?」

「多分」


 忘れ物の確認で不安じゃなかった事など一度も無いので、責任を昨夜の自分に押しつける。


「チョコはさっき入れてたもんな」

「うん」

「今日は体育無いんやっけ?」

「無い……筈。うん。多分無い」


 私が授業の変更を聞き逃していたり忘れていたりしない限りは大丈夫なのだが、その滅多に無い事が起きていない可能性を捨てきれず、曖昧な返事を繰り返す。


 そうこうしている間に五分が経ち、コートを着て鞄を肩に掛ける。


「行ってらっしゃーい」

「行ってきまーす」


 炬燵から出る気の無い妹に手を振り返し、玄関でスニーカーに履き替え、コートのポケットに入れたままになっている筈のICカードが入っているかなどを改めて確認し、家を出る。


 空気の冷たさと日差しの暖かさを感じながら、特に何かに興味を惹かれる事も無く駅に向かう。


 バレンタインデーと言っても街の風景はいつもと何も変わらない。クリスマスや正月ですら何も変わらないのだから当然と言えば当然の事なのかもしれない。変わっているのはスーパーやコンビニくらいの物だ。


 退屈な徒歩移動を終えて改札を通り、丁度到着した電車に乗っていつもの席に座る。ここからまた退屈な移動時間が始まる。それを解消するための手段が鞄の中に入っているので、とりあえずそれを鞄から出して開いてみるが、書かれている文字が意味を持たない落書きのように見えて仕方が無かった。


 栞を元あった場所に挟み、本を閉じるのと同時に瞼を閉じて背凭れに身体を預ける。


 そうして真っ先に頭に浮かんだのはアルバイトの事だった。それを振り払おうと耳に入ってくる音に意識を向ける。電車の軋む音。レールとタイヤが擦れる甲高い音。窓が風に揺られる音。それらを聞いている間だけは頭の中から文字が消える。そして今度はその文字が消えた事に意識が向き、モノローグを語るように頭の中で喋り続ける。一体何をしているのかと、独り言を言うように心の中で自問自答する。


 きっと眠ればこの煩い思考は無くなるのだが、どうやって眠っていたんだっけ、眠る直前はいつもどうしていたんだろう、と思考する声が頭の中を満たし、眠気も全く感じられない。


 電車を乗り換えてもそれは変わらない。アルバイトの事、バレンタインの事、学校の事、どうでも良い事を延々と考え続ける。


 こんな事になっているのは恐らく前回のアルバイトで怒られたからだ。ただでさえ会計の仕事ができず、少なからず迷惑を掛けているというのに、与えられた数少ない仕事でさえ怒られてしまった。自分が悪いという事など分かっている。


 胸の靄を晴らそうと静かに深呼吸をする。電車はまだ二駅ほどしか進んでいなかった。


 勉強でもすれば気が紛れるだろうか、と鞄から一冊ノートを取り出し、一番新しい書き込みがあるページを開く。自分が見やすいようにと二色だけで書かれた文章の真ん中辺りを見る。そしてそれを声には出さずに読み上げてみるが、相変わらず書かれている文章の意味が理解できない。


 今日は駄目な日だ、と感じながらも仕舞うのがめんどうで、そのままそのページに書かれている文字を眺める。


 やる気というのはやり始めなければ出ないという話があるように、とりあえずやり始めてしまえばやる気が無くとも集中できる事も少なくない。しかしそれはきっと本人に集中する気があればの話なのだろう。現に今何をする気も無い私は文字を眺めながら、頭では全く違う事を考えている。


 ふと、早く蒼依に会いたい、と思う。蒼依に会えばきっとこの胸の靄も晴れ、煩い思考も止まってくれる。


 蒼依はどうしてこんな私の事を好きになってくれたのだろうか。浩二にしても、どうしてこんな卑屈で無能な人間を好きになったくれたのか。顔はともかく体型にはそれなりに自信があるが、二人が身体目当てだとは思えない。


 物語では嘘告白なる物がある。罰ゲームやその場の乗りで好きでもない人に告白をして、相手の反応を楽しんだ後、嘘だと言って相手を嘲笑うという遊びと称した虐めの一種だ。まさか蒼依がそんな事をしてくるとは思えないが、自分が好かれているという事が信じられず、そんな考えが浮かんでくる。浩二ならもしかしたら、と思えなくもないが、今までの態度を思い返してみると、やはりその可能性は低い。


 考えれば考える程分からなくなり、今日だけでもう何度目かの溜め息を吐く。


 時間が経って冷静になったのか、いつの間にか思考を読み上げる声も落ち着いてきて、景色をぼうっと眺める余裕ができた。


 しばらくして電車が黄檗駅に到着し、開いたままにしていたノートを鞄に仕舞い、最後尾で電車を降りる。ぞろぞろと集まる大勢の人に混ざって改札を抜け、いつもの場所で待ってくれている蒼依に合流する。


「おはよう」

「おはよう。さすがに今日はマフラーとか着けてないんだ」

「うん。昨日も結局帰りは着けへんかったし」


 いつもと同じ微笑みを向けてくれる蒼依の手を取り、学校に向けて歩き出す。


「あっ、そうや。チョコはいつあげたら良い? 今?」


 顔を上げて蒼依を見ると、蒼依は既にこちらを見ていて、視界の中心に蒼依の目が映った。反射的に視線を下げ、ふらふらと蒼依の身体を通り、地面まで落ちる。


「今は……いや、今貰おうかな」

「おっけー」


 繋がれている手を放して鞄からチョコレートの入った袋を取り出そうとしたが、何故か蒼依が手を離してくれなかった。


「ちょっと、片手じゃ取れへんから」


 無理には引っ張らず、水を切るように軽く手を振って放すよう促してみるが、蒼依は手の力を緩める気は無いようだった。


「チョコいらんの?」

「いる」

「じゃあ放して」


 もう一度手を振ると、今度は蒼依の手の力が緩み、手を引き抜く事ができた。


 自分で放せと言っておきながら、蒼依の手の温もりが無くなると、少し物寂しさを感じるが、今はそれよりもチョコレートを渡さなければならない。


 肩に提げていた鞄を腕に下ろし、ファスナーを開け、少々強引に押し込んだために形が潰れてしまっている保冷バッグを中で開き、そこから一番大きな袋を取り出し、蒼依に手渡した。


「はい、どうぞ」

「えっ、大きくない?」


 袋を両手に乗せた蒼依はまるでひよこを初めて見た時のように首を傾けて観察する。


「そう?」

「いや……うん。まぁ、友チョコしか貰った事無いから分かんないんだけど……」


 大きめ、と言ってもチョコタルト二つ分くらい大きいだけなので、手の平サイズと呼べる程度には収まっているのだが、確かに他の袋と比べると、随分と大きくなってしまった。


「まぁ、私も友チョコしか作った事無いし、分からんけど、こんなもんでしょ」

「因みに何が入ってんの?」

「クッキーと、生チョコタルト」

「えっ、タルト作ったん?」


 蒼依が目を見開いて私を見る。


「うん」

「生地も?」

「うん。クッキー作ったついでやけどな」

「クッキーも手作りなん?」

「当たり前やん」


 唇をきゅっと締め、勝手に上がろうとする頬を抑える。


「早く食べたいんだけど」

「別に良いけど、落としても知らんで?」

「怖いから止めとく」

「うん。止めといた方が良いと思う」


 蒼依は名残惜しそうに袋を見つめ、あっ、と声を上げた。


「これ溶けたりする?」

「いや、大丈夫ちゃう? 日向に放置してたらさすがに溶けるやろうけど」

「保冷バッグに入れてなかった?」

「まぁ、一応ね? 心配やったら私が持っとこか?」

「お願いしようかな」

「了解」


 ふふ、と笑い、蒼依から袋を受け取って保冷バッグに戻す。鞄を肩に掛け直し、差し出された手を取ってしっかりと握る。


 学校の近くまで来ると、どちらからともなく手を放し、教師と挨拶を交わして門を抜ける。消灯時間が過ぎた後もひそひそと話している時のように、お互いを見合って笑う。


 昇降口で靴を履き替えながら、浩二にはいつ渡そうかと悩む。靴箱に入れるのも定番かもしれないが、食品が靴箱に入っているのは正直あまり気分が良くない。入れるとすればそれこそラブレターか果たし状くらいの物だろう。


 元々は蒼依にバレないように渡そうかと思っていたのだが、隠れて何かをするのは、疚しい事をしていると言っているような物だという事に気付いた。それならばいっその事堂々と義理チョコと言って教室で渡してしまうという手もあるが、あまり人目のある場所で渡すのは以前のように変な噂が立ってしまう可能性がある。


 そうでなくとも女子が男子にバレンタインデーにチョコレートを渡したというだけで騒ぎ立てる鬱陶しい人が多い。もう浩二に渡すのは止めようかとさえ思えてくる。


 無難な解決策としては、性別問わずクラスメイト全員に同じ物を配るという手が浮かぶが、それだけの数は用意していない。一人分のクッキーを減らせば余裕で足りるが、よく知りもしない仲良くもない人に手作りをあげるというのは気が引ける。


「蒼依が浩二に渡すとか」

「突然何?」


 階段を上っている途中、蒼依は振り向いて怪訝な表情を私に向ける。


「いや、浩二にチョコというか、クッキーをどうやって渡そうかなぁって」

「……そんなの机に入れとけば良いんじゃないの?」

「あぁ、それもありか。そうしようかなぁ」

「私が食べても良いけど?」

「それは駄目。余ったらあげるわ」

「余ったらってどれだけあるの?」

「彩綾とか美波とか、仲良くしてくれてる人の分だけ」

「じゃあ余らないでしょ」

「いや、もしかしたらクッキーは嫌いやからって言われるかもしれんし」

「確かにその可能性はあるか」

「そう。まぁでも蒼依の分はあるんやし」

「他の人はクッキーだけ?」

「うん。涼音……妹には同じようにタルトも入ってるけど」


 なるほどね、と何かに納得した蒼依は静かに足音も無く軽々と階段を上がっていく。その後ろからのんびりとついて行き、後ろの扉から教室に入る。


「おはよう」


 先に来て机で携帯を弄っていた美波の背中に声を掛ける。


「あっ、おはよう」


 机に鞄を置き、椅子に座る前にクッキーの入った袋を取り出す。


「美波、バレンタイン」

「えっ、ほんまに作ってくれたん!?」

「うん。クッキーやけど、大丈夫?」

「全然大丈夫!ありがとう!」


 嬉しそうに笑う美波に釣られるようにして頬が吊り上がる。


「蒼依は?」

「貰ったで?」

「いやいや、そうじゃなくて。チョコくれへんの?」

「そういえば私も貰ってない」


 美波の言葉ではっとした私は、美波と一緒に蒼依の顔を見つめる。


「因みに私は用意してるけど」


 美波はそう言って鞄の中からビニール袋を取り出し、そこから見覚えのある赤いパッケージのチョコレートを取り出した。


「私はともかく、彼女である紅音にも何もあげてへんの?」

「実はね、ちゃんと持って来てる」

「あれ、そうなん?」

「手作りじゃないけどね」


 蒼依は鞄を私の机の上に置き、弁当が包まれた布を取り出した。


「本当は昼食の時に渡すつもりだったんだけど……」


 中から出てきたのは白いパッケージの、美波が持ってきた物より一回り程小さな箱だ。


「紅音はホワイトチョコが好きって言ってたから」

「えっ、ありがとう」


 話した記憶は曖昧だが、蒼依はそれを覚えてくれていたらしい。礼を言ってそれを受け取るが、どうして良いか分からず、とりあえず保冷バッグに仕舞っておく。


「あれ、私の分は? 友チョコは?」

「えっ? 無いけど」

「そっかぁ……。じゃあこれは紅音にだけあげる。クッキーありがとうな。お昼の時食べるわ」

「うん。ありがとう」


 渡されたのは箱に入っている筈の二袋のうち半分だった。ちらりと蒼依を見ると、蒼依はじっと私を見ていた。


「後で一緒に食べよう」

「紅音、蒼依にはあげたらアカンで?」

「それはもう紅音にあげたんだから紅音がどうしようが関係無いでしょ」

「いや、でもちゃんとくれた人の意向は考慮しないと」

「なんで紅音はそっち側なん?」

「やっぱり紅音は分かってるねぇ」


 言い争いを始めそうな二人を放置し、私は保冷バッグから一つ袋を取り出し、身を乗り出して浩二の机の引き出しに放り込んだ。奥の方まで入り込んでしまったかもしれないが、浩二が引き出しに教科書などを入れている所は見た事が無いため、問題無いだろう。気付かれずに割れてしまったら、その時はその時だ。


「おっ、義理チョコってやつ?」

「うん。くれって言うから」

「気付かずに粉々になりそう」

「うわぁ、やりそう」


 二人の中の散々な浩二象に笑っていると、教室の前の扉から彩綾と夕夏が入ってきた。彩綾の手にはビニール袋が提げられている。どうやらそこに大量のチョコレートが入っているようだった。


「おはよー。三人共チョコどうぞー」


 彩綾は近付いてくるなり袋を広げてみせた。


「掴み取り?」

「そんな訳無いやろ。一人一つな」


 いつものように一歩後ろから傍観している夕夏に「おはよう」と声には出さずに唇を動かし、手を振ると、夕夏も同じように返してくれた。


「私もええの?」

「美波ちゃんもどうぞー」


 そういえばこの二人が話している所を見た事が無いな、と思いながら言われた通り袋から一つ掴んで取り出した。見てみると、それはゲームセンターで見た事のある金貨を模した薄い円形の板チョコレートだった。


「懐かしい。これあれやんな? クレーンゲームで取れるやつ」

「そうそう。月曜日に夕夏と行ってきて、めっちゃ取れたから」

「めっちゃ取れたって言う割には少なくない?」

「いやいや、千円でこれは充分やろ」

「高いんか安いんか分からんわ」

「因みにこれ私と夕夏からね」

「あぁ、二人分なんだ」

「取ったの殆ど私やけどな」


 夕夏が呟いた。


「じゃあ二人でこれ分けて」


 美波は私が貰った物のもう片方を彩綾に手渡した。


「あっ、私からはこれね」


 美波に続き、私からはクッキーをそれぞれに渡す。クッキーだと言うと、幸い二人共苦手ではなかったようで、笑顔で受け取ってくれた。残りは蒼依だが、蒼依は本当に私の分だけ持って来たらしく、彩綾に催促されても「無い」とだけ言い張っていた。


 軈てチャイムが鳴り、それと同時に浩二が前の方から教室に入ってくる。気付くのかどうかさり気なく見つめていると、それに気が付いた美波も黙って浩二の動向を見守る。やはりと言うべきか、浩二は席に着いて鞄を机の横に付いているフックに掛けた後、引き出しの中を漁る気配など微塵も無く、携帯を弄り始めた。


 クッキーが粉々にならずに済んだのは喜ばしい事だが、気付かれないのは少し寂しい。けれどもここでわざわざ教えると、予め机の中に入れておいた意味が無くなってしまう。


「気付いて無さそうやけど」


 どうするの、と美波が小声で訊ねてくる。


「まぁ、お昼になっても気付いて無さそうやったらメッセージ送るわ」


 私が持って来たうち、残りは七つ。その内四つはアルバイト先で配り、三つは文化祭の時に世話になった二人と、同じ班の桃子だ。三人の席は離れているため、昼休憩の時に渡せば良いだろうと、保冷バッグを仕舞い、一時間目の用意を机に出しておく。


 それから少しして本鈴が鳴り、蒼依たちも自分の席に戻っていった。浩二はやはり引き出しを使う予定は無いようで、気付く気配は無い。


 じっと見ていると、浩二が不意にこちらを見てきて、目が合った。ちょうどチャイムが鳴り終わり、号令が掛かる。


 挨拶をして椅子に座ってからちらりと浩二の方を見ると、また目が合ったので、それとなく教えてみようという気になり、「チョコ」と唇を動かしながら自分の机の引き出しを指差した。そうすると、口パクかジェスチャーかが上手く伝わってくれたようで、浩二は机の引き出しに手を突っ込み、中から私が入れた袋を取り出し、目を見開いていた。


 その様子に満足した私は、「あげる」と一文字一文字をはっきりと伝え、正面に向き直る。幸い先生には見られていなかったようで、授業は滞り無く進んだが、もうすぐ期末試験があるという現実を突きつけられる事になった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る