第42話 1月17日

 怒られるのは嫌いだ。


 自分が失敗したのだという事を分かっていて充分に反省しているのに、そこへこちらのミスを指摘して反省しろと教えてやった気になっている人間には話が通じない。彼らはただ他人のミスを指摘して優越感に浸りたいだけなのだろう。


 中には純粋な善意を持って諭すように叱ってくる人たちもいる。彼らは話の通じない人たちとは違い、大声で怒鳴って威圧してきたりはしないのだが、その静かに諭すような言い方が子ども扱いをされているようで妙に腹立たしい。縦令それが私のために言ってくれているのだとしても、まるで私が理解できていないかのように言ってくるのは気に食わない。


「やる気ある?」


 今までに何度も何度も、うんざりする程に言われた言葉が耳に入ってきて心臓に突き刺さる。


 やる気があるか無いかで言えば、無いに入るのではないかと心の内で思うが、それを口にすればどうなるかなど想像に難くないため、私は目の前に座る名前の分からない先輩から視線を逸らして閉口する。


「やる気あんのかって訊いてんの」

「はい……」


 トントン、と指で机が叩かれる音を聞き、視線を机の上に彷徨わせながら嘘を絞り出した。


「じゃあちゃんとやって。そんな難しい事じゃないんやから」


 心底呆れたような溜め息が正面から聞こえてきた。


 言われてできるなら既にやっている。それがどうして分からないの、と言ってやりたいが、私にそんな度胸は備わっていない。私にできるのはこの長ったらしく説教を垂れてくる先輩の言う事に頷く事だけだ。


「返事は?」

「はい」


 不快感を隠そうという気にもなれず、低い声で答えると、先輩はそれに気付いた様子も無く席を立ち上がり、私にいつもやっている仕事を指示して部屋を出て行った。


 私の事で溜め息を吐く程に悩むなら私にレジをやらせなければ良いのに、と自分の願望が半分以上混じったできる筈も無い事を心の中だけで求めてみる。もしこの職場が私の事を優先的に考えてくれるような場所なら叶ったのかもしれない。それか私が何かしらの病気を患っていたら、カウンターに立たされる事も無かったのだろうか。


 世の中には適応障害や鬱病などの病気に因って仕事を休まなければならない人が居るらしい。アルバイトに行くまでの時間があまりにも憂鬱で、何とかならないかとネットで調べていた際にそういった病がある事を知った。


 何らかのストレスに因って気分が落ち込んだり、身体が怠かったり、やる気が起こらなかったりと、昔なら根性無しと言われてしまいそうなそれらの症状が生活に支障を来すレベルで出る物らしい。


 もし、私もそんな病気を抱えていたら、どうしてできないのかと怒られるような事は無かったのだろうか。私は何の病気も怪我もしていない人間だから、あれもこれもできると思われ、苦手な事でもやらされ、期待外れだと呆れられるのだろうか。根性無しだと怒られるのだろうか。


 そんな風に病気を免罪符として使おうとする私は最低だ。自分の失敗をどうにもならない事だと諦めて、逃げる事ばかり考えている私は、正に根性無しだろう。


 先輩に負けないくらいの溜め息を吐き、控え室を出て任された仕事に取り掛かる。先輩に怒られた事に対する逆恨みの気持ちを抑え、気晴らしのつもりでいつも通りの仕事を少し丁寧に、のんびりと行う。これを見られて仕事が遅いと怒られたら、その時はその時だ。


「すみません」


 不意に明るい女性の声が耳に入り、元の場所に戻そうと取り出した本を両手で持ち、そちらの方へ視線を向けると、見慣れない制服を着た少女がすぐ傍で私を見ていた。


「はい」


 考えるよりも早く返事をする。それから胸の中に渦巻くもやもやを隠し、接客をする役に入る。友達とごっこ遊びをする時のようなテンションで、しかし仕事という事を念頭に置いて真面目な演技を心掛ける。


「ぁ……どうなさいましたか?」


 喉を絞められたような声が一瞬漏れたが、知らない振りをして目の前の少女を見ようとして、目が合った次の瞬間に視線を少女の周辺で泳がせる。


「この本の最新巻を探してるんですけど……」


 何となく同世代よりは幼く見えるその少女は、私の無駄な心配を余所に、自らの携帯の画面を私にも見えるように肩を並べ、画面の中央部に表示されている漫画の表紙を指差した。


 読んだ事の無いタイトルだが、見覚えはあった。この記憶にある物が最新巻だというのなら、恐らく漫画コーナーと小説コーナーの境目に置かれている書棚に置いてある筈だ。彼女が店員に訊くという手段に出ている以上、既に棚は確認した筈で、私にできる事と言えば棚の下にストックが無いかどうかを確認する事と、もし必要ならば取り寄せをする事だ。


「えっと、最新巻ならこちらの棚に纏めて置かれているので……」


 場繋ぎに考えていた事を口にしながら少女を棚のある場所まで連れて行き、念の為陳列されている数多くの本の背表紙を端から眺め、見落としていないか探してみる。しかし少女の目に狂いは無かった事が分かり、私はしゃがんで下の引き出しを開け、同じタイトルを探す。そうすると一分もしないうちに記憶した物と同じ文字列を見つけた。


「あっ、これですか?」


 いくつかあるうちの端を抜き取り、表紙を彼女に見せる。


「あっ、はい! それです」

「良かった」


 透明のビニールで包装されているそれを渡し、傷や汚れなどの不備が無いかを確認してもらう。


「大丈夫そうです。ありがとうございます」

「いえ……」


 返す言葉が咄嗟に出て来なくて、さぁっと身体が冷える。


「えっと、これってもうこのまま持って行っても大丈夫ですか?」

「あ、はい。大丈夫ですよ」


 思わぬ助け船に慌ててしがみつくようにして頷いた。


「あっ、ありがとうございます」


 少女は軽く頭を下げ、ゆっくりとレジの方へ歩いて行った。それを暫く見つめた後、私はふぅ、と息を吐き出した。


 接客ができないという訳ではない。ただ、レジのようにやらなければならない事、覚えなければならない事が多いと、頭の中が真っ白になり、何もできなくなってしまう。今のように歳下であろう相手でさえ緊張して上手く言葉が出せず、挙動不審になってしまうのに、今のところ何とかなっているのは仕事内容が簡単だからだ。店内を見回り、客に何か訊かれたら、訊かれた事に対して応えるだけ。自分で分からなければ控え室かレジに居る先輩に訊けば良い。それくらいの簡単な事なら私にだってできるのだが、レジカウンターに立つと、手順もパターンも多く、パニックになってしまう。


 昔から緊張しいで面接でも自分が何を言っているのか分からないくらいに緊張する癖に、どうしてこんな仕事ができると思っていたのか。カフェの店員をやってみたいなどと軽い乗りで言っていた過去の自分を嘲笑いたくなる。


 一瞬、先程犯したミスが頭に過ぎり、心臓が締め付けられ、軽い吐き気を催す。鼻からゆっくりと空気を吸い込み、口からゆっくりと吐き出す。それで吐き気が治まれば良かったのだが、そう簡単に忘れられる事でも無く、胃の中の物が逆流してきそうな気配を堪えながら私はいつもの仕事に戻った。


 その後は誰かに何かを言われるでもなく仕事を終えて、こそこそと帰る準備をしていると、突然店長に名前を呼ばれ、嫌な予感に内臓が引っ繰り返りそうになるのを感じながら荷物を持って付いていく。


「今日は私途中まで居らんかったけど、大丈夫やった?」

「えっと……はい」


 何の事を訊いているのか分からなかったが、とりあえず頷いて様子を窺う。


「レジあんまりやったって訊いたで?」


 それを聞いた瞬間、ぎゅっと心臓を掴まれたかのように身体が硬直し、ほんの一瞬、呼吸の仕方を忘れる。


「まぁ、もう井手本さんが結構言うたみたいやから私もそんなに言うつもりはないけど、やっぱりこっちも給料出してるからにはちゃんと働いてもらいたいねんか」


 店長の言い方はとても優しく感じる。けれども並べられている言葉には役立たずだと言っているような棘があるようにも思えた。


 右手の爪を二の腕に突き立てて意識を逸らそうとする私に店長は続ける。


「レジはできそう?」

「えっと……そう……ですね……」


 できる、と言うべきなのかもしれないが、自分の出来具合に関しては自分でもよく分かっているつもりだ。少なくともこれから一週間、一ヶ月と先輩たちに教えてもらいながら仕事を覚えたとしても、結局客と話すという所で緊張して頭が正常に機能しなくなるため、今以上に直接的な迷惑を掛けてしまうような気がしてならない。しかしここでできないと言うと、アルバイト自体を辞めなければならなくなるのではないだろうか。


 そんな風に考えていると、ふふっ、と店長が笑い声を漏らした。


「無理そうなら一旦レジ以外の仕事に専念してもらうけど」


 俯かせていた顔を上げて目を瞬かせる。


「正直フロアの方やってくれるだけで充分助かってるし、無理に苦手なレジやってもらう必要はないんよね。接客もやってもらうとは言うたけどね」

「そうなんですか?」

「そう。さすがにずっとそのままってわけにはいかへんけど、フロアやってもらってる間にも接客はしてもらわなあかんので、そっちで慣れてもらうって感じかな。まぁ言うたら今まで通りって事やね」

「……」


 私にとってはこれ以上無いくらいに有り難い事だが、本当にそれでいいのかと逆に不安になって開いた口を再び閉じて視線をゆっくりと落としていく。


「どうする? やめといて今まで通りの仕事する?」


 気が付くと、私は頭を縦に振っていた。


 パチン、と店長が両手を合わせると、私はその音に驚いて肩を跳ねさせる。


「よし、じゃあそういう前提でやっていくし、伊東さんもよろしくね」

「えっ、はい」

「ほんまに説教とかするつもりで呼んだんちゃうけど、伊東さん自身のためにも接客は慣れていこな」

「はい」

「今日もちょっと言葉に詰まったり吃ったりしてたけど、あんな感じでやってくれたら全然ええし」

「はい」


 返事をしながら、店長はどこから見ていたのだろうかと首を傾げる。


「何か訊いときたい事とかある?」


 店長や先輩からよく出される問いに、私はいつも通り首を横に振って「今は大丈夫です」と答えた。


「じゃあそろそろ帰ろうか。ごめんね、長い事引き留めちゃって」

「いえ……大丈夫です」


 先に出といて、という店長の言葉に従って先に鞄を持って店の外に出る。


 今年の冬は寒くないかもね、なんて言っていた私を嘲笑うように冷え込む夜の空気に身体を震わせながらマフラーを首に巻き、手袋を嵌めて店長が出てくるのを待つ。その途中、蒼依に連絡を入れないと、と思いながらも手袋を外すのがめんどうでまた後回しにして真っ黒な空に浮かぶ三日月を眺めていると、後ろの扉が開いて店長が出てきた。


「あれ、待っててくれたん?」

「えっ……」


 どうやら私は「先に出ておいて」という言葉の解釈を間違ったらしい。その事に店長も気付いたようで、ごめんごめん、と笑った。


「良かったら送っていくけど……」

「え、いや、大丈夫です」


 店長が怖いだとか、そういった感情とは関係無く、反射的に断っていた。


「そう? もう真っ暗やし気ぃ付けや」

「はい。ありがとうございます」


 楽できそうなチャンスを逃した私は店の裏手にある駐車場の暗がりに消えていく店長の背中を見送った後、とぼとぼと帰路に就いた。


 駅に着いて何も考えず改札を通った私は乗らなければならなかった電車のテールライトを暫く眺めた後、ベンチに座ると、コートとスカート越しでもその冷たさが伝わってきた。


「冷たっ」


 周りに誰も居ない事を良い事に声を出して胸のもやもやを少しでも晴らそうとリアクションを取る。鞄を膝の上に置き、寒さを凌ぐために足をぱたぱたと振り子のように動かしつつ、コートの内ポケットから携帯を取り出し、右手の手袋を外して蒼依に連絡を入れる。


 いつもと全く同じでは詰まらないな、というふとした思い付きで一文字ずつ改行して縦書きにしてみる。それから暫くその画面を開いたままにしてぼうっと眺めていると、既読の文字が表示された。


 返ってきたのは残念ながらいつもと同じ『お疲れ様』という硬い文字だった。


 別に構わない。少しも気に食わない事は無いのだが、やはりせっかくいつもと違う事をやったのだから、それに乗っかって欲しかった。その不満を『やり直し』という四文字に込めて送る。そうすると今度は『面倒臭い』と縦文字で送られて来た。


 このくだらないやり取りの中に蒼依らしさを感じて口元が緩む。


『蒼依もお疲れ様』

『ありがとう。今電車?』

『駅。乗り遅れた』

『そうなんだ。大丈夫?』

『寒いだけ』


 送信して、それから自分の手が冷たくなっている事に気付く。原因は明らかだが、手袋をしてしまうと携帯を操作できなくなってしまうため、こればかりはただ我慢するしかない。


『蒼依は今何してんの?』


 すぐに既読が付くのだから、少なくとも勉強はしていないのだろうと予想しながら返信を待つ。その間にアナウンスが流れてきて、快速電車が通過していった。


 あとどのくらいで来るのだろうか。やはり少し走ってでもあの走り去って行った電車に乗るべきだったのかもしれない。それか店長の厚意に甘えておいた方が良かったのかもしれない。とは言え店長に誘われた時も、電車が既に駅に着いていると気付いた時も、気分ではなかったのだから仕方が無い。


『今お風呂入ってる』

『携帯持って入ってんの?』


 送信してすぐに既読が付き、蒼依から電話が掛かってくる。携帯を持って風呂に入っているというだけでも意味が分からないのに、一体何を考えているのかと戸惑いながら応答する。


「はい」

『聞こえてる?』

「うん」


 どこか楽しげな蒼依の声に混ざって微かに水が流れる音が聞こえる。


『今大丈夫だった?』


 よく聞くと蒼依の声も微かに反響しているように聞こえた。どうやら本当に風呂に入っているらしい。


「私はええけど……蒼依の方こそまずいんちゃうの?」

『大丈夫、大丈夫。さっき入ったばかりだから』

「いや、携帯」

『防水だし。身体洗う時はタオルで包んでたから』

「水蒸気とか危ないって聞いた事あるけど」

『あっ、そうなん? まぁ……大丈夫でしょ。ちょっとだけだし。電車は後どのくらいで来るの?』

「知らん。五分くらいで来るんちゃう?」


 そう言いながら顔を上げて辺りを見渡すと、電光掲示板が見える場所にある事に気付き、電車が到着する時間を確認して背凭れに身体を凭せ掛ける。


『相変わらずそういうの気にしないのね』

「だって、別に気にした所で何も変わらへんやん」

『それはそうだろうけどね』


 会話が途切れ、どこかから車の走行音が聞こえてくる。電話の向こうからは水の弾ける音が聞こえる。


『紅音はバイトどうだった?』


 突然胸が締め付けられたように苦しくなる。


「……どうって?」

『いや、何か面白い事とか無かった?』


 面白さなどとは正反対の出来事はあったが、わざわざ今そんな話をして気分を盛り下げるような事はしたくなかった。


「……別にいつも通りかなぁ」

『そっか』


 しかしそれによって会話がまた途切れてしまった。


 隣に居てくれたなら、きっとこんな沈黙は何の苦でもないのだろう。電話の向こうからは水の音などが聞こえてくるが、蒼依の存在は殆ど感じられない。


「蒼依」

『何?』

「……何でも無い」


 ただ沈黙が怖かったというだけで、それ以外に名前を呼んだ理由は無い。けれども蒼依はそこから何かを感じ取ったらしい。


『何かあった?』

「……何も無いって」


 せっかく蒼依が心配してくれているのに、捻くれ者の私は首を振って否定し、話を逸らそうと脳を働かせる。


「蒼依は部活どうやった?」

『私も別にいつも通りかなぁ。卒業式の曲の練習してるって昨日言ったもんね』

「うん。聞いた気がする」

『じゃあ本当にいつも通りだね。基礎練やって、曲練やって……、誰かと何か話した訳でもないしね』

「やっぱり毎日話してたらネタ無くなるなぁ」


 そうやって自嘲気味に言うと、『夜通話するのやめる?』などと蒼依が言い出した。冗談なのか本気なのか分からず、「えっ」という声を漏らした後、もしかすると蒼依は毎日の電話にうんざりしていたのかもしれない、とそんな考えが浮かんでくる。


「……電話すんの嫌なら別にええけど」


 不満を隠しきれずぶっきらぼうな言い方をしてしまったが、それを聞いた蒼依が笑い出した事で冗談だった事を察する。


『冗談だから、そんなに怒らないでよ』

「怒ってはない」

『すごい急激に機嫌悪くなったじゃん』

「蒼依が変な事言うからやん」

『変な事って言うけど、多分毎晩電話してるのなんて私たちくらいだからね?』

「そうなん?」


 私の演技で作っていた不機嫌はどこかに飛んでいってしまった。


 確かに今まで観てきた漫画やドラマなどの恋愛では、縦令それが学生の恋愛モノだったとしても、毎晩のように電話をしているような描写は無かったように思う。少なくとも私の記憶の中にはそんなシーンは存在していない。


「じゃあ……」


 ふと浮かんできた疑問を投げ掛けようとした時、アナウンスが流れてくる。電話で話をするには煩く、仕方無くアナウンスが終わるのを待つ。


『もう電車来るみたいね』


 アナウンスが終わるとすぐに蒼依がそう言った。電話越しでもはっきりと聞こえたのだろう。


『じゃあ私もそろそろ上がるから、また後で話そうか』

「うん」

『気を付けて帰ってね』

「ありがとう」

『じゃあまたね』

「またね」


 そう言うとすぐに通話が終了する。妙な虚しさを感じつつ携帯を内ポケットに仕舞い、到着した電車に乗り込み、空いていた端の席に座る。電車はすぐに動き出し、身体が大きく揺さぶられる。


 車内に暖房は掛けられていないようだが、座席の下にヒーターか何かがあるのか、足元からじんわりと暖まってくる。冷えた右手も徐々に熱を取り戻し始めた。


 荷物置きなのか何なのかよく分からないスペースに頬杖を突き、目を瞑る。眠たいという訳ではないが、本を読む気力は残っていなかった。


 車や電車に揺られていると、不思議と眠気に襲われる。目を瞑って耳に入ってくる音に集中すると、金属が擦れるような音や軋む音、ガラスを濡れた指で擦った時のような音など、様々な音が聞こえてくる。


 こんなにも騒がしいのに、どうして車内なら眠れるのだろう。この振動を再現した揺り籠を作れば夜眠れない赤ちゃんを寝かしつける事もできそうだ。なんて事を考えていた私は全く眠気に襲われないまま木津駅に到着し、電車を降りる。


 一度暖まった身体には外の空気はあまりにも冷たく感じる。そういえば手袋をし忘れていた事に気付き、肩に提げている鞄に手を突っ込んで手袋を探すが、どこにもそれらしい感触が無い。


 嫌な予感がして鞄を腕に下ろして目も使って探すが、やはり見当たらない。コートのポケットに入れたのだろうかと、警察が身体検査をするかのように全身を叩いてそれらしい感触を探すが、どこにも感じられなかった。


「最悪……」


 心当たりはある。蒼依に連絡を入れるまでは手袋をしていたのだから、あのホームのベンチで外すまであったのは確実だ。そこからどこかに落とすとすればベンチか電車の中だ。しかし席を立つ時には毎回振り向いて落とし物をしていないかどうか確かめているつもりだったのだが、死角にあったのか、暗がりにあったために見逃してしまったのだろう。


 もしかして、と最後の望みに懸けて周辺を探してみるが、それらしい物はどこにも落ちていなかった。


 今日は厄日だろうかと溜め息を吐き、壁に凭れかかる。もういいや、と口の中で呟き、諦めの雰囲気を醸し出しながらも諦めきれていない心が残っており、無意識的に手でポケットを探る。


 結局手袋は見つけられないまま電車が到着し、溜め息を吐きながら乗り込んだ。


 席に座ってからも未練がましく膝に抱いた鞄の中を探ってみるが、多少明るい場所で探したところで結果は変わらない。そもそも手袋を外した時に鞄を開けた記憶が無いのだから、鞄の中に入っている訳が無いのだ。


 不貞寝をする間も無く電車は終着駅に着き、電車を降りて、いつもの半分くらいの速度で歩いて家に帰る。


「ただいまぁ」


 誰にも聞こえないであろう声量で声を掛けると、リビングの扉が開いて母が顔を覗かせた。


「おかえり。今日は遅かったな」

「うん。電車一本乗り遅れた」

「そっかそっか。今からご飯温めるし、ちょっと待っててな」

「うん」


 母がどこかいつもより優しく感じるのは疲れている所為なのだろうか。それとも私が落ち込んでいるのを悟られたのだろうか。


「お姉ちゃんおかえりー」


 妹の声が台所から聞こえてくる。どうやら水を飲んでいたらしい。


「ただいま。まだ下に居んの珍しいな」


 鞄を下ろし、コートを脱いで、マフラーと、片方だけになってしまった手袋を外して纏める。


「お姉ちゃん帰ってきたからもう上行くけど」

「あっ、じゃあこれ上に持って上がっといて」


 肩に提げていた鞄を差し出すと、妹はふいっ、と顔を背けた。


「お姉ちゃんの鞄重たいから嫌」

「今日のそんなに重くないで?」

「そうなん?」

「うん。ついでにコートとかも一緒に」

「嫌ですー」


 そう言いながらも妹の顔には笑みが浮かんでいた。


「えー、けち」


 文句を言いながら、私も妹の笑顔に釣られて笑う。


「じゃあおやすみー」

「あっ、ちょっと待って」


 さっさと階段を上っていこうとする妹を呼び止める。妹は立ち止まって「何?」と言って振り返る。


「アルバイトで疲れたからちょっとだけ」


 私はそう言って妹に歩み寄り、拒まれても良いようにゆっくりと腕を伸ばし、抱き締めた。妹は嫌がる素振りは全く無く、微かに首を傾げながらも大人しく私の腕の中に収まった。


「元気出た?」

「もうちょっと」


 蒼依に抱き付くのとはまた違い、パズルのピースを嵌めるようなフィット感があった。


「よし……元気出たわ」


 瞑っていた目を開き、身体を起こすと、妹が心配そうな表情を向けてくる。


「喧嘩でもしたん?」

「ううん。ちょっとアルバイトで上手くいかへんかっただけやから、大丈夫」


 軽く微笑んでやると、妹はゆっくりと首を傾げた。


「そうなん?」

「うん。ごめんな。ありがと」

「どういたしまして」


 納得してくれたのか、流されてくれたのか、妹は花が咲くように笑みを浮かべる。


「じゃあおやすみ」

「おやすみー」


 階段を上り、一瞬だけ振り返って手を振る妹に手を振り返し、母が温め直してくれた料理を炬燵机の方に並べて座椅子に腰を下ろす。


 風呂から上がってきた父と挨拶を交わしつつ、一人夕飯を食べる。テレビを観たり母と会話をしたりしながらゆっくりと食べ、少し落ち着いたら風呂に入る。


 身体を丁寧に洗ってから湯船に浸かり、疲れた身体を癒やす。入れてから結構な時間が経ってしまっているのか、表示されている温度よりも随分と温くなってしまっているような気がするが、長風呂をするにはこれくらいが丁度良い。一つ問題があるとすれば、浴室から出た時に寒いという事くらいだろう。


 湯船の縁に組んだ腕を置き、それを枕にして寛いでいると、段々と意識が落ちていく感覚がした。時間を考えると、あまり長風呂はできないのだが、私は襲い掛かってくる眠気に抗おうとは思わなかった。


「──て、紅音!」


 朦朧とする意識の中、母の声が聞こえてくる。肩を叩いているのも母だろうか。どうして母が風呂場に入ってきているのだろう。そんな事を考えながら身体を起こし、「何?」と問い掛ける。


「何、じゃなくて、風呂で湯船で寝たら危ないやろ!」


 煩い。そう思ったが、母が心配してくれているのは前科があるためよく分かった。私は小学生の時からよく湯船で眠ってしまい、母によく怒られていた。時には父が登場し、強制的に風呂から出されたような記憶も朧気ながら存在している。


「何で居るん?」

「紅音が全然上がって来ぉへんし、呼んでも返事せぇへんからやろ」

「あぁ、そう」


 気の抜けた返事をしながら時計を確認すると、十一時半を過ぎていた。


「もう十一時過ぎてるやん」

「そうやで? だから早よ上がっておいで」

「はぁい」

「立てるか?」

「……大丈夫」


 湯船の縁を手で掴み、ゆっくりと立ち上がって風呂から上がる。


 湯船での眠気は眠気ではなく、気絶に近い物だと小学生の頃に知った。知ったきっかけはもちろん私が湯船で眠っていた所を心配した母に叩き起こされ、そこそこ酷く怒られた事なのだが、母にとってはなかなか恐ろしい出来事だったらしく、それ以来少々過保護気味で、懲りずに湯船で眠る私は何度も叱られていた。


 この事で怒られるのはいつ振りだろうか。そんな暢気な事を言っていると、母がまた怒ってしまいそうな気がして、開いた口を閉じた。


 身体を拭き、髪を乾かし、歯を磨いて、スキンケアをして、いつでも寝られるような状態でリビングに戻ると、母からの説教が待っていた。説教と言っても二言三言程の短い物で、母からの有り難い言葉の大半は未だに少しぼうっとしている私の耳を通り過ぎていった。


 お茶を飲んで水分補給をした後、呆れた様子の両親に「おやすみ」と挨拶をして、鞄などの荷物を持って自室に戻る。コートや制服などをハンガーに掛け、明日の準備をする。


 ふと、蒼依に連絡をしていない事を思い出し、慌てて携帯を開くと、蒼依からも心配のメッセージが届いていた。突然電話を掛けて良いのか分からず、風呂で寝ていたという事を簡潔に文字で伝える。するとすぐに既読が付き、準備をする暇も無くメッセージが送られてきた。


『大丈夫なの?』

『大丈夫。通話どうする?』

『もう遅いし、勉強ももう終わるつもりだから今日は無しにしとこうか。紅音も疲れてるんでしょ?』

『声聞きたい』


 送信すると、思った通り電話が掛かってくる。


「はぁい」

『本当に大丈夫?』

「大丈夫、大丈夫。もう湯船で溺れる程ちっちゃくないし」

『もう今日は勉強しないで寝な?』

「うん。そのつもり。でも明日の準備だけさせて」

『早くして。待ってるから』

「はぁい」


 スピーカーモードに切り替え、携帯をローテーブルの上に置き、明日の準備を再開する。


「試験って再来週やんな?」

『うん。勉強会とか計画してたけど、大丈夫そう?』

「うん。試験前の一週間前から休むとは前々から伝えてあるし」

『そっか』

「よっし、準備かんりょ~」

『じゃあベッド入って』

「はぁい」


 妙に高いテンションのままベッドに上がり、布団の中に潜り込む。先程まで湯船で眠っていて、風呂から上がって暫くは眠れなくなるという話もある中、私は今すぐにでも夢の世界に旅立てそうなくらいに瞼が重たくなっているのを感じていた。


「欠伸が出る~」


 大口を開けて喋りながら欠伸をすると、電話の向こうでも欠伸をしているような気配がした。


『ちょっと、移るからやめて』

「好きな人の欠伸って移るらしいで」

『らしいね』

「最近ごめんなぁ」

『何? いきなり』

「いやぁ、ちょっと八つ当たり気味というか……ねぇ?」

『あぁ、良いよ全然。可愛いなぁって思って見てるから』

「それは……良いんか?」

『まっ、気にしないでって事』

「そう?」

『とりあえず今日は寝て』

「はぁい、電気消しまーす」

『どうぞー』


 変なテンションで喋り続ける私の変な乗りに、淡々としたいつもの蒼依の調子で乗ってくれる。


「そういうとこ好き~」

『途中式抜けてるって』


 よく分からない事を言っている蒼依を無視して電気を消し、携帯を充電器に刺して分厚い布団を肩まで被って目を瞑る。


『もう寝たの?』

「まだ。でももう寝れるわ」

『そっか。おやすみ』

「おやすみ。というか何か話そうとしてた気ぃするけどなんやっけ?」


 蒼依がくすりと笑う声が聞こえてきた。


『明日も話せるんだから、今日はおやすみ』

「確かに。おやすみー」


 そう言ってからものの数分で、私の意識は今度こそ夢の中へ落ちていった。

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