第24話 9月12日
文化祭二日目。青空と暗雲が同居する空を眺めているうちにホームルームが終わり、校内が一気に騒がしくなる。
しかしそれは祭りが行われているような騒がしさではなく、ただいつもの休み時間がやってきた時とそう大差無い物だ。
「紅音ちゃん、着替え行こう」
前の席に座る美波が椅子の上で身体を九十度回転させ、私の方へ振り返り、私の机をトントンと指で叩いた。
「うん」
私は一瞬躊躇った後、頷き、椅子を引いて立ち上がる。
彼女とはこの一週間程の間に仲良くなり、私も彼女の事を名前で呼ぶようにまでなったが、彼女の方は始めと変わらず『ちゃん』付けのままで、付けなくてもいいと言ってみたものの、彼女はこれで慣れたからと頑なに変えようとせず、私も別にそこまで拘る必要も無いので、それ以上は気にしない事にした。
荷物を持って立ち上がり、待っていると、蒼依が彩綾と夕夏を伴ってやってくる。
「お待たせ」
「よし、じゃあ行くか」
「うん」
妙に気合いが入ったような言い方をしたが、体育館の更衣室が使えない代わりに用意された特別教室へ着替えをしに行くだけだ。
「紅音、緊張してる?」
左隣を歩く蒼依が訊ねてくる。
「うん」
私は肺が縮こまってしまったかのような息苦しさを感じながら自信を持って頷く。
「私一人居らんくてもバレへんかったりせん?」
「いや、さすがにバレるでしょ」
「紅音ちゃん、私と一緒にサボる?」
「駄目に決まってるでしょ」
美波の提案に冗談で乗っかろうとしたが、その前に蒼依が割って入り、呆れたように溜め息を吐いた。
「じゃあ蒼依も一緒にサボろう」
「そういう事じゃない」
蒼依は私の誘惑にも揺るがず、逃げないようにという事なのか、私の手首を優しく握る。
「逃げへんって」
「ちょっと踊ったらすぐ終わるんだから」
「そのちょっとが長いねんてぇ」
「発表順が後ろよりは良いでしょ?」
「まぁね」
「紅音って上がり症なの?」
「そりゃあもう。ほら見て、この手。薬の禁断症状みたいになってる」
そう言いながら自由に動かせる右手を胸の前に持ち上げ、手の平を蒼依の方へ向けてやると、手首から先が痙攣を起こしているかのようにぶるぶると震えていた。
「うわっ、ほんまや。すごぉ」
「いつもの事じゃないの?」
「うん」
蒼依が言っているのは、私がペンや箸を持った時の事だ。今と同じように無意識のうちにどこかに力を入れてしまっているのか、ペンを持つ手が震えて滑らかな線が描けず、箸で掴んだ物が上手く口に運べないなどという事がよく起こっていた。
「いやでも緊張してるのはしてるで」
「全然そうは見えへんけど」
美波が蒼依を挟んで覗き込むように私を見て言った。
「吐きそうなくらいには緊張してるから」
「吐くならトイレ行ってね」
薄情者の蒼依の手から抜け出し、既に着替え始めていたクラスの子に混じってダンス衣装に着替える。
上は強制的に支払わされた二千円で作られたお揃いのTシャツ。下は全員で揃えるにもあまりお金は掛けられないという理由で制服となった。
ステージの上で踊る事になっているため、スカートの下には念の為に体操服のハーフパンツを穿いておく。
「紅音」
脱いだ制服を畳んで鞄に詰め込んでいる最中、蒼依に名前を呼ばれ、「んー?」と何の警戒もせずに振り向くと、パシャ、と携帯のシャッターを切る音が耳に入る。
「消して」
「一枚くらい良いでしょ」
「言ってくれたらええやん」
「言ったらムスッとするでしょ?」
「うん」
カメラの前では笑顔になれない呪いに掛かっているのだから仕方が無い。
「この一枚だけだから」
「可愛く撮れた?」
念の為訊ねてみると、蒼依は画面を見る事もせず、自信満々に笑顔で答える。
「もちろん」
「ほんまに?」
「見る?」
「嫌」
私がふいっと顔を横に振ると、蒼依は肩を竦めて軽く微笑んだ。
蒼依は私の写真嫌いを知っている。恐らく私がこういう反応をするという事はある程度予想していたのだろう。腹立たしくはあるが、それ程重要な事ではない。私はただ嫌な物を目にしたくないだけなのだから。
「紅音」
「何?」
再び蒼依に呼ばれ、今度は少し警戒して眉を顰めたまま顔を蒼依の方へ向けると、蒼依が私の目の前まで来て私のスカートの裾を下に引っ張った。
「スカート折れてる」
「あぁ、ごめん。ありがとう」
蒼依が最後に軽く私のスカートを叩き、それが終わりの合図なのかと思いきや、太腿に虫が這うような感覚があり、それが蒼依の仕業だと頭では理解しながらも、私は反射的に一歩足を引き、私の太腿に伸びる蒼依の腕を目掛けて右手を振り下ろした。
「いっ」
パシッ、という音に混じり、蒼依が呻き声に似た声を上げる。
その軽い音とは裏腹に、私の指先には明らかに骨を叩いたであろう固い感触が残っていた。
「あっ……、変なとこ触るからやで?」
考えるよりも先に口から出てしまいそうになった謝罪の言葉を押し退け、蒼依を睨み付ける。
「紅音って結構力強いよね」
蒼依が手の甲を擦りながら感慨深そうに言った。
「蒼依、そういうのは二人っきりの時にやらな」
一部始終を見ていた彩綾が含み笑いをしながら蒼依に不要なアドバイスをする。その横で夕夏も密かに笑っていた。
「なんか蒼依がそういう事するの意外」
そう呟いたのは蒼依と同じ吹奏楽部に所属している美波だ。
「そうなん? いっつもこんなんやで?」
「真面目な人と言えば蒼依、みたいな感じやし、悪いけど、そういう事やるんは紅音ちゃんの方やと思ってた」
「私そんなイメージなん?」
「んー……というより、蒼依がやらなさそうやから、やるなら紅音ちゃんかなぁって」
「あぁ、そういう……」
「ほら、喋ってないで早く行こう」
今更何かを取り繕うように蒼依が私と美波の間に割って入ってくる。
「そうそう、私らの知ってる蒼依はこんな感じ。先輩にも言えるんやからすごいよなぁ」
「真面目モードや」
「ほら早く。時間稼ぎしても無駄だから」
「はぁい」
そういうつもりでは無かったが、気付けば教室に居た筈の他の人たちは居なくなっており、時計を見ると、本番まで後三十分程にまで迫っていた。
「はぁ、せっかく忘れかけてたのに……」
落ち着きを払っていた心臓が再び激しく鼓動し始め、食道が裏返って口から出てきてしまいそうな感覚に、思わず声に出して深い溜め息を吐く。
行きたくない気持ちを曝け出すようにのんびりと鞄を肩に提げ、みんなに続いて教室を出て、生徒たちの騒ぐ声が響く廊下を歩きながら、気を紛らわすために、ふと頭に浮かんだ事を口に出す。
「リハーサルとか何も無いんやなぁ」
「この後教室でちょっと練習するじゃん」
「そうやっけ?」
「うん。さすがに当日ぶっつけ本番って訳じゃないでしょ」
「それもそうか。でも後三十分くらいしか無いで?」
「集合は十分前だから」
相変わらず貧弱な記憶力を見せつけた所で、七組の教室に入り、周りの空気を読んで私たちも少しだけ練習をする。そして全員が教室に居る状態になり、いつの間にか文化祭に於いては委員長のような役割となってしまっている女子が取り仕切り、本番前最後の練習をする。
練習とは言ってもただ一回だけ通しで踊るだけだったらしく、クラスの中心となって動いてくれていた子たちも満足の行く出来にはなっているようだった。
そうは言ってもこれはただの練習。演技を行う広い第一体育館にどれだけの人が集まるのかは分からないが、その中で今のように何のミスも無く踊りきれるかどうかは分からない。何となく、振りを間違えてしまうのではないかという不安もあれば、意外とあっさりと成功できるのではないかという根拠の無い自信もあった。
「紅音、大丈夫そう?」
全体での練習が終わり、各自が好きなように過ごしている中、ぼうっと突っ立っていた私を心配して、蒼依が声を掛けてきてくれる。
「うん」
「終わったら泣いても良いからね」
蒼依はそう言いながらさりげなく私の右手を取り、両手で上下から挟む。
「何で失敗する前提やねん」
「いやいや、成功して嬉し涙を流す可能性だってあるでしょ?」
「それは無いな」
蒼依が私の手の甲に人差し指でぐるぐると円を描く。
何がしたいのかは全く分からないが、少し擽ったく感じる以外に不都合も無いため、好き勝手させておく。
「そもそも何で私が泣く事になってんの?」
「最近よく泣くじゃん」
「いや……、うん。それはそうやわ」
口が無意識のうちに否定の言葉を発したが、ここ最近で泣いた記憶が二つほど思い出され、緊張に加えて強い罪悪感に内臓を貪られているような気分になりながら首を縦に振る。
「先週は何かちょっとおかしかってん」
「うん。夏休みの時は分からなくもなかったけど、先週のはさすがにびっくりした」
「ほんまにごめん」
「別に気にしてない。何なら可愛い姿が見られてラッキー、くらいに思ってるから」
「いや、でも……──」
「そろそろ時間やからみんな準備してや」
蒼依の言葉に納得できず、謝らなければならない理由を探していると、担任の先生から声が教室内に響く。
もう体育館の裏に回って待機をしなければならない時間が来てしまった。時間という何にも干渉される事の無い存在は、私の身体を蝕む緊張や罪悪感を消し去るのを待ってはくれない。
「紅音、行こ」
「うん」
どうしよう、どうしよう、と何度も同じ事が頭の中で繰り返される中で、勝手に口が返事をして、蒼依に手を引かれて教室を出る。
足を動かし、階段を下りて行く毎に鼓動は激しくなり、息苦しさが増していく。
帰りたい。今すぐ蒼依の手を振り払って逃げ出したい。しかしそんな事をすればどうなるかなど、よく考えなくても分かる。きっとそうした後の私に学校での居場所は無くなるだろう。蒼依にも見放されてしまうだろう。
ならもう腹を決めて本番に臨むしかないのだが、失敗したらどうしようという不安が頭にこびり付いて離れない。
もし失敗すれば、パフォーマンスを台無しにしてしまった事を怒られ、観客には嗤われ、少なくともこの高校に通っている間はずっとみんなの嗤い物になるだろう。蒼依にも嗤われてしまうかもしれない。そうなれば私はもうこの学校に通えなくなってしまう。
これは私の単なる被害妄想なのかもしれないし、本当にそうなるかもしれない。実際どうなるかなど、その時になってみなければ誰にも分からない。しかし私にはどうしてもそうなってしまうような気がしてならない。
蒼依に握られていない左手を持ち上げてみると、相変わらず電気でも流れているかのようにぶるぶると小刻みに震えている。どうにかして止められない物かと拳を握って力を入れてみたり、反対に力を抜いてみたりしても何も変わらない。
私はいつからこんなに緊張するようになったのだろうか。この手が震えるようになったのはいつからだろう。
昔から恥ずかしがり屋で、人見知り。一番古い記憶の中でも、私は人前に立って発表する事に強い抵抗を感じていた。
先生によって強制的に立たされ、黒板の前で教室にいるほぼ全員からの視線を感じながら自分自身について話す。冬でもないのに口が震え、壊れた機械のように同じ音を何度も鳴らし、言葉を詰まらせる。周りの人のように上手く喋れない。自分でもおかしい事には気付いていた。
分からない問題を出され、黒板の前に立たされ、先生に怒られ、みんなには嗤われる。
人前で失敗をすれば怒られ、嗤われる。そう決まっている。
嗤われないためには絶対に失敗をしてはならない。
怒られないためには絶対に失敗をしてはならない。
失敗しても良い訳が無い。
「──ね、大丈夫?」
「え?」
「もしかして体調悪い?」
顔を上げると、蒼依が眉をハの字にして私の顔を覗き込んでいた。
緊張からか、額や背中などから冷や汗のような物が流れていて、私はそれを左手で拭い、笑顔を作る。
「大丈夫大丈夫。緊張してるだけやって」
無理遣りにでも明るく振る舞ってやると、緊張が解れる事は無くとも、後ろ向きな思考を取り払い、勢い任せに何だってできてしまうような、そんな何の根拠も無い自信が湧いてくるように自らを錯覚させられる。
「顔色悪いし、汗もすごいけど……熱があったりする?」
「無い無い。単純に外暑いからさぁ」
顔の前で手を振りながらへらへらと笑顔を向けるが、蒼依の表情を見る限り、あまり納得してくれているようには見えない。けれども、蒼依が私の様子に気付いて気遣ってくれているという事実に、私の心は満たされ、この後のパフォーマンスも上手くいくような気がした。
単純だと言われると否定しようがないが、蒼依がちゃんと私の事を見てくれているという事実があるだけで、蒼依がたった一言、「がんばろう」と言ってくれるだけで、私はがんばるための気力が得られる。
体育館の横、グラウンド側の扉が開き、カーテンで客席と区切られた待機スペースに移動し、すぐにパフォーマンスを始められるように、舞台裏の階段を上がってすぐの所で整列する。
カーテンの向こう側からは観客である生徒たちの話し声が聞こえてくる。楽しみにしてくれているのか、退屈凌ぎに来ているのか分からないが、ある人はその声を聞いてみんなを楽しませようとやる気を漲らせ、またある人は自分が全力で楽しもうと自らを鼓舞していた。
そんな中で私は聞こえてくる声の多さに胸が押し潰され、震える両手を祈るように握り合わせ、深呼吸を繰り返していた。
それをじっと見ていたらしい蒼依が含み笑いをする。
「さすがに緊張し過ぎじゃない?」
「逆になんでみんなそんなに落ち着いてんの? 意味分からんねんけど」
「紅音のお蔭かもね」
「……意味分からん」
蒼依の皮肉めいた言葉の意味を考える暇も無く、私たちのクラスを紹介する司会が入った。
前に立つ蒼依が私の方へ振り向き、微笑みかけてくる。私はぎこちない笑みを返し、最後に一つ深呼吸をして覚悟を決める。
そして十数秒後、ここ一週間で嫌いになってしまいそうな程繰り返し聴いた音楽が流れ始め、練習した通りにステージに飛び出して行く。
真っ先に目に入ったのは、薄暗くするために照明の落とされた客席。よく見ればしっかりと人の形が分かるが、ぼんやりとその手前の空間を見つめるだけではただ暗がりが見えるだけ。
お蔭で私は肩の力を抜き、練習の時と同じような感覚で身体を動かす事ができていた。後はこのまま間違えずに自分の役割を全うするだけだ。
メインではないものの、中学までの授業などでダンスの経験がある女子というだけでそれなりに目立つ場所に配置された時には本気で学校をさぼってやろうかという気にもなったが、身体を動かしているうちに気分は高まり、自分でも自然に笑顔を作れているような気がした。
それでもダンスが苦手な事には変わりないので、失敗したらどうしようという不安をずっと感じている。
五分という長いとも短いとも言えない微妙な時間を、早く終われと願いながら記憶にある動きをなぞる。
意外と余計な事を考えられる余裕があるな、とクラスの中で一番不安視されていた人が現在進行形で余計な事を考えながら踊っているが、振りを間違える事も、足を滑らせたり他の人とぶつかったりする事も無く無事に踊り切った。
最後に全員で口を揃えて礼を言う所を口パクで済ませ、ステージから下りて体育館を出る。
外の空気を目一杯肺に取り入れ、疲労で乱れた呼吸を整えるついでに身体の中に溜まっていた澱んだ空気を吐き出すと、先程までの息苦しさや吐き気が嘘だったかのように消え去った。
「紅音、お疲れ様」
私より後に出てきた蒼依が私の肩を叩き、右隣に並ぶ。
「おつかれぇ」
上半身の力を抜き、蒼依に寄り掛かると、露出した腕が触れ合い、蒼依からひんやりとした感触が伝わってくる。
最近気付いた事だが、男女で同じようにしていると、当然その二人は周りからカップルだと認識され、いちゃついているように見える。学校ではそれを不純異性交遊とされ、先生からはお叱りの言葉が降ってくるのだが、これが女性同士なら、譬えカップルだとしても、ただ仲の良い友達、親友という認識より上にはなりにくいらしく、先生からも仲が良いと思われるだけで怒られる可能性は低い。仮に男性同士が抱き合っていたり、こうして肩を寄せ合っていたりしたら、ただならぬ関係に見えるのだから不思議な物だ。
「ちょっと、大丈夫?」
「うん。ちょっと疲れただけ」
心配はいらないという意味を込めて親指を立てる。
「二人ともお疲れー」
「お疲れ」
彩綾はいつも通りだが、珍しく夕夏も達成感の溢れる爽やかな笑顔を浮かべていた。
「二人もお疲れ様」
「いやぁ、ほんまに疲れた。あっついし」
彩綾が袖で額の汗を拭ったのを見て、私も汗を搔いていた事を思い出し、慌てて蒼依の身体から離れる。
「あれ、もう終わり?」
蒼依が物欲しそうな顔をして見つめてくるが、汗だくの状態でこれ以上くっついている訳にはいかない。
「私も汗搔いてるから」
「別にいいのに」
「私が良くないの」
日陰で涼みながら喋っていると、先生が私たちに向けて手招きをしているのが見えた。
「あっ、写真撮るんちゃう?」
夕夏の言葉に、試練がもう一つあった事を思い出す。
「帰ったらアカン?」
「駄目」
逃がさないと言うように手首を掴まれる。
「居らんくてもバレへんって」
「駄目」
問答無用で蒼依が私の腕を引いてクラスのみんなが集まっている所に行かされる。
「紅音ちゃんどうしたん?」
蒼依に引き摺られるようにして歩いてきた私を見て、美波やその友達らしき人たちが笑っていた。
「いや、この子写真が嫌いだから」
「あ、そうなん?」
「後ろでしゃがんでたらアカン?」
「駄目」
「せっかくやから映ろうや。隣おいで」
手招きされ、言われた通り美波の隣にしゃがみ、蒼依が私の隣に来て同じようにしゃがむ。
我儘な子どものような扱いを受けている事はこの際置いておいて、どうにかして回避できない物かと必死に脳を働かせるが、恥を承知で強行突破するしか回避する手段は思い付かなかった。
「ほら、嫌がってても長引くだけなんだから」
「うん」
「紅音ちゃん、笑顔笑顔」
「残念ながら私にそんな機能搭載されてへんねんなぁ」
「さっと撮ってさっと帰る方が良いでしょ?」
「それはそうやけど……」
「どうせ映るなら可愛い方がええやろ?」
「無理」
蒼依と美波に挟まれ、天使と悪魔が囁くように左右から交互に説得を受けるが、その実両方とも私の味方ではない。
しかし私がいくら嫌がった所で写真撮影が中止される事は無く、写真には恐らく私の仏頂面が記録された事だろう。
「ちゃんと笑ってた?」と左から美波が顔を覗き込んできて、それに頷くと、「絶対嘘じゃん」と右にいた蒼依が当然だとでも言いたげに私の嘘を見抜く。
私が仏頂面をしていようが可愛い顔をしていようが、それによって誰かが呪われたりする訳が無いので、私がそれを見なければ何の問題も無い。
「よし帰るぞー」
棒読みの掛け声と共に腕を伸ばし、教室に向けて歩き出す。
「急に元気になるじゃん」
「帰って感想文書かないと」
何故か学年は問わず最低でも五つは演劇を観て感想を書くという課題が与えられている。そうでもしなければ三日間に掛けて行われる文化祭を、私のようにただの長い休み時間のように過ごす人がいるから仕方の無い事なのだろうとは思う。
しかしその所為で演劇を見るのが学校へ行くのと同じ義務のように感じてしまい、絶対やれよと言われたらやりたくなくなるあの現象が引き起こされる。
「因みに他の演劇を見る気は……?」
「ない」
蒼依の問いに胸を張って答えると、隣から溜め息が聞こえてくる。
「だと思った」
「観た所で何も変わらんし」
「観ないと感想書けなくない?」
「知ってる作品の感想やったら何とかなるやろ」
「省略してるんだから、やってないとこ書いたら観てないのバレるよ?」
「じゃあ蒼依が観に行って、その感想聞いて私が文字に起こすわ」
「私が行くなら一緒に行こうとはならないんだ」
「うーん……だって暇やしなぁ」
「教室で待ってる方が暇じゃない?」
「蒼依が居てくれたら暇じゃなくなると思うけど?」
「私は観に行くから」
「えー、一緒に居てくれへんの?」
「一緒に居たいんなら私と一緒に観に行こうよ」
「……面倒くさい」
「あっそ」
「蒼依が冷たいんだぁ」
「紅音が我儘言うからでしょ」
そんな事を言い争っている間に自分たちの教室に辿り着き、着替えるためにまた鞄を持って着替え用の教室に移動する。
特に予定の決まっていない私はさっさと制服に着替え、椅子に座って机に突っ伏すようにして身体を休める。
「二人は何か観に行く物決まってんの?」
近くで着替えている彩綾と夕夏に訊ねた。
「私はとりあえず先輩のクラス観に行こうかなぁとは思ってるけど……」
彩綾が言葉を濁し、夕夏を見る。
「夕夏は?」
「私も教室で待ってようかなぁ」
夕夏が先程までの爽やかな笑顔を消し去り、疲れた様子で答えた。
「待つっていうかサボりやろ」
「そうとも言う」
「そうとしか言わへんねん」
「じゃあ夕夏が私と一緒に居てくれる感じ?」
夕夏に期待の眼差しを向けながら二人の言い争いに横入りすると、味方である筈の夕夏が首を横に振った。
「いや、彩綾と同じとこ観に行く」
予想していなかった答えに、「んえっ」と思わず変な声を上げる。
「そんなに私と一緒に居るん嫌なん?」
「いやいやちゃうって。普通に元から観に行くつもりはしてたから」
「紅音」
ここぞとばかりに蒼依が私の肩を掴み、じっと見つめてくる。
「この裏切り者め」
「サボりは良くないと思う」
手の平を返して困ったように笑う夕夏を睨んでいた時、少し前にサボりを提案してきた人の事を思い出し、教室内に目を向ける。しかしその美波は他の友人たちとどこに観に行こうか話し合っているようだった。
「諦めて一緒に行こっか」
私の視線の先にある物を見て、蒼依が何かを察したように私の肩に手を置いた。
「面倒くさい……」
「紅音は感想書きたくないだけでしょ?」
「いや、感想も書きたくないけど、興味も無いし……。プロの劇団がやってるとかなら観に行くかもしれんけど」
「それでもかもなんだ」
「だって興味無いし。というか昨日も散々観たやん」
「でも暇でしょ? それに、感想書こうと思ったらやっぱり観に行かないと」
「いやぁ、観ても観なくても面白かったーとか棒読みなのが気になったーとかしか書けへんしなぁ」
「一個目はともかく、棒読みだったとかそういう批判的な事でも良いんじゃない?」
「じゃあ、粗探しに行きますかぁ」
「書くのは感想だからね?」
全員が着替え終わり、忘れ物が無いか確認をして自分たちの教室に戻る。すっかり忘れていた事ではあったが、幸い男子は全員着替えを終えており、各々やりたい事をやっていた。
私が自分の席に座ると、他三人が鞄を自分の席に置いてから何故かこちらに集まってくる。
「何で集まってくんの?」
「いや、何となく?」
「まぁええけど。二人はどこ観に行くん?」
鞄から三日間のスケジュールが書かれたプリントを取り出して机の上に置き、別行動になる可能性のある彩綾と夕夏に訊ねる。
「私はとりあえず先輩の……ここやな。三年七組」
「へぇ、花男やるんや」
夕夏は元となる作品を知っているらしい。
「先輩は何の役やらはんの?」
「主役の女の子やらはるんやって。というか多分女性の登場人物自体少ないやろこれ」
「そうなんや。夕夏はどこ観に行くん? 彩綾と同じとこ?」
「うん。暇潰しに」
「あっ、酷い」
痴話喧嘩を始めた二人は放っておいて、紙を蒼依の方へ向けて訊ねる。
「蒼依は? 一年? 三年?」
「先輩のは昨日観たし、友達のを観に行こうかな」
「もう今から行かな終わっちゃうんちゃう?」
「今どこやってるの?」
「私らがトップバッターで、今十時過ぎやろ? 時間が押したりとかは無いやろうから三組やな。で、次が一組。一年って午前中で全部終わるんやな」
「次じゃん。早く行こう」
「私が荷物番してるわ」
「……」
「冗談やって。そんな睨まんといてよ」
へらへらと笑って蒼依の鋭い視線を受け流し、プリントを鞄に仕舞う。
「二人は一年生の方?」
「うん」
「じゃあまたお昼」
「三年生の方面白かったら教えて」
「任せろ」
「じゃあまた後で」
三年生の演劇は一クラス二十分で、どうやらまだもう少し待たなければならないらしく、一足先に私と蒼依は教室を後にする。
「紅音」
「何?」
階段をのんびり下りていると、後ろから蒼依に名前を呼ばれ、振り向かずに返事をする。
「今周りに誰も居らんけど」
だからどうしたのかと訊き返したくなる所だが、蒼依の言いたい事、したい事が何となく分かったような気がした。
「……劇観に行くんちゃうの?」
「ちょっと止まって」
理由を訊ねる前に、言われるがまま階段の途中で立ち止まると、蒼依が横を追い越して私の正面に立つ。すると一段下に立った蒼依と身長が殆ど同じになり、蒼依の顔が目の前に来る。
こういう時に拒めるようになった方が良いのだろうか。そんな事を暢気に考えながら蒼依の口付けを受け入れる。
顔が離れる直前、ぬるりとした物が一瞬口の中に侵入してきて、閉じていた目を開くと、悪戯が成功した子どものような笑顔の蒼依が私を見つめていた。
「行こう」
「うん」
唇や腕に感じる蒼依の温もりを味わうように、蒼依に触れられた場所を指でなぞりながら、またゆっくりと階段を下りる。
これからしばらく退屈な時間が続く上に感想文まで書かなければならない事を思うと、蒼依の手を引いてどこか人のいない場所に行って、二人で過ごしていた方が幸せなのではないかという考えが浮かんでくる。
私がじっと蒼依の手を見つめている事に気が付いたのか、蒼依が私に手を差し出してくる。私は首を横に振り、蒼依の手を取って体育館へ急いだ。
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