第20話 8月13日
「暑―い……」
駅から少し離れた木陰に設置されている石の腰掛に腰を下ろし、今にも雨が降り出してきそうな灰色の空を見上げながら口に出した言葉は、絶えず鳴き続けている蝉の声に掻き消された。
湿気を多分に含んだ生温い空気が肌に纏わり付いてくる中で、時折肌を撫でる風だけが唯一心地良いと感じられる。
梅雨のような暑さにやられて、背凭れに身体を凭せ掛けて仰いでいると、遠くの方から微かに踏み切りの不協和音が聞こえてくる。線路の方へ目を向けると、間もなく電車が来るという駅のアナウンスが耳に入った。
自転車の籠に置いていた携帯を取り、時間を確認するつもりで画面を見ると、『もうすぐ着く』と、蒼依からメッセージが届いていた。
笑顔で親指を立てている亀のスタンプを送信し、見慣れた青いラインの入ったクリーム色の電車が駅に止まるのをぼんやりと眺める。
揺れる緑の下に見える出口の階段を見つめながら、まだか、まだか、と携帯と手をぱたぱたと動かして膝を叩く。
一人目が出てくるが、蒼依ではない。ほぼ同時に出てきた二人目も違う。それから三人目、四人目と見送り、五人目が見えた時、私は背凭れに預けていた身体を起こし、その人に向かって手を振ってアピールする。
そうすると、視線の先にいる彼女はこちらに気付き、携帯か何かを持っている方の手を胸の前で振り返してくれた。
私はゆっくりと立ち上がり、隣に停めていた自転車のスタンドを外して蒼依の元へ向かう。
「おはよー」
「おはよう。約束守ってくれたんだ」
蒼依は私の目の前まで来ると、腕を伸ばし、私の頬にそっと手を当てる。
私は反射的に目を閉じると、細く柔らかい指が耳を撫でた。その瞬間、微弱な電気のような物が背中へと伝わり、ふっと息が漏れた。
擽ったいのを我慢しながら返事をする。
「うん。私も見せたかったし」
約束というのは、コンクールの日にしていた化粧とヘアメイクをしてくるという物。
正直面倒ではあったが、あの日していた約束をすっかり忘れてさっさと帰った私に文句を言う資格など無い。それに、あの日化粧をしたり髪をいつもより少し手の込んだ結び方をしたりしたのは蒼依に見せるためだった。
「それなのに忘れてたんだ」
蒼依は人差し指と親指で私の耳を摘まんで、粘土を捏ねるように私の耳を揉む。
そうすると、またぞわぞわとした不思議な感覚が首を通って背中に広がっていく。
「うん。自分でもびっくりしたわ」
罪悪感をそれほど抱いていない事を誤魔化すように笑う。
「楽器運びは他の人がしてくれるからお昼会えるよって話を前日にもしてた筈なんだけどね」
「私もそれを聞いてメモも取ってたんやけどねぇ」
「という事で紅音。ちょっと目ぇ瞑ってくれる?」
「何がという事やねん」
疑問を抱きながらも、素直に目を閉じると、蒼依の腕が腰に回され、蒼依の方へぐっと引き寄せられるのと同時に、頬に触れていた手が軽く私の顔を持ち上げ、気が付いた頃にはキスをされていた。
「んぅっ!?」
私は思わず目を開き、逃れようとして足を一歩後ろに下げるが、腰に回された蒼依の腕に力が籠もり、呻き声のような物を上げるだけとなった。
軽くパニックになっている間に口が解放され、蒼依の腕の力が緩んだ隙に自転車を引っ張って蒼依から距離を取る。
「可愛い」
そう言って満足そうに微笑む蒼依を睨み付ける。
「誰かに見られたらどうすんねん」
「別に誰も気にしてないからいいでしょ」
「恥ずかしいからやめろって言ってんねん」
「というか紅音って自転車乗れるんだ」
蒼依の視線は私の腕の先、自転車に向いていた。
「聞いてる?」
「前に迎えに来てくれた時も歩きだったから乗れないのかと思ってた」
「何で無視すんねん」
「ねぇ、一つ文句言っても良い?」
「その前に私の話聞けや」
「紅音が自転車持つとさ、手が繋げないんだけど」
「知らんわそんなもん。全然私の話も聞いてくれへんし」
「ていう事で、自転車貸して」
「いや意味分からんし」
私がそうやって文句を言っている間に、蒼依が自転車のハンドルに手を伸ばしてくる。
正直押して帰るのは面倒だと思っていたため、素直に明け渡し、そのまま蒼依を放って歩き出す。
「あっ、いいんだ」
蒼依は自転車をUターンさせて、小走りで私に追いついてくる。
「まぁ、蒼依が押してくれるって言うなら別に。面倒くさいし」
「じゃあなんで乗って来たの?」
「いや、自転車乗ったら涼しいかなぁって」
「二人乗りする?」
「……しない」
嫌な記憶が掘り起こされ、表情を歪めながら吐き捨てるように言うと、規則的に並べられた地面のタイルだけを映していた私の視界の端に蒼依の顔が映り込む。
「機嫌悪い?」
「何で?」
顔を上げて蒼依の方を見ると、眉がハの字に垂れ下がっていて、少し罪悪感が湧いてくる。
「いや、テンションがいつにも増して低いから」
「そういう蒼依はテンション高いな」
機嫌は悪くない筈なのだが、どうにもぶっきらぼうな言い方になってしまった。
「まぁ、久々に紅音に会えたからね」
「そう」
どうしてこんな可愛げの無い言い方しかできないのか自分でも分からず、余計に苛々が募る。
決して機嫌が悪い訳ではない。悪くする理由などどこにもない。
気まずい沈黙を埋めるように蒼依が口を開く。
「どうしてそんなにテンション下がってるの?」
「……別にいつもこんな感じやろ」
「いやいや、明らかに低いって」
「そう?」
どうにか気分を上げようと、声を少し高めに出してみる。
怒った振りをしていたら本当に腹が立つように、気分を上げたいならそういう振りをすればいい。
「紅音は嬉しくなかった?」
「ううん。私も会いたかったけど、暑い」
「それでテンション下がってるの?」
「いや、そういう訳ではないんやけど、手ぇも繋げへんし、暑いし、蒼依は話聞いてくれへんし」
「それは……ごめん」
「まぁ悪ふざけって分かってたけどな」
話している内に段々と胸の閊えが解消され、晴れやかな気分が戻ってくる。
「お詫びにキスしてあげる」
「蒼依がしたいだけちゃうの?」
「うん。私がしたいだけ」
真顔で堂々と頷いた蒼依を見て、駅でキスをした時の事が頭に浮かんだ。
「この前までめっちゃ緊張してた癖に」
「慣れてないんだから仕方無いでしょ」
「へぇ、慣れてないんや」
「悪い?」
「ううん。可愛い。大好き」
顔を覗き込みながら言うと、蒼依の表情が崩れる。
「ちょっと、ずるくない?」
「じゃあ蒼依も言うてよ」
「……好き」
「ほら可愛い」
先程無視された仕返しとしては充分だろう。
すっかり明るさを取り戻した私に比べ、灰色の空は家を出た時よりも更に黒が濃くなっていた。
家に着くまでに降らなければいいな、などと考えていると、前に降り出された腕に水滴が当たる。
「雨降ってきたかも」
「えっ。あっ、本当だ」
ポツポツと、風呂上がりに髪から滴るように雨が降り始める。
「傘持ってきてる?」
「ううん。見ての通り」
「聞いといて何なんやけどさ、なんで持ってきてへんの?」
「いや、曇りって言ってたし、晴れ女が居るし」
「……自転車返して」
「置いて帰ろうとしないでよ。別にこれくらいなら傘が無くてもいけるって」
「いやでもさすがにちょっと急ごう。私も傘持ってきてへんし」
とは言え走るのは面倒なので、少し歩く速度を上げるだけ。蒼依にとっては普段自分が一人で歩いている時の速度になる。
横断歩道を渡り、緩やかな坂を上って、何とか雨脚が強くなる前に帰ってくる事ができた。
蒼依から自転車を受け取り、車の後ろに空いているスペースに停める。
普段の移動に徒歩か車しか使っていなかった所為で数ヶ月振りに動かす事になった自転車だが、きっとまた暫くはここで待機する事になるだろう。もしかすると、夏休みの間は買い物に使うかもしれない。
ポケットから家の鍵を取り出し、玄関の扉を開けて蒼依を迎え入れる。
「どうぞー」
「お邪魔しまぁす」
靴を脱ぎ、振り返って邪魔にならないように靴を壁沿いに踵を揃えて並べると、蒼依も同じようにして靴を脱いで並べた。
そうしている間にリビングの方からバタバタと慌ただしい物音が響いてきて、リビングの扉が開く。
「おかえり、紅音」
「うん。ただいま」
蒼依が靴を揃え終わるのを見計らって、母が声を掛ける。
「蒼依ちゃんもいらっしゃい」
「お邪魔します」
自転車を触った手が汚れているような気がして、世間話のような事を始めた二人を置いて洗面所で手を洗う。
「ちょっと、置いて行かないでよ」
「いや、何か話してたやん」
「まぁね」
蒼依がジェスチャーで使ってもいいか訊ねてくるので、私も黙って首肯し、タオルを持って待機しておく。
「何の話してたん?」
御丁寧に石鹸まで使って手を洗う蒼依の背中に話しかける。
「この前のコンクールの話。ちょっとだけだけどね」
「あぁ、お疲れ様ーって?」
「うん。紅音が帰っちゃったやつね」
「ごめんって」
「もう許したけどね」
タオルを渡し、返されたタオルを元々掛けてあった場所に掛け直して自室に向かう。
その前に冷蔵庫からお茶を出し、コップと一緒にトレイに乗せてから階段を上がり、蒼依に自室の扉を開けてもらって中に入る。
トレイをそっとローテーブルの上に置き、端に避けてあったクッションを傍に置いて蒼依に座るよう促す。
「お茶ありがとう」
「どういたしまして」
「これ何茶?」
窓が閉まっている事を確認し、冷房を付ける。
「あ、ルイボスティーやけど……大丈夫?」
「あぁ、焼き肉とか行くと置いてあるやつだ」
「そうそう。ちょっと甘いやつ」
「甘かったっけ?」
「緑茶とか他のお茶に比べると甘いで」
「へぇ」
興味があるようなので、コップの半分くらいまで注ぎ、蒼依に渡すと、蒼依はそれに躊躇なく口を付け、一口味わった後、残りを飲み干した。
「初めて飲んだけど、美味しい」
「やろ? 最近嵌ってんねん」
「前来た時は違ったよね?」
「うん。確か前の時は普通に焙じ茶か何かやったと思う。覚えてへんけど」
「うん。私も覚えてない」
話しながら自分のコップにお茶を同じく半分くらいまで注ぎ、一気に飲み干し、ぷはぁ、と息を吐き出す。
トレイの上にコップを戻し、ベッドに腰掛けると、床に置いたクッションに座っていた蒼依が徐に立ち上がり、隣に腰掛けた。
「何でわざわざこっち来たん?」
「いや、せっかく二人きりになったし」
そう言うと蒼依の左手が後ろで支えにしていた私の右手に重ねられ、一瞬の擽ったさの後、蒼依の体温が伝わってくる。
先程まで聞こえていた筈の蝉の声が耳に入ってこなくなり、すぐ傍に居る蒼依の吐息と、私の心臓が鼓動する音がやけに大きく聞こえる。
今日はやけに触ってくるな、と不思議に思いながらも、触れられる事自体は嫌ではない。寧ろもっと触ってほしいとさえ思っているのだが、この空気感には堪えられそうになかった。
「今日は何する? うちボードゲームくらいしか無いけど」
どうにかしてこの雰囲気を壊してやろうと思い付いた事を口に出してみる。
じっと座っているのも辛かったため、蒼依の手からするりと抜け出し、足をベッドに乗せて、そのままベッドに寝転がる。
「何しよう。特に何も考えてなかったんだよね」
「蒼依が家に来たいって言った癖に?」
「うん。とりあえず会いたいって思って」
「じゃあ暫くのんびりするかぁ」
思い返すと今までこうして恋人としての時間を過ごした事は無かった。デートに出掛けた事はあったが、あまり時間に余裕は無かったし、二人きりという訳でもなかった。今日は家に家族が居るものの、部屋には私たち二人だけ。今まで恋人らしい事ができていなかった分を取り戻すには良い機会かもしれない。
ならば、と私は蒼依の名前を呼び、寝転がった姿勢のまま両腕を広げる。
「何?」
察しの悪い蒼依がこちらを見て不思議そうな顔をする。
どうして分からないのかという意味を込めて「ん」と催促してみるが、やはり来てくれない。
「来て」
そう言うと、漸く蒼依が動き、私に覆い被さるようにして遠慮がちに倒れてくる。
そのまま抱き付いてくるのかと思いきや、蒼依は腕を立てて眉を顰めた。
「いつも思ってたんだけど……」
「何?」
「こういう時胸って邪魔だよね」
「……うん」
蒼依が私の上に重なった瞬間、お互いの胸が押し潰され、痛いという程ではないが、確かな違和感が挟まっていた。
抱き付くのは諦め、蒼依は隣に寝転がった。
「みんなどうしてるんやろうな」
「ね。男女でも女子の方が大きかったら結局邪魔になりそう」
頭上げて、と蒼依が言うので、その通りにすると、蒼依が右腕を私の頭の下に伸ばし、私はそこに遠慮無く頭を置いて枕にする。
「重くない?」
「大丈夫」
「痺れたりとかしたら言うてや?」
「うん」
頭の下にある蒼依の腕が私の肩を抱き、持ち上げようとしているのを感じ、それに合わせて寝返りを打ち、蒼依と抱き合うような形になる。
「これくらいなら全然邪魔にならないんだけどね」
「うん」
適当な返事をしつつ、どうすれば良いのか考えていると、一つの案が思い浮かんだ。
「ブラ外したらいけたりせぇへんかな?」
「は?」
「いや、だってブラ着ける時って胸多少なりとも寄せてるし、ブラ自体もちょっと固いやん?」
「なるほどね」
「うん。だからブラ外したら意外と密着できるんちゃうかなぁって」
「……そういう事?」
「そういう事」
頷くと、蒼依は眉間に皺を寄せて黙り込む。
視界いっぱいに顰めっ面の蒼依が映っているのが可笑しくて、笑いが込み上げてくる。
私はそれを誤魔化すように皺の寄った蒼依の眉間を人差し指で弾く。
「痛っ。えっ、何?」
蒼依は額を手で隠し、睨んでくる。
「いや、何となく」
込み上げてくる笑いを堪えながら目を逸らす。
「何となくででこぴんするの止めてくれる?」
「ところでお昼ご飯何が良い?」
「このタイミングで訊く事?」
「だってお腹空いてきたし」
そう言った瞬間、お腹の中が微かに震えるのを感じて、咄嗟に力を入れる。
「何でも良いの?」
「いや、サンドイッチしか無いけど」
「じゃあどうして訊いたの?」
「まぁええやん。もうすぐ十二時になんやし」
そう言って起き上がろうと腕に力を込めると、蒼依が覆い被さってきて、私の頭は枕の上に落ち、反射的に目を瞑った瞬間、唇を塞がれる。
右手は蒼依の左手と繋がれたままベッドに押さえつけられ、腰の辺りに蒼依が跨がっている所為で寝返りを打つ事もできない。まるで逃がさないとでも言われているようだった。
一瞬口が離れたと思いきや、また方向を変えて塞がれる。鳥が啄むように何度もキスをされて、息を切らすと、蒼依は微笑み、今度は長い口付けをする。私はそこで漸く鼻で息をする事を思い出し、呼吸を整え、空いた左手で蒼依を抱き締める。
口が一体化してしまったように錯覚する程長いキスを終えて、蒼依はまた不満そうな顔を私の胸に向けて呟く。
「やっぱ邪魔」
「ごめんて。というか今日はやけにくっついてくるなぁ」
「……会うの久々だから」
「うん。それもごめん」
「紅音が部活に入ってくれれば解決するんだけど」
「入りませーん」
腕が疲れたのか、蒼依が崩れ落ちて私の胸に顔を埋める。
「楽器は持ってないんだっけ?」
ついでと言わんばかりに私の胸を捏ねるように揉む蒼依の頭を撫でながら答える。
「うん。高いし」
「そっか……。トランペットは吹ける?」
「何? そんなに一緒にやりたいん?」
「うん。だってせっかくできるのに、勿体ないというか……ねぇ」
揉むのをやめて、今度は指で突き始める。
「まぁ、やるとしたらお金貯めてからやなぁ」
「やりたくない訳じゃないんだよね?」
「うん。ただそこまで真面目にやる気は無いってだけ。みんなみたいに絶対金賞獲ってやるんだー、全国大会に出るぞー、みたいな熱意は無い」
「そっかぁ」
「蒼依はやるからにはやってやろうって感じやろ?」
「そりゃあもちろん」
「すごいよなぁ。というかこしょばいからやめて」
服の中に手を突っ込んで肌を撫で始めた蒼依の腕を掴んで止めると、蒼依は素直に腕を抜いて起き上がり、私の腰に蒼依の体重がのしかかる。
蒼依は妙に真剣な面持ちをしている。
「私たちって一応恋人でしょ?」
「そうやな」
私にもそれなりに知識はある。女性同士でどうするのかは知らないが、恋人になった時にどうするのかという事は知っている。
何となく蒼依がそういう事をしようとしている事には気付いていたが、空腹感が気になってしまい、そういう気分にはなれなかった。
「そろそろ次に進んでも良いと思うんだけど」
「うん。いや、それは良いんやけどさ。先にご飯食べない?」
「紅音は私よりご飯が大事なの?」
「途中でお腹鳴ったら台無しやろ」
「……」
「今日はいっぱい時間あるんやからちょっとぐらい我慢して」
蒼依は渋々といった様子で私の上から降りてベッドに腰掛けた。
私も身体を起こしてベッドから足を下ろし、立ち上がる前に蒼依の頬にキスをする。
「また後でな」
顔が熱くなっているのを感じながらいそいそと部屋を出る。
後ろ手に扉を閉め、家族に何も言われないよう二度三度と深呼吸を繰り返して心を落ち着けてから階段を降りて昼食のサンドイッチを冷蔵庫から回収する。
「あっ、紅音」
「何ー?」
「この後涼音も連れて出掛けてくるし」
「はぁい。行ってらっしゃい」
平静を装いながら、私の心臓は高鳴っていた。
昂ぶる気持ちを抑えながら階段を上り、部屋に戻る。
「ただいまぁ」
「おかえり」
「今日は何と手作りサンドイッチでーす」
皿を乗せたトレイをテーブルに置き、扉を閉める。
「紅音が作ったの?」
「妹とお母さんにも手伝ってもらったけどな。しかも切って焼いて挟むだけ。簡単」
どうやら私が下に降りている間にお茶を入れてくれていたようで、礼を言いつつ、蒼依の隣に腰を下ろす。
「ありがとう」
「まぁまぁ、どうぞお召し上がりくださいな。というかお腹空いてる?」
「うん。落ち着いたら空いてきた」
「あっ、そうや」
先程一階で手に入れた情報を思い出し、蒼依の手をそっと握る。
「この後みんな出掛けるみたいやから、ゆっくりできるで」
「……ねぇ、ご飯食べるんじゃないの?」
「食べる食べる。ただ私も蒼依と同じ気持ちやでって」
「そう」
「因みにやり方は知ってんの?」
訊ねると、お茶を飲んでいた蒼依がゴホゴホとお茶を溢さないようにコップを掲げながら噎せた。
「大丈夫?」
「大体紅音の所為だからね?」
「ごめんやん。んで、知ってる? 調べようと思って忘れててん」
私もお茶で乾いた喉を潤し、サンドイッチを一切れ更に取り分ける。
「まぁ、多分紅音よりは知ってるかな」
「じゃあ蒼依に任せようかなぁ。前にさぁ、浩二に告白された時に恋人と友達の違いをネットで調べてて、そん時に色々男女でする事については調べたんやけど、まさか蒼依と付き合う事になるとは思ってへんかってんなぁ。というかそういうのってみんなどこで知るんやろ。蒼依もそうやけどさぁ、中学の友達とかもみんな知ってるやん? でも私はそれまで知らんかった訳で、授業で生物的なあれは教えてもらうけど、実際どうするのかとか、どんな事するのかって教えてもらえへんやん?」
一頻り喋り、一口頬張る。
「……それは……何? 私がどうやって知ったか言えって言ってる?」
「いや、ちゃうちゃう。純粋な疑問やって。お兄ちゃんとか居ったらその……えっちな本とかこっそり見てたりするんかな?」
「いやそれは知らないけど……。私は普通にネットで知ったかな」
「普通に教えてくれるやん。それって私みたいにどうやってするやろぉって感じ?」
「うん。私はね。他の人はどうか知らないけど」
「蒼依ってその……一人でする?」
「待って。さすがに恥ずかしいし、食事中に話す事じゃなくない?」
「そう? ごめん。気になっちゃって」
「うん」
それからはいつもと同じように黙々と食べ進め、皿三枚分用意していたサンドイッチはあっという間に無くなってしまった。
「ごちそうさまでした」
「足りた?」
「うん。充分。美味しかった」
「そら良かった」
皿をトレイの上に重ね、お茶を飲んで一息吐く。
「さて、どうしよっか」
「なんかボードゲームあるって言ってなかった? それやろう」
「おっけー」
蒼依の要望に応え、クローゼットの一番下の段にある引き出しを引っ張り出す。
「何が良い? オセロとかチェスとかできるやつやろ? ……それから将棋盤もあるし、人生ゲームもあるし、あとトランプも」
オセロの駒が収納されているボードを取り出し、色々なボードゲームの盤が描かれた厚紙と、それぞれに使用する駒をその上に置く。続いて折畳み式の将棋盤、裏表で違う世界観を楽しめる人生ゲーム、よく見る赤い模様の描かれたトランプ、それから手品に使う種も仕掛けもある小道具を蒼依の前に並べた。
「何でもあるじゃん」
「家族でやるためにって色々買ったんやけど、妹がテレビゲームに嵌りだしてからは全然やらへんくなって、たまに私が一人でやってる」
「一人でやってるの?」
「そう。一人二役」
「彼女の闇が垣間見えたわ」
「私の話はええねん。何する?」
「これ何?」
蒼依が赤と黒の細長い三角形が描かれた厚紙を見せてくる。
「横に書いてるやん」
「バックギャモン」
「そう。やり方分からんくて一回もやった事ないやつね」
蒼依はしばらくの間眉を顰めながら説明文を見つめ、それから紙を裏返した。
「分からん」
「蒼依にも分からんねやったら無理やな」
「普通にまずはオセロからやろう。実はこういうのやった事無いんだよね」
「そうなんや。あぁでも一人っ子やとそうなんかな?」
「かもね」
蓋を開けて駒を取り出し、お互い何も言わずとも真ん中に白と黒の駒を四つ配置し、じゃんけんで先攻後攻を決めてゲームを開始する。
「こういうゲームはやっぱり涼音ちゃんが強いの?」
「これは私も弱くないで。考えられる時間あるし」
「なるほどね」
そんな会話をしながらパチ、パチ、と磁石入りの駒で軽快な音を立てて盤面を埋めていく。
「紅音強くない?」
「初体験の人に負ける訳にはいかへんからな」
角を一つ取られてしまったものの、全体を見れば圧倒的に黒が多く、そして私が優勢のまま全てのマスが埋まった。
「私の勝ちー」
「パズルゲーム苦手属性はどこに行ったの?」
「初心者には負けられませんから」
「じゃあ次チェスやろ」
「あっ、リベンジとかじゃないんや」
「とりあえず全部一通りやる」
「バックギャモンも?」
「それ以外で」
「了解」
チェスのややこしい駒の動きも蒼依はすぐに覚え、「お爺ちゃんのお蔭で将棋はできるから」というよく分からない理屈で私が負けた。そして本人が言っていた通り、将棋も強く、動き方を知っているだけで戦法など欠片も知らない私は為す術もなく負けた。
私が勝てたのは碁石を使った五目並べと、よく分からない駒を反対側の陣地に移動させるゲーム、それから始めにやったオセロだけ。それ以外は何度もやった事があるにも拘わらず普通に負けた。
「初めてとか絶対嘘やん」
「いやいや、大丈夫。私が強いだけ」
「うざっ」
「じゃあ罰ゲーム。目ぇ瞑って」
「聞いてへんねんけど」
「いいからいいから。紅音の嫌がる事はしないから」
そう言って蒼依は私の手を握る。
「目ぇ瞑ったら嫌かどうか分からんやん」
「じゃあ別に開けててもいいよ」
「えっ、それはそれで怖いから嫌」
「どっちでもいいから早く」
「……じゃあ、はい」
仕方なく瞼をぎゅっと閉じると、蒼依の手が離れ、何となく、空気感が変わったような気がした。
その瞬間、手に何かが触れて反射的に手を引く。
衣擦れの音に紛れてくすくすと蒼依の含み笑いが聞こえてくる。
「触るよ」
突然蒼依の囁き声が耳のすぐ傍で聞こえて、肩が跳ねる。
そのすぐ後、頬に蒼依の手が触れて、少しだけ身体の力が抜ける。
「本当は何されるか分かってるでしょ?」
心臓が破裂してしまいそうなくらいに鼓動が早くなる。顔に熱が集まっているのを感じる。
頬に触れる蒼依の指が動くと、声が漏れる。
すぐ近くに蒼依がいる気配がする。
一旦落ち着こうと、静かに呼吸を整えようと息を吐いた時、唇が重ねられた。
「んっ」
思わず声が漏れる。
また啄むようなキスを何度かされ、いつもと同じ流れに心を落ち着かせていると、ほっと息を吐いた瞬間、ぬるりとした柔らかい物が唇の隙間から侵入してくる。
「んぅっ」
未知の感覚に戸惑いながら、侵入してきた物を舌で押し返そうとしていると、蒼依の身体が徐々に倒れてきて、身体の力が抜けて耐えられなくなった所を蒼依に支えられ、そのままゆっくりと床に倒される。
その間もずっと口の中を蒼依の舌が動き回り、痺れたように口の感覚が分からなくなってきた頃、漸く解放された。
「今日はこれくらいで許してあげようかな」
満足そうに微笑む蒼依を見つめていると、蒼依が顔を近付けてきて、咄嗟に目を瞑る。
「大好きだよ」
耳から背中に何とも言えない感覚が走る。
ちょっとでもやり返してやろうと、蒼依の頬を摘まみ、軽く引っ張る。
「何?」
「何でもない」
「じゃあ次何しよう」
「まだ何かやんの?」
「うん。まだ時間あるしね。それとも紅音はそっちの続きがしたい?」
「ぶっ飛ばすぞ」
満面の笑みが憎たらしくて、ついそんな言葉が口から飛び出してしまっていた。
「こわっ。急に物騒な事言うじゃん」
怯えたような事を言う蒼依の表情は相変わらず笑顔のままだった。
重たい身体を起き上がらせ、ふぅ、と一息吐く。
「紅音って結構口悪いよね」
「遺伝やからしゃあない」
「遺伝ならしゃあないか」
「蒼依から関西弁を引き出すっていう勝負は私の勝ちでいい?」
「駄目」
「ケチ。アホ。ボケ。カス」
「さすがに言い過ぎじゃない?」
「今日はもうゲーム終わりね」
言いながら散らかした紙やボードを片付け始める。
「じゃあ続きはベッドの上?」
「何か……そういうのおじさんが言ってそう」
溜め息交じりにそう言ってやると、蒼依は綺麗な顔を歪ませていた。
「……今の過去一心に刺さったかも」
「良かったやん。おじさん」
「未成年の女の子にそんな事言わないでよ」
「思考がおじさんよな」
「うわっ、何かそっちの方が嫌かも」
「じゃあこれからおじさんって呼ぶわ」
「最悪」
「おじさん、喉乾いたしお茶入れといて」
「定着させるのはやめてよ?」
「ほら、早く。おじさん」
それから暫くおじさん呼びを続けていると、仕返しと称してベッドに押し倒され、また気が狂ってしまいそうな程長くキスをされた。
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