第19話 8月8日

「二人も気ぃ付けてな」

「はぁい」


 やたらに心配する母を妹と一緒に見送り、私たちは私たちで出掛ける準備をする。


 時間が経つのは早い物で、蒼依も所属している吹奏楽部にとって一番大きなイベントとも言える吹奏楽コンクール本番の日がやってきた。


 京都府の吹奏楽コンクール自体は八月一日から始まっており、八日の今日が京都府予選の最終日となっている。今日で高等学校のA組として出場する全ての学校の演奏が終わり、金、銀、銅いずれかの賞が与えられ、その内の金賞を獲得した学校の中から京都府の代表として次の関西大会へ出場する学校が決まる。


 うちの学校は田舎の中学校に通っていた私でも知っているくらいには上手いイメージがあり、実際過去に関西大会へ出場した経験もある学校だ。メンバーが毎年変わるのにも拘わらずずっと優秀な成績を保っているのは指導者のお蔭もあるだろうが、やはり強い部活にはやる気のある人しか集まらないからというのも大きな一因となっているだろう。


 蒼依は毎日楽しそうにやっているという事が声色から滲み出ているのだが、その話を聞いているだけでも嫌気が差してくるくらいには大変そうで、やはり自分は部活に入らなくて正解だったと胸を撫で下ろすと同時に、あの頃の私の英断に心からの感謝の言葉と賛辞を送る。


 コンサートホールという場所に合うような服装という物が分からず、結局蒼依とデートに着ようと思っていた服を着た。少しだけ化粧をして、髪も普段はしない編み込みをして、姿見の前で仁王立ちをすると、「よしっ」と特に意味の無い気合いを入れる。


 一階に下り、ふと思い立った私は携帯のメッセージアプリを開き、蒼依に『今から出る』、『演奏楽しみにしてるね』、『頑張ってね』と続けざまに送信する。


 恐らくこの時間ならまだ携帯を見る時間はあるだろう。


「あ、お姉ちゃん可愛くなってる!」


 遅れて階段を降りてきた涼音が目を輝かせて言った。


「ありがとぉ。涼音もやる?」

「私もできるん?」

「もちろん。涼音も髪長いし何でもできるで。簡単なやつなら」

「じゃあお姉ちゃんと同じのがいい」

「おっけー」


 椅子に座ってもらい、ポーチを鞄から取り出し、手鏡を妹に渡す。


 手櫛に少しも引っ掛かる事のないさらさらの髪に感動しつつ、前髪と横髪を残してハーフアップにして結ぶ。残しておいた横の髪を三つ編みにして程良く崩し、先程結んだ所に巻き付けてからピンで留める。それから反対側の髪も同じように崩した三つ編みを作り、同じ所に巻き付けて留める。


 編み込みと言うには少々手抜きだが、見栄えが良ければ手抜きと言われようと関係無い。


「こんな感じでどうでしょう」

「お姉ちゃん天才」

「でしょう? よし、じゃあ行こっか」

「はぁい」


 満足した様子の妹に、私の胸も満たされる。


 妹と一緒に行くのは、単純に小学生の妹を一人家に残して出掛けるのは心配で気が気でないからだ。普段から家で一人になる機会はあるが、それでもやはり心配な物は心配だ。蒼依の演奏だけ聴いてさっさと帰ってくる事もできるが、その間に何かある可能性もあるし、どうせなら焦らずのんびりと色々な高校の演奏を聴いて帰りたい。それなら妹も一緒に連れて行って昼食も外で食べた方が良い。


 一応妹にどうするか訊ねたのだが、断られるどころか喰い気味に答えが返ってきたため、今日は私たちのどちらかが飽きるまで音楽鑑賞をして、親のお金で美味しい物を食べて帰る。


「タオルかハンカチ持った?」


 玄関で靴に踵を入れた所で、鞄を肩に提げたまま開き、今更ながら忘れ物を確認する。


「うん。持った」

「飲み物は……途中で買えばええし、定期ある。財布も持ったし……チケットはあるし、お金も入ってる……ポーチも入ってる……折畳み傘もある……」


 最後に携帯が入っている事を確認し、靴箱の上に置いていた鍵を取って家を出る。


「あ、待って。窓閉めたっけ?」

「ママが出る前に閉めてたやん」


 瞬間、リビングや自室の窓を閉め、鍵までしっかりと閉めた記憶が蘇ってくる。


「そっか。そうやわ」


 胸を締め付けていた不安感が無くなり、晴れ晴れとした気持ちで玄関の鍵を回し、ドアハンドルを引いてしっかりと鍵が掛かっている事を確認する。


 鍵を鞄に入れて歩き出すと、ビル風のような強い風が吹き抜け、辺りの木々がざわざわと騒ぎ出した。


 幸い雨は降っていないようだが、少し前までは毎日のように続いていた、あの忌々しい曇り空が広がっている。それもこれもこの時期には珍しい台風の影響だろう。


 不意に右手を妹に取られ、そちらに顔を向けると、妹は顔に被さった髪を指で退けて耳に掛け、私の方を見る。その顔には無邪気な笑みが浮かんでいた。


「お姉ちゃんと二人で出掛けるん久々ちゃう?」

「そうやな。前はいつやっけ? パパとママが居らんくてお昼ご飯食べに行った時やんな?」


 少し小さく感じる手を離さないようにぎゅっと力を込めて握る。


「うん。冷蔵庫に何も入ってなくてどうしよーってなってた」

「そうや、冷蔵庫に何も無いってなって、コンビニにおにぎりとか買いに行ったんや。あれは……去年とか?」

「一昨年の冬くらいやで」

「そうなん? よう覚えてるなぁ」

「記憶力だけはええからな」

「私はそれが欲しいんやけどなぁ」


 妹に悪気など全く無いと分かっているが、妹の言葉は私の胸に突き刺さった。


 私はそれに気付かない振りをして妹の手を引く。


 有難い事に駅に着くまで雨は降らず、風が絶えず吹いてくれていたお蔭で汗も大して搔かなかった。


 今日の目的地である京都コンサートホールの最寄り駅は北山駅という所なのだが、そこへ行く為にはまず京都駅まで行き、そこから一度改札を出て地下鉄に乗り換える必要がある為、まずは京都駅までの切符を買う。


「今日はどこまで行くん?」


 妹は券売機の上にある運賃表を見上げていた。


「今日は北山ってとこに行くんやけど、載ってる? 多分載ってへんと思うんやけど」


 料金を改めて確認するついでにと、券売機の前から一歩二歩と下がり、妹と同じように運賃表を見上げ、京都駅に書かれている料金を確認した後、その周辺を見る。


「うん。やっぱり載ってへんな」

「そうなんや」

「うん。京都駅まで行って、そこから地下鉄に乗り換えるし」


 答えながら券売機の前に戻り、千円札を入れて先程確認した料金のボタンを押す。


 出てきた切符を妹に渡し、お釣りを財布に入れて改札を通り、いつも通り冷房を利かせた状態で待ってくれている電車の先頭車輌に乗り込み、前方の景色がよく見える角の席に座った妹の隣に座る。


 いつ来ても大体電車が止まっているのは終着駅付近に住んでいる利点だと言えるかもしれない。


「今日行くのってお姉ちゃんも行ってたとこ?」

「そうそう。涼音も来た事あるやろ?」

「うん。お姉ちゃんは出ぇへんの?」

「うん。私は下手やからね。今日は初めての観客席やからちょっと緊張してるわ」

「ふぅん」


 興味を失ったような、落胆したような、そんな返事をして、妹は口を尖らせ俯いた。


 何故か私が演奏しているのが好きな妹は、もしかするとまた私が楽器をやっている姿を見たいと思ってくれているのかもしれないが、そもそも私は他人に自信を持って聴かせられる程上手い訳ではない。それが縦え身内である妹だったとしてもあまり下手な演奏は聴かれたくない。


 高校生になってすぐくらいの時にも似たような話題になり、部活に入らなかった嘘半分のそれらしい理由を話したが、納得できていないのか、ただの我儘という名の願望なのか、妹は半年が経とうとしている今でも同じような事を訊ねてくる。


 何度も何度も問われ続けていると、段々と申し訳なさも薄れてきて、言い訳も面倒になり、最近は嘘のような本当の理由を話してしまっているのだが、いつの間にか私はオオカミ少年になっていたようで、嘘を吐かなくても嘘だと思われるという有難いようで面倒な事態に陥っている。


 もしかすると、妹は私が嘘を吐いていない事を知って失望しているだけの可能性もあるが、何と言われようと吹奏楽をもう一度やろうという気は全く無いので、妹がいつか諦めてくれる事を願う。


 会話が無くなり、暇を持て余し始めた頃、アナウンスが流れ、電車が動き出した。


 ここから一時間程は京都駅までの退屈な電車旅だ。普段車か徒歩が移動手段である妹にとってはなかなか新鮮らしく、上半身を捻って電車の正面の窓に映る景色を楽しんでいるようだった。


 私も普段はあまり先頭車両には乗らないため、家や木々を掻き分けるようにして進んでいく景色に意識を取られ、電車が駅に到着するまでじっと眺めていた。


 電車を降りて反対側のホームに移動し、予定時刻丁度に到着した快速電車に乗り換える。


 いくら夏休みで人が増えると言っても、増えるのは学生くらいだろう。その学生も蒼依のように部活に所属していれば既に学校で部活動に励んでいるだろう。結果増えるのは小学生くらいの小さな子どもとその保護者くらいで、平日の電車はそれなりに空いていて、路線の端から端まで立ちっぱなしなんて事にはならなくて済みそうだった。


 妹に窓側の席を譲り、鞄を抱えて通路側の席に座る。


 意味も無く携帯を開くと、何の変哲も無い日付と時刻だけの画面が表示され、十秒程で真っ暗になって、つまらなさそうな表情をした自分の顔が写る。


 携帯を鞄に仕舞って右に視線をやると、妹はじっと窓の外を眺めていた。


 何か面白い物でも見えるのかと窓の外に目を向けるが、この数ヶ月間何度も見てきた景色が見えるだけだった。


 何も無いと分かってはいるが、それでも何か暇潰しになる物がないかと鞄の中を覗き込んで漁る。通学用の鞄であれば暇潰し用の小説が入っている筈なのだが、残念ながら今日はその鞄ではない。


 これが普段の鞄でない事と、持っていく物のリストに暇潰し用の何かを含んでいなかった事が悪かった。入れた覚えのない物が入っている事などそうある事ではない。


 鞄の口を閉じて溜め息を吐き、右手で鞄を抱き締め、肘掛けに頬杖を突いて瞼を閉じる。


 終着駅に着くまでの一時間で仮眠でも取れれば良いのだが、前日は蒼依と通話をしていたにも拘わらず、これ以上無い程に良く眠れてしまった。お蔭で今も意識ははっきりとしている。


 電車が駅で止まると私は瞼を開き、意味も無く現在地を確認する為にきょろきょろと視線を動かし、扉が閉まると私も瞼を閉じて寝ようと試みる。


 それを何度か繰り返して、眠りに就いたのは妹の方だった。


 私の肩に寄り掛かり、静かに寝息を立てる妹の髪を撫で、座席に投げ出されている左手を掬い取って軽く握ってやると、赤ん坊のように弱々しい力で握り返してくる。


 蒼依と比べるとやはり小さいが、その分蒼依に対して抱いている物とはまた違う愛おしさがあった。


 私はもう一度妹の頭を撫でて、少しだけ妹の方へ寄り掛かる。


 目を閉じると、規則的な寝息がはっきりと耳に入る。それが不思議と耳に心地良く、私の少しずつ意識は薄れていった。


 目が覚めたのは京都駅に着く直前。不意に意識が覚醒し、窓の外にはあまり見慣れない高い建物群と幾つもの線路が見えた。車内アナウンスを聞いてここがどこなのかを把握し、未だに肩に寄り掛かって眠っている妹の頬を突き、周りに迷惑を掛けないよう小声で名前を呼ぶ。


「涼音」

「ん……もう着いたん?」

「もう着くとこやし起きや」

「起きてるぅ」

「うん。飲み物いる?」

「いるぅ」

「じゃあ降りたらどっかで買おっか」


 何も出していないのだから大丈夫だとは思いつつも、忘れ物が無いか鞄の中を軽く確認し、電車が到着して座席を立ち、去り際に座席に忘れ物をしていないか軽く見てから電車を降りる。


 はぐれてしまわないように妹の手を握り、乗った時とは比べ物にならないくらいの人の波を掻き分け、混ざり、地下鉄を目指す。


 階段を降り、事前に調べておいた道順を頭に思い浮かべながら周りの人についていくと、すぐに地下鉄への案内表示が見え、そちらへ向かう人の波に乗る。


 改札を出て、途中で見つけた自動販売機でそれぞれ好きな飲み物を買い、今度は地下鉄の乗車券を券売機で購入し、地下鉄の改札を通る。


 中学のコンクールの時も今日と同じルートを使ったため、朧げな記憶はあるが、ただこの辺りの建物の構造に見覚えがあるような気がするという程度で、役立てられる程の物ではない。


 一抹の不安を抱えながらも妹の手を引き、ホームへ降りる。階段を降りて少し行った所にあった時刻表を見て、私たちが乗るべき電車を確認し、地面に描かれている印に従って待機する。


 電車が来るまでの間に、携帯で事前に調べて開いたままにしていたページを開き、本当にこの場所に居て良いのかどうかを確認する。そして少し予定より早いものの、間違わずに正しいルートで来られている事を確認し、ほぅ、と胸を撫で下ろす。


 よく見る銀色の電車が到着し、電車の扉が開くと同時にホームに備え付けられている転落防止用のゲートが開き、中からぞろぞろと人が流れ出てくる。


 がらがらになった車内はホームに並んでいた人たちですぐに一杯になり、私たちが乗った時には既に席は隙間無く埋まってしまっていたため、仕方なく妹を角に追いやるような形で扉の横に立つ。


 人は多いが息苦しさを感じる程ではない。けれども狭い空間にこれだけの人が集まれば冷房などあってないような物で、背中にじんわりと汗が滲んでくる。


 地下鉄は烏丸通りに沿って北に真っ直ぐ進んでいく。人が増えてくる度に帰りたい気持ちが大きくなるのを抑えながら電車に揺られる事十五分。目的の駅に到着し、ホームに出ると、心地良い風が肌を撫でる。


 無意識的に深呼吸をして、妹の手を引いて人の列に混ざり、エスカレーターに乗る。


 道順など全くと言って良い程覚えていないが、あちこちに書かれている案内表示のお蔭で難なく地上に出る事ができた。


 相変わらずの曇天。九州の辺りにいるであろう台風による強風で木々がざわめいている。


 植物園のすぐ横、屋根付きの遊歩道を道なりに進むと、五分と歩かずに見覚えのある大きな広場に出る。


「こっちから入るん初めてやわ」

「お姉ちゃんっていっつもどこから入ってたん?」


 妹に訊かれ、正面に見える池の方を指差す。


「あっち側に楽器を搬入……トラックとか駐めて楽器を運び入れる所があるんやけど、そこに出演者用の出入り口があって、そこからやな」

「へぇー」


 チケット売り場に列ができているが、既にチケットは購入してあるため、私たちはそこには並ばず、そのまま日陰を通って入り口へ向かう。


 エントランスホールには壁沿いに二階へ上がるスロープがあり、中央部には謎の柱が十二本、円を描くように等間隔で配置されていた。


 不思議に思いながらも、美術館のようなスロープを上る。


 京都に来る度に思うが、京都と言えばやはり和のイメージが強いため、こうした洋風のデザインを見ると落胆してしまう。コンサートホールが歌舞伎座のような外観で和風のデザインをされていれば、それはそれでそれぞれのイメージとかけ離れてしまってあまり良くないのだが、やはり京都には古都のイメージを求めてしまう。


「結構人来てはるんやな」

「そうやなぁ」


 それなりに時間に余裕を持って来たつもりだったが、既に入場もできるような時間になってしまっているようだ。


「これって普通の人も来てはるんかなぁ?」

「普通の人って……友達とか家族以外でって事?」

「うん」

「来てはるんちゃう? 人によってはこの学校のファンなんですって人もいるみたいやし」

「そうなんや」

「そうそう。誰でもチケット買ったら入れるしな」


 妹の分のチケットを渡しておいて、入り口に立つ女性にそれを渡すと、パンフレットと一緒にチケットは少し短くなって戻ってくる。


 晴れていればきっと綺麗な景色が見えたであろう広間に出る。何となく見覚えがあるのは中学の時にもここに来ているからなのだろうが、去年の記憶も私はうろ覚えらしい。


 広間にはこの後演奏が終了した学校の演奏が収録されたCDが販売される筈だ。蒼依には申し訳ないのだが、それを買う気はない。


 特に興味を惹かれる物もないので、色々と置かれている物は全てスルーしてホール内へ進む。


 座席は自由席となっており、どこに座っても構わない。音が良く聞こえるのは後ろの方だという話をどこかで聞いた事があるが、それが本当だったとしても私はその判別が付かないため、どうせなら蒼依が良く見えるであろう半分より前の中央付近の座席を選んだ。


「あ、涼音、トイレとか大丈夫やった?」

「うん。大丈夫」

「まぁ、途中で休憩もあるし、行きたかったら言ってや」

「うん」


 蒼依の演奏が終わればすぐに外に出て会いに行きたい所ではあるが、恐らく話している時間はあまり無い。それならもうこのままここで他の学校の演奏を聴いて、後でゆっくりと時間のある時に会って話したい。


 本当なら本番が始まる前に応援ついでに蒼依に会いに行く事も考えたのだが、面倒くさくてやめた。これを蒼依に言うと愛想を尽かされそうなので言うつもりは無い。


 入り口で貰ったパンフレットを開き、どんな学校が何の曲を演奏するのか流し見る。


 私も中学の三年間は吹奏楽をやっていたが、周りの人程熱中していた訳でもなく、今もそれ程興味も無いため、知っている曲もあまり無い。


 今年の課題曲は四つあるらしいが、蒼依が演奏する二番の曲しか知らないし、自由曲の中で知っている曲は三つくらいしかなかった。そしてその知っている三曲の内、聴いた事があるのは二曲だけだ。恐らく私が覚えていないだけで聴いた事のある曲はこの中だけでももとあるのだろうが、記憶に残っていないという事は、恐らく私の好みではなかったのだろう。


 ただ聴くだけというのもなかなか集中力が必要な物で、きっと一時間後には集中力が切れて寝る体勢に入っている自分の姿が想像できる。


 紙の端をくるくると丸めたり折り目を付けたりしながら暇を潰していると、注意喚起のアナウンスが流れる。それに従って携帯の電源を切り、膝に抱えている鞄に仕舞う。


 少しして、見慣れた制服に身を包んだ人たちが舞台裏から現れ、すぐに蒼依の姿も見えた。


「お姉ちゃんの友達どこに居はるん?」

「えっとね……一番奥の左から四番目に座ってはる人かな」

「ふんふん……」


 妹は少し身体を乗り出すようにしてステージ上を見つめる。


 目が合ったりしないだろうかと、淡い期待を込めて蒼依を見つめるが、蒼依は準備を終えると、他の生徒と同じように客席のどこか上の方を見るばかりで、こちらを見る気配は微塵も無かった。もしかしたら目線だけを動かして私の姿を探してくれているのかもしれないが、ここからではそこまで細かい所は見えない。


 全員が入場し、指揮者が何やら合図を出すと、アナウンスで高校名と演奏する曲目、作曲者、指揮者が紹介され、ホール内が静寂に包まれる。


 指揮棒が上がり、奏者が音も無く楽器を構えると、誰かの息遣いが聞こえた瞬間、ホルンの音がホール内に響き渡った。それからトランペット、トロンボーン、クラリネットと、次々に音が重なっていく。


 どこかの勇者を倒しに行くゲームや大河ドラマのオープニングで流れていそうだなぁ、などと安っぽい感想を抱きながら、蒼依の担当楽器であるトランペットの音を中心に聴く。


 蒼依の真剣な表情に見惚れていると、勇ましいメロディーから優雅で美しいメロディーに変わる。華のあるトランペットやトロンボーンから柔らかい音色を持つ木管楽器へメロディーが移り、そこへ徐々に金管楽器が重なっていく事によって盛り上がりを見せる。


 基本的には蒼依を見に来たので蒼依の担当楽器であるトランペットの音を聴いているが、無意識の内に自分が担当していたトロンボーンの音に意識が集中する。


 こうして聴いていると、もう吹奏楽はやらないと言いつつ、また楽器を吹きたい、あの合奏に混ざりたいという気持ちが湧いてくる。けれどもやはりこの演奏の中に自分がついていく自信は無い。


 そんな事を考えている間に、また始めの勇ましいメロディーに戻ってきて、金管楽器の力強い音で一気に盛り上がり、美しいハーモニーを響かせて演奏が終了した。


 続けて始まったのは自由曲。中低音とパーカションによる不穏なメロディーのオープニングが流れる。


 終始暗い雰囲気だが、ほんの少しの間だけフルートによって平和な村のような雰囲気になるが、すぐにまた得体の知れない何かに追われているようなメロディーになる。


 この曲のタイトルにもある『リベラシオン』というのが何語で、どういう意味なのかは知らないが、十中八九良い意味ではないだろう。


 曲はずっと不安を煽るような雰囲気で進み、一瞬何か問題が解決したような顔をしたが、足掻いた結果、バッドエンドを迎えたような、そんな胸に気持ち悪い物が残る終わり方だった。


 しかし演奏自体はプロだと言われても普通に信じてしまいそうな程素晴らしい物だった。そう感じるのと共に、劣等感のような物を感じていた。


 退場していく蒼依は、入ってくる時とは打って変わって、演奏した曲には似合わない、とても晴れやかな笑顔を浮かべていた。


 今すぐ会いに行きたい気持ちを抑え、次の学校の演奏を聴く。


 次に演奏する学校も、全国に何度か出場している高校だが、どちらかというとマーチングの方でよく名前を見かける。記憶が正しければ、テレビによく出ているのはこの高校だった筈だが、あまりその番組を見ないので確証はない。


 どの高校も全く同じ曲を演奏するという訳ではないので、比較するのは難しいが、どこの演奏を聴いても同じような感想を抱く。さすが高校生と言うべきか、明らかに下手だと思う所は一つも無い。


 A組というのは最大五十人編成のため、必ずしもその学校の部員全員が出場している訳ではない。要するに選抜メンバーが出場しているため、下手な訳がないのだ。この中から金賞に選ばれる学校と悔しい思いをする学校があり、更に関西大会に出場する事になる学校もある。


 素人同然の私にはどこの学校も上手く、金銀銅と分けられる程の違いが分からない。違いがあるとすれば全体の音のバランスや曲自体の好みくらいだ。


 これらの演奏を評価して賞を与える審査員の方々に尊敬の念を飛ばして、既に自分が演奏を真面目に聴いていない事に気付く。


 途中十五分の休憩を挟み、八校目の演奏に入っているが、空腹感に気を取られ、昼食はどこで食べようかなどと考え始めてしまっていた。


 客としてやるべき事はあるが、私は目を閉じて、耳に入ってくる演奏をBGMに仮眠を取ろうと試みる。眠たい訳ではない。ただ次の休憩が来るまでの暇潰しだ。良くないという事は分かっているが、このままじっと席に座って聴いているのは苦痛だった。


 こんな事ならホールには入らずモニターで見ているべきだったかもしれない。


 密かに溜め息を吐き、隣に座る妹を見ると、妹はじっとステージの方へ目を向けているが、時折頭が傾き、ある程度まで行くと、鹿威しのように元の姿勢に戻る。


 どうやら相当眠たいらしい。


 肘掛けに置かれている妹の右手に手を重ねると、妹と目が合い、お互いに笑顔を貼り付ける。


 演奏が終了し、次の演奏が始まるまでの間にさっさとホールを抜ける。休憩から帰ってきた時に端の席に座っていたのが幸いし、他の人の邪魔をする事なく簡単に抜け出せた。


 ホールを出た私たちは広間のモニターから聞こえてくる演奏を聴きながら柱に凭れて一息吐く。


「もう十二時過ぎてるけど、お昼どうする? お腹空いてる?」

「んー……ちょっと?」

「じゃあお昼食べに行くか」

「演奏はええの?」

「再入場券貰えるみたいやから、入ろうと思ったらまた入れるし、大丈夫やで」

「そっか」

「うん。食べるなら何がいい?」

「んー……何でもええの?」

「ママからお昼ご飯用にってお金預かってるから、あんまり高くなければ」


 妹が悩んでいる間に、携帯で飲食店を探すために携帯の電源を入れると、蒼依からメッセージが届いていた。


『来てくれてありがとう』


 それから続けて、『真ん中くらいの席に居た?』と送られて来ていた。


「えっ」


 思わず声を漏らすと、妹が携帯を覗き込んでくるので、見やすいように少し傾ける。


「蒼依が私らの事見つけてたっぽい」

「えーすごい」

「ね。見つけられるもんなんやなぁ」


 何と返そうか悩んだ結果、とりあえず労いの言葉だけでも送っておき、思考を自分たちの昼食のメニューに戻す。


「お昼何しよ」

「オムライス」

「好きやねぇほんまに」

「美味しいやん」

「それはそう。どっか近くにあるかなぁ」


 この近くにある洋食屋を検索してみるが、見るからに高そうな所ばかりで、母から貰ったお金では一人分しか頼めそうになかった。


「近くには無さそうやなぁ」

「どうすんの?」

「んー……帰る途中で美味しそうなお店あったらそこで食べよっか」

「友達には会わへんの?」

「多分もう帰ってはると思う。楽器を学校に戻さなアカンやろうし」

「そっか……」


 何故か妹は拗ねたように口を尖らせる。


 理由は分からないが、もしかすると、会いたかったのかもしれない。普段連絡を取り合っている訳でもなければ、そんなに悲しむ程仲の良い関係でもなかったと記憶しているのだが、私の知らない間に何かあったのだろうか。


「まぁ、またその内遊びに来はるし」

「うん」


 その後私たちは電車に乗って京都駅に戻るために地下鉄に乗ったのだが、その時に蒼依から『今どこに居るの?』とメッセージが送られてきて、正直に現在地を教えると、『お昼に話そうって言ってなかった?』と、怒りの感情が滲み出るメッセージが届き、そこで漸く私は思い出す。


 うちの高校の吹奏楽部は人数が多いため、今回コンクールに出場したメンバーはオーディションに合格した選抜メンバーで、コンクールに出場しないメンバーも手伝いには来ていたらしく、楽器の運搬もその人たちの役目だ。


 という話を数日前に蒼依から聞いていた。何ならこのメッセージ欄を遡ればそのメッセージが見つかるだろう。


『ごめん』


 私はひたすら謝りながらも、引き返そうという考えは全く浮かばなかった。


 当然蒼依は拗ねてしまい、その後発表された金賞受賞を精一杯褒めても、夜に携帯越しに聞こえてきた声は不満の色で染まりきっていた。


 よく考えると私も今日は化粧をして髪も編み込んだというのに、それを蒼依に見せる事なく帰ってしまったのは大変勿体無い事をした。


 それを伝えると蒼依は更に不満を積もらせてしまったようで、次のデートで私がお仕置きされる事が決定した。

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