第21話 8月20日
時が経つのは早い物で、気付けば八月も後半になり、始業式まで二週間を切っていた。
煩わしい課題を全て終わらせ、退屈な夏休みを満喫するだけとなった私は、「夏休みと言えばプール」というただの思い付きで蒼依を誘い、少し早めの昼食を済ませた後、奈良まで来ていた。
京都にもいくつかプールはあるようだが、大きな所はどこも屋外で、屋内にあるのは学校にもあるような長方形の物ばかり。屋外は日差しが無ければ良かったのだが、屋外と言っているのだから当然そんな事は無く、都合良く曇りになる筈も無い。結果、蒼依と口を揃えて選択肢から外した。
そして屋内プールは一応遊びに使えるとは書いていたため、候補には残していたのだが、この奈良にある施設ではプールの他に温泉があったり、ゲームコーナーがあったりと、プール以外に楽しめる物が多く、比較して考えた時に、やはり多少遠くてもこの奈良の方が一日中遊ぶには良いだろうという事で、京都から出る事となった。
因みに海という選択肢もあるにはあったが、屋外プールと同じ理由ですぐに省かれた。
「着いたぁ」
「なんかもう疲れたんだけど」
バスを降り、長時間の移動で固まった身体を伸ばす。隣を見ると、蒼依も同じように腕を伸ばし、凝り固まった身体を解していた。
奈良の少し手前に住んでいる私の家に行くのにも一時間以上掛かるというのに、奈良に行くという事は、蒼依の電車移動だけで一時間以上掛かるという事が確定していた。
今日の計画を話し合っていた時に蒼依は全然構わないと言ってくれていたが、それでもやはり疲労は溜まってしまっただろう。
「こんな遠くまでありがとうな」
「まぁ、紅音の水着姿を見る為にはこれくらい」
「動機が不純」
「別にいいじゃん。それぐらい」
「まぁね。私も蒼依の水着姿は見たかったし」
他の人の後に続いてエントランスに入って靴を脱ぎ、初めて来る蒼依を案内するような形で下足箱に向かう。
「欲を言えば一緒に買いに行きたかったな」
「それはしゃあない。行こうって言ったのも急やったしな」
空いている場所に靴を入れ、鍵を引き抜き、しっかりと施錠されている事を確認する。
「来週とかにすれば良かったなぁ」
「来週は水族館行くから」
「もう決まってんの?」
「うん。いや、別に水族館じゃなくてもええんやけど、今日二十日やろ? で、次の日曜が夏休み最後の休みになるやん?」
「そっか。もうそんな時期か」
「そう。夏休み明けたらまた蒼依とこうやって一日使って遊びに行くなんて事できひんくなるしな」
「確かに」
もうすぐ学校が始まるという事実から目を背けつつ、下足箱の鍵を持ってゲートを抜け、受付で財布代わりとなる電子キーとロッカーの鍵が付いたゴムのリストバンドを貰い、それから無料で貸し出しされているタオルを二人分持って更衣室の暖簾を潜る。
「ここ温泉ちゃう?」
まず目に入ってきた光景を見て、何故か関西弁で蒼依が言った。
「そうそう。一階が温泉で、プールは二階。料金は一緒やから入ろうと思ったら入れるで」
「なるほどね」
そう言って私の方へ顔を向けた蒼依の視線は私の顔よりも下に向いていた。
「変態」
私は吐き捨てるように言って、二階の更衣室に繋がる階段を上る。
足を上げ、段差を上っていくに連れて鼓動が早くなるのを感じる。
「ごめん。でもせっかくだからお風呂も入ろうよ」
「気が向いたらな」
「それで紅音の気が向いた事一回も無い気がする」
「うん」
正直な所、いくら蒼依が恋人ととは言え、完全な裸を見られるのには抵抗がある。妹とは何年か前までは一緒に入っていた為、多少増しではあるものの、今日一緒に入ろうと誘われれば迷う事無く断るだろう。それくらいには恥ずかしい。
中学までの太っていた自分とは違い、見られても恥ずかしくない体型にはなっているが、それとこれとはまた別の話だ。恥ずかしさのベクトルが違う。
「気ぃ向くかなぁ……」
「向いてくれると私は嬉しいかな」
曖昧な笑みを浮かべながらリストバンドに書かれている番号と一致するロッカーを探し、リストバンドに付いている鍵を差し込んでロッカーを開け、肩に提げていた鞄を入れる。
隣のロッカーに蒼依が荷物を入れ、躊躇無く服を脱ぎ始めると、いよいよ息苦しさまで感じられるようになってきた。
普段の体育で慣れているから大丈夫かと思っていたが、よく考えると、体育で着替える時は当然下着は着けっぱなしで、その上に薄い肌着を着ている事も少なくない。つまり蒼依の前でも完全に裸になった事は無いのだ。
その事実に気付くと、靴下を脱ぎ、普段見せる事のない裸足を見せる事すらも恥ずかしいと感じてしまう。
鼻から大きく息を吸い込み、蒼依に気付かれないよう密かに口から息を吐き出す。
こんな事なら服の中に着て来られる物にすれば良かったと、水着を前にして浮かれていた数日前の自分自身を恨みながら鞄から今日の為に用意した水着を取り出し、意を決してショートパンツとパンティーを脱ぎ、水着のショートパンツに足を通す。
購入したのはあまり身体のラインが見えないワンピースタイプの赤い水着。露出があまり多くならないようにと選んだが、着替えの時の事は考えていなかった。母に言われて水着用のインナーショーツを穿いてはいるものの、恥ずかしい事には変わりない。
「紅音、やっぱり足綺麗」
不意に蒼依の声が聞こえてきて、息が詰まり、肩がびくりと跳ねた。
「あんまり見んといて」
「あっ、ごめん。ついね」
蒼依の視線が外れた事を確認し、蒼依に背中を向けると、シャツを脱ぎ、ワンピースの水着に付いている紐に腕を通し、普通の服を着る時と同じように頭から被り、スカートの裾を引っ張って下げられる所まで下げ、肩に掛けた紐の位置を整える。最後にブラを外し胸と水着に付いているカップの位置を合わせる。
「紅音、もう見ても良い?」
声を掛けられ、振り向くと、蒼依は親切にもまだ向こうを向いてくれていた。
念の為、もう一度おかしい所が無いか確認し、スカートの短さに一抹の不安を抱きながらも「うん、ええよ」と返事をする。
「うわぁ、可愛い」
蒼依は振り向き、私を視界に入れた瞬間、思わずと言った様子でそう呟いた。
「……蒼依も同じの着てるやん」
恥ずかしさを誤魔化すようにして、右手で左腕を掴み、気持ち程度に身体を隠しながら蒼依の全身を眺める。
私と色違いで黒いワンピースタイプの水着は、所謂ビキニと呼ばれている水着よりは露出が少ないものの、制服はもちろんの事、蒼依の私服よりも布面積が圧倒的に小さく、蒼依の傷一つ無い綺麗な肌が普段見えない所まで見えてしまっている。
水着とはこういう物で、着ている蒼依自身堂々としているのだから別に構わないのだが、見てはいけない物を見てしまったような気持ちになる。
「写真撮っても良い?」
私が蒼依に見惚れている間に携帯を鞄から取りだした蒼依は、私が許可を出す前にシャッターを切り、何事も無かったかのように話題を逸らす。
「というか、プールって携帯持って入っても良いの?」
「良いかもしれんけど、ずっと持ってく訳にはいかんやろ」
「だよねぇ。防水の鞄か何か持ってくるんだった……」
「家族で来てる人は多分荷物番してくれる人が居るしな。今日は諦めて」
「しゃあない。その代わり今いっぱい撮る」
「一枚でええって」
苦笑いをしながら携帯のカメラレンズを手で覆い隠そうとするが、蒼依はさっと手を引いて避けた。
「待って。一緒に撮ろう。せっかくお揃いなんだから」
蒼依が私の隣に来ると、右肩に蒼依の手の感触が乗り、蒼依の方へ引き寄せられる。
肩に蒼依の肌が触れ、身体が硬直する。
「ほら、紅音。カメラの方向いて」
「嫌」
無意識に否定の言葉が出ていた。
「一枚だけ。ね?」
「うん」
頷いてはみたものの、やはりカメラを意識すると笑顔が作れない。
こうして仏頂面をしているから余計にそう感じるのかもしれないが、写真に写る自分は他の人に比べて少しも可愛くない。
「やっぱり難しいか」
私が写真嫌いだという事を知っている蒼依は、強制する事は無く、溜め息を吐きながらも携帯をロッカーに入れ、鍵を掛けた。
その瞬間、私は安心すると同時に無視できない程の罪悪感に襲われる。
「ごめん」
考えるよりも先に言葉にしていた。
「大丈夫。分かってるって」
蒼依はそう言って私の頬を撫で、笑みを浮かべると、ゆっくりと顔を近付け、私の目の上にキスをした。
「こんな事で嫌いになったりしないからね」
「うん」
諭すように言われ、罪悪感は薄れたが、今度は勝手に不機嫌になって蒼依に迷惑を掛けている自分が惨めになってきた。
「ほら、早く行こう」
優しい口調の蒼依に促され、忘れ物が無いか入念に確認し、ロッカーを閉めて鍵を掛ける。
そうする間に早く機嫌を直そうと心の中で沈んだ気持ちを高まらせる。
「よし、行こ」
気分を入れ替えるついでに発した声はまだ少し無愛想だったが、蒼依は何故か満足そうに頷いた。
更衣室を出て無駄に長い廊下を他の客に混ざって歩き、扉を潜ると、はしゃぐ子どもたちの喧騒と水の流れる音が聞こえてくる。
「すごい、思ってたより広いんだけど」
「でしょ?」
全体的にリゾートホテルのような雰囲気があり、天井から降り注ぐ日の光が揺れる水面に反射してきらきらと輝いて見える。
「ていうか人多い」
「それはまぁ、夏休みやからな。どこ行ってもこんな感じやろ」
子どものはしゃぐ声を聞きながら階段を降りる。
「これ、入る前に何かしなアカン事とかある?」
「今日の蒼依めっちゃ関西弁やな」
「え、嘘」
堪えきれずに指摘すると、蒼依は目を見開いて私を見た。
「嘘ちゃうて。朝からずぅっと怪しかったで」
「……まぁ、これでもテンション高いから」
仕方無いとでも言うように蒼依は肩を落とした。
「それは何となく分かるけど」
「で、これ入ってもいいんだよね?」
「うん。一応向こうに浮き輪とか売ってるけど、要る?」
「私は泳げるし大丈夫」
そう言うと蒼依は私の手を引いて階段になっている所からプールに入る。
段差を一つ進むと、心地良い温度の水が踝の辺りまでを包み、水を掻き分けながら段差を降りて底まで足を進めると、ちょうど胸の辺りまでが水に沈んだ。
「思ったより冷たくないね」
「うん。でも気持ち良い」
通路の真ん中辺りまで進むと、流水プールと書かれていた通り、水に身体が押されるような感覚があったが、立っていられない程ではない。
周りで子どもがはしゃぐ声がそこら中から聞こえてくる中、私たち二人はまるで温泉にでも浸かっているかのようにして、流れに従って歩く。
「なぁ、蒼依」
蒼依と両手を繋ぎ、後ろ向きに進みながら声を掛ける。
「何?」
「楽しい?」
「割と楽しいけど」
「今のところただプールに運動しに来ただけみたいになってるで?」
「うん」
「いいんだ」
「紅音は?」
「楽しくはないけど、悪くはないかな」
「まぁ、こうやってのんびりするのも良いよね」
「そうそう」
来る前から何となく分かっていた事だ。
私はそれほどテンションが上がってはしゃぐタイプではない。家族で来た時は妹がはしゃぐので、それに付き合っていれば自然とテンションも上がってくるのだが、私と同じように自分から騒ごうとしないタイプの蒼依と一緒にいると、どうしても落ち着いてしまう。
「一回くらいウォータースライダーやっとく?」
蒼依がスタート地点を指差し、私はそこから視線を下ろして螺旋階段を見る。
「人並んでるしなぁ」
軽く二十人くらいは並んでいそうな階段を見て渋っていると、ちょうど滑ってきた人が寝転がった体勢でゴール地点の水溜まりに放り出されるが、その速度は普通の滑り台を滑るのと大差ないようで、大した水飛沫も上げないまま水面から顔を出し、パートナーの元へ笑顔で歩いて行った。
それを見ていた蒼依は少し考えるような素振りを見せ、「じゃあいいか」と視線を私の方へ戻し、何故か鎖骨を撫でてくる。
「売店で何か食べる?」
「お腹空いたん?」
「いや、そういう訳じゃないけど、やる事ないし」
「まぁええけど」
家に居る時とそれほど変わらないテンションのまま元の場所まで流れ、プールから出る。温かいタイルの感触を足に感じながらひたひたと歩き、浮き輪なども売っている売店へ行くと、焼きそばやたこ焼きなどの美味しそうな料理の誘惑が漂っていた。
少し悩み、蒼依はバニラのソフトクリームを、私はフランクフルトを買ってテーブル席に座る。
「みんなプールで何して遊んでるんやろうな」
「ここは如何にもファミリープールって感じだから、高校生とかはあんまり来ないんじゃない?」
「確かに友達同士で来てる人居なさそうやもんな」
「あとはああいうアトラクションみたいなのがいっぱいあったりとか」
「なるほどねぇ」
棒を掴み、先端を一口囓ろうとするが、あまりの熱さに思わず口を離す。フランクフルトには小さな歯形が残った。
「猫舌?」
「うん。因みに知覚過敏でもある」
「最悪じゃん」
「温いのが一番美味しいから」
「そんな事はないでしょ」
「熱い料理なんて熱い以外の感想ないやろ」
「何か前もそんな事言ってたよね」
「そうやっけ?」
家族と一緒に遊んでいる子どもを眺め、少し経ってからフランクフルトにリベンジする。
「食べれる?」
「うん。美味しい。蒼依も食べる?」
「じゃあ一口貰おうかな」
目を瞑り、口を開けた蒼依の舌にフランクフルトを乗せ、口が閉じられた所でゆっくりと引き抜く。
「美味しい?」
「うん。紅音はこれいる?」
「もう殆どコーンしかないやん」
「いらない?」
「噛めないからいい」
「早速弊害が……」
「自分のあるし」
冷ましながら少しずつ食べ、ゴミは売店の横に置かれているゴミ箱に入れ、ジェットバスのようになっている所で少し楽しんだ後、プールによくあるシャワーのような物を浴びて更衣室に戻る。
髪を軽く乾かし、身体の水気を取って着替えようとした時、ふと思い立って蒼依に向けて携帯を構える。
「蒼依」
「何?」
蒼依が返事をしてこちらに顔を向けた瞬間、ボタンを押して水着姿の蒼依を写真に収める。
「ちょっと?」
「うん。可愛い」
「待ってよ。絶対今変な顔してたって」
「大丈夫。可愛いから」
「そこは否定して欲しかったんだけど」
蒼依の写真を撮って満足した私は睨んでくる蒼依を置いて水着を脱ぎ、着てきた服に着替える。
時計を見ると、時刻はまだ十二時を過ぎたばかり。予定よりも早くプールから出てきてしまったため、随分と時間が余ってしまっている。
「この後どうする?」
「お風呂は入らないんでしょ?」
「うん。やだ」
「じゃあ他見て回るしかなくない?」
「とりあえず一通り見るか」
「うん」
蒼依の着替えが終わり、忘れ物が無いよう確認をしてからロッカーの鍵を閉める。それからそれぞれ軽く化粧を直し、レンタルしたタオルを返却して外に出ると、まずは同じ階層を左回りに進む。
「あ、紅音の嫌いな焼き肉」
「いや、別に嫌いちゃうし」
「あれ? そうだっけ?」
「タレが美味しいとは言った。あとは焼き加減を他の人に文句を言われるのが面倒くさい」
「肉自体は好き?」
「好き」
「私も好き」
「知ってる」
先程中で小腹を満たしたため、フードコーナーは眺めるだけにして、ゲームコーナーに移動する。
そこにはビリヤード台やパチンコ台の他に、子どもも遊べるクレーンゲームや昔懐かしのアーケードゲームが置かれていた。
「何かやる?」
「とりあえず見て回ろうや」
「あ、そうね」
蒼依と腕を絡めてクレーンゲームのある方へ入っていくが、やはりファミリー層向けになっているのか、私好みの物は置かれておらず、施設内が基本飲食禁止という事もあってお菓子も置かれていない。
アーケードゲームはなかなか面白そうな物があったが、既に子どもが楽しそうに遊んでおり、順番待ちをしている子もいたため、一旦諦めて他を見る事にした。
エアホッケーの台はすぐにでも空きそうではあったが、気分ではなかった。
そうして特にやりたいと思う物を見つけられないままゲームコーナーを抜けてしまった。
「蒼依は何かやりたいのあった?」
「んー……」
「無いなら上行くか」
「そうね」
デートにこの場所を選んだのは失敗だったかもしれないな、と頭の中で一人反省会を開きながら温泉の入り口正面にある二階へ続く階段を上る。
正面のキッズルームは入るまでもないので素通りして、右側にある広場を覗くと、奥には卓球台が二つあり、手前には自動販売機と四角形に置かれたベンチがあるだけで、特に変わった物はない。
「卓球やる?」
と試しに蒼依に訊ねてみる。
「お風呂は入らないんでしょ?」
「うん」
「じゃあ卓球もいいかな。汗搔きたくないし」
それには私も賛同し、卓球をするという案は却下。
続いて階段の左側に行くと、まず入ろうとは思えないバーのような空間があり、その左側にレストルームと呼ばれる広い休憩室があった。
中は映画館のような雰囲気があり、広間を埋め尽くすように背凭れを傾ける事のできるリクライニングシートが設置されており、その周りを囲むように本棚があった。
「漫画とか置いてるで?」
「ちょっとゆっくりして行こうか」
「うん」
漸く時間を潰せそうな場所が見つかり、少し固めの絨毯の上を歩き、落ち着けそうな一番端から二つの席を確保する。
「あ、普通に寝れそう」
「ね。分かる。どうしよ、荷物預けに行く?」
周りに話している人が居らず、空気を読んだというよりも、無意識のうちに囁くような声で話す。
「いや、今更面倒臭いしいい。せっかくだから漫画読もう」
「いっぱい持って来てええんかなぁ?」
「さすがに駄目じゃない?」
「いやでも結構抜けてるとこあるし、みんな纏めて持ってってるんちゃう?」
「まぁ、注意書きとかも無いし、いいのかな?」
「んー……怒られたら嫌やし、一冊ずつにするかぁ」
「あっ、日和った」
「ええやん別に。というか何か飲み物買わへん? 喉渇いたわ」
「そうやね。せっかく席取ったけど」
「さっき見て回ったときに買えば良かったな」
ほんの少し座席の心地良さを味わってから荷物を持って席を立ち、真ん中の扉から部屋を出て先程見かけた自動販売機に向かう。そこで蒼依はレモンティーを買い、私はミルクティーを購入して休憩室へ戻る。
「席確保する前に漫画探そ」
「あぁ、そうね」
「蒼依は何読む?」
「せっかくだから普段読まないのを読みたいけど……」
「ほんまにいっぱいあるよな。全部漫画やし、置いてる種類で言うたら本屋さんより多そう」
「ね。本当に」
一番手前からのんびりと時間を掛け、まるで美術館で作品を鑑賞するかのように本の背表紙を流し見しながら歩き、途中で蒼依が、あっ、と声を上げる。
「何か良いのあった?」
「これ前から気になってたやつ。紅音は知ってる?」
「あぁ、うん。読んだ事は無いけど、タイトルは聞いた事あるわ」
「私これにしよう」
「じゃあ私もこの辺から何か良さげなの読もうかなぁ」
棚の上から斜めに視線を動かし、面白そうなタイトルを見つけ、手に取り、あらすじを見て、元の場所に戻す。それを何度か繰り返し、面白そうな内容の本を見つけた。
「決まった?」
「うん」
頷き、表紙を見せる。
「週刊誌に載ってそう」
「確か載ってたと思う。私は読んだ事無いけど」
「席はそこで良いよね?」
「うん。近いし」
本棚のすぐ傍の座席二つの間のテーブルに先程買ってきた飲み物を置き、荷物は盗られないよう自分の膝に乗せておく。
漫画を読み始める前に一旦ミルクティーを一口飲み、喉を潤す。
蒼依の方に視線を向けると、何故か蒼依もこちらを向いていて、嬉しいような、恥ずかしいような、何とも言えない心地良さが胸を満たし、蒼依が微笑むと、それに釣られるようにして、自然と笑みが溢れる。
テーブルに置いた漫画を手に取り、表紙を見る。
私が持って来たのは朧気な記憶にあった漫画で、記憶が正しければ数年前の週刊誌で連載していた漫画だ。週刊誌でほんの少しだけ、それも冒頭ではなく物語の途中を少し読んだ記憶がある。漫画自体は本屋の漫画コーナーに行くとよく見かけるのだが、どんな話なのかすらも知らない。今まで興味があったようで無かったのだ。
頭を漫画を読むモードに切り換え、一ページ目を開く。更にページを捲って人物紹介を読み、もう一ページ捲ると、物語が始まった。
絵を見て、文字を読み、ページを捲る度、主人公に惹かれ、ヒロインに感情移入する。
そうしていると、あっという間に一巻を読み終わる。
表紙を捲って何も描かれていないのを見て、元に戻す。
蒼依の方を見ると、蒼依もまた集中して読んでいるようだった。
もう一巻くらい持って来ておけば良かった、と少々後悔しつつ、漫画に意識を集中させている蒼依の綺麗に整った横顔を見つめる。
今この柔らかそうな頬を突いたら怒られるだろうか。微笑んでくれるのだろうか。髪を触ったら邪魔になってしまうだろうか。キスをしたらどんな反応を見せてくれるのだろうか。
そんな事を考えながら眺めていると、不意に蒼依がこちらを見て、身体が硬直する。
「何?」
蒼依が不思議そうな表情を向けて訊ねてくる。
「ううん。ちょっと見てただけ」
私は首を振った。
「もう読んだの?」
「うん」
「面白かった?」
「うん。面白かったで。蒼依も読む?」
「あー……どうしよ。これって長かったっけ?」
蒼依と一緒になって本棚の方へ振り向くが、小さくてよく見えない。
「蒼依のやつ二十巻くらいなかった?」
「うわ、微妙やな……」
大して当てにならない記憶を掘り起こすと、蒼依がまた関西弁で呟いた。
「私もそれ読みたいし、交換しよ」
「そうするか。じゃあちょっと待って」
「うん。ゆっくりでええよ」
そうしてまた蒼依は漫画に意識を戻し、私は読み終わった漫画を再び開いて、気に入ったシーンを読み返す。
暫くして蒼依が読み終わり、私が読んでいた本を蒼依に渡し、蒼依が読んでいた本を受け取る。
蒼依が読んでいたのは少し前にドラマにもなった医療系の話だった。両親がそういった話を好んでいるので、何となくは知っているが、正直私の好みではないし、興味も無かった。
けれども蒼依が気になっていた本というのは気になるので、あまり気が進まないながらもページを捲る。
自分の好みではないという先入観からか、上手く感情移入ができないまま読み進め、小難しい話は頭を通り過ぎていく。しかしそれでも話の流れという物は頭に入ってくる物で、細かい所の記憶は無いが、全体的な雰囲気として話を楽しめた。
ふぅ、と一息吐き、先程と同じように漫画を閉じて、蒼依の方を見る。
蒼依が少年誌に掲載されているような漫画を読むのかどうかは知らないが、それなりに楽しんでくれているようには見えた。
蒼依が読み終えるまでの間、ミルクティーを飲み、携帯を開いて何か通知が来ていないか確認する。
「読み終わった」
少しうとうとし始めた頃、蒼依の声が耳に入る。
「どうやった?」
「普段あんまりこういうの読まないんだけど、普通に面白かった」
「それは良かった」
「紅音は?」
「私にはちょっと難しかったけど、話自体は面白かったで」
「結構読み飛ばしたでしょ」
「バレてた?」
「やけに読むの速いなぁとは思った」
「バレてたか」
「しかも何か眠そうにしてるし」
「それは待ちくたびれただけ」
「早く読み過ぎなのが悪いんじゃない?」
「ゆっくり読んでたら多分途中で寝てる」
「駄目じゃん」
「まぁ、とりあえず私は先にそっち読もうかな」
「絶対それもう読まないでしょ」
「うん。これはもういいや」
文句を言いたげな蒼依を無視して立ち上がり、荷物を持って次の巻を取って戻る。
「鞄置いて行けばいいのに」
「盗られたら嫌やん」
「相変わらず心配性やなぁ」
「やっぱ今日めっちゃ関西弁やなぁ」
「……それは紅音の所為」
「可愛いから良いけどな」
「好きな人の方言は移りやすいらしいから」
「何か私が蒼依の事好きじゃないみたいな言い方しよる」
ふふ、と蒼依が笑い声を漏らし、咄嗟に口を手で覆って隠し、照れ隠しか、ただ喉が渇いたのか、レモンティーを一口飲んで漫画を開いた。
それから暫くして、隣から蒼依の寝息が微かに聞こえだし、それを聞いていた私もいつの間にか眠ってしまっていた。
そして私が飛び起きて、何か物を盗られていないかどうか不安でいっぱいになったのはそれから一時間後の事で、また暫く漫画を読み、お互いそれぞれが読んでいた漫画の最終巻まで何とか読み切り、施設を出たのは西日の眩しい五時頃。
無料の送迎バスに乗り、蒼依は一時間以上掛けて電車で帰ったのだが、寝過ごして終点の京都駅まで行ったらしい。
通話でその話を聞きながら写真フォルダーを眺め、色違いの水着を着たツーショットを撮っておけば良かったと、写真嫌いな自分の事がまた少し嫌いになった。
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