第35話 11月29日
目を覚ますと、どこかの駅に到着するというアナウンスが耳に入った。
嫌な予感がして窓の外を見て現在地を確認しつつ、アナウンスに耳を傾けていると、どうやら乗り換えのために降りなければならない駅に着く直前に目を覚ましたという事が分かった。
最悪の事態を免れた事に胸を撫で下ろし、降りる準備をする。
隣にはスーツを着た女性が座っていて、何か小説を読んでいるようだったが、ブックカバーをしている所為でそれが何かまでは分からなかった。
念の為に何も盗られていないかを確認し、電車が止まると同時に腰を浮かして、「すみません」と囁くような声で女性に道を空けてもらい、人の波の後ろに付いて電車を降りる。
冷たい風に身体を震わせながらホームの反対側に停車している電車に乗り換える。
快速から普通に乗り換える人はあまりいないようだが、それでも私が家を出てから一時間が過ぎた今、それなりに人は多く、当然座席は完全に埋まっており、奥まで進むには人を掻き分けなければならない程度になっていた。
私はすぐ降りられるように扉の前を陣取り、流れていく窓の外の景色を眺めて過ごす。
一時間の電車移動を利用して勉強でもできれば良かったのだが、昨夜は蒼依と話しながら遅くまで勉強してしまっていた所為で睡眠時間が足りず、電車の揺れで強くなった眠気に耐えられず、勉強は諦めてしまった。試験中に寝てしまう事と天秤に掛けた結果ではあるのだが、やはり勿体無い事をしてしまったような気にはなっていた。
この一駅進むまでの時間も、勉強をするには短く、何もせずに過ごすには長い。
めんどくさがりの私が選ぶのは当然、何もせずに過ごす方だった。
この数分で勉強していたら満点が取れたのに、と神様から言われたとしても、きっと私はこれから先同じような状況になれば同じ選択をしてしまうだろう。
電車が目的地に到着し、電車を降りて定期券を手に持ち、真っ直ぐ改札に向かう。駅の外に出てくると、私の目はいつもと同じ場所に向けられる。そして彼女の姿を捉えた瞬間、条件反射のように口角が上がる。
「蒼依、おはよう」
「おはよう」
声を掛けると、蒼依はすぐにこちらを向いて微笑みかけてくる。
「今日はマフラー持ってきたんだ」
「うん。さすがに寒い」
「今日は特に曇ってるからね」
蒼依の言う通り、空は薄灰色の雲で埋め尽くされており、夜の冷たい空気が暖められる事無く私たちの肌に纏わり付いてくる。
両手で皿を作り、はあ、と暖かい息を当ててみても、指先までは温かくならない。
「寒いし早よ行こ」
「そうね」
蒼依の手を取り、違和感に気付く。
「手袋してるやん」
「うん。寒いし、当然でしょ?」
「まぁ、そうなんやけど」
蒼依は何も間違った事はしていない。手を繋ぎたいというのは私の単なる我が儘で、手が寒くて手袋をするというのはごく自然の事だ。
「手、繋ぎたい?」
蒼依が何かを企んでいるような笑みを浮かべて訊ねてくる。
「……」
改めて問われると、自分でも良く分からない変なプライドのような物が邪魔をしてきて、素直に従いたくなくなる。
「繋がないの?」
「うん。今日はいいや」
蒼依に触れたいと思いながら、私の口は否定の言葉を発していた。
その言葉を証明するように、私はブレザーのポケットに両手を入れてさっさと歩いて行こうとすると、蒼依はちょっと早歩きをしただけですぐに追いついてきて、私の肘を掴んだ。
「ごめん、紅音。ちょっと待って」
「何?」
「止まって」
謝られるにしてもそんな重大な事でもないので、このまま歩きながら話せばいいだろうと思っていたのだが、強い力で腕を引かれ、されるがままに立ち止まる。
「もう、何?」
てっきり意地悪をした事を謝ってきたのかと思ったのだが、それにしてはやけに真剣な表情をしていた。
「今日の電車って混んでた?」
突然そんな事を訊かれ、私の頭の中にははてなマークが浮かぶ。
「別にいつも通りやったけど……。何で?」
「ちょっと駅に戻ろう」
「え?」
周りの人が不思議そうな視線を向ける中、有無を言わさぬ勢いで蒼依は私の手を引いて駅に戻り始める。私の手を握る蒼依の手は力強く、冗談でこんな事をやっているようには思えなかった。
「なぁ、どうしたん?」
「……ごめん、ちょっと何て言っていいか分からないんだけど、とりあえず付いてきて」
「うん……」
怒っているようにも見えるが、それは私に対して怒っている感じではなかった。
疑問が積み重なっていく中、駅に戻ってきて、蒼依が真っ先に向かったのは駅員が待機している窓口だった。
「すみません。多分なんですけど、友達が痴漢に遭ったみたいで……」
「え?」
蒼依の口から思わぬ言葉が飛び出してきて、先程まで抱いていた疑問が全て吹き飛んで頭が真っ白になる。
私が頭の中で軽いパニックを起こしている間に、蒼依が駅員の男性に事情を説明してくれたようで、警察の人が来るまで少しの間待機する事となった。
「ごめん、紅音。私もちょっと気が動転してて……」
「いや、うん。それは全然いいんやけど……」
蒼依に手を握られたまま、頭を撫でられる。そうすると、思考能力が段々と戻ってきて、再び疑問が浮かび上がってくる。
「なんで私が痴漢されたって思ったん?」
「えっと、言っても大丈夫?」
「いや、私が訊いてるんやし」
「そうじゃなくて、気分悪くなったりしない?」
「あー……」
蒼依が何故言い淀むのかを理解し、考える。
私は自分が痴漢の被害に遭ったという自覚は全く無いのだが、蒼依が客観的に見てそうだと思えるような物が何かあるのだろう。
私に自覚が無い以上、会話の中で蒼依はそれに気が付く筈は無い。そうすると考えられるのは、私の身体、若しくは身に付けている物に何かが付いているという事だろう。
「もしかして何か付いてたりする?」
訊ねながら身体を捻って探そうとすると、蒼依に両手を掴まれ、阻止される。
「うん。触ったらアカンで?」
「え、そうなん?」
「うん。色んな意味で触らん方が良いと思う」
蒼依の目は冗談では無いと言っていた。
目で見てすぐに痴漢されたと分かるような物で、触らない方が良い物。それが何かと考えた時、一つ目に考えついた物があまりに不快な物で、最悪な気分になる。
「そんなに気になるなら教えるけど」
「いや、やめとくわ……」
自分に害を及ぼしかねない好奇心を抑える代わりに蒼依の手で遊んでいると、とある大事な事を思い出した。
「そういえば今何時?」
「今は……八時二十分かな」
「もう学校行かなまずくない?」
「急いだら間に合うだろうけど、これから色々話さないといけないだろうから……そうね。学校に連絡入れとこうか」
そう言うと、蒼依は携帯と生徒手帳を取り出して学校に電話を掛けようとする。
しかしよく考えてみると、蒼依は痴漢に何の関係も無く、わざわざ私に付き合って遅刻する必要は無いという事に気付き、携帯を持つ蒼依の手を掴み、説得を試みる。
「蒼依だけでも先学校行ったら? 今日テストやし……そうやん! 今日テストやん!」
「そうだけど、テストよりこっちの方が大事でしょ? それにもう警察の人呼んでもらっちゃったし」
「いやいや、絶対テストの方が大事やろ。それに被害に遭ったんは私なんやから」
「このままテスト受けても気になって集中できる自信無いし、なんで気付いたんか説明した方が良いでしょ?」
「それはそうかもしれんけど……」
蒼依を説得できるような言葉が浮かばず、口を噤む。
「まぁ、テストって言っても定期試験なんだから、後で受けようと思えば受けられるんじゃない? 追試って形になるかもしれないけど」
「それで成績下がったりせぇへんかなぁ……」
「さすがに大丈夫でしょ。コロナとかで仕方無く休む事になっても成績下がったなんて話聞いた事無いし」
「そうなんかなぁ」
「大丈夫だって」
蒼依の少し温かくなった手が私の頬や耳を撫でる。
「とりあえず学校に連絡してもいい? あんまり遅くなるとそれはそれで怒られるから」
「うん……」
頬に触れていた右手が離れ、蒼依は片手で器用に携帯の画面を操作し、学校に電話を掛けた。
蒼依も電話で声が高くなるんだな、なんて思っていると、警察の制服を着た女性が現れ、駅員の男性と何かを話した後、私の方へ近付いてくる。
「痴漢の被害に遭ったというのはあなた?」
「えっと……はい。多分……?」
痴漢に遭ったという自覚が無いため、曖昧に頷きながら蒼依に助けを求める意味で視線を向けてみるが、蒼依はまだ電話をしている最中で、助けて貰える様子では無かった。
助けてくれる人がいないという恐怖心で鼓動が激しくなり、手が震える。
「具体的に何をされたんでしょうか」
警察の女性はこれ以上無いくらいに優しい声色で問い掛けてくる。
「えっと……その、気付いたのは友達で、背中に何か付いてるらしくて……」
上手く回らない頭を必死に動かし、声を震わせながらそう言って彼女に背中を向けてみる。
「あぁ、なるほど」
彼女がそう呟いたのは私が背中を向けてすぐの事だった。
「そんなにすぐ分かるんや……」
「そうですね。もしかしたら違う可能性もありますが、念の為採取しましょうか」
彼女が立ち上がったのを確認して、私も彼女の方へ向き直る。
「採取?」
「はい。ドラマとかで指紋を採って犯人を特定したりするでしょう? そういうのをするんですよ」
「なるほど」
普段からあまりテレビを見ない私だが、幸い小説や漫画でそう言ったシーンを見た事があった。
「なので、一旦交番まで来ていただけますか?」
「あっ、今友達が学校に連絡してくれてて……」
「終わったから大丈夫」
いつの間にか電話を終えていたらしく、蒼依は隣に来て私の手を握ってくれる。
「私も一緒に行っても大丈夫ですか?」
「えぇ、大丈夫ですよ。友達が一緒なら彼女も安心するでしょうし。学校へも警察の方から連絡しますので」
「だってさ。一緒に行こう」
警察の女性も蒼依も優しい声を掛けてくれるが、私の頭には痴漢の事など殆ど無かった。
完全に学校に行く気が無い様子の蒼依に遠慮しつつ、警察の女性に訊ねる。
「あの、この後学校で試験受けないといけないんですけど……」
今までの学校生活で遅刻や欠席をした事が無いため、実際の所どういう処置をされるのか分からない。しかし試験に関しては見込み点という物が付けられるという話は聞いた事がある。それは今までの試験の結果からその人がこのくらいは取れるだろうという予想を計算で割り出す物らしく、毎回満点を取っていた生徒でも七十点くらいまで下げられてしまうとか。
そうなれば成績は間違いなく下がってしまうだろうし、遅刻や欠席が付こう物なら更に下がってしまうだろう。
そんな不安を抱えている私に、蒼依が答える。
「紅音。それなんだけど、やっぱり追試があるみたいだから大丈夫だってさ」
「そうなん?」
「うん。普通の体調不良とかだと見込み点っていうのにするらしいんだけど、去年とか一昨年のコロナみたいにどうしようもない理由で休んだら追試にしてくれるって」
「そうなんや……」
はぁ、と長く息を吐き出し、駅に戻ってきてから張り詰めて破裂してしまいそうになっていた気を緩める。
「そうそう。だから安心して警察行こう」
「大丈夫そうですか?」
「はい」
警察の人が歩き出し、私も蒼依に手を繋がれたままその後ろに付いていく。
私たちが普段学校に向かう際に曲がるT字路を真っ直ぐに進み、五分も経たないうちに交番に到着した。
「こんな近くにあったんだ……」
「ね。前ここも歩いた気がするけど」
そう言いながら来た道を振り返って見てみると、確かに見覚えのある景色があった。
「うん。見逃してたかも」
「駅の近くの大通りには大体ありますよ。後は人通りが多い場所とかにも多いですね」
「へぇ、そうなんですね」
警察の女性と話しながら蒼依は平然として交番に入っていこうとする中、私は緩めていた気が再び緊張し始めていた。程度を表すとしたら職員室に入る時の三倍くらいだろうか。
中に居た男性の警察官と目が合うと、蛇に睨まれた蛙のように身体が硬直する。
「紅音?」
「あ、うん」
不意に立ち止まった私に、蒼依は心配そうな視線を向けてくる。
私は密かに深呼吸をして気持ちを落ち着けながら案内された部屋に入る。そこはテーブルとパイプ椅子、それから大きなホワイトボードだけが置かれていて、とても簡素な会議室のような部屋だった。
「どうぞ、座ってください」
何となく、アルバイトの面接を受けているような気分になったが、本番はきっとこれ以上に緊張するのだろうと、まだ殆ど何も決まっていない今から憂鬱になる。
「あ、待って紅音。座らん方がいいかも」
「え?」
蒼依の焦ったような声を聞き、椅子を引いた体勢のまま身体の動きを止めて蒼依の方を見る。
「あの、お尻の所に付いてるから……」
「あ、そっか」
「あぁ、そうでしたね。ごめんなさい」
警察の女性は謝ると、ちょっと待っててください、と言い残して部屋を出て行った。そして言われた通りに立ったまま部屋を観察していると、ノートパソコンが入るくらいのケースを持って戻ってきた。
「じゃあちゃちゃっと終わらせますんで、とりあえず……上着を脱いでもらってもいいですか?」
「え?」
「ブレザーにも付いてるから」
「あ、そうなん?」
何故当事者である私が一番分かっていないのか。その理由は確実に蒼依にあるのだが、蒼依は親切心で私がそれを見ないようにしてくれているようなので、文句は言えない。
一先ず指示通りにブレザーを脱ぎ、女性に手渡す。そうすると、テーブルの上に展示するように広げられ、私は初めてその正体を目にした。
「ほんまや。何か白いの付いてる」
それは粘り気のある液状の物で、練乳のようにも見えるが、電車に乗っていて背中に練乳を掛けられるなんて事は考えられない。
「これがスカートにも付いてるから」
「これ見て蒼依はあれなん? 痴漢されてるって思ったん?」
「うん。だって明らかにそうじゃん」
「そうなん?」
この謎の物体の正体が分かっている様子の蒼依に感心しながら、私も正体を突き止めようとするが、警察の女性に質問された事で思考は阻止された。
「因みになんですけど、これって昨日は付いてました?」
「え、いや、今朝見た時も何も無かったと思いますけど……」
視線をあちこちに彷徨わせながら答える。
ちゃんと見た訳ではないので自信はあまり無い。
「スカートの方も採らせてほしいんですが、着替えを持っていたりはしませんよね……?」
「えっと……そうですね。今日はテストだったので、着替えは持ってないです」
「じゃあちょっとこのままでも大丈夫ですか? すぐ終わらせるので」
「はい」
お尻の辺りを触られるのは少々恥ずかしいが、必要な事なのだから仕方が無いだろう。
部屋が静かになった事で考える時間が生まれ、テーブルに広げられたままになっているブレザーを眺めていると、この白い物体の正体に、一つ思い当たる物があった。
その瞬間、この汚れを付けた状態でここまで歩いてきたという事実に気付き、恥ずかしさ以上にこれをやった犯人に対する憎しみが沸き上がってきて、溜め息を吐きそうになったのを咄嗟に堪える。
少々の気まずい時間が過ぎ、軈て採取が終わると、ついでに軽く染みを取ってくれたようで、スカートもブレザーも、言われなければ分からない程度にまでなった。その後、女性は道具を持って部屋の外へ行き、戻ってきて私たちに席に座るよう促し、自らも席に座った。
「これから色々と聞き取りをしていくんですが、まず、被害に遭ったのはそちらの彼女だけで間違いないでしょうか」
「はい。一緒に登校はしてますが、乗っている電車は違うので」
蒼依は背筋を伸ばし、まっすぐに女性の方を見て答えていた。
いつも通りにも見える蒼依の姿は、胃の中の物が出てきてしまいそうな程に緊張している私には不思議でしか無かった。
「気付いたのは電車を降りて、お二人が登校している時、という事でしょうか」
「はい」
「液体を掛けられた以外に何かされたとかはありますか?」
蒼依が何も答えず、少し遅れて私に質問されている事に気付く。
「あっ、えっと、そう……ですね。宇治までは席に座って寝てて、えっと……そこから乗り換えてここまで来て、でもそんな触られたりとかは無かったと……」
過去に痴漢に遭った事が無いため、どういう物なのかは分からないが、そんな私でも身体を触られたりすれば分かる。思い返すと、背中などに何かが触れたような感触があったような気もするが、偶然として片付けられる程度の物で、痴漢だと騒ぎ立てる程の物では無い。
「だとすると器物損壊と迷惑行為防止条例違反ですかね……」
難しい言葉が並び、首を傾げていると、丁寧に説明をしてくれた。
器物損壊というのは、言葉通りに想像すると、ガラスを割ったり機械を壊したりと、そういった破壊行為が浮かぶが、実際は何か物を使えない状態にするとこれに当たるらしい。
もう一つの迷惑行為防止条例違反というのは都道府県毎に違いがあるようだが、私たちの住む京都府では、他人に不安を与えたり、公共の場で通行の妨げになるような事をしたりといった想像通りの迷惑行為がそれに当たり、その中に今回私がされたような服に体液を掛けるという行為も入る可能性があるらしい。
「そういえば、鞄の中やポケットの中は大丈夫ですか?」
「え?」
「痴漢の中には自分の物をターゲットの鞄などに入れたりする事もあるんです」
鞄はずっと腕で抱えていた上に、チャックもしっかりとしまっているが、念の為に鞄を開けて確認する。
水筒に折りたたみ傘、提出する予定のノートに勉強用の単語帳、ペンケース、ポーチなど、入っている物を手当たり次第にテーブルの上に並べていき、鞄の中を空にして、更にポケットなども入念に調べてみたが、結局それらしい物は一つも見つけられなかった。
「無さそう?」
「そうですね」
確認を終えて、テーブルに並べた物をまた鞄の中に仕舞っていく。
「あとは状況を確認したいのですが、構いませんか?」
「状況……ですか?」
「はい、どの位置に立っていたとか、どの電車に乗ったのかとか……」
「あー、えっと……」
鞄を手放し、身振り手振りで犯行が行われたと思われるタイミングでの状況を説明する。
快速から普通に乗り換え、ドアのすぐ傍に立って鞄をお腹に抱えた状態で窓の外を眺めていた事。立っていたのは宇治駅から一駅だけだった事。車内は満員という程ではないが、それなりに立っている人がいて、同じ制服を着ている人も居た事。後ろにも人は居たが、どんな人が居たのかは見ていないという事。
思い出せる限りを話し、訊かれた事になるべく正確に答える。乗っていた電車や乗っていた場所など、やけに詳細に訊かれる事に疑問を抱いていたが、どうやら被害届を代書してくれているようだった。
最後の仕上げとして書かれている事が間違っていないかを、私が口で説明した事が纏められた文をじっくりと読んで確認し、住所と氏名を記入する。
警察の人が言うには、現段階では犯人の特定は難しいが、後のDNA鑑定や防犯カメラなどによる捜査が行われ、それによって犯人を特定する事ができるかもしれないとの事だった。
難しい話をされると途端にめんどうになって興味が無くなってしまう。確かに制服を汚された事は許せないのだが、その正体を知りさえしなければただ私の不注意で付いた汚れとして処理してしまえなくもない。不快感はあるが、そこまで酷くないのは恐らく確証が無いからだろう。
警察の小難しい話を聞き、高校受験を終えた時のような精神的疲労と達成感のような物を感じながら交番を後にする。
はぁ、と深く溜め息を吐き、すっかり温かくなった蒼依の手を握る。
「ごめんな、わざわざ付き合ってもらっちゃって」
「いや、通報しようって言ったのは私だから。寧ろごめん。勝手にいろいろやっちゃって」
「ううん。確かにちょっとめんどくさかったけど、あのまま学校行くのも今になって思うとちょっと嫌やしな」
「びっくりした、本当に」
「言うてくれて助かったわ。ありがとうな」
ぎゅっと繋いでいる手に力を入れると、蒼依も同じように握り返してくる。
道には当然ながら制服を着ている人は一人も見当たらない。正当な理由があっての遅刻ではあるが、悪い事をしているという感覚が拭えず、どうにも落ち着かない。
「そういえば今何時なんやろ」
「今十時過ぎだから……生物じゃない?」
「一時間目って英語やったやんな?」
「うん。だから多分英語と生物は追試って感じになると思う」
「そっか。成績下がったりするかなぁ」
「これで下がったら私怒るけど」
ふふ、と蒼依が笑うと、私もそれに釣られるようにして控えめに笑う。
「さすがにないか」
「まぁ、その辺りは職員室行ったら言ってくれるでしょ」
「職員室行かなアカンの?」
「多分。軽く事情説明するくらいはした方が良いんじゃないかな」
「そっか」
蒼依にバレないように溜め息を吐く。
定期試験の事で頭がいっぱいだったのに、そこに余計な情報が次々に放り込まれ、覚えていた筈の事柄の大半が抜け落ちてしまったように思う。
「いっその事今日のは全部追試にしてくれへんかなぁ」
「精神的に参ってるっていうなら紅音はもしかしたらできるかもね。私は付き添ってただけだから無理だろうけど。一応言ってみる?」
「ううん。めんどくさいからいいや。がんばる」
「うん。がんばろう」
それから二十分程歩き、漸く校門が見えた。
「今更言うてもあれなんやけどさぁ」
「何?」
「交番出て左行った方が早かったんちゃう?」
伝わるとは思っていないが、手を動かして空中に交番から学校までの大雑把な道程を描いてみる。
「それは……そうかもね」
「ね。今更やけど」
「うん。まぁ、迷ったかもしれないって考えると、いつも通りの道で来たのは正解じゃない?」
「確かに。それもそうやな」
「とりあえず三時間目には普通に間に合いそうやし、職員室行こうか」
「はぁ、嫌だ」
「一応ちゃんと説明しないとね」
先生に見られないよう手は離し、見張りとして立っていた先生に声を掛け、事情を軽く説明して学校に入れてもらう。昇降口で靴を履き替え、教室に行く前に職員室へ向かう。
ガラガラ、と音を立てて扉を開き、暖房の効いた職員室に足を踏み入れ、どうすれば良いのかと蒼依の方を見て助けを求めると、蒼依は担任の先生に呼び掛けた。
先生が私を見て最初に口にしたのは、大丈夫だったか、という心配の言葉だった。
蒼依からどんな伝わり方をしているのかは不明だが、そんな心配をされる程の事はされていないため、下手な笑顔を作って頷いておく。
それから先生に連れられて寒い別室に移動し、試験についての説明を受ける。
どうやら既に警察から連絡が来たらしく、蒼依が言っていた通り、一時間目と二時間目、つまりは英語と生物の試験は追試となり、三時間目からは普通にやらなければならないとの事だった。
これは私の精神状態を見た上での事で、もし私が試験を受けられない程にショックを受けていた場合は他の二科目に関しても追試にしてくれていたらしい。つまり今の私はショックを受けているようには見えないという事だ。実際その通りなので何も文句は言えなかった。
「暫くはここで待機ですか?」
蒼依が訊ねると、先生は壁に付いているエアコンの操作盤を操作しながら答える。
「そうやね。暖房も入れといたし、まぁ、勉強時間が増えたって事で」
そう言って先生は教室を出て行くのかと思いきや、私たちの向かい側に座った。
「どうしたんですか?」
「いや、一個紅音に確認しなアカン事があるんやけど……」
「私ですか?」
「うん。二人が来てないっていうのはクラスの人等と担当する先生には諸事情でっていう風に伝えてあるんやけど、どうする? その、紅音が被害に遭ったっていうのを……あ、名前は伏せるかもしれんけど、生徒がそういう被害に遭ったっていうのを伝えて、目撃情報を募るか、このまま黙っとくか」
「強制じゃないんですか?」
「そうやね。被害者が嫌がるようなら無理に伝える必要は無いですとは聞いてるから」
「えー……どっちでもいい……」
「紅音?」
私の呟きは蒼依の耳には聞こえていたらしく、肘で横腹を小突かれた。
「どっちの方が良いと思います?」
選択を委ねたいという願いを込めて訊ねてみる。
「私は……そうやな。名前を隠してでも情報は集めた方が良いんちゃうかなって思うで?」
「じゃあ、それで」
「え、ほんまにええの?」
「はい」
隣から刺すような視線が送られてきているが、無視して先生と話を進める。
ある程度纏まった所で先生が退出し、私たちは三時間目と四時間目に備えて少しでも勉強をしておく。
軈てチャイムが鳴り、鞄を持って教室に向かい、クラスメイトから数々の心配の声をもらいながら席に着き、何事も無かったかのように試験を受けた。
集中できるかと心配をしていたのだが、やる気と同じで、やり始めてしまえば案外集中できたが、出来は正直微妙だった。
蒼依も少し気がかりではあったのか、あまり満足の行く出来ではなかったらしい。それでもきっと九十点は取るのだろう。
四時間目の情報の試験がいまいちだったのは、休み時間に周りの人が何があったのかと集ってきたからではないだろうか。
そして本日全ての試験を終えた私は、制服に付いた染みをどうやって洗えば綺麗に取れるのかという事と、親にはどう説明すれば心配させずに済むのかという事で頭がいっぱいになっていた。
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