第43話 1月27日

 通勤ラッシュから少し過ぎて息苦しさの無くなった九時半頃、約一時間の電車移動を終えてホームに降り立った私はよく分からない緊張感を持って改札を出る。


 軽く辺りを見渡し、見知った顔がどこにも居ない事を確認すると、邪魔にならないよう少し開けた場所へ移動して他のメンバーを待つ。


 いつもならここに蒼依が迎えに来て、そのまま蒼依の家に行って勉強をするという流れになるが、今日は彩綾と夕夏の二人が居る上に、目的地は蒼依の家では無く、この近くにあるカラオケなので、一度駅前に集合しようという事になっている。いくら何度か来た事があるとは言え、方向音痴と揶揄される私ですら迷わずに行けるのだから、道案内など無くても良いと思うのだが、それほど距離も無いから迎えに行くという蒼依の一声で駅前集合になった。


 遅刻をしないようにと毎度の如く早めに来たが、その所為で変に考え事をする時間ができてしまい、よく分からない緊張をしてしまっている。彩綾と夕夏と学校以外で会うのが初めてだからなのか、高校の友達や蒼依の前で歌わなければならないからなのか、或いはその両方か。何にせよ心臓が落ち着かない。


 気を紛らわせようとどこかをふらつくには時間が足りない。かと言って何もせずに待つには少々長い。今日はのんびりと行きたい気分だったため、各駅停車に乗って来たのだが、こんな事ならもう一本遅い快速電車か、その更に遅い電車に乗って来れば良かったかもしれない。


 そんな後悔をしていると、線路下の通路の方から蒼依が歩いてくるのが見えた。普段学校に着て来ている物とは違う藍色のロングコートに、足の長さが際立つ細いラインのデニムパンツを穿いた蒼依は、私と目が合うと、何か言いたげな笑みを浮かべながら胸の前で手を振り、こちらに近付いてきたかと思えば、そのまま流れるように私を抱き締めた。


「おはよう、紅音」

「おはよう。早いな」

「紅音なら早めに来てるだろうなぁっと思ってたんだけど、やっぱり居た」


 ゆっくりと身体が離れ、蒼依の右手が私の頬を撫でる。冷たい感触を警戒して咄嗟に目を瞑ったが、カイロでも持っているのか、普段は氷のように冷たい蒼依の指先は食べ頃のパンのように暖かかった。


「十時前集合って言うてたやん」


 そう言いながら頬に当てられた蒼依の手を掴み、そっと剥がしてカイロ代わりに両手で挟む。


「だからって三十分前に来ても暇でしょ?」

「蒼依が居るやん」

「私が来てなかったら暇だったって事じゃん」

「その時は……まぁ、小説読むなりなんなりしとくし」


 ほんの一瞬、蒼依の顔に視線をやると、蒼依は私の顔をじっと見つめていて、私は咄嗟に目を逸らし、ひらひらと木の葉が落ちていくように視線を再び繋がれている手に落とした。


「こんな寒いのに?」

「だって待ち合わせ場所に居らな怒るやん」

「怒りはしないけど、もう着いたって言ってたのに居なかったら心配になるでしょ?」

「心配してくれてんねや」

「そりゃあそうでしょ。自分でどこか行くなら何かしら連絡がある筈なんだから、無かったら誰かに攫われたとか、事故に遭ったとか、そういうの想像するじゃん」


 その言葉を聞いて「へぇ」と素っ気無い風の返事をしながら、私は自分の頬が吊り上がっていくのを感じていた。


「なのに紅音はふらふらとどっか行くんだから」

「今怒ってる?」

「怒ってるかも」


 微かに笑い声が漏れたのを聞いてちらりと蒼依の表情を覗き見ると、どこからどう見ても怒っているようには見えなかった。それでも念の為に「ごめん」と蒼依の目を見て言うと、蒼依はいつもの微笑みを見せた。


「いいよ。冗談だから」

「謝罪返して」

「怒ってはないけど反省はしてね? 心配になるっていうのは本当だから」

「任せて」

「本当に分かってる? すごいにやついてるけど……」

「大丈夫、大丈夫。ちゃんと連絡入れれば良いんでしょ?」

「場所を離れるならね」


蒼依に少々呆れの色が見え始めた頃、京都方面へ向かう電車が到着するというアナウンスが聞こえてきた。時刻は九時四十三分。私が調べた限りでは、この電車に乗っていないのなら残り二人は遅刻が確定する。


「二人とも乗ってるかな?」

「まだ四十分でしょ?」

「いや、この次はもう五十九分とかやったから、これ乗ってなおかしい」

「そうなんだ」


 そんな事を話しながら改札の方を覗き込んでいると、二人がきょろきょろと辺りを見渡しながら改札から出てきた。手を振ってアピールしてやると、先に気付いてくれた夕夏が彩綾の腕を引いてこちらへやってきた。

「おはよう」とそれぞれ言い合い、早速カラオケに向かう。


「二人とも早いなぁ。紅音って私らと同じの乗ってた?」

「ううん」

「紅音は九時半には居ったで」

「早過ぎん?」

「だってお店が開くのが十時やろ? その前に集まろうって話やったんやから、別に間違ってないやん」

「間違ってはないけど三十分前はさすがに早過ぎやって」


 あはは、と口を開けて彩綾が笑うと、蒼依が「ほら」と得意気に笑う。


「そういう彩綾はいっつもぎりぎりやけどな」

「遅刻はしてへんねやから良くない?」

「夕夏は早めに来てそうね」

「夕夏も二十分前とかに着いたって連絡来るわ」

「やっぱりそうなんだ」

「でも紅音程ではないし」

「いやいや、私だって別にそんな早よ来てへんやん」


 味方だと思われた夕夏に容赦無く梯子を外され、自分でも苦しい言い訳だと思いながらも否定してみたが、案の定「三十分は早いから」と蒼依に冷たく突き落とされてしまった。


「蒼依だって三十分くらいに来た癖に」

「紅音が絶対居ると思ったからね。私は普段早くても十分前だから」

「……別に早く来たって損は無いし」


 そんな私の苦し紛れの反撃は蒼依の「寒いじゃん」という一言で一蹴されてしまい、腹癒せに軽く蒼依の横腹を小突いて満足しておく。


 小さな川を渡ってすぐの所に目的のカラオケ店がある。もう少し進んだ所に別のカラオケ店があるが、多数決を取ろうという案が出るよりも早く、どっちでも良いと三人が言ったため、彩綾の意見が通された。


 今日は土曜日なので混んでいたら別の所にしようという話もしていたが、まだ開店よりも早い時間だからなのか、私たち以外にはまだ一組しか並んでいない。


「フリータイム取れそうやね」

「そうね。一応部屋に来ても良いように準備というか、片付けはしてあるけど、無駄になりそう」

「いやぁ、蒼依の家も行ってみたいけどなぁ」

「そんなに期待しても応えてあげられないから」

「夕飯を蒼依の家で食べるか」

「却下」

「ですよねぇ」


 蒼依と彩綾が話しているのを聞きながら冷たい手をポケットに入れて、ふらふらと足を動かして寒さに耐えながら時間の経過を待つ。


 ふと、私と同じように黙って二人の会話を聞いていた夕夏と目を合った。


「紅音ってカラオケはよく行くの?」

「んー……たまに?」

「やっぱり妹さんと?」

「ううん。中学の時の友達。妹は誘っても断られるから」


 よく部屋から可愛らしい歌声が聞こえてくるため、歌う事自体は少なくとも嫌いではないと思っているのだが、いつからか誘っても断られるようになってしまった。


「そう言えばあんまり紅音の家族事情って知らんねんけど、あんまり仲良くないん?」

「いや? 確かに最近妹が部屋に籠もりがちで会話は減ったけど、一緒にゲームしたり料理したりはするし、仲はええと思うで?」

「じゃあなんやろ。思春期?」

「あぁ……まぁ、そのくらいの年齢ではあるし、可能性はあるけど……」

「でもゲームは一緒にするんやもんな」

「うん。本借りに部屋を行き来したりするし、抱き付いたりも全然してくれるしな」

「音痴やからカラオケは嫌とか?」

「いや、音痴ではないと思うで。真面目にって言うたらあれやけど、音程は取れる筈」

「なるほどねぇ」


 夕夏のその言葉の続きを待っていると、彩綾が夕夏の肩に腕を回して乱入してくる。


「何の話してんのー?」

「紅音って何歌うんかなぁって」


 特に驚いた様子も無く、夕夏が淡々と嘘を吐いた。


「確かに。紅音ってあんまりネット使ってないもんな。K-POPとか歌ったりして」

「いやいや、普通に日本の曲歌うし」


 隠すような事でもないのにどうして嘘を吐いたのだろう、と疑問に思いながらも話の流れに乗っておく。


「個人的には蒼依が何歌うんかめっちゃ気になるんやけど」

「うんうん。蒼依が歌う姿がまず想像できひんもん」


 夕夏の言葉に彩綾が同意する。


「私も別にそんな変わった物は歌わへんて」


 あっ、と声を上げそうになった所を喉で堰き止めて口を手で覆うと、一瞬、蒼依の視線を感じたが、話を遮りたくはないので気付かない振りをする。


「二人は一緒にカラオケ行った事無いって言ってたっけ?」

「そうね。そういう話になった事も無いかも。ね?」


 蒼依が首を傾げ、私を見てくる。突然話を振られた私は首をゆっくりと傾けながら重力に従って視線をアスファルトに落とし、「あー」と声に出して考えているアピールをしつつ、軽く記憶の中を探ってみてから頷いた。


「……うん。そうかも」

「二人とも歌うの嫌やったりせぇへんよな?」

「それは大丈夫。私ら二人とも音楽の授業取ってるんだから」

「でもそれって単に吹奏楽部やったからとかそんなんじゃないの?」

「まぁ、私は消去法みたいなとこはあるけど……」

「私も消去法」

「あっ、そうなんだ」

「歌うのは好きやけどね」

「声大きいもんね」

「忘れろ」


 そうこう話しているうちに開店時間の十時になり、前の人たちに続いて暖かい店内に入る。


 この店に来るのは初めてなので、来た事があるという彩綾に受付を任せ、機種はどうするだとか、ドリンクバーはどうするだとかのコースの相談と言う名の同意確認にだけ答える。


「二一〇やって」

「了解」


 部屋を教えてもらい、階段を上がって飲み物を各々入れてから、壁に書かれている案内に従って部屋に向かう。


 三人に続いて部屋に入り、私はあまり飲み物を取りに行かないため、座席の奥の方に座らせてもらったが、実の所、ただ電話を取りたくないだけだったりもする。


「さて、一曲目どうする?」


 予想していた事ではあったが、彩綾が今日の目的は初めからこれだったかのようにリモコンを操作し始める。


「勉強しに来たんじゃないの?」


 蒼依は私の味方のようだ。


「とりあえず気分上げるためにも歌おうや」

「彩綾はずっとテンション高いじゃん」

「てことは他のみんなはテンション低いんやろ? 一曲目どう?」

「遠慮しとく」

「じゃあ私が一曲目歌おうかな」

「……まぁいいか」

「あっ、負けた」


 どうしてこんなにも彩綾のテンションが高いのかは分からないが、その勢いに負けた蒼依は鞄から勉強道具を出して準備だけしておくのかと思いきや、この騒がしい中で勉強をし始めた。


「普通に勉強するじゃん」

「だって合間にやっておかないと、歌った後は多分疲れてできなくなるでしょ?」


 そう言いながら蒼依はペンケースからペンを取り出してカチカチと芯を押し出した。


 個人的には私が歌っている最中に蒼依が無視して勉強していたら空しくなるので、できれば聴いていてほしいという想いがあるのだが、それを真っ直ぐに伝えるのは気恥ずかしい。


「みんなが勉強してる中で歌うの辛くない?」

「どうせ勉強しないでしょ」

「いや、するかもしれんで?」

「こらそこ二人! 人の歌を聴かずに勉強すな!」


 部屋にマイク越しの彩綾の声が響き渡り、蒼依は顔を顰めた。


「まだ歌ってないじゃん」

「今入れたとこだから。というか今から一時間は勉強禁止!」

「勉強会に来たつもりなんだけど」

「まぁ、こうなる事は予想してたし」

「そうなんだけどね?」


 蒼依の言いたい事はよく分かるが、彩綾が歌っている横で黙々と勉強をするなんて事は私にはできない。それは良心が痛むからでもあるが、それ以上に私が歌を聴きながらでは集中できないという単純な理由もある。


 垂れ流しにされていた何かしらの宣伝映像が切り替わり、彩綾が入れた曲のタイトルが表示され、イントロが流れ始めてすぐに音程を示すグラフと歌詞が表示された。


 彩綾の歌声は普段の話し声とはまた違った真っ直ぐな芯のある声で、体育館でもきっとよく声が通るのだろうというような声だ。それがまたこの曲とよく合っていて聴いていて心地良い。


 曲を入れるタッチパネルは夕夏が持っているため、恐らくは次に夕夏が歌ってくれるのだろう。そのまま反時計回りに行くとすると、夕夏の次に回ってくるのは私だ。


 こういう時にどうやって盛り上がれば良いのか分からないので、自分が歌う曲を携帯で探す。


「何歌おうかなぁ」

「彩綾がアニソン歌ってるし、アニソンで良いんじゃない?」

「アニメそんなに知らんねんなぁ。この曲も知ってるけどアニメは観た事無いし」

「私もアニメは観ないけどこの曲は知ってる」

「そんなもんよねぇ」


 普段使っている動画サイトで再生リストに入れてある曲の中からアニソンを探してみるが、普段聴かないのだから入っている訳が無かった。


「紅音ってボカロとか聴いてるんだっけ?」

「うん。ボカロっていうより、歌い手さんやけど」

「じゃあそれで良いじゃん」

「因みに蒼依はこん中で知ってる曲ある?」


 そう言って蒼依に肩をくっつけて携帯の画面を見せると、蒼依は指で画面をスクロールしていく。


「あっ、これ前紅音が教えてくれたやつじゃない?」

「あぁそうね。教えたというか、蒼依が勝手に私の携帯弄ってただけやったような気もするけど」

「まぁ、細かい事はいいじゃん。これ歌ってよ」

「じゃあそうしよう」


 その動画のページを開いた状態で画面を切って夕夏が曲を入れるのを待ち、その間は彩綾の歌を聴く事に専念する。


 やがて曲が終わり、パチパチと軽い拍手をして適当な褒め言葉を投げる。


 画面が切り替わると、八十九点というそれなりに高い点数が表示された。


「すごい、もうちょっとで九十点やん」

「何気にこんな高得点初めてかも」


 彩綾は嬉しそうに頬を緩め、ドリンクを一口だけ飲む。


 この曲の平均点が高い所為で八十九点というのが平凡な点数のようにも思えるが、それはただこの曲が平均点が高くなる程上手い人がたくさん歌っているというだけで、八十九点という点数はどんな曲でも取るのは難しい。私もそんな高得点はなかなか取れない。


「カラオケの採点って以外と点数行かへんよなぁ」

「まぁ音程結構ずれてたし当然っちゃ当然やけどね」

「学校の試験もこれくらい取れたらええのにね」


 歌う曲を決めた夕夏がタッチパネルをこっちへ寄越して彩綾に釘を刺すが、刺された本人は「ほんまにそれ」と指を差してへらへらと笑っていた。恐らく今までの試験勉強でもこうして遊んでいたのだろう。それに巻き込まれて点数を落とさない夕夏も実はちゃんと勉強に時間を費やせば私よりも平気で点数を上回るのではないかと思うが、彩綾が夕夏を巻き込まないなんて事は天変地異でも起こらない限りは有り得ないだろう。


 曲が始まり、夕夏がマイクを持つ。普段は寡黙気味で話す時も淡々としている夕夏だが、どうやら歌う時もそれほど変わらないらしい。棒読みとまでは言えないが、どこか語るような歌い方で、彩綾とはまた違う耳心地の良さをしている。欲を言えばもう少し音量を上げたいところだが、マイクの音量を上げるとそれは遠回しに声が小さいと貶す事になってしまうのではないかと思い、ぐっと堪えて先程蒼依にリクエストされた曲を探す。


 夕夏が歌っている後ろでひっそりと聞こえない程度の鼻歌で歌いながらタッチパネルを操作し、送信すると、歌詞などが出ているテレビ画面の上部に私が入れた曲が表示されたのを確認し、タッチパネルを蒼依に手渡す。


 夕夏が歌い終わり、義務のようにパチパチと拍手を送り、在り来たりな褒め言葉を投げておく。こういう時にどんな事をすれば良いのか分からず、八十三点という何とも言い難い点数を見て、適当に褒めておく。


 歌っている時にも何かをすべきなのだろうか、とふと思う。今日は一段と騒がしい彩綾も小さく手拍子を入れる程度に収めているので、これで何も問題無いようにも思うが、やはりどこか寂しいとも感じる。自分が歌っている時にタンバリンやマラカスなどで盛り上げられたら面白いかもしれないが、正直このメンバーでそんな事をしようとするのは彩綾くらいのものなので、この四人で行くカラオケでは大人しく手拍子をする程度が正解なのかもしれない。


「マイクどうぞ」

「あぁ、ありがとう」


 蒼依からマイクを受け取り、曲が始まるまでの気まずい時間にマイクのスイッチをカチカチと入れたり切ったりして遊ぶ。どうしてこんなに緊張しているのか、自分でもよく分かっていない。自分が下手だとは思っていないし、点数も先に歌ってくれた二人と大差無い上に負けたからと言って何かあるわけでもないのだから、臆する事無く普通に歌えば良い。


 曲が流れ始め、静かに深呼吸をする。きっと歌い始めれば何も気にならなくなる。そう願いながら息を吸い込み、静かに歌い始める。


 この『ドナーソング』という曲は特にお気に入りの曲で、歌っていても気持ち良い上に今までで一番高い点数を出したのもこの曲だ。所謂十八番というやつだ。


 歌の無い間奏が流れている時間をどう過ごすかも悩みがちなのだが、幸いこの曲の間奏は短いため、ちょっと蒼依の方を見たり飲み物を飲んでいるだけで次の歌部分に入ってくれる。その点でもこの曲は良い。


 音程グラフはあまり気にせず歌いたいように歌い、三人から拍手を貰う。


「めっちゃ上手いやん!」

「紅音ってそんなに声出るんやな」

「ね。彩綾よりでかかった」


 素直に受け取れる褒め言葉を彩綾から貰い、夕夏と蒼依からは声の大きさに対する驚きの声が上がった。


 少しして表示された点数は九十二。今のところ最高得点であり、私にとっても過去最高得点だった。


「授業でよく聴いてるし、実技試験でも扉越しに聞こえてたから上手いのは知ってたけど……、もしかしていつも遠慮してたりする?」

「え? どうやろ……。合唱とかが多いからそれっぽい歌い方にはしてるけど……」

「そっか、周りに合わせてるからか」

「そんな力を封印してたみたいなんちゃうし」

「というか曲もええなぁ。後で聴こう。ドナーソングやっけ?」


 好きな曲を気に入って貰えた事に頬が上がるのを感じながら、私は頷き、視線を画面に移す。


「今更やけどみんなアニソンとかボカロ分かるんやな」

「普段そういう話もたまにしてるんやからそらそうやろ」

「いや、そうなんやけど、特に紅音と蒼依はそういうの聴かなさそうやん」

「あぁ、まぁ……それは確かに」


 夕夏と彩綾が話しているのを聞いていると、イントロが流れ始め、蒼依の低く柔らかい歌声が部屋に響く。この歌声が好きなのか、ただ蒼依の事が好きだから声も好きだと感じているのか分からないが、この声を聴いているだけで嫌な事を全て忘れられそうな気がしてくる。


 歌声に聴き惚れながらじっと蒼依の顔を見つめていると、不意に蒼依が私に気付き、幸せそうな笑顔を見せてくれて、何とも言えない幸福感が胸を満たす。


 蒼依が歌い終わり、パチパチと拍手を送る。


「いやぁ、蒼依も上手いけど、なんというか……ねぇ?」

「うん」


 彩綾と夕夏が私を見てにやにやと笑っている。どうしたのだろうかと首を傾げていると、蒼依が眉を顰めて「なに?」と訊ねた。


「いや、紅音がめっちゃ幸せそうにしてるのがおもろくて」

「……」

「ごめんて。そんな睨まんといてよ」


 無意識に不機嫌が顔に出てしまっていたらしい。顔を背けて表情をリセットする。


 蒼依の点数は八十七点で、平均点と殆ど同じ点数だった。


「おっ、歌では私の方が上らしいな」

「足したら私の勝ちだけどね」

「一回ずつ歌ったし、勉強する?」


 彩綾と蒼依が言い争いを始めそうな所を夕夏が間に割って入った。当然彩綾は「えぇー」と文句を言うが、それを無視して蒼依が「そうね」と同意する。


「今日の目的は勉強やしな」

「一時間は歌うって言うたのに……」


 そんなに歌いたいならさっさと曲を入れてしまえば良いのに、と思ったが、タッチパネルは蒼依の荷物と一緒に確保されていた。どうやら蒼依は始めからそういうつもりだったらしい。


「そんなんやからいっつも赤点ギリギリなんやろ?」

「一理ある」

「じゃあほら、ノート出して」


 怠ける娘とそれを焚き付ける母親を見ているみたいだと思いつつ、私もノートとペンケースを鞄から取り出し、テーブルの上を整理してノートを広げる。それから飲み物を一口飲んで乾いた喉を潤し、気分を入れ替える。


「よし、じゃあ今から最低でも十二時までね」

「長くない?」

「長くない」

「はぁい。じゃあその前に飲み物取って来て良い?」


「逃げる気か?」と夕夏が睨み付けながら低い声で言うと、「いやいや」と彩綾が顔の前で勢い良く手を振って否定する。


「ほんまに飲み物取りに行くだけやから」

「あっ、じゃあ私も行こうかな」


 そう言って蒼依がコップを持って立ち上がる。思わず蒼依の手にあるコップを見ると、いつの間にか中は空っぽになっていた。私のコップにはまだ半分以上入っている。


「夕夏は……大丈夫そうやな」

「うん。紅音といちゃついとくわ」

「えっ」

「急いで戻ってくる」

「行ってらっしゃ~い」


 笑みを浮かべて手を振る夕夏に倣って手を振り、二人を送り出す。


 夕夏も普段通りに見えて実ははしゃいでいるのだろうか。


「さ、勉強しよっか」

「あっ、うん。そうやね」

「紅音は何すんの?」

「えっと……せっかく四人集まってやるんやし、前みたいに問題出し合う感じでええかなぁって思ってたんやけど……」

「あー……確かに。私もそうしよかなぁ」


 夕夏はくるくるとペンを回し、それをペンケースに仕舞った。


「じゃあどうしよ。月曜の一発目ってなんやったっけ?」

「一日目は数学と英語と……生物かな?」

「じゃあ生物やるか」

「おっけー」


 今日持って来ているノートには全教科を纏めてあるため、ページをいくらか捲って生物の場所を開く。その時扉が開かれ、蒼依が帰ってきた。


「ただいまぁ」

「おかえり」


 蒼依はテーブルにコップを置いて私の隣に座り直すと、私の右手に左手を重ね、私の開いているノートを覗き込んでくる。


「生物やる感じ?」

「うん。また問題出し合う感じでやろうかなぁって」

「良いんじゃない? せっかく四人で集まってるし」


 遅れて彩綾も戻ってきて、渋々といった様子ではあったが、やる気を出してくれたところで勉強会を始めた。


 始めてみれば彩綾の集中力は高く、真剣にやってはくれるのだが、やはり日頃の勉強不足が祟っているようで、私たち三人の出す問題にほぼ毎回頭を悩ませている。毎度の事ではあるが、彩綾が答えを出したら他二人も答えを出して、正誤判定をする。というのを彩綾が音を上げるまで繰り返す。


 今日は珍しく彩綾が約束していた正午を過ぎるまで音を上げる事は無く、先に私の集中が切れてしまった。その後昼食を食べ、雑談をしたり歌を歌ったりして過ごし、二時頃にまた勉強を再開し、休憩にまた歌を歌う。最後の方には私と彩綾の集中力が続かなくなってしまった所為で歌う時間が増えていたが、結果的には充分に勉強もできた。


 フリータイムの終了時間は十九時だが、夕飯まで食べる予定ではなかったという事もあり、十八時には部屋を出て解散となった。


「いやぁがんばったわぁ」


 店を出た所で、少し掠れた声で彩綾が言う。


「こんなに勉強したん初めてちゃう?」


 そういう夕夏の声は掠れてはいないが、疲労が滲み出ていた。


「私たちも二人だと遊んじゃうから助かった」


 蒼依は声も掠れていなければ疲れの色も見えない。相変わらずの体力お化けだ。


「紅音、どうかした?」

「えっ? ううん」

「何か言わなかった?」

「何も言うてへんで?」

「そう?」

「うん」


 誤魔化すためにも蒼依の手を取り、しっかりと握る。良いのか、という視線を蒼依が向けてきたが、二人は私たちが付き合っている事を知っているのだから、今更だろう。


 いつもと同じように適当な話をしながら駅に向かい、改札の前で電車を待つ。私は快速電車に乗った方が早いのだが、どうせならと二人と同じ各駅停車に乗って帰る事にした。


 軈てアナウンスが流れ、話を切り上げる。


「じゃあ今日はありがとうな」

「うん。三人とも気を付けて」

「蒼依も気を付けて帰ってな」

「うん。ありがとう。紅音は帰ったらちゃんと連絡入れてね」

「うん。じゃあまた」


 軽く手を振り、改札を抜けてエスカレーターを上がる。それからすぐにやってきた電車に乗り込み、一つだけ空いた席を二人に勧められて腰を下ろす。


「紅音もありがとうな」

「ううん。私も助かったし」


 ガタゴトとどこか心地良いリズムに眠気を誘われる。せめて二人が降りるまでは起きていようと、座り直す振りをして眠気を覚まそうと試みるが、頭の上から彩綾のくすくすと笑う声が聞こえてくる。


「めっちゃ眠そうやな」

「いや……うん。めっちゃ眠い」

「寝ちゃってもええで?」

「二人が降りたら寝るわ」

「乗り換えなアカンのちゃうの?」

「そうやけど、疲れたしこのままゆっくり帰るわ」

「そう?」


 私たちが話をやめると、疲労感の漂う静けさが車内を満たす。何故か途中で二人に頭を撫でられたりしながらなんとか二人の降りる駅まで意識を保ち、手を振って二人を見送った後、すぐに私の意識は落ちていった。

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