第29話 10月18日
試験から一週間。数学の点数で蒼依に勝つどころか学年で一位だったと知ったのと同時に、凡ミスで満点を逃した悔しさが達成感と満足感を打ち消してしまったその翌日。私は鮮やかな青色の体操服に身を包み、暖かい日差しの下で、冷たい風に身体を震わせながらグラウンドで校長の長たらしい話を聞き流していた。
体育祭と聞くと真夏の暑い日差しの下で行っているイメージがあるが、何年か前から熱中症になる子どもが増えた事で漸く夏の暑さを理解した大人たちが、夏に行っていた体育祭と、秋に行っていた文化祭の順番を入れ替えたらしい。
思い返してみると、確かに小学校の前半くらいまでは汗を滝のように流しながらグラウンドで走ったり踊ったりしていたが、後半は今日のように暖かいと感じられるような陽差しの中、友達と身を寄せ合って冷たい風から身を守っていた記憶がある。
しかし行われる環境が改善されたからと言って、私のテンションが上がるかと言えば、決してそんな事はない。周りの人たちがきゃあきゃあと騒げば騒ぐ程、朝蒼依と挨拶を交わした時点ですら低かったテンションは更に下がっていっていた。
選手宣誓やら開会宣言やらが終わり、赤、青、黄、緑の四色に区切られた石段に蒼依と一緒に向かう。
私たち一年七組は赤ブロックなので、こちらから見て一番右側。後ろのネットに赤い旗が貼り付けられているエリアが私たち赤ブロックの応援席となる。
「テンション低いね」
予め荷物を置いて確保していた場所に座り、半ば無意識に溜め息を吐くと、赤色の鉢巻きを緩めて首に掛けた蒼依が呆れのような物が混じった微笑みを向けてくる。
「うん。もう帰りたい」
「今始まったばっかりだよ?」
「帰りたい……」
蒼依と同じ色の鉢巻きを外して手首に結び、蒼依に抱き付きたい衝動を堪えて蒼依の右手を両手で捕まえて弄ぶ。
「紅音ってこういうイベント事やけに嫌っとるけど、何でなん? 別に運動音痴って訳でも無かったやんな?」
私の右隣に座った夕夏が訊ねてきて、その向こうから彩綾が顔を覗かせる。
「前も言うた気がするけど……。うーん……簡単に言えば勉強するために高校入った筈やのに勉強させてもらえへんからかなぁ」
「あぁ、そういえば文化祭の時もそれ言ってたね」
「うん。だってやる意味無いやん。体育祭も普段の体育の成果を見せるためにー、みたいな事も書いてるけどさぁ、体育でこんなんやってへんしやなぁ、それを見せる相手も殆ど居らんし。こんな事やってる暇あったら勉強させろっちゅうねん。ただでさえ授業ちょっと遅れてるって毎回のように言ってる癖にさぁ、体育祭やら文化祭やらやって更に遅れるんやろ? 意味分からんやん。やるメリット全く無いやろ。そらこういうみんなで集まってきゃあきゃあ騒ぎたい人も居るやろうけどさぁ……」
「ストップストップ。分かったから」
蒼依が含み笑いをしながら私の両手に挟まれている右手を振って私の太腿を軽く叩いた。
そして蒼依が何か言おうと唇を動かしたその時、放送部か誰かの声が辺り一帯に響き渡り、後ろの方に設置されている大きなスピーカーから大音量で音楽が流れ出す。
蒼依に誘われて前の方の席に座っているが、もし後ろの方に座っていたらこの近所迷惑な騒音を間近で聞く羽目になっていただろう。
「ほら、始まったし応援しよう?」
蒼依が音楽に負けないよう先程よりも少し声を張りながらグラウンドの方を指差した。
「知ってる人居らんしなぁ」
「普通に赤組応援しなよ」
音楽と共にグラウンドに入場したのは二年生たち。ゲートと言うにはあまりに安っぽいゲートからぞろぞろと走り込んできて、各クラス男女に分かれて縦一列に並び、足首に紐のような物を結んでいる。
その様子を見ていると、中学時代の嫌な記憶が蘇ってきた。
「蒼依ってムカデ競走やった事ある?」
「うん。中学の時やった」
「あれめっちゃ痛くない? 足首」
「痛い。ストッキングか何かでやってたけど、結局擦り傷ができちゃって」
「ね。私も嫌やったなぁ。組み体操の方が増しかも」
「中学の時に組み体操やったの?」
「いや? 小学校の時。膝着いたりするような役じゃ無かったからかもしれんけどな」
そんな事を話しながら膝を肘置きにして、グラウンドの方を眺めていると、ピストルの音が鳴り、体育祭最初の競技が始まった。
私のテンションとは裏腹に、周りの人たちはなかなかの盛り上がりを見せる。
よくも朝一発目からそんなに盛り上がれるものだと、冷めた態度で隣に目を向けると、彩綾と夕夏も退屈そうにパンフレットを眺めていた。
それから何となく後ろの方にも視線をやると、友人たちに囲まれながらも退屈そうにしている浩二の姿を見つけた。
見つめていたつもりはないのだが、何故か浩二がこちらを見たような気がして、後で誤魔化しが効く程度に小さく手を振ってみる。そうすると、浩二も膝に肘を突いたまま小さく手を振り返してくれた。
「紅音」
背後から蒼依に肩を叩かれ、上半身をぐるりと反対方向に回して蒼依の方へ振り返る。
「何?」
蒼依は無表情のようで、ほんの少し眉間に皺が寄っていた。
「浮気駄目」
「えぇ? 浮気ちゃうって」
「あんまり愛想良くしないで」
「ごめんって」
先程のは完全に偶然だったが、最近こうして蒼依が嫉妬してくれるのが嬉しくて、わざと過剰に愛想良くしてみたり、積極的に話してみたりする事がある。
好きな相手に意地悪をするという小学生のような、蒼依からしてみればなかなかに迷惑な事をしているという自覚はあるのだが、それ以上に蒼依が愛おしくて仕方が無かった。あまりやり過ぎると本気で怒らせてしまいかねないので、ちゃんとアフターケアーはしておかなければならない。
「蒼依、プログラム見せてー」
「自分のがあるでしょ」
「ええやん別に」
そう言いながら肩を寄せると、蒼依は特に抵抗する事も無くパンフレットを開いて見せてくれた。
今朝配られたこのパンフレットには、プログラムの他に各ブロックのスローガンなども掲載されている。赤組のスローガンには情熱がどうとか根性論者が言いそうな事が書かれているが、体育系の高校ならともかく、ただ成績が良い人だけが集まったこの高校にはこんな事を意識してこの体育祭に臨んでいる人などいないだろう。
「私らっていつ向こう行ったらいいん?」
「大縄が終わってからでも大丈夫じゃない? 競技と競技の間にちょっと時間あるし」
「そっか」
現在やっている競技は二年生のムカデ競走。その次が三年生の大縄飛び。その次が私たち一年生の綱引きだ。これら三種目はそれぞれ全員参加で、八クラスでトーナメントを行う綱引きは他の種目よりも少し長めに時間が取られている。
因みにその次が二人三脚リレーがあり、それに私と蒼依がペアで出る事になっていて、その事を考えると、確かに連続で出場する人がゲート前に集合するための時間がある筈で、そうでない人も遅くてもその時間にゲート前に行けば間に合うだろう。
密かに不安に思っていた問題が解消し、少しすっきりした気分でグラウンドの方へ視線を戻す。しかし多少気分が変わった所で目の前で行われている物が面白いとは思えず、このまま眠ってしまおうかという気がしてくる。
「ねぇ、紅音」
「何?」
「もしかして、体調悪かったりする?」
蒼依が眉をハの字にして私の額に手の平を当てた。それは思わずびくりと身を竦ませてしまう程度には冷たかった。
「何で?」
「いや、ずっと元気無いから」
「ごめん。多分身体動かしたらちょっとは上がるし」
「じゃあ二人三脚の練習でもする?」
「うーん……」
「気分じゃないか」
「そうやなぁ……」
「キスでもする?」
「それは……また後で」
そんな事を話している間にムカデ競走が終わり、スピーカーから流れていた大音量の音楽が止まり、順位が発表される。八クラスあるうちの五位から焦らすように発表され、順位が一つ上がる毎に歓声が大きくなる。
そうは言っても盛り上がっているのは競技に参加していた二年生たちと、前の方で楽しそうに応援をしていた集団だけで、私たちを含む後ろの方に座っている人たちは拍手をする程度で、友人との雑談に夢中になっている人の方が多かった。
それから三年生が入れ替わりでグラウンドに入り、体育祭では定番中の定番である大縄跳びが始まる。
小学校の時に私がやった大縄跳びは、八の字に並んで回転する縄に飛び込む形だったが、ここでは初めから縄を回す人を除くクラス全員が整列した状態で飛ぶらしい。
開始の合図と共にスピーカーから騒音が流れ出すが、私の耳は大分慣れてきたらしく、あまり煩いとは感じなかった。
前の方で応援している人たちは声を揃えて数を数えているが、私にはどこで飛んでいる人が自分と同じ色の人たちなのか分からず、漸く見つけられた頃には終了の合図であるピストルの音が鳴り響いた。
周りの雰囲気から、恐らくそれなりに良い結果だったのだろうと予測しつつ、蒼依に手を引かれてゲート前に向かう。
体育祭が始まって四十分。漸く私たちの出番だ。
安っぽいゲートを潜ってリハーサルと同じ場所に整列する。
私も蒼依も身長が高いからという理由で後ろの方に配置された。一番後ろには如何にも強そうなバレー部の子がいて、なかなか頼もしい。
予定通りアナウンスがあり、まずは男子の綱引きが始まる。
総当たりではなかった事に感謝しながら男子チームの試合を見届け、男子の優勝が決まったところで、ようやっと女子の綱引きだ。
こちらもトーナメント戦で、まずは八組との対決。それが終われば他の勝ったクラスとの対決。順調に勝てたなら、たったの三回で優勝が決まる。
結果を言えば惜敗。八組には勝利したものの、次の五組相手には僅かに相手側に引っ張られてしまった。しかし喜ばしい事に、私たちに勝利した五組は同じ赤ブロックで、私たちに勝利した後、勝ち進んできた二組に勝利し、綱引きでは赤ブロックが一番の高得点を貰う事となった。
「じゃあ二人ともがんばってな」
「うん。ありがとう」
結果発表が終わり、再び音楽が流れ始めると、私と蒼依は客席には戻らず、クラスの何人かの女子に見送られながら再び入場ゲートへ向かう。
「紅音、大丈夫? 緊張してない?」
「してる。転けたらごめんな」
「それはまぁ、連帯責任だから」
前日練習の通りに整列し、蒼依の右足首と私の左足首をストッキングで作られた紐で結ぶ。身体を支えるために蒼依の括れた腰に腕を回し、それから足を軽く動かして簡単には解けない事を確認し、同じブロックの人と合流する。
この二人三脚リレーでは各クラス三ペアずつが出場する事になっており、私たちのクラスからは私と蒼依のペアと浩二とその友人、それから文化祭の時にダンスを教えてくれた三好さんとその友人の三ペアが出場する。
同じブロックである五組からも当然三ペアが出場する事になっており、同じチームの仲間として交互に走る。第一走者は私と同じクラスの浩二のペアなので、浩二のペアは五組のペアにバトンを渡し、私たちはそのペアからバトンを受け取る事になっている。
そのバトンの受け渡しを行うのは左側に居る人。つまり私たちの場合は蒼依がそれを担う。私はただ蒼依と息を合わせて走るだけで良い。
それが言葉にするように簡単な事だったらどれだけ良かっただろうか。
緊張を解すための深呼吸が溜め息に変わって吐き出される。
「紅音、がんばろうな」
「えっ、うん。浩二もがんばってな」
突然浩二に話しかけられて目を丸くしながら、反射的に頷き、心の籠もっていない言葉と共に見送る。
スタート地点でペアの人と何かを確認している浩二を見て、私も最終確認をする。
「内側からやんな?」
「うん。合図はお願いしてもいいんだよね?」
「うん。私が後ろ見とくし、内側の足を下げといて、せーえーのっはいっ……で足出す」
言いながら実際にやってみると、突然の事だったにも拘わらず、蒼依は上手く合わせてくれた。
「了解」
「後はまぁ、がんばろ」
「本当なら私が外回りの方が良いんだろうけど」
「それは……何か上手く行かへんかってんから、しゃあない」
普通の百メートル走などではあまり関係の無い事ではあるが、二人三脚では歩幅を合わせなければならないという性質上、外側を走る人の歩幅が広い方が比較的合わせやすい。
人一人分の差は誤差とも言えるかもしれないが、意外と走っていると気になる物で、先生にもアドバイスとして蒼依を外側にした方が走りやすいのではないかと言われたが、何故か蒼依を外側、つまりは私の右側に蒼依が居ると、何故か上手く走れなくなってしまう。カーブが上手く曲がれないどころか直進する事すらも難しかった。
それよりかは真面に走れる元の形が良いだろうと、私が外側を走る今の状態になった。
確かにカーブを曲がる際に少々違和感はあるが、その時だけほんの少し私が大股に走れば済む話だ。走れなくて勝負にすらならないよりかはずっと良い。
「よし、がんばるぞー」
大声で突然掛け声を挙げられるようなメンタルは持ち合わせていないため、気の抜けるような声で気合いを入れる。
「おー……って、テンション上がってきた?」
「かも」
体育祭が嫌いだなんだと言いつつ、こういうのは大抵やり始めるまでがめんどうだというだけで、やり始めると案外楽しい物だ。
蒼依の言う通り、それなりに気持ちが乗ってきた私は、人目を憚らず、合法的に蒼依と密着できるこの状況に甘えて蒼依の腰をぐっと抱き寄せる。蒼依も私の肩に腕を回して抱き寄せてくる。
そしてアナウンスと共にピストルの音が響き渡り、浩二たちが一斉に走り出した。
ペンギンのようなぎこちない走り方をするペアが多い中で、浩二たちはジョギングをしているかのような軽やかさで他のペアを置き去りにしていき、あっという間にトラックを一周して第二走者にバトンを受け渡した。
「あんなに速く走れるもんなんやなぁ」
「ね。私らもがんばらないと」
客席や待機している走者たちの応援する声を聞きながら、他の走者の邪魔にならないようにバトンを受け取る準備をする。
第二走者の二人も浩二たちに比べると少し遅くはあるが、それでも転ける事無く順調に走っている。
打ち合わせ通り、内側の足を下げて、私は走り出すタイミングを窺う。
そして私たちのチームの二人が最終カーブを曲がりきった頃、蒼依の方をちらりと見やり、声を掛ける。
「行くよ?」
「うん」
「せーえーのっはい」
私たちも理想は浩二たちのようなジョギングくらいのペース。それに合わせて掛け声をして、蒼依が上手くバトンを受け取ったのを確認し、後は蒼依と息を合わせて走る事に集中する。
自分が走る時よりも気持ち大股で、すぐ傍から聞こえてくる蒼依の息遣いを聞きながら、短いようで長い二百メートルのトラックをぐるりと回る。
最後のカーブを曲がりながらバトンを受け渡す相手を目視して、ペースは一定のまま、そこに目掛けて走り、蒼依がバトンを受け渡したのを見てどたどたと転けそうになりながら速度を落とし、トラックの内側に退避する。
足首を紐で繋がれたまま地面にお尻を着けて座り、ふぅ……と息を大きく吐き出して呼吸を整える。
「お疲れ、蒼依」
「うん。お疲れ」
「結構良かったんちゃう?」
「うん。いつもよりペース速い気がしたけど」
「え、ほんま?」
「多分だけど」
「まぁ、転けずに済んで良かったわ」
「何とかなったね」
そうしている間に私たちの後のペアの二人が帰ってきて、三好さんペアにバトンが渡される。
既に他のチームとの差はトラック半周分程あり、紐が解けたり転けたりしない限りは勝ててしまいそうだった。
「ファイトー」
「……絶対聞こえないでしょ」
「いいの」
三好さんペアがアンカーにバトンを渡すと、最後のペアはアンカーに相応しい速度であっという間にトラックの半分、百メートルを走り、最下位のチームを一週遅れにする勢いで走ってきて、ゴールテープを切った。
「次が玉入れで、その次がまた私ら出番やんなぁ」
スウェーデンリレーという、第一走者が百メートル、第二走者が二百メートル、それから三百メートル、四百メートルと、四人合わせて千メートルのリレーがこの後に控えている。
「がんばって」
「蒼依も出るやろ」
「私は百メートルだから」
「それほんまに意味分からんねんけど。せめて私も二百メートルがよかった」
不満を言ってはいるが、立候補したのは私で、足が速い人が全力疾走できる短い距離を走る事にも納得はしている。文句を言っているのはただ私が三百メートルを走りたくないからというだけだった。
「紅音の方が持久走得意でしょ?」
「蒼依の方が記録上やったような気がするんやけどなぁ」
「まぁまぁ、もう決まった事だから」
一年生の二人三脚が終わり、二年生の二人三脚が始まる。それが終わると最後に三年生も同じように二人三脚リレーをして、最終結果が発表される。
最終結果は青ブロックが一位で、私たちの赤ブロックは二位。理由は明らかだったが、それをわざわざ口にする人は誰もいない。結局みんな楽しめればそれで良いのだろう。
客席に戻ると、既に夕夏が居なくなっており、彩綾に迎えられる。
「お二人さんお疲れー」
「ありがと。夕夏はもう行っちゃった感じ?」
「うん。めんどいって言いながらあっち行った」
「そっか」
水筒のお茶を一口飲んで喉を潤し、グラウンドの方へ目を向ける。
時間という物は意識していないと過ぎ去るのが早く感じる物で、既に午前中に行う競技の半分が終了していた。
夕夏の出場するこの玉入れが終われば、私と蒼依、それから彩綾と、先程二人三脚にも出場していた三好さんの四人が出るスウェーデンリレーがあり、その次には午前の目玉競技である借り人競争が行われる。
因みにその借り人競争には浩二が出ると聞いているが、何となくめんどうな事に巻き込まれそうな、そんな嫌な予感がしていた。
少々憂鬱な気分になるが、スウェーデンリレーが終われば私の出番は終了だ。午後からの私の役目はこの客席でみんなの活躍を見守るだけとなる。
しかしこの玉入れも見る側としてどう楽しめば良いのか分からない。とりあえず赤い球を腕一杯に抱えて高い場所に設置されている籠目掛けて投げる夕夏をじっと眺めてみてはいるものの、がんばっているな、というだけで面白くはない。
やがてピストルの音が鳴り、籠の中に入っている玉の数を数えるターンになる。
一つ二つと籠の中に入っていた玉が上空に放り投げられていく。
初めに脱落したのは残念ながら赤ブロック、それからすぐに緑ブロックが脱落し、最後に一番高く放り投げられたのは黄ブロックのところだった。
「そろそろ行こっか」
「うん」
「あ、ちょっと夕夏に会いに行ってもいい?」
「あぁ、うん。ええよ」
駆け足で階段を降りる彩綾に付いていき、夕夏を出迎える。
「お疲れー」
「ありがとー。三人とも次走るんやんな?」
「うん」
「じゃあ荷物番してるわ」
「お願い」
「うん。じゃあ、がんばってね」
「はぁい」
それだけ話してゲート前に向かう。少し遅れて彩綾がやってきて、全員が揃った所で入場する。
「もう緊張は大丈夫?」
「うん。文化祭よりは全然」
「じゃあ大丈夫だね」
バトンの受け渡しに少々不安はあるものの、文化祭や面接のような緊張感は無い。
蒼依と別れ、自分の待機場所へ向かうと、第二走者の三好さんが駆け寄ってくる。
「紅音ちゃん」
「はぁい」
「がんばろうな」
両手を掴まれ、きらきらとした笑顔に見つめられる。
やけに鉢巻きが似合っているように感じるのは彼女の性格故なのだろうか。私は赤い鉢巻きが自分に似合っているとは思えず、これを着けているだけでも少し恥ずかしい。
「うん。ええと……三好さんもがんばってね」
「ありがとー。名前で呼んでくれてもええんやで?」
「……それは次からで」
「うん。楽しみにしてるわ」
彼女の下の名前は何だっただろうか、と思い出そうとしている間に彼女はコースの方へ歩いて行った。
私もいつでも走れるように準備を終え、早く始めてくれと冷たい空気に身体を震わせていると、「位置について……」というアナウンスの後、ピストルの音が聞こえてきて、客席から聞こえてくる声援が一気に大きくなる。
八人居る走者の中で一際背の高い蒼依がよく目立つが、先頭争いをしているものだから尚のこと目立つ。
コースの外側に並ぶ三好さんにバトンが渡り、三秒程の間に全クラスが第二走者にバトンが繋がれた。
がんばっていた蒼依を盛大に出迎えたいところではあるが、今走っている三好さんからバトンを受け取って走らなければならないため、とりあえず配置に就く。
「紅音、がんばれー!」
蒼依の声援が聞こえ、手を振って応える。
そんな事をしている間に、赤いゼッケンを身に付けた三好さんが直線に入ってくるところで、私は慌てて走る体勢に入る。
ノールックでバトンを取った方が早いとは言うものの、私としてはバトンを落としてしまう方が怖いため、後ろを見ながらゆっくりと助走を付け、右手でしっかりとバトンを受け取る。
「がんばって!」
三好さんの声援を受けて大股気味に走り出す。
順位は二位。先頭の人とは箒を持っていれば叩けそうなくらいの距離しか空いていない。しかしこの距離を詰めろと言われて詰められる程私の足は速くないため、とりあえず残り百メートル辺りで思い切り走れるようにしようと軽めに走る。
けれどもやはり抜かされそうになって黙っていられるような性格でもないので、もう少しで一周という所で視界の端に人の足が見え、予定を変更してできる限りの全力を出す。
足は動くが胸が苦しい。初めは三百メートルなんて百メートル三回分だから余裕だろうと思っていたが、いざやってみると残り百メートルがあまりにも辛い。しかし持久走で最後の一周を全力で走るよりはずっと楽だ。
カーブを曲がった先にはこちらに手を振る彩綾の姿が見えた。何かを叫んでいるようだが、客席の声援に埋もれてしまって聞き取れない。
先頭を走っていた人を追い抜かせそうだったが、その役目はクラスで一番足が速くて体力もあるという彩綾に託す。
「頼んだ!」
「任せて!」
差し出された手にバトンを乗せ、彩綾が握ったのを見て手を離し、走るのをやめてトラックの内側に退避する。
手を膝に突き、肩を上下させてゆっくりと呼吸を整えながら走り去って行った彩綾を見つめる。
彩綾は体力に自信があるのか、それとも何も考えていないのか、接戦していた相手をぐんぐん突き放して、そのままのペースで一周目、二百メートルを走って二周目に突入した。
二位との差もあるから少しペースを落とすのかと思ったが、私の目には一周目と変わらずずっと全力疾走しているようにしか見えなかった。
彩綾は然程ペースを落とす事無く、そのまま二位と大差を付け、大歓声の中ゴールテープを切った。
「彩綾お疲れー」
「いやぁ、疲れたぁ」
疲れ果てた様子で地面に座り込む彩綾の下に集まり、それぞれ彩綾とハイタッチをする。
「よくあのペースで保ったなぁ。練習の時はもうちょっとゆっくりやったやん」
「そうやねんけど、今日調子良かったし、行けるかなぁって思って」
「行けちゃったんだ」
「そう。意外とね」
「私三百でギリギリやったわ」
「そうやん! 紅音ちゃんもめっちゃ速かったなぁ。一位やった子、確かバスケ部やろ?」
「そうなんや」
何故追いつけたのかは自分でもよく分かっていない。あの時はもう自分の事で精一杯だった。
全員がゴールし、次は男子が同じルールで同じ距離を走る。それが終われば今度は二年生が走り、最後に三年生が走ってスウェーデンリレーは終了だ。
「彩綾次も出るんやろ? 大丈夫?」
「うん。余裕。部活の方がしんどいわ」
「さすがやな」
終わり際に彩綾と話していると、蒼依に肩を掴まれる。
「紅音浮気?」
「最近判定厳しくない?」
「紅音が最近私より他の人と仲良くし過ぎだと思う」
「そんな事無いと思うけどなぁ」
そう言いつつも自覚はしている。寧ろわざとやっている時もある。蒼依もまだ冗談めかしく言ってくれているが、そろそろ控えた方が良いかもしれない。
「じゃあ彩綾、がんばってな」
「うん。行ってくる」
ゲートの方へ走っていく彩綾を見送り、私と蒼依は客席に戻る。
「二人ともお疲れー。めっちゃ速かったなぁ」
「ありがとう。彩綾が帰ってきたらいっぱい労ったって」
「うん。すごいよねぇ、あれ。ずっと全力やったもん」
「ね、ほんまに」
自分の荷物を持って座り、お茶を二口ほど飲み、ぷはぁ、と息を吐き出す。
「借り人競争やけど、体力余ってんのかなぁ」
「さっきは大丈夫そうやったで?」
「変なもん引き当てへんかなぁ」
「校長先生とか?」
「うわぁ嫌やなぁそれ」
「好きな人とか引いたらどうする?」
「えっ、どうしはんねやろ。紅音は好きな人とか引いたらどうする? 蒼依連れてく?」
「確かに、どうしよ」
今好きな人はと訊かれたら迷う事無く蒼依だと答えられるが、それをこの大勢の前で堂々と宣言できるかと訊かれたらさすがに躊躇してしまう。
「蒼依はどう?」
「んー……。友達としてって言ったら押し通せたりしない?」
「あぁ、どうなんやろ」
「彩綾引かへんかなぁ。引いて夕夏を連れてってくれへんかなぁ」
「断ったらどうなんねやろ」
「やめてあげて」
いつの間にか気にならなくなっていた音楽が止まり、いよいよ午前最後の競技、借り人競争が始まる。
今回も一年生の女子から順にやるらしく、スタート地点に彩綾と美波の姿があった。その後ろにはクラスメイトであろう人が六人、恐らく三ペアが並んでいる。
『位置について……用意……』という掛け声が放送席にあるスピーカーから流れ、その数秒後、ピストルの音が鳴り響き、十六人が一斉に地面にいくつか散りばめられている紙の下へ走り出す。
「撃たれた振りとかする人居ないんだね」
「ちょいちょい言うてるけど、蒼依のその関西人への偏見は何なん?」
「部活対抗リレーとかだとしたりするのかな?」
「さぁ? 蒼依がやったら?」
「私関西人じゃないし」
「多分そのネタ関西人以外の人の方がやってるで」
「そうなんだ……」
偏見を持って勝手に落胆している蒼依の事は放っておいて、お題に合う人を探しているであろう彩綾の姿を探そうとグラウンドの方へ視線を向けると、何故か私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
よく見ると彩綾と美波が私の方を見て手招きをしている。
その二人の持つ大きな紙には『密かにモテている人』という何とも反応しにくいお題が書かれていた。
「紅音、呼ばれてんで?」
「最悪やねんけど……」
「まぁまぁ、行ってらっしゃい」
蒼依に背中を押され、階段を降りて二人の下へ向かうと、お題の書かれた大きな紙を首に掛けられ、更に両足首を二人の足首に紐で繋がれ、三人四脚の状態にさせられる。
「よし行くでー」
二人三脚の時より紐が緩いのが有り難いようで、逆に走り辛くもあったが、両手に花の状態で直線上にあるゴールに向かってぽてぽてと走り、何番手かは分からないが無事にゴールした。
「ごめん、紅音。ぱっと浮かんだのが紅音やってん」
パンッ、と音を鳴らして手を合わせ、二人して頭を下げてくる。
「喜んでいいのか何なのか……」
「喜んでえてんちゃう? モテるのはええ事やろ」
「そんなにモテてるかなぁ……。多分蒼依の方がモテてると思うけど」
「いや、密かに、やから」
「納得いかへんなぁ」
「まぁまぁ、客席に戻ってどうぞー。ありがとうな」
「はぁい」
笑顔の二人に見送られて客席に戻る。
「お疲れ」
「もう……ほんまに怠いわぁ」
「まぁ、私も密かにモテてるって訊かれたら紅音が浮かぶわ」
「そんなに?」
「うん」
蒼依と夕夏が同時に同じ反応を示し、私は深い溜め息を吐いた。
「これで鈴木が好きな人とか引いたりして」
夕夏が悪い顔をしてそんな事を言った。
「この状況でそれはほんまに最悪」
モテる人として連れて行かれ、浩二に好きな人として連れて行かれた時にはもう私はこの学校に通いたくなくなるかもしれない。
最悪の事態が頭に浮かんでいる中、浩二のペアがスタートした。
こっちに来るなと七夕で星に願うよりも強く願いながら浩二たちの持つ紙の文字を読み取ろうとするが、その前に浩二たちは全く違う所へ走って行った。
「あぁ、良かったぁ」
「さすがに違ったかぁ」
「お題何なんやろ」
浩二のペアが連れてきたのは何となく見覚えのある先生だった。
「あれ体育の先生ちゃう?」
「ふぅん」
その時、紙に書かれた文字がはっきりと見え、それを蒼依が読み上げた。
「怖い先生だって」
「あぁ、なるほどね」
私も夕夏も口を揃えて納得した。
あれにはきっと誰もが納得するだろう。休み時間などに話すと他の先生と大して変わらずよく笑う先生なのだが、体育の先生であると同時に生徒指導の先生でもあり、叱るときは段違いに怖い。
恐らくあのお題に不満を持つとすれば選ばれたあの先生だけだろう。
「後で二人怒られるんちゃうん」
「ありそう」
それからは何事も無く競技は進み、私もあれ以上巻き込まれる事無く競技が終了した。
午前の競技が全て終わり、私の出番もこれで終わりだ。まさか最後の最後で巻き込まれるとは思っていなかったが、今までに借り物競走に参加した事が無かったため、良い経験にはなったかもしれない。
午後からも部活紹介や部活動対抗リレーなど、目玉となる競技があり、蒼依が活躍する姿も見られるが、午前で力を使い果たした私はまた応援する気力を失ってしまっていた。
昼食を食べた後、部活動紹介の準備に向かう蒼依を呼び止める。
「どうしたの?」
音楽室のある三棟へ続く渡り廊下。はしゃぐ生徒の声が聞こえてくるが、見える範囲に人の姿は無い。
「気合い入れてあげようと思って」
そう言って私は蒼依の肩に手を置き、もう片方の手を蒼依の頬に当てると、ぐっと背伸びをして、優しいキスをした。
「じゃあ、がんばっといで」
いつも蒼依がしてくれるように頬を撫でる。
「うん。ありがと。またね」
そう言って去り際に見せた蒼依の笑顔に見惚れ、私はその場から暫く動けなかった。
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