第44話 1月30日

 今日の分の試験を終えて少々の後悔を感じながら机の上に置いた鞄に顔を埋めていると、低く優しい声が私の名前を呼んだ。


 私は顔を埋めたまま「んー?」と返事をする。


「どうしたの? 体調悪い?」

「ううん」


 ゆっくりと身体を起こして顔の前に掛かる髪を退けてから蒼依の方を見ると、蒼依は徐に手を伸ばしてきて、私の髪を撫でてくる。


「ちょっと落ち込んでるだけ」

「あぁ、そうなんだ」


 髪を撫でていた蒼依の指が髪を掻き分けて耳に触れ、私は擽ったさに耐えかねて身を捩り、蒼依の手から逃れる。


「なに、もう」

「いや、可愛いなぁって」

「……」


 蒼依の言動が理解できず、私は一度大きく息を吸い、頭に浮かんでいる疑問と一緒に吐き出した。それから気持ちを切り替えるついでに机に手を突いて勢い良く立ち上がる。その際、椅子が床に擦れてガタガタと音を立てたが、教室内の喧騒に紛れてくれた。


「今日は蒼依ん家やんな?」


 訊ねながらコートを着て、鞄を肩に掛ける。


「うん。お昼は何食べたいとかある?」


 少し考えた後、冗談半分で「蒼依の手料理」と答えると、考える素振りも無く「却下」と蒼依は冷たく吐き捨てた。


「じゃあおまかせで」

「パスタ食べたいからフードコートで良い?」

「うん。ええよ」


 特にこれと言って食べたい物は無いので、素直に頷いておく。もしかすると後で気分が変わって食べたい物が出てくるかもしれないが、行く場所がフードコートらしいので、ある程度は融通が利くだろう。


 私が動くと、蒼依はその後に付いて来る。近くに居た美波や、偶然目が合った浩二に手を振って教室を出て、提出物を忘れずに職員室の前の箱に入れてから昇降口に向かう。


「大分暖かくなってきたね」

「本気で言うてる?」


 私は思わず顔を顰めて言った。


「寒くはないでしょ?」

「まぁ……今日は風が無いからまだ増しかも」

「でしょ?」


 昇降口は私たちと同じように帰る人たちで混み合っていた。人にぶつからないように身体を捻りながら自分たちの靴がある場所に行き、さっさと靴を履き替え、逃げるように人混みから出る。


 歩きながら振り返って蒼依に呼び掛けようとすると、姿が見えなかった。あれ、と疑問が浮かび上がった瞬間、背後から肩を叩かれる。肩をびくりと跳ねさせて勢い良く振り返ると、蒼依が首を傾げていた。


「どうしたの?」

「いや、蒼依が居らんと思って……」

「ずっと居たよ?」


 こんな小さな嘘を蒼依が吐くとも思えないので、恐らく私が振り返った側とは反対の右側に居たのだろう。


「……不安になるから後ろに立たんといて」

「ちゃんと居たって」

「視界から外れんといて」

「それは無茶でしょ」


 冗談だろうと信じて蒼依はへらへらと笑いながら歩き出す。私も無茶だと分かった上で言ってはいるのだが、できるのであれば本当に視界から外れないでいてほしいと思っている。


 そうでなければ不安で仕方が無い。ついさっきまでそこに居た筈の人が居ない。そこにあると思っていたものがない。過去に迷子になったり落とし物や忘れ物をしょっちゅうしていた私にはそれらが堪らなく不安なのだ。


「紅音って何かこう……神経質よね」


 不意に蒼依が聞き慣れない単語を口にして、私はそれをそのまま「神経質?」と訊き返した。


「うん。すっごく細かい所まで気にして精神的に参ったりする……みたいな」

「……そう? まぁいっか、とか、なんとかなるやろ、みたいな事よう言うてない?」

「あぁ、言ってるかも」

「じゃあ神経質じゃないでしょ」

「そっか……。じゃあ心配性?」

「んー……それはそうかも」


 椅子から立ち上がって移動する時に、何か落としていないかを確認してから立ち去ったり、家の鍵をちゃんと掛けたのかドアノブを引いてまで確かめておきながら後になって不安になったり、そういった事は毎回のようにやっている。しかしそんな事をしておきながら手袋を無くしたり、定期を落としたり、携帯をアルバイト先のロッカーに忘れてきたりと、色々やってきている。


「心配性って言うにはちょっと中途半端かも」

「確かに完璧主義って感じでもないもんね」

「心配性の人って完璧主義なん?」

「らしいよ? だって、何か忘れたりしてないか心配になるって事は失敗したくないって事でしょ?」

「なるほどねぇ」


 校門の傍に立っている教師に会釈し、少し離れてから会話を再開する。


「失敗したくないっていうのは分かる」

「その割には結構途中で投げ出したりしてない?」

「それはあれやん。失敗しても問題無いやつやからやん」

「やっぱり完璧主義では無さそうね」

「だから心配性って程ではないんよ」

「じゃあ何なんだろうね」

「さぁ?」


 そんな中身の無いくだらない会話を続けながら、代わり映えのしない景色の中を通って駅へ向かう。


 途中で蒼依が家まで歩くか、などと提案してきたが、ほんの少し心が傾いているのを感じながらも馬鹿な事を言うなと却下し、改札を通って電車を待つ。


 ホームが学生で埋め尽くされそうになっているところに電車が到着し、早めに降りる事になる私たちはドア付近に立てるよう列の後ろの方に並んで電車に乗り込んだ。


 車内は都会の満員電車程ではないものの、少し息苦しさを感じるくらいの密度にはなっている。こんな時でも私は財布などが入っている鞄が見えない場所にあるのが怖くて、肩に掛けている鞄を腕で抱えるように持っていた。


「大丈夫?」


 不意に蒼依が訊ねてくる。


「何が?」


 顔を上げると、蒼依と目が合い、気恥ずかしさからすぐに逸らして蒼依の手元に落ち着いた。


「いや、大丈夫なら良いんだけどね?」


 蒼依はそう言って私の髪を撫でる。


 よく分からないが、重要な事でもないのだろうと思い、視線をまた窓の外に移す。


 六地蔵駅に着き、人の波に巻き込まれる前にホームへ降りて、蒼依の後に続いてエスカレーターで下に降り、ICカードを翳して改札を出る。


 カードを取り出すのに手間取っていた私を先に出て待っていてくれた蒼依に小走りで駆け寄り、差し出された左手を取って歩き出す。


「とりあえずご飯?」

「そうね。お腹も空いてきたし」

「了解」


 線路下の通路を通って線路の反対側に出る。風が吹くと少々寒さを感じるが、青空から照り付ける太陽は春かと勘違いしてしまいそうなくらいに暖かい。そんな中でも蒼依の手はひんやりと冷たかった。


 ついこの間も歩いた道を歩き、今度は道路の下にある細いトンネルを潜って反対側に渡り、川沿いを少し進んで裏口のような場所からショッピングモールに入る。


「何気にここ入るん初めてかも」

「そうだっけ?」

「多分。分かんないけど」


 右側にある大きな百円ショップを覗き見ながら道なりに進んでいく。


「まぁ、とりあえずご飯食べようか。パスタで良い? 一通り見て回ってから決めても良いけど」

「ううん。私もパスタ食べたいし、ええよ」

「そう? ラーメンとかカフェとかもあるけど」

「ラーメンはいいわ。蒼依はパスタ食べたいんやろ?」

「うん」

「じゃあパスタで良いじゃん」

「了解」


 百円ショップにも、その向かいの如何にもファミリー向けのファッションショップにも気になる物がいくつかあったが、散策するのは今ではない。


 色々な所に目を移しながら蒼依に手を引かれて歩き、エスカレーターに乗って二階へ上がる。二階はファッションショップが殆どのようで、誰でも知っているような店も並んでいた。


「やっぱり記憶に無いし、入った事は無いんやなぁ」

「一回来たような気がするけど……」

「誰か違う人と勘違いしてるんちゃうん?」

「かもしれない」

「浮気?」

「それはないから安心して」

「大丈夫。してないと思ってるから」


 周りに並ぶ服を気にしながら蒼依に付いていくと、すぐにフードコートが見えた。どこのショッピングモールにもある吹き抜けになっている通路を渡ってフードコートの奥へと進んでいく。


 うどんにドーナツ、ハンバーガーにちゃんぽん、たこ焼きやオムライスなど、よく見る店が並んでいる中から、蒼依は目的のパスタが売っている店の前で立ち止まり、通行の邪魔にならない少し離れた場所からメニューが書かれている看板を見上げる。


「私は茄子とベーコンのやつにしようかな。紅音は?」

「うーん……」


 定番のミートソースや少し風変わりなほうれん草クリームや和風などのパスタも美味しそうだが、どうやら他にもドリアやサンドイッチ、パンケーキもあるようで、興味を惹かれてしまう。この際ケーキでも、と思ったが、さすがに値段を見て選択肢から外した。


 どうしようかな、と考えているアピールをしながらメニュー表と睨めっこを続ける。


 幼い時から私は優柔不断で、こうして外で食べる時も最後まで悩んでいるのは私だ。家族はそれを分かってくれているので、あまり気にせず存分に悩むのだが、蒼依を待たせるのは少し心苦しい。そういう時のために決めている事が一つある。それは普段食べない物を選ぶという事だ。


 それで言えばパンケーキは家でもたまに食べるので除外される。同じようにパスタのミートソースやトマトソースなども選択肢からは外す。サンドイッチはこういったちゃんとした飲食店で食べた事は無いのだが、何となく味の予想は付いてしまう。それと同じように考えるとドリアも別にここで頼まなくても良いだろう。そうすると残りは風変わりのパスタ二種類だ。


「んー……蒼依」

「決まった?」


 顔を覗き込んでくる蒼依に私は訊ねる。


「右と左どっちが良い?」

「左で」


 蒼依はまるで私が何を訊こうとしていたのか知っていたかのように即答した。


「じゃあほうれん草ね」

「どの二択だったの?」


 注文が決まったところで鞄の中に手を入れて財布を探していると、蒼依が訊ねてきたので、「和風パスタ」と分かってもらえるであろう最低限を答える。


「あぁ、あの帆立のやつ?」

「そうそう」

「あぁ、あれも美味しそうよねぇ」

「そっちにする?」

「いや、今日はいいかな」


 じゃあそれで良いか、と蒼依が改めて確認してきて、私は漸く見つけた財布を取り出しながら頷き、蒼依の後を追い掛けてカウンターの前に行く。


「茄子とベーコンのトマトクリームパスタを一つと……こっちだっけ?」


 蒼依がカウンターに置いてあるメニュー表を指差して私の方を見る。


「そうそれ」

「じゃあ、これを一つ、お願いします」


 気付けば注文を蒼依に任せて仕舞っている事に気付いたが、お金だけでも払えば良いか、といつでも千円札を出せるようにして待機していると、会計が表示される前に蒼依は財布から五千円札を取り出してトレーに乗せた。


 呼び出しベルを受け取った後、近くの空いている二人席に向かい合って座り、私は千円札を二枚蒼依に差し出す。


「何?」

「いや、ご飯代」


 蒼依は腕をテーブルの上にも出さず受け取る気配など微塵も無かったが、目の前に置いて、私は手を引っ込めた。そうすると蒼依は理解してくれたのか、それを手に取って折り目に沿って半分に折り畳んだが、それを仕舞おうとはしなかった。


「前に約束した事覚えてる?」

「約束?」


 軽く記憶の中を探ってみるが、それらしい物は見つけられなかった。


「次は私が奢るってやつ」


 言われて漸くそれらしいぼやけた記憶が浮かんでくる。


「いや、でも蒼依はアルバイトしてへんねんから……」

「私と紅音ってお金の関係なの?」

「……」


 何となく、蒼依が怒っているような気配を感じ取って、私は反論しようとした口を閉じて視線を落とす。


「デートする度に紅音からお金貰ってたら申し訳無いしさ、そんなの恋人じゃないと思うんだけど」


 蒼依の言っている事が理解できていない訳ではなかったが、私の口から出て来ようとしているのはやはり、アルバイトをしている私がアルバイトをしていない蒼依に奢るのは当然だ、という考えだった。


「紅音は私に奢られたくないんでしょ?」

「うん」

「なら私がなんで紅音に奢られたくないって思ってるか分からない?」


 ふと、どうして私はこんな時に怒られているのだろうか、という疑問が浮かび、その瞬間から蒼依に訊かれた事が何だったのかよく分からなくなってくる。蒼依の言葉を心の中で繰り返してみても、何故かその意味が読み取れない。


 子どもの泣き声が聞こえてきて、周りの雑音に意識が行き、思考が妨げられる。ちらりと蒼依に視線を向けると、蒼依はじっと私の事を見つめていた。すぐに視線を外したものの、見られている事に気が散って思考が纏まらない。


 蒼依に訊かれた事に答えなければならないのに、私は今の自分の状況を心の中で言葉にして整理しようとするばかりで、答えを見つけられない。


「ねぇ、聞いてる?」


 蒼依の落ち着いた声が耳に入ってきて、私は黙って首を縦に振った。そうすると、蒼依に強引に渡した千円札二枚が私の目の前に置かれた。


「とりあえず今日は私が払うから。紅音がアルバイトした分はこっちまで来てくれた分って事にしない?」


 上手く頭が回らず、蒼依の言っている言葉を理解するのに時間が掛かった。


 蒼依も譲る気は無いのだろうと一先ず納得したところでベルが大音量で鳴り響いた。蒼依はすぐにボタンを押して音を止め、ぼうっとその様子を眺めていた私を余所に席を立って店へ向かった。


 その直後に私も行った方が良いかもしれない、と席を立とうとして、蒼依が座っていた椅子に鞄とコートが置かれている事に気付き、迷った後に頼んだ料理は蒼依に任せて荷物番を引き受ける事にした。


 トレイが二つあって一度に運べないかもしれないと思いながら待っていると、蒼依は大きなトレイに二つの料理を乗せてすぐに戻ってきた。


「ありがとう」


 礼を言いながらトレイを受け取ろうとするが、蒼依はそのままテーブルにトレイを置いた。


「紅音も荷物ありがとう」

「ううん。ごめん、すっごいぼーっとしてた」

「うん。キャパ超えたんだろうなぁって思ってた」


 蒼依は先程怒っていたのが嘘のように笑い、席に着くと、トレイを受け取ろうとしてそのままテーブルの上に投げ出されていた私の手を握る。それからいつもの優しい笑みを浮かべて私を見た。


「ねぇ、もしお金の事が気掛かりなんだったらさ、これからデートする時はこっちに来てよ。私もお小遣いは貰ってるけど、頻繁に紅音の家に行って外食して……ってしてたらさすがにきついから」


 首を傾け、視線をゆっくりと落としながら少し冷静になった頭で蒼依の言葉を理解する。


「まぁ、それなら……良い、かなぁ……」

「じゃあそれで。とりあえず食べよう」


 押しに負けたような気はするが、私の考えに蒼依は納得してくれないだろう。恋愛は相手に合わせるのが大事だといつか読んだ記憶もあるので、今はそれに従うべき時なのだろう。


 手を合わせて蒼依が「いただきます」と呟いたのに合わせて口を動かす。それから割り箸を割って料理に目を向けると、明らかに熱い事を示す湯気が立っていた。


「紅音って猫舌なんだっけ?」

「うん。蒼依は……平気そうやな」

「そんなに熱くないし、大丈夫」

「辛いのもそうやけど、熱いの平気な人の大丈夫は信じられへんからなぁ」


 どうしようかと悩んでいると、視界に白い紙コップが映った。


「水要る?」


 私がそれを指差しながら訊ねると、蒼依は私の指の先を追って紙コップを見て、口を手で覆いながら頷いた。それを見て私は重ねられている紙コップを纏めて取り、水を入れに席を立つ。


 柱の向こう側にあった給水器の水を注いで戻ってくると、蒼依は食事の手を止めて待ってくれていた。


「ありがとう」


 蒼依にコップを一つ手渡し、椅子に座る。


「食べといてくれても良かったのに」

「一緒に食べないと来た意味無いじゃん」

「うちのお父さんとか全然平気で先に食べはるけどな」

「それはうちのお父さんと一緒」

「お父さんってそういうもんよね」


 水を一口飲んで喉を潤した後、未だに湯気の立っているパスタを慎重に口に運んだ。


 それから暫くいつものように黙々と食べていたのだが、私が半分くらい食べ進めた頃、蒼依がじっと私を見ている事に気が付いた。


「何?」

「いや、美味しそうだなぁって」

「食べる?」


 そういえばこういう時に食べさせ合うようなシーンが恋愛漫画であった事を思い出す。しかしそれをそのままやるには他の人の目があるこの場所ではマナー的にあまり良くないのではないかとも思う。キスをした仲なのだから今更かもしれないが、蒼依が所謂間接キスを嫌がる可能性もある。


 そこで私は皿を少し蒼依の方へ押しやってみると、蒼依は「じゃあ一口貰う」と言って端の方で一本だけくるくるとフォークに巻いて食べた。それだけで分かるのかと言いたくなったが、満足そうな表情をしている蒼依を見てその言葉を押し止めた。


「美味しい?」

「うん。紅音もこっちの食べる?」

「ううん。大丈夫」

「そう?」


 私は自分が好きな物を他人と共有する事が好きではあるのだが、他人から薦められた物にはあまり興味が出ない。確かに蒼依の食べているのも美味しそうではあるのだが、何となくめんどうで食べる気にはなれなかった。


 蒼依が先に食べ終わり、見られている事に気まずさを感じながらも完食し、食器とトレイを店に返却する。


「さて、どうしようか」


 荷物を持って席を立ったのは良いが、この後の事を何も考えていなかった。


「せっかくだから一通り見て回る? それか先勉強する?」

「ここって勉強して良い場所なん?」


 フードコート内を軽く見渡して訊ねる。


「さぁ?」


 蒼依は首を傾げた。


「えっ、じゃあ止めとこうや。怒られたら嫌やし」

「じゃあ……うち来る?」


 遠慮がちに言う蒼依に、私は少し喰い気味に頷いた。


「うん。蒼依の家でやろう」

「紅音と二人きりになって我慢できるか分からないんだけど……」


 蒼依が少し恥ずかしそうに笑いながら言った。一体何の事を言っているのか分からず首を傾げていると、蒼依の手がするりと撫でるように私の手を取り、指を絡めてくる。


「明日からまた暫く二人でゆっくりはできないよね」

「まぁ、そうね」


 蒼依の言わんとしている事がよく理解できていないままに頷き、手を握り返すと、蒼依はふっと笑い、手を握り直して歩き始める。私は肩からずり落ちそうになった鞄を掛け直しつつ、慌てて足を動かす。


「下でおやつ買って行かない?」

「何で?」

「気になってるシュークリームがあるんだけど、どう?」

「まぁ、蒼依が買うなら」

「じゃあそこに寄ってから私の家行こうか」

「うん」


 妙に浮き足立っている様子の蒼依を不思議に思いながらも、楽しそうなら良いかと強引に納得する事にして蒼依の隣を歩く。


 色々店を見て回りたいとも思うが、今日の目的は勉強だ。明日の試験に備えて勉強をするために来ている。確かに蒼依が言ったように今日が終わればまた蒼依は部活が始まり、私もアルバイトがあるためデートをする時間が無くなってしまう。次できるのは恐らく期末試験の時くらいになるだろう。つまりは一ヶ月以上先の事だ。


 それまでにも学校帰りにちょっと寄り道をする事もできるが、できると言ってもその程度で、時間を気にせずゆっくりできるのは今日が終われば暫くお預けになってしまう。


 そこでふと、先程蒼依が言っていた「我慢できない」という言葉の裏にある意味に思い当たった。


 先程蒼依の様子がおかしかった事に納得がいった私は、ルアーを動かすように蒼依の手を引いて蒼依を振り向かせる。


「何?」

「するなら勉強してからにしよな?」


 そう言うと、蒼依は一瞬目を見開いた後、照れ臭そうに笑った。


 エスカレーターで一階に降り、そのすぐ横にあった美味しそうな香りを周囲に振り撒いている店でシュークリームを購入し、他の店はまたいつか時間がある時に見回る事にして蒼依の家へと向かう。


 学校で運動をしているお蔭で蒼依の家までの上り坂もそれほど辛くはないが、この時期に汗が滲んでくる程度には疲れる。この道をほぼ毎日往復している蒼依は今からマラソンをする事になっても問題無さそうなくらいに疲労感が見えなかった。


 久しぶりに来る蒼依の部屋に入り、ベッドに腰掛けて疲れた足を伸ばす。そうしている間に蒼依はお茶を取りに行ってくれ、テーブルにそれを置いたのを確認し、私は蒼依に向かって腕を広げる。


「蒼依」


 名前を呼ぶと、蒼依はゆっくりと近付いてきて、抱き付いて来た勢いのまま私はベッドに押し倒される。


「勉強終わってからじゃなかったの?」

「疲れたからちょっとだけ休憩」


 そうは言ったものの、これからどうするかなんて分かりきったような物だ。


 蒼依が身体を少し起き上がらせ、至近距離で見つめ合う。良いよ、という合図として私が目を瞑ると、唇に蒼依の唇が重ねられる。ベッドに投げ出した左手は蒼依に握られ、自由な右手で蒼依の身体を引き寄せる。耳を撫でられ、舌を入れられても身を捩る程度しかできない私は、蒼依から与えられる幸福感を只管に味わっていた。


 軈て口が離れ、ぷはっ、と息を吐き出し、ゆっくりと瞼を持ち上げると、蒼依の蕩けたような目がじっと私を見ていた。えへ、と恥ずかしさに負けて笑い声を漏らして顔を逸らすと、蒼依は私の頬にキスをした。それから耳にもキスをした蒼依は、今度は首にも少し長めのキスをして、満足そうな笑みを浮かべて私を見る。


「大好きだよ。紅音」

「うん。私も、大好きやで」


 この上無い程の幸福感に包まれたまま、私たちはまた唇を重ねる。歯止めが利かなくなっているのは蒼依か、私か、それとも両方か。勉強をしてからという口約束を忘れて、蒼依は私の服の中に手を潜り込ませてきて、私はそれを受け入れた。


 寒いからと布団に潜ってからは更に遠慮が無くなり、結局、勉強しようとベッドから降りたのは十六時を過ぎた頃だった。


「蒼依見て」

「何?」

「髪さらさら」


 乱れた髪を整えようと手で自分の髪に触れた私は、この感動を共有しようと蒼依にそのさらさら加減を見せつけると、蒼依は割れ物に触るかのように手を近付け、そっと私の髪に触れた。


「本当だ」

「でしょ? すごくない?」


 手櫛を入れても全く引っ掛かる事無く毛先まで通り、その触り心地は篩に掛けた砂が指の隙間から流れていくようで、私は何度も何度も繰り返し髪を撫でる。


「私のも何かいつもより柔らかい」

「ほんま?」

「ほら」


 自分のに触るよりもずっと丁寧に触れると、確かに癖は残っているが、綿のように柔らかかった。


「すご……。どうしよう。毎日する?」

「それは無理でしょ」

「いや、分かってるけどな?」


 今までで一番と言って良いくらいに触り心地の良い髪の感触を一頻り楽しんだ後、蒼依に軽く叱られて漸く勉強を始める。


 しかし今日に限っては本当なら集まって勉強する必要は殆ど無い。というのも、明日行われる試験の中に所謂暗記科目というものが無く、勉強するにしても一人で黙々と問題を解いて、分からない所を訊ねるくらいしかできない。


 要するに、今日二人で勉強しようと言ったのはただデートをするための口実だった。実際この日二人で勉強していた時間は一時間程度だった。


 外が暗くなっている事に気が付いた頃、休憩と称してシュークリームを食べ、帰りの電車を調べるつもりが脱線に脱線を重ねて、動画サイトで蒼依が最近見ているという配信者のゲームプレイ動画を鑑賞していると、あっという間に時間が過ぎ去っていった。


「お邪魔しました」

「はぁい。気を付けてね」


 少し前に帰って来ていた蒼依の母に挨拶をして、家を出る。外はすっかり暗くなっていて、所々懐中電灯が欲しくなる程度には暗い道を二人で手を繋いで歩く。


「どこまで送ってくれるん?」

「いつも通り駅まで行くつもりだけど?」

「この坂道往復すんの大変じゃない?」

「初めはそこそこしんどかったけど、もう慣れた」

「そっか。ありがとうな」

「ううん。紅音も来てくれてありがとうね」


 坂道を下りきると、車通りの多い道に出る。その直前に蒼依が不意に立ち止まった。


「どうしたん?」


 振り返ると、腰に腕を回され、抱き寄せられたかと思いきや、口を塞がれた。


「チャンスかと思って」

「もう……危ないからするなら言って」

「するのは良いんだ」


 うるさい、と蒼依の横腹を軽く小突いて、再び駅に向かって歩き出す。


 意外と坂道を下りきってから駅までの道も長いのだが、蒼依と話しながら歩いていると、五分も掛かっていないのではないかと思うくらいに早く駅に着いてしまう。


「電車もうすぐかな?」


 蒼依が時刻表と時計を見比べて言った。


「もうちょっと一緒に居たいなぁ……」


 半ば無意識に出た言葉だった。


「嬉しいけど、家族に心配掛けるのは良くないからね」

「うん」


 幸せを感じていた分、別れる時の喪失感のような物が大きくなる。高校生になって自分も随分大人になったと思っていた事もあったが、まだまだ私は子どもらしい。こんなだから姉らしくないと言われるのだろう。


 一方で蒼依はあまり寂しそうには見えない。出会った時から大人っぽい人だとは思っていたが、自分と比べてみると尚更蒼依は大人のように感じる。しかしそこに惹かれている事に気が付くと、自分は子どものままで居たいとも思えてきてしまう。


「蒼依」


 そんな思いを込めて蒼依の目を見つめる。


「大好き」

「……私も」

「じゃあまたね」

「うん」


 そっと手を離し、背中を向ける。カードを翳して改札を通り、振り返ると、蒼依が手を振ってくれていた。カードをしっかりと握り、反対の手で蒼依に手を振り返してエスカレーターに乗る。


 蒼依の姿が見えなくなると、再び心に穴が空いたような喪失感を覚える。この感覚はいつまで経っても慣れる気がしないが、きっとこれに慣れた時、また一つ大人になるのだろう。

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