第37話 12月13日

 二学期も残り一週間となり、授業は五十分から四十分へと短縮された。


 十分と聞くと、たったの十分か、と私たちは勝手に期待をしておきながら期待外れだと言わんばかりに溜め息を吐きつつ、少しでも早く授業から解放される事に喜びを感じているが、教師からするとその十分は致命的なようで、時間が足りない、とどの先生もこちらの板書が追いつかないくらい早く授業を進めていた。


 生物の先生曰く、普段の五十分でも教えたい事を教えるには短いらしく、大学のように一つの授業を百分にしてほしいとまで言っていた。そんな事をすれば生徒側から確実に文句が出るだろうが、確かにそこそこの値段がする教科書を買ったのに、ここはやらないから、と飛ばされたページがいくつもある。本当ならそういった省かざるを得なかった所もやりたいのだろう。


 そんな先生の愚痴を聞いて午前中の授業は終わり、午後の音楽の授業では最後の授業という事で、何故か『ピアノの森』というアニメを見せられ、クライマックスに入ろうかという中途半端な所でチャイムが鳴り、不完全燃焼のまま二学期最後の音楽の授業が終わった。


 号令で立ち上がったついでに腕を天井に向けて伸ばし、長時間座りっぱなしで凝り固まった身体を解す。堰き止めていた息を吐き出し、腕をゆっくりと前に立っていた蒼依の肩に置くと、びくりと蒼依の肩が跳ねた。


「お疲れぇ、蒼依」


 気が付かなかった振りをして労いの言葉を掛けてやると、蒼依は私の左手に右手を絡め、そのままこちらへ振り返る。


「お疲れ様。紅音の方が疲れてそうだけど」

「うん。疲れた」

「これからバイトでしょ?」

「その前にまだ掃除もしなアカンけどな」

「あぁ、そっか。このまま部活する気満々だった」

「何ならホームルームもあるし」

「確かに。行こう」

「うん」


 蒼依の手が指の隙間から抜け、私は行き場を失った手で意味も無くスカートを摘まんだ。


 鞄を持ち、蒼依と一緒に掃除の担当場所である教室へ向かう。少々のんびりし過ぎたのか、教室に着いた頃には既に私と蒼依以外のメンバーが掃除を始めてしまっており、私たちも慌てて箒を持って参加する。


 いつも通りの簡単な掃き掃除を済ませると、蒼依は何故か私の席に座って寛ぎ始める。「退いて」と腕を引っ張っても、蒼依は「別にいいじゃん」と言って立ち上がろうともせず、諦めて背中を向けた瞬間、背後から抱き付くようにして後ろに引っ張られ、蒼依の膝の上に座らされた。


「離して」

「いや」


 お腹に巻き付いた蒼依の腕を剥がそうとするが、上手く力を入れる事ができず、少したりとも動かせなかった。


 別に痛くも苦しくもないからいいか、と溜め息を吐いて抵抗を諦める。


「ねぇ、髪の毛くすぐったいんだけど」

「知らんわそんなもん」


 厄介なクレームに文句を言いながら両手で後ろの髪を肩の前に持ってくる。


「そういえばさ、紅音は初詣とかいつもどうしてるの?」

「初詣?」

「うん」


 蒼依の顔を見ようと振り返ると、自分の肩越しに覗き込んでくる蒼依が見えたが、ずっと首を回しているのは苦しく、正面に向き直る代わりに蒼依を背凭れにして後ろに寄り掛かる。


「いつもは家族で春日大社に行ってるかな」

「へぇ」


 お腹に巻き付いている蒼依の手に触れると、ひんやりとした感触が伝わってきて、私の体温が蒼依の手に吸い取られていくのを感じた。


「蒼依とは……行ってへんのか」

「どこに?」

「その……奈良公園の辺り」

「奈良まで行ってるん?」

「うん。奈良までって言うけど、ここまで来る方が時間掛かるしな」

「あぁ、そうか。奈良の方が近いんだ」

「うん。車で行くにしても奈良の方が断然近いし、うちの近くで大きい所って言うとそこくらいしかないから」

「へぇ。その春日大社は奈良公園の近くにあるの?」

「近くっていうか、中かな」

「奈良の大仏があるのは?」

「同じ奈良公園の中やな。東大寺ってとこ」

「東大寺とか春日大社って結構大きいんじゃないの?」

「まぁ、小さくはないんじゃない?」

「奈良公園大きすぎない?」

「まぁ、そうね。どこからどこまでが奈良公園なのかは知らないけど」


 そんな事を話している間に清掃の時間の終わりを告げるチャイムが鳴り、続々とクラスの人たちが帰ってきて、私たち六人だけだった教室は一気に賑やかになった。


 人目が増え、さすがにこうして蒼依の膝の上に座っている状態でいるのが恥ずかしくなってきた私は、改めて蒼依に解放してくれと頼んでみるが、駄目、と短い言葉で却下されてしまった。


 そんな時、救世主が現れる。


「何をそんな堂々といちゃついてんねん」


 呆れたようにそう言ったのは彩綾だ。その後ろには夕夏がにやにやとした表情をこちらに向けていた。


「蒼依に捕まった」

「うん。捕まえた」

「仲がえぇようで何よりやわ」

「もうすぐ先生来るで?」


 夕夏が廊下の方を指差して言った。


「やって。離して?」


 首を回して蒼依の方を見ながら蒼依の手をトントンと軽く叩いてやる。


 その間に彩綾と夕夏は自分たちの席の方へ向かっていった。


「仕方無いなぁ」


 お腹の拘束が解かれ、さっさと立ち上がって振り返る。蒼依はまだ私の席から退く気は無いようで、座ったまま私の手を掴んだ。また引き寄せられるのかと警戒して身構えたが、蒼依はただ私の手を握っただけで何もしてこなかった。


「そうそう、話戻すんだけどさ、初詣一緒に行かない?」


 突然の提案に、握られていた手を見ていた私は視線を蒼依の顔に向ける。


「別にええけど……そんな話してたっけ?」

「してたしてた。いつも初詣どうしてるのか訊いたじゃん」

「言うてたなぁ」

「でしょ? で、ちょっと話逸れちゃったけど、せっかくだから一緒にどうかなぁって思って」

「蒼依は家族と行かへんの? 引っ越してきたばっかりなんやし。というかその……おばあちゃん家に行ったりとかせぇへんの?」

「するとは思うけど、別の日でもいいだろうし、何なら家族で初詣に行くのも別に他の日にすればいいしね」

「そっか」

「まぁ、一応確認は取るけど」

「最悪二回行けばええやろ」

「それは……いいの?」

「別に駄目って事は無いでしょ」

「じゃあ朔日が空いてるなら朔日に行かない?」

「うん。二人で?」

「もちろん」


 蒼依が頷いたところで再びチャイムが鳴り、黒板の方へ視線を向けると、いつの間にか先生が黒板の前に立っていた。


「じゃあ詳しい事はまた夜話そう」

「うん。分かった」


 蒼依は漸く席から立ち上がり、さり気なく私の頬を撫で、鞄を置いたまま自分の席へ戻っていった。


 撫でられた拍子に少しズレてしまった眼鏡を掛け直し、席に座る。


「いちゃいちゃし過ぎちゃう?」


 そう声を掛けてきたのは前の席に座っていた美波だ。


「……」


 言い返そうにも美波が言ったそれは事実でしかなく、苦し紛れの言い訳すらも思い浮かばなかった。


「一応隠してるんちゃうの?」

「私は隠したいというか……言い触らすつもりはないって感じ」

「言い触らしてるようなもんちゃうかなぁ」

「……」


 肯定の言葉を圧し殺し、先生の方を小さく指差すと、美波は黙って前に向き直った。


 ショートホームルームが始まり、いつものようにちょっとした行事予定や一部の人に対する連絡の後、先生の号令で解散となった。


 周りの人がいつもより長く部活ができる事に浮き足立っている中、私がアルバイトまでの時間をどう潰そうかと頭を悩ませていると、美波が話しかけてくる。


「紅音はこの後アルバイトあんねやんな?」

「うん」

「すっごい嫌そう」


 あはは、と美波が困ったように眉をハの字にして笑う。


「どうしたん?」


 そこへ蒼依がやってきて、流れるように私の背後に立って髪を梳き始める。やめて、と口には出さず、代わりに蒼依のお腹に頭突きをするが、やめてくれそうにはなかった。


「いや、紅音がすっごいアルバイト嫌そうやから」

「そうなん?」


 蒼依が髪を触る手を止めて上から顔を覗き込んでくる。


「いや、まぁ……できれば行きたくはないよね」

「そんな大変なん?」

「いや、うん。想像以上に接客ができひんくて……」


 言いながら土曜日にアルバイトへ行った時の事を思い出し、軽い吐き気を催す。


 この一週間でどういう仕事をしているのかという事と、レジ打ちを教わり、何度か練習と見学をした後、習うより慣れよというようにカウンターに立たされたが、そこに立った瞬間から頭の中が真っ白になり、教わった事が全て抜け落ち、強制的に下がらされてしまった。その後裏手で怒られ、書棚の整理や陳列作業などのフロアと呼ばれている方の担当に移された。


 初めに接客は苦手だという事を伝えたが、向こうもまさか喋れなくなる程だとは思っていなかったのだろう。私自身もう少しできると思っていたし、書店に勤める限り接客はしなければならない物だと覚悟をして臨んでいたつもりだったのだが、自分が思っていた以上に私は緊張しいだったらしい。


 溜め息を吐くついでに深呼吸で心を落ち着けようとしたが、嫌な記憶というのはどうにもこびり付いて剥がれてくれない。


 微かに震える手をぎゅっと握り締め、胸が悪いのを誤魔化そうと話を強引に終わらせる。


「というか二人は部活行かんでええの?」

「そうやね。そろそろ行こか」

「うん。紅音、充電は?」

「……今日はいいかな。部活がんばってきて」

「そっか」

「充電って?」


 知らない人からすれば当然の疑問に、私はどう答えた物かと口を閉ざすと、代わりに蒼依が答えてくれる。


「それはまぁ……私ら二人の秘密かな」

「……あぁ、あれか」


 美波は少し考えた後、その秘密の正体に気付いたらしく、私を見て口角を上げた。


「察するな」

「確かにね。ハグはストレスを和らげる、みたいなん言うもんな」

「そういう事」

「良いなぁ、そういう事できる相手がいて」

「変な事言うてんと早よ部活行きぃや」


 にやにやと私を見つめてくる二人に嫌気が差してきて、未だに髪を触っている蒼依の手を払い退けながら冷たく言い捨てる。


「ですって。行こっか」

「うん。じゃあ紅音、がんばってね」


 蒼依は手を払われた事には大して気にした様子は無く、子どもをあやすように優しく私の頭を叩いた。


「蒼依もがんばってな」

「私は?」

「……美波もがんばって」


 咄嗟に出かけた言葉を飲み込んで、美波にも同じ言葉を掛けると、二人は手を振って教室を出て行った。


 ふぅ、と一息吐き、短縮授業の事をすっかり忘れてしまっていた事に因って生まれたアルバイトまでの二時間をどうやって過ごすか、いくつかの案を頭の中に並べてみる。


 このまま教室で勉強するなり本を読むなりするか、先にショッピングセンターまで行っておき、そこで散策をするか、電車で加茂まで戻り、またすぐに電車に乗ってアルバイト先に向かうか。


 一つ目の案はあまり良い手だとは思えない。勉強する事自体は時間の有効活用法として最善とも言えるかもしれないが、今の状態で集中できる気がしない。それは読書をするにしてもそうだが、一つメリットがあるとすれば、蒼依が部活をしている所を見る事ができるかもしれないという事だろう。


 しかしその一方で大きな不安もある。それは電車に乗り遅れて遅刻する可能性があるという事だ。ここから駅までは大体二十分。急げばもう少し早く着けるだろうが、確実ではない。思っている以上に私の足が遅いかもしれないし、予定通り辿り着いたとしても電車が遅延している可能性もある。


 それらの不安を解消するにはやはり二つ目か三つ目の案が良いだろう。


 目を瞑り、どこかから聞こえてくる運動部の掛け声や楽器の音を聞きながら考える振りをする。実際は意識の殆どが楽器に行ってしまい、思考はあちこちに散らばってしまっていた。


 とりあえず学校から出ようと鞄を持ち、昇降口へ向かう。遅刻するのが今一番恐れなければならない事だ。こうして悩んでいるくらいならさっさと覚悟を決めて向かってしまった方が良い。


 深呼吸と溜め息が混じったような呼吸を繰り返しながら階段を降り、遠くの方に聞こえる楽しそうな声を聞きながら靴を履き替え、また溜め息を吐く。


 溜め息を吐くと幸せが逃げるというが、溜め息を吐くと胸の痞えが下りるように少しだけ、ほんの少しの間だけ気持ちが軽くなる。これ以外の方法で言うと歌を歌ったり物を壊したり、所謂ストレス発散の為に行うような事が有効なのだが、こんな所でそれができるような強い心臓は残念ながら持ち合わせていない。できるとすればリストカットのような自分の身体を痛めつける事だろう。精神的な痛みを身体的な痛みで誤魔化すという何よりも強引で、何よりも強い方法だ。それが行き過ぎると自殺になるのだろう。


 そんな事を考えながら学校を出て坂を下り、駅に着いたタイミングでちょうど到着した電車に乗り込み、偶然空いていた扉のすぐ横の席に腰を下ろし、大息を吐いた。


 アルバイト先に近付くごとに息苦しさが増していく。体調は悪くない。電車も無事に動き出した。休む理由など何も無い。怒られるのは怖いが、私が怒られるような事をしなければ良い話だ。しかしそれがちょっと気を付けるだけでできるのであればこんな嫌な気持ちになどなっていない。


 電車を降り、重い足を動かして店へと向かう。時間は気付けば残り四十分にまで迫っており、とにかくアルバイトの時間までは何もせず身体を休めたい。


 店に入り、階段の横に設置してあったベンチに腰掛け、目を閉じて妙に疲労の溜まっている足を床に投げ出す。できる事なら眠ってしまいたいが、横にならずに数秒で寝られるような特技は持っていないし、座ったまま眠るという器用な事もできない。


 微かに聞こえてくる車の走行音や店内の音楽などを聞き流し、時折携帯で時間を確認しながら時間を過ごす。


 今日受けた授業と同じ四十分があっという間に流れ、私は書店の社員室の扉を叩いた。


「失礼します」


 震えてはいないが、少し弱々しい声を出しながら扉を開いて中に入る。


「あぁ、お疲れ様」

「お疲れ様です」


 私の指導役であり店長でもある筒井さんが出迎えてくれた。


「今日は先週と同じように書棚の整理とレジの手伝いお願いね」

「はい」

「レジやる時は私が付いてるから」

「……ありがとうございます」


 今更だがどうして店長が直々に私の教育係になったのだろうか、という疑問が湧いてきたが、それを訊けるような神経は私に備わっていない。


 頭を下げ、簡易更衣室でブレザーとカーディガンを脱いで店員の証であるエプロンを着ける。鏡を見て細かい乱れを整え、制服を畳んで荷物を自分のロッカーに入れる。


「準備できた?」

「はい」

「じゃあ教えた通り、よろしくね」

「はい」


 嫌だ、帰りたい、そう思いながらも与えられた仕事に取り掛かる。


 私が任されているのは書棚に空きが無いかを確かめ、空きがあれば補充するのがまず一つ。レジでの対応は戦力外だと判断されたのか滅多に頼まれる事はなく、頼まれたとしても付録を付けたり包装したりといった手伝いのみだ。


 早速棚が空いているのを発見し、抜き取られている本が何かを確認して、下の引き出しから足りない本を補充する。それから他に抜けは無いかをよく確認し、次の棚に移る。こんかいは在庫があったためこれで済んだが、下の引き出しや裏手に本が無ければ発注をしなければならない。これを閉店までの三時間行えば閉店作業をして終わりだ。ただ終わりを待つと不思議と時間の流れが遅く感じるので、できる限り無心で作業を行う。


 平日はやはり客も少なく、時間が経つに連れて更に人は少なくなり、書棚の整理整頓をしているだけで、話しかけられる事も無く時間が過ぎ去っていく。再確認という意味で一度見た棚も確認し、空きがあれば補充、在庫が無ければ後で纏めて発注するためにメモをする。


 こうして書店が実際にどういう仕事をしているのかを教わってみると、客として来ていた時に感じていた疑問が更に深まる。


 今私がやっているように、長編の漫画や小説で間の巻が抜けていれば、もちろんそれは補充対象となるため、補充か発注をするのだが、いつまで経っても補充されず、二巻だけが無い、気になっていた漫画の新巻が出たのにその前の巻が無いなど、場合に因ってはクレームを入れたくなるような事がよくあった。タイミングが悪かったり、そもそも在庫が無いという事もあったが、いつまで経っても補充されないのにネットでは在庫があると書かれていたりもする。


 他にも人気作品だからといって他の本を退けてまで幅を取る必要性など気になる事はたくさんあるのだが、少なくとも間の巻が抜けているという問題に関してはただの職務怠慢のような気がしてきている。


 全ての棚を確認し終わり、休憩室に戻って暇そうにしていた先輩のアルバイトの男性にメモを渡す。


 この時間に一緒に働いている人のうち数人が私と同じアルバイトの人だが、その全員が大学生だ。彼もそのうちの一人で、いくつ離れているのかまでは分からないが、少なくとも三つ以上歳上の人だ。身体の大きさなどは同級生と変わりないように見えるが、何故かそれよりも随分大人に見える。


 そんな人に話しかけるのは店長や教師を相手に話すのとはまた違った緊張感がある。


「すみません。これ、在庫が無かったやつです」

「あぁ、了解」


 彼は私を見た瞬間、笑顔を浮かべ、メモを受け取った。


 彼とは土曜日の昼から一緒で、その時に軽く話をした。その時の印象としても決して悪くはなかった。その所為か、質問してみようという気になり、男性の胸元にあるネームプレートを盗み見て話しかける。


「あの、岸さん。ちょっと訊きたい事があるんですけど……」

「はいはい」

「そこに書いてあるやつの中で、いくつか先週も書いたやつがあるんですけど、その……」


 どう質問して良いか分からず、視線を彷徨わせていると、岸さんは私の訊きたい事を理解したのか、「あぁ」と声に出して頷いた。


「多分あれやな。そもそももう在庫がその発注先にも無かったり、そんなに人気が無いからもう補充しなくても良いってなったやつやな」

「あ、そうなんですか?」

「うん。まぁでもそういうなんも一応書いてくれた方が助かるわ。普通に見逃してたりもするし」


 岸さんはテーブルに肘を突いたままひらひらとメモを揺らす。


「それって覚えといた方がいいですかね?」

「あー、そうやな。二週間くらいしても補充されへんやつとかは覚えて……というか、やってるうちに勝手に覚えるとは思うんやけど、そういうのはメモせんでええし」

「分かりました」

「どうやったっけって悩んだやつとかはもう全部書いちゃって。で、その後はパソコンで纏めて店長がチェックしはるし」


 岸さんが指差した店長の方をちらりと視線だけで見て、頷く。


「分かりました。ありがとうございます」


 そう言って去ろうとすると、ガタガタと音を立てて岸さんが立ち上がる。


「そうや。せっかくやしこれのやり方も教えとくわ」


 指差した先にはいつも本の発注などをしていると思しきノートパソコンがあった。


「……それって私がやっても大丈夫なやつなんですか?」

「うん。俺もアルバイトやけどやってるし。今は研修中やから人数足りてる状態でやってもらってるんやろうけど、そのうち一人でやってもらう事になるやろうしな」


 どうりで暇をしているわけだ、と心の中だけで彼がこの部屋で携帯を弄っていた理由に納得する。


 こっち来て、と彼に手招きされ、素直に従って隣からパソコンを覗き込む。


「パソコンは使った事あるやんな?」

「学校でなら」


 家にもパソコンはあるが、使う用事が無かったため、今まで殆ど触った事が無いし、これから先も使う用事は暫く来ないだろう。


「じゃあ最低限は分かるって感じ?」

「そうですね」

「じゃあまずこれ開いてもらって……」


 マウスを受け取り、岸さんの指示通りにパソコンを操作する。それから実際に私がメモした物を参考に文字を打ち込み、後は店長に渡すだけという状態にまでなった。


「簡単やろ?」

「そう……ですね……?」


 パソコンの操作から少々危うかった私からしても確かにやった事自体は簡単で、手順もすぐに覚えられそうな程に少なく簡単だったが、自信の無さが滲み出したような曖昧な返事をする。


「まぁ、また分からん事があったら遠慮無く訊いてくれたらええし」

「ありがとうございます」

「じゃあ店長も来たし、俺はこれで」

「はい。ありがとうございました」


 手を振って部屋を出て行った彼を見送り、「どう?」という店長の短い問い掛けに振り返る。


「えっと……?」


 どう答えれば良いのか分からず首を傾げる。


「それ、できそう?」

「はい。多分」

「そこは言い切ってほしかったなぁ」


 ははは、と笑う店長に合わせるようにして含み笑いを返す。


「今日はそろそろ終わりなんで、また床掃除お願いしてもいい?」

「はい。分かりました」


 掃除に関してはもう四回目になるため、掃除道具の場所も、やり方も一つ一つ説明されなくてもできる。今のところ唯一自信を持ってできる仕事かもしれない。


 箒で軽くゴミを掃き、その後モップで汚れを落とす。これもなかなか大変な仕事だが、他の人も同じように並行してやってくれているため、案外すぐ終わり、それが終わる頃には他の閉店作業も全て終わっており、後は戸締まりをして帰るだけとなった。


 最後に会議のような物は無く、自分が任されている仕事が終わった人からさっさと帰って行った。残ったのは店長と先程パソコンでの発注作業を教えてくれた岸さんと私だけになったが、帰る方向も交通手段も別々の私たちもその場で解散する事となった。


 すっかり暗くなった夜道を今日は少し晴れやかな気持ちで歩きながら携帯を取り出し、蒼依へメッセージを送る。いつも通りに過ごしているのなら、恐らく今は風呂に入っているため、暫く返信は来ない筈だ。それからいくつかスタンプとメッセージを送り付け、どうせ返ってこないからと携帯を鞄に仕舞う。


 奈良行きの電車を待つ間、蒼依に今日のアルバイトでの事を報告しようとして、指を止める。


 報告すると言ったって一体何を報告するというのか。今日やった事と言えば先週やった事が殆ど。新たに教えてもらった事もわざわざ蒼依に報告する程の事ではない。


 人差し指を使って文字を打ち込み、消去。また文字を打とうとして、何も言葉が浮かばず、諦めてそのまま携帯を閉じる。


 ほぼ毎日一緒に過ごし、会話をしている所為でただでさえ話す事が無いというのに、こんな所で話を消費してしまったら夜や次会った時に話す事が無くなってしまう。


 時折他の人はどんな会話をしているのだろう、と疑問に思うと同時に不安になる。この先ずっと蒼依と過ごして、蒼依に飽きられてしまうのではないか。私と話す事は無いのに他の人とはたくさん話して、私と居る事がつまらないと感じるようになるのではないか。所謂マンネリというやつに陥ってしまうのではないか。


 そうならない為には私がもっと話さないといけないのに、蒼依を退屈させない話というのが浮かばない。思い出話も作り話すらもできない。


 これから冬休みが来て、クリスマスがあり、年が明ける。蒼依とどう過ごすか話し合っていたが、いつかの夏休みにしたデートと同じような事になるのではないか。


 思考をどう持って行っても同じ不安に打ち当たり、どんどん気持ちが沈んでいく。


 電車が到着し、空いている席に座って、今日だけで数え切れなくなってしまった溜め息を吐いて目を閉じる。


 蒼依に会いたい。


 そんな願いを胸に抱いたまま、私は眠りに就いた。

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