第22話 9月1日

 いつもと変わらぬ蝉騒で目を覚ますと、薄暗闇の中でレースのカーテンが目の前で揺れ動き、机の上に広げたままにしていた紙がパラパラと音を立てて捲れる。


 ベッドから足を下ろし、腕に力を入れて重たい身体を起き上がらせる。いつもより少し身体が怠いような気がするが、体調が悪いという風には感じない。となればこれは精神的な物だろう。


 八月最後の日曜日という貴重な時間を何故か二人して体調を崩すという偶然により潰し、気付けば八月が終わりを迎えてしまった。


 口を開けて大きな欠伸をする。瞼が重い。もう一度横になって眠ってしまいたい気持ちを抑え込み、重い腰を上げ、息を吸い込み、ぐぅっと腕を天井に向かって伸ばす。そして息を吐き出すのと同時に腕を下ろすと、身体から力が抜け、倦怠感が軽くなると同時に、肺の底に溜まっていた澱んだ何かがほんの少し薄くなったような気がした。


 眼鏡を掛け、絡まった髪を手櫛で梳きながら枕元に放置されていた携帯を開き、『おはよう』と蒼依にメッセージを送る。


返信が来るのは早くても一時間後になるだろうという事は今までの経験で分かっているが、夏休みに入ってから誰に言われた訳でもなく、日課のように送り続けているうちに、朝起きたら蒼依にメッセージを送るというのが習慣になっていた。


 私が勝手に始めたのだから、止めるのはいつだっていいのだろうが、私はどうやら蒼依から『おはよう』という短い定型文のようなメッセージが来るだけでも胸が満たされてしまう非常に安上がりで単純な人間らしく、止めようという気はこれっぽっちも起きない。少なくとも今は。


 携帯をベッドに放り投げ、欠伸を噛み殺しながら学校へ行く支度を始める。


 一階に降りてバラエティ番組のよく分からない乗りにうんざりしながら朝食を食べ、歯磨きなどを済まし、部屋に戻って久しぶりの制服に着替える。その途中で来た蒼依からのメッセージにスタンプを送り、妹の身支度をのんびりと手伝っていると、あっという間に家を出る時間になった。


 軽い鞄を肩に提げ、玄関へ向かうと、母と妹が然も当然の顔をしてついてくる。


「それじゃあがんばっといで」

「はぁい。行ってきます」

「お姉ちゃん行ってらっしゃい」

「うん。涼音も気を付けてね」

「はぁい」


 胸の前で小さく手を振っている妹に手を振り返し、扉の施錠は母に任せて薄い雲が広がる空の下に出る。


 九月に入り、照り付ける日差しが優しくなったように感じる。青が透けて見える雲のお蔭なのか、季節が秋へと変わろうとしているからなのか、正確な事は分からないが、何にしても肌に触れる空気は少しひんやりとしている。


 とは言え歩いて汗を搔かないという訳でもなく、駅に着く頃にはもういつもと同じように背中にシャツが張り付き、額や頬には汗が伝っていた。


 汗を拭い、扇子で扇ぎながら電車に乗り込み、座席に座ってぼんやりと外の景色を眺める。


 一ヶ月が経ってもここから見える景色は何も変わらない。電車を乗り換えても見える景色はいつもと同じ、見慣れた田畑と住宅街。車内に目を向けてみても、記憶の中にある物と何ら変わらない。乗っている人でさえ全く同じなのではないかと思えてくる。


 その何の面白みもない日常風景を眺めていると、胸を締め付けていた何かが消えて無くなっていく。


 目を瞑り、男性の独特な車内アナウンスを聞き流しながら電車に揺られて暫く、各停列車に乗り換え、これからまたほぼ毎日見る事になる駅に到着し、他の生徒に混ざって電車を降りる。


 改札を出て右に曲がるとすぐに姿を見つけられた。


 硬いローファーで地面を蹴って蒼依の元へ向かい、抱き締めようとした身体を理性で抑え込む。


「蒼依。おはよう」


 手を伸ばすと、蒼依の方からも手が伸びてきて、手の平を合わせ、指を絡ませて握る。


「おはよう。今日は眼鏡ちゃんだ」

「うん。始業式だけやしね」


 蒼依が繋いでいなかった方の手で私の頬に触れ、いつものように指先で耳を撫でると、擽ったさが首を伝い、背中に広がって消える。


 ふとここが人気の多い駅前だという事を思い出し、首を振って蒼依の手から逃れる。


「ここ人前やし止めとこ」

「あぁ、そうね。忘れてた」


 蒼依はきょろきょろと周りに視線をやり、それから恥ずかしさを誤魔化すように笑った。私もそれに釣られるようにして笑い、そっと繋いでいた手を放すと、そんな訳はないのだが、身体の一部が無くなったような感覚に襲われる。


「よし、行くかぁ」


 寂しさを紛らわせるように明るい声を出し、学校に向けて足を動かす。


「今日は始業式と、文化祭の準備やんなぁ」

「……確かダンスの練習しないといけないんだよね」

「うん。蒼依はダンス苦手?」

「得意ではない。紅音は?」

「私もできればやりたくないかなぁ」


 横断歩道を横切る車をぼんやりと眺めながら、これからやらなければならない事を思い浮かべて溜め息を吐く。


「文化祭って言うからにはもっと文化的な事をやればええのに」

「どういう事?」

「演劇とか音楽をやるのはいいとして、それしかやる事ないやん?」

「まぁ、そうね」

「うちの中学やったら琴とか着付け体験とか、組紐とかそういう文化体験があって、あとは合唱とか和太鼓とかクラス全員で取り組むようなのがあってんけど、それが無い癖に文化祭って意味分からんやん」


 長々と文句を並べていると、いつの間にか信号が青に変わっていたらしく、蒼依に腕を引かれて気付き、蒼依の歩幅に合わせて少し早く足を動かし道路を渡る。


「確かにそれに比べると文化的な物は少ないかもね」

「やろ? まぁ、学校の文化って言われたらそれまで何やけど、せめて文化祭じゃなくて学園祭って言うなら納得するわ」

「ダンスが嫌な訳じゃないんだ」

「いや、ダンスは嫌やで?」

「あぁ、そう」

「やりたい人だけやればええのに、わざわざクラス全員で、とか言うて」

「じゃあアニメとかみたいにメイド喫茶とかだったら?」

「接客は嫌やし、作るのも面倒くさいから却下」

「じゃあさっき紅音が言ったみたいに着付け体験とか」

「それはクラスでやるやつちゃうし。というかそもそも文化祭って幼稚園の生活発表会みたいに日頃の成果を発表するイベントみたいな感じやろ? やとしたら普段全くやってない劇とかダンスとかやるのはおかしいやん」

「ダンスは体育でやるんじゃない?」

「あぁ、そうか……。でもダンスは体育祭でやればええやん。というか体育祭もやる意味分からんし。そんな事やってる暇あったら勉強させろっちゅうねん。中学までやったら保護者への還元みたいな意味合いもあるんかもしれんけど、高校はそんなんいらんやろ。こっちは勉強するために来てんのにさぁ。だからあれよな、音楽選択してる人は合唱とかやって、美術選択の人は展示とかで、あと何やっけ……書道か。書道もまぁ、新入生歓迎会みたいな時みたいにパフォーマンス……は無理やから、展示やな」


 一頻り喋り終えると、蒼依が目を細めて私を見ていた。


「……紅音今日やけにテンション高くない?」

「そう?」

「うん。最近気付いたんだけどさ、紅音って朝が一番テンション高いよね。今日は特に」

「そんな事はないと思うけど……」


 言いながら過去の自分を思い返してみると、確かに朝に比べると昼や夜は口数も少ないような気がした。しかし家ではそれほど話していないので、友達と会う時だけそうなるのかもしれない。


「あぁ、でも夜寝る前もめっちゃ喋るよね」

「それは……蒼依が喋らへんからちゃう?」

「紅音がずっと話してるから私が喋るタイミングが無いだけ」

「いやいや、私が喋らへんかったら蒼依も喋らへんやん」

「紅音が喋らない時は勉強してる時だけじゃん」

「ご飯食べてる時も喋らへんし」

「通話してる時にご飯食べないでしょ」


 くだらない言い争いをしながら歩いていると、気付けば学校の前まで来ていた。


 暑い日差しが照り付ける中、校門の横に立って生徒たちを出迎えてくれている先生に挨拶をして、熱気の籠もった昇降口で靴を履き替える。


 偶然同じタイミングで登校してきた人と蒼依が挨拶を交わしているのを傍観しながら教室へ向かう。


「さっきのは同じ部活の人?」

「うん。サックスやってる人」

「ふぅん」


 何故それを訊ねたのか自分でもよく分からないが、答えを聞いて一先ずは満足し、適当な相槌を打つ。


「興味無さそうね」


 蒼依が苦笑して言った。


「あ、ごめん」

「嫉妬?」


 その瞬間、探していたパズルのピースが綺麗に嵌った時のように胸の靄が晴れる。


「あぁ、そうかも」

「紅音も………でし……して……………………たんだ」


 背後で呟かれた蒼依の声は周りの喧騒に紛れ、上手く聞き取れなかった。


「何?」

「ううん。何でもない」


 何故か蒼依は嬉しそうに私を見て微笑んでいた。


 私はそれを不思議に思いながらも、蒼依の表情を見ていると、頭に浮かんでいた疑問はどうでもよくなった。


 ガラガラと音を立てて扉を開け、まだ空席の目立つ教室に入ると、本来あるべき日常に戻ってきたような、不思議な感覚を覚える。


 教卓の後ろを通って窓際の自分の席に鞄を置き、椅子に座って背凭れに身体を預ける。


「疲れたぁ」


 鞄からタオルを取り出し、額や首に伝う汗を拭う。もしここが家の自室や誰もいない個室だったなら今すぐ服を脱ぎ捨てて風に当たりたい所だが、学校の教室でそんな事ができる訳もなく、妥協して誰にも見えないようにシャツの内側に手を入れて胸元や背中の汗を拭う。


「さすがに歩くと暑いね」

「……そう言う割にあんまり汗搔いてへんみたいやけど?」


 蒼依は少し汗を拭っただけで、髪が濡れている様子も無く、冷房の利いた部屋にいるかのように、とても涼しげな顔をしていた。


 それに比べて私はシャツが肌に張り付く程汗を搔いていて、髪も濡れて顔に張り付いてしまっている。昔は太っているから汗を搔くものなのだと思っていたのだが、痩せた今でも汗を搔くので、どうにかしたいとは思いつつも、これはもうこういう体質だろうから仕方が無い、と諦めの姿勢に入っている。


「紅音ほど代謝が良くないのかもね」

「こんなに汗搔くくらいなら代謝良くなくてもええわ」


 私と同じ空間にいたとは思えない程さらさらとした蒼依の腕を怨恨半分羨望半分で擦っていると、夕夏が珍しく一人で教室に入ってきた。


「夕夏、おはよう」


 胸の前で小さく手を振り、声を掛けると、夕夏の表情に笑みが浮かぶ。


「おはよう。蒼依も」

「おはよう。元気にしてた?」

「うん。二人も相変わらず仲良さそうで何よりやわ」


 夕夏の視線の先には蒼依の腕と、それに触れる私の手があった。


「いや、蒼依があまりにも汗を搔いてへんからさぁ」


 私がそう言うと、夕夏は蒼依と私を見比べ、頷いた。


「ほんまやなぁ。紅音は紅音で汗搔き過ぎな気もするけど」


 タオルで首の汗を拭っている夕夏のシャツの袖や背中を見てみるが、濡れて中に着ている服が透けて見えてはおらず、腕に触れてみても、蒼依の腕と同じようにさらさらとしていた。


「夕夏も汗搔かない組か」

「いや、まぁ、紅音に比べたらそんなにやな」

「何かコツみたいなん無いの?」


 座った椅子が濡れて変色してしまい、恥ずかしい思いをしている私にとって、汗を止めるというのはこの時期の最重要課題と言っても過言ではない。


 しかしそんな私の想いを知らない夕夏は、少しも悩む素振りを見せる事無く即答する。


「いや、知らん」

「薄情者めが」

「そんなん言われたって知らんねんもん」


 夕夏は肩を竦め、苦笑した。


 そんな夕夏に文句を言おうとした瞬間、蒼依が割って入ってくる。


「ねぇ、そんな事より彩綾は? 休み?」

「そんな事って何やねん」

「彩綾はトイレ行ってる。なんか寝坊して行きそびれたらしいわ」

「あぁ、噂をすれば」


 蒼依の視線の先を見ると、教室の後ろから彩綾がクラスの人と挨拶を交わしながらこちらに向かってきていた。


 私たち四人の中では一番社交的だと私を含む三人が口を揃えて言うだけあって、彩綾はクラスの中だけでも友人が多い。いつも夕夏と一緒にいる癖して、一体どうやって仲良くなったのかは謎だ。


「おはよー」


 彩綾は爽やかな笑顔をこちらに向けながら、ゴン、と音を立てて机に鞄を置いた。


「おはよー」

「おはよう。相変わらず元気そうだね」

「うん。久々の学校でちょっと変なテンションになってる」

「紅音はもう既にテンション下がってきてるけどね」


 蒼依が少しおかしな関西弁のイントネーションで私をからかってくる。


「何で? 私が来たから?」


 本当にそうであって欲しいかのように、嬉々として自分を指差して言う彩綾に鼻を鳴らして否定する。


「いや、そんな訳無いやん。単純に学校に来るのに気力を使い果たしただけ」

「午前中はテンション高いと思ってたんやけど?」

「それは蒼依が勝手にそう思っとるだけやろ」

「あれ、遂に関西弁移った?」


 然りげなく放り込まれた夕夏の指摘に、蒼依の動きが止まる。そこに彩綾が追撃する。


「あっ、私も思った。なんか途中途中イントネーション怪しかったよな」

「遂に移ったか……」


 原因はお前だろうとでも言いたげに二人から視線を向けられ、蒼依からはお前の所為だという刺々しい視線が突き刺さる。


 私は全く悪くないと思いつつも、ほんの少し蒼依に申し訳ない気持ちが芽生えてきて、助け船を出す。


「まぁ、蒼依は毎日部活にも行ってたしな。今までよく耐えてた方ちゃう?」

「うん。寧ろ何で今まで耐えてたん?」


 夕夏の問いに、頭の端にあった半年近く前の記憶を掘り起こして答える。


「あれやんな? 多分私が関西弁移ったって言ってからかったからやろ?」

「そうなん?」

「多分。蒼依が移ってないって言うから、移ったら負けっていうゲームしてたんよ、確か」


 確認の意を込めて蒼依に視線を送ると、蒼依が頷いた。


「うん。それやってる内にこっちも意地になって引くに引けなくなった」


 蒼依は特大の溜め息を吐き、補足する。


「毎日紅音と通話して、デートして……ってしてたらそら釣られるよねぇ」


 沁み沁みと蒼依が言い訳を並べ、然りげなく私に責任を押しつける。


「因みに今その……標準語で喋ってんのはがんばって釣られへんようにしてる感じ?」

「いや、別にそういう訳じゃ……」


 彩綾が訊ね、蒼依が答えた瞬間、予鈴が校内に響き渡り、教室の前の扉から先生が入ってきて、蒼依が言葉を切った。


 話し声で騒がしかった教室は、椅子や机が引き摺られる不快な音に代わり、チャイムが鳴り終わる頃には大体の人が自分の席に着いていて、滑り込みで教室に入ってくる人がいたり、まだ予鈴だからと近くの席の子と話している人もいたりもするが、チャイムが鳴る前よりは随分と静かになった。


 そんな中で、先生が声を上げて注目を集め、夏休みの課題を回収するようにと指示を出した。


「今日何回収されるんやっけ?」


 前の席に座る蒼依に訊ねながら鞄を机の上で開き、中に入っている紙状の物を全て取り出し、机の上に重ねて置く。


 夏休み前に配られたプリントを見ながら家で準備をしたのだが、見落としがあるのではないかとどうしても心配になり、最終手段として課題を全て鞄に入れて持ってくるという暴挙に出たのだ。


「あぁ、全部持って来たんだ」

「うん。全部持って来たら絶対忘れへんやん?」

「これで全部だったらね」

「嫌な事言わんといてよ」

「ごめん」

「んで、どれ?」

「えっとねぇ……」


 蒼依に言われた物を紙の山から取り出し、別の山を作る。


「これで全部?」

「うん。全部」

「おっけー。ありがとう」


 今日要らなかった物は鞄の中に戻し、提出する物はそれぞれ教卓の上に重ねて置く。


 そうしている間に本鈴が鳴り、先生から軽く挨拶があり、この後の始業式についての話を聞く。


 夏休みの間に何もやっていなかった私には表彰などされる筈も無いため、窓の外に見える美味しそうな雲を眺めて時間を過ごす。


 先生の指示に従って教室を出て体育館に向かう。


 体育館へは一年生が一番前に並ぶため、始業式が始まるにはまだ早い時間ではあるのだが、一学年八クラスもあると一年生が体育館に入って列を作るだけでもそれなりに時間が掛かる。その間に二、三年生は教室で待機しており、一年生が並び終える頃になって二年生、三年生と順番に並び、バスケットコートが二つある大きな体育館を埋め尽くす。


 冷房は無く、扉や窓を開けて風が通るようにしてくれてはいるものの、人がこれだけ集まっていると、ただじっとしているだけでも汗が滲んでくる。そんな中、固い床に座って始業式が始まるのを待つ事二十分。漸く始業式が始まった。


 始業式という名前は付いているが、実際行われるのはちょっと畏まった全校集会のような物で、入学式や卒業式のように何かしなければならないような事は無い。ただ長ったらしい校長の話を聞き、全く関係の無い表彰式を眺めるだけだ。


 暑いから早めに話を切り上げますと言った校長の話は十分近くあった。それから生活指導部からの注意喚起があり、再来週に開催される文化祭についての話の後、表彰式が始まる。


 私は何の部活にも所属していないし、外で何か団体に所属していたり、何かの賞を獲ったりした訳でも何でも無いので、早くこの暑苦しい場所から逃げ出したいのだが、そんな事が許される訳も無い。


 始めは周りに倣って拍手をしていたが、四人目辺りから面倒になって指先を動かすだけになり、徐々に周りからも拍手の音が減っていくのが分かる。


 この学校は生徒数が多いだけではなく、蒼依の所属する吹奏楽部も含み、それなりに実力のある部活が多い。その所為で、一時間以上もここに座らされる羽目になった。


 同じ表彰を繰り返しているのではないかと疑いたくなる程に表彰式が終わり、漸く解放されるのかと思いきや、混雑するからという理由で入ってきた時とは逆の順番で教室に戻るらしく、一年生はまだ座っていろとの指示があった。


 周りが騒がしくなったのを合図に姿勢を崩し、伸びをする。


「疲れたぁ」

「長かったね」


 蒼依がこちらに身体を向けて笑う。その表情には少し疲労の色が見えた。


「こんな長いと思わんかったわ」

「うん。中学の時も多かったけど、さすがにこんなではなかったかなぁ」

「生徒が多いのもそうやけど、みんな夏休みの間にがんばり過ぎちゃう?」

「そういえば結構部活以外にも表彰されてる人いたね」


 膝の上で手をぱたぱたと動かしていると、蒼依に掴まれ、どこかで見た事があるような手遊びをさせられる。


「そうそう。みんなで褒め称えようみたいなんも分からんでもないんやけどさ、こんなに長引くとそんな気も失せるわ」

「うん。さすがに私も疲れた」

「この後何すんねやろ」

「この後はホームルームがあって、文化祭準備でしょ?」

「……帰ったらアカンかなぁ」

「残念ながら全員参加だね」

「どうせ私らがやるのってダンス覚えるだけちゃうの?」

「そんなすぐ覚えられる?」

「無理」

「じゃあ頑張ろう」


 返事の代わりに溜め息を吐き、先生からの解散の指示で立ち上がって教室に向かう。その途中、チャイムが鳴り、大丈夫なのかと不安になりながらも教室に入って待機していると、後からやってきた先生がそれが授業終了の合図だったと教えてくれた。


 トイレなどを済ませ、教室に戻ってきたタイミングでチャイムが鳴り、席に着く。


 課題は既に提出済みのため、何をするのかと思いながら二学期の予定などの話を聞き流していると、いつの間にか席替えをするという話になっていた。


「最悪やねんけど」

「まぁ、恒例行事よね」


 机に突っ伏すようにして蒼依にだけ聞こえるように小さな声で愚痴を溢すと、蒼依に頭を撫でられる。


「また近くの席がええなぁ」

「籤引きだからねぇ」

「祈ってるわ」


 先生が黒板に白のチョークで黒板と、座席分の縦線と横線を引き、四角の中に一から三十八までの数字をランダムに書いた。


 どうやら数字が隣り合っているからと言って近くの席になるとは限らないらしい。


 無駄に用意周到な先生は数字の書かれた紙が入れられた箱をどこからか取り出し、それを蒼依に手渡した。


「蒼依、隣か前後な」

「いや、これ籤引きだから」

「なんとかして」

「できたとしてもそれをやるのは紅音やろ」


 淡々と箱の中から一枚の紙を取り出した蒼依から箱を受け取る。


 蒼依がどの数字が書かれた紙を持っているのかは分からないが、蒼依の近くの席になるように祈りを込めて箱に手を入れ、一番上に乗っていた紙を一枚摘まみ、箱から手を引き抜き、箱を後ろの人へ渡す。


 後ろの人が籤を引いている間に蒼依が先生に番号を伝えると、黒板に書かれている『十一』の文字が『伊藤』に書き換えられる。


 その瞬間、私は溜め息を吐く事になった。


 先生に私の手にある紙に書かれている番号を伝えると、蒼依の名字が書かれた場所から遠く離れた、今は名簿の一番最後の人が座っている席に当たる、『八』と書かれていた場所が『伊東』に書き換えられた。


「最悪」


 思わず漏らした言葉を聞いて蒼依が口に手を当て、肩を震わせて静かに笑う。


「そんなにがっかりしなくても良いじゃん」

「だって蒼依が……」

「まぁ、休み時間は会いに行ってあげるから」

「しかも扉の前とか絶対色んな人通って面倒くさいやん」

「それは……がんばって」

「最悪だぁ」


 私の気分とは裏腹に、クラスは盛り上がっていて、蒼依の場所を見ると、左隣に『金井』という名字があり、後ろには『木下』という名字が書かれていた。


「ねぇ」

「何?」

「何で私だけ仲間はずれにすんの?」

「それは知らん。籤引きなんだから」

「浮気者め」

「これで浮気認定されたら堪ったもんじゃないんだけど。というか紅音の隣、鈴木じゃん」


 蒼依に言われて私の場所を見ると、見覚えの無い名字の中に、『鈴木』という字が書かれていた。


「いや気まずいやつやん」

「浮気したら嫌だからね?」

「それは任せて」

「でもあんまり冷たくすると可哀想だから、ほどほどに仲良くね」

「いやむずっ」


 不安しか無い席決めの籤引きが終わり、荷物だけを持ってその席へ移動する。


 蒼依は教卓の正面、夕夏が元々座っていた席の右隣の席に座り、その後ろに夕夏が座り、彩綾は一つ後ろに下がっただけになった。


 私は一人寂しく指定された廊下側角の席に荷物を置き、席に着くと、隣の席に浩二が来る。


「久しぶり」

「うん。久しぶり」

「まさか隣になるなんて思ってなかったわ」


 浩二は気まずそうに目線を私から逸らして苦笑いを浮かべた。


 一時期は恋人だという噂が立ち、実際に告白もしてくれた相手で、断った手前気まずさは凄まじいのだが、仲が悪い訳ではないし、あまりそういった雰囲気を出すと、周りに居る他の人の居心地がそれ以上無い程に悪くなるだろうという事は容易に想像できた。


「まぁまた仲良くしてくれたらええかな」

「おう」


 まだ少しぎこちなさはあるような気がするが、気にする程ではない。


 それからすぐにホームルームが終わり、文化祭準備に取り掛かる。


 とは言ってもうちのクラスで行う出し物はクラス全員参加のダンスだ。準備しなければならない小道具や衣装などは何も無い。やらなければならないのはダンスの振り付けと、それを覚えるという作業、そしてそれを全員が曲に合わせてそれぞれの振り付けを踊るという事。


 ダンスの振り付けは夏休みの間にクラスの子が何人か集まって考えてくれていたらしく、私がやらなければならないのはその振り付けを覚える事だけだ。


 ダンスの振り付けを考えてくれたらしい名前の分からない子に呼び出しを喰らい、詳しい説明を受ける。


 実際に踊っている動画を見せてもらい、思ったよりは簡単そうな振り付けで安心しながらも、私の頭にあったのは、この人の名前は何なのだろうという事だった。


 彼女の友達であろう人から『ちーちゃん』と呼ばれているのは分かったが、友達ではない私がいきなりそんな馴れ馴れしい呼び方をする訳にはいかない。


 よく考えてみると、黒板に書かれている名字の殆どが分からなかったように、彼女以外にも名前を知らないクラスメイトがあまりに多い。


 知っている名字も恐らくは授業で聞いて知っているというだけで、その内話した事のある人は片手で数えられそうだ。


 これに関してはただ私が他人に興味を持っていなかったというだけの話だ。


 これを機に覚えても良いかもしれないな、と目の前で早速振り付けを覚え始めている蒼依を視界に入れて現実逃避をしていると、蒼依から早くしろというお叱りを受け、仕方無く練習を始める。


 これを再来週までに仕上げなければならないというプレッシャーと苦手なダンスを人前で踊るという緊張による吐き気が込み上げてきて、それを纏めて吐き出すように溜め息を吐く。


 これからしばらくはこれが続くのかと考えると、今にも吐いてしまいそうだった。

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