第30話 10月23日

 夏休みが明け、文化祭、定期試験、体育祭と、慌ただしい日々が終わり、気付けば十月も終わろうとしている。


 十月最後のイベントと言えばハロウィンだが、その前にもう一つ、小さな事ではあるが、友人の一人としては無視する事のできない大切なイベントがある。正確には昨日ではあるのだが、生憎と昨日は日曜日。部活も補習も何も無いのにわざわざ一時間以上掛けて学校に行こうという気にはなれず、こうして月曜日に持ち越された。


 眠たい目を擦りながら六時間目の授業を受けた後、清掃を終え、鞄を持って夕夏の下へ向かう。


 滅多に席を立たない私を不思議そうに見つめる蒼依たちは意識の外に追いやり、私は鞄から小さな袋を取り出し、夕夏に差し出した。


「はい、夕夏。プレゼント」

「えっ?」


 夕夏が私の方を見て目を瞬かせる。


「誕生日プレゼント。祝いはしたけど、私だけ何も渡してへんかったやろ?」

「いや、それはそうやけど……ええの?」

「うん。そりゃもちろん」

「何で今?」


 蒼依が鞄を膝に抱えた状態で少し身を乗り出した。


「いや、だって先生に没収される可能性あるやん?」


 誕生日プレゼントとして持って来たが、確実に学校には必要の無い物で、先生に見つかれば没収されてしまう可能性が高い。薄らとした化粧くらいは許されているが、香水などの匂いの強い物は基本的に禁止されており、今回私が持って来たのはそれに近い物だ。


 これくらいなら注意程度だろうと思われるかもしれないが、念には念を入れておかなければならない。先生に因ってはリップ程度でも没収される事だってあるのだから。


「何持って来たの?」


 蒼依に問われ、口で説明する代わりに夕夏の方へ視線を向けると、夕夏はプレゼントを袋ごと掲げて首を傾げる。


「これ開けてええの?」

「うん。全然ええよ。別にパンドラの箱でも何でもないし」


 夕夏は袋の中から綺麗な花柄の包装紙に包まれた箱を取り出し、爪を使って丁寧にテープを剥がそうと一点を睨むように見つめる。


「別にそんな丁寧にやらんでもええのに」

「いや、できる限り綺麗に開けたいやん。こういうなんって」

「まぁ、何でもええけどな」


 軈て包装紙を一切破く事無くテープを剥がし終えると、中から瓶の入った白い箱を取り出し、右へ左へと身体を傾けてその箱の側面や底面を観察する。


「何これ」

「ルームフレグランス」

「……アロマみたいなやつ?」

「まぁ、そうやな。良い匂いがするやつ。私も前から気になってたやつやねんけど、自分のやつ買うついでに夕夏のプレゼントもこれにしよーって思って」

「へぇ……。でもこれって何か火ぃ付けたりとか何か機械要るんちゃうの?」

「あ、それは要らんやつやねん。蓋開けて置いとくだけ」

「そんなんあるんや」

「うん。で、夕夏の名前に因んで、夏と言えば海って事で、マリンの香りです」

「海の匂いって事?」

「んー……私的にはラムネとかソーダっぽいかなぁ」

「ちょっと開けてみてもいい?」

「うん。ええよ。それはもう夕夏のやつやし。要らんかったら貰うけど」


 私が許可を出すなり夕夏は箱を開け、中から茶色の瓶を取り出すと、空になった箱を机の上に置き、また少し容器を観察した後、くるくると蓋を回して開けた。


「あっ、めっちゃ甘い香りする」

「ラムネっぽくない?」

「うん。確かにラムネっぽい。ほら」


 夕夏が白い蝋のような物が入った容器を隣にいた彩綾の顔の前へ持っていくと、彩綾は目を閉じてその香りを嗅ぐ。


「ほんまや。めっちゃラムネや」

「蒼依も嗅ぐ?」


 今度は蒼依の方へ腕を伸ばすと、蒼依は瓶に顔を近付けようと少し腰を浮かした所で、あっ、と声を上げた。


「本当だ。良い匂い」

「これを部屋に置いとけばええの?」

「うん。まぁ、使ってくれたら嬉しいなぁくらい」

「うんうん。使う。ありがとうな」


 夕夏はそう言って微笑んでみせると、瓶の蓋を閉め、大事そうに箱とタオルの二重梱包をして鞄に仕舞う。


「鞄の中ラムネの匂いになるんちゃうん」


 彩綾が含み笑いをしながら戯けると、夕夏がえっ、と声を上げて私に視線を向けてくる。


「大丈夫大丈夫。私今日一日入れてたけど全然匂いせぇへんし。ジェルタイプやからそうそう溢れたりもせぇへんやろうし」

「そうやんな」

「まぁ、最悪匂い付いてもそんなに嫌な香りでもないやろ?」

「んー……まぁ、ね」


 夕夏は如何にも不請不請といった様子で首を傾げながら頷いた。


「それ、他にどんな香りがあるの?」


 蒼依に訊かれ、昨日買いに行った時の記憶を掘り返そうと、唇に人差し指で触れながら首を傾げ、視線を重力に従わせるように落として虚空を見つめる。


「えっとなぁ……アールグレイと……森林……グリーンフォレストみたいなやつと、あとは……あぁ、そう。ミントあったわ」

「その四つ?」

「もしかしたら他のもあるかもしれんけど、私が見たのは四つやな」


 頷き、視線を戻す。


「紅音はどれを使ってるの?」

「私はアールグレイのやつ」

「アールグレイって紅茶だよね」

「うん。柑橘系の割とさっぱりしたやつ。というか今思ったらあれやなぁ。両方持って来て夕夏に好きな方選んで貰っても良かったかも」

「いやいや、ええよ。私これ気に入ったし」

「ほんま? ならええけど」


 両手を胸の前で振って笑う夕夏を見て、一先ず納得する事にした。


 黒板の方へ振り向き、壁に掛けてある時計を確認する。


「よし。プレゼントも渡したし、そろそろ帰るかぁ」

「そうね」


 蒼依が返事をくれ、静かに立ち上がって鞄を肩に掛け、二人の方を見る。


「二人は今日どうする? 一緒に帰る?」

「いや、今日は夕夏と寄り道してくし」


 彩綾はそう言って改めて確認するように夕夏と目を合わせ、またこちらに視線を戻した。


「分かった。じゃあ帰ろうか」

「うん」


 じゃあまた、と二人に手を振り、蒼依と共に教室を後にする。


 まだ生徒たちのはしゃぐ声で騒がしい中、昇降口で靴を履き替えて学校を出ると、不意に名前を呼ばれる。


「紅音」

「何?」


 いつもの淡々とした呼び掛けに、いつもの間延びした返事をする。


「もう大分涼しくなってきたしさ、また宇治の辺りうろうろしない?」

「今から?」


 まさかそんなわけは無いだろうと思いつつも、念の為に確認しておく。


「ううん。いや、まぁ、今からでも少しくらいは回れるだろうけど、どうせならもうちょっとゆっくり見て回りたいよね」

「そうね。私は基本的にいつでも空いてるけど、蒼依は部活あるやろ?」

「そうなんだよね……」

「どうせ年末まで部活あるやろ?」

「それはそうやけど、来週の月曜とかどう?」

「別に短縮授業でも無いし、結局これくらいの時間にならん?」


 教室を出たのはまだ十六時を過ぎていないくらいだったが、それでももう陽は大分傾いている。これから宇治に行ったとしても、あっという間に日が沈み、真っ暗になってしまうだろう。


「別にいいでしょ。暗くなったからって時間が早く過ぎるわけじゃないんだから」

「まぁ、そうか」


 何故か暗くなったら帰らなければならないと思い込んでいた私は、蒼依の言葉を聞いて自らの認識を改める。


「遅くても六時くらいに電車に乗れれば良いんだから、二時間くらいは見て回れそうじゃない?」

「二時間って短いような……長いような……」

「でもデートできるのって月曜のこの時間くらいだからね」


 蒼依の言う通り、学校が無い日も部活で忙しくしている蒼依と一緒に出掛けられる機会というのはなかなか無い。一日中いられるのはそれこそ定期試験前の部活が休みの期間中や、そもそも学校が開いていない夏休み終盤や年末年始くらいしか無い。


 それ以外の日にデートをしようとするなら、部活の無い月曜日だけなのだが、蒼依と付き合いだした夏から今までは、四十度近い気温の中、熱中症覚悟で歩こうなどという気には到底なれず、デートもなかなかできていなかった。


 しかしその問題ももう解消されつつある。


「そうやなぁ。じゃあ今日はどうする? 六地蔵まで歩く?」


 どうせなら今日もまだ一緒に居たい。そう思って頭に浮かんだ適当な物を提案してみる。


「それ行ったとして、帰りはどうするの?」

「えっ? 別に、普通に電車乗って帰るけど」

「お金掛かるから却下で」

「じゃあここまで歩いて帰ってくる」

「遅くなるから駄目」

「そんな事言うてたらどこも行けへんやん」


 暗に別の案を出せと文句を言ってやると、蒼依は唇に指を添え、悩む素振りを見せる。


「じゃあとりあえずここ左曲がろう」


 いつもは右に曲がるT字路を、蒼依に腕を引かれるがままに左に曲がる。


「何か見るもんあんの?」

「いや。何か面白い物ないかなぁって歩き回るだけ。ほら、そことか上ったら何かありそうじゃない?」


 蒼依が指差す先には階段があった。歩道橋という訳でも無く、歩道が途中から階段になっており、上に何かが無いのであればそれは全く必要が無い。


「普通に公園とかありそうやけど」

「まぁとりあえず行ってみよう」


 道路を渡り、ホラーゲームに出てきそうなくらいに錆び付いて赤くなった看板には下手に触れずに階段を上る。


 上った先には下りの階段があり、右側には手入れがされているのかいないのか分からない道があった。


「降りて行った所は公園っぽい?」

「あぁ、ほんまや。ブランコとかあるし、公園っぽいな」

「こっち行こう」


 蒼依が足を踏み出したのは、公園へ続く階段の方では無く、暫くの間手入れがされていなさそうな荒れた道。道を遮るように蜘蛛の巣なんかが伝っていたら、という嫌な想像に怯えながら進むと、ぐるりと少し遠回りをしただけで、この道も先程下に見えた公園に繋がっているのが見えた。


 期待外れだったと肩を落としていると、蒼依が繋いだ手を軽く二回引いて私を呼ぶ。


「あ、紅音見てこれ」

「ん?」


 足を止めて蒼依の視線の先を見る。そこには古びた木の看板と、明らかに人の手によって保存された何かがあった。


 きっと看板に説明書きがされているのだろうと蒼依の見ている看板に目を通す。


「へぇ、竈の跡……」


 目の前にある地面の窪みや石などは七世紀頃に使われていたと思われる瓦窯の跡らしい。


 他にもこれと同じ竈が四基見つかっているだとか、ここで作られたと思しき瓦が見つかっただとか書いてあるが、正直あまり興味を惹かれる物ではなかった。


「蒼依」


 半ば無意識に蒼依の名前を呼び、それから話しかけた理由を考える。


「何?」

「こういうの好きやったりする?」

「どうして?」


 蒼依がこちらに顔を向けると、じっと私の目を見つめてくる。


「いや、何となく」


 そう答えながら私は目を逸らし、その場から離れようと蒼依の手を引いた。


「好きって訳じゃないけど……。紅音は博物館とか行かない?」

「あー……博物館はあんまり行かへんかも」


 小学生の頃に行ったような気もするが、思い出されるのは大抵水族館や動物園などの中にあるちょっとしたコーナーにある物で、博物館という物には行った事が無いのかもしれない。


「蒼依は? よく行くん?」

「いや、全然。小学生の時に一回だけあの……ドラえもんとかの作者分かる?」

「うん。その人の博物館行ったん?」

「そう。近くって訳でもないんやけど、県内にはあったから、そこに行った記憶はあるけど、あんまり歴史資料館みたいな所には行った事無いかな」

「そうなんや」


 蒼依が神奈川出身だという事を思い出した。


 未だに関西弁を滅多に使っていないし、そんな訳は無いのだが、何故か最近蒼依がずっとこちらに住んでいた人のような感覚に陥る。しかし、だからと言って何か支障が出るという事でも無い為、わざわざ気にする程の事ではないだろう。


「そういえばまだ調べてないんだけど、京都ってやっぱり博物館とかたくさんあったりするの?」

「……さぁ? 私が知ってると思う?」


 そう答えながらも穴だらけの記憶の中を検索していると、この近くに一つ博物館を意味するミュージアムの名前を持つ施設があった事を思い出した。


「一つくらいは知ってるんじゃない?」

「まぁ、宇治は源氏物語ミュージアムが有名やから知ってるけど」

「じゃあ次そこ行く? ここから近い?」

「そんなに離れてはないと思うけど、入館料も掛かるやろうし、二時間じゃ足らんくない?」

「あぁ、そっか。それもそうだよね」

「まぁ、今度。一日一緒に居られる日にでも行こ」


 公園を出て、元いた道に戻る。真っ直ぐ続く下り坂を一つ目の信号まで下り、一応駅方面には向かおうと、右に曲がり、更に下る。


「こんな所にも呉服屋があるんだ」


 蒼依が途中にあった店の幟を見て呟き、反応に困った私はそれを蒼依の独り言として処理する。そうすると、今度ははっきりと私に向けて蒼依が言った。


「紅音は呉服が何か知ってる?」

「呉服?」

「うん。いや、呉服と着物って何が違うのかなぁって思って」

「あー……」


 確かに何か違いがあったな、といつか調べた事を思い出そうとアスファルトに視線を落とす。


「えっとねぇ、確か呉服が絹織物の事なん違ったかな……。着物集合の中に呉服がいる感じ」

「へぇ。なるほどね」

「中国から来た布を呉服って呼んでたとかそういうやつやった気がする」


 その知識が正しいのかどうか自信が無く、曖昧な言葉で保険を掛ける。


「じゃあ着物と振り袖は?」

「……振り袖はあれやろ? 成人してない人が着る礼服みたいな感じやろ?」

「で、着物は普段着……と」

「知っとるやんけ」

「あっ、和菓子屋さんあるで」

「あぁ……うん。ほんまやなぁ」


 わざとらしく大袈裟な関西弁と身振りで誤魔化そうとする蒼依に、私はそれ以上突っかかろうという気になれず、力無く同意の言葉を発した。


 店の前で立ち止まり、何かのアニメキャラを模したようなちょっと変わった飛び出し注意看板が気になりながらも、二人して透明なドアから中の様子を窺う。


「こういうお店って気になるけどちょっと入りにくいよね」

「分かる。デパートとかやったら気軽に見て回れるけど、こういう所って入ったら何か買わなアカン感じするもんなぁ」

「そうそう。しかも結構な値段するっていうね」

「お土産を買うならって感じよなぁ」


 もしかしたら安い物も売っているのかもしれないが、こういう所で売っているのは大抵六個千円だとか、十二個で二千円だとか、そういう纏めて箱で売られている物ばかりだろう。それを確認するために一度入ってしまうと、やはり何かを買わなければならないという強迫観念のような物に襲われる。


「こういう所で買い物するならもっとお金に余裕ができてからやなぁ」


 そう呟きながらまた歩き出し、大通りを右に曲がって駅を目指す。


 有名な牛丼のチェーン店を通り過ぎ、車一台は通れそうな程広かった歩道が、人一人分程の狭い歩道へと変わる。仕方無く蒼依と手を離し、蒼依の後ろについて行き、また道が広くなると、蒼依の手を取って横に並んだ。


「そういえば紅音はバイトとかしないの?」


 心臓を掴まれたように胸が苦しくなる。


「うーん……」

「やっぱり時間的に厳しい?」

「そうやなぁ。勉強の事を考えるとやっぱりバイトしてる暇無いんちゃうかなぁって気もするし、あと単純にバイトしたくない……かな」


 やった事も無い事に苦手も何も無いのだが、人見知りしがちで人よりも緊張しやすい私にできる仕事があるようには思えない。人と話す事自体は好きなので、接客はもしかしたらできるかもしれないが、普段自分が客として店に足を運んで店員を観察しながら、彼らと同じ事を自分がやると考えた時、どうしても何かしらの失敗を犯して先輩や客に怒られるという未来しか見えなかった。


「結局夏休みもバイトしなかったんでしょ?」

「そう。それでめっちゃお母さんに言われたし」


 喧嘩になる程ではないが、部活をやらないならアルバイトをしろと両親は言っていて、私としては勉強をする時間が無くなって成績が下がったら嫌だと主張しているのだが、私の能力を過信しているのか、両親はそれくらい平気だとただ只管にアルバイトを勧めてくる。


 そこに私が夏休みに短期のアルバイトをすると少しやる気を見せたものだから、有言実行できない根性無しのような事を言われた。


 しかし事実その通りなのだから、私には何も言い返せなかった。


「いつも使ってるお金はお小遣い?」

「うん。家事やってくれてるからっていうので貰ってるけど……、やっぱりちょっと気が引けるよね」

「バイトする気はあるんだ」


 言い方に棘を感じるが、きっとこれは私の被害妄想だ。今は気分が落ち込み気味なので、ただそういう風に聞こえるだけだ。


「ちょっとはね。できればしたくないけど」

「勉強が心配なら、家庭教師とかは? あれなら復習もできるし」

「あれってどうなん? 自分でいろいろ用意しなアカンかったりするんちゃうん?」

「いや、知らないけど。さすがにそれは正社員? 正職員? ……の人がやってくれるでしょ」

「そうなんかなぁ。蒼依はバイトする予定は無いの?」

「どうしようかなぁって悩んでる。部活が終わるのって遅い時は七時くらいになるからできなさそうではあるんだけどね」

「えっ、もしかして月曜日にやるつもり?」


 この貴重な一緒に居られる時間を無くすつもりか、と蒼依を仰ぎ見る。


「まぁ、一番時間あるのは月曜日なんだけど、週一でバイト募集してる所なんて多分無いじゃん?」

「うん。無さそう」

「だから多分しないけど、やってみたくはある」

「そっか」


 蒼依と話しながら、ふと今日のデートのきっかけとなった目的を思い出し、周りの景色に目を向けると、よく分からない会社が建ち並んでいた道は、気付けば住宅街に変わっていた。


 行く先には特に目を惹かれるような物は無く、交差点を通り掛かる時にそちらを覗き込んでみても、面白そうな物は何も無い。ただ少し年月を感じる家屋が並んでいるだけだ。


「何か面白そうな物はある?」

「ううん。家がいっぱい並んでるだけやなぁ。あとたまに茶畑」


 ちょうど道の反対側に茶畑が見えた。時期によっては太陽光を遮るために掛けられている黒いカーテンのような物は、今は畑を囲っている金属の棚に巻き付けられている。


「やっぱり京都って茶畑いっぱいあるよね」

「んー……他をあんまり知らないからあれやけど、京都やしな」


 他府県に茶畑があるイメージは無いが、それは単に私が知らないだけという可能性は充分にある。少なくとも蒼依がそう言うという事は、神奈川県には茶畑はそれほど多くないのだろう。


「あ、茶摘みのバイトとか無いの?」

「多分あるにはあるで。うちの近所ではないけど、和束町っていう所がお茶で有名な所やし、そことかやってんちゃうかな」

「へぇ、そことかどう?」

「どうって言われても……。多分学生やってるうちは無理ちゃうかな」

「夏休みとかにやってないの?」

「多分もうちょっと前の梅雨くらいちゃうかなぁ。それかちょうど今ぐらい。分からんけど」


 今通り過ぎた茶畑を見てみると、全て摘み取られている訳ではなく、整えられた生け垣のような痩せ細り方をしている。恐らくは数回行われる茶摘みの内の一回目か二回目が行われたのだろう。


 今まで何度も見た事のある光景である筈なのに、収穫時期すらも分からない自分が少し恥ずかしかった。


 それを紛らわせようと、話題を変える。


「蒼依は何かやってみたいバイトとかあんの?」

「私は喫茶店とかで接客とかやってみたいかなぁ」


 蒼依は悩む素振りも無く即答した。


「メイド喫茶?」

「そんなわけないでしょ? 普通に住宅街の中にあるような喫茶店」

「大変そう」

「そこはあれじゃん。暇そうな所に応募すれば良いじゃん」

「そういう所は募集してへんからな?」

「そうなんだよね。まぁ、多少忙しくても、賄いが食べられたら良いかなぁって」

「あぁ、賄いね」

「接客が楽しそうっていうのもあるけど、賄いを食べるのがちょっと憧れというか」

「変な憧れ持ってんなぁ」


 私にはどれだけ時間が経っても理解できなさそうな事だった。


「お刺身とかがメニューにあったら賄いでお刺身が食べられるかもしれないでしょ?」


 蒼依はぴん、と人差し指を立ててにやりと笑う。


「それ多分居酒屋やんな?」

「唐揚げとか」

「居酒屋やん」

「たこわさも良いよね」

「だからそれは居酒屋なんよ」

「そう。居酒屋良いよねぇ」


 うっとり、という言葉があまりに似合う口調で、予想外の言葉が飛び出した。


「意外性抜群」

「良いじゃん別に。居酒屋の雰囲気好きなんだよね。行った事は無いけど」

「無いんかよ」

「どう? 一緒に」

「蒼依は部活があるやろ?」

「じゃあ紅音が私の分まで……」

「はぁ? 嫌やし」

「そこを何とか」

「嫌」

「じゃあそこでレジとか」


 不意に蒼依が進行方向を指差し、その先を視線で追うと、そこにはスーパーの看板があった。


 駐車場には警備員らしき人が立っており、それほど大きくないスーパーではありそうだが、今まさに車が入っていく所で、店の前には利用者と思しき人が籠を持って店内に入っていくのが見えた。


「絶対忙しいやん」

「レジじゃなくても棚卸しとか」

「そんな朝早くからやってんの? ここ」

「知らん。学校が始まるのが九時前でしょ? スーパーって大体八時くらいからやってない?」

「やとしても遅刻は確定やからな?」

「確かに」


 そんなくだらない事を話しながらスーパーの前を通り過ぎると、見覚えのある交差点が見えた。


「百均とか用事無い?」


 蒼依がいきなりそんな事を訊ねてきて、顔を右に向けると、酒屋さんと、百円ショップが並んでいた。


 これを見て訊いてきたのかと思いつつ、私は顔を横に振った。


「無いかなぁ。というかちょっと足疲れてきた」

「あぁ、そこそこ歩いたもんね」

「うん」

「ぐるっとちょっと遠回りしただけのつもりだったけど、意外と掛かったね」

「今何時?」


 訊ねると、蒼依が携帯を取り出し、時計を確認する。


「五時十三分。まだ時間はあるけど、大分暗くなってきたね」

「そうやなぁ」


 気付けば、鮮やかな青空に赤色が浸食し始めていた。


 信号が変わり、駅側の歩道へ渡る。


「どうする? このまま真っ直ぐ帰る?」

「そうしようかなぁ。結構満足したし」

「そう? それは良かった」

「蒼依は?」

「私も結構満足かな。紅音がいっぱい喋ってくれたから」


 まるで私がいつもは喋っていないような言い方が気に喰わず、眉間に皺を寄せる。


「いっつもいっぱい喋ってるやん」

「うん。だから今日も機嫌は良かったんだなぁって」

「あぁ、そういう……」


 駅に辿り着いたが、駅の構内には入らず、入り口から少し離れた所、人の通らない所の壁に凭れるようにして一息吐く。


 相変わらず車通りは多いが、この時間になると電車を利用する人も随分と増えるらしい。駅の目の前には芸術高校という、私には無い才能を持った人たちの通っている高等学校があるが、十七時という帰るには中途半端な時間のお蔭で、そこの人たちで駅がごった返すという事にはならなさそうだった。


「紅音」


 蒼依が私の手を引き、私の名前を呼ぶ。何となく蒼依がしようとしている事を察して首を振る。


「また今度」

「何も言ってないでしょ」

「どうせキスしたかったんやろ」

「うん」


 蒼依は悪びれもせずに堂々と頷いた。


「やっぱり。人目あるから駄目」

「いけず」

「普段いけずなんは蒼依やろ」

「おぉ、本場のいけずが聞けた」


 また蒼依が意味の分からない事を言う。


「いけずなんて普段使わんし」

「じゃあ何て言うの?」

「……意地悪?」

「えぇ、普通じゃん」

「私そんな普段から方言きつくないやろ?」

「それはそうだけどさぁ。やっぱり京都弁可愛いじゃん」

「いや知らんし」

「京都弁練習してきてよ」

「嫌ですぅ。あぁ、ほら、電車来るし、そろそろ入ろ」


 ちょっと待って、と言って動こうとしない蒼依の手を半ば強引に引っ張りながら鞄から定期券を取り出し、改札を抜けると、まもなく到着しますというアナウンスが流れていた。


「もっと話してたかったなぁ」

「それは私もやけど、もう暗くなるし、また夜話そ?」


 向かい合って両手を掴み、愚図る子どもを諭すように言うと、蒼依は微笑み、頷いた。


「うん。待ってる」

「いっつも私の方が早いけどな」

「いや、今日は私が待ってるから」

「そう。がんばって。じゃあまた」

「うん。またね」


 名残惜しくはあるが、話もそこそこに手を振り、反対側のホームへ渡り、到着した電車に乗り込む。


 運悪く座席が埋まっており、仕方無く扉の前に立ち、携帯を弄るのに夢中になってる蒼依を見つめる。そうしていると、軈て電車が動き出し、満足感と共に、寂しさが襲い掛かってくる。


 電車に乗って一時間。長いようで短い、蒼依との距離。


 きっと私は遠距離恋愛なんて物はできないのだろうな、などと考えながらあっという間に見えなくなった蒼依の姿を見ているかのように、窓の外を眺めていた。

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