第27話 10月5日
九月が終わり、それと同時に暑苦しかった夏も漸く終わりを迎えた。
半袖で過ごしていると少し肌寒く感じる程に気温は下がり、私たちを苦しめてきた太陽の光も今は心地良く感じられるようになっているが、それは晴れていればの話だ。
制服は半袖から長袖に、スカートも厚手の物に換え、本来ならそれで丁度良い具合になるのだが、昨日から空には雨が降り出してきそうな薄暗い雲が広がっており、太陽は姿を隠してしまっている。その所為で吹き込んでくる風は冷たく、蒼依と違ってカーディガンも何も着ていない私は風が吹く度に身体を震わせる羽目になっていた。
「やっぱり寒いより暑い方が良い」
学校に向かう途中、沁み沁みと呟いた蒼依の言葉に、私は心の中でほんの少し同意して、それからすぐに先月までの地獄を思い出して反論する。
「絶対暑いよりは寒い方がええやろ」
「紅音は汗を搔きたくないだけでしょ?」
蒼依の少々投げ遣りな言い方にむっとして、少し語気を強める。
「いや、それもあるけど、寒かったら着込めばええ話やん。暑かったらどうしようもないやろ?」
「着込むって言ったって限度があるじゃん。顔とかは防げないし」
「顔はまぁ、確かに覆面でもせん限り難しいかもしれんけど、耳が寒いならイヤマフ着けりゃあええし、足寒いんやったら私みたいにタイツ穿けばええ話やん」
そう言いながら軽く膝を上げてタイツを摘まんで見せてやると、蒼依がさり気なく左手をそこに伸ばしてきて、私はそれを手の平でパシン、と小気味良い音を立てて叩き落とした。
「だとしても今日こんな寒くなるのは聞いてない」
「確かに。最高気温二十五度やっけ?」
「五度でこんな変わるなんてねぇ」
「先週とかも日差しは暑かったけど、日陰とかはもうこんな感じやったやん。それに比べたら今は蒼依もカーディガン着てるし、大分増しちゃう?」
「全然」
「そう。まぁ、我慢して」
「じゃあ手、繋がない?」
私は差し出された蒼依の左手をじっと見つめながら悩む。
あれ程寒がりな蒼依に言っておきながら、私も正直耐え難いと感じていて、蒼依の提案はとても魅力的に思えた。
冷気によって少し冷たくなった右手を蒼依の手の平の上に重ねると、それ以上に冷たい感触が伝わってくる。
「……学校の前までな」
ぎゅっと一度力を込めると、それに応えるようにして蒼依からも力が伝わってきた。
「相変わらず暖かいね」
私にとっては冷たいと感じた手も、蒼依にとっては暖かかったらしい。
蒼依の方を見ると、優しく微笑んでいる蒼依と目が合い、恥ずかしさを気取られないよう視線を前に戻す。
「手が冷たい人の心は温かいらしいで」
「何それ」
「聞いた事無い? 手が冷たい人は周りの人に温もりを分けてあげてるから冷たいんやでー、みたいな」
「無い」
思い出すような間も無く、妙に自信に満ちた否定の言葉が返ってくる。
「無いか」
「うん。というかどういう会話があったらそんな話になるの?」
そう言われて自分自身この話をどこで聞いたのかを思い出そうと首を傾げ、アスファルトに視線を落とす。そして記憶の引き出しから出てきたのは父親らしき男性と娘が会話している漫画の一コマだった。
四コマ漫画か何かで、その話を聞いた幼い娘が父親の手が温かい事に気付き、父親の手を氷水で冷やしていたのを覚えている。
「私も多分漫画で見た事あるだけやな」
「実体験じゃないんだ」
「気になった事無いし」
「うん。気にしなさそう」
「蒼依の手は冷たいよな。冷え性?」
言いながら改めて私の右手と繋がっている蒼依の手に意識を向けると、私に触れている手の平以外の指先などは血が通っていないかのようにひんやりとしていて、少し不安になる。
「多分。夏場は全然平気なんだけどね」
「へぇ」
確かに、デートに行った時に手を繋いだり頬を触られたりと、蒼依の手に触れる機会が多かったが、手が冷たいという印象はあまりない。しかし蒼依は教室の冷房が寒いとよく言っていて、寒がりなのだと思っていたが、それも冷え性が原因だったのかもしれない。
「紅音って足も温かいの?」
「知らん。気にした事無い」
蒼依からの質問に即答する。
「じゃあ温かいのかもね。羨ましい」
「冷え性ってそんなに辛いん?」
そう訊ねたのは好奇心が殆どだった。私自身は冷え性どころか体温が高くて困っているくらいで、冷え性だという蒼依の感覚が理解できていない。
「私はそんなに酷くない方だけど、酷い人はそれこそ夜寝られないとか目眩がするとか、あと頭痛とかもあるみたい」
「へぇ、そうなんや」
とりあえず相槌は打ったものの、手足が冷えて眠れないだとか、目眩がするだとか、あまり想像が付かなかった。
「そうそう。私は手足が冷えて手が悴む程度なんだけどね」
「大変なんやなぁ」
共感している風を装って相槌を打つが、蒼依にはバレてしまったようで、蒼依がくすりと笑う。
「その様子だと本当に縁が無いみたいね」
「うん。有り難い事に」
「狡い」
蒼依がそう言った次の瞬間、右の頬に冷たい缶ジュースのような冷たい感触が伝わってきて、私は反射的に顔を振ってそれから逃げる。
「冷たっ」
手は繋いだまま蒼依から距離を取り、冷たい感触の正体を睨み付けると、そこには蒼依の右手があった。
「もうちょっと可愛い悲鳴上げるの期待してたんだけど。きゃあ、みたいな」
「きゃあ」
「そんな棒読みじゃなくて」
「私にリアクション期待せんといて」
「関西人なのに」
「その偏見ほんまに迷惑やんな。全員が全員乗りがええと思ったら大間違いやからな」
「はいはい、やんなって共感求められても分かんないし、前も聞いたからそれ」
「蒼依が言うてきたんやろ?」
「ごめんって。冗談じゃん」
「冗談にも言って良い事と悪い事があるんやで」
「そんな重たい話したっけ?」
「私にとっては重要やから」
「そう。それはごめんね」
「分かれば宜しい」
そんな事を話していると、頬に冷たい液体が当たる。
「雨降ってきた」
「えっ、嘘」
二人して空を見上げると、誰がどう見ても雨雲としか思えない黒い雲がそこにあった。
「傘持ってる?」
蒼依に訊ねられ、頷く。
「うん。折り畳みはずっと入れてるし」
「じゃあ大丈夫か」
「というか差さんでも大丈夫そうちゃう?」
「まぁ、今のところはね」
頬に水が落ちてきたのは確かだが、雨らしい雨はまだ降ってこない。辺りを見てみても、所々に雨粒が落ちた形跡は見つけれるものの、実際に降っている雨粒は少なくとも私の目には捉えられなかった。
「降るなら学校着いてからにしてほしいなぁ」
「ちょっと急ごうか」
「うん」
私が頷くなり、蒼依は少し歩くペースを上げた。出遅れた私は蒼依に手を引かれながら小走りになって蒼依に追い付くと、蒼依のペースに合わせて足を動かす。
大変という訳ではなかったが、それでも徐々に身体に熱が溜まり、学校が見えてくる頃には背中や額に汗が滲んでいた。
約束通り蒼依と手を放し、先生と挨拶を交わしつつ昇降口へ向かう。
「暑……」
思わずそう言ってしまう程私の身体は火照っていた。
「ごめん。ちょっと早過ぎた?」
「ううん。大丈夫。疲れた訳じゃないしな。お蔭で雨にも降られずに済んだし」
結局数滴身体に当たった程度で、それ以上雨が強くなる事はなかった。鞄も濡れていないし、水溜まりに嵌まって足元が汚れたなんて事も無い。
これなら別に急がなくても大丈夫だったのではないかとも思うが、過ぎた事はもう気にしても仕方が無いだろうと、暑さを一旦忘れるためにも蒼依に適当な話題を振る。
「今日の一時間目って何やっけ?」
「木曜日だから、現代文かな」
「あぁそうや……」
現代文は個人的に眠くなりやすい授業トップファイブにランクインしている授業だ。
本を読むのだから好きなんじゃないのかとよく勘違いされるが、私はその気分になった時にしか基本的に本を読まない。そのため、授業中に読書をさせられても集中できるかどうかはその時の私の気分によって違う。
それに、普段私は授業でやっているように一文一文をあれ程しっかりと解釈しようとはしていない。そこまでしようとする程の興味は無い。
興味の無い事を延々と聞かされれば眠くなってしまうのは当然と言っても良いだろう。
「自習にしてくれたりして」
「それやったら最高やけどな」
「あの先生は多分そんな時間くれないよね」
「うん」
二学期の中間考査が来週にまで迫り、まだ覚えきれていない所や理解しきれていない所がある私は徐々に焦燥感が強まっていっているのを感じていた。
試験勉強をしたからと言って絶対に満点が取れるという保証などどこにも無い事くらい分かっているが、満点が取れるかもしれないという自信を持てるくらいにはなっておきたい。
そう思って毎日欠かさず勉強をしているが、勉強の仕方が悪いのか、単語は今一覚えられないし、計算間違いやスペルミスも多い。通学時間や休み時間など、手が空いた隙にそういう物の対策だけでもできれば良いのだが、どうも私は騒がしい所では集中できないらしく、ただ時間を無駄にするだけになっていた。
英語の単語帳を開くだけ開いてぼうっと眺めて座っていた自分を思い出し、地面に向かって溜め息を吐く。
「どうしたの?」
心配した蒼依が顔を覗き込んでくるが、私はそれに首を振って答える。
「ううん。どうやったら蒼依に勝てるかなぁって」
「別に紅音も点数悪くないじゃん。前回はたまたま私ができ過ぎただけかもしれないし」
「そんな事言って全部九十点とか取るんやろぉ?」
「それはやってみないと分からないけど……。まぁ、それくらいは取れるようにがんばりたいよね」
「負けへんからな」
「そのライバルである私に教えてもらってるのは良いの?」
「それはそれやん」
ふて腐れたようにぶっきらっぼうに答えると、蒼依がくすくすと息を漏らして笑った。
少し賑やかな昇降口でローファーから上靴に履き替え、他の生徒に混じって教室に向かう。
階段を使って三階まで上り、すぐ目の前にある自分たちの教室の扉を開ける。
「あ、おはよう」
教室に入ってすぐ、机にノートを広げて勉強していたらしい美波が私たちに気付いて声を掛けてくる。
「おはよ」
挨拶を返しつつ、机にそっと鞄を置いて席に座り、ふぅ、と一息吐く。
「蒼依もおはよう」
「うん。おはよう」
蒼依が鞄で私の鞄を端に追いやって自分の鞄を置いた。
その一部始終を黙って見届けていると、視界の端に私を見つめる美波の笑顔が映った。
「紅音は今日は眼鏡なんやな」
「うん。今日は体育無いし」
目を合わせないように視線を動かし、鞄の中から教科書を引っ張り出して机の中に仕舞う。
「美波は何の勉強してたの?」
蒼依が美波の机の方を見ながら訊ねた。
「勉強というか、英語の予習やな。やるの忘れててん」
「珍しく勉強してるなぁって思ったらそういう事だったのね」
「珍しくとは失礼な。私だって家でちゃんと勉強しとるからな?」
「偉い偉い」
「あんまりそうやってると紅音が拗ねるで?」
「は? 拗ねてへんし」
「その言い方はもう拗ねてるやん」
「ごめん紅音」
「いや、ほんまにちゃうって」
私は本当にただ授業の準備を終えて二人のやり取りを眺めていた所に、突然話を振られて咄嗟に否定しただけだったのだが、どうやらそれは二人に信じて貰えていないらしい。
「紅音ってメンヘラ?」
「めんへら?」
言葉の意味が分からず、聞き取れた言葉をそのまま訊き返すが、それを無視して代わりに蒼依が答える。
「うん。結構そういうとこあるかも」
「じゃあ蒼依がちゃんと安心させてあげないと」
「任せて」
「……」
一度話を無視されると、もう一度同じ事を言おうという気にならなかった。
そのまま二人が何かを話しているのを意識の外に追いやり、めんへらというのが何なのか携帯で調べてみる事にする。
検索アプリに文字を打ち込み、検索すると、すぐに知りたい事が書かれた記事がいくつも見つかった。
記事は開かず、一先ず一通り目を通してみると、それだけでめんへらというのが何なのかある程度理解できた。そして私が蒼依に感情をコントロールできない情緒不安定な人間だと思われている事も分かった。
「へぇ」
わざとらしく声を漏らすと、蒼依が私の携帯の画面を覗き込んでくる。
「どうしたの?」
「いやぁ、蒼依って私の事そう思ってたんやなぁって」
「強ち間違いではないでしょ?」
「因みにどの辺が?」
「割とすぐ泣くし、寂しがり屋で、怒りっぽくて、マイナス思考で……」
蒼依は迷う事無く親指から順番に薬指まで折り曲げていく。それを見て美波がくすくすと静かに笑う。
「もう完璧やん」
「違うし」
否定してはみるものの、自分でも心当たりしか無くて強く言えなかった。
「おはよーう。何の話してんのー?」
声を掛けられるのと同時に私の両肩に手が置かれ、思わずびくっと肩が跳ねる。
驚かされたのが悔しくて、肩に置かれた右手を掴み、その人差し指を折り曲げてパキッと小気味良い音を鳴らすと、背後から「いっ」と押し殺したような短い悲鳴が聞こえてきて、両肩に置かれていた手が離れる。
振り向くと、やはりそこには彩綾が居たのだが、痛がり方が想像以上で少し罪悪感が湧いてきた。
「おはよう。ごめん。痛かった?」
「うん……痛かった」
「自業自得やろ」
そう言いながら夕夏が横から顔を覗かせる。その表情には呆れのような物が見えた。
夕夏と目が合い、「おはよう」と控えめに挨拶を交わしていると、大音量のチャイムが耳に入る。
「一時間目何やっけ?」
痛みから立ち直り、何事も無かったかのように彩綾が誰にという訳でもなく訊ねる。
「現代文……やんな?」
答えたは良いものの、自信が無くて蒼依の方を見ると、蒼依は私の方を見て頷いた。
「やって」
「ありがと。別に何も無かったやんな?」
「うん。抜き打ちはあるかもしれんけど」
「うぇ、嫌やなぁ」
じゃあまた、と手を振り、彩綾と夕夏が自分の席に向かう。
蒼依はどうするのかと顔を向けると、蒼依もこちらを見ていて、お互い黙ったまま数秒間見つめ合う。不意に視界の端に何かが見えて咄嗟に目を瞑ると、頭に擽ったい感触が乗り、それが何度か髪をなぞるように動く。恐る恐る目を開けると、蒼依の手が今度は髪の内側、頬に当てられ、マッサージをするみたいに耳を撫でた。
「じゃあまた後で」
満足したと言わんばかりの笑顔で、蒼依は自分の席に戻っていった。
「よくそれで……………よな」
「えっ? 何?」
生徒たちの話し声に紛れて美波の声が上手く拾えず、訊き返すが、美波は顔を横に振る。
「ううん。紅音は可愛いねって」
「いきなり何?」
首を傾げても美波は答えてくれなかった。
違う事を言っていたのは分かるし、何かを誤魔化されたのも分かったが、別にそれ程重要な事では無いのだろうと、気にしない事にして、「よしっ」と小さく声を出し、これから始まる長い授業に集中するために気合いを入れた。
中間試験が迫っていようが関係無く授業はいつも通りに行われ、いつも通り淡々と進行する。
窓から入り込んできた冷たい風に身体を震わせながら午前の授業を終え、休み時間はいつもの四人で昼食を食べて、中間試験の話や、最近買った物の話などをして過ごす。ショートホームルームでは私がいつも使っている電車で痴漢被害が遭ったから気を付けろという話もされたが、それ以外は特別な事など何も無く、時間が経つに連れて重たくなっていく瞼に抗いながら午後の授業を受け、薄暗かった曇り空が明るい青空に変わった頃、私たちは漸く解放された。
「お疲れ~」
机に突っ伏して美波の背中に触れると、美波がこちらに振り返り、優しげな笑顔を見せる。
「お疲れ」
「めっちゃ眠たかったぁ」
「寝たん?」
「いや、ちょいちょい意識飛んでたけど、起きてはいたで」
「それはもう寝てるんちゃうん?」
「意識飛んでただけやから」
そうして話していると、美波がいつも連んでいる人たちがやってきて、美波を連れて教室を出て行った。他の人も七時間の授業が全て終わった開放感に騒ぎながらぞろぞろと教室から出て行く。
それらを余所に、私は鞄を持って蒼依の席に向かい、蒼依の前の席の人の椅子を借りる。
蒼依は自分の椅子を机の横にガタガタと音を立てながら移動させ、後ろの机と二つくっつけ、大体正方形になった机を彩綾と夕夏も含む四人で囲む。
「よし、今日は何するんやっけ?」
パシン、と彩綾が手を合わせる。
「昨日は数学やったから、今日は英語かな?」
「うん。その予定だったけど、大丈夫?」
「私はええよ。英語が一番やばいし」
「彩綾も良い?」
「うん。寧ろお願いします」
机に両手を突いて頭を下げる彩綾に含み笑いをしつつ、英語のノートと単語帳を鞄から取り出して机の上に置く。
「じゃあ六時くらいまでがんばろうか」
「はぁい」
蒼依が気合いを入れてくれたタイミングで欠伸が出てしまい、気の抜けた返事をすると、蒼依が机の下でスカートの内側を撫でてきて、変な声が出そうになるのを咄嗟に抑え込んだ。
スカートを直し、無言で蒼依を睨み付けるが、蒼依はこちらを見ようともせずノートを開き、カチカチとシャーペンの芯を押し出して勉強を始めた。そっちがその気ならと左手を机の下に伸ばして蒼依の太腿を撫でるが、蒼依は何の反応も示さずノートに何か文字を書き連ねていく。
一方的にやられたままになるのは気に喰わないため、代わりに人差し指で思い切り太腿を弾いてみたが、当たった所を少し撫でるだけで、やはりそれほど痛くは無さそうだった。
「ほらそこ、いちゃついてんと私に教えてぇや」
彩綾がシャーペンのお尻の部分で机を叩いて音を出す。
「ごめんごめん。というか教えるの私でいいの?」
夕夏じゃなくて良いのだろうかと、夕夏の方を見る。
「私も英語は死んでるから」
「あぁ、そうやっけ」
「蒼依はそれ何書いてんの?」
彩綾が指差した蒼依のノートを覗き見ると、そこには日本語でいくつかの短い文章が書かれていた。
「えっと、みんなで英語の文法やるならこうするのがいいかなぁって」
言いながら句点を打ち、ノートをみんなが見えるよう真ん中に移動させる。
「これを英語に訳すって事?」
「そう」
全部で十個ある文章に一通り目を通してみる。
「これ全部習ってるやつでできるん?」
夕夏が訊ねると、蒼依は少し悩んだ後、頷いた。
「うん、多分。まぁ分からなかったら単語帳で調べて。でも文法は今回の試験範囲に出てくるやつになってる筈」
「へぇ。あ、これとか確かに見覚えあるかも」
「そうそう。さっき……というか英語の授業中に思い付いてメモだけしてたんだよね」
「すごい。蒼依天才」
パチパチと蒼依に向けて拍手をすると、それに乗っかって彩綾と夕夏も蒼依に賞賛の拍手をする。
「もう、いいからそういうの」
突き放すような言い方をしたが、私の目には明らかに蒼依は照れているように見えた。
「じゃあとりあえずみんなでこれ解くかぁ」
「全部やったらそれぞれ文章考えたりとかする?」
「あぁ、それええやん」
彩綾の提案に夕夏が同意する。
「できればの話やけどな」
茶化すような事を言いつつ、私も彩綾の意見には賛成だった。
「まぁまぁ、とりあえずやってみたらええやろ」
「じゃあ早速一個目ね」
私は一先ず蒼依のノートに書かれた日本語の問題文を自分のノートに書き写し、英語に訳す。
英語は自分でも苦手だと分かっているため、他の科目よりも多めに勉強時間を取っている。そのお蔭か、中学生の頃よりは遥かにできるようになっていて、合っているかどうかはさておき、蒼依の考えてくれたこの文章も然程悩まずに英語に直す事ができた。
全員が英語に直した所で、それぞれの英文を見てみる。
「うん。多分全員合ってるかな」
「よしよし。これくらい短かったらいくら私でも解けるわ」
「うん。彩綾も大丈夫そうだから、どんどん行こう。一時間って意外と短いからね」
「そうね」
二問目も三問目もそれ程難しい文章ではなく、私は悩まずに英語に直す事ができたのだが、彩綾は三問目で頭を抱えて唸っていた。
「詰まるの早くない?」
「いや、こっちの四問目は分かるんやけど、これは……ど忘れした」
そう言って彩綾はシャーペンを置き、単語帳をペラペラと捲る。
「英語って結局暗記みたいな所はあるからね」
「蒼依も暗記してんの?」
「そりゃあね。数学みたいに公式とルールを覚えていれば……みたいな物じゃないから」
「まぁ、確かに」
「語順……文法を覚えて、単語覚えて、活用覚えて、ルールを覚えて……って正直やってられないよね」
蒼依からそんな投げ出すような言葉が出てきたのが、少し意外で、蒼依の顔をじっと見ていると、「あっ!」と彩綾が廊下にまで響くくらい大きな声を上げた。
「これでどう? 合ってる?」
彩綾が蒼依にノートを見せると、蒼依は一つ一つ綴りも含めて確認する。
「うん。おっけー」
「よし、次は行ける」
彩綾はそう言うと、待っていた私たちを放って早速四問目に取り掛かる。
三人とも蒼依から正解を貰い、五問目、六問目と、やばいと口を揃えて言っていた割には順調に解き進め、時折単語帳で確認しながらではあったが、蒼依が予め考えてくれていた十問は十分ほどで解いてしまった。
「意外とみんなできるじゃん」
「まぁ、勉強してない訳ではないからなぁ」
試験の平均点や彩綾の点数を見ていると忘れてしまいそうになるが、私たちの通っているこの高校はそれなりに偏差値は高い。それはつまりこの高校に入学できている時点で中学での成績は良い筈で、少なくとも基本三教科は人並み以上にできている筈なのだ。
これは最近中学生の頃の友人である里菜や知香と話している時に分かった事だが、平均点が低いのは単純に試験範囲が広いという事と、問題量が多く、一つの問題をゆっくりと考えている時間が少ないからだろう。
そんな中で八十点以上を取れている私はもう少し自信を持っても良いのかもしれないと思いつつも、やはり部活で忙しくしている蒼依に負けている事を考えると、自分はまだまだだとも思う。
「じゃあ次は言ってた通りそれぞれ二問ずつくらい問題考えようか」
「問題作るのってどうすんの?」
夕夏が眠そうな表情で訊ねる。
「とりあえず試験範囲に出てくる構文とか関係代名詞を使ってれば、あとは適当に話を考えてくれたらいいかな」
「うーん……」
「そんなに難しくないって」
単語帳をペラペラと捲りながら悩む彩綾と夕夏を見て、蒼依は困ったように笑う。
「紅音はできそう?」
「多分」
視線を手元に落とし、蒼依の文章を参考にしながら問題文を考える。他の三人と使う構文が被ってしまう可能性は充分にあるが、それでも別に構わないだろう。
英単語を眺め、浮かんだ文章をノートに書き写す。
それからできた文章を蒼依に確認してもらい、全員分が集まった所で、先程と同じようにそれぞれノートに書き写して英語訳を書く。
全員が正解を出せたら、今度は使用する単語を指定したり、構文を指定したりして同じように文章を作って、解いてを繰り返す。
暗記が苦手な私だが、何度もそれを使っているうちに自然と頭に定着する。これはゲームのような感覚でやっているが、ただ単語帳を眺めたり音読したりするよりはしっかりと覚えられる。
普段はこれを夜に蒼依と二人でやっているのだが、今週は彩綾と夕夏も一緒にこうして放課後に残ってやっている。教室を見に来た先生にも面白い方法だと注意はされなかったので、効果がある人にはちゃんと効果がある方法なのだろうと思ってやっている。
予定していた十八時になり、さすがにこれ以上は夕飯にも間に合わなくなってしまうため、切りの良い所で終わる。
「割とみんな大丈夫そうじゃん」
ノートを鞄に仕舞いながら蒼依がそう言うと、彩綾がすぐさま食って掛かる。
「私がどんなけ間違ったか分かった上で言うてる?」
「……まぁ、彩綾はあと英単語をちゃんと覚えたら大丈夫でしょ。構文も含めてね」
「それができたら苦労しぃひんねんなぁ」
「彩綾は動画見てる時間削って勉強すれば良いだけやろ」
もうこれで精一杯だとでも言いたげな彩綾の実状を知っている夕夏が何気ない顔をして逃げ道を塞いだ。
「それを言っちゃあお終いよ」
彩綾は溜め息を吐き、肩を落として帰る用意をする。
机や椅子を元の場所に戻し、忘れ物が無いかをよく確認して教室を出る。階段を降りて冷たい空気に曝されて寒い寒いと身体を震わせながら昇降口で靴を履き替える。
いつもは一人。月曜日など部活の無い日は蒼依と二人。彩綾と夕夏、蒼依の三人と揃って一緒に帰るのは今週が初めての事だった。
二人で過ごしているとどうしても無言になる瞬間があるが、彩綾は教室を出てからずっと喋り続けている。もちろん私たちも相槌は打つし、何かを訊かれたら答える事はするのだが、彩綾が喋っている時間が圧倒的に多い所為で、彩綾がずっと喋り続けているのではないかという錯覚を起こす。
しかしそれも二人と別れるまでの話。
学校を出て少しすると、右に曲がる人たちと左に曲がる人たちに分かれる。私と蒼依は右。彩綾と夕夏は左に行く人たちだったため、そこでお別れだ。
どこからあんな喋る元気が湧いてくるのだろうか、と蒼依と二人で笑いながら駅に向かう。
何事も無く駅に着き、電車が到着し次第それぞれ電車に乗って帰る。
いつもと違う時間で、思わず乗車するのを躊躇ってしまうくらいに人の多い電車に乗り、お尻の辺りに何かが当たった瞬間、昼間に先生が言っていた痴漢の話が過ぎった。
まさか私に限ってそんな事はないだろうと思いつつも、やはり少し恐怖心が芽生えていた。
いつものように座席に座れればそれが一番なのかもしれないが、生憎満員に近い状態で、扉付近から移動するのは難しい。
太腿の辺りに何度も触れる感触は偶然なのか、真後ろに立っている人は普通の人なのか、一つ気になって疑い出すと、全てが疑わしく感じてきてしまう。
そうやって一人で勝手に不安を募らせていく私だったが、結局最寄り駅に着いても確信を持って痴漢だと言えるような状況にはならず、ただ神経を疲弊させただけとなった。
怖い物見たさという物なのか、少しそういう被害に遭ってみたいというような期待をしていた自分がいたような気がしたが、それは完全に気のせいだという事にして、鼻歌を歌いながら家に帰る。
物語のような事には意外とならない物だ。
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