第23話 9月4日
九月に入ってから少しずつ気温が下がってきて、蝉の鳴き声が聞こえてこなくなったが、それでも気温は三十度を越えている。
空は薄灰色の雲で覆い尽くされており、雨が降った訳でもないのに肌に纏わり付く湿った空気は、息苦しいとさえ感じるあの梅雨の暑さを思い出させる。
いつものように全身に汗を滲ませながら蒼依と一緒に登校してきた私は、蒼依に連れられて誰もいない三階の渡り廊下に来ると、掛けていた眼鏡を奪われ、壁に押しつけられるようにしてキスをされた。
人気の無い場所に連れてこられた時点で、蒼依が何をしようとしているのか大凡の検討は付いていた。それが学校のような場所でしてはならない物だという事は分かっていたが、手を繋ぐ以上の事は数週間振りだという事を思うと、拒む事ができなかった。
人が通るかもしれないという不安を塗り潰すように、蒼依の舌が微かに開いていた私の唇を割って口の中に侵入してくる。
舌が吸われ、口蓋や歯茎の表面を、熱を持った柔らかい物が這い回ると、擽ったいような、気持ち良いような感覚に襲われ、私の意思とは関係無く声が漏れた。
その吐息混じりの甘い声が自分の口から発せられた物だという事に気付くと、顔が日差しに焼かれたように熱くなる。
両手に力を込めて蒼依の身体を押し離し、乱れた呼吸を整えながら蒼依の顔を仰ぎ見ると、蒼依はここ最近で一番の笑顔を浮かべていた。
「可愛い声出てたね」
「うっさいわ」
思わず乱暴な言い方をしてしまったが、蒼依は特に気にした様子も無く奪った眼鏡を私の耳にそっと掛け直し、そのついでに頭や頬を撫でてくる。
「顔真っ赤」
「……」
「痛っ! ちょっと、今本気で踏んだでしょ」
「因果応報」
私は睨み付けてくる蒼依から顔を逸らし、人気の多い教室側の廊下に逃げ込むと、蒼依が慌てて追いかけて来て、右腕の袖を掴まれる。
「ごめん。ちょっと久しぶりだったから……」
「それは良いけど、その後いらん事言うたやん」
「キスしたのは許してくれるんだ」
「次人の居るとこで言うたらしばくからな」
「ごめんって」
反省しているのかいないのか、蒼依はへらへらと楽しそうに笑みを浮かべている。
この幸せそうな笑顔を見ると、何でも許してしまいそうになってしまう自分に呆れ、密かに溜め息を吐く。
教室に入ってすぐ、隣の席に座っていた浩二と軽く挨拶を交わし、自分の席に鞄を置くと、何故か先に蒼依が私の席に座った。
「もうチャイム鳴るし、早よ自分の席行きぃや」
そう言った途端、聞き慣れたチャイムが鳴り響く。
「ほら」
反射的に黒板の上にあるスピーカーに目をやり、視線を蒼依に戻すと、蒼依は机に肘を突いて寛ぐ体勢に入っていた。
「まだ予鈴だし。一時間目はこの教室なんだから、別に良いでしょ」
「先用意しに行ったら?」
退く気配の無い蒼依を見て、仕方無く窓を割らないよう慎重に壁に凭れ掛かる。
「まだ怒ってる?」
「いや、そもそも怒ってへんし」
「足踏んだじゃん」
「それはまぁ、むかついたから」
「ほらやっぱり怒ってたんだ」
「あれは蒼依が悪いんやんか」
「可愛いから可愛いって言って何が悪いの?」
「しばいたろか?」
「暴力はんたーい」
反省の色が全く無い爽やかな笑顔で断られたのが癇に障り、視線を落とすと、視線の先にあった蒼依の足が素早く椅子の下に隠される。
「踏もうとしたでしょ」
「してない」
「絶対踏もうとしてた」
「足を砕こうとしてただけ」
「やめて」
「ねぇねぇ」
蒼依とくだらない言い争いをしていると、前の席になった子がトントン、と私の机を人差し指で叩き、にこにこと好奇心でいっぱいになった瞳をこちらに向けていた。
彼女が周りから『みなみ』と呼ばれていた事を思い出していると、彼女は私の机に肘を置き、少し身を乗り出して騒がしい教室の中、私が辛うじて聞き取れるくらいの小さな声で爆弾を吐き出した。
「二人ってやっぱり付き合ってんの?」
「……」
蒼依は何かを答えようとして口を開き、ゆっくりと私の方へ顔を向ける。
そんな反応を見せた時点でもう手遅れだろうと思いながらも、一縷の望みに懸けて以前決めた通りに極力隠す方向へ進めようと試みる。
「付き合ってはないで」
「そうなん?」
私の言葉を聞き、彼女はもう一度蒼依の方を見て首を傾げた。それと同時に蒼依は私の意図を汲み取ってくれたようで、彼女の問い掛けに頷いてみせる。
「うん。いきなりどうしたの?」
「いや、やけに仲良いなぁって思って」
「まぁ、ずっと一緒にいるからね」
「そうそう、それもあるんやけど、さっき渡り廊下のとこでちゅーしてなかった?」
「えーっと……」
蒼依は再び私の方を見るが、もうどうしようもないように思えた。
私たちが恋人関係であるという事を無理に隠す必要は無いと考えていた私は、わざとらしく溜め息を吐く。
「蒼依の所為やな」
「あっ、やっぱりそうなんや」
「いや、今の紅音の所為でしょ。美波は確信してなかったんだから」
どうやら蒼依は彼女の事を名前で呼び捨てにする程仲が良いらしい。
そう思った瞬間、微かに胸が締め付けられるような感覚に襲われ、それを誤魔化すように怒りの感情が沸き上がってくる。
「見られてたんやから手遅れやろ」
「いや……」
突然不機嫌になって言葉を吐き捨てた私に、蒼依が困惑を表情に滲ませて言葉を詰まらせた。
「いやごめん、紅音ちゃん。別にそんな誰かに言い触らそうとか思ってへんし。蒼依もごめん」
険悪な空気感を察した彼女が冗談を言うようにして笑顔を浮かべながら両手を合わせ、上目遣い気味に私を見つめてくる。
残念ながら私が不機嫌になった理由と彼女の謝罪した事は違っていたが、私だってこのまま不機嫌でいるつもりはない。
「ううん。大丈夫。でもできれば秘密にしといて?」
私は努めて冷静に、子どもを諭す時のような優しい口調と微笑みで彼女にお願いする。
「うん。おっけー」
彼女がはっきりと頷き、右手の親指を立ててグッドサインを出すと、授業開始の合図である本鈴が鳴る。
荷物を持って立ち上がった蒼依の手を握り、先程の事について謝っておく。
「蒼依、ごめんな」
「ううん。私こそ」
首を振って微笑んだ蒼依を見て胸を撫で下ろすと、蒼依の手が私の髪を撫でた。
「じゃあまた後で」
蒼依はそう言って、最後に私の頭を擽ったいくらい優しく二回叩き、髪の毛の先まで指を辿らせると、名残惜しそうに自分の席に向かった。
漸く空いた自分の席に座り、蒼依の指が触れていた辺りの髪を人差し指に絡ませてくるくると回して遊んでいると、蒼依とのやり取りを見ていた彼女が、チャイムの音が消え行く中、私に訝しむような目を向けて呟く。
「ほんまに隠す気ある?」
「えっ? うん」
あるかないかと訊かれれば、私は頷くしかなかった。
彼女の問い掛けの意味が理解できないまま号令が掛けられ、授業が始まる。
私の髪にはまだ蒼依に撫でられた時の感触が残っていた。
────────────────────
授業は二学期になって覚えなければならない単語が難しくなり、得意な数学も時間を掛けなければ理解できない所が増えてきて、以前と変わっていない筈の授業の進行速度について行けなくなってきていた。
しかし今はそれ以上にがんばらなければならないのが、文化祭で発表するダンスの練習だ。
「紅音ちゃん、もうちょっと大きく動ける?」
「分かった」
グループの指導役である女子がグループの中でも一番出来が悪かったであろう私を見て指摘をし、何となくそうであろうと予想していた私は雰囲気を悪くしないように愛想笑いを浮かべて返事をする。
「いたっ、」
「あっ、ごめん」
「大丈夫大丈夫。まだまだ時間あるし」
振りを間違えて隣の子と腕がぶつかってしまい、反射的に謝って動きを止めると、指導役の子が音楽を止めて、ついでに改善点をそれぞれに伝える。
「紅音ちゃん、大丈夫そう?」
指導役の子が心配して話しかけてきてくれるが、何に対する問い掛けなのか分からない。しかしよく分からないながらに予測し、それらしい答えを口にする。
「ごめん、あんまり覚えきれてなくて……」
「いや、こっちこそごめんな。あんまりダンス得意ちゃうって言うてたのに」
「……」
何と返せば良いのか分からず黙っていると、蒼依といる時には殆ど無い気まずい沈黙が生まれる。
「えっと……とりあえず、紅音ちゃんはとりあえず振り付け間違えへんようにして、あとは自信持って一つ一つの動きをはっきりさせてくれたらええ感じかな」
「うん。分かった」
「じゃあ今日はもう帰ってくれても大丈夫やし」
「うん。分かった」
「付き合ってくれてありがとうな」
無愛想な私に、名前の分からぬ彼女は優しげな笑顔を浮かべ、私が嫌々やっているのを知っているかのように礼まで言って、他のグループにいる自分の友人の元へ戻っていった。
他のグループの邪魔にならないようにこそこそと鞄を回収し、タオルで汗を拭いつつ、まだ練習を続けている蒼依を見つめながら思う。
(私が邪魔者やったみたいやなぁ)
私の他に練習を終えて帰る用意をしている人もいるが、蒼依を含む同じグループの人たちはまだ楽しそうに話しながら練習を続けている。見る限り、指導役の子はそこに居らず、自主的にやっているようだ。
仲間外れにされたような気分になりながら、まだ時間が掛かるだろうと判断し、私は鞄を持って教室を出る。
他の教室や二、三年生の教室の前の廊下には文化祭準備で忙しくしている人たちで通路が狭くなっており、トイレに行こうとして何人かの先輩に謝られながら道を空けてもらうと、作業の邪魔をしてしまっているように思えて、愛想笑いを浮かべて小さな声で謝りながら川にある飛石を渡るようにしてさっさと通り抜ける。
きっと私も来年以降は彼らと同じような事をやらなければならないのだろう。そう考えるとダンスというのは準備が少なくて済むので、その点では楽と言えるかもしれないが、やはり自らステージに立ってパフォーマンスをするというのは気が進まない。それならば彼らのように小道具製作などの裏方作業に専念したい。
「あ、鞄置いてきたらよかったな……」
トイレの前まで来た所で肩に提げている鞄が邪魔だという事に気付く。
店のトイレなら荷物を置く場所があるのだが、学校はそれを想定していないのか、そういった場所が無い。廊下に置いておくのは何かを盗られてしまいそうなので避けたいが、今は持っておいてくれる友人はいないし、教室までまたこの廊下を通ってわざわざ戻るのも面倒だ。
私は悩んだ末に人が少ないであろう職員室などがある一棟校舎に向かい、周りに人がいない事を確認してから廊下に鞄を置いて用を済ませる。
しっかりと手を洗い、軽く髪を整えてから廊下に出ると、幸い荷物が盗られるような事は無く、鞄は記憶にある通りの凹み方で置かれていた。
それなりに時間が経っているので、流石に蒼依も練習を終えているだろうと、重い鞄を肩に提げて教室に向かう。
文化祭準備は授業や学校行事ではなく、ただ生徒が放課後に自主的に行っている物であるため、途中で帰っても問題は無い。しかしこれだけ多くの人が残っていると、帰ってはいけないのではないかという不安に駆られる。
再び小道具を踏んでしまわないように気を付けながら狭い通路を通り、教室に戻ってくると、殆どの人が帰り支度を始めていた。
きょろきょろと顔と視線を動かして蒼依の姿を探すが、どこにも見当たらない。仕方無く近くに居た女子に声を掛け、蒼依の居場所を尋ねると、鞄を持って教室から出て行ったから、もう帰ったのではないかとの事だった。
恐らく私が鞄を持っていった所為で、蒼依は私が帰ったのだと勘違いしてしまったのだろう。しかし私はこうして校舎内に居るため、もしかしたら昇降口で私の外靴がまだ置いてある事に気付いて待ってくれているかもしれない。
私は彼女に礼を言い、教室を出て階段を下りる。その途中、踊り場を曲がろうとした瞬間、人にぶつかって転けそうになった所を慌てて手摺りを掴んで事なきを得る。相手の男子も転けたりした様子は無い。
「ちっ、危ないなぁ」
「……」
はっきりとした舌打ちが耳に入り、続けて不機嫌が滲み出る低い声が聞こえ、謝ろうとした口を閉ざす。
相手はそのまま私の肩を押し退けるようにして横を通り、無駄に大きい足音を立てて階段を上っていった。
私は鼻から大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す事でほんの少し気持ちを落ち着けて、先程よりも少し慎重になって階段を下りていると、目の奥が熱くなってきて、涙が溢れそうになる。
このままでは蒼依に顔を合わせられないと、深呼吸を繰り返し、昇降口に辿り着く前にどうにかしようとしていると、前方から蒼依が歩いてくるのが見えた。
蒼依は私を見るなり笑顔になり、私はそれを見て釣られるように頬が上がる。そして同時に涙が溢れてきてしまった。
「えっ、ちょっと、なんで泣いてるの?」
蒼依は私の元へ駆け寄ってくると、左手で私の手を握り、右手でいつものように頬に当てて流れる涙を拭う。
「ごめん。これはちゃうねんて」
「何かあったん? 転けた?」
涙を流しながら笑う私を見て、蒼依は困惑と心配が混ざったような表情をしていた。
「転けてはないんやけど……」
「じゃあ何? 悪口言われた?」
今度は少し怒気を孕んだ低い声だった。
「悪口ではないかなぁ。さっき階段で人とぶつかっちゃって舌打ちされただけ」
「それで泣いてるの?」
「いや、うん。まぁ……」
それだけで泣いたかと言われればそういう訳ではないのだが、教室での事はわざわざ蒼依に言うような事ではないだろうと思い、言葉を濁す。
「それよりごめんな。トイレ行っててんけど、入れ違いというか、帰ったと思ったやろ」
「あぁ、うん。ちょっと最後に確認してたら鞄持って教室出ていったからびっくりした」
「そうやんな。ごめん」
「いや、大丈夫」
頬に当てられた蒼依の手に左手を重ねて蒼依の手を剥がし、昇降口に向かうと、今朝も話していた人が私たちを見て手を振っていた。
「紅音ちゃん見つかったんや」
「うん、ありがとうね」
「何か泣いてない?」
そう言われて、無駄だと分かりつつもこれ以上見られないように顔を逸らす。
「階段の所でぶつかって舌打ちされたらしい」
「は? 何それ」
「まぁ、怪我とかはしてないみたいだから」
「そっか。じゃあ大丈夫そうやし、私は帰ろうかな」
相変わらず呼び方の分からない彼女はそう言って壁に凭せ掛けていた身体を起こした。
「誰か待ってたんちゃうの?」
「うん。私自転車やし。まぁ、強いて言うなら紅音ちゃんを待ってたかな」
「そう」
「じゃあラブラブな二人の邪魔したないし、私はこの辺で。またね」
終始笑顔を浮かべていた彼女は、最後に余計な事を言って帰っていった。
それを見送った後、訊くなら今だと蒼依の二の腕の辺りを人差し指で突く。
「なぁ、蒼依」
「何?」
「さっきの子の名前何?」
「紅音の前に座ってる人だけど」
「いや、それは分かってるけども」
「えーっと……名字が仲で、名前が美波」
「ナカさんね」
うんうん、と頷き、靴を履き替えながら二文字の名前を記憶する。
「普通に名前で呼べば良いのに」
「いや、だってまだ知り合ったばっかりやし。向こうは私の事名前で呼んではるけど」
「それはまぁ、私と名字一緒だからみんな私たちの事は名前で呼んでるよね」
「八組にも伊藤さんいるみたいやしね」
「前に座ってる人の名字は知らないのに隣のクラスに居る人は分かるんだ」
「いや、先生が言うてたから」
「あぁ、そう」
夏休み前に比べて随分と蒸し暑さの無くなった昇降口を出て、誰にも出会う事無く学校を出ると、既に見飽き始めた坂道を下って駅を目指す。
「今日はどうする?」
学校を出て少し経ち、蒼依に訊ねる。
「微妙な時間だよね」
「うん」
お互いがこれからどうするのかを考え始め、生まれた沈黙を埋めるように蒼依の手を握る。
「外で繋ぐのは駄目なんじゃなかった?」
「別に仲良い人同士やったら繋いでる人居るし。嫌なら放すけど」
「駄目」
手の力を緩めると、その分蒼依の手にぎゅっと力が入り、手と手の隙間が無くなった。
「ちょっと公園寄らない?」
「何で?」
「朝の続き」
一瞬何の事か分からなかったが、すぐに今朝の渡り廊下での事が頭に浮かぶ。
「外は嫌や」
「こんな時間に人いないでしょ」
「いや、近くに保育園とか小学校とかもあるんやから絶対居るって」
「そんなの行ってみないと分からないでしょ」
「それはそうやけど……」
「はい、決定」
強引な蒼依に溜め息を吐くが、少し期待してしまっている自分がいる事に気が付いていた。
始めは好きかどうかという初歩的な事に悩んでいた癖に、今は蒼依と一緒にいる事が当たり前のようになっていて、家に居る時でさえ常に蒼依の事が頭から離れず、傍に蒼依が居ないと心に穴が空いたように落ち着けなくなってしまっている。
蒼依に手を引かれて公園の敷地内に入ると、あちこちで遊んでいる子どもたちが目に入った。
「居るやん」
「居るね」
「どうすんの?」
「うち来る?」
空いている左手で鞄から携帯を取り出し、時計を確認し、蒼依の家まで行って家に帰るまでの時間を計算する。
「……一時間くらいなら」
「んー……微妙ね」
「うん。そんなにしたいん?」
気になっていた事を率直に訊いてみる。
「紅音はしなくてもいいの?」
「うーん……。まぁ、別に今こうしてるだけでも割と満足はしてるかなぁ」
「そうなんだ」
蒼依は淡々と答えたが、表情からは落胆が見て取れた。
「また時間ある時にゆっくりしよ」
「時間ある時って?」
「部活の休みは次いつ?」
訊ねると、蒼依はポケットから携帯を取り出し、写真フォルダから部活の予定表を開いた。
「少なくとも九月中は月曜だけかな」
蒼依と肩をくっつけ、腕を掴んで画面を見せてもらうと、確かに九月いっぱいは部活で埋められていた。
「これやったら多分十月もそんな感じやな」
「多分。あぁでもここ……いや、部活あるな……」
「あぁ、ここね」
蒼依が指差したのは再来週の月曜日にある敬老の日。本来なら月曜日は部活動が休みの日に設定されているが、祝日により学校が休みになっている事によって、逆に部活動は行われる事になっていた。
九月にはもう一つ秋分の日という祝日が存在しているが、そちらは残念な事に元々学校が休みである土曜日になっていた。しかしその祝日が譬え平日五日間のいずれかにあったとしても、蒼依の所属している吹奏楽部はほぼ確実に部活動が入れられるだろう。私が通っていた中学校ですらそうだったのだから、強豪校とも言えるこの高校がまさか一日練習できる日に部活動の予定を入れていない訳が無い。
「じゃあ次ゆっくりできるのはテスト期間かなぁ」
「そうね。十月の真ん中くらい?」
「うん。多分。そう思うと早いな」
「そう? 一ヶ月は長くない?」
「いや、一ヶ月って四週間くらいやろ? そんなけ学校行ったらもうテストやで? ちょっとまた勉強がんばらななぁ。最近サボりがちやったし」
「あぁ、そっちね」
蒼依の呟きの意味は理解できたが、敢えて無視をして空いているベンチが濡れてない事を手で触って確認し、鞄をお腹に抱えて腰を下ろすと、蒼依が隣に座って私の手を握り、肩同士をくっつける。
「蒼依ってなんか前はもっと恥ずかしがってなかったっけ?」
そう言いながら私が思い出していたのは、二ヶ月ほど前に駅の階段裏でこっそりキスをした時の事だった。
「そうだっけ?」
「駅でキスした時とか顔真っ赤にしとったのに……」
「それは言わない約束でしょ?」
蒼依が繋いでいる手を持ち上げて、軽く私の太腿を叩いた。
「そんな約束した覚え無いし」
「じゃあ今して」
「はいはい」
「というか紅音こそ恋愛の『れ』すら知らないような感じだったのに、いつの間にそんな熟年感出すようになったの?」
「いやいや、好きかどうか分からんかっただけで、別に恋愛がどういうあれなんかは知ってたで?」
「本当に?」
蒼依が私の顔を覗き込んで疑いの視線を向けてくる。
「うん。今はもうちゃんと蒼依が好きって分かってるし、大丈夫」
「……よくそんな恥ずかしげも無く堂々とそんな事言えるよね」
「蒼依はまだ恥ずかしいんや」
蒼依の目を見つめ返すと、蒼依の瞳がすっと横に逸らされる。
「私の勝ちやな」
「そんな勝負してないし」
「じゃあ私の目ぇ見て好きって言って」
蒼依の手をぎゅっと握り、目を合わせると、すぐに蒼依の瞳が逃げる。
「……私の紅音がいつの間にかこんなに成長して」
「はいはい、そういうのええから早よ」
バシッ、と蒼依の太腿を軽く叩く。
「酷い。ちょっとくらい茶番に付き合ってくれてもいいじゃん。というか周りに人が居るけどそれはいいの?」
「どうせ聞こえてへんやろ」
「聞こえてなくても見つめ合ってるのは変じゃない?」
「変じゃない」
「……じゃあ、紅音が先に私の好きな所言ってくれたら言う」
「蒼依の好きな所?」
「そう。はい、言って」
蒼依に好きと言ってもらえなかったのは少々納得がいかないが、ここで私が蒼依の好きな所を言えば蒼依にも確実に言ってもらえるだろう。
「じゃあ、蒼依の大人っぽくて優しい声好き」
真っ先に思い付いた物を口にすると、蒼依の真面目そうな表情が崩れて口角が上がっているのが分かった。
「見た目じゃなくて声なんだ」
「うん。その声好き。次蒼依の番な」
「えぇっと、待ってね?」
「うん。何で私の事好きになってくれたん?」
そう訊ねると、蒼依が今度は顔ごと目を逸らし、照れ臭そうに口元に手を当てる。
「待って。何かすごい恥ずかしいんだけど」
「私はちゃんと言うたんやから、蒼依も言うてよ」
少しして、蒼依が二回程咳払いをして、覚悟を決めたようにこちらに向き直る。
「えっと、きっかけは多分、笑顔が可愛かったからかな」
「へぇ……」
真剣な面持ちで面と向かって言われ、勝手に頬が上がっていくのを感じ、唇をきゅっと締めて抑えようと試みる。
「殆ど一目惚れで、ずっと一緒にいるうちに話し方とかも好きになって、紅音が彩綾とかと話してるとちょっと嫌な気分になったり、体育の時とか心臓やばかったし……」
「待って待って」
何か変なスイッチが入ってしまったように顔を微かに赤らめながら語り始め、変な事を口走りそうになった蒼依を制止する。
「何? せっかく人が勇気出して告白してるのに」
「いやいや……えっ、ていうか、一目惚れやったん?」
「うん」
蒼依は照れる様子も無く自信満々に頷いた。
「そんな前から好きでいてくれてたんやな……」
「うん。だから着替えの時とか罪悪感すごくて」
「スルーしてあげてるんやからわざわざ言わんでええねん」
「あぁ、ごめん」
「そういえば蒼依って元々その……女の人が好き……というか、恋愛対象って……?」
「それは……どうなんだろうね」
「蒼依の初恋っていつなん?」
そう訊ねると、蒼依は黙って私を指差した。
「私?」
「うん。だから恋愛対象がどっちというか、初めて好きになったのが紅音」
「そうなんや……」
「よし、私の勝ち」
これ以上無い程に胸を満たす多幸感を味わっていると、蒼依は突然勝利宣言をして勢いよく立ち上がる。
「えっ」
「そろそろ帰ろう。こんなとこでこんな話するもんじゃない」
「今更?」
「元々こんな話し始めたのは紅音だからね?」
「いやいや、変な雰囲気にしたんは蒼依やろ」
「ほら、立って」
差し伸べられた手を取って、引っ張られる力に合わせて腰を上げて立ち上がり、鞄を肩に掛け、スカートの後ろを手で払い、正面に向き直ると、頬に蒼依の手が触れ、少し強引に上を向かせられ、眼鏡がカチャリと音を立ててずれ、唇を塞がれる。
たった一秒程の短いキス。それでも周りには子どもやその保護者など多くの人が居る場所で、私の羞恥心を煽るには充分だった。しかしそれ以上に私の心は幸せでいっぱいになっていた。
「今はこれで許してあげる」
そう言う蒼依の頬はほんのり赤く染まっていた。
かっこつけているのか何なのか分からないが、それがどうにも可愛く見えて、ずれた眼鏡を直しながら私は堪えきれずに肩を揺らす。
「ちょっと。笑わないでよ」
「ごめんごめん。顔真っ赤にして可愛いなぁって」
眉を顰めて睨み付けてくるが、今の私には蒼依が可愛いという風にしか見えず、笑い声が溢れる。そうすると、蒼依が背中を向けてさっさと歩いて行ってしまう。
「もう、帰るから」
「あぁもう、拗ねんといてよ」
私は慌ててその後を追い掛け、鞄の持ち手を持つ蒼依の腕を掴む。
「拗ねてない」
「拗ねてても可愛いで」
「文化祭の本番で転けちゃえ」
「そんな可愛い言い方で地味に嫌な呪い掛けるのやめてくれへん? ほんまにやりそうやから」
今日のような失敗を本番でもやってしまう事を想像し、吐き気が込み上げてくる。
「今から練習する?」
「もう遅いっちゅうねん」
「練習する場所も無いしねぇ」
「今日はもう帰って勉強する」
「私もちょっとがんばらないと」
「部活の方は大丈夫なん?」
「うん。完璧ではないけど、家でできる事はそんなに無いからね」
「それもそうか」
「また夜電話してもいい?」
「うん。待ってるわ」
気付けば雲で覆われていた空には青空が見えていた。
ひんやりとした風が髪を乱し、顔に掛かる横髪を耳に掛けると、蒼依と目が合い、微笑み合う。
やはり私には蒼依さえ居れば何でも良いのかもしれない。
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