第39話 12月28日

 ふわふわとした肌触りの良いパジャマをベッドに脱ぎ捨て、窓から流れ込んでくる冷たい空気に身体を震わせながら昨日のうちに選んでおいた服に身を包む。


 クリスマスの前日のうちに冬至は過ぎたらしく、雪が降る気配も無いまま気温が上がり始めている。天気予報通りなら今日も昼間は十五度辺りまで上がるようで、いつも使っているダッフルコートを着るには少々暖かすぎるため、厚手のロングカーディガンに換えて姿見の前に立ってみる。それから今日持って行く予定の黒い鞄を肩に掛けてみて、髪や襟などを整え、違和感が無い事を確認して姿見に布を被せる。


 蒼依と会う約束をした時間までは残り一時間半。移動時間を考えるとそろそろ出ておいた方が良いだろう。


 朝から充電しておいた携帯を忘れずに鞄に仕舞い、財布やポーチなどの忘れ物が他に無いかをしっかりと確認して部屋を出る。階段を下りてリビングに顔を出すと、足音に気付いて振り返った妹のぱっちりと開かれた目が私を捉えた。


「お姉ちゃん化粧してるー」

「うん。デートやからな」

「どこ行くん?」

「……さぁ?」


 私が首を傾げると、妹も座椅子の背凭れに頭を乗せ、鏡合わせのように首を傾げた。


「決まってへんの?」

「いや、一応京都駅に行く予定ではあるけど……」

「水族館とかは?」

「お金掛かるやん」

「そのためにアルバイト始めたんちゃうの」


 母が堪えきれなくなったように笑い、切りの良い所まで進んだのか、読んでいた小説を閉じて机の上に置いた。


「そうやけど、水族館なんて行って何したらええか分からんやん」

「お姉ちゃん魚好きやん」

「好きやけど……」


 魚に限らず大体の生物は好きなのだが、それらを見て燥げるような性格ではない。動物園などによくある触れ合いコーナーや猫カフェなんかに行ったとしても、私は撫でる程度こそしても「可愛い~」などと騒ぐような事はしない。妹はそれができるタイプの性格をしていて、それを見る度に多少羨ましく思っている。


「紅音、もう行くんちゃうの?」


 母に名前を呼ばれ、ぼうっとしていた意識を引き戻す。


「あぁ、うん。行く」

「行ってらっしゃーい」


 手を振って見送ってくれる妹に手を振り返し、玄関に向かう。その後を母が付いてくる。


「忘れ物は無いか?」

「うん。多分」

「夕飯も食べて帰ってくるんやんな?」

「うん」


 靴箱を開けて底の厚いパンプスを取り出し、自分の足にぴったりなサイズのそれに踵を入れる。あまり履き慣れていない靴なので、帰ってくる頃には靴擦れを起こしているかもしれないが、靴擦れ一つで蒼依に可愛いと褒めて貰えるなら儲け物だろう。


「じゃあ気ぃ付けてな」

「はぁい」


 ドアハンドルに手を掛けて扉を押し開けると、冷たい空気が肌を撫でる。やはり起きてすぐの時間に比べると暖かく感じる。少々肌寒くはあるが、これから更に気温が上がると考えると、この服装で問題無さそうだった。


 母の視線を切るように足早で歩き、駅へ向かう。


 蒼依の事が好きだと気付いてから半年程が過ぎ、初めの頃のような気持ちの昂ぶりは少なくなったように感じる。しかしだからと言って楽しみでは無くなったかと言えばもちろん違う。蒼依と過ごしている時間は普段得られる事の無いとても幸せな物だと感じているし、そうでなければ前日から服装に悩んだり面倒な化粧をしたりはしないだろう。だから恐らくこの楽しみという気持ちに慣れてしまっただけなのだろう。


 毎日のように電話で声を聞いていて、ほぼ毎日学校で顔を合わせているのだから慣れてしまうのも当然と言えば当然か、誰かに対する意味の無い言い訳を考えているうちに駅に着く。


 定期券を翳して改札を通り、田舎らしさを感じる広々としたホームで電車を待つ。それから五分と経たないうちに到着した電車に乗り込み、いつもの場所に座る。


 ふと、蒼依に連絡しておこうと思い、携帯を開いて電車に乗った事を報告する。いつだったか、集合場所に早く着いた事に対して文句を言われた事があった。その時から家を出たらすぐに連絡するように言われている。


 どうやら蒼依は他人を待たせるのが苦手らしく、私が好きで蒼依を待っているのだから気にするなと言っても、蒼依は駄目だと許してくれなかった。私は約束の時間にさえ間に合っていれば相手を待たせても問題無いと考えているが、蒼依の気持ちも分からなくはないので、別に良いだろうと納得しつつ、いつもこうして家を出るタイミングではなく、電車に乗ったタイミングで報告している。蒼依も最近はそれに対して何も言ってこなくなったので、諦めたか、充分に間に合うと分かって納得してくれたのだろう。


 発車ベルが鳴り響き、扉が閉まる。そしてギシギシと音を立てながらゆっくりと電車が動き出した。


 少しして手元からピコン、と電子音が聞こえた。しまった、と思いつつ携帯をマナーモードにしてから届いたメッセージを確認する。送り主は予想通り蒼依で、『了解』と二文字だけ送られてきていた。私はそれに敬礼している猫のスタンプを送り、携帯を鞄の中に仕舞う。


 少しの間景色を眺め、奈良線に乗り換えてから小説を読み始める。蒼依から何か連絡が来ているかもしれないが、今は小説を読んでいたい気分だった。


 集中し始めると早いもので、物語が終盤に差し掛かろうという所で電車は京都駅に到着し、扉が開いた瞬間、いつの間にか一杯になっていた人たちが雪崩を起こしたように電車の外へ流れ出て行く。


 その様子を暫く座って眺めていた私は開いていたページに栞を挟み、本を閉じて鞄に仕舞う。


「紅音」


 突然の事に驚き、自らの耳を疑いながら目を見開いて顔を上げると、蒼依が私を見下ろしていた。


「おはよう」

「……おはよう」


 満面の笑みを浮かべる蒼依に手を差し出され、鞄を持ってその手を取り、ゆっくりと立ち上がる。


「なんで居るん?」

「今日に関しては偶々かな」

「そうなん?」

「うん。紅音から連絡来て三十分後くらいに家出て、それで来た電車に乗っただけ。で、乗ったところに偶々紅音が居たってだけ」


 手を握られたまま電車を降り、人が混み合っている改札の方へ歩いていく。


「声掛けてくれれば良かったのに」

「私が乗った時もう満員みたいな感じだったし。どうせなら驚かせようと思ったんだけど、大成功だったみたいね」

「久々にびっくりしたわ」

「うん。私も久々に紅音の大きめのリアクションが見られたから良かった」


 目を見開くというのが大きめだと評される程私の普段のリアクションは小さいらしい。何となく自分でもそういう自覚はしているつもりだが、私が思っている以上にリアクションをしていないのかもしれない。


 エスカレーターに乗り、人の波に乗って改札を出る。


「どこ行く?」

「紅音はどっか行きたい所とかある?」

「いや?」

「じゃあとりあえずお昼ご飯探そう。何か食べたい物ある?」

「んー……」


 蒼依に手を引かれるがままに歩きながらいくつかの料理を思い浮かべてみるが、その中に特別食べたいと思うような物は無かった。それ程お腹が空いていない所為かもしれない。


「蒼依は何かある?」

「私も別に無いかなぁ」

「因みに今どこ向かってんの?」

「んー……京都タワーの方かな。そういえば地下というか……一階に色々無かったっけ?」

「あるけど絶対高いで?」

「そうなん?」

「いや、知らんけど」

「じゃあちょっとそっちの方……ていうかここにもあるじゃん」


 不意に蒼依が立ち止まり、通路の右側にある広間の方を見ていた。そこは確か中央口に繋がる場所だったな、と朧気な記憶を掘り起こす。


 他の人の通行を極力邪魔しないように気を付けつつそちらの方へ歩いて行くと、よく行くショッピングセンターの吹き抜けのように高い天井のある広々とした空間に出た。壁の高いところから天井までを覆っている鉄格子の向こうには綺麗な青空が見える。


「フードコートみたいな感じなんだ」


 私が天井を見上げている時、蒼依は目の前にあるテーブルと店の方を見ていたらしい。私も遅れてそちらの方へ視線を移す。


「ぽいね」

「ミスドもあるし」

「ここする?」

「いや、もうちょっと探そう。ドーナツはおやつやん」

「担々麺とかもあるで?」

「とにかく他行こう」


 返事する間も無く蒼依に手を引かれ、中央口に繋がるエスカレーターに乗って下の階に下りる。


「京都駅ちょっと探検しない?」

「ええけど……」


 蒼依のテンションが妙に高いのが気になったが、確かに私も京都駅に何度も来た事がありながら行った事の無い場所は多いため、反対する理由は何も無い。空腹になるまでの時間稼ぎにも丁度良いだろう。


 人が引っ切り無しに行き来している中央口から外に出て右に曲がり、駅に沿って進む。途中にいくつか見えた出入り口を蒼依は全て素通りし、突き当たりまで来てしまった。


「中入らへんの?」

「とりあえず周りぐるっと回ろうかなぁって」

「なるほどね」

「探検だからね」


 そう言って蒼依はまた私の手を引き、今度は妙に長い階段を上がる。その先にあったのはどこまでも続いているのではないかと思えるような長い直線の通路だった。通路の半分程は屋根が無く、テラスのようになっている。しかし見える範囲にあるのはそれだけで、店のような物は見当たらない。一番奥には黒い何かが見えるが、店のようには見えない。


「何も無さそうやけど」

「こっちは何?」


 蒼依が自分より少し背の高い外壁の方へ歩み寄り、所々にある子ども一人分くらいの大きな穴から壁の向こう側を覗き見る。


「電車が見えるだけか」

「駅の上なんやな、ここ」

「そうみたいね」

「どうする? 戻る?」

「いや、せっかくだからこっち行こう。別に立ち入り禁止とかじゃないんだし」


 昼食を食べる場所を探すついでの探検なのかと思っていたのだが、どうやら違うらしい。


 先程の人混みが嘘かのように誰も居ない通路を歩く。右側にあった円柱がアーチ状に穴の空いた壁に変わり、左側には鳥居のように鮮やかな赤色の柵が現れるが、そんな物に興味を示す訳も無くただ通路を進んでいくと、漸く階段が現れた。


 一度立ち止まり、まだまだ続いている様子の通路の方を蒼依と一緒に覗いてみると、ぽつぽつと人が通っているのが見えた。


「あっち行ってみるか」

「うん」


 ここまで来ておいて断る理由など無く、蒼依の気紛れに従って通路を更に奥へ進む。先程端から見えていた黒い何かはJR線の西口へ繋がる階段だったらしく、一人で勝手にすっきりとした気持ちになりながら蒼依に付いていくと、今度は横に広い階段が現れた。


「この先行っても何も無さそうやし、こっち行こっか」

「うん」

「大丈夫? 疲れてない?」

「あぁ、うん。それは大丈夫」


 強いて言うとすれば「飽きた」だろうが、それを馬鹿正直に口にする気は無い。


「あれ? ここ……」

「知ってんの?」


 階段を上った先に見えた朱甲舞という真っ赤なモニュメントと、その向かいにある広く長い階段。それらはとても見覚えのある所だった。


「こんなとこにあったんや……」

「何? 何か有名な場所なん?」


 蒼依と二人で階段の一番上の方を見つめる。


「えっとなぁ、ここで何か色々イベントやってはんねん。吹奏楽とかもここでやったりしてはるらしくて、動画でちょっとだけ見た事はあるんやけど、この大階段がどこにあるんか分からんくて……」

「へぇ~」

「夜になったらイルミネーションとかもしてはるんちゃうかなぁ」

「そうなんだ。というかここさっき居た所の上じゃない?」

「さっき居たとこって?」

「フードコートみたいなとこあったでしょ?」

「あっ、そうなん?」


 蒼依の手を引いて階段の反対側、吹き抜けのようになっている方へ近づいてみると、そこには確かに中央口の改札があり、すぐ下の所には先程私たちが居たフードコートがあった。


「ここのエスカレーター上がったらここに繋がってるんや」

「そうみたいね」

「へぇ、知らんかった」

「一周してきた感じか」

「うん。どうする? 上る?」


 蒼依の方に振り返り、大階段の方を親指で指し示す。


「本気で言ってる?」

「うん。まぁ、最悪エスカレーターで行けばええし」

「じゃあとりあえず一番上まで行こうか」

「おー」


 気合いの入っていない掛け声をしつつ階段を上ろうとすると、蒼依がエスカレーターの方へ私を引っ張っていく。本気で抵抗しようと思えばできるが、正直な所、私もこの長い階段を使って上まで行くのはめんどうだとは思っていた。


 エスカレーターは一つで上まで続いているわけではなく、三つを乗り継ぐと最上階まで行けるようで、一つ乗っている間にも二階層か三階層分上がっている。とすると、最上階は少なくとも八階以上で、中央改札口が一階だとすると、最上階は十二階くらいだろうか。京都の建物にしては随分と高い建築物だ。


 ゆっくりと空に近付いていく。ふと振り返って先程まで私たちが居た下のフロアを見てみると、想像以上に地面が遠く、ほんの一瞬全身の血が冷たくなったかのような感覚に陥り、咄嗟に手摺りを掴む。


 やがてエスカレーターの終わりが見え、最上階に到着する。まず目に入ったのは名前の分からない細長い木と、歯医者などで顔に当てられる照明のような物に取り付けられている『葉っぴいてらす』と書かれた看板だった。


「葉っぴいてらすだって」

「こんなとこあったんやなぁ」


 きょろきょろと辺りを見渡し、街を見渡せそうなガラスになっている方へ蒼依を連れて行く。


「すごい、全部見えるじゃん」


 少し暗いガラスになっている所為で綺麗とは言い難いが、それでもこの景色を望めるのはなかなか良い物だ。


「京都タワーってどこにあるん?」

「後ろちゃう? これ目の前ホテルやろ? あっちにアヴァンティとかあるし、多分後ろやろ。ほら」


 振り返るとすぐに赤いどら焼きのような物が刺さっている白い塔が目に入り、指を差す。


「あぁ、本当だ。全然見てなかった」

「節穴」

「紅音だって見てなかったでしょ?」

「うん」


 それからまたガラスの向こう側に視線を向け、一頻り景色を楽しんだ後、私もさすがに空腹を感じ始め、元々の目的であった筈の昼食探しに戻る。


 私がまたエスカレーターに乗って下りようとすると、今度は階段の方へ引っ張られる。


「どこ行くの?」

「そこにラーメン専門店街ってあるし、行ってみよう」

「えぇ……」

「ラーメン嫌いだっけ?」

「嫌いではないけど……」

「好きでもないって感じか」

「うん。まぁでも見るだけ見てみよ。空いてたらそこ入ったらええし」

「いいの?」

「ラーメン食べたいんちゃうの?」

「いや、そんなに」

「えぇ?」

「まぁまぁ、とりあえず行ってみよう」


 今日の蒼依はやはりいつもと違う。体調が悪いのに無理をしているのかとも思ったがそういう訳ではないらしい。蒼依の嘘を見破る自信は欠片も無いが、私から見ても体調が悪いようには見えないので、一先ずは本人の言う事を信じて付き合う事にした。


 階段を下り、『拉麺小路』という案内板が出されている所の扉を開けると、強烈な中華の匂いが襲い掛かってくる。嫌いな匂いではないが、服に染み込んでしまいそうだ。


「あっ、抹茶スイーツだって。ここで良くない?」


 蒼依が興味を示したのは入ってすぐ左側にある『茶筅』というラーメン専門店街の入り口には不似合いな店だった。


「ほら、ピザとかパスタもあるし」

「ラーメン専門店街やのにピザなんや。しかもピザもメインっぽくないし」

「良いじゃん。ここにしよう」

「でもめっちゃ人並んでるで?」

「確かに。どうしよう」


 蒼依だけだったなら恐らく迷わずこの列に並んで何が何でも抹茶スイーツを食べたのだろうが、今回は待つのが嫌いな私が居るため、蒼依は迷っているようだ。


「他のとこにしよ?」


 気を遣ってくれている蒼依に対し、深く考える事もせずそんな事を言ってしまうのが私の悪い所だろう。


「そうね……」


 聞くだけでも落胆しているのが分かったが、撤回するには私の持つ変なプライドが邪魔だった。


 蒼依が食べたかったであろう店を離れ、専門店街の奥へ進んでいく。当然ながらラーメン店ばかりで、私が食べたいと思える物は見当たらない。


「あっ、見て。スカイウェイだって」


 蒼依がそう言って指差したのはラーメン店が並ぶ通路ではなく、もう一方の分かれ道の先にある出口。その扉の上に少し歪な形の文字で『Skyway』と書かれていた。


 行ってみよう、と蒼依に手を引かれるままに文字の下を潜って白く明るい空間に出る。人二人が楽にすれ違える程度の狭い通路。壁とアーチ状の天井は透明なガラスで覆われており、左側に目を向けると、先程私たちが居た大階段が見えた。


「こんな所歩けるんだ」

「ね」


 私も母からこういった道があるという話を聞いた事はあったが、実際に歩くのはこれが初めてだ。


「こっちは何も無いんだ」


 蒼依の呟きを聞いて右側に視線を向けると、そこにはただ灰色の建物の壁が見えるだけだった。


「これどこまで続いてんの?」

「一応ここ伊勢丹に入れるっぽいけど。というかここ十階だったんだ」

「せっかくなら端まで行こうや」

「そうね」


 入り口を素通りして先に進むと、ガラスの外は大量の鉄骨でせっかくの景色が見え辛くなっていた。その代わりとして、右側のガラスにはこの京都駅の歴史のような物の説明が書かれた紙が貼り付けられており、それが通路のずっと向こうまで続いているようだった。


「あっ、ほら。クリスマスコンサートって」

「本当だ。これそこの階段の所なんだ。何か後ろに大きいクリスマスツリーあるけど」


「さっきは無かったやんな」

「まだクリスマス過ぎたばっかりなのに」

「ね。もう片付けはったんやなぁ」


 少し歩いてまた足を止める。


「南遊歩道ってあの長い通路だよね」

「あぁ、ぽい」

「東広場ってこの先にあるんかな」

「そうちゃう?」


 そんな事を話しながらいつもの半分くらいの速度で歩き、一枚一枚に目を通していく。


 ふと左側に顔を向けると、正面に京都タワーが見えた。


「あっ、蒼依」


 気付かず先へ行こうとする蒼依の手を引いて立ち止まる。


「何……あっ、京都タワーじゃん」

「なんかこうしてみるとおっきいなぁ」

「私は遠くからもあんまり見た事無いけどね」

「一応さっきその……南遊歩道かなんかに行く時見えたけどな」

「確かに。この丁度真下くらい通ったもんな」


 柵に手を置いて下を覗き込む蒼依に倣って私も覗き込むが、見えたのはせいぜいバス停くらいだった。


「これ下の看板は……ここから見える建物か」


 蒼依が手摺りとガラス板の間にある少し色褪せた写真を差して言う。


「うん」

「比叡山ってあの一番高いやつ?」

「そうね。延暦寺かなんかがあるとこ」

「へぇ。清水寺とか金閣寺とか書いてくれてるけど、本当にこれ全部見えるの?」

「さぁ? でも二条城は見えてるで?」

「えっ? これは違うでしょ?」

「あぁ、ほんまや。手前のは東本願寺か」

「これ説明してくれてるのは有り難いけど、魚眼レンズみたいに湾曲してるから分かり辛いね」

「確かに」

「というかお昼ご飯探しに行こう。さすがに紅音もお腹空いたんじゃない?」

「んー……ちょっとは」

「じゃあ行こう」


 そう言って蒼依が先に歩き出し、私はそれを追い掛け、隣を歩く。右側に張られている過去の京都駅の写真はいつの間にやら大正時代にまで遡っており、初代に関しては明治時代の物で、現在の京都駅とその周辺の景色からは全く想像も付かない程の駅が映し出されていた。私の記憶の中で一番近い物は道の駅かもしれない。


 そうこうしているうちに端に辿り着いたようで、一人乗りの狭いエスカレーターに乗って下に下りる。鉄骨の囲いが無くなり、開けた視界に綺麗な青空が映る。


「あっ、あれさっき写真にあったやつじゃない?」


 蒼依が下りた先にある広場の方を指差して声を上げた。その指が示す先を視線で追っていくと、儀式でも行うかのように配置された植木鉢と、その媒介とされる白い鳥籠のような物があった。


「なんか思ったよりちっちゃくない?」

「ね。もっと教会みたいな大きいの想像してた」


 あの通路に張られていた写真には画面いっぱいにこの鳥籠のような物が写されていたため、この周りにあるビルと同じくらいとは行かなくとも二階建てくらいはある物だと勝手に想像していたが、今実際に目の前にあるのは寺院の鐘が一つあれば一杯になってしまう程度の大きさだった。


 何の注意書きも無いので気にする必要は無いのかもしれないが、中に足を踏み入れて良い物なのか分からず、一旦回りをぐるりと一周してみるが、この建造物についての説明などは何も書かれていなかった。


 それからそろそろ本気でカフェか何かを探そうという事になり、エスカレーターで何度も見た中央口に下りてそのまま外に出る。


 他にも劇場や伊勢丹など見ていない所はたくさんあるが、私が行きたがっていないのを察してか、蒼依もそこへ行こうとは言わなかった。しかしせっかくここまで来ておいてチェーン店で済ませるのも違うだろうという事で、すぐ近くにある『Porta』という地下街のショッピングセンターに向かう。


 入り口の階段を下り、フロアマップが書かれている案内板の前で立ち止まる。


「いろいろあるね」

「お茶漬けとかあるで」

「絶対高いでしょこんなん」

「こんな都市部のお店なんて大体高いやろ」

「うどんとかどう?」

「あり」

「じゃあそれで」


 そう言うと、蒼依はいつの間にか離したままになっていた手を取って歩き出した。今日この数時間だけでも随分と我が儘を言って蒼依を困らせてしまっているが、蒼依は怒るどころか上機嫌のように見える。


 道中のアクセサリーや服に目移りしながらも目的の店に向かう。既に記憶が曖昧で店の場所が分からない私と違い、蒼依は迷う事無く足を進めていたが、曲がり角で急に足を止めた。


「予想はしてたけどやっぱり並んでるなぁ」


 蒼依の見つめる先を見ると、店に沿って何組も客が並んで待っていた。ただでさえ年末で人が多い上に、それだけ美味しいという事なのかもしれないが、やはり私は並んでまで食べようという気にはなれない。


「どうせ服とかも見るし、ぐるーっと回ってみよ?」

「うん。そうね」


 またしても軽いショックを受けている様子の蒼依の手をギュッと握り、ほんの少しの間蒼依と見つめ合い、それから店探しを再開する。


 時間は気付けば一時を過ぎようとしており、何も食べていない筈なのに空腹も気にならなくなってきた。蒼依も同じように空腹感が薄れてきてしまっているのか、二人揃ってふらふらと寄り道をしてどれが似合うとか、これが流行だとか、そんな事を話しながらウィンドウショッピングを始めていた。


 いくつか気になった店に入って冷やかした後、パフェの食品サンプルが置かれている店が目に入った。


「もうなんかお昼じゃなくておやつにここ入っても良い気がしてきた」


 蒼依のそんな言葉を聞いて時計を確認すると、三時になろうとしていた。今日の予定を話し合っていた段階ではまず京都駅に着いたら昼食を食べて、それから色々見て回ろうと決めていた筈だ。それが一体どうしてこうなったのか。


「ここする?」

「ここしよう。なんか甘い物食べたい」

「豚キムチうどんとかあるけど」

「甘い物が良い」

「タコラ──」

「甘い物」


 徐々に語気を強める蒼依に思わず吹き出す。もしかしたら空腹で苛々しているのかもしれないが、子どものように言い張る姿はとても可愛らしく思えた。


 昼食を探し始めて約三時間が経過し、漸く見つけたこのお店で、うどんや丼などのちゃんとしたご飯には目もくれず、蒼依は抹茶生チョコレートパフェを、私はほうじ茶生チョコレートパフェを注文し、歩き疲れた身体を休める。


「紅音」

「なに?」


 携帯で何かをしていた蒼依に名前を呼ばれて顔を上げる。


「ちょっと調べてたんだけど、大階段あるでしょ?」

「うん」

「そこで夕方くらいからイルミネーションやるんだって」

「へぇ」

「十五時からだから多分もうやってるし……」

「そうなんや」

「いくつか種類あるみたいだから後で見に行こう」

「うん。ええよ」


 少しして頼んでいたパフェが運ばれてきて、思っていた以上の大きさに驚いていると、正面に座っている蒼依から「おぉ……」という喜びが溢れたような声が聞こえてきた。


「こんなにおっきいと思ってなかったわ」

「本当に」


 早速食べようと細長いスプーンを手に取った瞬間、「写真撮っても良い?」と蒼依が訊ねてきたので、問題無いという意思表示としてパフェの器を蒼依の方へ寄せ、自分は椅子ごと少し距離を取って待機する。


「紅音も撮りたいんやけど」

「嫌」


 私は反射的にそう答えたが、心の奥底にあったこれまでの蒼依への罪悪感が限界に達しようとしていた。


 蒼依の方へ押しやったパフェを自分の方へ引き寄せる。


「どうしたら良い?」

「良いの?」

「撮るなら撮って」

「……できれば笑ってほしいんだけど」


 そう言われて私は眉間に皺を寄せて僅かに首を傾げる。そんな私を見て蒼依は口元を緩ませていた。


「なんでそんなに写真嫌いなの?」

「……さぁ?」


 そう答えると、蒼依は私に向けて構えていた携帯を下ろしてパフェだけを写真に撮って鞄に仕舞う。


「じゃあ食べようか」

「写真はええの?」

「うん。撮ったから」

「ふぅん」


 元々私を撮る気は無かったのか、蒼依は満足そうな表情で手を合わせてパフェを食べ始めた。本当に良いのだろうか、と疑問に思いながらも手を合わせ、天辺に乗っていたケーキらしき物とクリームを掬い取って口に運んだ。


 途中でお互いの物を分け合いつつ蒼依の顔と同じくらいの高さのパフェを完食し、少し休憩してから会計をする。その際私が奢るからと半ば強引にお金を出し、蒼依を無視して店から離れると、最終的に蒼依が折れて礼を言ってくれたが、やはりあまり納得はいっていないようだった。


 それから先程のウィンドウショッピングの続きをする。年末の人の多さにうんざりしながらショッピングセンターの端から端まで歩き回り、その後は駅から少し離れた家電量販店の方まで足を伸ばし、楽器やパソコンなどを見て時間を過ごす。


 蒼依が興味を強く示したのは楽器店よりも化粧品で、楽器に関しては今必要な物も気になっている物も特に無いらしく、まるで興味が無いかのように通り過ぎるだけだった。


 大きな店を上から下までのんびりと見ていると、外に出た頃には既に陽は沈み、夕焼けすらも見られなかった。


 京都駅の方へ戻りながら夕飯は何にしようかと話し、昼間の反省も活かして駅を挟んで反対側にあるイオンのフードコートに行く事にした。そうした理由の半分くらいは疲労によって並ぶ気力が無かったからという単純な諦念だった。


 イオンに行ったら行ったでまた気になる店が視界に入ってくるのだが、それら全てを見て回っているとさすがに遅くなってしまうため、また次の機会にと真っ直ぐにフードコートに向かい、空いていた席を確保してそれぞれ食べたい物を買って食べる。


 疲れの溜まった足をぶらぶらと揺らしていると、踵の辺りに鋭い痛みが走った。靴擦れを起こしたのだろうと揺らしていた足を止めて覗き込んでみると、白い靴下に赤い染みができていた。


 痛む足に見て見ぬ振りをして、イルミネーションを見に駅へ戻る。


「いやぁ、疲れたなぁ」

「うん。これだけ歩いて全然物買ってないけど」

「まぁ、目的はデートやから。蒼依もそんなにお金使えへんやろ?」

「まぁね」


 だらだらと話しながら歩いていると、何かに足が引っ掛かって転びそうになる。その瞬間、蒼依が正面から抱き留めてくれ、私は蒼依の身体にしがみつく事で事無きを得た。


「ごめん。ありがとう」

「大丈夫?」

「うん」


 激しく鼓動する心臓が落ち着いてくると、足の裏から冷たい感触が伝わってくる。どうやら躓いた拍子に靴が脱げてしまったらしい。靴の締め付けから解放されて怠さが無くなったような気がするが、このまま靴下で帰る訳にはいかない。


 蒼依を支えにしながら靴を回収し、じんじんと電気が流れているかのような痛みに耐えながら靴に踵を入れ、トントン、と軽く地面を蹴る。


「よし、じゃあ行こっか」

「ちょっと待って」

「ん?」


 蒼依は鞄からポーチを取り出し、そこから更に何か箱を取り出した。


「ちょっと来て」


 そう言った蒼依に手を引かれるままに付いていくと、近くのトイレに連れて行かれ、洗面台に寄り掛からされる。


「靴擦れしてるでしょ」

「えっ、なんで分かったん?」

「だって明らかに歩き方おかしかったから。厚底だからかとも思ったけど初めは普通に歩いてたし」


 脱いで、と状況によっては勘違いされかねない命令に従い、靴と靴下を脱いで裸足になると、足首を掴まれ、蒼依の膝の上に足を置かされる。その事に戸惑っているうちに蒼依が絆創膏を貼ってくれた。そのまま反対の足にも同じように絆創膏を貼ってもらい、血の染みた靴下を履き直し、靴を履く。


「大丈夫そう?」

「うん。ほんまにありがとうな」

「次からは言ってほしいかな」

「善処するわ。蒼依は大丈夫?」

「うん。結構履き慣れてるやつだから」

「そっか」


 蒼依に手を洗わせ、気を取り直してイルミネーションを見に大階段へ向かう。蒼依によると、ここのイルミネーション自体は一年を通してテーマを変えつつやっているらしく、あまり人は多くないだろうと思っていたのだが、クリスマスや年末などのイベントが重なっている今の時期のイルミネーションもやはり少し特殊な物がやっているようで、結構な人集りができていた。


 今行われているのがどういったテーマを持っているのかはよく分からないが、少なくとも私が思っていたイルミネーションとは少し違うようだった。私が知っている中で近いのはプロジェクションマッピングだろうか。ビル八階分に及ぶ階段に取り付けられた大量の明かりが規則的に点滅し、色を変え、花札や雪の結晶など様々な映像を作り出している。ドット絵と言うとあまりに風情に欠けるかもしれないが、その辺りが一番近いように思う。


「思ってたのとは違うけど……綺麗だね」

「……うん」

「あんまり思ってないでしょ」

「……」


 気まずさに耐え兼ねて蒼依から目を逸らす。


「そういうとこ好き」


 その時、眦の辺りに熱の籠もった柔らかい物が触れた。その正体を察した私は目を見開いて蒼依を見る。


「ちょっと、人居るやん」

「誰も気にしてないって」

「もう……」


 恥ずかしくはあるが、それと同等以上に嬉しさが胸を満たす。繋いでいる蒼依の手をぎゅっと握り、肩をくっつける。


 それから暫くイルミネーションらしき物を眺め、冷え込んだ風が吹き込んできて身体を震わせると、偶然同じタイミングでお互いを見た。


「そろそろ帰る?」

「うん。もう結構いい時間やろ」

「そうね」


 エスカレーターに乗って下に下りる。いつ見ても人がごった返している中央改札口からホームに入り、連絡通路を通って一番奥にある奈良線のホームに移動する。


「紅音、今日はありがとうね」

「蒼依もありがとう。楽しかった」

「どちらかと言うと私がすごい楽しんじゃったけどね」

「それはほんまに。なんでなん?」

「さぁ? 年末だからかも」

「イベントでテンション上がるタイプじゃないやろ」

「少なくとも紅音よりはテンション上がってるからね?」

「私よりテンション低くなる人居らんやろ」

「自覚はあるんだ」

「そりゃもちろん」


 階段を下りて、既に到着していた奈良行きの普通電車に乗り込み、運良く空いていた席に座って一息吐く。


「足大丈夫?」

「え? あぁ、うん。大丈夫。ありがとうな」


 夜の電車は昼間よりも更に静かで、それに配慮して囁くような声で訊ねてきた蒼依に、私も周りに聞こえないくらい小さな声で答えた。


「次から怪我とかしたらちゃんと言ってね?」

「うん。その代わり蒼依もなんかあったら言うてな?」

「うん。私は基本的に隠し事もしてないから」

「私が隠し事してるみたいな言い方やめてぇや」

「何かしらはしてるでしょ?」

「……言った方がええかなぁっていうのはちゃんと言うてるで?」

「本当に?」

「信じてくれへんの?」

「それは狡くない?」

「蒼依がいっつも言うてる事やろ」

「そうかも」

「そうやで。反省して」


 徐々に人が増え始め、ひそひそ声だろうと迷惑になるだろうと会話を止める。軈てアナウンスが流れ、電車がギシギシと不安な音を立ててゆっくりと動き出す。


 ずっと握られたままの手を見つめていると、蒼依が寄り掛かってくる。何事かと見てみると、どうやら眠ってしまったらしい。空いている左手で蒼依の頭をそっと撫で、私も蒼依の方へ身体を寄り掛からせて目を瞑る。


 車や電車に乗っていると眠たくなるのは何故なのだろうか。そんなどうでも良い事を考えていると、いつの間にか私も眠ってしまっていたようで、私が起こす筈だった蒼依に太腿を叩かれて意識が覚醒する。


「おはよ」

「……今どこ?」

「もうすぐ六地蔵」

「……そう」


 ぼうっとする頭を起こそうとしている間に電車が六地蔵駅に到着する。


「今日はありがとうな」

「うん。気を付けて帰ってね」

「うん。蒼依も気を付けてね」

「じゃあまたね」


 蒼依は私の髪をくしゃっと乱し、逃げるように電車を降りていった。


 早く帰るなら快速電車に乗り換えなければならないのだが、今日は何となくこのままゆっくりと帰りたい気分だった。

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