第40話 1月1日
青空の半分を薄黒いぼんやりとした雲が覆っていて、決して気持ちが良いとは言えない朝、約束していた時間の三十分前に奈良駅に到着した私は蒼依にメッセージを送り、人混みにうんざりしながら土産物が売っている店で暇潰しをする。
この混雑が予想できていなかった訳ではないのだが、私の想像していた何倍も人が多い。いつもなら通勤ラッシュなどが原因なので、少し経てば落ち着くのだが、今日は一月一日。仕事に行くためにここに居る人は殆どいないだろう。そして今ここを利用している人のうちの殆どが恐らく私と目的地も同じで、世界遺産の一つでもある春日大社に向かう筈だ。
春日大社からそれなりに距離のあるこの場所でこの混雑具合という事は恐らくその場所は混んでいるどころの話ではない可能性が非常に高い。
思い返してみると、私は過去に初詣目的でここに来た事は何度もあるが、それは朔日ではなかった。両親に訊ねてその記憶が確かであるという保証はされているため、両親が地獄と称した朔日の春日大社に赴くのはこれが初めての事になる。
美味しそうな土産菓子を暫く眺めた後、携帯を見てみると、蒼依からメッセージが届いていた。文面から既に到着している筈の私が待ち合わせ場所に居ない事に戸惑っている事が分かった。
店を出て待ち合わせ場所である改札前の広場に目を向けると、ピンクベージュのロングコートに身を包んだ蒼依が中央の太い柱に凭れかかっているのが見えた。その瞬間、私の口元は意思とは関係無しに緩む。
驚かせてやろうと背後からこっそり近付き、肩を叩いてやると、蒼依は肩をびくりと跳ねさせ、身を守るように少し距離を取りながらこちらに振り向いた。
「おはよう、蒼依」
「びっくりしたぁ……。どこに居たん?」
「お土産見てた」
そう言って後ろに指を差す。
「ちゃんと待ち合わせ場所に居といてよ」
「まだ来ぉへんやろうと思って」
「前に約束しなかったっけ?」
「だって電車が二十分に一本しか無いんやもん」
「じゃあもう一本後で良かったじゃん」
「別に今日はそんな十分も待ってへんねやからええやん」
「まぁいいけどね……」
蒼依はわざとらしいくらいに肩を落として溜め息を吐いた後、「あぁ、そうだ」と顔を上げ、私に微笑みかける。
「改めて……明けましておめでとうございます」
「あぁ、明けましておめでとうございます」
妙な恥ずかしさを誤魔化すように笑いながら軽く頭を下げる。顔を上げて意味も無くお互いを見つめ合い、妙なぎこちなさを持って笑い合う。
「それじゃあ行こうか」
「うん」
頷き、右手を差し出すと、蒼依がその手を取って指を絡ませる。もう慣れた行為の筈なのに、今日は何故か気恥ずかしい。
もう何度も来ている私が案内人となって目的地に向けて歩き出し、階段を下りている途中、バス停で列を作っている人たちを見て、ふと思い出す。
「そういえば一つ謝っとく事があるんやけどさぁ」
「なに?」
「この辺見てても分かるんやけど、今日めっちゃ人多いやん?」
「そうね」
「春日大社の参道みたいなとこって車がすれ違えるくらいの道幅はあんねやんかぁ。んで、そこが一杯になって身動き取れへんくなるくらい人居るらしいんやけど……、どうする?」
「えっ、そんなに?」
蒼依は眠そうな目を見開いて私を見た。
「うん。そんなに」
「でもいつも行ってるんじゃないの?」
「いっつもちょっと時間空けてから行ってたんよ。一週間経ってからとか」
「それくらいだと空いてるんだ」
「多少はね。だから私もそんな動けへんくらいっていうのが実際どんなもんなんかは知らんねんけど、もしかしたら別のとこ行った方が良いかもしれんって感じ」
「あー……それならもうちょっと前に言ってくれてたら有り難かったんだけど……?」
「やっぱり?」
私が蒼依と初詣に行ってくると母に話したのはクリスマスよりも前の話で、その時に両親から朔日の春日大社は行かない方が良いという話もされていたため、それを蒼依に伝えて別の場所に変えるのはいつでもできた。
「なんで言わへんかったんやろ」
「それは知らないけど……。まぁ、せっかくなら鹿も見たいし、どうしても初詣がしたいって訳でもないから」
「そうなん?」
「うん。まぁ、ぶっちゃけると、ただ紅音とデートする口実が欲しかっただけかな」
「そうなんや」
どう反応すべきか迷った結果、少し無愛想な返事をしてしまい、会話が途切れる。そんな小さな後悔をしながら蒼依の手を引いて広場を斜めに突っ切っていく。
奈良駅の周りはそれなりに発展していて、ちょっとしたビルのようなものも建っているし、広い道もあるが、都会と言うには少々物足りない。しかし観光地としては立派なもので、今日も正月という一大行事があるお蔭でもあるだろうが、春日大社まで続く道には日本人に限らずたくさんの人が道一杯に広がって歩いている。
「この道ずっとまっすぐ?」
「うん。多分」
車一台が通れる程度の車道と、それを挟むようにして充分過ぎるくらいに広い歩道がずっと向こう、山の方まで続いている。道の両端には夏休みに中学時代の友人である知香や里菜と行ったカラオケを始めとする娯楽施設に、飲食店や銀行など様々な施設が商店街のように並んでいる。
「着物のレンタルとかあるじゃん」
蒼依が車道を挟んで向かい側の店を見て言った。そこには確かに着物レンタルと書かれていたが、フォトスタジオという文字も一緒にあった。
「スタジオで撮るだけちゃうの?」
「いや、こんな所に店構えといて着ていけないなんて事は無いでしょ」
「それもそうか。因みに蒼依は着た事ある?」
「七五三を入れて良いなら」
「あぁ、めんどくさかったなぁ」
十年近く前のぼんやりとした記憶を思い起こすと、早く帰りたかったのか遊びに行きたかったのか詳しい事は分からないが、あまり気乗りしていない私と、その私の分まで喜んでいる両親の姿が浮かび上がってくる。
「そんな時からその性格なの?」
「だって、めんどくさかったくない?」
「いや、私は普通に燥いでた気がするけど」
「裏切り者め」
「着物なんて普段着られる物じゃないしねぇ」
「まぁ、今は分からんでもないけど……いや、今着るのもめんどくさいな……」
「今じゃなくていいからさ、いつか一緒に着物着てどこか行こう。ああいうスタジオでも良いけど」
「着るならスタジオかなぁ。今の時期とかは暖かくて良いらしいけどな」
「借りる?」
「借りない」
「でしょうね」
そんな事を話しながら只管真っ直ぐに続いている道を進み、周りに美味しそうな飲食店がたくさんある中でコンビニに寄ってお茶を買う。喉を潤した後、また人の流れに乗って歩き、小さなスクランブル交差点も真っ直ぐに進む。
道幅は先程よりも狭く、車道に至っては一台通るのもギリギリなのではと思うような幅になっている。そこを更にずっと真っ直ぐ行くと、急に視界を遮る建物が無くなり、曇り空が広がった。これが青空だったなら良かったのだが、自然に対して文句を言った所でどうしようもない。
「こっちは……南円堂?」
蒼依が不意に立ち止まり、看板の文字を読んで左側にある階段の先を見上げた。
「行ってみる?」
「いや、とりあえず真っ直ぐ行って人混みがどんな感じか見よう」
「既に大分混んでるけど」
「でもこれぐらいなら行けそうじゃん」
「まぁ、たしかに」
確かに人は多く、自然と歩くのも速くなってしまいそうな程だが、駅前とそう大差無く、母が言ったような地獄と言うにはあまりに微温い。学校の近くでならこれくらいの人混みはよく見かける。
「鹿が居るのってどの辺り? もうちょっと?」
「そうやね。多分もうちょっと先ちゃうかな」
「了解」
じゃあ行こう、と蒼依が歩き出し、それに合わせて私も足を動かす。
「鹿好きなん?」
このうんざりするような人混みの中で妙に上機嫌な蒼依を不思議に思って訊ねてみると、蒼依は私を見て僅かに首を傾げた。
「いや、嫌いではないけど、別に好きでもないかな」
「それやのにそんな楽しみにしてんの?」
「奈良に来たら鹿は見ないと」
「あぁ、そう」
返ってきた答えは想像以上に仕様もない理由で、一気に興味を無くした私は投げ遣りな返事をする。
「紅音はよく来るの?」
名前を呼ばれて何となく蒼依の方へ顔を向けると、ぴったり目が合ってしまい、すぐに視線を地面に戻した。
「ううん。ここに来るのは多分ほんまに一年振りくらいやで」
「初詣の時しか来ないの?」
「うん。だって用事無いし」
「そっか。近いとあんまり観光に来たりっていうのも無いか」
「そうやなぁ。来ても鹿くらいしか見る物無いしな」
「大仏とか国宝とかあるんじゃないの?」
「興味無いし」
「あぁ」
なるほどね、と蒼依は含み笑いをする。ちらりとまた蒼依の顔に視線だけを向けると、私を見る蒼依の細められた大きな目からは私の母と同じような物を感じた。
「蒼依はこういうとこ好きなん?」
「好きって程ではないけど、面白いとは思うよ」
「へぇ」
もし私がもっと歴史などに興味があって、ある程度の知識を持っていたら蒼依ともっと話せただろうか、と地面を眺めながら考える。
どうしたの、と訊ねてくる蒼依に首を横に振って、大丈夫だと答える代わりに繋いだ手にほんの一瞬だけぎゅっと握ると、蒼依がすぐに握り返してくる。その直後、蒼依があっ、と声を上げた。
「言い忘れてたというか、紅音に一個頼みたい事があるんだけど」
「なに? いきなり」
「今から人混みに向かうけどさ」
「うん」
「あんまり不機嫌にならないでね?」
「あー……」
最早いつの事か分からないくらいに心当たりがあり、蒼依の方へ向けていた視線を逸らして灰色の空を見る。そうすると、こっちを向けと言わんばかりに手が握り締められる。
「紅音が人混み苦手なのは何となく分かってるんだけど、だからってすぐに不機嫌にならないで」
「うん。分かった」
「あとすぐに落ち込まない」
「あっ、五重塔見えるで?」
話を逸らそうとちょうど良く見えた蒼依の気を惹けそうな物に指を差してみたが、蒼依は少しも見ようとはせず私の頬に人差し指を刺した。爪は短く整えられていたお蔭で刺さらなかったが、力加減を間違えたのか、思わず顔を顰めてしまう程の痛みが走った。
「話逸らさないで」
「はぁい」
ずきりと痛む右頬を抑えながら蒼依を睨むと、「ごめん。痛かったよね」と眉をハの字にして、見て分かるくらいに心配されたので、「大丈夫やって」と言いながら痛みを笑い飛ばす。そうすると今度は蒼依の眉間に皺が寄ったが、文句も何も言われないのを良い事に見て見ぬ振りをする。
代わり映えのしない真っ直ぐな道の途中、蒼依があれは何だ、それは何だと訊ねてきたが、私には看板などに書かれている事をそのまま読み上げる事しかできなかった。カンニングせずにすらすらと説明ができればかっこいいと思われるのかもしれないが、そんな事で得られる賞賛に私は何の魅力も感じられない。
いつの間にか人二人分くらいまでに狭くなっていた歩道を人の波に乗って進む事十分。T字路の向こうに色褪せた赤い鳥居が見えた。
「ここ?」
「そうやな。このまま真っ直ぐ行ったら一応春日大社があるけど……」
「とりあえず行くだけ行こう」
「そうね」
私たちが通ってきた道を歩いていた人の大半がこの道に居り、更にそこへ他の道から来た人たちも合流し、何となくこの先の道が細くなっている辺りの混み具合が想像できるが、その光景を楽しみにしている蒼依のためにも先へ進む。
植物園なんてあるんだ、なんて事を話しながら鳥居からは見えていなかった道に進むと、道は半分くらいの広さになり、人口密度が上がる。そして道の先に見える人混みを見て私たちは通行の妨げにならない場所に移動して顔を見合わせる。
先に声を発したのは蒼依だった。
「……やめとこうか」
「うん」
人で埋め尽くされた道がずっと向こうまで続いており、その列と言えるのかどうかも分からない人の塊は動いているように見えなかった。目的地に辿り着くには一体どれくらいの時間が掛かるのか、想像するのも難しい程だった。
早朝に比べればこれでもいくらかは増しなのか、それとも早朝よりも酷いのか、実際に見た事の無い私には判別できないが、それでもこの人の数が異常である事は分かった。
「どうしよう。とりあえず鹿見に行く?」
「うん。そうしよ。……植物園はいい?」
「植物園はまた別の機会で」
「了解」
「鹿はどこ?」
「あっち」
森の方を指差すと、素直に信じた蒼依が人の波に逆らって歩き出し、途中の人通りが少ない細道へ入っていく。
「多分この辺にも探せば居ると思うんやけど……」
そう言いながら柵で囲われた森の中に視線を向けてみるが、それらしい姿は見当たらない。
「居る?」
「分からん。広場の方は絶対居ると思うけど」
「私奈良に鹿が居るっていうのは知ってるんだけど、実際どういう風に居るのか知らないんだよね」
「あぁ、そうなん?」
一旦探すのをやめて蒼依の声に耳を傾ける。
「テレビとかでもしかしたらやってるのかもしれないけど、普段からそんなにテレビ観ないし」
「夕飯の時とか点けへんねやっけ?」
「いや、点いてるけどクイズ番組とか歌番組とかばっかり。というかそれ以外の点けてても奈良公園をテレビでやったりしないんじゃないの?」
「まぁ、確かに」
「ママはテレビでやってるの観たって言ってるんだけどね」
「へぇ。でも私もテレビで鹿を写してるの観た事無いかも」
「ね。まぁ、どうしても観たいなら自分で動画調べれば良い話なんだけどね」
「それはそうやけど、わざわざ調べへんやろ」
「おすすめにも出て来ないしね」
「蒼依のおすすめされる動画吹奏楽ばっかりやもんな」
「そりゃあね。紅音はなんかよく分かんないのが多いよね」
「私はまぁ、そもそも動画もあんまり観ないから。観てる時間無いし」
「偶にはちゃんと休みなよ?」
「ちゃんとって言うたらあれやけど、さぼって本読んでたりはするで?」
「あぁ、そっか。動画とかテレビの代わりに本読んでるんか」
「そうやね」
そんな事を話しているうちに人の喧騒が聞こえてくる。よく耳を澄ませてみると、その中には木が軋むような、立て付けの悪い扉をゆっくりと動かした時のような音が紛れている。
それを聞いて、ふと木々の隙間から見える明るい場所に目を向けると、茶色い物体が動くのが見え、思わずあっ、と大きな声を上げる。恥ずかしさを誤魔化すように蒼依の名前を呼んで指を差す。
「あそこ見て」
「どこ?」
蒼依の身長でも充分に見える筈だが、蒼依は少し身を屈めて私と同じ目線で指差した方向を覗き込む。
「あっ、本当だ。いっぱい居るじゃん」
「行こ行こ」
自分でも不思議に思えるくらいにテンションが上がっており、蒼依の手を引いて森を抜ける。人力車に興味を惹かれながら横断歩道を渡って鹿と人が集まっている広場へ向かう。
「鹿せんべいあげる?」
「せっかくだから買おうか」
「おっけ~」
鞄から財布を取り出し、売り子の女性に二百円を手渡して、代わりに紙で纏められた円形のシンプルな煎餅を受け取る。そんな事をしている間に周りを鹿に囲まれ、財布を仕舞って逃げるように蒼依の元へ戻る。
「食べたらあかんで?」と冗談めかしく言って渡すと、蒼依は「分かってる」と言いつつ匂いを嗅いでみたり指先で割れない程度に叩いてみたりと、食べようとしているのではないかと心配になる行動を取る。
「すごい付いて来てるけど」
「ちょっともうちょい人が少ないとこ行こう」
煎餅を見つめている蒼依の腕を引いて鹿と人の密集地から離れる。
「これ取っても良いの?」
「ええけど、こんなとこであげたらすぐ無くなるで?」
「あっ、じゃあやめとこ」
人が少ない場所を探して道沿いに移動していくと、ふと振り返った時には既に私たちを囲んでいた鹿は居なくなっていた。てっきり何頭かは付いて来ているものだと思っていたのだが、持っていないと勘違いされてしまったのだろうか。
居ない物は仕方が無いので、新しい子を探しつつ公園内を散策しようと足を動かす。
「因みに今どこに向かってるの?」
「え、知らん」
正直に告げると、蒼依が「えっ?」と間の抜けた声を発しながら私を見て首を傾げた。
「一応東大寺を目指してるつもりやけど、方向が合ってるかどうかは知らん」
「東大寺って結構遠いの?」
「いや、そんなに遠くはないけど……そうやなぁ……。さっき参道にあった鳥居あるやろ?」
「うん」
「あそこから植物園くらいまではあると思う」
「そこそこ遠いじゃん。公園の中にあるんでしょ?」
「公園が広いからなぁ。あの……なんやっけ。正倉院? はもっと遠いで」
「へぇ」
そんな事を話しながら歩いていると、木のベンチのすぐ近くで足を折り畳んで座り込んでいる一頭の鹿を見つけた。
「あの子にあげる?」
「どれ?」
「あの木陰で休んでる子」
「あぁ、良いじゃん」
蒼依は怖がる素振りも見せず悠然と近付いていく。
「近付いても大丈夫だよね?」
「うん。偶に噛まれたりするらしいけど」
「えっ」
「まぁ、大丈夫やって」
歩みを止めた蒼依の手を半ば強引に引っ張ってじっとこちらを見つめている鹿の前にしゃがむ。
「食べなさそうやったら別の子にあげたらええやろうし、ほら」
「うん」
先程の悠然とした態度はどこへ行ったのか、蒼依は恐る恐るといった様子で煎餅を一枚、端の方を摘まんで鹿の目の前に持って行く。そうすると、鹿は鼻先をひくひくと動かし、興味を失ったようにそっぽを向いた。
「お腹いっぱいなんかな?」
「要らないの?」
蒼依が諦めずに鼻先に近付けるが、やはり食べる気配は無かった。
「要らんっぽいな」
「うん」
既に満腹なのか何なのか、鹿と意思疎通ができる訳ではないので分からないが、要らないのだと判断し、去り際に背中をそっと撫でてから立ち上がる。
「触って良いんだ」
「別に大丈夫やと思うで? さすがに叩いたりしたらアカンけど」
そんな事を言っていると、どこからか匂いを嗅ぎ付けてきた一頭の鹿がのそのそと歩み寄ってきて、鹿せんべいを持つ蒼依に頭を下げて礼をするような仕草を見せた。
急に近寄ってきた鹿に驚いた蒼依がおっかなびっくりで先程座っていた子にあげようとしていた一枚を差し出すと、同じように鼻先を近付け、今度はしっかりと食い付き、煎餅は半分程に割れて蒼依の手に残った。
「別に怖くないやろ?」
「うん」
もっとくれと催促するかのように鹿が蒼依に鼻先を向ける。今度は蒼依も怖がらずに煎餅を差し出し、残りの半分を鹿が持って行ったが、ぼろぼろと割れた破片が地面に溢れ落ちる。
地面に落ちた物を食べている隙を見て、蒼依はゆっくりと手を伸ばし、鹿の背中を撫でた。
「……思ったより硬い……」
「どんなん想像してたん」
「犬とか猫みたいなふわふわ?」
「あぁ」
「ペンギンみたい」
「それは嘘やん」
地面に落ちた分も食べ終えた鹿が更に蒼依に寄越せと言わんばかりに頭を振り、蒼依が一枚二枚と手渡す。そうしている間にまた別の鹿がやってきて、蒼依に寄越せと催促する。
蒼依がそうして服に噛み付かれながらも鹿と戯れている間、私は始めに見つけた鹿と一緒に木陰でしゃがみ込んで様子を見つつ、その子の背中を撫でていた。
始めに見つけたこの子はずっと撫でていても嫌がって逃げようとする様子は無い。眠たいのかとも思ったが、目はしっかりと開いていて、辺りをきょろきょろと見渡したり私の手を嗅いだりしていた。不思議に思いながらもその子の背中を撫でていると、不意にパシャッ、とカメラのシャッター音が耳に入った。
聞き間違いようのないその音の出所には一人しか居ない筈で、私は顔を顰めて犯人を睨む。
「可愛く撮れたから大丈夫」
「……」
「紅音にも誰にも見せないから。一枚くらい良いでしょ?」
今日は不機嫌にならないと約束した。蒼依は私が写真を嫌がるいくつかの理由の穴を縫って写真を撮った。今気に食わないのは無許可で写真を撮ったという事だけだ。
「盗撮禁止」
「言ったら絶対許可してくれないじゃん」
「当たり前やん」
「私はこの写真に写ってるみたいに笑ってる紅音が好きだよ」
「……」
適当な悪口を言おうとしたが、口が開かなかった。
「そろそろ私らもご飯食べに行かない?」
空気を入れ換えるように明るい声で蒼依が言う。その手にはもう鹿せんべいは無く、周りを取り囲んでいた鹿たちも解散していた。
蒼依から差し伸べられた手を取り、ゆっくりと立ち上がる。
「東大寺とかはええの?」
「先に何か食べよう」
「まぁ、公園沿いに何かあるか」
「善哉とかあるかな」
「どうやろ。探せばあるんちゃう?」
「じゃあそれ探しながら歩こうか」
そうして公園の周りを歩いて飲食店を探し始めたが、意外と飲食店が存在しておらず、結局東大寺を先に見る事になりそうだった。
お腹が空いたと言っていた筈の蒼依が途中で見つけた東大寺ミュージアムに興味を示し、私は私で行った事が無かったために興味があり、空腹も忘れて立ち寄った。それから、これだけは絶対に見たいという蒼依の要望に応えて大仏殿に行き、入ってすぐに『盧舎那仏坐像』、所謂奈良の大仏を見て、私は相変わらずの虚無に近い感情でそれを眺め、人混みに腹を立てないよう右手に感じる蒼依の手の感触に集中していた。
「大丈夫? 不機嫌になってない?」
「へ? 大丈夫やで?」
「本当に?」
「うん。それより蒼依は御朱印とか要らんの?」
そう言いながら尋常ではない人集りが出来ている場所を指差すと、蒼依はちらりとそちらに顔を向け、ほんの一瞬顔を顰めてから私に微笑みかける。
「うん。集めてる訳でもないから、別にいいかな」
「そっか」
蒼依が言わんとしている事を理解した私はそれ以上の追求はせず、蒼依と共に外に出る。
さすがに空腹が誤魔化せなくなった私たちは安く済みそうな飲食店を携帯で探し、公園の近くにあるという商店街を目指す事にしたのだが、そこは私たちが通ってきた道の途中にある商店街で、つまりはこれまで歩いてきた道の半分近くを引き返さなくてはならないという事だった。
あまり予算の無い私たちが食べるには仕方が無いと、公園内を散策する計画を中止して来た道を引き返す。その道中にはここへ来るまでに蒼依が気にしていた五重塔もあったが、ここで寄り道をすれば昼食が夕食になってしまうため、方向転換しようとする蒼依の腕を引っ張って商店街まで連れて行く。蒼依も冗談半分だったようで、あまり抵抗はされなかった。
「ねぇ、紅音」
「何?」
「楽しい?」
「え? うん」
蒼依からの突然の問いに戸惑いながらも頷く。蒼依からは楽しそうに見えなかったのだろうか、と不安になる。
「今も人多いけど、大丈夫?」
「うん。別に何か待たされてるわけでもないし」
確かに道は観光客で溢れているが、歩けない程ではないし、逃げ出したくなるような何かはここには無い。
「春日大社の所の列に並んでたらさすがに──」
「それはさすがに耐えられへんかったかもしれん」
喰い気味に答え、その光景を想像して顔を顰める。
「一周回って面白いかもよ?」
「絶対途中で嫌になるって。あそこ並んでる間何もやる事無いしお腹空くし最悪やん」
「確かにね。あそこはまた別の日にリベンジかなぁ」
「そんなに行きたいん?」
「いや、せっかくだから一目見るだけでもしたいじゃん」
ふと、蒼依が羨ましく感じて、返す言葉が見つけられなかった。
不自然に会話が途切れて妙な空気感が私たち二人の間に漂う。そんな時に偶然視界に入ったうどん屋を指差した。
「そことかどう?」
「善哉はある?」
「知らん。そんなに食べたいの?」
「いや、別にそんなではないかな」
「他のとこする?」
「ううん。美味しそうだし、ここにしよう」
蒼依が悩む事無く選んでくれた事に安心しつつ、蒼依と一緒に店に入る。
中は全体的に木で統一された暖かい雰囲気があり、店の扉を閉めて外の喧騒が無くなると、より一層落ち着ける空間となった。
案内されたテーブル席に並んで座り、肩を寄せ合ってメニュー表を見る。黒毛和牛を使ったカレーうどんや丼とセットになっている物は千円を超えていて、かけうどんなどのシンプルな物でも六百円近いが、それ相応に美味しそうに見える。
五分程メニュー表と睨めっこをした後、店員を呼んで注文する。そして料理が届くまではいつものように足を休める休憩タイムだ。
水で喉を潤し、考えていた事を提案する。
「今度から先にお昼食べる場所決めへん?」
「どうして?」
「今日みたいになるから。この前もこんな感じで歩き回ったやん」
「観光しに来たんだからそれで良いじゃん」
「ほんまに言うてる?」
「ごめん。嘘」
「一緒に色々見て回るのは楽しいけど、さすがにしんどい」
「あっ、そういえば靴擦れ大丈夫?」
「今日は歩き回るやろうと思って歩きやすいの履いてきたから大丈夫やけど、ふつ~に疲れた」
「ごめん」
「楽しいから良いけどね」
しかし今思うと、この楽しい気持ちで居られたのは蒼依との約束があったお蔭のように思える。あれが無ければきっと今頃人混みに動きを制限され、癇癪を起こすまではいかなくとも不機嫌にはなっていただろう。
今まで自己啓発本などでこういう考え方をすれば腹が立たなくなる、など数々の戯れ言を目にしてきたが、実際に行動に起こして上手くいったのはこれが始めてかもしれない。これまではそれができれば苦労してないと文句を言って投げ捨てたくなるような事ばかりだった。
「蒼依ってすごいよなぁ」
「何? いきなり」
心の声が漏れ出していた事に気付き、口籠もる。
「いや、別に……尊敬してるよって……」
「……紅音って時折突拍子も無い事言い出すよね」
「そう?」
「うん。数学の証明問題とか作文が苦手って言ってた理由がよく分かる」
「どういう事?」
蒼依は一人で勝手に納得したように頷き、私の問いには答えてくれない。そうこうしているうちに注文していた料理が届き、話していた事を忘れて食べ始める。食レポができる程の語彙力も感性も持ち合わせていないが、暫くは記憶に残りそうなくらいに美味しいと感じた。ただ美味しいとだけ思った。
蒼依や他の人はこういう時ももっと色々な事を感じ取っているのだろうか。それを訊ねてみると、蒼依は一緒だと答えたが、自分の感性に対する信頼が無い所為で蒼依の言葉も信じる事ができなかった。
私が大仏を見てぼうっとしている間、蒼依はきっと様々な何かを感じていたのだろう。同じ空を見ても、景色を見ても、蒼依が感じている筈の何かを私は感じられない。
私にはそういった何かが欠けているように思えて仕方が無かった。
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