第26話 9月29日
九月も残り一日となり、この数ヶ月の間に何人もの熱中症患者を出したあの凶悪な日差しも少しずつ弱まってきてはいるが、気温はまだ三十度を上回っている。
それでも少し涼しいと感じるのは普通の事なのか、あまりの夏の暑さに感覚が狂わされたのか、私には分からない。
七時間目の授業が終わり、両手を組み合わせてぐぅっと天井に向け、疲労の溜まった身体を伸ばし、息を吐き出しながらゆっくりと腕を下ろし、脱力して机に上半身を投げ出す。
一時間目の体育に始まり、古文歴史数学英語と苦手な科目が続き、心身共に疲れ切っていた。
「お疲れー」
「お疲れー」
言葉を鸚鵡返しにしながら身体を起こして机に肘を突く。
前の席に座る美波は私と違い、そんな疲労感は見た目に出ておらず、寧ろこれから部活があるという事に目を輝かせているようだった。
「美波は元気やなぁ」
そう言って、思わず漏れ出してきた欠伸を両手で覆い隠す。
「まぁ、寝てたからな」
美波は渾身の決め顔を作ってみせた。
放課後でも元気でいられる秘訣はそういう事らしい。
「なるほどね」
「よし、じゃあ私は部活行ってこよかな」
美波は両手で自分の膝を叩くと、ガタガタと椅子を鳴らして勢いよく立ち上がり、鞄を肩に提げた。
「うん。頑張ってな」
「ありがと。じゃあまたね」
手を振って美波を見送ると、今度は蒼依が重たそうな鞄を持ってやってきた。
「紅音。お疲れ様」
「蒼依もお疲れ。部活頑張ってな」
背凭れに身体を預け、蒼依から伸ばされた右手を左手で握ると、もう片方の手で頭を二度三度と撫でられる。
「うん。行ってくる」
「行ってらっしゃい」
去り際にさりげなく頬を撫で、蒼依も私のすぐ後ろにある扉から出て行った。
それからやってきたのはいつも彩綾と二人セットで認識されている夕夏だった。
「一緒に帰らん?」
「ええけど……珍しいな。部活は?」
半年程経って初めての提案に目を見開き、戸惑いながら訊ねる。
「金曜日は自由参加の日やし。まぁ、文化祭も終わって、九月の課題も終わったし、たまには……と思って」
「なるほどね」
蒼依は今日も部活があり、一人で帰る予定でいたため、夕夏の誘いを断る理由は無い。
机に手を置いてゆっくりと立ち上がり、体操服や教科書でいっぱいになった鞄を肩に提げ、椅子を机の下に戻す。
「じゃあ帰るかぁ」
「うん」
勉強から解放されて騒がしくなった校舎から離れ、昇降口で運動靴に履き替える。
それまでお互いに口は開かず、まるで全く関係の無い他人のようにも思えたが、夕夏は先に靴を履き替えても私を置いて先に帰るなんて事はせずに、ただじっと私の事を待ってくれていた。
「お待たせ」
「うん」
特にこれと言った会話もないまま学校を出ると、何か用事を思い出したかのように夕夏が「あっ」と声を漏らした。
「どうしたん? 何か忘れ物でもした?」
「ううん。訊こうと思ってた事思い出してんけど、紅音って蒼依と上手く行ってる?」
「えっ? うん。まぁ、悪くはないと思ってるけど……」
今の所蒼依とは仲が悪くなるような事にはなっていない。この一、二ヶ月程で私が泣いたり怒ったりした所為で少し嫌われてしまっている可能性はあるが、喧嘩もまだした事が無いのではないだろうか。
しかしこうして改めて訊かれると、私の知らない所で嫌われ始めていて、愛想を尽かされるのではないかと不安が湧き上がってくる。
それが表情に出ていたのか、夕夏が顔の前で右手を振って否定する。
「あ、ごめん。ちゃうねん。別に傍から見てて仲良さそうには見えるんやけど、二人って女子同士で付き合ってるやん?」
「そうやな」
「でも普通は男女で付き合うやろ? 同性同士でどうやってんねやろなぁって。ちょっと気になって」
「どうやってって……えっ、そういう事?」
まさかと思い、確認してみると、今度は顔を横に振って否定した。
「いやいや、変な意味ちゃうで? 何て言うたらええんやろな……」
夕夏は乱れた髪を耳に掛け、少しの間俯いて考え込む。
私はその様子を横目に見ながら夕夏ののんびりとした歩調に合わせて足を動かし、次の言葉を待つ。
「えっと……そうやな。紅音って前は好きって何? みたいな事言うとったやん?」
「うん。言うてたなぁ」
「でも結局蒼依と付き合ったやん」
「うん」
「それって何でなん?」
「何でって……」
言いながら私が思い浮かべたのは蒼依に告白された日の事だった。
浩二に告白され、今まで全く意識していなかった事を意識させられ、自棄になりかけていた所に、蒼依が好きというのがどういう事なのかを教えてくれた。そしてそれが蒼依に対して抱いていた物と同じだという事に気が付いたのだ。
「蒼依が告白してきてくれた時に教えてくれた気持ちが、私が蒼依に対して想ってたのと同じやったから……かな?」
「へぇ」
「へぇって、もうちょっと何か言うてよ」
「あぁ、ごめん。訊きたかった事とちょっと違くて」
「えぇ?」
夕夏はまた少し言葉を探して俯く。
「えっと、やっぱり同性同士で付き合うのって普通の事とは言い辛いやん?」
「まぁ、そうね」
「それやのに紅音って普通の事みたいに蒼依の告白受け入れたのすごいなぁって」
「えっと……褒めてくれてる感じ?」
「あれ? ごめん。何訊きたかったか分からんくなったわ」
「何それ」
夕夏は自分でも自分が可笑しかったのか、ただの照れ隠しか、手櫛で何度も髪を梳きながらあはは、と小さく笑い、私もそれに釣られるようにして笑う。
「夕夏は今付き合ってる人とか居らんの?」
「うん」
「じゃあ好きな人は?」
「どうやろなぁ」
定番のような質問に帰ってきた答えはそんな曖昧な物だった。
これは怪しい、と私は質問を重ねる。
「前の私みたいな感じ?」
「いや、うーん……ちょっと違うけど、まぁ似たようなもんやな」
「気になってる人は居るんやな」
「……」
返事は無かったが、恐らくはそういう事なのだろう。
そこで私の頭に浮かんだのは先程夕夏に質問された事だった。
「もしかして夕夏の好きな人って女の子やったりする?」
「……」
返ってきたのはまたしても沈黙。しかしちらりと横に目を向けると、夕夏は顰めっ面をしながらも、耳を赤くしていた。私にはそれはもう肯定しているようにしか見えなかった。
そして私の頭に浮かんだのはいつも夕夏と一緒に居る人。真顔で居る事の多い夕夏が頻繁に笑顔を見せている人。私たちとよく一緒に行動している彩綾だった。
確証は無いが、可能性は高い。
「なるほどねぇ」
「……何も言うてへんやん」
不機嫌そうな表情で私を睨む夕夏を見ていると、悪戯したのを怒られて拗ねている妹が頭に浮かび、思わず口角が上がってしまう。
「それでさっきあんな事訊いてきたんやな」
「……うん」
まだ不服に思っていそうな表情をしているが、夕夏は観念したらしく、確かに頷いた。
「恋愛相談するなら私じゃない方がええと思うんやけど……」
「そうかもしれんけど、周りにその……所謂同性愛者って居らんからさぁ」
「あー……まぁ、そっか」
確かに、クラスメイトにも誰かと付き合っているなんて人も聞いた事があるし、中学生の時にも誰と誰が付き合っているなんて噂は度々耳にした物だが、その中に一人として私と蒼依のように同性カップルという人は居なかった。
「私らと同じように隠してたら分からんもんな」
「うんうん。私と彩綾とかは教えてもらったから分かるけど、そうじゃなかったら単に特別仲の良い二人っていう風にしか見えへんし」
「美波にはバレたけどな」
自虐的に鼻を鳴らして言う。
「あぁ、紅音の前の席の子やろ?」
夕夏が人差し指をぴんと立てて前方を指差して言う。
「そうそう」
「あれは何かちゅーしてんのを見られたとか言ってへんかった?」
自分から言い始めた事ではあるが、あの時の恥ずかしさが蘇ってきて、逃げ出したい衝動が沸き上がってくる。
「いや、別にそこまではっきりと見られた訳じゃないんやけど……まぁ、勘付かれた感じやな」
「よう学校でそんな事するよな」
呆れたような言い方をする夕夏の矛先を、真っ先に思い浮かんだクラスメイトの方へ向ける。
「あの子より増しやろ。人目とか何も気にせんと教室で膝の上に座ったり何なりしとるやん」
「あれは私らとは違う世界の人やからしゃあない」
夕夏もすぐに思い当たったようで、呆れの混じった笑いを漏らした。
そこでふと周りの景色に目を向け、見慣れた公園の木を見て気付く。
「うん。まぁそれはいいとして、夕夏帰り道こっちちゃうのに、ええの?」
「えっ? うん。別にそんな変わらんし。それより今のうちに紅音に訊きたい事訊いとこうと思って」
「あぁ、そう」
「ほんで、いっつも蒼依と一緒に居るから訊けへんかってんけど、紅音って何で蒼依の事普通に受け入れられたん?」
それを訊いて、何故学校で訊いてこなかったのかを理解する。
先程も夕夏が言っていた通り、同性同士で恋人になる、より厳密に言うと、同性を好きになるというのは普通とは言い難い事だ。
生物としての本能なのか、幼い頃からの学習でそうなったのか分からないが、私自身男性と女性でペアになって子どもを作るというのが普通だと認識しているし、世の中の大半の人間がそう考えているだろう。
それなのにどうして私は蒼依の事を当然のように受け入れる事ができたのか。
唇に指を当て、考え込んでいるのが分かるように声に出しながら頭の中でいくつか理由を並べてみるが、上手く纏められない。
「んー……」
「紅音って元々女の人が好きやったとか?」
余計な事を考えてしまいがちな私の耳に、夕夏の助言が入ってきて、試しに高校生になる前の事を思い返してみると、特に仲の良かった数人の顔と思い出が浮かび上がってきた。
「んー、どうやろ。好きって初めて認識したのは蒼依やねんけど、思い返してみたら似たような感じに思ってた人は何人か居る気もするんよね」
「みんな女の子?」
「いや、うん。まぁ、殆どは女子やけど、仲の良い男子も居ったし、その人にも同じように思ってた気がする。……でも多分ただ独占欲が強いだけやねんなぁ」
よく話していた子が別の人と話していて嫌な気持ちになったり、仲の良い子と一緒に遊んでいると触りたくなったりと、蒼依に対して抱く感情と似た物を感じていた気がするが、全く同じかと言われると、微妙に違うような気もする。
その中には夏休みに一緒にカラオケに行った中学時代の友人たちも含まれているが、彼女たちに対して抱いている気持ちが恋心かと言えば、恐らく違う。しかし何が違うのかはよく分からない。
「そう言えば紅音って好きって何? みたいな事言うとったな……」
「うん。今も何かよう分からんくなってきた」
「えぇ……。じゃあ、そうやな……。蒼依が男の人やったら好きになってた?」
言われた通りに想像してみるが、声や体格など身体的な物が変化するだけで、蒼依の性格がそのままだとすれば、接し方にそれほど違いは無いように思えた。
「あー、どうやろ。多分今とそんなに変わらん気はする。浩二の時もそうやったけど、告白された事自体嬉しかったし」
「じゃああれや。紅音は自分を好きになってくれた人を好きになるタイプや」
「まぁ、そうかも。でもそんなんみんなそうちゃう? 夕夏だって仲の良い友達に好きって言われたら意識するやろ?」
「あっ、そうや! そこ訊きたかってん!」
突然の大声に面食らう。
「気持ち悪いとか思わんかった?」
「えっ?」
思わず聞き返してしまったが、何となく夕夏が言いたい事は理解できた。
「いや、やっぱり同性から告白されるって普通はあり得へん事やん? 最近は同性愛者が増えてるなんて話もあるけど、それでもやっぱり少数派な訳で、他人事やからみんなへらへらしてるけど、いざ自分が当事者になったら受け入れられへんかったりするんちゃうかなぁなんて思ったりするんやけど……」
一息に喋り続け、尻窄みになっていく夕夏の話を聞いていると、案外自分と思考回路が似ているのかもしれないな、と勝手に仲間意識を抱く。
「意外と異性と同じように考えてくれるのかもって思っても、結局そこでやっと普通の……ではないけど、やっと異性と同じ立場に立てたってだけで、そこから普通に振られる可能性は余裕であるやん?」
「えっとねぇ……」
まだまだ続きそうな夕夏の話を遮りながら、良さげな言葉を探す。
「少なくとも私は気持ち悪いとかそんなんは思わんかったで」
「そうなん?」
「うん。さっきも言うたけど、告白された事自体嬉しかってん。告白されたって事はその人にどこかしら好かれてるって事やしな。見た目にしても性格にしても、自分の事を好きって言われて嬉しくない訳無いやん。見知らぬおじさんとかに告白されたらちょっとさすがに気持ち悪いというか、気味が悪いからあれやけどな。んで、蒼依の場合はタイミングもあったけど、絶対真剣に言うてはるなっていうのが分かったから、私も多分ちゃんと考えられたんちゃうかなぁ。大分パニックにはなってたけど」
言ってから気付いたが、あの時はそこまで考えるような余裕はなかったような気がする。
どうにも記憶が曖昧で、言われた場所だって覚えているし、キスをされた事も覚えているのだが、何と言われて、何と答えた結果そうなったのかが不思議なくらいに思い出せない。
私にとっても十二分に衝撃的な出来事だったと思うのだが、どうがんばっても記憶の奥底から引っ張って来られそうにはなかった。
「まぁ、とにかく真剣やって事が分かれば相手も相当性格が歪んでない限りはちゃんと考えてくれるやろうし、気持ち悪いとは思わんと思うで。元々嫌われてたら分からんけど」
「そうなんかなぁ」
「相手は元々仲良い子なんやろ?」
「うん」
「じゃあ少なくとも嫌われる事はないやろ」
「そうかもしれんけど……」
夕夏の表情はまだ不安で堪らないという風だった。
「振られたらどうしようって感じ?」
「うん。だって……友達やと思ってた人が告白してきたらもうその人とは友達に戻れへんくない?」
「まぁ、どうしても意識というか、気遣いはするやろな」
「そうやんなぁ」
溜め息を吐く夕夏を見ていると、どうしてそんな苦しい思いをしてまで告白するのだろうかという疑問が湧いてきた。
「なぁ、蒼依もそうなんやけどさぁ、どうしても告白はしなアカンの?」
告白をする事で関係が壊れてしまうというのなら、そもそも告白をしなければ良い。しかしそれでも告白するという事はそれ相応の理由があるのだろう。
「どういう事?」
蒼依はどうしてあの時に告白してきたのか。
その理由はすぐに思い当たった。私が浩二に告白されたからだ。蒼依の思い人だった私が浩二に告白され、付き合うかどうかを悩んでいた。蒼依に告白される前には浩二と付き合うという選択肢を選ぼうとしていたし、もしそうなっていれば今のように蒼依と手を繋いでデートをしたりキスをしたりという事ができていなかっただろう。
私の願望も混じってしまっているかもしれないが、蒼依はきっとそうなるのが嫌であのタイミングで私に告白をしてきたのだろう。
もしかすると、夕夏も同じような状況なのかもしれない。
「でもそっか。誰かに取られるのは嫌やもんなぁ」
「何? 勝手に自分の中で解決すんのやめてよ」
「いや、恋人になってもならんくてもやる事大して変わらんし、友達のままでもええんちゃうって思ったけど、よくよく考えたら友達とはキスとかせぇへんもんな」
「うん。紅音だって蒼依が他の人とそういう事してたら嫌やろ?」
「うん。爪全部剥がす」
想像した瞬間、凄まじい嫌悪感が湧いてきて、思わずそんな事を口走ってしまい、夕夏が自らの肩を抱き締めるようにして私から一歩距離を取る。
「こっわ。その急に物騒になるの何なん?」
「裏切り者にはそれぐらいやらんと」
「あっ、しかもやる相手は蒼依なんや」
「いやいや、相手はもう爪剥がしてそこに画鋲でも刺してやればええやろ」
「痛い痛い痛い痛い。やめてよほんまに。こわっ」
「爪剥がすのと爪の隙間に画鋲刺すのってどっちが痛いんやろ」
「知らんわそんなもん。うわぁ、鳥肌立った」
「ごめんって。冗談やん」
さすがにこれ以上は本気で嫌がられそうなので、謝っておく。
「ほんまにやりそうで怖いわ」
「ところでもう駅着いたけど……」
結構のんびりと歩いていたつもりだったが、話しながら歩いていると、やはり時間が経つのが早く感じる。
「そうやなぁ。どうしよ」
「訊きたかった事はあんなけ? ちょっとは不安和らいだ?」
訊ねると、夕夏は困ったような笑顔を浮かべた。
「うーん……どうやろ。まぁ、ちょっとは増しかもしれんけど」
「そっか。ついでって言ったらあれなんやけどさぁ。何で告白しようと思ったん?」
何となくまだもう少し話していたくて、暑い日差しを避けるために日陰に移動してから、気になっていた事を訊ねてみる。
「うーん」
言うべきかどうか悩んでいるのか、夕夏は俯いて眉を顰めて考え込む。
「言いたくなかったら別にええけど」
「いや、大丈夫。えっと、そうやな。紅音たちを見てたら羨ましくなったから……かな」
「羨ましい?」
「そう。紅音の言う通り別に友達のままでも一緒に居られるし、楽しいからええねんけど、……なんて言うたらええかな。告白して関係が悪化するのは嫌なんやけど、やっぱり私のものにしたくなったというか、もっと関係を深めたくなったというか……」
「なるほどねぇ」
どうやら私が思っていた以上に、夕夏は相手の事を想っているらしい。
以前の私なら全く理解できなかっただろうが、今の私なら夕夏の言った意味に共感できる。
「夕夏も結構独占欲が強いタイプだ」
「それはそうかも。めっちゃ嫉妬するし」
「結構人気者やもんな」
「そうやねんなぁ」
夕夏が否定しなかったため、私の中では夕夏の思い人が彩綾である事が確定した。しかしそれを本人の口から聞かされる前に言ってしまうのはよろしくないだろうと、話を逸らして誤魔化す。
「蒼依もそうやけどさぁ、みんなに優しいやん? 先生とかにもめっちゃ丁寧やし、部活でも結構人気あるみたいやからさぁ」
「蒼依もモテそうやもんね。告白されてないのが不思議なくらいやもん」
「あ、部活終わりとかにされた事はあるらしいで」
「えっ、そうなんや」
「そう。まぁ断らはったみたいやけど」
私が告白されるのだから、当然蒼依だってされている。あまり知られていないのは、蒼依自身があまり自分の事を話さないからだろう。しかし私にだけは何かあればすぐに報せてくれる。
夏休みが明けて既に二回告白されたと言うのだから驚きだ。それも私のように友達から告白された訳ではなく、知らない別のクラスの人と先輩で、同じ女性としては少し自信を無くしてしまいそうになる。
「まぁ、さすがにね。紅音が居るのに付き合ったら爪剥がされるしな」
「付き合ってるって周りに知られてへんからしゃあないっちゃしゃあないねんけどな」
「やっぱり不安?」
「蒼依の事は信じてるし、大丈夫やとは思ってるけど、多少なりとも不安にはなるなぁ」
「やっぱそうなんや」
「うん。夕夏も気ぃ付けや? 相手が人気者やとずっと嫉妬する事になるし」
夕夏の相手が本当にあの誰にでもフレンドリーに接する人懐っこい彩綾なのだとすれば、毎日誰かに嫉妬し続ける事になりかねない。
それは夕夏も分かっているのか、既に全てを悟ったような顔をしていた。
「紅音も嫉妬深いもんね」
「多分私より蒼依の方が嫉妬深いけどな」
「あぁ、それは分かる。紅音があの前の席の子と話してる時とかめっちゃ睨んでるし」
「そうなん?」
「後は体育の時とか」
「あぁ、それは前に言われたから知ってる」
体育では蒼依以外の子とペアになる事がたまにあり、その時にあまりスキンシップをし過ぎると、授業が終わった後に蒼依から呼び出しを受け、お叱りの言葉を受けたりキスマークを付けられたりする事になる。
「やっぱりなんだかんだで蒼依の方が紅音の事好きなんやなぁって見てたら分かるわ」
「へぇ、そうなんや」
「うん。最近は紅音も蒼依が好きーっていうオーラというか、なんかそういうのが出てるけど」
人前で蒼依に対してそういう態度を取らないように気を付けているつもりだったが、意外と見て分かるものらしい。
「バレてたりする?」
「私らは知ってるから分かるだけやと思うで」
「じゃあいいや」
「でも感付いてる人も居るかもね」
「そうよねぇ」
その一人が私の前の席に座っている美波だ。事実として教えていないのに知っているという人が存在しているのだから、これからはより一層気を付けた方がいいのかもしれない。
「いっそ堂々とするか」
「多分止めといた方がええと思うけど」
冗談半分に提案すると、夕夏からは乾いた笑いが返ってきた。
「まぁ、恥ずかしいから絶対やらんけど」
「うん。そうしとき」
数秒の沈黙があり、駅のアナウンスが聞こえてくる。
「じゃあそろそろ帰ろうかな」
「うん。家はどっち?」
そう訊ねると、夕夏は来た道の方を指差した。
「そういえば、歩いて行ける距離なんやな」
「うん。自転車でも良かってんけど、学校までずっと坂道やん? さすがに毎日それはしんどいなぁって。下りは下りで怖いし」
「確かにね」
関西人だからといって落語のように話に落ちなど無い。そんな毎度毎度漫才や漫談のように面白い話をしている訳でも無いし、もちろん台本なんて物は無い。テレビに出ている人たちのようなテンションで普段から過ごしていたら精神的に参ってしまう。
「じゃあ、長々とごめんな」
落ちの代わりに生み出された沈黙をきっかけに、夕夏が話を切り上げる。
「ううん。大丈夫。気を付けてな」
「うん。またね」
「またねー」
鏡合わせのように胸の前で小さく手を振り合い、夕夏の姿が見えなくなってから私は駅の方へ歩き出す。
月曜日以外の何でも無い平日に一人ではなかったのは久しぶりだった。一緒に帰ろうと誘ってくれたのも、普段二人きりになる事が滅多に無い夕夏で、更に話題が夕夏の恋愛相談と、珍しい事尽しだった。
もう既に何を話したかなんて詳しい事は覚えていないが、それなりに自分なりのアドバイスらしき事もできていたように思う。
上機嫌で電車に乗り込み、偶然空いていた席に座って携帯を開くと、いつの間にやら蒼依から連絡が来ていた。
『夕夏と二人で帰ったの?』
噂をすれば影がさすなどと言うが、これがそういう事なのだろうか。
どこから聞き付けたのかも分からないが、夕夏と話していた通り、あまり良い気分では無さそうだという事が分かる。絵文字が付いていようがいまいが、不機嫌でなければこんなメッセージは送られてこないだろう。
少しの間悩み、嘘を吐く事でもないだろうと正直に文字を打ち、送信する。
『うん』
さすがにこれだけでは良くないかもしれないな、とまた少し悩み、言い訳のような説明をしておく。
『恋愛相談受けてきたわ』
これだけでも伝えておけば、不安に思う事など何も無いだろう。恋愛相談を本人にする訳がないのだから。
一度アプリを閉じた後、ついでに聞いておこうという気になり、もう一度アプリを開き、画面をフリックして文字を打ち込む。
『因みに何で知ってんの?』
これで部活終わりに蒼依が纏めて返信をくれる筈だ。
普段ならあまり細かく分けて送信すると、通知が鬱陶しいだろう思ってやらないように気を付けているが、部活中はマナーモードにしている事をついこの間教えてもらったため、これからはこの時間なら遠慮無くメッセージを送る事ができる。
だからと言ってそれ程送る物など無いのだが。写真を送ってみてもいいかもしれないが、電車内で写真を撮るのは控えた方が良いだろう。
女性だからと言って痴漢行為だと思われない訳では無い。最近では女性が痴漢の加害者になっている事も増えてきているとニュース番組でやっていた。
写真を撮ったり、写真を見せたり、触ったり触らせたりと痴漢だけでも色々な手法があるらしく、最近話題になっていた動画では、隣の人が寝ている時に肩に寄り掛かってきて、その頭を手で軽く叩いて起こしてあげたら痴漢扱いされて周りの人に連行されるという物。被害者面している女性も信じられないし、被害を受けたと訴える女性の意見ばかりを信じて、親切心で起こしただけだと主張する男性の意見を全く聞こうともしない周りの人間も信じられなかった。
私も電車を使っている限りはそういった事件に巻き込まれる可能性は充分にある。加害者になる気は全く無いが、被害者になる可能性もあれば、その動画の男性のように加害者に仕立て上げられる可能性もある。
通勤中の会社員が両手を挙げているように、怪しげな行動は取らないようにするのが一番良いのだろう。グレーゾーンは全て黒にされると誰かが言っていた記憶がある。
もっとみんな緩く生きればいいのに、と思うのはまだ私がそういう事件に巻き込まれたことがないからだろう。
危険なんて何も無い平和な人生が一番だと言う人もいるけれど、私としては一回ずつくらいはそういう事件に遭遇して、ネットなどで騒いでいる人に共感できるようになりたいという気持ちもほんの僅かながらある。
フィクションのようにフラグなんて物はそうそう立つ物ではないし、芸能人のように波瀾万丈な人生になんてそうなる物ではない。大抵の人はきっと、私のようにちょっと丘があったり水溜まりがあったりするだけの平凡な人生を歩んでいる筈だ。
このまま普通だと思う事をがんばっていれば、普通に生きられる筈だ。
夕夏の所為でまた変な事を考えてるなぁ、と他人に責任を擦り付けながら、窓の外を流れる景色に目を向ける。
そこにはまだ夏のような分厚い雲がいくつも浮かんでいた。
それを見ていると、体育祭の事が頭に浮かび、それから何故か再来週にまで迫った中間考査の事を思い出し、晴れやかだった心は一瞬で曇ってしまった。
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