第34話 11月23日
雲一つ無い快晴。
頭の上に広がる青空を見てそんな感想を抱いた直後、山の上に砂紋のような雲が被さっているのを見つけてしまい、視野の狭い自分を鼻で笑う。
手に持っていた携帯で時計を確認し、前回見た時と全く同じ数字が表示されている事に溜め息を吐いた。
二学期になって早くも二ヶ月が過ぎ、気が付けば期末試験の一週間前だ。そして今日は勤労感謝の日という事で学校も部活も休みとなっているため、恒例行事と化した蒼依と二人集まっての勉強会という名のデートをする日だ。
家族と出掛ける時にはしない化粧をして、朝早くから床に山を作りながら考えたコーディネートをして、もしかしたらそろそろそういう事もするかもしれない、と知香と里菜に唆されてひっそりと購入してあった可愛らしい下着、所謂勝負下着を着け、少しでも蒼依に可愛いと思ってもらえるように、本来の目的である勉強を忘れてしまいそうな程に気合いを入れた。
しかし少々張り切り過ぎた所為か、集合場所に来るのが早過ぎてしまったようで、蒼依が乗ってくる筈の電車が私の居る駅に到着するまでにまだ後五分程待たなければならないらしい。それも予定通りに電車が動いてくれているという前提での話だが、最低でも五分は待たなければ蒼依に会う事はできない。
気温は日に日に低くなってきているが、幸いにも今日はこの一週間の中で比較的暖かくなる日で、陽の当たる場所にさえ居れば寒さなど感じない。それに加えて私もニットカーディガンを着て寒さ対策は万全の状態であるため、こうして外の空気に曝されながらでも待っている事自体は何の苦痛でもないのだが、いつもならあっという間に過ぎ去ってしまう数分が妙に長く感じる。
時間というのは不思議な物で、来てほしくないと思っている時程早く流れ、楽しみにしている時を待ち遠しく思えば思う程に遅く流れる。
人間が一定になるように設計した時間という概念が揺らぐ事など無いと分かってはいるが、誰かが本当に時間を引き延ばしているのではないかと疑いたくなる程に時間が経つのが遅い。
こんな事なら以前と同じように途中の駅まで迎えに行けば良かった、と今日何度目かの溜め息を吐く。
待っている事は苦痛では無いが、暇ではある。外にいる以上あまり携帯で動画などをする訳にもいかないし、こんなに待つつもりではなかった所為で暇潰し用の本も手元に無い。
意味も無く駅の前をうろうろとしていた時、ふと五分弱というのが何かしらの歌一曲分だという事に気付き、周りに誰も居ない事を簡単に確認してから、最近知ってからずっと頭に残っている曲を口遊む。
原曲通りのテンポで間奏も含めて歌える訳も無く、蒼依が乗っているであろう電車が近付いているというアナウンスが聞こえたのは、ベンチに座って二曲目を歌っている時の事だった。
きっと今電車を降りて、階段を上っているのだろう。今は改札を通っている頃だろうか。そんな事を想像しながら出入り口を凝視していると、ハイネックの白いニットに黒のジャケット、膝上までの黒いスカートと黒いハイソックスという、ビル風の吹かないこの緑豊かな田舎ではあまり見かけない恰好をした女性が姿を現した。
絶対に蒼依だ、という確信を持ち、きょろきょろと辺りを見渡している女性の下へ向かう。
「蒼依ー!」
手を振りながら遠くから呼び掛けると、女性はこちらを見て柔らかな笑顔を浮かべ、手を振り返してくれた。
「おはよう、紅音」
「おはよう」
歩み寄って近くまで来ると、そのままの勢いで蒼依に抱き締められる。
嬉しさと恥ずかしさが同時に襲ってきて、頬がどうしようもないくらいに緩んでいるのを感じながら蒼依の両肩を押して引き剥がす。
「ちょっと、気が早いって」
蒼依の顔を見上げ、目が合うとすぐに顔を逸らして地面を見る。
「抱き締めるくらい良いでしょ?」
「家に帰ったらいくらでもできるやん」
蒼依の細長い指が髪を撫で、つい緩んでしまう口元を抑えるために唇を締める。
「まぁまぁ」
「まぁまぁやのうて」
「今日はコンタクトなんだ」
「……まぁ、うん。そうやけど」
蒼依の指が髪の毛の間をするりと抜け、今度は耳を撫でられる。
頬に蒼依の指が触れる直前に、氷のような冷たさまでは覚悟して身体を固めていたのだが、予想に反してその手は暖かく、無意識のうちに閉じてしまっていた瞼をゆっくりと開く。
「化粧もしてるし、セーターもえ……可愛いし」
「萌え?」
死語とも言える単語が聞こえて思わず聞き返すと、蒼依は僅かに眉間に皺を寄せたが、それはほんの一瞬の事で、瞬きをしている間に元の優しい表情に戻っていた。
「そんな事言ってない。可愛いねって」
「蒼依もなんか化粧していつもよりもっと大人っぽい」
「おかしくない? 大丈夫?」
「うん。ばっちり。今までで一番綺麗かも」
「それは良かった」
一頻り撫でて満足したのか、頬から蒼依の手が離れ、そのまま流れるように手を繋ぐ。
「冷たっ。なんで手袋とかしてないの?」
「いや、要らんかなぁって思って」
「もう……」
蒼依は溜め息を吐き、私の手を握ったままジャケットのポケットに手を入れ、何度か一緒に歩いた私の家までの道に足を進める。
「そういえば今日は自転車じゃないんだね」
「うん。寒いし。どうせ帰りは押して帰らなアカンし」
「それもそっか」
久しぶりの私服でのデートではあるのだが、特にこれと言って話すような事は無く互いに無言になる。それもその筈で、休日である土曜日と日曜日を抜いた平日五日間は基本的に顔を合わせており、会わない休日二日間も電話やメッセージでやり取りしているため、話したい事はその時すぐに言ってしまっていて、こうしたデートの時にする話題が残っていない。
ネットで恋人について色々と調べていた時に、熱量の高いカップルは熱が冷めるのも早く、別れやすいという記事があったが、恐らくは毎日話している所為で話題が尽きたり、デートに飽きたりしてしまうのだろう。
何となくそれが今の私たちにも当て嵌まるような気がして、何か対策をしなければ、と思いつつもこれといって良い案は浮かばなかった。
「紅音? どうしたの?」
「ううん。暖かいなぁって」
「紅音の手が冷た過ぎるだけ」
咄嗟に嘘を吐いたが、蒼依はそれに気付く様子は無い。
「蒼依だっていっつも冷たい手で触ってくるやん」
「今日は手袋してたから」
「それで今日は暖かかったんか」
「そういう事」
暖かいポケットの中で蒼依の手をぎゅっと握りしめると、それに応えるように蒼依が力強く私の手を握り返してくる。
そんな特に何の意味も無い事を繰り返しながら歩く事五分、私の家に到着し、ガレージに車が止まっていないのを見て、とある事を思い出した。
「あ、そういえば、今日多分夕方くらいまで誰も居らんし」
「そうなの?」
「うん。お母さんもお父さんも休みで、妹も一緒に出掛けてるから」
「そうなんだ」
「お昼はちゃんと用意してあるから」
「分かった」
どうぞ、と蒼依を家に招き入れ、靴を脱いで誰も居ないリビングを通り、お茶とコップを乗せたトレイを持って自室に向かう。
トレイをテーブルに置き、部屋の電気を点けて部屋の扉を閉める。
蒼依はすっかり定位置となった場所に鞄を置き、私が何かを言う前にベッドにそっと腰を下ろし、私に向かって両手を広げた。
何をしているのか分からずただ見つめていた私だったが、来て、と蒼依に言われて漸く理解し、蒼依の肩に手を置いて慎重に膝の上に座る。するとすぐに蒼依の腕が腰に回され、引き寄せられる。
私と蒼依はそれなりに身長差があるものの、座った時の高さはあまり変わらない。その所為でこうして蒼依の膝の上に座った状態でハグをすると、蒼依の顔に私の胸を押しつけるような形になってしまうため、少し恥ずかしい。
「蒼依」
名前を呼ぶと、蒼依が顔を上げてくれる。そして私は鼓動が早くなっているのを感じながらその艶やかな唇に口付けた。
初めから私は蒼依とキスをする事に抵抗は無かったが、したいと思っていた訳ではなかったように思う。しかし最近は学校に居る時や蒼依と一緒に居ない時など、ふとした瞬間に蒼依とキスをしたいと思うようになっていて、こうしてチャンスがあれば我慢が効かなくなってしまう程にその欲望が溜まってしまっていた。
蒼依が嫌がらないのを良い事に、鼻で呼吸をしながら角度を変えて何度も優しくキスをする。唇だけでなく、蒼依の頬や鼻、瞼や首など、特に理由は無く、ただ何となく思い付いた場所に口付けをする。
ついでに、と首に痕を付けてから顔を上げると、どこか険しい表情をした蒼依と目が合い、私は何をしているのだろうと理性的な思考が戻ってくる。
「あ、えっと……ごめん。嫌やった?」
怒っているようにも見える蒼依の表情に、心臓が止まってしまったかのように息苦しくなる。
「紅音」
「な、何?」
嫌な予感を報せるように鼓動が激しくなる。
「前に言ったと思うんだけど、私だって結構我慢してるからね?」
「え? うん」
蒼依が以前言ったという言葉が思い出せず、曖昧に返事をすると、私の腰を抱いていた腕が上ってきて、私の頬に触れた。
「据え膳食わぬは何とかって言うもんね」
「え?」
ぽつりと呟かれた言葉は辛うじて聞き取れたものの、意味が分からず首を傾げる。
「紅音」
「何?」
再び私の名前を呼んだ蒼依の声から怒りの色を感じられず、安心して少しずつ心を落ち着かせながら蒼依を見つめ返す。
「良い?」
蒼依がそう言ったのと同時に頬に触れていた蒼依の手が下がり、セーターの下に潜り込んできて、私の胸に添えられる。
いくら私でも理解できた。
「えっと……今から?」
何故か私は時間が気になった。
朝からそのつもりでおしゃれをしていたし、覚悟は充分にしていたつもりだったが、ネットで調べた時には、そういう事はデートの最後にする事が多いと書いてあったため、まさか朝からこんな雰囲気になるとは思ってもいなかったのだ。
「こんなに煽っておいて?」
断るわけないよね、とでも言うような蒼依の雰囲気に、臨機応変に動く事が苦手な小心者の私は、半ば自棄になって頷く。
「……ええよ」
「じゃあちょっと立って。寒いから布団入ろう」
「うん」
この部屋の主は私の筈だが、何故か蒼依が指示し、何故か私もそれに素直に従ってベッドの上で膝を曲げて座る。
先程まで嬉しさと緊張が半分ずつくらいだったが、今は八割方緊張で胸がいっぱいになっている。
まず何をしていいのかが分からない。ネットでいくらか調べてはみたものの、調べ方が悪かったのか、出てきた殆どが男女による物で、女性同士のやり方について書かれている物は少なかった。
とりあえず爪は短く整えたものの、これで何をどうすればいいのかが全く分からないままで、蒼依が知っていればいいなという希望だけを抱いてこの日を迎えてしまった。
蒼依が私の前に向かい合って座り、頬に手が添えられ、キスをする。
「本当に良いんだよね?」
「うん。あんまり訊かれると断っちゃうから」
「じゃあもう訊かない」
蒼依が寄り掛かってきて、あまり抵抗せず枕に頭を置くと、蒼依は私に覆い被さるようにして四つ這いになる。
「あの……やり方というか……」
「大丈夫。私に任せて」
その言葉を聞いて少しだけ肩の力を抜く。
蒼依はふっと笑い、またキスをする。今度はいつかやられたような、所謂ディープキスというやつだった。
口の中で動き回る慣れない感覚に、意図せず声が漏れる。
「可愛い」
そんな在り来たりな褒め言葉がどうしようもなく嬉しかった。
これまで感じた事の無いくらいの多幸感を味わっていると、いつの間にか捲られていたシャツの隙間から蒼依の暖かい手が入り込んできて、擽ったさに似た感覚がその細い指に触れられた所から電気のように伝わってくる。
何をしようとしているのか全く分からないが、不思議な事に、緊張や不安は無かった。
「大好き」
「私も、大好きやで」
両手で蒼依の顔を引き寄せてキスをする。それが合図となり、蒼依の手が今まで触れられた事の無い場所に侵入してくる。
ほんの少しばかり残っていた恐怖心も全て、蒼依とのキスが麻酔のように忘れさせてくれた。
────────────────────
部屋に蒼依を残し、夢心地で階段を降りて台所へ向かう。軽く手を洗い、予め買っておいたサンドイッチを小皿に盛り付けてトレイに載せる。
落とさないように気を付けながら階段を上り、開けっ放しにしておいた扉を肩で押して部屋に入ると、微かに自分の物でも蒼依の物でもない匂いがした。
先程までしていた事を考えると原因は明らかで、それに気付いた途端、顔に熱が溜まるのを感じるが、どうにか平静を装ってテーブルにトレイを置く。
「紅音もお昼ありがとう。それは……サンドイッチ?」
「うん。買ってきたやつでごめんやけどな」
言いながら窓の方へ向かい、何も言わずに窓を半分程開けた。
一応許可を取っておこうと思い至り、振り返って訊ねる。
「窓開けてもいい?」
「……開けてから訊くのはどうかと思う」
「五分くらいしたら閉めるし」
「まぁいいけど」
窓を開けた代わりとして毛布をベッドから引き摺り下ろして蒼依の膝に掛け、私も蒼依の隣に座って一緒に毛布の中に足を入れる。
「ありがとう」
「せめて足だけでもな」
「うん。暖かい」
「じゃあ食べようか」
いただきます、と一緒に手を合わせ、窓から入ってくるひんやりとした空気に身体を震わせながらサンドイッチを頬張る。
少しして、さすがに私も我慢の限界が来て窓と扉を閉めたが、暫くはその冷たい空気が部屋の中に留まっており、蒼依を送っていく時に換気すれば良かったと強く後悔した。
一つも残さず綺麗に食べ終わり、勉強をする前に少しだけ休憩をしようと蒼依に凭れ掛かる。
「眠くなった?」
「ううん。もうちょっとだけゆっくりしようと思って」
「そっか」
まるで悩み事が全て綺麗さっぱり無くなったかのように頭の中がすっきりとしているが、身体に疲労が溜まった状態で胃に物を入れたからか、このまま寝転べば眠れてしまいそうな程の眠気を感じていた。
そんな時、不意に蒼依が爆弾を投げてくる。
「まさか紅音が一人でした事も無かったとはねぇ」
「……別にええやん」
「だって、あんな誘惑してくる人がまさか……ねぇ?」
私としてはあまり蒸し返して欲しくない話題なのだが、蒼依の声には嬉しさが滲み出ていた。
「そんな誘惑とかしてへんし」
「してる。そのセーターは駄目。えろすぎ」
「はぁ?」
蒼依の声が急激に低くなり、思わず身体を起こして蒼依を見ると、その表情はとても真剣な物になっていた。
「それで私以外の人と外出るの禁止ね」
蒼依の鋭い視線が私の胸元に向けられる。
「大人っぽくて良くない?」
色の問題で少し太って見えるのが難点だが、特に変わった所の無い、普通の白いセーターだ。
確かに大人っぽく見られるデートコーデに良いとされている物を多少参考にはしてこの服を選んだが、そんな評価をされるような露出はしていない。
どこをどう見たらそういう印象になったのかは不明だが、蒼依はやはり何かが気に食わないらしく、首を横に振った。
「可愛いし似合ってるけど駄目。それで電車乗ったら絶対痴漢される」
「そんな事無いやろ」
「とにかく心配だから駄目」
「えぇー……」
そう不満を口にしながらも、蒼依が私の事を心配してくれているという事に気付き、説教されているにも拘わらず私の頬は上がってしまう。
「分かった?」
「うん」
唇をきゅっと締めて頷く。
「じゃあなんで笑ってんの?」
「笑ってへんって。ほら、それより勉強しようや」
外に出ている蒼依の膝を軽く叩いて擦っていると、すぐに手を捕まえられる。
「休むって言ったの紅音じゃなかった?」
「うん」
「うん、じゃなくて」
「そういえばやけに慣れてる感じしたけど、蒼依って経験済み?」
訊きながら掴まれていない方の手でベッドの横に置いてあった鞄からペンケースとノートを取り出し、テーブルの上に置いた。
「……自分のは訊かれるの嫌がる癖に人のは訊くんだ」
「気になるやん」
「前に言ったような気もするけど、紅音が初めて」
「ほんまに?」
蒼依の言葉を疑っている訳ではない。そんな話をしたような記憶が朧気にあるが、それが蒼依と話した時の記憶なのか、それとも他の人と話した時の記憶なのかが判別できない。
「うん。ほんま」
「じゃあなんであんなに上手かったん?」
「私が上手く感じたって事は、紅音は満足してくれたんだ」
蒼依がにやりと意味深に笑うが、私は繋がれている方の手を持ち上げ、蒼依の太腿の上に落として抗議の意思を示す。
「そうやけど、話逸らさんといて」
「紅音の恥ずかしがるポイントが分からないんだけど」
訊かれたくない事なのか、猶も蒼依は話を逸らそうとする。
「そんなんどうでもええやん。なんであんな上手かったん?」
「……紅音がした事無い事をしてたからだけど?」
蒼依は顔を逸らし、ぎりぎり聞き取れるくらいの小さな声で呟いた。
ちょっとした好奇心でその顔を覗き込んでみると、茹で蛸という程ではないにしろ、確かに顔を赤らめていた。
目が合った瞬間、蒼依の左手が伸びてきて、額に鋭い痛みが走った。
「いったぁ!」
「お返し」
額を手で守りながら蒼依から距離を取ると、何故か今度は蒼依が身を乗り出してきて、追撃が来ると思い、咄嗟に目を瞑ると、鎖骨少し上の辺りに柔らかい感触がした。
蒼依が何をしているのかを理解し、目を開けようとしたその時、蒼依の手によって私の視界が覆い隠され、驚いた私は体を支えていた手を浮かしてしまい、鈍い音が頭の中に響いた。
「ごめん! 大丈夫!?」
つい先程受けたお返しの十数倍もの痛みの中、蒼依の慌てている声が聞こえ、ゆっくりと抱き起こされる。
余りの痛みに目頭が熱くなるのを感じ、蒼依を心配させまいと、必死に涙が溢れるのを堪える。
蒼依は私を押そうと思っていた訳ではないだろうし、悪者がいるとすればそれは私だ。それなのに蒼依はまるで自分の所為でこうなったかのように、その綺麗な顔を歪ませていた。
「ごめん……」
このまま泣き出してしまうのではないかというくらいに表情は崩れており、それを見ていると、不思議と私の涙は目の奥に引っ込み、代わりに愛おしさが込み上げてくる。
ふふ、と笑い、私は蒼依を抱き締める。
「大丈夫やって。そんな泣きそうな顔せんといてよ」
「大丈夫なん?」
「うん。まだちょっと痛いけど」
「ごめん」
余計な事を言ったな、と軽い後悔をした後、お詫びとして蒼依にキスをする。
お互いに目を瞑り、十秒か、二十秒か、唇を重ね合わせるだけ。
何となく、気持ちが落ち着いてきた頃を見計らい、顔を離して目を開けると、蒼依も丁度同じタイミングで目を開き、少しの間見つめ合った後、止めていた息を吐き出すように笑い合う。
「落ち着いた?」
「うん。紅音は痛いの大丈夫?」
「うん。もう平気」
キスをしたお蔭か、後頭部の痛みはもうすっかり治まっていた。
パン、と手を合わせて気分を入れ替える。
「じゃあそろそろ勉強するかぁ」
「そういえばまだ何もしてないね」
「今何時ー?」
「えっと……二時半……かな?」
「え、嘘やん。もうそんな時間なってる?」
テーブルに置いていた携帯を手に取って確認してみると、確かに蒼依の言う通りの時間が表示されていた。
「やり過ぎたね」
蒼依は何が、とは言わなかったものの、何の事かははっきりと理解できてしまった。
私が睨み付けると同時に、蒼依は一旦目を逸らし、あざとい上目遣いで見つめ返してくる。
「ごめんね?」
「別に怒ってはないけどな」
「気持ちよかったもんね」
「は?」
「ごめんって」
「もう、ええから今日残りは勉強な」
「はぁい」
お茶を一口飲み、ペンを持って早速取り掛かる。
今回少しのんびりしているのには、言い訳のような理由がある。
学校側の事情は知らないが、今学期の期末試験の日程は来週の水曜日からの四日間なのだが、四日目は土曜日と日曜日を挟んだ月曜日に行われる。つまり四日目の勉強は最悪その二日間でやれば良いという事であり、これからの一週間は四日目に行う科目以外の科目の勉強に集中すれば良いという事だ。
期末試験はただでさえ科目数が多いため、そのうちの三教科を完全に後回しにしてしまえるのはとても有り難い。
受験の事を考えると、結局は全部覚えなければならないので、その場凌ぎの覚え方では良くないのは分かっているが、受験するのにはある程度の成績が必要なのも事実であり、手を抜いてはいけない重要事項の一つだ。
こんな事でアルバイトなんかしても大丈夫なのか、という不安が湧いてくる。
「あ」
思わず声が出てしまい、手で覆っても既に手遅れだった。
「何? どうかした?」
「いや……」
今は勉強をする時間だ、と頭を振って思考を飛ばす。
「ごめん。何でもない」
「そう?」
駅まで蒼依を送っていく時に話せばいいだろうと思ったが、悲しい事に集中が切れてしまい、目の前のノートに書かれている内容が全く頭に入ってこなくなってしまった。
勉強を始めてからまだ一時間程しか経っておらず、蒼依は私が見つめている事にも気付かない程に集中している。
蒼依がこんなにもがんばっているのだから、誘った私だけが怠ける訳にはいかない。しかしやる気を出そうにもいまいち気分が乗らない。
そこで一つやる気を出す手段を思い付いたが、それは蒼依の邪魔にもなりかねない事で、さすがに気が引けた。
どうしよう、とノートの空白を見つめながら悩んでいると、不意に肩を叩かれる。
「何?」
「充電」
直後、私が考えていた事を蒼依に先を越される。僅か二秒程で離れ、蒼依は満足そうな笑みを浮かべた。
しかし欲深い私は満足できておらず、身を乗り出して蒼依の顔を捕まえる。
「もうちょっと」
蒼依の背中に腕を回し、逃げられないようにして唇を重ねる。今度は蒼依の真似をして私の方から軽く舌を入れてみたり、侵入してきた蒼依の舌を吸ってみたりしていると、徐々に胸が満たされていくような感覚があり、蒼依の言う『充電』ができたと感じて唇を離す。
「よし」
「よし、じゃないんだけど」
「あと一時間半くらいはやろうかな」
「ちょっと」
「充電したしな」
「はぁ、まぁいいか」
いつもやられている無視をするという作戦は上手く行き、やる気を取り戻した私と蒼依は再び勉強に励む。
お互いノートに向かってばかりでは同じ空間でやっている意味が薄くなるため、いつものように問題を出し合う形式で暗記をする。
科目や問題の出し方を変えていれば案外飽きずにやれるもので、気が付けば目標だった一時間半を過ぎ、時計の短針は真下に向こうとしていた。
慌てて帰る用意を済ませ、蒼依を駅まで送るためにコートを着る。蒼依も朝と夜の寒さ対策としてマフラーと手袋を持っていたようで、二人して真冬のような恰好ですっかり日が沈んで暗くなってしまった外へ出る。
今朝と同じように蒼依と手を繋ぎ、今度は私のコートのポケットに入れて歩く。
「そういえば……」
不意に蒼依が口を開いた。
「何?」
「勉強し始めてすぐくらいの時に何か言おうとしてなかった?」
「え?」
頭の中で他の事に気を取られていた私は、反射的に聞き返したが、遅れて蒼依の言った言葉を理解し、用事を思い出す。
「そうそう。アルバイトしようと思って」
「そうなん? 何すんの?」
「いくつか候補はあるんやけど、できれば本屋さんがええかなぁって思ってる」
「あぁ、まだ応募はしてないのか」
「うん。とりあえず募集してはる所を探して、履歴書書いただけ。応募すんのは試験終わってからにした方がええかなぁって」
「あぁ、確かにね」
「私があんまりお金持ってへんからさぁ、デート行っても何か食べたりとかあんまりできひんかったやん?」
「それは私も一緒だから別に良かったんだけど……」
「……それはそうやけど、これからは何か買ってあげたりできるし」
「そっか」
何か気に入らない事があるのか、蒼依はあまり嬉しそうではなかった。
どうしたのかと顔を覗き込んでいると、蒼依はこちらに顔を向け、躊躇いがちに口を開いたかと思いきや、何も言葉を発する事無く再び閉じた。
「どうしたん? 何か言いたい事あるんやったら全然言ってくれてええよ?」
「……」
蒼依が悩んでいるような素振りを見せたため、何かを言ってくれるまで待つ。
暫くして、住宅街を抜けて駅前の広場が見えてきた頃、蒼依が声を掛けてくる。
「えっと、アルバイトするんは応援するんだけど、ちょっとしたルールというか……決めて良い?」
「ルール?」
意味が分からず、首を傾げる。
「うん。分かってるとは思うんだけど、私もアルバイトはしてないじゃん。それで、紅音がアルバイトを始めて、まぁ当然給料を貰うでしょ?」
「そうやな」
「そのお金をデートに使われるとさすがに申し訳なさがあるから、アルバイトで貰ったお金はデートに使わないっていうのはどうかなぁ、と」
「えっと……?」
頭を限界まで傾け、蒼依の言葉を頭の中で一つ一つ噛み砕いて理解していく。
「要するに、アルバイトで稼いだお金をデートに持ってくるなと?」
「そういう事。自分の服を買うとか、化粧品を買うとかはしてくれて良いけど、私のために使うのはやめて」
「プレゼントは?」
「プレゼントは……まぁ、良いけど……、あんまり高いのはやめてね?」
「それはもちろん。えっと、あれやんな? そのぉ……要は奢られたくないって事やんな?」
「うん。端的に言えばそういう事」
「分かった」
なるほど、と力強く頷いた。
そもそも私がアルバイトをしようと思ったきっかけは、以前見つけた栄養士の本などの欲しいけれどお金が無くて諦めざるを得なかった物を買うためだ。
最終的に蒼依のためになるとも言えなくもないが、それ以前に私自身のために使う予定だった。その本来の目的に使うのは良いという事だろう。
余ったお金は将来蒼依と一緒に暮らすための資金として残しておけばいい。
「その前にアルバイトに採用されたらの話やけどな」
「紅音なら大丈夫でしょ」
「どうなんやろうな……」
正直な所不安と恐怖で一杯になっていて、給料が貰えるからと言ってその恐怖心や不安感は全く薄れる気配も無い。
「まぁ、また決めたら教えて。応援してる」
「うん。ありがとう」
そんな話をしている間に駅に着いてしまい、まだ離れたくないという気持ちで蒼依の手をポケットの中で力強く握る。
「電車の時間調べてから来たら良かったなぁ……」
「中に時刻表あるでしょ?」
「あぁ、確かに」
「いっつも思ってたんだけどさ、なんでいつも外で待ってるの?」
「え? めんどくさいから?」
「寒くない?」
「中も寒いやん」
「それは……そうか」
「うん」
「じゃあいいや」
よく分からない問答を終えると、蒼依が乗らなければならない電車が来るというアナウンスが流れた。
「やば、もう行かな」
名残惜しく思いながらも蒼依の手を解放する。
「気を付けてな」
「うん」
手を振ろうとして腕を上げると、蒼依にその手を掴まれる。
「最後にちょっとだけ」
甘えるような言い方に抵抗できず、目を閉じ、蒼依と唇を重ねる。
今日だけでもう何度キスをしただろうか。数えてはいないが、恐らく両手では数え切れない程にはなっているだろう。
唇が離れ、その感触を思い出すように自分の唇を人差し指でそっとなぞる。
「じゃあ、またね」
「うん。大好きやで」
「ちょっと」
「ふふ、またね」
悔しそうな表情をしている蒼依に手を振り、階段を上っていく蒼依の背中を見送る。軈て姿が見えなくなり、ふぅ、と一息吐いた。
昨夜からずっと不安を抱えたまま過ごし、まさか家に着いて早々にする事になるとは思ってもみなかったが、お蔭で胸に纏わり付いていた不安は解消された。
中学生までの太っていた私の事を蒼依は知らないが、それでも今の私の身体に魅力を感じてくれていて、たくさん求めてくれた。
それが堪らなく嬉しかった。
今までの努力が報われたような気がした。
暗い夜道を歩きながら、ふふふ、と堪えきれなかった喜びを溢す。
ふと、これは母に言うべきなのだろうか、という疑問が湧いた。
言うとしても、何を言えばいいのだろう。そもそも私は母に蒼依と付き合っている事を伝えていただろうか。仮にそれを伝えていたとしても、いなかったとしても、今日の事は言い触らすべきではないだろう。
今まで家族とそんな話は微塵もした事が無く、もし今日の事がバレた時の事を思うと恥ずかしいを通り越して死にたくなるような気がした。
蒼依との関係に関しては、いつかは言わなければならない事かもしれないが、今日の事は絶対に秘密にしておかなければならない。
ペシペシ、と冷たくなってしまった指先で頬を叩き、気合いを入れる。
首元の痕を隠していなかった所為で両親には疾うの昔バレていた事を知るのは、この数分後の話だ。
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