第33話 11月18日

 不意に誰かの手によって電源が入れられたかのように目を覚ます。ぱち、ぱち、と瞬きをする間に自分が眠りから覚めた事を理解すると、ひんやりとした空気が上半身に纏わり付いてくるのを感じ、いつの間にか折り畳まれていた冬用の分厚い布団を肩まで引っ張り上げ、その温もりに浸る。


 眠気は全くと言って良い程無く、違和感を覚えるくらいに頭がはっきりと冴えている。


 いつもと同じようで、何かが違う。そんな何の根拠も無い微かな違和感に、今日が休日だという事を思い出した。


 左手を布団の外に出し、冷蔵庫のように冷やされた空気が充満する薄暗闇の中、サイドテーブルの上に置いてある携帯を探り当てる。携帯に接続されている充電コードを引っこ抜き、眩い光を警戒して目を細めながら携帯の電源を入れて時間を確認する。


 午前七時過ぎ。学校に行かなければならない平日に比べて一時間遅く、休日に起きるには少し早いと感じる時間。


 特にこれと言ってやる事は無いが、二度寝をしようという気にもならず、一先ず身体を起こし、腕を天井に向けて伸ばして伸びをする。堰き止めていた息を吐き出すのと同時に身体の力を抜くと、引き延ばされていた二の腕の辺りにじんわりと熱が溜まる。


「よしっ」


 声に出して気合いを入れ、温かい布団から足を出してベッドから下ろすと、ひんやりとした空気が素足に纏わり付く。布団に包まっていたい気持ちを振り払うように勢いよく立ち上がり、ローテーブルに置いていた眼鏡を掛けて一階に降りる。


 既にリビングの電気は点いていて、母がテレビを見て寛いでいた。


「おはようございまーす」

「あぁ、おはよう」


 母と挨拶を交わして洗面所で顔を洗い、軽く歯を磨いてから台所へ向かう。ポットでお湯を沸かして猫の絵が描かれているコップに温かいココアを入れる。お湯だけでは猫舌の私には熱すぎて飲めた物ではないので、冷たい牛乳を加えて少し冷めた状態にする。


 乾いた口を潤すのに一口だけ飲んでから母の向かい側に座り、炬燵布団を捲って足に被せた。


「あったか」


 布団の下に潜り込ませた手足が温められ、はぁ、と思わず息を吐いてリラックスする。


 いつも通り炬燵ではなくホットカーペットを使っているようだが、冷えた身体、特に手足を温めるには丁度良い温度だ。


「寒いからなぁ。今朝は六度やって」

「一気に寒くなったなぁ」


 机の真ん中に並べられている菓子パンの中から消費期限が切れかかっていたピーナッツのパンを手前に引き寄せ、両手で摘まんで袋を開ける。


「紅音も寒かったら部屋暖房付けてええからな?」

「うん。まだ大丈夫。布団あったかいし」

「ならええけど」


 布団が無いと寒いが、限界まで暖房を付ける気は無い。夏の暑い日には遠慮無く冷房を付けて涼んでいたが、寒いのに関しては暖房を使わなくとも最悪着込めば何とかなる筈だ。どうしても耐えられない時は遠慮無く暖房を使っているリビングに降りて来れば良い。少なくともそれで去年などは寒さを充分に凌げていた。


「今日のお昼何する?」


 私がパンに齧り付いたタイミングで母が訊ねてくる。


「夜は鶏肉がまだ余ってるからそれで鳥の照り焼きして、あとはシメジもあるからほうれん草か何か買って野菜炒めでもしようかなぁって思ってんねんけど」


 クリームの入っていないただのパンをしっかりと飲み込んでから頷く。


「……うん。ええんちゃう?」

「で、お昼何か希望はある?」


 パンを片手にいくつかの料理を頭に浮かべるが、その中に食べたいと思うような物は無かった。


「今日買い物行くんやんな?」

「うん。何か本見に行くんやろ?」

「そうそう。栄養士の本何か良いのあるかなぁって」

「もう栄養士目指すって決めたん?」

「いや、まだ迷ってはいるけど、とりあえずがんばれそうなのはそれかなぁって」

「そっか」


 母はどこか安堵したような表情をした。恐らくいつまで経ってもやりたい事が無いと言い続けてアルバイトも何もしない私の事をずっと気に病んでいたのだろう。妹がイラストレーターという芸術の道をしっかりと歩もうとしているのだから余計に心配になった筈だ。


 私にも妹のように熱中できる物があればこんなに悩む必要は無かったのだろうな、とずっと私に甘えてくれる妹を羨みつつも話を戻す。


「んで、涼音が行くかどうかは知らんけど、お昼ご飯も買い物ついでにどっか食べに行ってもええんちゃうかなぁって思うんやけど」

「あぁ、そうする? 本屋さん行くんやったらどうせ奈良の方行かなアカンし」


 合間合間にパンを頬張りながらそんな話をしていると、丁度話に出ていた涼音が階段を降りてきた。


「おはよう」

「おはよう」


 リビングの明かりが眩しいのか、眉間に皺が寄っていて、寝起きの声も相俟って不機嫌そうに見える。


「顔洗ってき」

「ん」

「飲むのココアで良い?」

「うん」


 洗面所に向かう妹を見送り、炬燵から出て台所で私が飲んでいるのと同じココアを作る。妹も猫舌なのか、熱いのは苦手なようなので、同じく牛乳を入れて飲みやすい温度にする。


 出来たココアを炬燵机に置いて元居た場所で温もりに浸っていると、まだ少し寝惚けている様子の妹が隣に座り、足に氷のように冷たい物が触れた。


「冷たっ」

「あ、ごめん」


 妹の足が冷たいのは恐らくこの気温の所為なので気にする必要は無いだろう。それよりも、いつもなら朝から呆れるくらいに元気な妹が妙に静かなのが気になった。


「ううん。大丈夫。昨日夜更かししたん?」

「十二時くらいには寝たで?」

「十二時は遅いって。もっと早く寝な背も高くならへんで?」

「絵の練習してたし」


 私の説教染みた言葉に、妹は少し投げ遣りな返事をした。


「だからって体調崩したりしたら描きたくても描けへんくなるで?」

「うん」

「まぁ、そんなけ夢中になれる物があるのはええけどな」

「紅音は無いもんな」


 私の思わず漏れ出た本音に、母がにやにやと腹立たしい笑顔を浮かべて言った。もし暴力が許されるのなら、きっと一発は殴っていただろう。


「別にええやろ」

「怒り方そっくり」

「……」


 誰と、というのは言われなくても分かってしまう。


 ここで言い返すのも、言い返さないのも、母の思惑に嵌まってしまっているような気がして腹立たしい。


 感情に任せて行動する訳には当然いかず、胸の中に渦巻く澱んだ何かを溜め息として吐き出した。


 そんな私を余所に、母は涼音に声を掛ける。


「今日奈良の方に買い物行こうと思ってるんやけど、涼音も一緒に来るか?」


 相変わらず母の話しかけるタイミングは悪く、妹は口一杯にパンを頬張ったまま首を縦に振った。


「何時くらいに出る?」

「そうやなぁ……。お昼ご飯も食べるんやったら十一時とかでもええかもな」


 十一時に出たとすれば、向こうに着くのは、渋滞などに巻き込まれなかったとして三十分弱。向こうに着いてからすぐにご飯を食べに行ったとしても、休日の大型ショッピングセンターの食事処は恐らくすぐに埋まってしまい、食べるまでに結構な時間待たされる羽目になるだろう。


「あんまり遅くなったら混んでそうちゃう?」

「あぁ、じゃあ十時半とかにしよか」

「うん」

「涼音もそれでええか?」

「うん」


 妹はまたパンに齧り付いた状態で頷いた。


 いつの間にかテレビの番組は微妙にお笑い要素のあるニュース番組から休日の朝にぴったりな緩い雰囲気の旅番組に変わっていた。


 こういうテレビ番組を見ていると、芸能人というのは夢のある仕事だと思う。一般人が決して安くないお金を出して、予約をして何日も何週間も待って漸く体験できるような事を、このテレビの中で動いている人たちはお金を貰って行っている。もちろんそれをするまでに私には想像すら付かないような苦労を重ねてきたのだろうし、それらの体験をテレビの前に居る私たちに伝えるのが彼らの仕事で、その対価として私のような一般人には贅沢をするよりも貴重な体験ができているのだろう。


 しかしそれはそれとして狡いとも思う。例えるなら遠くから気になっていた人気店に来て、行列に並んでいる時に横から権力を持った何者かが真っ先に悠々と入っていくのを見ているかのような気持ちになる。その人の持っている当然の権利であり、仕方の無い事だと理解はできても納得はいかない。


 こんな捻くれた見方をしているとテレビなど何も楽しめなくなってくるのだが、ふとした時にやはりこの考えが浮かんでしまう。


 ただでさえ殆ど見ていなかったテレビに興味が無くなり、時計を一瞬確認してから炬燵布団から出て立ち上がる。空になった私と妹のコップを立ち上がったついでに台所のシンクに置き、歯を磨きに洗面所へ行こうとドアハンドルに手を掛けようとした所で、勝手に扉が開いた。


 扉を開けた犯人は間抜けな泥棒などではなく、当然リビングに居なかった父だ。


「あぁ、ごめん」


 父が真摯振って扉を手で抑えて端に避ける。


 どう反応すれば良いのか迷った結果、「どうも」と、妙に他人行儀な礼を言ってそのまま洗面所に入って引き戸を閉めた。


 歯を磨き、顔を洗った後、自室に戻って出掛ける準備をする。


 先週の雨が降った後から急激に気温が十度程下がり、暖かい太陽の光は健在だが、日陰ではもう冬のような寒さになっている。今日のように曇っている日はその寒さが顕著に出るだろう。


 スカートではなくパンツを穿き、ヒートテックで寒さ対策をしてシャツの上からロングカーディガンを着る。気分的には手袋やマフラーもして行きたいのだが、学校にもまだそれらを付けている人は居らず、どうしても人目が気になる私はやはり付ける勇気が無かった。


 脱いだパジャマを洗面所の洗濯籠に出し、再び部屋に戻ってきてベッドに寝転がって布団に潜り込む。


 家を出るまでの時間に蒼依にメッセージをいくつか送り付け、返信を気にしながら苦手な英語の勉強をする。


 正直やる気は無いに等しい程だったが、やり始めればいつの間にかやる気は出る物で、結局私は母と妹が部屋に突撃してくるまで勉強していた。


「準備できたか?」

「うん」


 外出用の鞄を持ち、中にしっかりと財布と携帯が入っている事を確認して頷く。


 妹がもう私とそれ程変わらないサイズの靴を履き、トントン、と床を蹴った拍子に蹌踉けた所を私が咄嗟に肩を掴んで支える。「大丈夫か」と訊ねると、妹は恥ずかしそうに笑って「うん。ありがと」と小さな声で言った。


 肩を強く掴んでしまった事を軽く詫びてから私も靴を履き、既に踵が靴に入っていたが、何となくトントン、と床を蹴った。ある種のルーティンのような物だ。


 玄関の扉を開けると、冷たい空気が家の中に入り込んできて身体を震わせる。


 今にも降り出しそうな雲が空を埋め尽くしており、全員が車に乗って、ショッピングセンターに向けて走り出したその数分後にはフロントガラスに水滴が付き始めていた。


 父の好きなロックバンドの曲を聴きながら窓の表面を流れる雨粒をぼうっと見つめていると、眠気は無いのに欠伸が出て、無意識的に手で口を覆う。そうすると、妹がそれに釣られるようにして欠伸をする声が聞こえて、そちらに振り向くと、妹は私と目が合った瞬間、口を開けたまま硬直し、直ぐさま両手で口を覆い隠した。そのまま数秒の間見つめ合っていると、ほぼ同時に表情が決壊し、静かに笑い合った。


 それから妹が睡魔に負けて眠ったのを見届け、また暫く窓の方を眺めていると、目的地に到着した。


 気付かぬうちに暖かくなっていた車内から冷蔵庫のように冷えた外に出る。


 妹も十数分程度の仮眠を取ったお蔭で目が覚めたらしく、いつもの元気を取り戻して私に抱き付いて来た。


「ちょっと、歩きにくいんやけど」

「だって寒いんやもん」

「すぐそこやん」


 そう言って入り口の方を指差すが、妹は私の腕を解放してはくれず、仕方無くそのまま店内へ向かう。


 予定通り昼食を食べるため、フードコートのある四階までエレベーターで上ってきたが、やはり人が多い。夏休みにここへ来た時程の混雑ではないが、決して快適とは言えない人混みだ。


 妹に腕を解放してもらう代わりに手を繋ぎ、両親の後ろに付いて歩く。


 もう何度も来ているが、妹は楽しそうにあちこちに視線をやりながら歩いていた。


「何か面白そうなんあった?」

「え、ううん?」


 ならどうしてそんなに笑顔で目を輝かせているのかと訊ねようとも思ったが、妹にしか分からない何かがあるのだろうと勝手に納得して、「そっか」と笑顔を返す。


 フードコートも案の定人がたくさん居たが、まだ完全に席が埋まっている訳ではないようで、父が一直線に四人が座れる席に向かっていき、無事に席を確保する事ができた。


「二人は何する?」


 母に訊ねられ、フードコートの周りを囲む飲食店を端から順に見る。


 ステーキに定食、カレー、パスタ、フライドチキン、ハンバーガー、たこ焼き、パスタ、うどん。それ以外にもクレープやアイスクリームなんかもあるが、さすがに昼食としてスイーツを食べようという気にはならないし、この寒い中アイスクリームを食べようという気にもならない。


「どうしようかなぁ」


 悩んでいるというアピールをするために敢えて口に出しながら引き続き辺りを見渡す。


 そうしている間に妹がハンバーガーに決めたようで、母が「先に涼音の分とパパの分買ってくるから考えといて」と、まるで私がそれくらいの時間悩むと分かっているかのように言って、妹を連れて席を離れていってしまった。


 私は母の予想通りまだ決まっていないので、店が賑やかなのをいい事にうんうんと唸りながら店を眺める。しかし唸るばかりで食べたい物など何も無く、周囲の雑音と自分の唸り声が頭の中をぐるぐると巡って思考が散り散りになってしまう。


 無欲と言うべきか、優柔不断と言うべきか、またそれとは別に私の知らない表現方法があるのかもしれないが、ともかく私が昼食のメニューを決める前に母と妹が四角い端末を持って席に戻ってきてしまった。


「紅音は決まったか?」

「ううん」

「ママはどうしようかなぁ」


 母がまだメニューを決めていないのを知って少し安心したが、その数秒後に母が「パスタにしようかな」と言い、また私の頭の中はぐちゃぐちゃになる。


 お腹は空いているし、何かは食べたいのだが、具体的に食べたい物は無い。段々と決められない自分自身に腹が立ってきて、もう昼食を食べなくてもいいような気さえしてくる。


 こういう時に他の人はどうやって決めているのか気になるが、私の場合はもう他人の意見に乗っかってしまう。今回は母と同じパスタにして、詳しいメニューは店の前にある看板を見て、普段は食べない物を選んだ。


 時間を掛け過ぎた所為で、席に戻る頃には父と妹は既に料理を取りに行ってこれから食べようという所だった。


 ちょっとくらい待っていてくれてもいいとも思うが、そもそも注文するのが遅かった私が全面的に悪いようにも思える。


 一旦席に着き、携帯を鞄から取り出して未だに返信の無い蒼依にスタンプを送り付ける。


 そして父が食べ終わる頃、料理が出来た事を報せるブザーが鳴り、端末を持って店に行き、それと交換する形で料理を受け取って、ついでに水を紙コップに注いでから席に戻り、湯気の立つパスタを息で冷ましながら少しずつ食べる。


 食べ終わったら漸く今日の目的である買い物に向かう。


 両親は二階まで降りて今日の夕飯の買い物に行くらしく、その間に妹は私と一緒に専門店街を見て回る事となった。


「涼音は今日何か欲しい物あるんやっけ?」

「ううん。気分転換に付いて来ただけ」

「あ、そうなん? じゃあどうしよ。とりあえず一通り見てから一個降りて本屋さん行こうか」

「うん」


 何となく癖で妹の手を取り、時計回りに店を見て回る。


 それなりの頻度で来ているため、新しい店や潰れた店などは無い。駄菓子屋に韓国の化粧品店、文房具屋に中古屋、反対側にはカードゲームやアニメグッズなどが置かれている店や百均などがあった。しかし妹はどれにもあまり興味が無いようで、きょろきょろと顔を動かしながらも同じく興味の無い私に手を引かれるまま歩いていた。


「何か気になるのあった?」


 下りのエスカレーターの前にあるちょっとした広場で立ち止まり、妹に訊ねてみると、予想していた通り首を横に振った。


「ううん。本屋さん行くんやんな?」

「うん」


 他人の嘘を見分ける自信はこれっぽっちも無いが、妹が気になる物は無いと言っているのだから、それを信じてエスカレーターに乗る。


 何となく後ろを振り向くと、妹の顔が私の目線よりも上にあった。


「涼音、ほんまに身長伸びたなぁ」

「ほんまに?」

「うん。だって前はエスカレーターとか階段とかで目線一緒やったやん?」

「そっか」


 いつの間にこんなにも成長していたのだろうか。去年はどれくらいだっただろうか、と思い出そうとするが、私の中に居る妹の身長は私の胸辺りまでしか無かった。


 何となくいつもの調子で手を繋いで歩いていたが、周りから見るともう姉妹には見えなかったりするのではないだろうか。


 そんな事を考えながら同じように専門店街を時計回りに見て回る。


 四階にはアニメグッズやゲームセンター、駄菓子屋などの子ども向けの店が多かったのに対し、三階にはファッションショップを中心に、生活雑貨などの一般向けの店が多く並んでいる。


 私の目的地である書店はこの階の一番奥にある。映画館の半分くらいの敷地に妹と同じくらいの身長の本棚が奥の方までずらりと並んでいる。


「お姉ちゃんは何買いに来たん?」

「えっとなぁ……この前進路学習のプリントで栄養士に目指そうかなぁみたいな話してたやんか。ネットで調べてもよう分からんし、栄養士の何かそういう本無いかなぁって」

「なるほどね」


 通路に沿って置かれている小説の新刊を流し見しつつ、柱や本棚の上に書かれている文字を見て目的の本があるであろう本棚を探す。


 何度も来た事があるため、何となくの場所は分かっているが、いざ探してみるとなかなか見つけられない。


「涼音は何か見たい本ある?」


 そう訊ねると、妹は唇に人差し指を当てて首を傾げる。


「んー……別に無いかなぁ」

「そう?」

「うん。お姉ちゃんの本探そ?」

「資格試験とかのやつやし……あっ、あそこちゃうかな」


 漸く探していた本棚を見つけ、妹の手を引く。


 目的の本棚の前まで来ると、すぐに「管理栄養士」の文字が目に入り、妹の手を放して真っ先に目に入ったその分厚い本を手に取って開く。


 ネットで調べた限りでは、栄養士になるためには大学で栄養学などを学び、卒業するのと同時に資格が取得できると書いてあったが、実際にどのような勉強をする事になるのか、予め知っておきたかった。


 目次に軽く目を通し、一番初めから飛ばし飛ばしに読んでみるが、当然ながら書かれている内容の殆どは理解できなかった。よく読んでみると何となく理解できるような気はするが、あまりにも知らない単語が多い。


 やはり大学を卒業する事で取得できる栄養士と国家試験を受けて取得できる管理栄養士では内容も全く違うのだろうか。


 そう思った私は、管理栄養士ではなく、栄養士に関する本を探す。しかし置かれているのは管理栄養士の本ばかりで、ただの栄養士の勉強ができる本は見つけられない。いくつかそれらしい物を見てみても、書かれている内容は私が知りたい物ではなかった。


「お姉ちゃんこれは?」


 不意に話しかけてきた妹の手にあったのは、栄養士実力認定試験の過去問と書かれた大きな本だった。


 それを受け取って開いてみる。


 表紙に過去問と書いてある通り、この本の内容は二〇二二年より前に行われた実際の試験と殆ど同じ物なのだろう。学校で受ける定期試験と形式自体は一緒に見えるが、肝心の内容は一番苦手な英語よりももっと分からない。


 勉強していないのだから当然と言えば当然なのだが、現時点で習った生物基礎でさえ覚えられていない事も理解できていない事もまだまだ多い。そんな私がこんなにも難しい内容を理解し、覚える事などできるのだろうか。


 そんな不安が沸き上がってくる。そうすると今度は栄養士を目指すと決めた自分の意思も揺らぎ始める。


 不確かな物にお金を掛けようという気にはなれず、キープという事にして値段を確認してから本を元あった場所に戻してもらう。念の為にその場所は把握したが、もう一度手に取るかどうかは分からない。


「どうしようかなぁ……」


 栄養士が何をする仕事なのかはネットで調べて上辺だけは知った。目指す人が多く、職場が無いという少し不安になる情報もあったが、最悪仕事にはできなくても、もし蒼依と一緒に暮らせるのなら、そこで少しは役立てる筈だ。


 そう思って本を買いに来たというのに、何故か私の足は違う所へ向かって動き出す。


「お姉ちゃん本はええの?」

「うん。今はいいや。どうせ大学でやるんやし」


 口が勝手に言い訳をした。


 本当に買わなくてもいいのか、と私の中の何かが囁きかけてくる。


 それに対し、どうせ買った所でそんな先の勉強をする暇なんて無い、と買わない言い訳をする。


 栄養士がどんな仕事をしているのかはネットで検索を掛ければすぐに見つけられる。大学に行けば栄養士の資格は取れる。今本を買う理由なんて何処にも無い。


 微かな吐き気を感じながらゆっくりと店内を歩き、答えを出す。


「うん。今日はいいや」


 いつものように情報を処理しきれなくてパニックを起こした出来損ないの頭が自棄になっているのかもしれない。自棄になって、間違った選択をしようとしているのかもしれない。


 税込み二千円という値段は、アルバイトも何もしていない私にとって、決して安くはない値段だ。もしあの本が無料で貰えるというのなら、私は一切迷う事無く持ち帰っていただろう。


 今更だがアルバイトをするべきだろうか。今まで何かと理由を付けてアルバイトを避けてきたが、がんばらないといけない事なのかもしれない。


 何となくの思い付きで、妹に尋ねてみる。


「涼音、私って何のアルバイトが似合う?」

「お姉ちゃんアルバイトすんの?」

「うん……。しようかなぁって」

「何やろなぁ……」


 妹は人差し指を唇に当てて首を傾げる。


「本屋さんとか」


 そう言った妹と私の進行方向の先にはこの書店で働いている女性の姿があった。


「絶対あの人見て言うたやろ」

「うん。でもお姉ちゃん本好きやしいいんちゃうの?」

「んー……」


 自分でもはっきりと答えが出ていない質問に、眉間に皺を寄せて首を傾げる。


「じゃあカフェとか」

「私にできると思う?」

「うん」

「そう思ってくれてるのは有り難いんやけどなぁ」


 恐らく記憶力の悪い私にはカフェの店員は不可能に近いだろう。できたとしても、メニューや接客方法などを覚えた代わりに大事な事を忘れてしまいそうだ。厨房という手もあるが、そこまで料理の腕に自信が無い。


「多分無理やし……、本屋さんかなぁ」


 この少しやる気になっている時に行動しなければ、恐らく私はまた暫く行動を起こさないだろうという事は自分が一番よく分かっている。


 求人広告は大抵レジの近くか入り口付近に貼られているだろうと、妹を連れて入り口まで戻ってくると、大きな文字でアルバイト募集中と書かれた黄色の張り紙を見つけた。


 しかしそこで一つ重大な問題に気付く。


「あ、待って? ここのアルバイト受けても来れへんくない?」

「ん?」

「いや、だって……ここ奈良っていうか、通学路ちゃうし」

「あ、そっか」

「うん。ここじゃアカンわ」


 せっかく沸き上がってきたやる気が急激に下がり始める。


 今はその機会ではないと神様に言われているのかもしれない。などという何の根拠も無い、所謂言い訳というやつをする。


 そうすると、胸に纏わり付いていた吐き気が徐々に薄れていき、はぁ、と溜め息が自然と吐き出された。


「どうしようかな。そろそろ買い物終わってるかなぁ?」

「本はいいの?」

「うん。今日は下見って事で。買うのはまたもうちょっとちゃんと決まってからかな。今は高校の勉強がんばらなアカンし」

「高校じゃ使わへんの?」

「うん。多分殆ど大学で習うんちゃうかなぁ。知らんけど」

「ふぅん」

「涼音は何か見たいのある?」

「今のところ無いかな」

「じゃあ下降りてママと合流するかぁ」

「はぁい」


 結局何も買わず、他の本に興味を示す事も無く、私たちは両親が居る筈の食品売り場のある二階に向かう。


 入れ違いになってしまわないよう、母にメッセージを送ったが、既読が付く前に野菜コーナーに居る母の姿を見つけた。


「あれ、もうええの?」

「うん」

「何か買ったん?」

「ううん。今日はとりあえずええかなぁって」

「そっか。まぁ、まだ高校一年やしな。そんな焦らんでも大丈夫やろ」


 母はそう言って笑うが、私としては焦らなくてはならないような気がして、母の言葉に頷く事はできなかった。


「今日の夕飯は何すんの?」


 妹が買い物籠の中を覗き込んで訊ねる。


「今日はチキンカツでもしようかなぁって」

「鶏肉は?」


 籠には鶏肉が入っておらず、朝食用の菓子パンと昨日無くなったと言っていたドレッシング、それから夕飯に一緒に使うのであろう野菜がいくつか入っているだけだった。


「鶏肉は家にあった筈やし、大丈夫」


 何か要る物はあるか、と訊ねられ、妹も私も首を横に振る。


 買う予定だった物はもう全て籠に入っており、あとは会計を済ませるだけだったようだ。


 一緒に居ても他の利用客の邪魔になるだけなので、会計は母に任せて、私と妹はベンチで一人休憩していた父に合流する。


 母が会計を済まし、買った商品を袋に入れ、この人混みからさっさと退散する事となった。


 時間が経ってすっかり冷えてしまった車に乗り込み、車が駐車場から出た辺りで、私は意を決して母に告げる。


「ママ、アルバイトしようと思うんやけど」

「おっ、遂に?」


 母が大袈裟に驚いて見せた。


「うん。本屋さんでどっかええとこ無いかなぁって」

「ええやん。ここのでええんちゃうん?」

「いや、ここ遠いし。交通費勿体ないやん」


 戯けるように言う母に、思わずつっこむと、あはは、と母は声を出して笑う。


「それもそうやな。じゃあ学校の近くとかの方がええのか」

「そうやね」

「じゃあ帰ったらちょっと探してみよか」

「うん。お願い」


 ふぅ、と一息吐き、高校入試並みに緊張して高鳴っていた鼓動を落ち着ける。


 こうして緊張する事が、アルバイトを始めて仕事に慣れるまでにあと何度経験する事になるのか、想像するだけで先程の言葉を撤回して逃げ出してしまいたい衝動に駆られる。


 車が家に着くまでの間、私はただひたすらに、早く夜になれと願っていた。

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