第31話 11月5日

 無数の小さな水の粒がアスファルトの地面に落ちるよりも先に白い傘にぶつかり、私の頭上でポツポツと低い音を鳴らす。


 もう既に正午は過ぎているが、今朝から太陽が隠れてしまっている所為で、肌に触れる空気がいつも以上に冷たいように感じた。


 普段駅に向かうために曲がる交差点を真っ直ぐ進み、大通りから一つ逸れた道にある綺麗な洋風の家が建ち並ぶ住宅街に入る。


 この辺りを歩くのは中学生以来の事で、まだ半年程度しか経っていないが、随分と久しぶりのように感じる。


 見ていなかった半年の間に、いくつか見覚えのない新しい家もあり、どこも既に人が住んでいるらしく、微妙に手入れされていない植木鉢や雨に晒され続ける子ども用自転車などが置かれていた。


 十数年済んでいる土地をきょろきょろと視線を動かしながら歩く事十五分。目的の家に辿り着いた。


 ゆっくりと深呼吸を一つして、「妹尾」と書かれたネームプレートの下にある呼び鈴のボタンを押すと、何の変哲も無いよくあるメロディーが流れる。その数秒後、ガチャン、と玄関の方から音が聞こえ、チョコレートのような扉が開き、そこから満面の笑みを浮かべた知香が肩口まで伸びた髪を揺らして顔を覗かせた。


 手招きをされ、遠慮がちに敷地内に足を踏み入れる。


「おひさ~」


 黒のスキニーパンツに瑠璃色のパーカ、随分と暖かそうな服装をして、妙にハイテンションな知香に迎えられる。


「久しぶり」

「うんうん。雨ん中大変やったやろ」

「そんなに振ってへんかったし、大丈夫」


 傘はそこね、と指差された傘立てに濡れた傘を挿し、家に入れてもらう。扉を閉めると、雨のノイズはすっかり聞こえなくなった。


「お邪魔します」

「あ、いらっしゃい」


 廊下の奥、リビングから現れたのは知香の母だった。


「久しぶりやねぇ。ゆっくりしてってや」

「はい……ありがとうございます」


 普段の自分をよく知る人と居る時に礼儀正しくしようとすると、どうも気恥ずかしくなり、思ったように声が出なくなる。ただの人見知りだと言われれば完全に否定しきる事ができない。


 幼い頃からずっと変わらない、仲の良い人と一緒に居るとその他の人とのコミュニケーションが上手くできなくなるという条件付きの人見知りだ。


 軽く頭を下げ、逃げるように知香の後を追って階段を上り、知香の私室に入ると、独特だがどこか安心感を覚えるような甘い香りが漂ってくる。


 部屋の内装はざっと見渡す限りでは記憶にある物と殆ど変わらない、白とピンクで彩られた可愛らしい部屋だ。


「どうぞー」


 知香に誘導され、私は遠慮無く自分の定位置になっていたベッドに腰掛け、肩に提げていたお出かけ用の鞄を乳白色の柔らかいカーペットの上に置く。


 部屋の扉を閉めた知香が勢いよく私の隣に腰掛けると、あっ、と何かを思い出したかのような声を上げた。


「何か飲み物いる? いるやんなぁ。でも座っちゃったしなぁ」

「因みに私は飲み物持って来てへんで」

「はぁ、しゃあないなぁ」

「行ってらっしゃい」


 腰から何か錘でも下げているかのようにゆっくりと立ち上がり、待ってて、と一言を残して部屋を出て行った。


 私はそれを見送った後、持って来た鞄を膝の上に抱え、中から知香と一緒に食べるために持って来たお菓子を取り出し、分かりやすく机の上に並べておく。


 木の枝を模したお菓子に、よくどちらが好きかと争われているタケノコの形をしたお菓子、それから金塊のような形のお菓子が十二個入っている物と細長い棒状のお菓子。どれも知香が好きなチョコレートのお菓子だ。確実に知香に喜んで貰える物を、と定番の物ばかり買ってきたが、一つくらい変わり種を買っても良かったかもしれない。


 そんな小さな後悔をしていると、「開けてー」と扉の向こう側から知香の声が聞こえてきた。


 ほんの一瞬、どうしたのだろうかと考え、すぐに手が塞がっていて扉が開けられないのだろうという予想が付いた。


 鞄を床に置き、立ち上がって扉の前まで行くと、このまま開けなかったらどうするのだろうという良からぬ考えが浮かび、扉を開けようと伸ばした手を止める。


「紅音ー? 聞こえてるー?」


 妙に時間が掛かっている事に疑問を持った知香のくぐもった声が聞こえてくる。


「……」


 黙ったまま気配を消していると、不意にドアハンドルが勢いよく下がり、またすぐに元の位置に戻った。その直後に扉の向こうからバタバタと不規則な足音が聞こえた。


 もしや何かトラブルでもあったのかと思い、慌ててドアハンドルに手を掛け、扉を開ける。


「あ、やっと開いた」


 そう言った知香の両手はやはりお茶を入れた容器とガラスのコップを乗せたトレイで塞がっていた。


「大丈夫?」

「あぁ、ごめん。手ぇ塞がってたからこう……足で何とか開けようと思ってんけど、無理やったわ。もうちょっとで行けそうやったけどな」

「あぁ、それで暴れてたんや」


 知香がそうした理由が自分にあるという事からは目を背け、知香からトレイを受け取り、それを机に置いた。


「紅音はさっき何してたん……って何これ! 買ってきてくれたん?」

「うん。誕生日おめでとうって事で」


 再びベッドに腰を下ろし、コップにお茶を注ぐ。


「そこはもうちょっと何か盛り上げる感じでやってや」

「おめでとー。ぱちぱちぱちぱちー」

「……彼女さんと居る時もそのテンションなん?」


 応えようと思えば応えられる知香からの要求を雑に流そうとしていると、知香から少し胸に刺さる言葉が飛んできた。


「いや、うん。まぁ、普通よりは高めやとは思うんやけど……」

「私の予想では段々素が出てきてテンションが下がってると見た」

「よくお分かりで」


 それは自分でも何となく気付いていた事だった。初めこそ印象良く思って貰おうとできる限り明るく、積極的に話すように心掛けていたが、徐々にそれがめんどうに思えてきて、最近は話していると気力が吸い取られると言われていた中学生の頃の自分に戻りかけてきている。


「まぁ、そんなけ気を許してるって事なんやろうな」

「良く言えばそうやな。多分」


 口の中が乾燥しているような気がして、お茶を一口飲むと、知香も真似をするようにお茶を飲んで一息吐く。


「実際どうなん? 上手くいってんの?」

「んー……多分?」

「え、もうえっちした?」


 一瞬、思考が停止し、知香がこういう人間だという事をすっかり忘れていた自分と、以前と何も変わらない彼女に呆れ、口の開いた風船のように肺に溜まった空気を鼻から吐き出した。


「……なぁ、自分の誕生日にする話がそれでええの? しかも来て早々に」

「私の誕生日なんやからたまにはこういう話にも付き合ってぇや。恋愛マスターの里菜は誕生日の友人を放ったらかして今日も彼氏といちゃいちゃしてるらしいし」

「まぁ、彼氏大好きな子やしなぁ」


 私の知っている限りでは中学生の頃から今まで一度も喧嘩をしたなんて話も無く、彼氏のために髪を切ったとか、料理の練習を始めたとか、彼氏のためなら何でもがんばれるのが井上里菜という人間だ。何となく私と似ているなんて事を本人は言っていたが、どこがどう似ているのかは分からない。


「ずっとラブラブしとるもんなぁ」


 今度は知香が溜め息を吐いた。


 きっと羨ましいのだろうな、とその横顔を見つめる。


 知香は中学の頃から何度か誰かと付き合って、別れて、というのを繰り返していた。それは決して知香の性格に問題があるというわけではなく、ただ相手との相性が悪かったようで、長くても半年程しか続かなかった。


 そんな知香には中学生の頃から変わらず仲良くしている里菜たちが相当羨ましいらしい。


 このまま里菜を身代わりにして話を逸らしていこうとしたが、「それはまぁいいとして」と知香が話を戻す。


「紅音はどうなん? どこまで行ってんの?」


 目を輝かせている知香を見て、私は諦め半分に答える。


「もう……。してへんわそんなん」

「えっちしてないって事?」

「うん」


 恥ずかしがる事など何も無い。ただ事実を答えればいいだけだ。


「キスは?」

「した」

「なるほどね。大事にされてるんや」


 うんうん、と知香が頷く。


「ところでさ、女同士で付き合うのって実際どうなん?」

「どうって?」

「何か不便とかないんかなぁって」

「不便ねぇ……」


 首を傾げ、視線を床に落とす。


 男性だったらできていた事、同性であるが故にできない事。蒼依との思い出を軽く断片的に思い返してみるが、特にこれと言って困った事は無かった。


 この先の事を考えれば、子どもができなかったり、結婚ができなかったりという個人の力ではどうしようもない事は出てくるが、そんな事は知香も分かりきっているだろうし、何より知香が訊きたいのはそんな先の話ではないだろう。


 思考が関係の無い所へ散らかり始める前に、何とか一つの答えを絞り出す。


「強いて言えば周りに言い辛いってくらいちゃう?」

「私らには普通に言うてきたやん」

「まぁ、あんたらやったら別に気持ち悪がったりせぇへんやろうなぁと思って」

「それはまぁ、確かに」

「そもそも二人ともそれなりにそういう方面に理解ある方やん」


 ちらりと窓の下にある小さな棚に目を向ける。そこには少女漫画の他に、女性同士の恋愛模様を描いた、所謂百合と呼ばれるジャンルの漫画がいくつか置いてあった。里菜の家にはそれに加えて男性同士の恋愛モノも置いてあった覚えがあった。


「まぁな。実際に自分がっていうのはちょっと想像し辛いとこはあるけど、見る分には全然平気やし、何なら紅音ってもしかしたら……みたいな話もしてたし」


 自分の知らない話が出てきて、無意識に眉を顰める。


「何それ。私が同性愛者かもって事?」

「そうそう。だって男性の好みとか全然教えてくれへんやん」

「無いもんは答えられへんやろ」

「じゃあ今やったら答えてくれる?」

「んー……」


 当然の流れに、私は再び床に視線を落として考え込む。


 いつもなら以前のように「無い」とか「分からん」と答えてお終いだったが、今は何となく答えようという気になっていた。


 しかし問題は今まで男性の好みについて殆ど考えた事が無いという事だ。蒼依の恋人になってから、正確には浩二に告白をされてからは他人の事を意識して観察するようになったが、それでも自分の好みという物はよく分かっていない。


 好みの男性像と聞いて真っ先に思い浮かぶのは浩二だ。それは単にここ最近で一番接点があったのが浩二というだけで、好みかと言われれば微妙な所だ。浩二の事も好意的に思ってはいるものの、身長が高いからとか、筋肉質だからとか、そんな理由ではない。


 ふと、蒼依の好きな所はどこなのかが気になった。


 蒼依の姿を頭に思い浮かべる。肩口まで伸びる癖毛に、一見人を睨んでいるようにも見える吊り上がった目。適度に焼けた健康的な肌。本人は少し不満に思っているらしいが、男性に負けず劣らずの高い身長と、女性らしい胸の盛り上がりや腰の括れ。モデルをやっていると言われても納得できるくらいにはスタイルが良い。同じ女性の私からしても十二分に魅力的な物をたくさん持っている。隣に並んで歩くのが気が引けてしまうくらいだ。


 しかしそれらのどこが好きかと問われると、答えられない。


「そんな難しく考えんでもええで?」


 知香が助言らしい物をくれるが、難しく考えているつもりはこれっぽっちも無い。


 それからまた暫く考え、思考が明後日の方向へ進み出した頃、場繋ぎとしての答えを口にする。


「優しい人?」

「そんなけ悩んでそれ? いや、別に良いんやけど……」


 悩みに悩んだ答えだが、知香は納得できなかったらしい。


 仕方無く別の答えを提示する。


「じゃあ……寛大な人」


 そうすると、知香が首を傾げ、眉間に皺を寄せた。


「……一緒ちゃう? それ」

「いや、うーん……そうかも?」

「寛大な人ってこう……何でも許してくれる人って事やろ?」


 知香が円を描くジェスチャーをするが、恐らく何の意味も無い。


「まぁ、すぐ怒らない人やな」

「殆ど優しい人と一緒ちゃう?」

「かもしれん」


 そう答えてから、お茶を一口飲んで口を潤す。


 会話が途切れたついでに携帯の電源を入れ、蒼依とのメッセージ画面を開く。今日家を出る前に送った『頑張ってね』という短いメッセージに返事は来ていないようだが、そのメッセージの横に既読の文字が付いていた。


 それを確認し、携帯の電源を落としてテーブルの上に置く。それと同時に「ねぇ」と知香が声を掛けてくる。


「そういえば今日うちに来るっていうの彼女さんにちゃんと伝えてる?」

「いや? 何で?」


 自分で持って来ていたお菓子の中から小さい袋で小分けにされた物を一つ手に取る。


「多分そういうなん伝えといた方がええで」

「何で?」


 袋を破り、木の枝を模したチョコレートを一本取り出して口に入れる。


 それを見ていた知香も私が食べている物と同じ物を手に取り、ひらひらと振って中身を片側に寄せる。


「だって考えてみ? もし彼女さんが紅音に黙って中学時代の友達の家に二人きりになってたらどうする?」


 蒼依が中学時代の友人に会いに行くのは、少なくとも日帰りでは相当厳しい物があると思うのだが、それは今は考えない事にして、知香の言うシチュエーションを想像する。


 しかし何が問題なのかが全く分からなかった。


 あまり深く考えず、口の中の物を飲み込み、答える。


「別に友達と遊ぶくらい良いんちゃうの?」

「いやいや、彼女さんが紅音の知らん仲良い人と二人きりで家に居るんやで?」


 同じような事を再度言われ、漸く理解する。


「あぁ、そういう事?」

「分かった?」

「うん。嫉妬するんちゃうかって事やろ?」


 また一本取り出し、小動物のように先端から囓る。


「そう! 良かった。その発想には至れるんやな」

「私の事何やと思ってんねん」

「ほんこふ」


 知香が枝を加えたまま喋った所為で曖昧な発音になっていたが、「ポンコツ」という言葉が私の頭の中ではっきりと復元された。


「純粋な悪口やめろや」

「というか遊びに行く予定くらい言っといた方がええと思うで? 私やったらちょっと嫌やし」

「まぁ……、そうか」


 今日だって蒼依は部活に行っていて、そこでは私の知らない人たちと仲良くやっているだろう。吹奏楽部内で唯一の知り合いであり、私たちの関係を知っている美波が蒼依と一緒に居るのだとしても、それはそれで腹立たしい。


 美波と蒼依が名前で呼び合う関係だとしても、それはただの友人。もし親友と呼べるような関係だったとしても、恋人なのは私だ。私の方が優先されるべきであり、一番に頼られるのも私であって欲しい。


 もちろんそれで蒼依の行動を縛り付けるような事をしてしまってはならないという事は理解しているつもりだ。この醜い感情を蒼依に打ち明けて、それで蒼依が悩むような事があってはならない。


「とりあえずメッセージ送っといたら?」


 知香がテーブルに置いてある私の携帯を指差して言う。


「いや、でも今送ったら隠し事してたみたいにならん?」

「隠し事は今正にしてるやん」

「いや、それはそうなんやけど……」

「ま、私はどっちでもええけどな」

「そら知香は関係無いしな」


 とりあえず携帯を手に取ってはみたが、やはりメッセージを送ろうという気にはならず、真っ暗なままの画面を見つめる。


 今送るか、夜話す時に伝えるか。少なくともこのまま黙っておくという選択肢は私の中には無い。


 今メッセージで知香の家に遊びに来ている事を伝えても良いのだが、何となく気が進まない。疚しい事など何も無い。隠し事という訳でもない。ただ事実を告げるだけで良い。しかしそれを今メッセージで伝えるのは何かが違うような気がした。その理由を考えてはみるものの、その答えは一向に見つけられなかった。


「もう送ったん?」

「ううん。夜電話する時にでも言おうかなって」

「あぁ、それでもええんちゃう?」

「やっぱこういうのは文字より言葉の方がええやろうしな」

「うんうん。ええなぁ、ほんま。二人とも羨ましいわ」

「知香も早よええ人見つけられるとええな」

「紹介してくれてもええんやで?」


 そう言われて、浩二の姿が浮かぶが、他人に想いを寄せていると分かっている人を紹介するのはあまりに酷なような気がした。


「あー……今は居らんかなぁ……」


 もし紹介する事があるとすれば、浩二に同じ事を言われた時だろう。その時に知香がまだ恋人を募集していたなら、浩二に知香という少々不憫な素晴らしい友人を紹介すればいい。


「何その意味深な感じ。もしかして良さげな人居る?」

「いや、居るには居るけど、その人好きな人がいる……と思うし」


 浩二が私の事をまだ好きで居てくれている前提で話したが、よく考えてみると、既に心変わりしている可能性は充分にある。


「ていうかそんな他人からの紹介で彼氏とか決めてええの?」

「うん。だってそんなん学校でよう知らん人に告白されて付き合い始めんのと大して変わらんやろ? 合コンとかよりはええやろ」

「確かに」

「なんなら紅音の信頼を得ている人を紹介して貰えるならある程度のラインはクリアしてる人って事なんやから、ちょっとお得やん?」

「なるほどね」

「で、紹介はしてくれんの?」

「んー……無理かなぁ。バイト先に誰か良い人居らんの?」

「めっちゃ気ぃ遣ってくれる人居るで。仕事もできるし、教え方も丁寧やし」

「でも彼女持ち?」

「せいかーい」


 そう言いながら知香はベッドに上半身を投げ出した。


「そっか……」

「紅音が私と付き合ってくれたり……?」

「知香の事は好きやけど……、ごめんなぁ」

「ですよねぇ。あーあ、食べよ食べよ。自棄食いしなやってられへんわ」


 頂戴、と寝転がったまま手を差し伸べてくるので、私はその手を引っ張って知香を起き上がらせる。


「知香のために買ってきたやつやし好きなだけ食べて」


 ここに来てからまだ一種類にしか手を付けておらず、その一つすら食べきっていない。時間もまだ漸くおやつ時。お菓子を食べるには丁度良い時間になったばかりだ。


「これで太ったら紅音の所為やし」

「理不尽」


 知香がベッドから擦り落ちるように床に腰を下ろし、私もその隣に座り、既に開いているお菓子を手に取る。


 知香が里菜に自慢しようとお菓子を並べたテーブルと二人の手を写真に撮り、祝福の言葉を催促するついでに写真を里菜に送りつけると、その十数分後、里菜から彼氏との幸せそうなツーショットが送られてきて知香が多大なダメージを負う羽目になった。


 そんな事もしながらお菓子を食べ、最近気になっているお店やネットで見つけた物などの話をして盛り上がる。そうしているうちに時間はあっという間に過ぎ、窓の外は真っ暗になっていた。


 また私と里菜の誕生日を祝う時に集まろうという約束をし、最後まで笑顔を浮かべていた知香に手を振り、私は家に帰った。


 夕飯や風呂などを済ませ、いつものようにテーブルに向かって勉強をしながら蒼依からの電話を待つ。


 英語の予習を終え、小休憩に伸びをしていると、視界の隅に置いていた携帯の画面が光り、着信を報せる。この時間に掛かってくる電話の相手は一人しか居ない。


 携帯を手に取り、通話を許可してスピーカーモードにする。


「はいはーい」

『今大丈夫だった?』


 その時のノリとテンションだけで発した言葉に、蒼依はいつもと同じ言葉を返してくる。


「うん。お疲れ様」

『ありがと』


 いつもと変わらぬ流れで通話を始め、すぐに勉強に取り掛かる。


 それから凡そ一時間。先に集中を切らしたのは私だった。


 ずっと曲げていた膝に痛みを感じ、それを真っ直ぐに伸ばしたついでに伸びをすると、思わず声を漏らしてしまった。まずい、と思った瞬間に、蒼依の声が聞こえてくる。


『疲れた?』

「うん。ちょっと」

『じゃあ私も休憩しようかな』


 携帯を手に取り、壁に掛けてある時計を見ると、針はもうすぐ十一時を示そうとしていた。


 もうこのまま寝てしまおうかと、私は眼鏡を外し、携帯を持ったままベッドに寝転がる。


『今日は何してたの?』


 不意に蒼依がそんな事を訊いてきて、私は伝えなければならない事を思い出す。


「今日は友達の誕生日やったから、それを祝いに行ってた」


 淡々と、何も疚しい事は無いと言うように事実を述べる。


『中学の時の友達?』

「うん。蒼依にも前話した事あるかもしれんけど、知香って子」

『あぁ、確かカラオケに行った人だよね?』


 殆ど考える時間も無く蒼依が言い当てる。


「そうそう。よう覚えてんなぁ」

『まぁね。その子の誕生日が今日だったんだ』

「うん。ほんまはそのカラオケの時に居たもう一人の里菜も来る筈やってんけど、その子は彼氏とデートで来れへんかったから、二人でお菓子食べてきた」

『どこか食べに行ったの?』

「ううん。知香の家にチョコ持ってって食べただけ」

『へぇ』


 会話が途切れ、時計の針が動く音が聞こえる。


 話し下手な私にはこういった沈黙が生まれた時にどうすれば良いのか分からない。蒼依が返事をして終わったのだから、私が話す番なのかもしれないが、私が伝えようと思っていた事はもう大体話し終えてしまったため、蒼依に質問されない限り、これ以上この話は続けられない。


 このまま待っていれば何か話してくれるのかもしれないが、この気まずい沈黙に耐えられそうになかった。


「蒼依? 起きてる?」

『うん。起きてるよ?』

「あの、ごめん」


 気が付くと謝罪の言葉を口にしていた。


『何?』

「今日その友達の家に行くの行ってへんかったやん? それでその……怒らせちゃったかなぁって……」

『……』


 返事はない。本当に怒っているのかもしれない。もしかするとこのまま嫌われて一緒に居てくれなくなるかもしれない。そんな考えが頭の中を巡る。


「あ、ああの、別に隠してたわけじゃなくって、わざわざ言わんでもええかなっていうか……」

『──ね』

「蒼依とは直接関係無いや……無い事やから別に言う必要無いかと思ってて……あ、えっと……」


 唇が震え、舌が上手く動かない。何も考えられないただの錘となった頭を必死に回しながら同じような言葉を繰り返し、それらしい言い訳もできないまま言い淀む。


『紅音』

「ごめん」


 名前を呼ばれ、反射的に謝ると、もう一度名前を呼ばれる。


『紅音。聞いて』


 その声色は電話越しにも分かる程に優しい物だった。


『そんな事で怒ったりしないから』

「……」

『友達と遊びに行ってただけなんでしょ? 確かに私にわざわざ言う事ではないし、一々私に許可を求められても友達と遊んじゃ駄目なんて言えないからそういうのは要らないんだけど……』

「……うん」


 今度は蒼依が言い淀み、間を埋めるように相槌を打つ。


『そうね。次からはどこに行くとか言ってくれると嬉しいかな。別に怒ったりしないから』

「分かった」


 ゆったりとした蒼依の喋りに、私も徐々に落ち着きを取り戻す。しかし頭が冷静になってきた事によって、蒼依が子どもをあやすような話し方をしているという事が気に掛かった。


『さすがにコンビニ行くとかそういう本当に紅音個人にしか関係の無い事は言わなくてもいいけどね』

「うん」


 ふと、誰かに「紅音はお姉ちゃんぽくないよね」と言われた事を思い出した。いつどこで誰に言われたのか全く思い出せないが、どこかの誰かに言われたその言葉だけは鮮明に覚えている。


 気に食わない事があれば怒りはしないがすぐに不機嫌になり、それを誰から見ても分かるくらいに顔に出す。怒られたり悪口を言われればふて腐れ、泣き出す。そしてそう言った負の感情を持っていた時の事はずっと根に持ち続けていて、許す気が無い事。


 妹の涼音の事を知っている親戚の人からするとよく似ている姉妹として片付けられるが、それではあまりに姉として情けない。


 子どもっぽいと言えばまだ可愛げがあって許されそうだが、幼稚と言えばそれはもう許されないだろう。今はまだ蒼依も許してくれているが、いつ愛想を尽かされるか分かった物ではない。


「蒼依」

『何?』

「蒼依の好きな人ってどんな人?」

『紅音』


 蒼依が通信のラグを感じさせないくらいに即答する。


 しかしその回答は私の求めている物ではない。


「いや、ちゃうやん」

『何も違わないんだけど』

「好みってあるやん」

『だから紅音だって』

「もういい。分かった」

『えぇ……何……?』


 蒼依の困惑でいっぱいになった声が聞こえる。


 私の質問の仕方が悪い事は分かっているが、大人っぽくなりたいなんて馬鹿正直に言って笑われた時にはもう私は耐えられない。それだけは避けなければならないと思い、直接的な質問は避けたのだが、もしかするとこうして本心を悟られないように隠すようなプライドこそ子どもっぽい物なのだろうか。


 そんな事を考えていると、徐々に瞼が重たくなってくる。


「蒼依はもう寝るぅ?」

『うん。もう電気消して布団に入っている』

「いつの間に……」

『ま、私も寝るから、紅音も早く電気消して寝なよ』

「うん」


 蒼依がいつベッドに潜ったのか気になるものの、一先ず部屋の電気を消そうと身体を起こし、テーブルに手を伸ばしてリモコンを手に取って、カチ、カチ、カチ、とボタンを三回押すと、部屋が暗闇に包まれる。


 身体を少し動かした事で眠気が無くなったような気がしたが、横になって少しするとまた眠気がやってくる。


「蒼依」

『何?』

「大好きやで」

『うん。私も、大好きだよ』

「えへ」


 聞きたかった言葉が返ってきて、思わず変な笑い声が溢れた。


『おやすみ、紅音』

「うん。おやすみ」


 分厚い冬用の布団を肩まで被り、目を瞑ると、ポロン、と音が鳴って通話が切られる。


 そんな訳はないのだが、通話が切れる瞬間、相手に用済みだと言わんばかりに冷たく突き放されているような気がして、少し心が痛む。いつもの私ならきっと今回もそう思っていたのかもしれないが、蒼依に好きだと言ってもらえた今日の私は無敵だった。


 何となく携帯を開き、何も通知が来ていないことを確認し、再び目を閉じる。


 この日は珍しく、余計な事を考える間も無く眠りに就いていた。

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