第32話 11月8日

 玄関の扉を開け、二日分の食材と切れかかっていた洗剤などが入っている買い物袋を扉や足にぶつけながら中に入り、空いている方の手で鍵を閉める。重たい買い物袋を一旦廊下に置き、壁を支えにしてローファーを脱いで壁に沿って綺麗に揃えられている妹の靴の横に並べる。


「お姉ちゃんおかえりー」


 背後から軽い足音と共に妹の声が聞こえ、振り返る。


「ただいま」

「荷物持つで」

「重いから気ぃ付けや」

「うん」


 片手で持とうとしていた妹だったが、私の忠告を聞いて両手でしっかりと紐を握って持ち上げ、そのままリビングの方へ運んでくれた。その間に私は手洗いを済ませる。


 リビングの扉を開けると、どこか聞き馴染みのあるゲームの音が聞こえてくる。


 水曜日は私が早めに帰ってくる日だからか、妹が私と一緒にゲームをしようとリビングでゲームをしている事が多い。


 それはさておき先に荷物を片付けなければならない。


「ありがとう」

「めっちゃ重かった」

「洗剤とか、あと野菜も買ったしなぁ」


 お蔭で袋を持っていた指が圧迫されて赤くなってしまっているが、痛みがあるわけではないし、すぐに元に戻るだろう。


 袋の口を広げ、上に乗っていた朝食用の菓子パンを妹が回収して電子レンジの横にある籠に入れた。取り残されていた菓子パンを戻ってきた妹に渡し、洗剤を取り出して洗面所に置き、後袋に入っているのは食材だけの筈なので、袋を持って台所に移動する。


「はい。これ冷凍室」

「はぁい」


 私が袋から取り出して妹に手渡し、妹がそれを冷蔵庫に入れていく。


 はち切れんばかりに膨れていた袋の中身はあっという間に無くなった。


「ありがとうな」

「ううん。お姉ちゃん後でゲームしよ?」

「あー……先ちょっと宿題やってからで良い?」


 勉強は夜にやっているため、滅多に妹の誘いを断る事はしないのだが、今日は少々厄介な課題を渡されてしまっている。


 これも夜にやっても良いのだが、できれば勉強の時間は削りたくなかった。


「うん。別にええよ。時間掛かる?」

「どうやろ……分からん。こっちでやるけど、涼音はゲームやっててくれてええよ」

「了解」

「じゃあ先ちょっと着替えてくるわ」

「はぁい」


 鞄を回収し、階段を上って二階の自室で制服から楽な部屋着に着替え、スカートとブレザーは皺が付かないようハンガーに掛けておき、今日配られた課題とペンケース、脱いだ服、それから出し忘れていた弁当と水筒を何とか両手で持ち、慎重に階段を降りる。


 弁当と水筒は台所に置き、課題とペンケースは居間のテーブルに置き、服は洗面所の洗濯籠へ入れて戻ってくる。


「涼音もお茶飲むー?」

「飲むー」


 冷蔵庫からお茶を取り出し、二人分のコップと一緒にテーブルに置いて、妹の隣に腰を下ろした。


「宿題って何すんの? 英語?」

「ううん。今日ホームルームで進路学習っていうのをしたんやけど……まぁ、それの続きというか、そういうやつ」


 見てもらった方が早いだろうと口での説明は早々に諦め、配られた二枚のプリントをテーブルに広げて妹に見せる。


 妹はゲームを一時停止させてこちらに身体を寄せてくる。


「就きたい仕事……必要な資格……」

「そう。これ全部埋めて今週中に提出しなアカンねん」

「今週中やったら別に今日じゃなくてもええんちゃうん」

「こういうなんは先にやっておきたい派やから」

「でもすぐ終わりそうちゃう?」

「そうやと良いんやけどなぁ」


 テーブルに頬杖を突き、肺に溜め込んだ空気を鼻から吐き出した。


 そうもいかない事情が私にはある。妹ならきっとすらすらと書けるのかもしれないが、私には初めの問いである「就きたい仕事」ですら難問だ。


 就きたい仕事どころかやりたい事すら何も思い付かない。蒼依は音楽が好きで今でも吹奏楽部に所属していて、将来は音楽家として活動したいと言っていた。妹は絵の勉強をずっと続けていて、それで将来何になるかは知らないが、素人の私から見てもお金を払っても良いと思える程に上手で、SNSに投稿したイラストはそれなりに反応を貰えている。


 私にはそんな二人がとても羨ましくて、少し狡いとも思える。


「涼音は将来の夢とかあるぅ?」

「将来の夢?」

「そう。涼音は最近イラストがんばってるやろ? 例えばそれでめっちゃ有名になって今やってるようなゲームのイラストというか、原画みたいなのを描くとか。何かそういう仕事もあるらしいし」

「んー……できたら嬉しいやろうけど……」


 妹は僅かに首を傾げながらも画面の中にいるキャラクターを動かす指は止まらない。きっと私だったら考え事に気を取られて操作ミスをして、あっという間にゲームオーバーになってしまうだろう。


「今のところはこのまま絵の練習続けて、イラストレーターとかになれたら良いかなぁ」

「ふぅん」


 まだ小学生の妹ですらある程度将来の事を考えられているというのに、高校生の私は将来の事は何も浮かんでいない。


 何かやりたい事……やりたい事……、と頭の中で何度も唱えている内に、蒼依の事が頭に浮かんだ。


 私はできる事なら蒼依とずっと一緒に居たい。将来は一緒に暮らしたい。朝同じベッドで起きて、ご飯を一緒に食べて、休日はデートに行って、夕飯もまた一緒に食べて、お風呂はともかく夜寝る時も一緒に居られたら、それはそれは素晴らしい事のように思える。


 それを実現するにはやはりお金が必要だろう。一緒に暮らす家を買うにも、ご飯を食べるにも、デートをするのにも、お金が無ければならない。そしてそのお金を手に入れるためには働かなければならない。


 結局そこに戻ってくるのだが、蒼依と一緒に暮らす私が料理をしている姿が頭に浮かんだ。


 音楽家として活動する蒼依を直接何かサポートする事は難しいが、一緒に住んでいるとして、食べる物を通して健康管理をするのは良いかもしれない。


 確か栄養士という仕事があった筈だ、と私は携帯を開き、検索アプリに文字を打ち込む。実際にそういう仕事がある事を確認し、その勢いでプリントの空欄に「栄養士」と書き込んだ。


 これさえ決まってしまえば後はこの栄養士になるために必要な資格や大学などを調べて、残りの空欄を埋めるだけだ。これ以上無駄に悩まなくて済む。


 栄養士になるために必要な資格はそのまま栄養士の資格で、それを取得するためには栄養士の専門学校か短期大学、若しくは栄養士養成課程という物がある大学を卒業すればそれと同時に貰えるようだ。


 京都府にはその条件に当て嵌まる大学が私立は五つ、国公立は一つだった。


「偏差値六十二……」


 お金の事を考えると、やはり国公立の方が望ましいのだろうが、必死に勉強して漸く今の高校に入れたというのに、ここよりも更に偏差値の高い大学に入るなんて不可能のようにも思えた。


 現実逃避をするように空欄を埋めていく。


「お姉ちゃんできたー?」

「もうちょっと待って」


 一番時間が掛かったのは結局最初の「就きたい仕事」だけで、それが埋まってからはインターネットという素晴らしい物のお蔭であっという間に埋められた。


 最後の質問である「実現するためにできる事」という所には、真っ先に「勉強」と書く。


 栄養士の資格を取るためにはそもそも大学に入れなければその時点でアウトだ。なら大学に少しでも入れる可能性を上げるためにやるべき事は勉強だ。勉強ができていれば大学に入る事はできるだろう。そして私にできる事と言えば勉強くらいで、部活にも所属しておらず、アルバイトもしていない私には、時間だけはある。


「よし、おっけー」


 空欄を全て埋め、ペンをペンケースに投げ入れる。


「できたぁ?」

「いや、あともう一枚あるけど、休憩がてらゲームしようかなぁって思って」


 残った一枚には自分の性格や好きな物など、小学生の頃流行っていたプロフィール帳のような事を書かなければならないのだが、どうも私は自己分析という物が苦手なようで、特に長所なんて物はいつまで経っても書けなかった覚えがある。


「大丈夫なん?」

「涼音が手伝ってくれたら早よ終わるで?」

「それ手伝えるやつなん?」


 妹はゲームを一時停止させ、再びこちらに寄ってくる。


「やろうと思えばいけるんちゃう?」


 自己分析をしなければならないため、他人に手伝ってもらうのはあまり良い事とは言えないかもしれないが、この課題を終わらせられるのならもう何でも良いだろうと、疲弊して正常な判断力を失った私は妹の力を借りる事にした。


「じゃあ……私ってどんな性格?」

「めんどくさがり」


 言われた通りに書く。


「次、好きな物……は蒼依……と」

「ええの? それ」

「大丈夫やろ」


 確かに少々ふざけた答えではあるが、嘘では無い。


「はい、次私の長所は?」

「うーん……努力家?」

「なるほどね」


 あまり納得はできていないが、他人がそう言うのならそうなのだろうと、素直に書き込む。


「あと字ぃ綺麗よね」

「そう?」

「うん。好き」

「私は涼音みたいな丸いのも好きやけど」

「んー、お姉ちゃんのは大人っぽい」

「ありがとうなぁ」


 何だか言わせたようになってしまったが、その礼として妹の髪を優しく撫でて僅かに沸き上がってきていた罪悪感を打ち消す。


「じゃあ次、短所は?」

「んー……なんやろ」

「人見知りやな」


 妹が答えるよりも早く、私の頭に浮かんだ物を書いた。


「お姉ちゃんそんな人見知りしてたっけ」

「うん。めっちゃするで?」

「よく落とし物とか拾って届けてない?」

「それする時もめっちゃ緊張してるからな」

「そうなんや」

「涼音はそういうのあんまり無いよな」

「うん。あんまり無いかも。用事があったら普通に話しかければ良いだけやし」

「その普通が、というか何やろ……。話しかける最初の一言が難しくない?」

「別にそんなの何でもええやろ。知らない人ならちょっと良いですかー、とか、すみません、とか」

「何で五つも下の妹にこんな事教わってんねやろ……」


 自分でこの話のきっかけを作っておきながら勝手に落ち込む姉を見て妹はどう思っているのだろうか。昔はお姉ちゃんに憧れて髪を伸ばしているなんて嬉しい事も言ってくれていたが、最近はもう姉の威厳など無いに等しいため、もしかすると既に憧れなんて感情は消え失せているかもしれない。


 実際姉である私よりも妹の方が頭の出来が良いのだが、僅かに残った姉としてのプライドがそれを許さなかった結果、ダイエットにも成功し、そこそこ良い高校にも入学できた。私だってやればできるのだ。


「過去の経験とかはさすがにあれやし、手伝って貰えるのはこんなけかな?」


 長所と短所の横にそれに纏わるエピソードなんて物もあるが、それも妹に手伝ってもらえる物ではない。


「手伝う必要あった?」

「うんうん。めっちゃ助かった。長所とか一生書けへんかったし」


 後で蒼依にも訊いてみても良いかもしれないな、と思いつつペンを仕舞い、ペンケースを紙の上に置いて気分を入れ替える。


「よし、じゃあ大分時間掛かったけど、ゲームやるかぁ」

「もう六時になるけど」

「嘘やん」

「ほんま」


 本棚の横に掛けてある時計を見ると、確かに短針が六に重なっていた。


「どうする?」

「どうするって……もうご飯作ったりせなアカンのちゃうの?」

「うん」

「じゃあ今日はいいや」

「そう? ごめんな」

「ううん。また今度やろ」


 妹は平気そうに笑ってみせるが、落胆の色が滲み出ていた。


「うん。じゃあどうしよっかな。とりあえず洗濯物中入れるか」

「はぁい」


 気怠げに返事をした妹を連れて庭へ続くガラス扉を開け、私はサンダルを履いて庭に出る。どうせ全部中に入れるのだが、念の為しっかりと乾いているかを確認し、回収した洗濯物を部屋の中で待機している妹に手渡すと、妹はそれを居間のソファに置いて山を作る。


 それを何度か繰り返し、全ての洗濯物を部屋の中に入れ、今度はそれを一つ一つ丁寧に手分けをして畳んでいく。


 そうしている間に玄関の方から物音が聞こえてきた。鍵を閉める音、鈍い足音、ガチャガチャと金属のぶつかり合う音。それらを聞いた私たちはすぐにこの荒々しい物音の主が父であると気付いた。


「ただいまー」


 妙に上機嫌にリビングに姿を現したのは、やはり父だった。


「おかえり」


 妹と声を揃えて父を迎える。


「あれ、ママはまだ?」

「うん」


 私が返事をした瞬間、再び玄関の扉が開く音が聞こえた。


「言うてたら帰ってきたな」


 先程よりも少し軽い足音が近付いてくる。


「ただいまー」

「おかえり」


 今度は父の声も重なった。


「今日はパパの方が早かったか」

「帰ってきたんはついさっきやで」

「あぁ、そうなん? 二人とも洗濯物ありがとうな」


 母がソファーの横に鞄を置き、随分と低くなった洗濯物の山を見て言った。


「うん。ご飯はまだ何も手ぇ付けてへんわ」

「まぁまだ六時過ぎたばっかりやし大丈夫やで」


 二人が荷物を片付けている間に洗濯物を畳み、バスタオルとパジャマは洗面所に運び、私の制服のシャツや下着などを纏めた物は先に自室へ持って上がる。


 洗濯物を片付けて下に降り、母と妹と一緒に料理をする。


 毎回母と妹が手伝ってくれているが、作業効率で言うと、居ない方が恐らく早い。いくら作業する手の数が多くても、作業するための場所が無ければただ邪魔なだけだ。包丁の扱いに慣れてきた妹が食材を切り、母がコンロの前に立ってフライパンや鍋を見ていると、私のやる事が無くなってしまう。


 本来夕飯を任された私がもっとやるべきだとは思うのだが、善意でやってくれている母に邪魔と言う訳にもいかないし、将来の為に多少はできるようになっておいた方が良い為、妹が楽しんで手伝ってくれているのを邪魔する訳にもいかない。


 なら私が要らないのではないかとも思うが、食材を買うところから任されているという事もあり、この場を離れる訳にはいかないし、それらをわざわざ口にしようとも思わない。


 結局今日も三人で手分けをして夕飯を作り、出来上がった物を食卓に並べ、父を呼んで四人で食べる。


 食べ終わったらいつも通り妹が風呂に向かう。私は今日は部屋には戻らず、妹が風呂から上がるまでの間に課題を終えてしまおうと座椅子に腰を下ろして、夕方の続きをする。


「あれ、珍しいな。宿題?」


 トイレに行っていた母が後ろから訊ねてくる。


「うん」

「こっちは終わったやつ?」


 母が夕方に終わらせた方のプリントを手に取った。


 見られるのは少々恥ずかしいが、私の将来は母に全く関係が無いという訳でもない。何か意見が貰えるのなら貰っておいて損は無いだろう。


「栄養士になんの?」

「あぁ、うん。分からんけど」


 曖昧に頷いた。


 なると決めた訳ではないが、他にしたい事も無いので、もしかするとそのまま栄養士の道に進む事になるかもしれない。


「まぁ、紅音は料理もできるし、ええんちゃう?」


 それを聞いて私は密かに胸を撫で下ろしつつ、目の前の問題に取り掛かる。


 印象に残っている出来事、と聞いてまず思い浮かぶのは蒼依に告白された時の事だ。それから蒼依とプールに行った日を台無しにしてしまった事、浩二に告白された時の事が思い浮かんだが、それをここに書くのはあまり褒められた事ではないだろう。


 恐らくだが、ここに書くのは将来就きたい仕事に関連する事か何かだ。とは言え志したきっかけも何も、栄養士が良いかもしれない、と思ったのはついさっきの事だ。ここに書けるような事ではない。


 なら料理をするきっかけでも書こうかとも思ったが、それも特別印象に残っている出来事ではない。


 テレビから聞こえてくる笑い声を掻き消すように唸りながら考え、浮かんできたのは中学生の時に陰口を言われていた時の事だった。


 授業中に寝てしまわないよう休み時間の間に仮眠を取ろうと机に突っ伏していると、どこかから男子のひそひそ声が聞こえてきた。その内容は明らかに太っている私の見た目を揶揄した物で、眠気なんて吹き飛び、怒る事も無くただ泣きそうになっていたのをよく覚えている。


 嫌な事というのは何故かどんな楽しかった記憶よりもはっきりと覚えている物だ。先生や親に勘違いで怒られた事。通りすがりに容姿を悪く言われた事。自らの失敗を他人に見られ、嗤われた事。人に騙された事。その中でも特に許せていない事はより鮮明に思い出される。


 溜め息を吐き、いつまで経っても埋める事のできない空欄を睨み付ける。


 そして結局何も進まないまま妹が風呂から上がってくる。


「どうぞー」

「はぁい」


 プリントを二つ折りにしてテーブルの端に置き、ペンケースを錘としてその上に置いて風呂に向かう。


 服を脱ぎ、洗濯機の前に置いてある籠に脱いだ服を投げ入れ、タオルを持って浴室に入る。


 そうしている間にも私の頭の中は印象に残っている出来事は何かとずっと考え続けていた。


 かけ湯をして湯船に浸かり、膝を曲げて肩までお湯に浸かる。汗が滲み、髪先から滴り落ちてきた辺りで湯船から出て身体を洗う。髪から丁寧に洗い、マッサージも忘れずに行う。


 ルーティーンのように歯磨きまで済ませ、プリントとペンケースを回収して自室に戻る。


 時間にして一時間と少し。考えは全く纏まっていなかった。


 もう無回答で提出してしまおうかという考えが浮かんでくる。


 もちろんそんな事はしないつもりだが、自己分析というテーマに沿わない解答がどうしても出てこなかったその時は、もしかしたら何も書かずに提出する事になるかもしれない。きっと提出しないよりも、一部無回答だとしても提出した方が良い筈だ。


 昨日から置きっぱなしにしていたコップに二リットルのペットボトルから水を注ぎ、一口飲む。それからスキンケアを軽くして、いつも通り勉強をしようとノートを取り出すが、いまいち気分が乗らない。


 きっと昔の嫌な事を思い出したからだろう。


 無性に蒼依の声が聞きたかった。


 きっともう少ししたら蒼依の方から電話が掛かってくるだろうが、それを待っていると、それまでの間何も手に付かないような気がした。


 メッセージアプリを開き、蒼依とのやり取りを見返す。


 殆どが通話をしたという通知で埋まっていて、それ以外はちょっとした確認や連絡、たまに私が暇な時に送った鬱陶しいメッセージばかり。普段一緒に行動している所為で、メッセージでやり取りをする機会が少ないのだ。


 何となくの思い付きでカメラアプリを起動する。内カメラにして、浅い知識で影にならないような場所を探して斜め上に携帯を構え、ボタンを押した。


 あまり可愛いとは思えないが、私の技術ではこれ以上どうにもならないだろうと妥協し、撮った写真を蒼依に送る。それに満足して一度は携帯を置いてノートを広げたものの、どんな反応をされるのかが気になってしまい、通知が来ていないのが分かっていながら何度も携帯を見る。


 こんな事ならもう一枚撮って送ろうか。そう思い始めた時、携帯が鳴った。


「蒼依ー」

『やっほー。どうしたの?』


 蒼依の艶のある低い声が聞こえ、自然と頬が上がる。


「ううん。何でも無い」

『そう? 今大丈夫だった?』

「うん。何ならずっと待ってた」

『ごめん。さっきお風呂上がったばかりだから」


 冗談のつもりだったが、蒼依が謝ってしまい、慌てて否定する。


「あぁ、ううん。大丈夫。私が勝手に待ってただけやから、その辺は全然ゆっくりしてくれてもええんやけど」


 帰ってくるのが早い私が蒼依よりも早く支度を終えるのは当然の事だ。


『紅音ってあれはもうやった?』

「あれ?」

『進路学習のやつ』

「あーうん。ちょっとだけ。まだ全部はやってないけど」


 エピソードを書く物以外は、少々回答欄に比べて文字が少なく空白が目立つが、とりあえず埋めてはいる。


『あ、じゃあそれやろう』

「おっけー」


 あまり気乗りはしないが、蒼依がやると言っているのだから、どうせなら一緒にやろうと、ノートを閉じてプリントを開いた。


『紅音は将来何するの?』

「私?」

『うん。前はまだ悩んでるって言ってたけど、何か決めた?』

「あー、栄養士でも目指そうかなぁって」

『栄養士って給食とかの献立決める人?』

「そうなん?」

『いや、分かんない。私のイメージはそうってだけだけど』


 通話画面から切り替え、インターネットで検索してみると、栄養士の仕事内容を纏めてくれているサイトを見つけた。


「えっと、病院とか……あ、学校も書いてるわ」

『やっぱりそうだよね』

「介護施設とか、自衛隊とかもあるらしいわ」


 下に画面をスライドしていくと、それぞれの施設で働いている栄養士の大雑把な仕事内容が書かれていた。


『へぇ。自衛隊にも食堂とかってあるのかな?』

「どうなんやろ」


 深く調べるのは後にして、携帯を置く。


「蒼依はやっぱり音楽家?」

『うん。今のところはね』

「他に何かやりたい事あんの?」

『強いて言うならカフェで働いてみたいけど、それはアルバイトでいいし……』

「無いんか」

『うん。別に無いかも。紅音は栄養士以外だったら何したい?』

「……蒼依のお世話係」

『いいじゃん。紅音の料理食べたい』


 冗談半分だったのだが、思いの外好感触で言葉に迷う。


「任せて。美味しいのいっぱい作るから」

『太りたくないから程々にね』


 会話が途切れ、自分の手を全く動かしていなかった事に気付いてやる気のある姿勢をしてみるが、相変わらず手は進まない。


 一旦この最難関の質問を考えるのを辞め、長所に纏わるエピソードという物を考える。


 私の長所は妹曰く努力家らしい。


 自ら私は努力家です、というのはあまりにも厚かましいように思えるが、中学生になってからの私は自分でも努力したとそれなりに胸を張って言えるような気はする。


 見た目の事は言う必要は無いだろうから、書くとすれば勉強の事だろう。小学生の頃から満点など滅多に見た事が無く、中学生になってからは六十点を取れたらがんばったと言えるような成績だった。


 それから満点に近い点数を取れるようになるまで必死に勉強をしたのだが、どうしてあれ程がんばっていたのか、記憶喪失になったかのように、そこの記憶だけが失われていた。


「あれ? 何でやったっけ……?」

『どうしたの?』

「いや、何でこんな勉強がんばり始めたんやっけ……? と思って」

『知らない。どうして?』

「あれぇ?」


 暫く考えてみるものの、それらしい理由は見当たらない。


「まぁいっか」


 努力できるという事が分かるエピソードが書ければそれで良い。そこに理由を書いていなくとも誰も気にしないだろう。


「おっけー。次」

『紅音は今どこのやつやってるの?』

「えっと、多分蒼依が今やってない方のやつかな。短所に纏わるエピソードってやつ」

『あぁ、あった。これか』

「因みに私の短所って何やと思う?」

『んー……短所でしょ?』

「うん」


 蒼依の答えを待つ間、手に持ったペンを人差し指で叩いて揺らす。


『別にネガティブ思考って訳でもないもんね。すごいポジティブな時あるし』

「多分それただ投げ遣りになってるだけやと思う」

『まぁでも短所って訳じゃないでしょ。引っ込み思案というか、慎重派みたいな』

「良く言えばな」


 また少しの間沈黙が生まれ、あっ、と蒼依が声を上げた。


『あれだ。神経質』

「神経質って?」

『えっと……簡単に言うと、完璧主義で繊細な人……かな』

「えぇ……? そんな私完璧主義かぁ?」


 完璧なんて私とは対極に存在している物のように思えるが、蒼依からはそうは見えないらしい。


『だって、紅音って自分が決めた計画が崩れると許せないでしょ?』

「いや? うーん……どうやろ」

『どう言ったらいいかな……。こう……例えばテストだと、満点を取らないと駄目って訳じゃないんだけど、普段ならできてた問題を間違ったりとか、予想外の失敗、英語のスペルミスとかすると、紅音ってすごい不機嫌になるでしょ?』

「あー……そうかも……?」


 具体的な例を示されて何となく私にも当て嵌まるような気がしたが、星占いなどで使われるバーナム効果のような物にも思えた。


『うん。多分紅音は神経質なんだと思う』

「そっか。まぁでもそれよりは人見知りやな」


 蒼依の課題を邪魔してまで訊いておいて申し訳ないが、自分では神経質には思えない上に、それに纏わるエピソードというのが書けそうになかった。それよりは元々自分で書いていた人見知りに纏わるエピソードの方が書きやすい。何ならすぐにそういう話を記憶から引っ張ってこられる。


 すらすらと文字を書き、いよいよ最後の質問だ。


 印象に残っている出来事なんて、一体何を書けと言っているのか。これのどこが進路学習や自己分析に繋がるのかまるで分からない。


「蒼依ー。印象に残ってる出来事って何かあるー?」

『えぇ……? コンクールで金賞獲った事とか?』

「あぁ、そうやわ。蒼依にはそれがあったわ」


 全く参考にできなさそうな蒼依の答えは聞かなかった事にして、記憶の引き出しを片っ端から開けていく。


 私にも吹奏楽コンクールの思い出はあるが、栄養士には全く関係が無い。強引に繋げようと思えばできなくもないが、それはあまりに屁理屈が過ぎる。


「関係無くてもええかなぁ」

『別に良いんじゃない?』


 何の権限も持たない蒼依から許可を得て、私はダイエットの事を書く事にした。


 ダイエットと栄養士は関係ありそうだが、私のしたダイエットに食事関連の物は無い。確かに少しお菓子などは控えたが、やったと言ってもその程度で、後は筋トレやランニングというある種の力業だ。


「とりあえず書けたしええかな」

『もう終わったん?』

「うん。元々一枚目は終わってたし」

『そっか。じゃあ先他のやってて』


 返事をしようとして、何故か蒼依から電話が掛かってくる直前にしていた事を思い出した。


「あ、その前にさぁ。写真見てくれた?」


 訊ねると、蒼依が深く呼吸をする息遣いが聞こえた。


『……見たよ』


 聞こえてきた声はいつもより低い物だったが、怒っているようには聞こえない。


「何か感想とか無いの?」

『可愛いけど、あんまり良くないと思う』

「可愛いならええやん」

『紅音がどうかは知らないけど、私は結構我慢してるからね?』

「あぁ、そういう事?」


 蒼依が言いたい事を察した瞬間、顔が仄かに熱くなる。


『明日覚悟してて』

「分かった。楽しみにしてる」


 半分強がりで、半分が本心だ。


『他の人に絶対送ったら駄目だから』

「言われんでも送らへんわあんなん」

『分かってるなら良いけど』

「大好きやで」

『もう……。集中できないから黙ってて』

「はぁい」


 笑い声が入らないように顔を背け、口元を手で覆ってくすくすと笑う。


 苦手な課題を終わらせて晴れ晴れとした気分になっていた私は上機嫌で明日の用意をする。それが終われば授業の予習をする。


 課題に時間を掛け過ぎてしまったため、もうすぐ寝る予定の時間になってしまうが、それまでに英語と古文くらいはやってしまいたかった。


 嫌な事が過ぎ去った後の集中力というのは素晴らしい物で、私は蒼依に十二時になるけど大丈夫かと確認されるまでそれに気付かず、慌ててテーブルの上を片付け、電気を消して布団に潜り込んだ。


『じゃあおやすみ』

「おやすみ。めっちゃ目ぇ冴えてるけどな」

『どうせすぐ寝られるでしょ』

「まぁね」


 そう言った傍から大きな欠伸をして、携帯から蒼依の笑い声が聞こえてくる。


『おやすみ』

「うん。おやすみ」


 夜更かしをして話すような事もせず、静かに目を瞑っていると、気付かぬうちに私の意識は夢の中へ消えていった。

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