第41話 1月9日

 何かの気の迷いでアルバイトを始めてしまった所為で休日らしい休日は疾うに終わってしまっているのだが、そのお蔭で学校が始まるこの日を迎えても、まるで先週も学校に行っていたかのような気分だった。


 三週間程クローゼットの中で眠っていた制服を身に纏い、ブレザーの上からトレンチコートを着て、更にマフラーと手袋も着ける。

街中では未だに素足を晒して歩いている女性を見かけるが、私にはとてもそんな真似はできそうにない。あれはきっと特殊な訓練をした経験のある人なのだ。裸足で燃え盛る火の上を歩いたり、真っ赤に染まった激辛ラーメンを食べたりと、そういう事ができる人たちと同じ類の人だ。


 何の訓練もしていない脆弱な私は大人しく防寒着を身に付けているが、それでも足を覆っているタイツに冷気が染み込んでくると、思わず身体を震わせる。こういう時に男性は良いなと思う。女子もズボンタイプの制服でも構わないのだが、周りにそうしている人が居ないため、周りからの注目を浴びたくない小心者の私は黙ってスカートを履いている。


 今日は始業式だけなので必要な物など殆ど無いのだが、忘れ物が無いかをもう一度よく確かめ、鞄を肩に掛け、携帯をコートのポケットに入れて部屋を出る。


「もう時間か」


 リビングに下りてきた私を見て母が時計を確認し、手を机に突いてのそのそと立ち上がる。


「お姉ちゃん行ってらっしゃーい」


 まだ登校まで時間に余裕のある妹が炬燵に入ったままこちらに振り返り、ひらひらと手を振る。妹も今日は始業式だというのに、昨日も遅くまで起きていたのか、どこか眠そうな表情をしていた。私はそんな妹を見て自然と頬が上がるのを感じながら手を振り返して玄関へ向かった。


「忘れ物無いか?」

「多分」


 三週間近く靴箱で眠っていたローファーを履き、扉を開ける。


「じゃあ気を付けてな」

「うん」


 素っ気無い返事をして外に出る。車の止まっていないガレージを斜めに突っ切り、道に出た辺りで振り向くと、母が妹と同じように手を振っていた。私はそれに対して反射的に手を振り返し、駅へと向かう。


 季節が変わっても新鮮味など欠片も無い住宅街を歩き、いつも通りの時間に駅に着き、いつも通りに到着した電車に乗り込み、いつもと同じ座席に座って小説を読む。一駅進んだら電車を乗り換え、何故か誰も座ろうとしない空席に腰を下ろし、小説の続きを読む。そうしているうちに快速電車は宇治駅に到着し、また電車を乗り換える。


 ここまで来ると周りには私と同じ制服を着た人たちが見える。それぞれがどこから乗っているのかなど知らないが、気が付くと乗客の半分近くが学生になっている。これだけ同じ学校の人が居るのなら、同じクラスに所属している人だって一人くらい居るのではないかと思うのだが、私は一度も見た事は無いし、もちろん話しかけられた事も無い。


 読書をするには短い一駅の移動を終え、流れに乗って電車を降り、改札を出ていつもの待ち合わせ場所に目を向けると、いつも通り、そこには蒼依が居た。


「おはよう、蒼依」

「おはよう。相変わらず暖かそうな恰好してるね」

「でしょ?」


 蒼依とは当然ながら久しぶりに会ったという感覚は無い。ほぼ毎日通話している上に正月にはデートにも行った。これで寂しいなどと言っていたらこの先やっていけないだろう。


 軽く話した後、それが当たり前の事かのように互いの手をぎゅっと握り締めて並んで歩く。付き合い始めた頃のような照れ臭さはもう随分と薄れたが、それでもまだ少し人目が気になってしまい、それを誤魔化すように繋がれている右手の親指で蒼依の手の甲を擦ってみたり、ぎゅっぎゅっ、と返事を期待して握る手に力を入れてみたりする。蒼依はその一つ一つに丁寧に返事をくれる。それが嬉しくてにやけていると、蒼依も釣られるように笑みを浮かべていた。


 そうして蒼依と触れ合っていられるのは学校に着くまでの二十分程度で、学校の近くに来ると、見張りの先生が立っており、私はするりと蒼依の手から抜け出して自分のコートのポケットに手を仕舞う。そんな事をするのも三週間振りの事で、すっかり忘れていたのか、蒼依が少し驚いたように私を見ていたが、すぐに思い出したらしく、照れ臭そうに笑った。


 暫く運動していなかった身体にはきつい坂道を上り、威圧感のある体育教師に挨拶をして門を潜る。昇降口でローファーから上履きに履き替え、教室へ向かう。


「なんか入学式の日ぃ思い出すわ」

「なんで?」

「いや、なんか落ち着かへん」

「そっか。紅音は冬休みの間学校来てないのか」

「そら来ても何も用事無いしなぁ」


 不意に冷たい風が吹き抜け、寒さに震えながら顔に掛かる髪を指で退ける。


「そういえば、入学式の日から大分変わったというか、素が出てきたよね」

「なに? 私?」

「うん。初めの頃はもっと元気だったって言うとちょっと語弊があるけど……」

「あぁ」


 蒼依は途中で言葉を止めたが、私にはそこまでで充分に蒼依の言いたい事が理解できてしまい、苦笑いを浮かべる。痛い程に心当たりがあったからだ。


「高校デビューの一環というか……まぁ、気の迷いよね」

「そうなの?」

「うん。積極的に行こうとは思っててんけど、あの時は何かおかしかってん」

「へぇ」

「今思うと喋り方とかもおかしかったような気もするしな」

「そこまでは覚えてないけど……」

「そのまま全部忘れて」


 蒼依は他人事のように笑っているが、私としては本気で消し去りたい記憶の一つだ。あの時のどうかしていた私のお蔭で蒼依と仲良くなれたという可能性もあるが、そうでなくても席は前後で名字も漢字違いという親近感を覚えるには充分な要素が揃っていたのだから私が無視したり暴力を振るったりと相当な酷い事をしなければ何も問題無く仲良くなっていたようにも思う。そうするとあの時の変なキャラの私はただの汚点となるため、できる事なら私を含む全員の記憶から消去してしまいたい。


「私はあの頃の紅音も好きだよ」


 そんな事を口にする蒼依の太腿を少し強めに叩き、逃げるように階段を早足で上っていく。二階まで来て蒼依が追いかけて来ていない事に気付き、足を止めて階段の踊り場を見ていると、蒼依がのんびりとマイペースに階段を上ってきて、私と同じ目線になった途端に痛くも痒くも無さそうな真顔で文句を言ってくる。


「痛いんだけど」

「蒼依がいらん事言うからやん」


 そのまま三階まで行こうとする蒼依を追い掛ける。


「別に本当の事言っただけなのに……」

「学校やって事忘れてへん?」

「大丈夫、覚えてる」

「ほんまにぃ?」

「大丈夫、大丈夫」


 三階に辿り着き、蒼依の後に続いて教室に入る。教室には既に何人かが登校してのんびりと過ごしていたが、その中に私の仲が良い人は居ない。しかしそれぞれの座っている場所が名簿順ではない事に気付き、蒼依の後ろから離れて教室の後方、廊下側の角の席に向かう。


 軽い鞄を机に置き、椅子を引いてドサッと腰を下ろして黒板の方へ目を向けると、記憶にある景色があった。たった三週間前の事に懐かしさを感じつつ、鞄から今日持って来るように言われていたプリントをファイルごと取り出し、机に仕舞っておく。


「おはよーう」

「──っ!」


 不意に両肩に手が置かれ、びくりと肩が跳ね、胸で堰き止められた私の声の代わりに椅子がガタンと音を立てた。それを見ていた犯人である美波はあはは、と口を開けて笑っていた。


「ごめん。まさかそんなに驚くとは思わんくて」


 そう言っている美波の声は小刻みに震えていた。


「紅音って意外とびびりだからやめてあげて」


 まるで私の味方をするかのようにして私の弱点を言ったのは蒼依だ。蒼依は暢気に美波と挨拶を交わし、私の後ろを通って廊下側の窓の縁に腰掛けた。


 美波は椅子を九十度回して背凭れを廊下側に向けると、私を正面にして座る。


「久しぶりやね」

「そうやなぁ」

「二人は正月何してたん? 初詣とか行った?」


 美波の問いに私が口を開くより先に蒼依が答える。


「紅音っと行ったけど、途中で諦めた」

「そうなん? 諦めたって何? 人が多すぎたとか?」

「うん。奈良の春日大社って所に行ってきたんだけど、想像してた十倍は人が居たの」

「そんなに?」

「写真あるけど見る?」


 いつの間にそんな写真を撮ったのだと不思議に思いながら二人が話しているのを頬杖を突いて眺めていると、前の扉から彩綾と夕夏が入ってくるのが見えた。その次の瞬間には彩綾と目が合い、荷物を置きに行くよりも先にこちらへ向かってくる。


「あけおめ~」

「あぁ、あけおめー」


 それぞれバラバラに雑な挨拶をする。


「二人は初詣行った?」

「うん。行ってきたで。夕夏が大吉引いてたわ」

「ええすごっ。私末吉やってんけど」

「うわ、めっちゃぽい」

「どういう事やねん」

「大丈夫。私も末吉やったから」


 久しぶりに会って早々に盛り上がる彩綾と美波を余所に蒼依に視線を向けると、ずっと見ていたのか、それとも偶然なのか、私の視線が蒼依の顔に向いた瞬間に目が合った。


「私らおみくじ引いたっけ?」


 そう蒼依に訊かれ、少し考えてから答える。


「一緒に行った時は引いてへんなぁ」

「そうよね。すっかり忘れてた」

「そもそも引けるとこまで行ってへんからしゃあない」

「二人とも引いてへんの?」


 美波と話していた筈の彩綾が割り込んでくる。


「ううん。紅音と一緒に行った時は引いてないってだけ」

「どこ行ってたん?」

「奈良の春日大社ってとこ」

「わざわざ奈良まで行ったん? 正月から?」

「紅音が毎年行ってる所らしくて。ね?」


 突然会話に入れられ、驚きながらも反射で「うん」と声に出しながら頷いた。


「で、行ったのに引いてへんねや」

「そう。人多すぎて諦めた」

「さっき写真見してもらったけどやばいで?」


 美波も会話に混ざり、私はまた外野となって三人の会話を見守る。ふと、私と同じように見守る体勢に入っていた夕夏と目が合い、ぱちぱちと目を瞬かせた後、互いに表情を崩して微笑みあう。


 いつ視線を外せば良いのか分からなくなっていた所、蒼依が不意に私の髪に触れた。何をするのかと蒼依を見て、それから触られている髪に視線を移動させる。


 何をしているのかと訊ねようと閉じていた唇を開けたその時、大音量のチャイムが全ての音を掻き消すように鳴り響いた。


 まだ一回目のチャイム。ショートホームルームが始まる五分前である事を報せるチャイムであり、門を閉じる時間である事を報せるチャイムだ。


 彩綾と夕夏が荷物を置くついでに自分たちの席に戻っていき、ギリギリに登校してきた人たちがチャイムに負けないくらいの声量で仲の良い人たちと挨拶を交わす中、私の髪にはまだ蒼依が触れている感触があった。


 少ししてチャイムの音が無くなり、生徒たちの喧騒に変わった頃、ゆっくりと首を回して蒼依に訊ねる。


「蒼依はさっきから何してんの?」

「三つ編み作ってる」


 蒼依は淡々と、私と目を合わせる事も無く答えた。


「なんで?」

「何となく」


 不思議に思いながらも、それくらいなら良いか、と蒼依の好きにさせる事にして視線を前に戻す。あまりに派手であったり、体育などで邪魔になる髪型は怒られる可能性があるが、三つ編み程度では何も言われない。


「紅音ちゃんの髪綺麗やんなぁ」


 不意に正面に座っている美波が言った。


「そう?」


 それなりに髪には気を遣っているため、その努力を認められたようで、つい頬が上がる。


「うん。なんかさらさらどころかつるつるしてそう」

「触る?」

「いや、それは蒼依に怒られそうやし遠慮するわ」


 美波は冗談めかしく言って笑う。さすがにそんな事で蒼依は怒らないだろうと思うのだが、完全に否定はできず愛想笑いを返した。


「よし」

「できた?」

「完璧。片方だけだけど」

「ええやん。可愛い」


 満足げな蒼依に、美波が端的な褒め言葉を口にする。


 出来栄えが気になり、鞄に入っているポーチから手の平サイズの四角い鏡を取り出し、三つ編みがよく見えるように顔を左に向けて横目に自分の姿を確認すると、頭の天辺から耳の辺りを通るように三つ編みが作られており、結び目は空色のゴムで括られていた。三つ編みと言うより編み込みに見えるが、これは確かに三つ編みだ。


「ほんまや。良い感じ」

「でしょ? 私じゃできないけど、やっぱり紅音は似合うね」

「私も短くてできひんから羨ましいわ」

「蒼依も美波も伸ばせばええやん」

「私は似合わないから」

「私も今はええかなぁ」

「羨ましいって言うた癖に」

「それとこれとは別の話やから」


 そんな事を話しているうちにまたチャイムが鳴り、蒼依は私の頭を軽くぽんぽん、と二回叩いて自分の席に帰っていった。


 チャイムが鳴り終わるのとほぼ同時に先生が教室に入ってきて、号令が掛かる。


 新年の挨拶やこの後ある始業式の説明、それから保護者へのプリントなどが配られ、少し早めに移動を開始する。


 教室から一歩外に出ただけで、不思議と気温が一気に下がったように感じる。始業式の際に持ち込む事が許されている防寒具はブランケットやカイロくらいで、多くの人が登下校時に着用しているコートなどは着ていく事はできない。確かに足が冷えて辛いので膝掛けを持ち込めるだけでも充分に助かるのだが、卒業式や入学式なんかのように外から招いた人が居る訳でもないだろうし、膝掛けが良いならコートを着ても別に構わないのではないかとも思う。しかし教師から駄目だと言われたのだから従うしかない。


 寒さに身体を震わせながら始業式が始まるのを待ち、始まったら校長や生徒指導部などの話を聞きながら蒼依を後ろからじっと見つめて過ごす。そんな事をしていても時間が早く流れるなんて事は無いのだが、詰まらない話を聞いて眠ってしまうよりは増しだろう。


 軈て始業式が終わり、後ろの方に並んでいる三年生から順に教室へ帰っていく。


 姿勢を崩し、冷たい指先を蒼依の首に差し込むと、びくりと蒼依の肩が跳ね、首を自らの手で隠しつつこちらへ振り返る。


「ちょっと、やめてよ」

「冷たかった?」


 そう訊ねると、蒼依の眉間に皺が寄った。


「私にもやらせて」

「どうぞー」


 先程結んで貰った三つ編みごと髪を掻き上げ、首を晒す。しかし一向に蒼依は仕返しをしてこなかった。


「やらへんの?」

「いや、本人が嫌がってないなら嫌がらせにならないじゃん」

「確かに」


 頷き、蒼依の手を取ると、私の手が冷たい所為か、あまり温度を感じなかったが、暫く握っていると、段々と暖かくなってきた私の手に対し、蒼依の手はやはり冷たいままだった。


「全然暖かくならへんやん」

「紅音に全部盗られた」

「そんな器用な事できひんし」


 蒼依の右手を両手で挟み、何とか熱を分けてやろうと試みるが、結果が出る前に二年生が退場する時間になってしまった。


 先に立ち上がった蒼依の手を借りて立ち上がり、一緒に教室に戻る。それからチャイムが鳴るまで始業式の愚痴を言ったり正月の話をしたりして過ごす。


 ロングホームルームでは始めに冬休みに出された課題の提出を行い、今学期のざっくりとした予定を聞き、それから自習となった。途中、一人の男子が席替えはしないのかとわざわざ挙手をしてまで訊ねたが、三学期は中間考査まで三週間程しかないからしないとの事だった。


 自習する用の勉強道具を何も持って来ていなかった私は小説を読んで時間を潰し、あっという間に授業が終わりのチャイムが鳴った。


 号令が掛かり、部活がある人は少し早めの昼食を食べようと仲が良い人同士で集まる。私は今日もこの後アルバイトに行かなければならないのだが、そのお蔭でいつもと違う事があった。


「あれ、今日は紅音もお弁当?」


 蒼依が私の机の上にある物を見て訊ねてくる。


「うん。一緒に食べよう」


 一緒に食べられるという事を前もって伝えていなかったため、先約が居るかもしれないという嫌な予感があったのだが、蒼依はその予感を裏切って快諾してくれた。


「因みに蒼依は何しに来たん?」

「紅音の予定を訊きに来ただけだけど」

「そうなんや」

「あっちで食べるでしょ?」


 蒼依はどこかを指差した訳ではなかったが、恐らくはいつものメンバーが集まる蒼依の席の方だという事を察して頷き、鞄とコート、それから弁当を持って立ち上がり、蒼依に付いていく。


「紅音も食べるって」

「あっ、そうなん? 珍しい」


 そう言う彩綾の前の席を借り、彩綾の机の上で弁当を広げる。


「この後バイト?」と既に弁当を食べ始めていた夕夏が訊ねてくる。


「うん。一時からやから結構時間あるし」

「そうなんだ」


 少し棘を感じる蒼依の口調に、弁当があるという事を含めて何も伝えていなかった事を思い出す。登校時に話す事が無いと思っていた自分が馬鹿のようだ。


「そういえば紅音のバイトの話って全然訊いた事無かったけど、どんな感じ?」


 弁当箱を開けて小さく手を合わせていると、正面に座る彩綾が訊ねてきた。


 箸の入ったケースを手にした状態で少し考えるが、何を答えれば良いのか分からなかった。


「どんな感じって?」

「本屋さんやんな?」


 ケースから箸を取り出しながら頷く。


「どんな事やってんの?」


 そういう事か、と自分の理解力の無さに呆れつつ答える。


「新しく届いた本を並べたり、本棚整理したり、あとはレジと……掃除くらい?」

「あぁ、見た事あるかも。なんか下の引き出しから出してるの」

「やってる事って言うたら大体見た事あるようなんばっかりちゃうかなぁ」


 そう答えて、何から食べようかと箸を構えて弁当の具材を眺めていると、また彩綾が訊ねてくる。


「他にバイトの人って居るん?」

「うん。大学生ばっかりやけど」

「高校生居らんの?」

「うん。居らんと思うで? 少なくとも私は知らん」

「そうなんや」

「彩綾、ちょっと紅音に食べさせたってよ」


 彩綾の質問に答えるために完全に手を止めている私を見て夕夏が彩綾に注意する。


「あぁ、ごめん」

「紅音も鬱陶しかったら遠慮無く言うたって」

「次からそうするわ」


 そう答えたが、きっと私は次も何も言わずにいるのだろうなと思う。


 質問の雨が止み、漸く私は弁当に手を着ける。


 食事中は基本的に口を開かない私と蒼依、それから元々口数の少ない夕夏が居ると、必然的に喋り出すのは彩綾になる。


「冬休みの間四人で遊ぼうみたいな話してたけど結局話すらせぇへんかったな」


「そんな話してたの?」と蒼依が訊ねる。


「いや、多分私と彩綾で勝手に言うてただけで、二人には何も言うてへんで」


 夕夏が答え、「なるほどね」と全てを察したように蒼依が頷いた。


「まぁ、私も部活があったし、夕夏とも全然遊べてへんかってんけどな」

「私らも結局冬休み中に遊んだのって二回だけ?」


 私は黙って頷く。食事中という事もあるが、複数人で会話をしている場合、私一人が喋らなかった所で全くと言って良い程支障は無いので、基本的には聞く事に専念する。


「そう考えるとやっぱり冬休み短いよなぁ」

「でも言うて中学の時もこんなもんやったくない?」

「そうやっけ? もうちょっと長くなかった?」

「知らん。覚えてない」


 相変わらず妙にテンションの高い彩綾とずっと一定のテンションを保っている夕夏の漫談を聞きながら食事を進めていると、早くから弁当を用意してくれていた母が心做しか嬉しそうにしていたのを思い出す。


 冬休みの間も年末年始の数日以外は何でも無い日と同じようにアルバイトをしていたのだが、そんな日にわざわざ弁当を作ってもらうというのは気が引けてしまったため、菓子パンなどの簡単に食べられる物で済ませていたのだが、どうやらそれが少し寂しかったらしい。母がそう思った気持ちが分かるような気もするが、やはりめんどうな物は変わらずめんどうなのではないかとも思う。


「紅音」

「ん、なに?」


 名前を呼ばれて顔を上げる。


「いや、もうちょっとでテスト期間入るやん? そん時に四人で集まって勉強会とかどうかなぁって」


 別に良いよ、と答えようとしたその一瞬前に、蒼依から補足が入る。


「そのついでにカラオケに行きたいんだってさ」

「カラオケ?」

「そう。カラオケやったら勉強もできるし息抜きもできるやん?」

「……それ息抜きがメインにならへん?」


そう答えると、私が話を聞いていない間にもそういう話があったらしく「ほら、言うたやん」と夕夏の突っ込みが入り、蒼依も私と同じ考えだったようで、無言で頷いていた。


「どうせ普通に集まっても遊びメインになるって」

「開き直ってるし」

「ええやんか別に。それで、どうする?」


 身を乗り出してきそうな勢いの彩綾に迷っていると、「因みに私は紅音が行かないなら行かないから」と蒼依が言った。


「ほら、紅音も蒼依の歌聴きたくない? というか紅音の歌も聴きたいから来て」


 確かに蒼依とカラオケに行った事は無いが、蒼依の歌声自体は音楽の授業で何度も聴いた事がある。しかし蒼依がどういう歌声でどういう歌を歌うのかは音楽の授業では分からないし、今までそういう話をした事も無いような気がした。


「じゃあ行こかな」

「ほんまに? じゃあいつ空いてる? 土日のどっちか行けたらええなぁって思ってるんやけど」

「テスト期間はバイト休みにしてるからどっちでもええで」

「そうなん? 蒼依とデートしたりせぇへんの?」

「今んとこ別に予定無いやんな?」


 顔を向けると、蒼依はちょうどご飯を口に入れた所だったようで、三人で蒼依の食事を見守る奇妙な時間が生まれる。さすがに蒼依も気になったようで、口を手で覆って「そんなに見ないでよ」と恥ずかしそうに笑い、お茶で気を取り直す。


「今の所予定は無いし、二人に合わせるよ」

「じゃあ土曜日にしよか。夕夏は行けるやんな?」

「うん」

「二人は土曜日でも大丈夫?」

「うん」と二人の声が重なり、「私も大丈夫」と蒼依が付け加えた。

「じゃあえっと……二十七日の土曜日で、場所はまたええとこ探しとくわ。紅音って家どこやっけ?」

「加茂やけど……、そんな気にせんでええで?」

「ちょっと待ってな」


 私の言葉を聞いているのかいないのか、彩綾はそう言って携帯で、恐らく加茂がどこなのかを調べ始めた。


 ふと彩綾の前、弁当が置かれている筈の場所に目を向けると、すでに弁当箱の中は空になっていた。ずっと喋っていたと思うのだが、一体いつ食べたのだろうか。


「加茂ってどの加茂? 京都市ちゃうやんな?」


 そう言って彩綾は携帯の画面が見えるように携帯を机に置いたが、『かも』という地名が漢字違いでいくつも表示されていた。何となくそうなるような気がしていたが、今一どう説明すれば伝わるのかが分からない。


「あー……えっと……、奈良方面なんやけど、みんなこの辺やろ?」

「蒼依の家は知らんけど、私と夕夏は歩いて行ける範囲やな」


 彩綾の言葉に夕夏が頷く。


「じゃあこの辺でええんちゃう? 私も来るのに時間が掛かるってだけで、ここまでは定期で来れるし」

「そう? 紅音がそれでええならそうするけど」

「たしか蒼依の家の近くにカラオケあったやんな?」

「あぁ、うん。あるね。二つか三つくらい」

「あれ、そんなにあったっけ?」

「うん」


 私の記憶の中には一つしか無いのだが、実際に住んでいる蒼依がそう言うのだからそうなのだろう。


「まぁ、この辺で探しとくわ」

「うん。ありがとう」


 礼を言うと、彩綾は机に肘を突いたまま顔の前で手をひらひらと振って笑う。


「いやいや、私がカラオケ行きたいだけやし」

「やっぱり歌いたいだけなんやんか」

「ずっと勉強ばっかりしてても息が詰まるやろ?」

「多分この二人から同意は得られへんと思うで」

「そうやったわ」


 再び漫談を始めた二人を余所に弁当を蒼依とほぼ同時に完食し、三人が部活に行くまでの間、また少し話をして過ごし、あっという間に時間が過ぎ去った。


「じゃあそろそろ行こうかな」

「そうやね」


 周りの人たちも部活で居なくなり、騒がしかった教室も落ち着いてきていた。


「バイトがんばってね。紅音」

「うん。ありがとう。みんなは部活がんばってな」

「うん。じゃあまた」

「またね」


 手を振り、部活に向かう三人を見送る。それからコートを着て、気分と一緒に重たくなっていく身体に鞭打って鞄を肩に掛け、アルバイトに向かう。


 アルバイトにももう大分慣れたと思っているのだが、アルバイトに向かうまでのこの憂鬱な時間はいつまで経っても慣れる気がしない。


 深いため息を吐き、教室を後にした。

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