第25話 9月20日
文化祭が終わって一週間が経ち、校内はすっかりいつも通りの静けさを取り戻していた。
とは言え静かなのは授業中だけで、休み時間はそこら中から話し声が聞こえてくる。それでもやはり文化祭中の騒がしさに比べれば随分と増しだった。
チャイムが鳴り、既に今日の授業計画を完了させて雑談に入っていた先生が号令を出し、本日最後の授業を終える。
「やっと終わったぁ」
肺に溜め込んだ空気を一気に吐き出しながら机に身体を倒す。
「お疲れ様」
前の席に座っていた蒼依が私の頭にそっと手を置き、二度三度と髪を撫でる。
「蒼依もお疲れ。なんか前の席に蒼依が座ってんの懐かしく感じるわ」
二学期が始まってすぐに席替えをして、それによって私たちの席は離されてしまい、大変寂しい思いをしているのだが、水曜日の五、六時間目にあるこの音楽の授業と、保健体育の授業だけは名簿順のままになっているため、一学期と同じように休み時間になるとすぐに蒼依と話し、授業中は私が後ろから蒼依を眺めて過ごしている。
「うん。もう三週間くらい?」
「そうやな。言うてる間に九月もう終わるで」
身体をゆっくりと起こし、ガタガタと音を立てて椅子から立ち上がると、蒼依も同じように立ち上がって肩に鞄を提げ、掃除をするために音楽室を出て教室へ向かう。
「テストって次いつだったっけ?」
「えっと確か……十月の二週目やから、三週間後?」
「早っ。じゃあ再来週は紅音とデートできるって事?」
「勉強しろや」
「毎日してますぅ」
今日の授業が終わった開放感からか、校舎内は休み時間よりも騒がしくなり、そうすると私たちの声も周りに負けないようにと大きくなる。
「私の方がしてるし」
「それは絶対そう」
「それやのに蒼依の方が点数高いのほんまに許せへんねんけど」
冗談半分にそう言って蒼依を睨むと、蒼依はペットを愛でるような優しい眼差しをこちらに向けながら私の頬を右手の人差し指で突いてくる。
「まぁまぁ、また一緒に勉強しよ」
「うん。今回はどっちにする?」
右手を振り、黙っている限りずっと触ってくる蒼依の手を追い払う。
「前は紅音の家やったけど……どうする?」
「私は別にどっちでもええよ。十月になったらもう涼しくなってんのかなぁ」
「どうやろ。さすがになってるんじゃない?」
「でも九月いっぱいは猛暑日になるみたいな事言ってはったしなぁ」
「今日も暑いしね」
はっきりとした予定は何も決まらないまま教室まで戻ってきて、私の机に蒼依と私の鞄を並べて置き、教室の角にあるロッカーから箒を取り出して掃除を始める。
いつものメンバーがそれぞれ何も言わずにいつも自分がやっている仕事をする。面倒だからなのか、力仕事を任されてくれているのか分からないが、男子三人は机と黒板、私と蒼依、それと桃子は箒で床を隅々まで掃く。
雑巾掛けは学期末に行う大清掃の時だけで良いらしく、役割分担をしていれば、だらだらと喋りながらやっていても十数分で元よりも綺麗な状態になる。
黒板はまだ少しチョークの跡が残っているし、机も完璧に並べられているという訳ではないが、その程度で怒られる事はない。怒られるとすれば、清掃時間中にサボっていたり、何か学校の物を壊したりした時くらいだろう。
「よし、おつかれー」
「おつかれー」
桃子と蒼依と、ロッカーの前に集まって三人でお決まりのようになった言葉を掛け合う。
水曜日は四時間目にロングホームルームがあるため、掃除の後のショートホームルームがない。そのため、男子三人も、桃子も掃除を終えるなりすぐに部活へ向かう準備をする。
「じゃあ部活がんばってね」
「うん、ありがとう。じゃあまたねー」
桃子は重そうな鞄を背負いながら笑顔で手を振り、教室を出て行った。一緒に掃除をしていた男子三人もいつの間にか教室から居なくなっていて、他のクラスメイトも掃除が終わり次第教室には寄らずにそのまま直接部活に向かったのか、教室で蒼依と二人きりとなった。
「蒼依は部活行かへんの?」
「行くよ。ただ、もうちょっとゆっくりしてもいいかなって」
そう言いながら蒼依は私の椅子を反時計回りに九十度回転させ、流れるような動作で座ると、閉じた膝の上をポスポスと叩く。
「何?」
「座って」
「何で?」
「良いじゃん」
「……」
このクラスの人がたまたま居なくなったからと言って、他の教室の人間が居なくなったとは限らない。私と同じように部活が無くてこれから帰るという人が通るかもしれないし、蒼依のように部活はあるがまだ教室で少しゆっくりしているという人が今になってこの教室の前を通るかもしれない。生徒に限らず、先生だって教室に来る事もあるかもしれない。そんな中で堂々と蒼依といちゃつこうという気にはなれない。
「充電させて」
「……ちょっとだけやからな?」
どうしてこうも私の意思は弱いのだろうか。
心の中で溜め息を吐き、自分に呆れながらも窓と扉を閉め、蒼依の要求通りに座ろうとすると、「違う」と何故か怒られる。
「反対」
どうやら蒼依は向かい合うように座って欲しいらしかった。
言われた通りに蒼依の方を向いて座ろうと、蒼依の肩に手を置いて、足を開き、スカートが捲れないように気を付けながら蒼依の膝の上に跨がって座る。そうすると、蒼依が私の腰に両腕を回し、力強く引き寄せる。
「……なんかめっちゃ恥ずかしいんやけど」
この状況を純粋に楽しめれば良かったのだが、蒼依の顔に胸を押しつけているような形になってしまっているのがどうにも気になって仕方が無い。
蒼依の肩を両手で押し、顔を埋めていた蒼依を胸から引き剥がす。
「邪魔しないで」
「恥ずかしいからやめて」
代わりの物として蒼依の髪を撫でてやるが、蒼依の不満そうな表情は変わらなかった。
「じゃあこっち」
腰に当てられていた手が私の頭の後ろにそっと当てられ、半ば強制的に頭を下げさせられる。そして私が目を瞑ると、そのままキスをされる。
たった一、二秒の短いキス。それだけで蒼依は充分に満足したようで、目を開けると、蒼依は幸せそうな表情をして私の事を見ていた。
「充電できた?」
「うん」
「そりゃ良かった」
「でも、あともうちょっとだけ」
そう言って蒼依は再び私の胸に顔を埋める。
疲れているのか何なのか、いつもよりもずっと甘えん坊な様子の蒼依が愛おしく思えてきて、ふわふわとした癖のある髪を撫でていると、ふと悪戯心のような物が湧いてくる。
無防備な蒼依の髪を掻き分け、露わになった耳に口を近付け、傷付けてしまわない程度の力で噛みつく。すると、蒼依が身体をびくりと跳ねさせ、くぐもった声を上げた。
こりこりとした硬い食感があるが、噛み千切ろうと思えばできてしまいそうだった。ついでに興味本位で舌先を耳輪を沿うように這わせてみるが、特に何の味も無く、私の胸の中で抗議の声を上げる蒼依を余所に、私は勝手に期待を裏切れたような気分になる。
その次の瞬間、突然蒼依が立ち上がろうと腰を浮かし、危うく後ろに転がりそうになった所を蒼依が支えてくれ、何とか無事に足を床に付けて立つ。
危ないなぁ、と文句を垂れながら蒼依が突然そんな事をした理由を考えると、すぐに思い当たった。
「ごめん、痛かった?」
「いや、痛くはなかったけど、……びっくりした」
「仕返し」
「何の?」
「恥ずかしかったから、それのお返し」
「そう」
納得してくれたのか、返事に困っただけなのか、蒼依は私の舐めた耳を手で触りながら短く返事をして、それから黙ってしまった。
そこに遠くの方から微かにサックスやトランペットなどの音が聞こえてきて、私たちは殆ど同時に黒板の上にある丸い時計の方へ顔を向ける。
「充電はできた?」
蒼依の方へ顔を戻してそう訊ねると、蒼依はいつもの優しい笑みを返してくれる。
「うん。もう充分過ぎるくらい」
「じゃあもうそろそろ行く?」
「うん。まだ五分は余裕あるけど」
冗談だという雰囲気を滲ませながら何かを求めるように見つめてくる蒼依に、私は舞台役者のように大袈裟な演技をする。
「練習とか真面目にがんばってる人の方が好きやなぁ」
そうすると、蒼依はいそいそと鞄を肩に掛け、いかにも真面目そうな表情を作った。
「行ってくるわ」
「うん。行ってらっしゃい。がんばってな」
そう言いながら最後に頭を撫でてやると、蒼依にその手を掴まれ、手首に口付けをされる。
「紅音も気を付けて帰ってね」
「はぁい。じゃあまたな」
両手を胸の前で振り、蒼依を見送る。
騒がしかった教室に一人残されると、妙な寂しさに襲われる。
ふぅ、と一仕事終えたように一つ息を吐き、鞄を持って蒼依とは反対方向へ向かった。
既に部活が始まる時間になり、部活に所属している人は当然その場所にいる筈で、所属していない人も何か用事が無い限りはいない筈なのだが、昇降口に着くと、浩二とその友達らしき人が靴箱の前で話し込んでいた。
浩二と話している彼の事は見た事がない。話し方や立ち振る舞いを見る限り、少なくとも私とは違うタイプで、ダンスを教えてくれた三好さんのような人と一緒に連んでいそうな人だ。
帰宅部の浩二と仲が良いという事を考えると、恐らく同級生だろうという事くらいは推測できるが、それ以上の事は何も分からない。
あまり見るのも失礼だと思い、視線を下に下げてさりげなく通り過ぎようとしたが、避けようにも避けられず、すぐに浩二に気付かれる。
「あれ、まだ残ってたんや」
「うん」
気付かれた以上無視する理由は無いので、いつもの調子で答えつつ、上履きを脱ぎ、ローファーに履き替える。
「何、お前の彼女?」
他に誰も居らず、部活動の声や音も殆ど聞こえないこの場所では、ひそひそと浩二の耳元で囁かれる言葉がはっきりと聞き取れた。
今の一言で私の中での彼の印象はマイナスからのスタートになったが、それはそれとして、彼が全く惚けていないというのであれば、私と蒼依が付き合っているという事はそれほど広まっていないと考えていいだろうと、心の中で胸を撫で下ろす。
「いやいや、仲良い友達やって」
浩二が顔の前で手を振り、慌てて否定しているのを横目に見ながらローファーに人差し指を引っ掛け、踵を入れ、仕上げにトントンと地面を蹴る。それからもう彼らの事は気にせずさっさと帰ろうと歩き出すと、何故か彼が隣に並んでくる。
「なぁ、名前何て言うん?」
馴れ馴れしくも初対面から名乗りもせずタメ口で話しかけてくる彼に強い不快感を抱きながらも、質問には答える。
「……紅音」
「アカネちゃんね。俺の事はマサヤって呼んでくれたらええし」
私の中で彼への好感度が下がっていくのを感じながら、助けを求めるように浩二の方へ視線を向けると、一瞬目が合った後、浩二は何かを言おうとして口を開きかけたが、その前にマサヤと名乗った彼が私に話しかけてくる。
「アカネちゃんは今から帰りやんな? 自転車?」
「いや、歩き」
我ながらなかなか不機嫌そうな声で答えたが、彼は全く気にしていないらしく、今にも肩を組んできそうな気配がして、私は思わず身体を固くした。
「そっか。じゃあ俺らも歩くし、一緒に帰らん?」
「いや、勝手に決めんなって。そもそも帰る方向もちゃうし」
そんな時、浩二が横から肘で彼を小突き、制裁を加える。しかし彼は手で小突かれた横腹を押さえて痛がるような素振りを見せたものの、またすぐに私に話しかけてくる。
「俺らもそっち行ったらええやん。なぁ?」
「なぁじゃないねんて」
「そういえば彼氏とか居るん?」
「おい、聞いとるか?」
質問を無視するのは少々心苦しいが、このまま黙っていれば全て浩二が潰してくれそうだ、と私はぎこちない愛想笑いを浮かべながら嵐が過ぎ去るのを待つ。
「ええやん、ちょっとくらい」
「ええから早よ帰るで」
「あっ、自転車の後ろ乗ってく?」
「はーいあなたはこっちでーす」
そう言いながら浩二が彼の背負っている鞄を掴んで駐輪場の方へ引き摺っていった。
少し深く息を吸い込み、はぁ、と息を吐くのと同時に肩の力を抜く。その時ふと、妹にやらされたホラーゲームで敵に襲われる心配の無い場所に命辛々逃げ延びた時の事が頭に浮かんだ。
あの手のタイプは私の苦手なタイプだ。親切心か何かは知らないが、初対面から仲の良い友達のように馴れ馴れしく話しかけてきて、それだけでも警戒対象となるのに、名前やら何やら、付き合っている人が居るかどうかなんて訊ねられても教えようとは全く思えない。
私と同じように同級生だろうと推測してタメ口だったのならそれは許せなくもないが、それでもやはり外で会った初対面の人にタメ口で来られると、どうも下に見られているようで不愉快だ。
何はともあれ浩二には感謝しなければならない。迷惑な嵐を退けてくれたのだから。
駅に着いたらメッセージで感謝しておこうと心に決め、また彼らに絡まれないようにさっさと学校を出て、早歩きで坂を下る。
しかし途中で後ろから自転車特有のチャラチャラとした走行音が聞こえてきて、ぶつかるかもしれないという不安から後ろを振り向くと、浩二ともう一人がブレーキを掛けながら私に近付いてきて、そのまま止まってまた絡まれるのかと思ったが、「またなー」と声を掛けるだけで横を通り過ぎて行き、私が行く道とは反対側に消えていった。
ただ声を掛けられただけで微かな不快感が沸き上がってきたが、溜め息と一緒にその黒い感情を吐き出し、気分を入れ替えるためにも今日の夕飯のメニューを考えながら駅へと向かう。
あれも良い、これも良い、と悩みはしたが、駅に着いて電車に乗ってもメニューは決まらず、結局いつも通りスーパーで安売りしている物を見てから考えようという事にした。
日中仕事に行っている両親の代わりに夕飯の買い出しと献立を任されているが、買い出し以上に献立を考えるのがあまりにもめんどくさい。
父なんかは毎日同じ料理で良いとは言うものの、実際にやると絶対にまたこれかと文句を言うだろうという事は容易に想像できる。妹も同じ料理で良いと言うが、妹の場合は恐らく好きな食べ物であれば文句は言わないだろう。いや、さすがに一ヶ月間夕食にオムライスを出されたら飽きるかもしれない。母も私と同じように献立を考えるのがめんどうだからと私に丸投げしてきたのだが、母も文句を言ってくるだろう。
要するに同じメニューをやるにも限度があるという事だ。その料理だけ上達しそうだが、私だって一週間以上同じメニューが続くと飽きる。
そんな時に便利なのがやはり丼だろう。あれは白米の上に乗せる物を変えるだけなので、非常に楽だ。
魚を買ってきて海鮮丼をしても良いし、牛肉を買ってくれば牛丼、豚肉を買ってくれば豚丼ができる。天ぷらや豚カツなどの揚げ物を乗せる事もできるし、見た目を気にしなければカレーやグラタン、麻婆豆腐なんかを掛けたって構わないだろう。
手抜きと言われようが何だろうが、楽で簡単で美味しいのだから、困ったら丼にしてしまうのも仕方の無い事だ。
夕飯の献立が何となく決まり、余った時間は小説を読んで過ごす。
二学期になって二週間が経過したが、物語はまだ半分も進んでいない。蒼依と付き合っていく上で役に立つかもしれないと思ってこの恋愛小説を読み始めたが、主人公やヒロインに共感できず徐々に苛々が募ってくる所為でなかなか進まない。
二ページほど読んで、景色を眺める。景色を見るのに飽きたらまた数ページ読み進める。それを何度か繰り返して、この引っ込み思案な両片想いの二人は互いの親友の手を借りてデートっぽい約束を取り付けただけ。これは進展が無い訳ではなく、ただ私の読むペースが遅いだけだが、何故ここまでやって付き合わないのか、私には理解できなかった。
切りの良い所まで読み進め、栞を挟んで本を閉じる。
電車を降りるまでの間に携帯を開き、浩二からのメッセージを確認する。
『ほんまにごめんな。あいつはもうあんなやつやから』
察するに、彼はもうどうしようもないという事なのだろうか。
いまいち意味が汲み取りきれないが、一先ず返信だけはしておく。
『了解』
短く二文字だけ送信した所で、ちょうど電車が駅に到着し、周りの人の後に続いて電車を降りる。
電車内も冷房が利いていて涼しかったが、外に出ても肌に伝わる温度はそれ程変わらない。日向に出るとまだじりじりと肌を焼かれるような感覚がするが、日傘をしたり、日陰を歩けばもうあまり汗を搔かずに済むくらいにはなった。
改札を抜けて階段を降り、日傘を鞄に入れ忘れた事を後悔しながらスーパーマーケットに向かい、安売りしていた鶏肉と、その他諸々を買って家に帰る。
「ただいまぁ」
玄関の扉を開け、誰もいないであろう廊下に声を掛けると、洗面所から妹が顔を覗かせた。
「お姉ちゃんおかえりぃ」
「あっ、そこに居ったんや」
「うん。眠たかったから顔洗ってた」
靴を脱いで揃えるために一旦買い物袋を床に置くと、妹がペタペタと足音を鳴らしてこちらに来て、買い物袋をリビングに持って行ってくれる。
「あぁ、ありがとうな」
「うん。今日のご飯何ぃ?」
靴を揃え、妹の後に続いてリビングに入る。
「今日は親子丼と、ちっちゃいうどんでもしようかなぁって」
「親子丼」
「それとうどんな」
食卓の上に鞄を置き、キッチンで手を洗う。
「かにかまは?」
「かにかまは買ってへんなぁ。かまぼこは買ってきたけど」
妹と一緒に買ってきた食材を冷蔵庫に入れていく。
「はい、これで最後」
「ありがとう」
「後でゲームしよう?」
「うん、ええよ。じゃあ着替えてくるしちょっと待っててな」
「うん!」
満面の笑みを浮かべる妹の頭を撫で、鞄を持って自室に戻り、暑苦しい制服から楽な部屋着に着替え、出し忘れていた弁当と脱いだ制服のシャツを持って一階に降りる。弁当をキッチンに置き、シャツを洗面所の洗濯籠に入れ、妹の所へ戻る。
「今日は何すんの? 確かこの前やったやつはクリアしたやんな?」
ゲームの起動画面を見ながら妹に尋ねる。
「うん。今日はこっち」
妹が指差したゲームのパッケージを見ると、どうやら人生ゲームのようだった。
「こんなんあったっけ?」
「夏休みに買ってん」
「へぇ、いつの間に」
ケースを開き、中に入っている説明書に目を通している間に、妹が手慣れた操作でゲームの細かい設定を終え、操作するキャラクターの設定を行っていた。私も自分のコントローラーを操作し、適当に設定を終える。
「それでいい?」
「うん、ええよ。私初めてなんやから手加減してや?」
「人生ゲームに手加減とか無いし」
「ミニゲームとかあるんちゃうの?」
「あるけど、全部ルーレットやから」
「なるほどね」
両親が帰ってくるまでの二時間以内に終えられるように設定し、早速ゲームを開始する。
メイキングした自分のキャラクターが赤ちゃんから老人になるまでが二時間程で過ぎ去っていくと考えるとなかなか薄っぺらい人生になりそうな物だが、そこはゲームなので、子どもの頃から数百万の借金を抱えたり、プロ野球選手になって大金持ちになったり、強盗に全財産奪われたりと、なかなかに波瀾万丈な人生を送る事になった。
大半が運だけで勝敗が決まりそうなゲームだというのに、何故かこのゲームでも私は妹に大敗した。妹が大きな数字を引き当てる一方で、私は五回中三回は一か二を引き当てていた。それでは勝てる物も勝てなくて当然だ。
「お姉ちゃんって運まで悪いんやな」
「いやいや、これはたまたまやって。次やったらさすがにもうちょっとええ感じになるやろ」
「えぇー、お姉ちゃんやしなぁ」
「というかほんまに涼音何もやってない? なんか私の見てない間にこう……設定でさ」
「やってへんって。そんな設定無いし」
そうやって妹とくだらない言い争いをしていると、玄関の扉が開く音が聞こえた。
時計を見ると、既に六時半を過ぎていた。
「やばっ、夕飯の準備しな」
「確かに。お腹空いたかも」
「ただいまー」
「おかえりー」
疲れた疲れた、と母は私が学校から帰ってきた時と同じように鞄を食卓の上に置いて一息吐く。
「ママお茶飲む?」
「あっ、貰おうかな」
「はぁい」
食材を出すついでに冷蔵庫からお茶を取り出し、ガラスのコップに半分くらいまで注いで母に渡すと、母はそれを一気に飲み干した。それを受け取り、洗い桶の中に置いておく。
さあ料理をしようか、という所で再び玄関の扉が開き、父が帰ってきた。
「おかえり」
「ただいま。今日は何?」
「親子丼する」
「出た。丼」
父にとしては決して嫌味を言っている訳ではないのかもしれないが、私にはこれがいつも嫌味に聞こえてしまう。
またこれか、と。そう言われているように思えて仕方が無い。
心の中で溜め息を吐きながら、お決まりの挨拶のように頭を撫でる父の手を受け入れる。
手を洗う前に撫でてきたのは許しがたいが、言った所で改善はされない。これも仕方の無い事だ。
妹には親子丼に於いては重要な卵を任せ、私は切りにくい鶏肉を一口サイズに切り分けていく。母には少し休憩してもらった後でうどんを任せる。父はいつも通り片付け担当なので、テレビを見て寛いでいた。
プロが作るお店の物には到底敵わないが、親子丼は見た目から文句の無い出来になった。妹も自分が思っていた以上に上手く出来たらしく、終始笑顔を浮かべて食べていた。
食べ終わったらいつも通り父に片付けを任せ、妹が風呂に入っている間に明日の学校に行く準備を済ませ、入れ替わりで私が風呂に入る。
風呂から上がってからもいつもと同じように今日の授業の復習と次の授業の予習をするが、その前に携帯を開き、蒼依から来ているメッセージを確認すると、『部活終わった』『今から帰る』という二つのメッセージの後、『構え』という文字の書かれたスタンプが五つ送られてきていた。
どう返そうかと五分ほど悩んだ後、『お疲れ様』と、無難な文字を打ち込み、蒼依と同じスタンプを同じく五つ送りつけ、携帯は通知が来た時に分かる状態で机の端に置いておき、今日使った教科のノートと教科書、数学は問題集も一緒に机の上に並べる。
今日は音楽の授業が二時間と、ロングホームルームがあったお蔭で復習する科目がいつもの半分以下だ。だから妹とのんびりゲームをしていたりもしたのだが、もう少ししたらまた定期試験があるので、もう少し勉強に費やす時間を増やした方が良いかもしれない。
ぼんやりとした計画を考えながらまずは数学のノートを開き、教科書と問題集を見ながら復習する。
同じ問題を何度もやった所であまり意味は無いような気もするが、渡されている問題には限りがあるのだから仕方が無い。
復習を満足するまでやり、予習に取り掛かる前に少し休憩する事にした。
そう言えば蒼依からまだ連絡が無いな、と携帯を手に取ると、ちょうど着信があり、私は慌てて携帯の画面をタップして応答し、耳を離していても会話ができるように通話をスピーカーモードにすると、少し籠もったような蒼依の声が聞こえてくる。
『紅音、聞こえる?』
「うん。聞こえる」
『今大丈夫だった?』
「うん。ごめん。メッセージ送ってくれてたんやな」
『そう。全然返信来ないからどうしようかと思って』
「いや、ごめん。普通にご飯食べたりお風呂入ったりしてて、全然見てへんかったわ」
『だと思った』
蒼依の姿が見えなくとも、いつものように含み笑いをしているのが分かる。いつの間にか、私の頬も上がっている事に気付く。
「蒼依はもう寝るだけ?」
『うん。まぁ、ちょっと勉強するけど』
「そっか」
『じゃあやろうか』
「うん」
それから携帯の向こう側から聞こえてくる音は時折紙を捲る音だけになった。
私も十分な休憩ができたため、よし、と小さい声で気合いを入れて予習に取り掛かる。
苦手な英語を中心に、古文や数学など、覚えて理解しなければならない物から順番に手を付けていく。そうするとあっという間に時間は経ち、自室に来て勉強を始めてから三時間、蒼依と通話を開始してから二時間が経とうとしていた。
「もう十二時なるやん」
『えっ、あぁ、本当だ』
そう言う蒼依からはあまり驚きの色は感じられなかった。
『紅音はもう寝る?』
「うん。明日も学校あるし」
『そっか』
「蒼依は? まだ寝ぇへんの?」
『どうしようかなぁ』
「たまには早よ寝たら?」
『紅音がそう言うならそうしようかな。結構やったし』
「うんうん。一緒に寝よ」
『うん。寝る。でもちょっと待って。お茶飲んでくる』
「はぁい」
蒼依が席を外している間に、私はテーブルの上の物を片付け、明日持っていかなければならない物は鞄に詰めていく。そうしている間に蒼依が帰ってくる。
「おかえり」
『ただいま。紅音も水分補給してる?』
「うん。してない」
忘れ物が無いかを確認しながら何も考えずに肯定し、次の瞬間に蒼依の質問を理解し、否定する。
『え? どっち?』
「してない」
『ちゃんと寝る前にも飲みなよ?』
「喉渇いてへんし」
『今飲んで来なかったら電話切るから』
「……飲んでくる」
重い腰を上げ、いざという時のために部屋の隅に置いてある段ボールからペットボトルの水を取り出し、机の上に昨日から置きっ放しにしてあったコップに一杯まで注ぎ、一気に飲み干す。
立ったついでに部屋の電気を消し、机の上に置いている携帯の仄かな明かりを頼りに暗闇を歩く。
「飲んできた」
『早くない? 本当に飲んだ?』
「うん。部屋に置いてあったし」
携帯を回収し、掛けていた眼鏡をサイドテーブルに置いて、手探りで障害物が何も無い事を確認してからベッドに寝転がる。
『そうなの?』
「うん」
『それやのに飲んでなかったん?』
「ふふっ……似非関西弁や」
『……それに関しては絶対紅音の所為だから』
「もうそんな意地張らんでええんちゃう?」
『うーん……そうかもしれないけど、意識すると変なイントネーションになるから』
「じゃあさっきのは意識したって事?」
『若干?』
足下で転けていたぬいぐるみを引っ張り上げ、抱き枕代わりに抱き締める。
「でもよく耐えてるよな。周りに関西弁喋る人ばっかりやのに」
『もっと褒めてくれていいよ。最近お父さんが関西弁になってきてるから』
「家族にも浸食してるんや」
『うん。仕事もそうだけど、テレビも関西の番組見てると関西弁じゃん』
「あぁ、そっか。確かに。それで移るんか」
『そうそう。だから私も最近ちょっと怪しいんだよね』
「最近っていうか、夏休み前から大分怪しかったけどな」
『まぁね』
会話が途切れ、時計の針がカチカチと時を刻む音が耳に入ってくる。それを聞いていると、段々と意識がぼんやりとしてきて、脳が勝手に変な事を考え始める。
「蒼依?」
『何?』
「大好き」
『ふふっ、何? いきなり』
蒼依が思わずといったように笑い声を溢した。
「大好きやで」
からかうようにそう言うと、蒼依が消え入りそうな声で返してくれる。
『私も』
「蒼依」
『何? もう眠たいんでしょ』
「蒼依も言って」
『……そう言われると言い辛いんだけど』
「好きじゃないんだぁ」
『…き』
「名前も呼んで」
『紅音、大好き』
今度ははっきりと、蒼依の声が耳に入ってきた。
自分でも馬鹿な事をやっているとは思いつつも、蒼依からその言葉が聞けた事があまりに嬉しかった。
「大好きやで、蒼依」
『もう、分かったから早く寝て』
蒼依が少し声を荒らげた。しかしその声色から、蒼依が照れている事がよく分かった。
「はぁい」
『おやすみ、紅音』
「おやすみぃ」
蒼依のお蔭で少し目が覚めてしまったが、黙って時計の針の音に耳を傾けていると、またすぐに眠気がやってきて、私の意識は暗闇に落ちていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます