第28話 10月12日

 先生が教室に入ってきて、名簿順に座っている私たちの前に三枚のプリントが配られる。


 一つは解答用紙、あと二つのうち一つは両面に問題が書かれた紙で、もう一つが今私たちから見えていない裏側に問題が書かれているらしい。きっと、見ただけでうんざりしてしまうくらいの英文が書かれているのだろう。


 先生の指示に従って左側に置いておいた解答用紙を裏返し、一番上にある空欄に自分の所属しているクラスと名前を書き込んで、それからまた裏返して白紙の面を上にする。


 学校中が静かになり、どこからともなく何かの虫や鳥の鳴き声が聞こえてくる。


 二分と少し狂っている壁掛け時計を見て、机の上に視線を戻す。


 眼鏡のツルを撮み、しっかりと耳に掛ける。それから大きく息を吸って、肺に溜まった空気を静かにゆっくりと吐き出し、心の中で「よしっ」と呟いて気合いを入れる。


 その十数秒後、チャイムが校舎内に鳴り響いた。


 先生の掛け声を合図に皆が一斉にプリントを裏返すと、すぐにガリガリと紙に文字が書かれる音がそこかしこから聞こえてくる。


 私も問題用紙を裏返し、左上の問題から順に解いていく。


 始めは日本語の単語を英語に、英語の単語を日本語に直す比較的簡単な問題がそれぞれ四問ずつ。その次に先週四人で集まってやっていたような日本語の文章を英語に直す問題。それから長い英語の文章から必要な情報を探して問いに答える、所謂文章題。


 単語は特に悩む事無く書き込み、誤字などの小さなミスを犯していないかどうか確認してから次の問題へ進む。解答の仕方を間違うような事がないように問題文をしっかりと読み、少々悩みながらも順調に空欄を埋めていった。


 時間配分はあまり気にしていない。時間を気にして焦った所で頭が回らなくなってケアレスミスをしたりちゃんと考えれば分かるような問題を間違えてしまったりと、損しかない。問題の数は一学期の試験と大差無いため、余程の事が無ければ時間が足りないなんて事にはならないだろう。


 空欄を全て埋め終わり、不安だった場所を見直し、誤字などをしていないか再度よく確かめ、チャイムが鳴るのと同時にシャーペンをそっと机に置いた。


 先生が解答用紙を回収し、私は一つ深呼吸をすると、張り詰めていた緊張の糸が緩み、思わず欠伸が出る。


 誰かが身動ぎしたりペンを机にぶつけたりして徐々に騒がしくなってきた頃、解答用紙を数え終えた先生から号令が掛かり、二学期中間試験二日目最後の科目が終了した。


 教室内が長い緊張状態から解放された生徒たちの声で一杯になる。


 シャーペンと消しゴムをペンケースに仕舞い、問題用紙はくしゃくしゃになってしまわないようにクリアファイルに挟んで鞄に入れる。


 後はもう帰るだけという段階で、蒼依に声を掛けようと顔を上げると、一足先に蒼依が声を掛けてくる。


「紅音、お疲れ」

「お疲れー。どうやった?」


 立ち上がって鞄を左肩に提げると、蒼依も立ち上がり、私はそれに合わせて顔を上げる。


「完璧とは言えないけど、それなりに自信はあるかな。紅音は?」

「私も今回は結構自信あるで」


 首を反らし、にやりと笑い掛けると、蒼依も同じような笑みを浮かべた。


「そうなんだ。楽しみにしておかないとね」

「今回は勝つから」

「お二人さんは何の話してんのー?」


 悪戯心の滲み出る声が真後ろから聞こえてきたのと同時に視界の両端から腕が伸びてきて、肩に重りがのし掛かってくる。その衝撃で肩に提げていた鞄が擦り落ちるのを感じ、咄嗟に腕で受け止めた。


明日の試験勉強用に持って来ていたノートや教科書などが無ければこれ程痛くはなかっただろう。


「ちょっと彩綾」

「何してるの?」


 夕夏が少し不機嫌を声色に滲ませながら彩綾を咎め、目の前に立つ蒼依もまた表情を歪め、声を低くした。


「ごめんって。冗談やん。そんなに怒らんといてよぉ。なぁ?」


 本気で焦ったのか、彩綾はすぐに私の肩から離れ、両手を挙げて降参のポーズを取りながら、何故か私に同意を求めてくる。


「なぁ? って言われてもなぁ……」


 私としてはただ落下する鞄を受け止めた左腕が少し痛かったというだけで、抱き付かれた事に対しては特に何も感じていなかった。


「ほら、紅音も怒らんといてって言うてるで?」

「耳どうなってんねん」

「もう、ごめんって。ほんで、二人はテストどうやった?」


 彩綾はへらっと笑い、両手を下ろす。それから何事も無かったかのように話題を変えた。


「私は今回結構自信あるで」

「私も」


 私が答えると、蒼依が続いて同意する。


 今日は先程の英語と、古文、それから歴史の三教科の試験が行われた。


 私にとっては苦手な三教科が固まっていたが、それ故に昨夜はいつも以上に張り切って勉強をし、その成果が充分に発揮された。少し夜更かしをする事にはなったが、何故か昨日よりも試験に集中できていたし、それによって成績が上がるのなら私は満足だ。


「さすがやなぁ。でも私も今回はいつもより分からんとこ少なかったわ」

「へぇ。回答欄間違ってたりしない?」

「大丈夫。それはちゃんと確認したから」


 不安を煽る蒼依に負けず、彩綾はグッドサインを出して答えた。


 テンションの高い彩綾の相手をするのは少々めんどくさいので、彩綾の相手は蒼依に任せ、机に腰を掛けて夕夏に訊ねる。


「夕夏はどうやった?」

「うーん……英語は結構できた気がするけど、歴史と古文が微妙」

「今回は私の方が点数高いかもね」


 隣で聞いていた彩綾がそんな事を言うと、


「それは……嫌やなぁ」


 と、夕夏は眉間に皺を寄せ、分かりやすく嫌そうな表情を浮かべた。


「そんな嫌がらんでも良くない?」


 さすがに彩綾も応えたのか、少し声のトーンが落ちた。


 夕夏はそれを無視して私と蒼依の方に向けて話し掛けてくる。


「そんな事よりさぁ」

「そんな事?」

「今日の提出物何やっけ?」

「あっ、そうや。すっかり忘れてたわ」


 私は慌てて鞄のファスナーを開け、中から各科目のノートを取り出し、顔を上げて蒼依を見る。


「今日ってノートだけで良かったっけ?」


 それ以外に提出する予定で持って来た物は無いため、他にあると言われると絶望するしかなくなってしまうのだが、念の為蒼依に訊ねる。


「うん。多分」


 蒼依はこくりと小さく頷いたが、余計な一言を付け加えた所為で、どうしようもない不安感が残った。


「やって」


 夕夏の方を見ると、夕夏も私と同じように鞄からノートを三冊取り出し、「古文と、歴史……英語」と呟きながらノートの表紙に黒色のペンで書かれた文字を確認していた。


「他無いんやんな?」


 再度確認してくるが、残念ながら本当かどうかは分からない。


「うん。多分ね?」


 保険を掛けて無責任に肯定する。


「ん。ありがとう」

「じゃあ忘れる前に出しに行こ」

「うん」


 腰を上げ、蒼依の後に続いて教室を出る。それから渡り廊下を渡って一棟校舎に向かい、階段を下りてすぐの所にある職員室の前まで来ると、段ボールで作られた受け箱が廊下に並べられているのを見つけた。


 幸いそれほど人集りはできておらず、のんびりと自分たちのクラスと科目が書かれた箱を探し、間違えて未提出になってしまわないようよく確認してからノートを入れる。


「よしっ、帰るかぁ」


 一仕事終えたとばかりに掛け声を上げた彩綾に応える人は誰も居なかった。


 階段を下り、昇降口に向かう。


「明日は……生物と化学と……」

「地理」

「そう地理や」

「今日も家行って良い?」

「うん。ええよ」


 彩綾と夕夏が隣で話しているのを黙って聞きながら靴を履き替え、不意に頬を突いてきた蒼依の手を叩き落とす。


「二人もちゃんと勉強しぃや?」


 彩綾がにやにやとどこか腹立たしい笑顔を向けてくる。その言葉には明らかに裏がある言い方だった。


「彩綾には言われたくない」

「彩綾は人の事言うてる場合ちゃうやろ」


 それらを蒼依と夕夏が言うのは殆ど同時だった。


 私と蒼依が歩き出すと、その後ろに二人が付いてくる。


「いやいや、私だって勉強してるからな?」

「昨日めっちゃ時間あったのに二時間くらいしか勉強せぇへんかったやん」

「二時間したらがんばった方でしょ」


 私の中で蒼依みたいにかっこいい人だった彩綾のイメージはいつの間にやら崩れ去り、今やちょっとお馬鹿な弄られキャラとなっていた。しかし馬鹿とは言うものの、成績が特別悪い訳ではない。ただ、私たち四人の中では試験の点数が低いというだけで、平均点を超えている教科の方が多い。


「紅音って一日どれくらい勉強してんの?」


 夕夏に訊ねられ、首を傾げながらとりあえず昨日一日の事を思い出す。


「んー……昨日は八時間くらい?」

「ほら」

「それはがんばり過ぎ。夕夏もそんなにやってへんやろ?」

「うん。でも昨日は四時間くらいやったで?」

「ちょっと待って。蒼依は?」

「私も八時間……はさすがに嘘だけど、多分六時間はやったと思う」

「嘘やん」

「ほら、点数取ってる人はその分ちゃんと勉強してんねんて」


 三人が楽しそうに言い争っているのを横目に見ながら、綺麗に二時間違いでやったんだな、なんてどうでもいい事に思考を割いていた。


 自分が話の中心人物になっていない時の私はいつもこうだ。二人きりであれば、相手が相当な話し好きで只管喋り続けるような人でない限りは私も相槌や返事で会話をする事にはなるが、そこにもう一人誰かが加わると、私は喋る事が無くなる。というより、喋る必要性を感じない。


「二人はこの後勉強会したりすんの?」


 こうやって彩綾から質問が飛んできても、私の代わりに蒼依が答えてくれる。


「うん。また暫くデートできなくなるから」


 私には何故それを言うのは恥ずかしくないのか不思議で仕方が無い。


 それを言えるのなら、私にもっと好きと言ってくれても良いと思うのだが、それはどうも恥ずかしいらしく、家で二人きりで過ごしていても、なかなか言ってくれない。


 好きというオーラが出ていると夕夏や美波は言っていたが、そんな占い以上に怪しい物を信じられる程私は素直な性格をしていない。


 じっと蒼依を見つめていると、不意に蒼依がこちらを向いた。


「どうしたの?」

「ううん」


 見ている事に気付いてくれた事が嬉しくて、自然と口角が上がるのを感じながら私は首を横に振る。


 そんな事をしている間に、いつもの分かれ道に到着し、彩綾と夕夏の二人と別れた。


 それから暫く無言のまま歩き、車通りが激しくなって話すタイミングを窺っている内に、もう駅が見える所まで来てしまっていた。


「今日うち来るんだよね?」


 改札を抜けると、蒼依がそんな事を訊いてきて、私は首を傾げる。


「うん。何で?」

「いや、お昼ご飯どうしようかなぁって」


 蒼依はそう答えたが、何となく誤魔化されたような気がした。


 京都行きの電車の到着を報せるアナウンスが流れ始め、それに埋もれないように少し声を張る。


「私弁当持ってきたで?」

「えっ、そうなん?」


 驚きのあまり蒼依の口から出てきた言葉が関西弁になっていて、つい指摘しまいそうになったのを既の所で飲み込んだ。


「蒼依も食べる?」

「私の分もあるの?」

「うん」


 蒼依の後ろから銀色の電車が止まれるのか心配になる速度で近付いてくるのが見えた。


「えっ? あるの?」


 蒼依がぱちぱちと目を瞬かせる。


 どうやら本当にあるとは思っていなかったらしい。


「うん。この前作ってほしいみたいな事言ってなかった?」

「言った気はするけど……、え? 本当に?」

「そんな凝った物ちゃうけどな」

「良いよそんな……。じゃあ楽しみにしてても良い?」

「あんまり期待されると困るけど」

「うん」


 電車の扉がホームに描かれたマークの場所ぴったりに止まり、プシュゥ……と空気の抜ける音と共に扉が開いた。


 車内はすぐに大勢の学生で一杯になる。それでもお昼時という事もあって学生以外の乗客が少なく、息苦しさを感じる程ではない。


 扉の近くに立ち、特に会話をする事も無く窓の外に流れる景色を眺めて過ごす。


 電車が駅に停車し、ぼうっとしていた私は蒼依に手を引かれるがままに電車を降りた。


 鞄からICカードを取り出し、蒼依の後に続いて改札を抜ける。それから線路の下を潜り、大きなショッピングセンターのある方へ歩いていく。


「このまま家に向かう?」

「うん。私はそれでええけど、何か買わなアカン物があるんやったら別に寄ってくれてもええで?」

「今日お母さんも家に居ないから、お昼ご飯を食べて帰るか買って帰るかで悩んでたんだけど、紅音が作ってきてくれたみたいだしね」

「じゃあ家行こう」

「うん」


 そうして歩き出すと、蒼依に手を取られる。


 私たちが手を繋いで街中を歩いていた所で、それを変に思う人はあまりいないという事は分かっていても、やはりまだ少し照れ臭い。けれども蒼依はこれをそれ程恥ずかしいとは思っていないらしい。


 蒼依の顔をじっと見つめても、蒼依は首を傾げるだけだった。


 もしかすると蒼依は、知らない他人の目をあまり気にしない人なのかもしれない。


 山の方へ向かい真っ直ぐ歩き、横断歩道を渡って細くくねくねと曲がる坂道を上る。


「次こっちやっけ?」

「よく覚えてるね」

「まぁね」


 あまり記憶力が良くない上に方向音痴とよく言われる私だが、何故かここの道程は覚えていた。


 何度目かの交差点を曲がり、先程まで自分たちが歩いていた場所が見下ろせる場所まで来ると、見覚えのある建物が見えた。


 手を放し、蒼依が鞄から家の鍵を取り出して、ガチャン、とやたらと大きな音を立てて鍵を開ける。


「どうぞ」

「うん。お邪魔します」

「あ、鍵閉めといて」


 扉を後ろ手に閉め、ガチャン、と大きな音を立てて鍵を閉めた。


 壁沿いに踵を揃えて靴を脱ぎ、蒼依の後を追って手前の部屋に入る。


「お疲れ。お茶持ってくるし座ってて」

「うん」


 鞄を下ろし、ローテーブルの手前側に、今日は遠慮無く座る。


 今日は汗を搔いていないのが幸いだった。軽い登山をしたお蔭で少し身体が火照ってはいるものの、汗を搔くほどではなかった。念の為にタオルも持って来ていたけれど、出番は無さそうだ。


「お待たせ。麦茶で良い?」

「うん。ありがとう」


 ポーチと置き時計を端に退けて、お茶のボトルとガラスのコップを乗せたお盆をローテーブルの真ん中に置き、部屋の扉を閉めると、蒼依は私の向かい側に腰を下ろした。


「何時くらいからやる?」

「とりあえずお昼食べようや」

「それもそっか」


 私は鞄の中から大きな手提げ鞄を取り出し、その中から弁当箱を二つとタッパーを取り出してテーブルの上に置く。


「弁当箱一つが蒼依のね」

「はぁい。ありがとう。あ、お箸は?」

「はい」


 言われてその存在を思い出し、手提げ鞄の中から取り出した細長いケース二つの内一つを蒼依に手渡した。


「開けても良い?」


 蒼依が弁当箱を両手に持って言う。


「どうぞ」


 私がそう促すと、蒼依は両端のロック同時に外して蓋を持ち上げる。


「へぇ、美味しそう」

「簡単な物ばっかりやけどね」


 そう言いながら私も自分の弁当箱の蓋を開ける。


 中に入っている物は全く同じ物だ。白ご飯が弁当箱の半分を占領しており、そのもう半分に野菜炒めや昨日の夕飯の残りである豆腐ハンバーグなどのおかずを入れてある。違う所があるとすれば、ほんの少し蒼依の方が入っている具材の量が多いというだけだ。


「こっちのタッパーに入ってるのは?」

「そっちはデザート。梨やねんけど、好き?」

「うん。林檎より好き」

「林檎がどれくらい好きなんかは知らんけども」


 昨日ふと思い立った弁当も保険として付け足したデザートもなかなか好感触でほっと胸を撫で下ろす。


「それじゃあ、いただきます」

「いただきます」


 手を合わせ、それぞれ小さく食前の挨拶をして弁当を食べる。


 蒼依は相変わらず無言で食べているが、その表情には笑顔が浮かんでおり、喜んで貰えているのが分かって、私にも自然と笑顔が浮かぶ。


 弁当を食べ終わり、残すはデザートだけという所で、蒼依が口を開く。


「美味しかった。ありがとうね。紅音」

「うん」


 どう答えれば良いのか分からず、とりあえず頷いておく。


「これって手作り?」

「うん。さすがに全部ではないし、昨日の夕飯の残りもあるんやけど……豆腐ハンバーグとか」

「前にも作ってもらった事あったけど、こういうのもできるんだね」

「まぁね。ほんまに簡単な物ばっかりやけどな」

「いやいや、充分だって」

「そう。ありがとう」


 照れ隠しにコップに入っていたお茶を一気飲みする。ぷはぁ、と息を吐き出して音を立てないよう慎重にコップを置き、弁当を片付ける。


「デザートはどうする? 今食べる?」

「どうしよっか。ご褒美に置いておいても良いと思うけど」

「じゃあそうしよ」

「冷蔵庫入れてこようか?」

「いや、うーん……どうしよ。どっちでもええけど」

「じゃあ入れてくる」

「あ、うん。ありがとう」


 私は優柔不断で選択を投げ出してしまいがちなので、こういう小さな事でも蒼依が居てくれるととても助かる。


 私だけならきっと五分近く悩んだ末に考えるのをやめて何もせず放っておいた事だろう。それはそれで一つの選択なのかもしれないが、そういう消去法は基本的に後悔する羽目になる事の方が圧倒的に多い。


「ただいまぁ」

「おかえりー」


 条件反射的に返事をしつつ、お盆をテーブルから下ろし、付近で軽くテーブルの上を吹いて、そこに勉強道具を並べる。


「よし、まず何する?」


 気分を入れ替える合図として、パンッ、と一つ手拍子を打ってやる気を漲らせていると、蒼依からは気の抜けた返事が来る。


「やる気だねぇ」

「できる時にやらなできひんタイプやからな、私も」


 ご飯を食べて一度ゆっくり休んでしまうと、どうしても次やる気を出すのに時間が掛かってしまう。他の人はもしかするとそんな事は無いのかもしれないが、少なくとも私は今休んでしまうと次がんばるためのエネルギーが足りなくなってしまいそうだ。


「じゃあまぁ、とりあえず化学かな。紅音もこれは得意な方でしょ?」

「いや、うん。まぁ、他のに比べたら増しやけど……」


 決して得意と言える物ではなかった。


 数学のような計算問題ばかりなら得意と言えたかもしれないが、化学は覚えなければならない単語や現象がたくさんあり、それらを覚えて理解した上で計算問題がある。


 一学期の時は元素記号や化学結合に配位数なんかを覚えて、それに関連する計算をやっていれば良かったため、何とかなっていたのだが、二学期に入って化学反応式という独自のルールのある物が登場し、それに苦戦している間に前回の範囲にあったモル濃度なんて物が混じってきて、私の頭は破裂寸前だった。


 しかしそれでも只管単語を覚え続けるだけの地理や歴史、生物などに比べれば、基本となるルールさえ覚えてしまえばある程度点数の取れる計算問題がある化学はよっぽど増しに思えた。


「暗記するだけの方が簡単だと思うんだけどねぇ」

「それは蒼依やからやろ? 私は暗記する方が苦手なの」

「ふーん」


 ご飯を食べて眠たくなったのか、蒼依は気怠げに相槌を打つ。


「まぁ、とりあえず、化学ちょっと確認程度に一通りやって、それから地理とあと……生物か。生物をまた問題出し合う感じでやろ」

「うん。とりあえずこっちおいで」


 蒼依がテーブルの上に化学の教科書を置き、トントンと自分の右側の床を叩く。


 確かに蒼依の隣に移動した方が教科書は見やすいだろうと、四つ這いになって蒼依の右隣に移動し、ノートを手元に引き寄せる。


「確か教科書にまとめ問題みたいなんあったやんな」

「うん。とりあえずそれやろうかなぁって」


 蒼依が教科書を捲り、そのページを開いて見えやすい場所に置き、手の平で本の真ん中を押してページを固定する。


 カチカチとシャーペンから芯を出し、問題をノートに書き写しながら黙々と解いていく。


 隣では蒼依が先程の気怠さは何だったのかと言いたくなるくらいに真剣に取り組んでいた。暫く見つめていても蒼依はこちらに振り向く事無く只管に手を動かし続ける。


 今開いているページが終わったら答え合わせをして別のページに。それが終わればまた答え合わせをして、今一分からなかった所があれば蒼依に訊いたり二人で教科書を遡って確認したりしながら分からない所を一つ一つ潰していく。


 そうしている内に時間はあっという間に過ぎていき、休憩がてら私の持って来た梨を囓る。梨は冷蔵庫に入れていなかったにも拘わらず、まだひんやりとしていた。


「久しぶりに梨食べた」

「私も。あんまり果物って食べる機会無くない?」

「うん。神奈川に居た時は偶にお婆ちゃんが買ってきてくれたりもしたんだけどね」

「そっか。こっちに引っ越してきたから……」

「そう。まぁちょっとしたご馳走みたいな物だよね」


 梨を食べ終わると、蒼依がベッドに寝転がって手招きをする。


 時刻は午後二時半。勉強を始めたのが何時からだったかよく覚えていないが、恐らくは一時間以上やったのだろう。


 腹を満たして頭を使い、正直な所寝転がって休みたい気持ちはあった。


「今寝転んだら寝る自信しかないけど」

「その時は起こしてあげるから。おいで」


 蒼依の甘く優しい声には勝てず、私はのそのそとベッドに上がり、蒼依の左腕を枕にして寝転がる。そうすると、どこか安心感のある蒼依の匂いが私の頭を侵食してくる。


「重くない?」

「うん。大丈夫」


 すぐ目の前に蒼依の綺麗な顔があり、見惚れるようにじっと見つめていると、ゆっくりと蒼依の顔が近付いてきて、唇が重ねられる。


「がんばったご褒美」

「……蒼依がしたかっただけやろ?」

「そうだけど。紅音は嫌だった?」

「……」


 何となく気に食わなくて、一度身体を起こし、目一杯手を伸ばしてテーブルの上に置いておいた地理のノートを取り、うつ伏せに寝転がる。


「休憩は?」

「寝るまでやる」

「なるほど」


 蒼依はその場で身体を回転させてうつ伏せになり、私に肩を寄せる。


「相変わらずノート綺麗だね」

「その代わりに書くのに時間掛かってるけどな」

「見やすいから良いじゃん」

「……」


 褒められてもどうして良いのか分からず、黙り込んでどうやって問題を出すかを考えていると、突然蒼依が横から手を伸ばしてきて、文章の途中を指で隠した。


「はい、ここは?」


 そう問われて、私はその蒼依の細い指で隠されている前後の文章を見て答える。


「スンナ派」

「少数派は?」

「シーア派」

「うん。正解」


 こんなのを覚えてどうするのかと思わなくもないが、宗教には多少なりとも興味があるため、この辺りはまだはっきりと覚えていた。


「紅音。目ぇ瞑って」

「ん? うん」


 言われたとおりに目を瞑ると、「じゃあ問題ね」と蒼依が私のノートを見て次々に問題を出してくる。先程のような簡単な問題から本当にそんな事問われるのかと思うような難しい問題を出され、ある程度答えたら、今度は蒼依に目を瞑ってもらい、私が出題する。


 目を瞑り、甘い蒼依の匂いに包まれ、低く耳に優しい蒼依の声を聞いていると、意識が段々と落ちていくのを感じる。


 まだ生物の勉強もしなければならないのだが、このまま眠ってしまいたい気持ちが強かった。


 閉じようとする瞼をこじ開けつつ眼鏡を外し、蒼依が見ているノートを勝手に閉じる。


「寝るの?」

「うん。一緒に寝よ?」

「うん」


 蒼依を道連れにしようと誘ってみると、予想通りと言えば予想通りに蒼依は頷き、ノートと私の眼鏡をベッド横にあるテーブルに避けて寝転がった。


「紅音。頭上げて」

「ん」


 既に限界に近く、朦朧とする意識の中で蒼依の指示通りに重たい頭を持ち上げると、その下に腕枕が差し込まれ、私は素直にそこに頭を置く。それから足を絡ませ、芋虫のように身体を動かして蒼依の方へ身体を寄せる。


「おやすみ」

「おやすみ」


 声が出ていたのかどうかも分からないが、頬を撫でる蒼依の手を握り、幸せな気分のまま眠りに落ちた。


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 昼寝から目覚める時は大抵急激に目が覚める。その原因が物音なのか、身体に何かが触れたからなのか、それとももっと専門的な何かなのかは分からないが、今回もふと何かに気付いたかのように突然眠りから覚めた。


 目を開けるより先に、何となく記憶に新しい感触が唇を塞いだ。


 蒼依にキスをされている、とどこか他人事のように認識すると、ちょっとした悪戯心が芽生え、寝た振りをしてみる事にした。


 ほんの少し、キスより先の事をしてくれるのではないかという期待もあった。


 唇が離れ、今度は頬に、それから額にキスをされる。耳や髪を割れ物に触れるように優しく撫でられ、私は唇をきゅっと締めて勝手に上がろうとする口角を抑える。


 目を瞑ったまま、蒼依の気配を探っていると、左耳から蒼依の息遣いが聞こえてくる。


「大好きだよ」


 そう囁かれて、私の口角はもう限界まで上がってしまった。


 さすがにバレただろうと、瞼を開き、上目遣いで蒼依を見つめる。


「私も大好きやで」


 蒼依は一瞬目を見開いた後、恥ずかしさを誤魔化すように笑顔を浮かべる。


「もう、起きてたなら言ってよ」

「ごめん、起きたらキスされてたから、ちょっと黙っとこうと思って」

「理由になってへんし」

「あ、関西弁」

「紅音だってたまに私の方言移ってるからね?」


 蒼依はそう言いながら私の頬を撫でる。


「え、嘘やん」

「本当。証拠は無いけど」

「じゃあ嘘やん」

「言ってるんだけどなぁ」


 溜め息を吐く蒼依を見つめていると、ふとある事に気付いて私は勢いよく身体を起こす。


「今何時?」


 テーブルに避難させられていた眼鏡を掛け、壁掛け時計を探して部屋をきょろきょろと見渡すが、それらしい物は見当たらない。


「今は……四時五分かな」


 蒼依は寝転がった体勢のまま教えてくれた。


 しかし何を根拠に言っているのかと疑問に思い、蒼依の方へ振り向いて疑いの目を向ける。


「勘?」

「いや、普通に机の上に置いてあるから」


 蒼依が指差した方には、先程まで私たちが勉強していたローテーブルがあり、そこにはポーチと同じくらいの大きさの置き時計があった。


「あ、ほんまや。全然気付かんかった……」

「紅音、こっち向いて」

「ん?」


 振り向いた瞬間に顔を両手で挟まれ、思わず目を瞑ると、啄むようなキスをされる。


 目を開いた時に見えた蒼依の表情には満足そうな笑顔があった。


「よし、じゃあ勉強再開しよっか」

「……うん」


 良いように振り回されているような気がして、不満を抱えながらもベッドを降りて床に腰を下ろす。


 蒼依から地理のノートを受け取り、ページをペラペラと捲っていると、不意に欠伸が出てきて、咄嗟に広げたノートで口を覆う。その時何故か一緒に欠伸をしていた蒼依と目が合い、一瞬の硬直の後、同時にくすくすと笑う。


 家に帰る事も考えると、あまりのんびりしていられないが、蒼依の家から自宅に帰るのと、学校から自宅に帰るのとで、実はそれ程掛かる時間に差は無い。


 学校から最寄り駅まで十分と少し。蒼依の家から最寄り駅までも十分と少しで、歩く距離は殆ど同じ。違うのは駅くらいなのだが、蒼依の家の最寄り駅には快速が止まってくれるため、いつも通学している時にしている乗り換えが一つ少なくて済む上に、タイミングに因ればこちらの方が早い時もある。


 それを考えたとしてもあと二時間くらいしかないため、後二教科一時間ずつくらいしか勉強できない。


 外に放置していたお蔭で程良い温度になったお茶で喉を潤し、伸びをして身体を解し、軽く頬を叩いて気合いを入れる。


 そこに茶々をするのが蒼依だ。


「それよくやってるけど可愛いよね」


 悪気など欠片も感じられない表情で放った蒼依のその一言で、せっかく入れた気合いが抜けて猫背になる。


「もう、何?」

「可愛いなってだけ」


 溜まっていた不満のような胸のもやもやを込めて蒼依の太腿を軽く叩く。


「ええから、やろ」

「はぁい」


 くすくすと含み笑いをする蒼依を睨み、真面目に勉強を再開する。


 集中すれば時間はあっという間に過ぎ去ってしまう物で、生物をやる前に一旦休憩しようと蒼依から提案された時にはもう五時半になっていた。


 残り三十分という何をするにも微妙な時間に、どうしようか、と二人して首を傾げる。


 今から生物の勉強をしようにも、きっとやる気を出し始める頃にはもう帰らないといけない時間になってしまうだろう。それに、どうせ今日も寝る前に電話をして、一緒に勉強をする事になる。という事で、帰る準備をして、後はのんびりと過ごす事になった。


「もう外真っ暗だね」


 蒼依が窓の外を見て呟く。


「ほんまやなぁ」


 九月の頃はまだこの時間でも夕陽が見えていた。それがたったの二週間弱でこんなにも変わる物なのだな、と妙な感慨に浸る。


 二人が黙ると、この部屋は静寂になる。秋を感じさせてくれる蟋蟀の鳴き声も、時計が時を刻む音も聞こえない。聞こえてくるのは蒼依の息遣いだけだった。


 それを意識するとどうも落ち着かない。


「蒼依」

「何?」


 用事など何も無い。ただ名前を呼んだだけで話す事も無かったが、意味があるような雰囲気を持って蒼依を見つめてみる。そうすると、蒼依はこてん、と重力に負けたように首を傾げた後、私の目をじっと見つめてくる。


 体感で十秒ほどすると、ふふっ、と蒼依が笑い声を溢して顔を背けた。


「もう、何?」


 照れている蒼依は可愛い。授業中や考え事をしている時のように真剣な表情の蒼依はかっこいいが、笑うととても可愛らしい。私の目に何かしらのフィルターが掛かっている可能性もあるが、私から見て蒼依が可愛いというのは紛れもない事実だ。


 私は一度立ち上がり、蒼依に手を差し伸べる。蒼依は不思議そうな目を向けながらも私の手を取り、ゆっくりと立ち上がる。


「どうしたの?」


 立ち上がった蒼依は私より少し身長が高く、私が水平に視線を向けると、ちょうど蒼依の顎の辺りが目線になる。ほんの少し目線を上げると、首を傾げる蒼依と目が合う。


 ゆっくりと蒼依に近付き、蒼依をぎゅっと抱き締めると、蒼依の手が優しく私の腰を抱き寄せる。


「どうしたの?」


 その声を聞くと、心配してくれているらしい事が分かる。


「何でも」


 そう答えると、蒼依の抱き締める力が強くなった。痛いという程ではないが、蒼依に必要とされているような感じがして、確実に私の心は満たされていた。


 そしてまた悪戯心が顔を出してきて、私はすぐ目の前にある蒼依の首に口付けて、そのまま強く吸い付く。


 明日からはまた部活が始まって、蒼依は私の知らない所で知らない人たちと仲良くやるのだろう。蒼依が男子から告白されたという話も知っている。こんな事をしても大して意味は無いだろう。男子は察して退いてくれるかもしれないが、女子は寧ろ面白がって蒼依に近付くかもしれない。普通は同性が恋人とは思わないのだから。


 告白されたのは私だが、私だって蒼依の事を好いている。この気持ちは気紛れでも気の迷いでもない。


 そんな事をぐるぐると頭の中で考え、少し経ってから口を離すと、蒼依の首にははっきりと赤い印が付いた。


「ちょっと。何したの?」

「ううん」

「絶対何かしたでしょ」


 蒼依は焦ったようにテーブルの上にあったポーチから手鏡を出して私が口付けをした場所を覗き込み、何か言いたげな目を私に向けてくる。


「紅音」


 少し低めの声。けれどもそれは怒っている風ではなかった。


「何? あ、もうそろそろ帰らななぁ」


 きっとやり返そうとしているのだろうと予想し、私はわざとらしく、蒼依の気持ちを煽るように振る舞ってみる。


「こっち向いて」


 蒼依に両肩を掴まれ、目を瞑ると、蒼依の唇が鎖骨の辺りに触れる感触がして、思わず声を漏らす。


 やり方を知っていたのか、私にやられた感触を真似ているのか、強く吸われているのが分かる。


 少しして口を離したかと思いきや、今度は首の辺りに口付けた。そこが終われば今度は突然シャツのボタンを外し始め、胸の真ん中辺り、鳩尾の少し上の辺りに痕を付けようと吸い付いてくる。


「よしっ」


 上手く痕を付けられたのか、蒼依は満足そうな表情をしていた。


 蒼依の手鏡を借りて見てみると、蒼依が口付けた場所に、綺麗な赤い印が付いていた。


 それが堪らなく嬉しくて、にやけを抑えられず、にへへ、と変な笑い声まで出してしまった。


「そろそろ帰ろうかな」


 浮かれた気分で時計を確認し、蒼依にそう告げながら鞄を左肩に提げる。


「もう六時か……」

「次はまた夜?」

「うん」


 部屋を出て、蒼依の母に挨拶をしようと思ったのだが、玄関を見る限り、まだ帰っていないようだった。


「お母さんまだ帰ってはらへんねんな」

「多分もうちょっとしたら帰ってくるとは思うけど、まぁ別に挨拶とか大丈夫だから」

「そっか。まぁ、帰る途中で会うかもしれんしな」

「可能性はあるね」


 そんな事を言って蒼依の家を出たが、蒼依の母らしき人を見かける事無く駅に着いてしまった。


「じゃあ気を付けてね」

「うん。蒼依も気を付けてな。もう真っ暗やし」


 そう言いながら私は蒼依の首元、赤い印を付けた所に触れる。


「思ったより見えるなぁ」

「絶対からかわれるじゃんこれ」

「まぁ、がんばって」

「紅音も首の見えてるからね?」

「うん。ありがと」

「もう。ちゃんと隠してよ?」

「気が向いたらな」


 このままだとずっと離れられそうにないため、口惜しくはあるが、この辺りで会話を切り上げようと鞄からICカードを取り出し、ひらひらとカードを振ってゆっくりと改札の方へ足を踏み出す。


「じゃあまた」

「うん。またね」


 ずっと見られていると去りにくいのだが、この場合見送られるのは私で、先に去るべきは私だ。


 渋々蒼依に背を向けて改札を抜ける。


 エスカレーターに乗る直前に振り向くと、まだ蒼依はこちらを見ていて、試しに手を振ってみると、表情までは分からないが、確かに振り返してくれたのが見えた。


 到着した快速電車に乗り込み、人の少ない車輌の隅で携帯を内カメラにして自分の首元を確認してにやにやと笑う。


 まるでお前は私の所有物だと思わされるようなこの赤い印を見る度に、きっと私は蒼依の事を思い出してがんばれるだろう。


 これが消えたらまた付けてもらえば良い。


 蒼依はきっと、私がこんな事を企んでいるなんて思いもしないのだろう。

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