第38話 12月20日

 終業式が終わり、暫く会う事の無い友人たちに手を振って別れた私は、癖のようになってしまった溜め息を吐きながら電車に乗り込む。


 今朝は制服とマフラーだけでは耐え難く、丈の長いダッフルコートを着て痛いくらいの寒さを凌いでいたが、太陽が天辺に近い所にある今は制服だけでも充分に暖かく感じる。山の上辺りに雨を蓄えていそうな薄黒い雲が見えているが、天気予報を見る限りでは雨は降らないと言われており、気温が下がるという事も無さそうだった。


 時間通りに到着した電車から降り、既に見飽きてしまった細道を通って店に向かう。店が近付いてくると、息苦しさが増していく。しかし今感じている息苦しさは、初めの頃に感じていた緊張から来る息苦しさとはまた別の物のように思える。


 というのも、今は初め程緊張していない。ただアルバイトの時間が延びた事によってレジに送り込まれる可能性が高まったというのが嫌なだけだ。書棚の整理整頓に本の補充などの先週までやっていた仕事に関してはもう一人でやるのにも慣れ、先輩や店長に見られながら慌ただしく動く必要も無くなって随分と気持ち的にも楽になった。


 気がかりな事と言えば、客に話しかけられた時の対処法くらいだろう。仲良くなった先輩によると、自ら本を傷付けて文句を言ってくる悪質なクレーマーや、通りすがりに身体をぶつけてきたり触ってきたりする痴漢などがいるらしく、幸いにも私が対応した人は丁寧にお礼まで言ってくれるような優しい人ばかりでまだそういう人に出会った事は無いため、本当にそんな人が居るのか半信半疑なのだが、もし遭遇したらどうしようかと密かに怯えながら過ごしている。


 出勤時間より少し早い時間に書店に着き、何か面白い本が無いか見て回る。


 アルバイトを始めてから知ったのだが、どうやらここで働いていると、この書店で本を購入する際は二割引きになるという所謂社員割りと言われている物があるらしく、先輩にも勧められてこうして見ているのだが、今すぐに欲しい本というのが無い上に、まだ働き始めたばかりの私には六百円が五百円程度にまで下がったところで気軽に購入できる物ではなかった。


「あれ、紅音ちゃん?」


 どこか聞き覚えのある女性の声に名前を呼ばれて振り向くと、迷惑な客が居るという情報を教えてくれた山中先輩がいくつかの本を腕に抱えてこちらを見ていた。


「あ、えっと、お疲れ様です」


 ほんの一瞬だけ顔を見て目線を下げたが、胸の辺りを見るのも失礼なような気がして、落ち着ける場所を探して視線を彷徨わせる。


「お疲れー。今日終業式なんやっけ?」

「はい。時間までちょっとあるので、暇潰しというか……」


 責められているような気がして、思わず言い訳のような言い方になってしまったが、先輩は特に気にした様子も無く、持っていた本を下の棚に入れた。


「それで、何探してたん?」

「いや、ただ何か面白そうなの無いかなぁって」

「紅音ちゃんってこの辺のやつ読むん?」


 そう言いながら先輩は私のすぐ横にある棚を眺め、気になる物があったのか、その中から一冊手に取り、裏側に書かれているあらすじを読み始める。


 この辺りに並んでいる小説のジャンルを何と言えば良いのか私には分からないが、少なくとも国語の教科書に載っているような物は並んでいない。


「先輩、仕事は良いんですか?」

「えー。ちょっとくらい時間潰しに付き合ってぇや」


 懇願するような言い方をしておきながら、先輩の視線は手に持っている本に向いたままだ。


「……私もここで働いてるから無理でしょ」

「今はお客さんやろ?」

「仕事の邪魔してるみたいに思われたら嫌じゃないですか」


 先輩のサボりに付き合っているという風に見られたり、私が先輩を引き留めて世間話をしているという風に見られたりしたとしても、どちらにしても私が怒られる未来が見える。もし私がこの店で働いていないただの客だとしたら、縦令本に関係の無い話をしていたとしても誰も怒らなかったのかもしれない。何かを言われるとすればそれは、先輩が私の事を迷惑客という判定を下した時くらいだろう。


「怒られたらちゃんと私が言ったるから」

「やとしても一回は怒られるんでしょ?」

「そんな大して怒られへんって」

「……じゃあ仕事がんばってください」

「えぇ~、けちやなぁ」


 そう言って先輩はここでの仕事を終えて去ろうとするが、不意に立ち止まって再び私の方へ振り返る。


「そういえば紅音ちゃん、今日多分レジやらされるかもよ」

「ぅえ……」

「めっちゃ眉間に皺寄ってる」


 あはは、と控えめな声を出して笑い、私の肩をトントンと軽く叩く。


「大丈夫やって。いざとなったら私も助けられるし」


 じゃあまたね、と私が返事をする前に先輩は自分の仕事に戻っていった。


 せっかく少し気持ちが落ち着いてきて仕事に対するやる気も出てきた所だったというのに、先輩の一言で気分は底無し沼に落とされたように沈んでいく。心構えができたという点では有り難いと言えるが、仕事までのこのゆったりとした時間が潰されたのはなかなか許し難い。


 静かに深呼吸を繰り返しながら目の前に並ぶたくさんの本のタイトルを眺めて暫く過ごし、覚悟を決めて控え室に向かう。


 コンコン、とノックをして、「失礼します」と声を掛けながらドアノブを捻って中に入る。


「あぁ、お疲れさん」


 相変わらずパソコンに向かって何かをしていた店長の筒井さんがこちらに振り返る。


「お疲れ様です」

「何か良い本は見つかった?」


 どうして知っているのかという疑問を頭の隅に追いやり、声を絞り出す。


「えっと、今は家に結構本が溜まってるので……」

「順番に読んでいく派か」

「そう……ですね」


 曖昧な返事をしながら荷物をロッカーに仕舞い、ブレザーも脱いで雑に四つ折りにして入れる。それから店のエプロンを身に着け、鏡を見ながら身嗜みを整える。


「今日はとりあえず本の入れ替えしてもらっても良い?」

「はい。分かりました」

「いま岸さんが準備してくれてると思うし。で、それ終わったらついでにいつも通り本棚の整理しといて」


 店長が指差した方を一瞬見て、頷く。


「分かりました」

「じゃあがんばってね」

「はい」


 いつも通りの仕事を任された事に胸を撫で下ろしつつ、それを表情に出さないように気を付けながら部屋を出て岸さんが居る筈の部屋へ向かう。


 少し立て付けの悪い扉を開け、中に居た岸さんに声を掛ける。


「岸さん、お疲れ様です」

「あぁ、お疲れ。これ手伝ってくれる感じ?」

「はい。本の入れ替えをしてくれって」

「じゃあ……そうやな。とりあえずこれ手伝ってもらって良い?」

「分かりました」


 具体的に何をするのかよく分かっていないまま岸さんの隣に座り、やり方を教えてもらいながら作業を手伝う。他人の指示に従って動くというのは楽な物で、何かミスをして怒られる事になったとしても、自分の中で私は指示に従っていただけだといって責任転嫁ができる。この場合は素早く作業を進めながら丁寧に教えてくれている岸さんに責任を押しつける事になるので、少々心苦しくはあるが、やはり自分が責任を負わされるよりは遥かに気が楽で、変に緊張をしないで作業に集中する事ができる。


 昼食を食べたばかりで襲い掛かってくる眠気を弾き飛ばしながら延々と同じ作業を繰り返し、少しずつ棚の中身を入れ替えていく。


 作業を終えたのは始めてから二時間が経過した頃で、店内に居る人の数はいつもと変わった様子は無く、レジに呼ばれる気配も無いため、私は先週までと同じ本の整理整頓をする。


 それも終わって控え室に入ると、山中先輩が店長と何か話しており、私に気付いた店長が手招きをする。首を傾げつつ後ろ手に扉を閉めて近付く。


「紅音ちゃんお疲れー」

「仕事終わった?」

「えっと、一通りやってはきましたけど……」

「うん。ありがとうな。また暫くしたら見に行ってもらってもいい?」

「はい。分かりました」


 何か次の指示をくれるのかと思ったのだが、どうもそうではないらしく、妙な沈黙が生まれる。それを埋めるように山中先輩が「とりあえず座ったら?」と私に椅子に座るよう促してきて、まさか怒られるのだろうか、と警戒しつつ山中先輩の隣の席に座る。


「今ちょっと店長と話しててんけどさぁ、紅音ちゃんって彼氏居るん?」

「え?」


 予想の斜め上を行く話題に面を食らう。


「私と店長は居らんねんけど、紅音ちゃんは?」

「いや、居ないです」


 咄嗟にそう答えたが、蒼依という恋人が居る事を考えると、居ると答えておくべきだったかもしれない。決して嘘を吐いたつもりはないが、結果的に嘘になってしまっているような気がした。


「クリスマスの二十四か二十五って空いてる?」

「えっと……二十五日の昼なら多分空いてます」

「夜はあれか、家族とご飯食べに行ったりする感じ?」

「……そうですね」


 実際は蒼依とご飯を食べに行く約束をしているが、家族と大差無いだろうと頷く。


「二十四は何か予定ある感じ?」

「そうですね」

「やっぱり彼氏?」

「いや、そうじゃないんですけど……」


 完全に否定するのは違うような気がして、曖昧な返事になってしまったが、二人は特に気にした様子はない。


「じゃあ紅音ちゃんは誘えへんなぁ」

「何かあるんですか?」


 溜め息を吐きながらテーブルに突っ伏した山中先輩の方を向いて訊ねると、何故か店長が答える。


「いや、別に何もないんやけど、暇してるんやったら夕飯一緒に食べに行ったりしよかなぁって思ってたくらいで」

「奢りですか?」


 その瞬間、先輩が椅子をガタンと鳴らして勢い良く起き上がった。


「えっ、そうなんですか? ありがとうございます、店長」

「いや、まぁ人数少ないから全然ええんやけどね?」

「忘年会ですからねぇ、焼き肉とかがええなぁ」

「食べ放題でええなら奢るで」


 その言葉を聞いた先輩はぱちぱちと目を瞬かせ、読み込みが遅い動画のようにほんの一瞬動きが止まる。


「えっ、七割冗談やったのに……」

「じゃあ割り勘する?」

「いやいやいやいや、遠慮無くご馳走になります」


 奢りという部分には非常に惹かれるが、焼き肉はあまり好きではない。当然美味しいとは思っているし、食べられない物があるという訳でもないのだが、どうも気が進まない。これがまた自分でもどうして気が進まないのか分からないのだから尚の事厄介だ。これと同じ感情を鍋をする時にも抱いているのだが、何が面倒だと感じるのか、自分の事でありながら私には全く検討が付かない。


「紅音ちゃんも来る?」

「いや、大丈夫です」


 不意を突くように訊かれ、少々喰い気味に答えながら愛想笑いを浮かべる。


「店長の奢りやで?」

「またいつか機会があれば」

「ですって。そのうち紅音ちゃんも連れて行きましょ?」

「じゃあそれは伊東さんがレジ打ちと接客ができるようになったら、そのお祝いで行こか」

「……がんばろうか、紅音ちゃん」


 接客と店長の奢りを天秤に掛けた時、私としては接客をしないという方に傾くのだが、アルバイトとして雇ってもらっている以上それは叶わない願いだろう。


 少しして店長に追い払われるようにして休憩を終わり、結局レジを任される事は無く、いつものように書棚の整理整頓や掃除などをして閉店までの時間を過ごす。


「お先に失礼します」

「はぁい、お疲れ様ー」


 控え室に残っている人たちに声を掛け、裏口から外に出る。


 店から出た途端、昼間の暖かさとは比べ物にならない程に冷え込んだ空気が頬を撫で、思わず身体を硬くする。そこでマフラーと手袋の存在を思い出し、鞄から引き摺り出して身に付ける。すぐに暖まる物では無いが、痛い程に冷たい空気が肌に触れないだけでも充分過ぎる程に暖かい。


 防寒をしっかりとした所で駅を目指して歩き出す。


 時刻は二十一時を少し過ぎた辺り。アルバイトの無い日なら夕飯はもちろん、風呂も済ませていつでも寝られる状態の時間だ。


 横断歩道の信号が変わるのを待っている時、ふと蒼依に連絡をしようと思い立ち、右手の手袋を外してコートのポケットから携帯を取り出した。蒼依の誕生日に合わせた〇四〇二を入力し、アプリを開いて蒼依にアルバイトが終わった事を報告する。


 打ち込んでいる間に信号が変わり、送信してから慌てて横断歩道を渡る。返信が来ていないかを気にしながらもとりあえず駅に行こうと携帯を握り締めたままいつもの細道を早足で進む。


 駅に着き、階段を上ってそのまま改札を抜ける。奈良行きの電車はつい先程出たばかりだったようで、二十分程待たなければならないようだった。


 ホームに下りようとも思ったが、風の吹き抜ける外には出ずにここの方がまだ寒さを凌げるだろうと壁に身体を凭せ掛けて携帯を開くと、メッセージが届いていた。


『お疲れ様』

『蒼依もお疲れ様』


 送信すると、すぐに既読が付いた。


『気を付けて返ってね』


 誤字が目に入り、思わず息が漏れる。


『うん。気を付けて返るわ』


 からかってやろうと同じ変換で返す。


『見逃してくれたっていいじゃん』

『私が間違ったり噛んだりしたらすぐ言うてくるくせに』


 長い文章を打とうとすると、寒さに手がやられて打ち間違えてしまいそうになる。他人のミスを指摘しておきながら自分が間違うわけにはいかないので、送信する前に念入りにチェックしてから送信する。


『紅音が関西弁弄りしてくるからでしょ?』

『最近はしてへんやん』

『たしかに』

『でしょ? 蒼依は今何してんの?』

『課題やろうかなぁって机に並べてたとこ』

『もうやんの?』

『紅音だってやるでしょ?』

『やる』

『じゃあいいじゃん。紅音は今電車乗ってる感じ?』

『まだ。寒い』

『電話しても良い?』


 背中を壁から離し、電光掲示板を覗き込むようにして確認する。


『あと三分くらいで電車来る』


 送信すると、十秒もしないうちに蒼依から電話が掛かってきて、煩い着信音を阻止するように慌てて応答する。


『もしもし?』

「あと三分で来るって言うてるやん」

『あと三分暇って事でしょ?』

「そうやけど、びっくりするやん」

『ごめん。我慢できなかった』

「何が?」

『紅音の声が聴きたくなった』

「夜どうせ電話するやん」

『いま夜やし。しかもこの後電話するって言ってもそんなに時間無いじゃん』

「まぁね」


 声が辺りに響くのが気になり、仕方無く階段を下りていつも乗っている場所の近くで待機する。


『紅音はこれから帰るんでしょ?』

「うん」

『お腹空かないの?』

「んー……今はそんなに。空腹通り過ぎたわ」

『何それ』

「お腹空いたのある程度行くと無くならん?」

『何? 霞でも食べてんの?』

「仙人ちゃうし」


 そんな事を話している間に三分が経過したようで、アナウンスが鳴り響き、暗闇の向こうに電車の明かりが見えた。


『電車来るみたいね』

「うん」

『じゃあ気を付けて』

「うん。ありがと。蒼依は課題がんばってな」

『うん』

「じゃあまたね」

『またね。だい──』


 蒼依が最後に何かを言おうとしていた事に気付き、耳から離した携帯をもう一度耳に当ててみたが、既に通話は切れてしまっていた。何となく言おうとしていた言葉が何なのか推測できなくはないが、言い逃げされたのが気に食わないのでこれ以上は考えないようにして到着した電車に乗り込んだ。


 帰宅ラッシュには少し遅い時間だが、奈良方面に帰る人は意外と多く、疲れた体を休める座席はどこも空いていないようだった。仕方無く扉のすぐ横のスペースに立ち、ぼうっと窓の外を眺める。


 本を読む気分にもなれず、凡そ二十分間ぼうっと過ごし、木津駅で乗り換えて一見貸し切りのような電車に乗って加茂駅に向かう。それからまた寒空の下を一人寂しく歩き、家に着いたのは十時半頃の事だった。


「ただいま~」


 玄関の扉を開けて声を掛けると、リビングから母が顔を覗かせる。妹が出てこないという事はもう部屋に居るのだろうか。それかただ寒くて炬燵から出られないだけかもしれない。


「おかえり。寒かったやろ」

「うん。寒い」


 靴を壁に揃えて脱ぎ、温もりを求めて母の後に続いてリビングに入る。暖房は付けていないようだが、それでも外よりは遥かに暖かいと感じた。


「どうする? 先にお風呂入るか?」

「そうしようかなぁ」

「じゃあ弁当だけもらうわ」

「あぁ、はいはい」


 鞄を開けて弁当箱を取り出し、母に渡す。


「もう涼音とパパは入ったからいつでもどうぞ」

「はぁい」


 荷物を置きに行くのは後でいいだろうと鞄やコートなどを座椅子の横に纏めて置いておいて風呂に入る。


 蒼依に帰宅報告をするのを忘れているな、と思いながら頭から順番に洗っていく。あまりのんびり洗っていると、待っていてくれた母の番がどんどん遅れていくので、丁寧に洗いながらも気持ちいつもより急ぎ気味に手を動かす。


 微かな眠気を感じながら湯船に入り、肩までお湯に沈めて脱力する。暫くして、いつの間にか閉じてしまっていた瞼を開き、身体を起こして疲労の溜まっている足を中心にマッサージをしてから湯船から出てシャワーで汗を流し、風呂から出る。


 先程は暖かく感じた空気に身体を震わせながらバスタオルで身体の水気を取り、さっさとパジャマを着てそれからドライヤーで髪を乾かす。この髪を乾かす工程が一番時間が掛かってしまっている上に正直な所めんどうなので止めてしまいたい気持ちはいつもあるのだが、これを止めると髪がすぐに傷んで触り心地は最悪になるし、今なら蒼依に怒られる羽目になるだろう。それなりに気に入っていて自信を持っている髪が傷んでしまうのは私としても喜ばしい事ではないため、多少のめんどうには目を瞑る。


 仕上げとして手櫛を通し、最後に軽くスキンケアをしてからリビングに戻る。


「おっ、ナイスタイミング」


 そう言いながら母が食卓ではなく炬燵机の方に皿を並べた。今日は鶏の照り焼きと野菜炒めらしい。


「寒いからな。せっかく炬燵があるんやし」

「なるほどね」


 テレビに流れているバラエティ番組を見つつ座椅子に座り、食前の挨拶をしてから食べ始める。


 一人で食べる夕飯というのはなかなか寂しさを感じるが、父の咀嚼音に気を取られずにゆっくりと食べられるという点では最高と言えるだろう。


 いつもよりゆっくりと味わって食べ、風呂に入っている母が戻ってくる前に食器を片付けておく。


 母が風呂から上がり、歯磨きをしてから置きっ放しにしてあった荷物を持って部屋に戻る。その途中、妹に声を掛けようかとも思ったが、ノックをしようとした直前、妹が既に寝ている可能性がある事に気付き、ノックをするために持ち上げた右手を下げてそのまま自室に戻り、荷物をベッドの横に纏めて置いてベッドに寝転がった。


 コートのポケットから携帯を取り出し、タイミングを失って忘れてしまっていた蒼依への帰宅報告をする。すぐに返信が来るかもしれない、と寝転がった体勢のまま画面を眺めていると、メッセージの横に既読という文字が表示され、電話が掛かってくる。


 何となく予想はできていたため、今度は落ち着いて応答ボタンを押してすぐにスピーカーモードに切り替える。


「はい」

『遅くない?』

「ただいま」

『おかえり』


 少し怒ったような声色だった。


「ごめん。連絡すんの忘れてた」

『そうだろうとは思ったけどね』


 溜め息のような音の後に力の無い笑い声が聞こえてきた。先週も同じ事をしたため、呆れているのだろう。


「勉強中?」

『うん。紅音は?』

「ご飯とか済ませて部屋戻ってきたとこ」


 不意に出てきた欠伸を堪えきれず、はぁ、と息を吐き出す。


『眠そうね』

「うん。眠い」

『もう寝る?』

「いや、とりあえず鞄とか片付ける」

『じゃあ起きて』

「うん」


 腕でベッドを押して重たい身体を起き上がらせ、コートやブレザーなどの衣類をハンガーに掛ける。


「蒼依は今何やってんの?」

『今はねぇ、英語かな』

「プリントやっけ?」

『うん。めんどくさそうだったから、先にやっちゃおうと思って』

「えらーい」


 鞄の中からプリントを挟んであるクリアファイルを取り出し、暫く使わないであろう鞄も服と同じくクローゼットの中に仕舞っておく。


「蒼依ー?」

『なに?』

「好きー」

『……お酒でも飲んだ?』

「ううん。眠たいだけ」

『そう』


 寝転んででも座ってでも、目を瞑ってしまえば数分と掛からずに眠ってしまいそうな眠気に襲われながらもテーブルの前に座り、昨日か一昨日かに貰った英語のプリントをテーブルに広げる。


「蒼依は今どこやってんの? 何枚目?」

『今三枚めかな』

「おっけ~」


 ペラペラと上の二枚を端に避け、三枚目のプリントを上にして鉛筆を持つ。時折欠伸を挟みながら一番上から順に問題を解いていく。プリントは基本的に復習問題ばかりのようで、試験勉強を真面目にやってきたと自負している私にならすらすらと、行き詰まる事無く簡単にできる筈なのだが、睡魔によって思考が妨げられ、思っている以上に進まない。


『紅音、起きてる?』

「うん。起きてるぅ」

『因みにもうすぐ十二時になるんだけど、どうする?』


 蒼依の言葉を聞いて時計を見る。確かに時計の針が真上で重なろうとしているように見えた。


「もうそんな時間かぁ」

『遅くまでバイトだからね』

「そっかぁ」


 アルバイトが終わるのは二十一時。そこから十分程閉店作業があり、それから更に一時間掛けて家に帰り、夕飯を食べて風呂も済ませていると、その時点で二十三時を過ぎているのが殆どで、今日も例に漏れず部屋に来た段階で二十三時を過ぎていた。学校とアルバイトがあり、疲れて眠くなってしまうのも当然と言えば当然だ。


『というか一昨日とかもそうだったでしょ』

「そうなんやけどねぇ?」


 アルバイト先をあの書店に決めたのは私の好みであり消去法による結果なのだが、もう少し、せめて家に近い所にすべきだったかもしれないと後悔し始めていた。もしそうしていればもっと蒼依と話したり勉強したりする時間が取れたかもしれない。


『明日も入れてるんだっけ?』

「ううんー。いつもと同じやから、月曜とぉ、水曜とぉ、土曜の三日だけ」

『そうなんだ』

「そう。でも時間は延ばしてもらってるから」

『なるほどね』

「週三で良いのかなぁとか思ってたけど、別に何も言われへんかったなぁ」

『意外と緩いというか』

「そうねぇ」


 これ以上この眠気に耐えられる気がせず、「もう無理だぁ」とペンをテーブルの上に放り投げ、携帯を持ってベッドに上がる。


『もう寝る感じ?』

「うん。眠い」


 皺くちゃになっている布団を整え、携帯に充電器を挿して枕元に置く。


「蒼依はぁ? まだ寝ぇへんのぉ?」

『んー……私も寝ようかなぁ』

「蒼依は明日も部活あんねやろ?」

『うん。来週までかな』


 部屋の電気を消し、ふわふわとした感触の毛布と分厚い布団を肩まで被り、目を瞑って電話の向こうの音に意識を集中させる。電話の向こうからはチャックを閉める音や衣擦れの音が聞こえてくる。


「蒼依はよう部活もやってんのに眠くならへんよな」

『まぁ、そんなに家が離れてないし、紅音よりは体力あるから』

「私も結構体力あると思うんやけどなぁ」

『今はまだ慣れてないだけじゃない? 慣れてきたら大丈夫でしょ』

「それやと良いんやけどねぇ」


 無音になると、次第に意識が重力に引っ張られるように沈んでいく。


『紅音?』

「んー?」

『おやすみ』

「ぅん。おやすみぃ」

『大好きだよ』

「えへ、大好き」


 きっと電車が来た時も言っていたのだろうな、と思いながら私は夢の世界に落ちていった。

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