第45話 2月8日

 七時間目の授業が終わり、それぞれ解放された喜びに満ちた表情で教室を出ていく。それに伴って開け放たれた扉から冷たい空気が漂ってくる。足を軽く浮かせて寒さを凌ぎつつ頬杖を突いて楽しそうに教室を出ていく人たちを眺めていると、いつものように蒼依がやってくる。


「お疲れ、紅音」


 わざわざ名前を呼ぶ必要は無いのに、意味も無く蒼依に名前を呼ばれるのが嬉しくて、私も意味も無く蒼依の名前を呼ぶ。


「蒼依もお疲れー」

「古文のテスト、どうだった?」


 きっと訊かれるだろうと、鞄に仕舞わずにいた答案用紙を机の上に広げる。


「八十一点。蒼依は?」

「九十二点」


 蒼依はそう言いながら胸の前に返却された答案用紙を広げてみせた。


「うへぇ、さすがやなぁ」

「紅音はどこ落としたん?」

「こことここと……」


 先生によって赤いチェックマークが付けられている所を指差していくと、途中で蒼依が「あっ、そこ私も間違ってた」と答案用紙を見せてくれる。既に先程の授業で先生から解説を受けているので、考える余地はもう残っていないが、どうして間違ったのかなどを話して盛り上がる事はできる。


「蒼依はどこ間違ったん?」

「私はさっきのとこと、最後のここでしょ? あと……あぁ、あった。これ」


 蒼依の答案用紙を覗き込み、蒼依の指差した場所を見てみると、英語や古文で基本とも言えるような、単語の意味を答える問題にチェックが付いていた。よく見てみると、どうやら回答欄を間違えてしまっていたようだ。


「えっ、もったいな」

「でしょ? 私もさっき答え合わせしててびっくりした。ここは絶対大丈夫だって思ってた」

「ここだけで四点落としてるやん」

「そう。これ合ってたら一位だったんだけど……」


 蒼依がそう呟き、古文での学年最高得点は九十四点だった事を思い出す。てっきりそれが蒼依の点数だと思っていたのだが、どうやら違ったらしい。だとすれば蒼依は二位か三位だったのだろう。


 私は黒板に晒された上位三人には入っていなかった。初めの方こそ私も蒼依と得点を競い合えるような点数を私も取れていたが、最近、特にアルバイトを始めてからは明らかに点数が落ちてしまっていた。


 古文はもともと得意ではなかったため、八十点以上を取れている時点でそこそこ嬉しくはあるのだが、アルバイトをしても点数を落とさないと言った手前、少し焦りを感じている。


「私ももっとがんばらななぁ」

「八十点取れてるなら十分じゃないの?」

「九十点取ってる人に言われたくないんやけど」


 答案用紙を四つ折りにして、蒼依を睨む。しかし蒼依は意に介した様子も無く微笑みながら私の髪を撫でる。


「紅音だって古文苦手って言ってる割りには取れてるじゃん」

「その分勉強してるしな」

「うん。なんか私が何言っても嫌味になる気がしてきたし、そろそろ行こうかな」


 髪に触れていた蒼依の手が離れ、微かな擽ったさだけが残った。


「部活何時まで?」


 蒼依の手の感触をなぞるように髪に手櫛を入れ、人差し指にくるくると巻き付ける。


「いつも通りなら六時には終わって、そこから自主練するか、帰るかかな」

「そっか。がんばってね」

「うん。紅音は今日はバイト無いんでしょ?」

「うん。だから今日は勉強というか、復習かなぁ」


 私は手に持っている古文の答案用紙を開き、溜め息交じりに答えた。


「そう。じゃあ、紅音もがんばってね」

「うん。またね」

「はぁい、またね」


 手を振り、去っていく蒼依を見送った後、机の方に向き直り、古文の答案用紙を開く。そして名前の横に書かれた赤い八十一という数字を眺め、溜め息を吐いた。


 もっと取れる筈だった。確かに紗綾たちとカラオケに行って遊んでいたりもしたが、勉強に費やした時間自体はそれ程変わらない。単純に問題が難しくなっているのかもしれないが、この古文の試験に関してはただ私が覚えられなかっただけだった。他にも九十点を下回ってしまった科目はいくつかあるが、最低得点を記録したのはこの古文だ。


 紙をくしゃくしゃに丸めてしまいたい衝動を抑え、また溜め息を吐き、腕を組んで机に突っ伏す。


 誰もいない教室はとても静かで、遠くから微かに掛け声のような音が聞こえてくる。少しして、そこに楽器の音が混ざり始めた。つい先ほど蒼依が音楽室に向かったばかりなので、まだ音楽室で音出しをしている段階だと思うのだが、その音楽室の防音を突き抜けて聞こえてきていた。


 顔を上げて、黒板の上にある時計を見る。そしてふと思い立った私は鞄からペンケースとノートを取り出し、裏向けて伏せていた古文の答案用紙を裏返す。


 いつもなら帰ってからやる事を教室でやるだけ。椅子はカーペットのように柔らかくはなく、机もそれ程大きくない。気休めにでもなればと扉を閉めても小さな部屋のように暖かくはならない。車の走行音や家族の生活音の代わりに、運動部の掛け声や吹奏楽部が練習している音が聞こえてくる。しかしちょっとした気分転換にはちょうどいいだろう。


「よし」とわざと声に出して気合を入れると、早速試験問題を解き直そうとシャープペンシルを持つ。


 間違っていた所だけでも良いのかもしれないが、蒼依の部活が終わるまでの時間潰しも兼ねているので、全部やるくらいがちょうどいいだろう。それに、今回間違わなかったところでも、次やった時には忘れてしまっている可能性は十分にある。


 ただでさえ私は記憶力が悪く、他の人より物事を記憶するのに時間が掛かる。恐らくこの試験問題を二周三周と解き直しても、明日になればその大半は覚え直さなくてはならないだろう。それでも少しずつ覚えていけばいつか受ける事になるであろう大学受験の時に焦らなくても済む筈だ。


 正直古文などやる意味を殆ど理解できていない。英語に関してはまだ日常生活で見かける事も多いので、少しでも読めたり話せたりした方が役に立つだろうと分かるのだが、古文は殆ど見かけない。神社などに行って立て看板を読んでも、書かれているのは現代語。あるとすれば碑石などに刻まれている詩などだろうか。それも読んで意味が分かればそれなりに楽しめるのかもしれないが、とても役に立つとは思えない。


 そこでふと、古文をやる意味が分かればもう少しやる気が出るだろうか、と思い立ち、携帯で検索する。そうすると、やはり同じような考えを持つ人が多いらしく、途方も無い数の記事が出てくる。その中から一番上に出てきたページを開く。


 曰く、現代で使われている言葉の中にはそれ単体では使う事は無くとも、言い回しとして名残がある場合があるというのが一つ。それから反語というのが古文を疎かにしていると理解できず、そのまま大人になって会話が成り立たなくなってしまうというのがあった。


 私はそれを読みながら一部納得すると共に、やはり普通に暮らしていく分には必要の無い事なのではないかとも思った。違うページには普段から使っている日本語の意味をより深く知る事ができるとも書いてあったが、それは結局趣味や研究の領域だろう。


 読んでいたページを削除し、ふぅ、と息を吐いて携帯を鞄に仕舞う。


 探していた答えは見つけられなかった。しかしそれはそれとして、少しモチベーションは上がっていた。


 特にこれと言って好きな物を答えられない私だが、たくさんの事を勉強してきた中で楽しかったと言えるのは漢字だ。漢字の成り立ちなどはあまり興味が無いが、その漢字が単体でどのような意味を持っているのかを知ると、知らない熟語を見ても何となくの意味を推測する事ができる。それと同じように古文を勉強する事で普段使っている日本語の由来を知る事ができたなら、それはきっと楽しい事なのではないだろうか。


 そう思っていてもなかなか覚えられないのが辛いところで、私はすぐに手を止めてしまった。時計を見ると、針は九十度周ったかどうかと言ったところだ。携帯に意味も無く触りたくなる衝動を抑えて、できもしないペン回しを試みて何度も机に落とす。


 溜め息を吐いて肩の力を抜いた私の耳にトランペットの音が聞こえてくる。それからすぐにクラリネットやサックスの音も聞こえてきた。少し前に聞こえてきていた音よりも随分と大きい。どうやら音楽室ではない場所で練習を始めたらしい。


 基礎練習で音階を奏でているのを聴いていると、その音が頭の中を埋め尽くし、集中しようとしている意識を逸らされる。


 これはもう駄目だ、と私はシャープペンシルをノートの上に投げ捨てた。


 一度切れた集中力を取り戻すのは難しい。それは周りに意識を逸らす物があればある程に難しくなる。当然の事だ。


 目の前にあるノートには、全部で八つある大問のうち、二つしかできていない。ノートの下から今日返ってきた答案用紙を引き摺り出し、できているところだけでも答え合わせをすると、幸い間違っている所は一つも無かった。集中が切れさえしなければ何も文句は無かっただろう。


 はぁ、と再び溜め息を吐いていると、突然前方の扉がガラガラと音を立てて開いた。何事かと顔を上げて視線を向けると、何故か浩二が現れた。


「あれ、何してんの?」


 私は思わず訊ねた。


「そっちこそ何してんねん……って思ったら、勉強してたんか」


 浩二は言いながらこちらへ歩いてくる。浩二は部活に所属していないので、恐らく忘れ物でもしたのだろう。


「そう。今日返ってきたやつの復習」

「偉すぎやろ」

「浩二は何しに戻ってきたん? 忘れ物?」

「そう。机の中にプリント入れてて、帰ってから気付いてん」

「えっ、一回家帰ってまた来たん?」

「そうやで。だから鞄も持って来てへんし」


 言われて初めて浩二の恰好を確認する。確かに浩二は鞄を持っておらず、上履きも履いていない。少なくとも一度外に出たのは間違いないようだ。


「紅音っていっつも放課後勉強してんの?」


 意識を違う所にやっていた私は反射的に「えっ?」と訊き返した後、すぐに首を横に振って否定する。


「今日は何となくそういう気分やったってだけ」

「そうなんや」

「うん」


 またトランペットが音階を奏でている音が聞こえてきて、私たちの間に生まれた沈黙を埋めてくれた。


 忘れ物を取りに来ただけなのならすぐに帰ればいいのに、浩二は何故か机に腰掛けて私の方を見ていた。そちらの方を見れば確実に目が合うので、ぎりぎり目が合わないよう胸元の辺りに視線を彷徨わせながら訊ねる。


「どうしたん?」

「え?」

「忘れ物取りに来たんやろ?」

「うん。取った」


 浩二は少し折り目が付いたプリントを掲げた。


「いや、来週バレンタインやん?」

「あれ、そうやっけ?」


 そういえばそんなイベントがあったな、と呑気に思う。知らなかったという訳ではないのだが、最近はアルバイトに時間を取られ、買い物に行かなくなってしまった所為もあり、恐らく言われていなければ来週になるまで気が付かなかっただろう。


「来週の……水曜かな? バレンタインやねんか。作る予定とかある?」

「何? 欲しいの?」

「……まぁ、くれたら嬉しいけど……」


 あからさまに欲しがっておきながら、何故か浩二は照れくさそうに顔を俯かせた。


 頬杖を突き、少し考える。


「それって手作り? それとも何か……チロルチョコとかでも良い?」

「チロルチョコとか、絶対義理やん」

「そらそうやろ。蒼依が居るんやから」

「蒼依が居らんかったら本命くれたって事?」

「それは……知らん」


 一瞬、蒼依が居なかった場合を考えたが、少しも蒼依と一緒に居ない自分が想像できず苦笑する。


「というかまだ私の事好きなん?」

「……ようそんな事本人に訊くよな」


 浩二は顔を逸らすと、長く息を吐き、頭をがしがしと荒っぽく掻いた。


「いや、だってもう半年くらい経ったやん? バイト先とかで良い人居らんの?」

「居ったとしても俺は紅音の事が好きやで?」

「残念やけど今彼女居るからなぁ」

「知っとるわ。何で俺無駄にもう一回振られてんの?」

「いや知らんやん」

「ええわもう。これ以上邪魔したら悪いし、そろそろ帰るわ」


 浩二はそう言うと、ガタンと机を鳴らしながら立ち上がり、軽く机の位置を整えてから足音も無く教室の前に歩いていく。


「あ、チョコって何チョコが良いとかある?」


 忘れる前に訊いておこうと声を掛けると、浩二は扉に手を掛けた状態でこちらに振り替える。


「えっ、くれんの?」

「うん。何かリクエストある?」


 そう訊ねると、浩二は「あー」と声に出しながら虚空を見つめる。そこに何も無いと何となく分かっていながら、ちょっとした好奇心に駆られて浩二の視線の先に目を向けてみるが、そこあったのは時間割と連絡事項が書かれた黒板だけで、やはり特に変わった物は無かった。


 それから浩二の方へ向き直ると、目が合ってしまい、逸らした瞬間、浩二がはは、と短く笑った。


「別に何も無いで」

「知ってる。それよりリクエストは? 別に何でも良い感じ?」


 恥ずかしい感覚を誤魔化すように早口で訊ねる。


「そうやなぁ。変なもん入ってなかったら別に何でもええかな」

「変なもんって?」

「……山葵とか?」

「あぁ、なるほどね。了解」

「ほんまにやめてや? 振りとかちゃうからな?」


 浩二の張り上げた声が誰も居ない教室と廊下に響く。


「分かってるって。ほら、もう帰るんやろ?」

「まぁ、貰えるなら何でもええけどな。じゃあ勉強がんばれよ」

「うん。浩二もちゃんと勉強しぃや?」

「気が向いたらな」


 そう言って浩二は教室を出て行った。そうすると、不自然なくらいに教室は静寂に包まれる。楽器の音が聞こえなくなっていた。


 黒板の上にある時計を見ると、部活の終了時間である六時を過ぎていた。外は既に暗くなっていたが、先月より僅かに陽の光に照らされて明るくなっていた。外から微かに聞こえてくるのは運動部のはしゃいでいるような声。吹奏楽部も今頃片付けをしているか、終わりの挨拶か何かをしているのだろう。


 勉強はまるで進んでいない。途中で浩二という邪魔が入ったが、そうでなくても集中力が切れていたから、結果は変わらなかっただろう。


 そろそろ帰ろうかと何となく携帯を手に取ったところで、蒼依の事が頭に過った。普段私は先に帰っていて、今日居残りして教室で勉強している事を伝えていないので、一緒に帰るならそれを伝えなければならない。けれども普段は蒼依も私とは別の人と帰っている筈で、ここで連絡をしてしまうとそれを邪魔する事になってしまう。それに、蒼依は自主練をするなら遅くなると言っていたが、それは仮定の話で、本当に自主練のために残るのかどうかも分からない。そんな時に私が教室で待っているなどと連絡をしようものなら、蒼依を困らせてしまうだろう。


 暫く葛藤した後、私は立ち上がってコートに腕を通し、その内ポケットに携帯を仕舞う。プリントやペンケースを鞄に入れ、忘れ物が無いかを机の中に手を突っ込んで確認する。そんな事をしている間にも蒼依の事が頭にあったが、迷惑を掛けたくはないので、変に迷って鉢合わせしてしまう前にさっさと帰ろうと鞄を肩に提げる。


 突然、後ろの扉がガラガラと音を立てて開かれる。


「あっ、やっぱり居た」


 現れたのはここに来る筈の無い蒼依だった。


 私は目を見開き、少し遅れて状況を理解すると、謎の笑いが込み上げてくる。


「なんで居んの?」

「向こうから見えたから」


 蒼依は私の後ろ、音楽室がある棟を指差した。


「電気点いてるなぁって思って見てたら、なんか見覚えのある二人が居たから」


 どうやら浩二と話している瞬間をたまたま目撃していたらしい。


「因みに何話してたの?」


 蒼依は扉の場所から近付いて来ようとはせず、私を真っ直ぐに見つめていた。少しずつ落ち着きを取り戻し始めた私は、蒼依の様子が少しおかしい事に気付く。恐らくは浩二と二人きりで居た事が良くなかったのだろうと推測する。


「えっと……忘れ物取りに来はったらしいんやけど、そのついでにチョコ欲しいって言われた」


 そう言うと、蒼依の目が鋭くなったような気がした。


「チョコあげるの?」

「えっ、うん。何か適当に市販のやつか、作ったやつあげようかなぁとは思ってるけど……」


 蒼依が不意に近付いてくると、腕が振り上げられたのが視界に映った。私は反射的に目を強く瞑り、肩を竦めて衝撃に備える。しかし一向にその衝撃は訪れなかった。その代わりに蒼依のひんやりとした手が頬に触れ、唇が重ねられる。


 目を瞑っていたために、驚きのあまりに声が漏れる。しかし何をされているのかを瞬時に理解した私はそれを受け入れた。


「学校だからちょっとだけね」


 唇が離れ、目を開けると、いつもの蒼依が居た。


「私が紅音を叩く訳無いでしょ?」


 私は何も言っていないのに、全てお見通しだと言わんばかりに蒼依が言う。


「確かにちょっとむかついたけど、それはあっちに対してだから」


 蒼依は私の頭を撫でながら、いつも以上に優しい声色で私を安心させようとしてくれる。


「あっ、ごめん。嘘。ちょっとだけ紅音にもむかついたかも」

「えっ」

「鈴木と一緒に居るのを見た時、なんか隠れてやってんのかってちょっと思ったけど……」

「なんも隠してへんし」


 疑われているのかと思い、思わずぶっきら棒な言い方になってしまった。しかし蒼依はそんな事を意に介さず、変わらず私に微笑みかけていた。


「でしょ? 紅音はそういう事はしないって信じてるから」


 別に悪い事をした訳でも無い筈だが、罪悪感が湧いてくる。


「ごめん」


 思わずそう口にすると、蒼依はくすくすと笑った。


「だから怒ってないって」


 蒼依はそう言ってくれるが、私の中に生まれた罪悪感は無くならない。


「じゃあ罰としてバレンタインのチョコは手作りね」

「……それは元からそのつもりやったし」

「いいから。それが罰ね。分かった?」

「うん」


 頷くと、蒼依は満足そうに笑い、また私にキスをした。いつの間にか学校でこういう事をするのに慣れてきている自分に気が付いたが、私の方から促している事もあるので、今更咎めるなんて事はできそうになかった。


「じゃあ帰ろっか」

「うん」


 蒼依から差し出された手を取り、手を繋いで教室から出る。同性で手を繋いでいるだけなら別に何か言われる事は無いだろう、と少し希望的な考えをしながらも、今は蒼依の温もりに甘えていたくて、力強くその手を握り締める。


 少し人目を気にしながら階段を降り、昇降口で靴を履き替える。その間はさすがに手を離さざるを得なかったが、吐き替えたらまたすぐに蒼依の手を握る。


「教室に居るなら連絡してくれれば良かったのに」


 校門を出てすぐ、蒼依がそう言って、私ははっとする。


「だって、蒼依が自主練するなら遅くなるんやろ?」

「そうね。大体七時くらいには引き上げてるけど」

「やろ? 連絡したら早く帰ろうとするやん」

「それは……そうかも」

「だからやん」

「でも予め言ってくれてたら、今日は自主練するから遅くなるよっていうのちゃんと伝えたし、その間紅音は勉強して待ってるってこっちも分かってるから別にそんな気にせず練習してたと思うけど」

「……そっか」


 何か反論しようとしたが、蒼依の言い分に思いの外納得できてしまった。


「うん。だから今度から私と一緒に帰る時はちゃんと言ってね?」

「いや、でも……」

「まだ何か納得できない事があるの?」


 否定の言葉は無意識的に出てしまったが、この際もう一つの理由も言ってしまおう、と半ば自棄になる。


「えっと……普段は私が先に帰ってるやん?」

「そうね」

「その時って蒼依は誰かと一緒に帰ってるんじゃないの?」

「あぁ、まぁ部活の仲良い子……それこそ美波とかと帰ったりはするけど……。何? もしかしてそんな事気にしてたん?」


 私は黙って首肯する。


「別にそんなの気にしなくて良いのに」

「だって……」


 どうしてそれが迷惑になると思ったのか、自分の感情が上手く言葉に変換できず、それらしい言葉を頭の中で探していると、蒼依が先に口を開いた。


「私としては、もっと紅音に嫉妬とかしてほしいけど」

「……嫉妬はしてるで?」


 そもそも蒼依と付き合うと決めた理由がそれなのだから、嫉妬していない訳が無い。蒼依が私の居ない所で紗綾たちと話しているだけでも気に入らないし、蒼依が私以外の人を頼るのも気に入らない。些細な事ではあるかもしれないが、恋愛初心者なりに嫉妬はしている筈だ。


「いや、そうなんだろうけど、それをもっと表に出してほしいの」


 私は蒼依の方を見ながら首を傾げた。


「今日みたいに不満があっても隠そうとするじゃん」

「だって、あんまり言うとめんどくさいやん」

「普段全く言わない癖に」

「蒼依だって言わへんやん」


 話の矛先を強引に蒼依の方へ向ける。


「私は言ってるじゃん。さっきだって鈴木と何してたのって訊いたし」

「確かに」

「欲を言えば鈴木にチョコをあげるのも止めたいところなんだけど」

「……あげん方が良い?」

「手作りは絶対駄目」

「分かった」


 手作りと言ってもそんなに凝った物を作る気は無い上に、それを蒼依以外の人にあげるつもりは全く無かったため、素直に頷いておく。蒼依は恋人で、浩二を含め紗綾たちにあげるのははっきりと義理だと分かる物であるべきだろう。


「そうや、蒼依は何のチョコが良いとかある?」

「あんまり苦いのでなければ良いかな」

「蒼依って苦いの苦手なんやっけ?」

「苦手って訳じゃないけど、チョコに関してはどうせなら甘い方が良いってだけかな」

「なるほどね」

「紅音はどんなチョコが好き?」

「ホワイトチョコ」


 私は迷わず答える。珍しく即答した私に、蒼依は目を瞬かせる。


「そういえば誕生日……待って、紅音の誕生日っていつだっけ」


 何かを言いかけた蒼依は急に表情を変えて携帯を取り出した。突然の行動に戸惑いながらも質問に答える。


「二十二日」

「二月?」

「うん。忘れてた?」

「……」


 冗談半分で訊ねてみたが、返事は無い。恐らく図星だったのだろう。


「何か欲しい物とかある?」


 もはや隠そうという気も無くそう訊ねる蒼依の顔にはどうしよう、という文字が書かれているかのようだった。


「今のところ別に無いかなぁ」


 意地悪などではなく、私には基本的に物欲が無い。物を買う時は大抵気紛れを起こした時だ。


「ピアスとかどう?」

「穴開けるのめんどくさくない?」

「じゃあイヤリング」

「落としそう」

「ヘアピン」

「んー……まぁ、あり」


 それからネックレス、腕時計、化粧品など、蒼依は矢継ぎ早に単語を並べていく。


「一緒に見に行くのが一番良いんだけど……」

「蒼依は部活やし、私もアルバイトあるしな」

「何か欲しい物あったら言って」

「無い」

「あったら言って」


 はいはい、と笑いを含ませながら返事をする。蒼依から貰える物なら何でも嬉しい、と言いたいところだが、正直なところ、何を貰っても喜べる自信は無い。物欲が無いからという訳ではない。ただ、昔から喜び方がよく分からないのだ。


 今までに誕生日プレゼントやクリスマスプレゼント、お年玉など、色々な物を貰ってきた。その中には当然私が欲しいと言って買ってもらった物もあるのだが、嬉しいとはしゃいだ事は恐らく無い。正月に親戚で集まった際にお金を貰うと、確かに嬉しいのだが、別に貰えなくても良いと思っている所為か、特別有難みを感じる事も無く、義務的に礼を言うだけだった。


 同じように両親からプレゼントを貰っても、自分が欲しいと言っていた物を買ってもらっておきながら、それほど喜んだ記憶は無い。それを貰えるのが当然の事、という風には考えていない。寧ろ普段はあまり物を強請っても買ってもらえないので、誕生日というのは特別な物だった。それなのに喜べないのは、私にそういう感情が欠けているからなのではないかと、そう思う事が増えた。


 しかし、だからと言って蒼依がせっかくくれようとしている物を拒否するなんて事はできなかった。


 そうこうしているうちに駅に到着し、いつものように電車が来るまで少しのんびりする。途中で蒼依の部活仲間と思しき人たちが通ると、蒼依はそれに手を振り返していた。


 電車が来るとアナウンスがあり、蒼依が立ち上がると、私に手を差し伸べてきて、私もその手を取って立ち上がる。


「じゃあチョコ楽しみにしてるから」

「うん。任せて」

「あと、紅音は欲しい物を考えとく事。これでいいや、は無しだから」

「サプライズでもええで?」

「サプライズ嫌いって前言ってたの誰だっけ?」

「私」


 くだらない言い合いをして、またね、といつものように別れる。


 電車に乗り、どんなチョコを作ろうか、様々なレシピを眺めながら考える。そんな時、ふと古文の復習が途中になっていた事を思い出し、私は静かに溜め息を吐いた。

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