第36話 12月5日
面倒な事件に心を惑わされながらも無事に試験を終え、先生から追試の日程を聞かされた翌日。私は心臓を誰かに掴まれているような息苦しさに苛まれていた。
「紅音、大丈夫?」
七時間目の授業が終わり、部活に行く準備を終えた蒼依が教室の一番後ろ、皆が出入りする扉のすぐ側の席で突っ伏していた私に声を掛けてくる。
「行きたくない……」
顔を少しだけ上げて蒼依の姿を確認した私は蒼依の細い腰を両腕で引き寄せて抱き締める。そうすると、ある程度の事情を知っている蒼依は引き剥がそうともせず、私の頭を優しく撫でてくれた。微かに胸の苦しみが和らいだような気がしたが、またすぐに緊張に因る吐き気に襲われる。
昨日、追試を除く全ての試験が終わり、部活が休みだった蒼依とデートをした後、やる気が失われる前に、と予め探しておいた店に応募した。電話がそのうち掛かってくるだろうとは思っていたのだが、まさか十数分後に掛かってくるとは思っておらず、あたふたとしている間にあれよあれよと話は進み、面接の日程が決められてしまった。
アルバイトを応募した場所は無料で利用する事のできる定期券の範囲内である長池という駅のすぐ近くにあるショッピングセンター内の書店で、そこならば駅からも近く、学校帰りでも時間に十分な余裕を持って行ける。そこの書店を選んだ一番単純な理由としては、定期券の範囲内でアルバイトを募集している書店がそこしかなかったからだ。
緊張しているのは別にそこに採用されなかったら全てが終わるなんて大層な理由は全く無く、ただ私が畏まった場所というのが苦手というだけだ。
「ごめん。一緒に行けたらいいんだけど……」
冗談なのか本気なのか分かりづらい調子で申し訳なさそうに言う蒼依に、私は蒼依のお腹に頭を擦り付けるようにして首を振りながら力無く笑う。
「さすがにそこまではええよ」
蒼依を抱き締めていた腕の力を緩め、ゆっくりと身体を起こすと、頭に置かれていた蒼依の温かい手が頬に流れてきて、そのままいつものように私の耳を撫でる。
そこで漸く我に返り、ここが教室だという事を思い出した私は、平静を装いながら蒼依の手を捕まえ、顔の前に持ってきて両手で挟む。
「蒼依は部活がんばって」
「うん。ありがとう。紅音もがんばってね」
「うん」
頷き、蒼依の手がするりと抜けた次の瞬間、私は手を膝の上に落とすと同時に溜め息を吐いた。
そうすると、蒼依がまた私の髪を撫でる。
「充電する?」
「……する」
甘い誘惑に抗おうという気はほんの一瞬で無くなり、重たい鞄を持って蒼依と一緒に教室を出る。
皆が部活に向かう中、私と蒼依はひと気の無い場所を探して廊下を歩き、特別教室が並ぶ四階を覗く。
「あー……誰か居るっぽい?」
「そうね」
階段を上がって左側の通路の奥、コンピューター室と書かれている教室の明かりが付いており、動かず静かにしていると、微かに教室の中から男性二人の話し声が聞こえてきた。
「どうしようか」
階段にすら響かないような小さな声で蒼依が訊ねてくる。
今日はただでさえ七時間授業で、部活の時間が少ないのに、私の我が儘で蒼依を拘束しておく訳にはいかない。
「ここでいい」
そう言って蒼依の手を握り、階段の踊り場で蒼依を壁際に追い詰め、邪魔な胸の事など気にせず少しでも蒼依を感じられるように力強く抱き締める。それから軽く背伸びをして蒼依のその艶やかな唇を目掛けて口を近付け、前歯がぶつかる勢いで唇を重ねた。
先程教室に居た誰かが出て来るかもしれない。四階に用事のある誰かが顔を覗かせるかもしれない。そう思うと心臓が弾け飛びそうなくらいに激しく鼓動する。
顔を離し、足を一歩引いて肺に溜まった空気を一気に吐き出す。
「もういいの?」
「……ここじゃ人来るし、また今度」
「がんばれる?」
蒼依の手が私の髪を撫でる。そのお返しに私も蒼依のふわりとした髪をそっと撫でた。
「……がんばる」
「じゃあ終わったら連絡して」
「うん」
最後にもう一度ハグをして、何食わぬ顔をして階段を降り、蒼依を見送る。小さくなっていく背中をじっと見つめていると、蒼依はこちらへ顔を向け、手を振りながら曲がり角に消えていった。
四方に続く廊下に立っているのが私一人だけになり、どうしようもない寂しさに襲われる。
その寂しさを誤魔化そうと、昇降口に向かって歩き出すが、そうすると今度は薄れていた面接に対する恐怖心がぶり返してきた。
階段を転げ落ちないようにゆっくりと降りながら携帯を取り出し、時間を確認すると、面接があるから来いと言われた時間までまだ余裕があった。とは言え今から駅へ向かって長池まで行くのに恐らく一時間近く掛かるため、これ以上のんびりと過ごしている訳にはいかない。
最後の一段を飛ばし、少し早足気味に昇降口に向かい、知らない人たちが屯して話しているのを聞き流しながら靴を履き替える。
外は早くも夜が顔を覗かせており、空の大半が灰色の雲に覆われている所為でいつも以上に肌寒く、その寒さを紛らわすためにも私は早足で学校を出て駅へ向かう。
十一月の始めの方まで暖かい気温が続いていた所為か、もう十二月に入っているというのに、まだ冬に入ったという実感が無い。そうは言いつつも身に付ける物は段々と分厚くなっているし、制服のブレザーを着ているだけではもう耐え難いくらいの寒さを感じているのだから、しっかりと冬にはなっているのだろう。だからと言ってこの上にコートを着ると歩いているうちに汗を搔いてしまうから悩み所だ。
そんなくだらない事を考えながら只管足を動かし、背中に汗が滲んでいるのを感じながらも駅に到着し、休憩がてら電車を待つ。
意味も無く携帯を開き、時計を確認しては迫り来る時間に恐怖心を煽られる。じっとしているのが辛くてその場で下手なステップを踏むように足を動かし続けていると、アナウンスが鳴り、電車が到着した。
このまま家に帰ってしまおうかという弱気な心を必死に振り払いながら携帯で面接について調べる。
前日にも一瞬間前にも調べていたが、私の調べ方が悪いのか、何度調べても出てくるのは就職活動での面接の事ばかりだった。私が知りたいのはアルバイトの面接がどのように行われ、どのような事を訊かれるのかという事であり、スーツを着て会社に行くような畏まった物ではない。
私のイメージするアルバイトの面接というのは、高校入試でやったような面接というよりも進路相談をした時のような一対一の物で、ある程度きちんとした態度や恰好で臨む必要はあるだろうが、そこまで堅くなる必要は無いと考えている。少なくとも私が読んでいた漫画ではそのように描かれている事が多かった。
ネットで調べていると、私のイメージが間違っているのではないかという気もしてくるが、それも実際に行ってみない事には分からない。
緊張をするのは慣れていない事をやろうとしている時やそもそもやった事が無い事をやろうとしている時だ。それを和らげる方法として手っ取り早いのは実際にやってみる事だが、面接なんて何度もできるような事ではない。
高校受験の前には面接練習があり、私も何度かさせてもらったが、本番ではその練習の比にならないくらいに緊張し、入室のマナーや席に座るタイミングなど、ある程度の流れはできたものの、声は震え、言葉を詰まらせ、いくつかの質問には答える事すらもできなかった。もしかすると、練習ではなく本番を何度も熟していればいずれは緊張しなくなってくるのかもしれないが、できるならこの緊張は何度も味わいたくはない。
それ以外に緊張を和らげてくれる物と言えば、やはり情報だろう。どんな場所で、どんな質問をされるのか。その質問はどういう意図でされているのか。どういう人が求められているのか。情報が多ければ多い程、細かければ細かい程に不安要素は少なくなり、頼もしい味方となって緊張を和らげてくれる筈だ。
しかし今はその味方が見つけられない。私の緊張を和らげてくれる存在はネットのどこにも居ない。
電車が駅に停車する度に緊張が高まっていく。それを周りに悟られないように努めて平然とした表情を貼り付け、誰に見られているという訳でもないのにいつも通りの行動を心掛ける。
もうすぐ完全に日が沈むだろうという頃、電車は予定通りに長池駅に到着し、見慣れないホームに私は降り立った。
頬を撫でる冷たい風など気にする余裕すらなく、嫌だ、帰りたい、と心の中で只管に弱音を吐き続けながら改札を通って駅を出る。
ショッピングセンターまでの道程は予め調べてあり、その時の記憶を頼りに線路沿いの細い通路を通り、通っても良い道なのか疑わしく思いながらも前を歩く人について行き、たくさんの車が通る大通りに出た。
道路を挟んだ向こう側には大きな建物があり、その入り口と思しき場所に、私が探していたショッピングセンターの名前が大きく掲げられていた。
時計を確認し、時間内に無事辿り着けた事に一安心しつつ、青信号になったところで横断歩道を渡り、私がアルバイトを受ける書店を探しにショッピングセンターに入る。
想像以上の広さに驚き、あちこちに視線を向けながらエスカレーターのすぐ側にあるフロアガイドの前で足を止める。そして目的の書店がここから反対側の西側入口のすぐ傍にある事を確認し、そちらへ向けて歩き始める。
さすがに平日の夕方という事もあり、買い物を楽しんでいる人の姿は少ない。年齢で言えば私の母と同じくらいで、女性の割合が多く感じる。制服を着ている人が居たのはハンバーガーショップくらいだった。
少々の居心地の悪さを感じながら通路を奥まで行くと、これから面接を受ける事になる書店に辿り着いた。辿り着いてしまった。
約束の時間まで残り十分。履歴書は確かに入っている。マフラーと手袋を外し、軽く身嗜みを整える。あとは店員に話しかけるだけだ。
何度深呼吸をしても息苦しさは少しも治まらない。吐こうと思えばすぐにでも胃の内容物を打ち撒けられる程の吐き気を感じる。
ふと、自分がこんなにも緊張している事に違和感を覚える。自棄とか開き直りとも言えるそれは試験前に湧いてくるような謎の自信と同じような物のように思えたが、今の私にはとても心強い物だった。
「よし……」
周りの人には聞こえない程度の声で気合いを入れ、震える手をぎゅって握り締めて店のカウンターに向かう。
まず第一関門として店員に話しかけなければならない。普段買い物をしている私なら、縦令探している物の場所が分からなくて数十分店内を彷徨っていたとしてもやらない事だ。
レジに人が並んでいないのを見て、緊張していない風を装って女性に話しかける。
「あの、すみません。アルバイトの面接に来た伊東と言います」
「あっ、少々お待ちください」
上手くいったのか、女性はレジの横にある扉を開けて中に消えていった。
履歴書を鞄から取り出しておき、邪魔にならないように壁際で待機していると、先程とは違うショートカットの女性が現れ、私の方へ向かってくる。
「アルバイトに応募してきてくれた伊東さんで間違いない?」
そう訊ねてきた彼女の首から提げられているカードには『筒井』という名字らしき文字の左上に、店長という文字が見えた。
「はい」
「よかった。ちょっと付いて来てくれますか?」
そう言って私に背中を向けて歩いて行く彼女に、私は一つ深呼吸をしてから付いて行く。
レジの横を抜け、先程女性が入っていった部屋に「失礼します」と躊躇いがちに言いながら入る。
「どうぞ、座ってください」
手で示された丸椅子にゆっくりと座り、鞄は少々気が引けるが、床に置いておく。
「よろしくお願いします」
タイミングを間違っているような気がしながらも口にすると、女性は思い出したかのように返事をくれた後、首に提げているカードを持って「店長の筒井です」と名乗った。
「それじゃあ早速やけど、履歴書はある?」
「はい」
手に持っていた封筒を手渡し、膝の上で手を大人しくさせる。
「あ、楽にしてくれてええよ。そんな畏まった感じにするつもりないし」
そう言いながらも硬い表情を崩さない彼女にどう反応すれば良いのか分からず、とりあえず姿勢は崩さず質問されるのを待つ事にした。
封筒から履歴書を取り出し、よくある仕事机に広げた彼女は、書いてある事を指でなぞり、呟くような小さな声で読み上げながら一つ一つ確認していく。
「これ通勤時間一時間ってあるけど、これは学校から?」
不意に目が合い、咄嗟に目線を首元に下げる。
「あ、えっと……学校からも家からも同じくらいの距離で……」
「どっちからでも一時間くらい掛かるって事ね?」
「はい」
なるほどね、と呟き、また紙に視線を戻した。
履歴書に何を書いたのかもう殆ど覚えていない。何とかして見られないかと目を凝らすが、私の視力では紙の上部に書かれている履歴書という文字と自分の名前くらいしか読めなかった。
「普段本とか読む?」
「えっと……電車の移動時間に……。ライトノベルも読むんですけど、最近は辻村深月さんの『かがみの孤城』とか太宰治さんの『斜陽』とかを読んでました」
「漫画は読まない?」
「そうですね。最近はあんまり……。でも妹がたくさん持ってるので、それを借りて読む事はありますね」
「じゃあ、好きな本は?」
「好きな本……」
訊かれた事を鸚鵡返しするように呟きながら頭の中に何度も繰り返し読んだ本をいくつか思い浮かべる。
その中には小学生の頃に買ってから何度も読み返した本があり、それはもうカバーがぼろぼろになって破れてしまっている。ただ私の扱い方が良くなかっただけという可能性は充分にあるが、他の本は少々汚れてしまってはいるが、破れたりしていないのを考えると、やはりその本は特にお気に入りで繰り返し読んでいたという事は明らかだ。
「山田悠介さんの『ドアD』……ですかね」
「その人の作品をいくつも買ったりしてるの?」
「そう……ですね。最近出た物で、ハードカバーのは買ってないんですけど……」
「そっかそっか」
どういう意図でこの質問がされているのか分からないが、とりあえず訊かれた事に対して素直に答えていく。
「働いてもらう時間なんやけど、今日は学校終わりなんやんな?」
「はい。ただ、今日は七時間授業なので、ここに来られるとしても、えっと……六時前くらいになるので……厳しいのかなぁと思っていて」
「そうやね。家もここから一時間くらい掛かるんやんな?」
「はい。でも遅くなる分には大丈夫なので」
「ここ八時までやってるから、帰るの九時くらいになるけど、それでも大丈夫?」
「はい」
馬鹿正直に言うともっと早く帰ってゆっくりしたい所ではあるのだが、そんな我が儘を言う勇気は無かった。
「休日は土曜日だけって書いてるけど、日曜日は何か用事がある感じ?」
「えっと、目指してる大学が結構大変そうで、日曜日だけでも勉強に充てられたらなぁ……と思っていて……」
「なるほどなるほど……」
彼女はそう呟きながらメモ帳らしき小さな紙に何かを書き込んだ。
ふと気が付くと、ここに来るまでに感じていた緊張は薄れており、手の震えも無くなっていた。しかしこれは慣れたというより、始まってしまったからには逃げるなどという愚行を犯す勇気も無い私に残された道はこの面接をやり過ごす以外に無いという諦めから来る開き直りが大きな理由だろう。
「それじゃあこの週三日っていうのは、六時間授業の日と土曜日って感じかな?」
「はい」
「高校生やからテスト期間とかあると思うんやけど、その期間は休んだりする?」
「えっと、多分大丈夫です」
反射的に答えてから少し後悔する。
「それは入ってくれるって事で良い?」
「はい」
「因みにここで働き始めたとして、大学に入っても続けられる?」
「分からないですけど、できれば続けたいなぁとは思ってます」
そう答えると、彼女は小さく頷きながら何かを考えるような素振りを見せる。そして暫くして「よしっ」という掛け声と同時にパシン、と両手で膝を叩いた。
「じゃあいつから始める? 今日は火曜日やから……そうやな……明後日の水曜日とかどう?」
急に明るくなった雰囲気に戸惑いながら頷く。
「はい。大丈夫です」
「じゃあ制服はこちらで準備しておくので、とりあえず明後日学校が終わったら来てください」
「はい。分かりました」
「五時くらいに来られるんやんな?」
六時間目の授業が終わって掃除を始める時間を思い出し、頷く。
「はい。それくらいには来られるようにします」
「まぁ、何か用事があったら連絡してもらうとして、仕事内容とかはもう明後日から教えるので、メモ帳とか必要やったら持って来てください」
「分かりました」
「言わなアカンのはこんなもんかな。あと何か訊きたい事とかある?」
そう訊ねられ、視線を感じながら何か無いかと首を傾げる。
こういう時は大体訊いておいた方が良い事がある物なのだが、不思議とその場で思い付く事ができず、後になって困る事になるのがいつもの私だ。そして私が考えている間にも変わらず流れている時間を無駄にさせてしまっている状態に耐えられず、結局「大丈夫です」と答えてしまうのもいつもの事だった。
「それじゃあ、明後日からよろしくお願いしますね」
「はい。よろしくお願いします」
椅子に座ったまま腰を深く曲げて礼をする。
「訊きたい事があったらまた連絡してくれればええからね」
「はい。ありがとうございます」
そう言ってまた頭を下げる。その時ふと訊きたい事が頭に浮かんだ。
「あ、すみません。次来た時はどうすれば良いですか?」
「……あぁ、店員の誰かにアルバイトに来ましたって言ってくれればええよ。全員に伝えとくから」
「ありがとうございます」
「じゃあこれで面接は終わりね」
「はい」
店長が立ち上がったのを見て、私も立ち上がり、部屋から退出する。
「じゃあお気を付けて。良かったら買い物してってや」
「はい。ありがとうございました」
再び頭を下げ、逃げるようにカウンターから離れつつも、少々の罪悪感から店を出るのは気が引けてしまい、用事も無いのに書店の奥へ進み、本棚で姿を隠した。そして誰も居ない漫画コーナーで立ち止まり、目一杯空気を吸い込んで、それから肺の中の澱んだ空気を静かに吐き出してやると、吐き気も気怠さも息苦しさも全て消え去った。しかしその代償として今すぐ座り込んでしまいたくなるような疲労感に襲われる。
時刻は午後六時四十二分。思ったより早く終わったが、その体感以上に時間が経っていた。
時計を確認したついでにメッセージアプリを開き、蒼依に面接が終わった事を報告する。するとすぐに既読が付き、着信が来た。
突然の事に目を瞬かせながら、少し迷った後、応答する。
「はい」
『紅音? 今大丈夫?』
「うん。どうしたん?」
すぐ近くにあった出入り口から外に出て、車の走行音に蒼依の声が掻き消されないようイヤホンを挿し、携帯はブレザーの内ポケットに入れて駅に向かって歩き始める。
「ごめん、イヤホン挿してた。何て?」
『面接お疲れ様って』
「あぁ、うん。蒼依も部活お疲れ様」
空気の冷たさに耐えかねて、鞄に仕舞ったままにしていたマフラーを取り出し、簡単に首に巻く。
『ありがとう。どうだった?』
「何が?」
『何って、面接。ああいうのってすぐ採用かどうか分かるんじゃないの?』
「あぁ、多分採用してもらったと思う。明後日からよろしくって言うてはったし」
『そっか。良かった』
横断歩道を渡り、暗い細道を周りの住宅の明かりや街灯を頼りに進む。
会話が途切れたのを察して、適当な話題を振る。
「蒼依は今何してんの?」
『ついさっき電車から降りたとこ』
「そうなんや」
『……』
「……」
その場凌ぎで出した話題は続かず、また二人して無言になった。
そうしている間にも足を動かし、これから何度も通る事になるであろう荒れた道を進む。
『紅音は今から電車?』
「うん。もうちょっとで駅に着く」
『そっかそっか』
そしてまた会話が途切れる。
蒼依もきっと疲れているのだろう。そう思いながら細い道を抜けて駅前の広場に出てきて、顔を上げた瞬間、私は目を疑った。
「紅音、お疲れ様」
イヤホンを取り、その場に立ち尽くす私に、蒼依が満面の笑みを浮かべながら近付いてくる。
「ちょっと、何で居んの?」
「強いて言うなら……サプライズかな」
そういう事なら蒼依の思惑は大成功だろう。
気が動転して正常に機能していない頭を整理するため、蒼依に訊ねる。
「……部活は?」
「基本的に六時までだから」
「何で……?」
「そこに疑問持たれると困るんだけど……。まぁ、会いたかったから、来ちゃった」
「いや、来ちゃったやのうて」
蒼依が手癖のように私の頬に手を当て、耳を撫でる。
「嬉しくない?」
「嬉しいけど……びっくりした」
「驚かせてごめん」
「いやいいけど……」
「抱き締めても良い?」
そう訊ねられ、私は辺りを見渡し、頷いた。そうすると、学校でした時よりもずっと強い力で引き寄せられる。
面接という大きな問題が解決した安心感と蒼依に会えた嬉しさが合わさって、限界を迎えていた私は目の奥が熱くなるのを感じた。まずい、と思いながらもそれを堰き止める手段は蒼依に因って封じられており、仕方無く腕を蒼依の背中に回し、少しでも蒼依を感じようと力強く抱き締める。
寒さと溢れてくる涙の所為で鼻水が垂れそうになったところで慌てて腕の力を緩め、蒼依を引き剥がす。汚い所は見られずに済んだが、目の前にいた蒼依はすぐに私が泣いている事に気が付いたようだった。
「ちょっと、何で泣いてんの」
蒼依は笑い混じりに私の目元を親指で優しく拭い、そのまま髪を撫でてくれる。
「蒼依の所為やし」
「そんなに嬉しかったんだ」
「……うん」
「そっか。会いに来て良かった」
蒼依のその優しい目を見つめていると、この言葉を伝えずにはいられなくなった。
「好き」
「……私も」
「いっつもありがとうな、蒼依」
そう言うと、どちらからとも無く唇を重ねる。ほんの数秒の短いキス。けれどもその間に感じた多幸感は今までのどんなキスよりも大きかった。
熱に浮かされたように頭に靄が掛かり、ぼうっと蒼依を見つめていると、不意に抱き締められ、我に返る。
「蒼依?」
名前を呼ぶと、蒼依はゆっくりと身体を起こし、私から一歩距離を取って私の頬を撫でる。
「あんまり外でそういう顔しないで」
「そういう顔?」
「襲いたくなる」
「は?」
意味が理解できず、眉間に皺を寄せる。
「そろそろ帰ろっか」
そう言われて内ポケットに仕舞っていた携帯を取り出し、時計を確認する。
「もう七時やん」
イヤホンを抜き、纏めて鞄に入れる。
「うん。さすがに私もそろそろ帰らないとね」
「そっか。ごめん。ありがとうな、わざわざ来てくれて」
「ううん。私が会いたかっただけだから」
「私も会いたかった」
「それは良かった」
蒼依に軽く手を引かれたのを合図に歩き出す。階段をゆっくりと上がり、一旦手を離してからそれぞれ改札を通る。
蒼依の乗る京都行きの電車はもうすぐ到着するようで、またあの寂しさが襲い掛かってきた。
「ここからでも紅音は一時間くらい掛かるよね?」
「そう……やね。歩きも含めたらそんくらいやな」
「じゃあまた帰ったら連絡頂戴」
「うん」
いやにあっさりとしている蒼依に、また寂しさが増した。それを知られるのは良くないような気がして、反射的に笑顔を作る。
「じゃあ気を付けてね」
「紅音も、気を付けて」
「またね」
手を振り、蒼依が階段を下りて行くのを見送ってから、私も奈良行きの電車が来る方のホームへ降りる。その途中で京都行きの電車が来るというアナウンスがあり、階段を降りきった頃には電車が蒼依の姿を隠してしまっていた。
蒼依の姿を見つける事ができないまま、電車は再び動き出し、暗闇に消えていった。
静かになったホームを歩き、いつも乗っている辺りに立って電車を待つ。
アルバイトに無事採用され、疲れている所に蒼依と会ってキスまでした。それなのにどうしてこんなにも悲しい気持ちになっているのか、自分の事だというのに、理解できなかった。
電車が到着し、それなりに人が乗っている中、偶然空いていた席に座り、疲れ果てた身体を休める。いつの間にか眠っていた私は木津駅に着く直前に目を覚まし、乗り換えのために電車を降りる。
人がぞろぞろと階段を上っていくのを眺めながら、また静かなホームに取り残された。けれども今度は不思議と晴れやかな気持ちが私の胸を満たしていた。
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