第18話 8月5日
朝は比較的涼しいからといって、ジリジリジリジリと蝉が懸命に鳴いている。朝起きたばかりの頃には聞こえていた筈の小鳥たちの美しい声は、彼らの半分もない大きさの餌の鳴き声に掻き消されてしまっている。
一番近くにいる蝉はここに居るのだろうな、と木を下から覗き込んでみるが、木と同じような色をしているであろう蝉を見つける事はできなかった。
さらさらと葉擦れの音を立て、優しい風が私の髪を揺らす。
携帯を開いて時間を確認する。
集合時間の十五分前。いつも通りと言えばいつも通りだが、今日ばかりはもう少し遅くても良かったかもしれない。
そう後悔し始めた頃、バスロータリーの向こうに、先週見たばかりの顔が見えた。
先週とは違って長い髪を後ろで団子にして纏めている彼女が顔を上げて私を見る。目が合い、胸の前で小さく手を振ると、彼女は日傘の下で怠そうに手を振り返してくれた。
「おはよう。先週振りやな」
「うん。おはよう。知香はまだ?」
蝉の声に負けないようにと、自然に声が大きくなる。
「うん。私は見てへんで」
「久々に集まっても集合する順番は変わらんねやなぁ」
里菜は日傘を閉じて隣に並び、遠い過去の事を懐かしむように言った。
「久々って言っても半年くらいやけどな」
冗談めかして言うと、里菜は眉間に皺を寄せて睨んでくる。
「半年は充分久々やろ。紅音と全然連絡取れへんから結構寂しかってんで?」
「ごめんて。私も寂しかったんやけど、……面倒臭くて」
笑って誤魔化そうとしたが、思い当たった理由があまりに酷くてつい目を逸らす。
「まぁそうやろうなぁとは思ってたけどな。家は知ってるやろうけど、近くはないし」
「そうなんよねぇ。予め里菜にメールアドレスか電話番号でも教えてもらっといたら良かったわ」
「ほんまやなぁ。全然その発想無かったわ」
里菜は呆れたように溜め息を吐き、ハンカチで汗を拭った。
少しの間蝉の声に耳を傾けていると、不意に里菜が「あっ」と声を上げた。地面のタイルを眺めていた私は顔を上げて里菜の方を見ると、里菜は先程が来たバスロータリーの方を指差していた。
「あれそうちゃう?」
里菜の指し示す方向を見ると、こんなにも暑い中、満面の笑みを浮かべて小走りで向かってくる人物がいた。
「紅音―!」
まだ少し距離があるにも拘わらず、知香の高く明るい声ははっきりと聞き取れた。
知香のように大声を出す元気はまだないので、代わりに手を振る事で返事をする。何となく、ちょっとした冗談のつもりで手を広げてやると、知香は勢いそのままに飛びついてきて、咄嗟に一歩二歩と後ろに足を出す事で何とか受け止めるが、知香の被っていた帽子の鍔が頬を掠めた。
「ちょっ、危ないやろ!」
「久しぶり!」
知香が私の肩を掴んで身体を起こすと、配慮の欠片もない大きな声をぶつけてきて、私は思わず殴られたように顔を仰け反らせる。
「知香おはよー」
「おはよー。里菜は昨日振りやなぁ」
「ちょっと。暑いから離れて」
軽く息を切らし、暢気に里菜と挨拶を交わす知香の細い腕を掴んで引き剥がすと、知香は不満そうに口を尖らせる。
「えー、手ぇ広げたん紅音やん」
「まさかほんまに来るとは思わへんやん」
「久々の再会で手ぇ広げられたら飛び付かなアカンやろ。あ、おはよう」
「あぁ……うん。おはよ」
私から離れた知香は息を整え、前髪のヘアピンを留め直した。
「よし、じゃあ行こっか!」
「時間大丈夫そう?」
「多分。丁度良いくらいちゃう?」
知香が先陣を切って歩き出し、里菜と私がそれに続く。
「そういえば何で外で待ってたん? 暑いんやから中で待っててくれたら良かったのに」
隣を歩く里菜が汗を拭いながら訊ねてくる。
「いや、風吹いてたから、外にいる方が涼しいかなぁって。日陰もあったしな」
「あぁ、なるほどなぁ」
「その代わりに蝉が煩かったけどな」
「それはしゃあない」
定期券を改札口に翳し、ホームに下りると、停車している電車の扉の横に付いているボタンを押して扉を開け、冷房の利いた車内に乗り込む。冷房を逃がさないように扉を閉め、固まって座れる座席に座り、まるで湯船に浸かっている時のように、ほう、と息を吐く。
「涼しー……」
隣に座る里菜が目を瞑って天井を仰ぐ。
程良く涼しい空気に身体の力が抜けて、思わず欠伸が出そうになり、咄嗟に口を手で覆って隠しつつ欠伸を噛み殺す。そんな私を見ていたらしい里菜が釣られて欠伸をした。
「電車で待ってれば良かったわ」
電車が駅に着いたのは里菜が来るほんの少し前だったが、里菜が来てからでも乗っていれば無駄に暑い思いをせずに済んでいただろう。最悪知香が乗り遅れていた可能性もあるが、その時はその時だ。時間通りに来ていた私たちには関係無い。
「知香がもうちょっと早よ来てくれてたらなぁ」
里菜が窓台に頬杖を突き、嫌味ったらしく言った。
「いやいや、別に私遅刻してへんやろ?」
「そうやけど……ねぇ?」
「ねー」
よく分からないままに同調しておく。
「最後走ったのに……」
「それは知香が勝手に走っただけやろ?」
俯き気味に睨んでくる知香を軽くあしらうと、知香は両手で顔を覆い、ぐすん、とわざとらしく泣き真似をする。
「里菜に走れって言われたから……」
「まさか里菜がそんな事を言うなんて……」
知香の冗談に乗っかって隣の里菜を見る。
「そんな事一言も言ってへんし」
「走らなぶん殴るってメッセージで脅されて仕方なく……」
「里菜酷ーい」
「その割には随分と笑顔で走っとったけどなぁ」
「私は演技派やからな」
「あれ演技やったんや……。久々に会えて嬉しかったのに……」
今度は私が俯いて落ち込む振りをする。
「いやいや、私も嬉しかったで?」
「でも嘘やったんやろ?」
「知香、騙してたん?」
「あれ? 標的が私に変わってる……?」
「よくも騙しやがったな……。この嘘吐きめ」
「詐欺師」
私も里菜もにやにやと笑いながら知香を責め立てる。
「そこまで言わんでよくない?」
「半年も連絡を断ってた人はそれくらい言われて当然やろ」
「それは紅音やろ!」
「ちょっと、電車の中やで?」
「静かにしぃや」
里菜が目を細めて注意し、私もそれに便乗する。
「私が責められてんのおかしくない?」
「他の人も乗ってるんやから静かにしな」
「それはそうやけども」
周りから見ると何も面白くないであろう下らないやり取りを交わしていると、ギシギシと錆び付いた歯車が回るような怪しげな音を発しながら電車がゆっくりと動き出す。
「そういえば今日はどこのカラオケ行く?」
ふと疑問に思い、二人に訊ねる。
「いつものとこでええんちゃうの?」
里菜が答え、知香が頷く。
「結局あそこが一番近いしなぁ」
いつもの所というのはつまり、私たちが中学生の頃からよく行っている奈良のカラオケ店だ。
何故わざわざ他県の店に行くのかと訊かれれば、それは先程知香が言ったように、一番近いからだ。更に言えばそこが一番行きやすいというのもある。他にカラオケ店もあるにはあるが、バーに併設されているようなものであったり、駅から遠かったりと、学生の私たちでは少し行きづらい。
「うちの近所にも出来てくれたらええのにな」
知香が溜め息混じりに愚痴を漏らす。
「作っても人来ぉへんやろ」
「いやいや、高校あるんやし行く人絶対居るって」
里菜の自虐的な指摘に知香が反論する。しかし残念ながら私は里菜の考えに賛成だ。
「言うて高校もそんなに人居らんのちゃうの?」
「失礼な。ちゃんと千人近く居るし」
「何クラスあんの?」
「確か六組まで……やんな?」
「うん」
知香が里菜の方を見て確認すると、里菜が頷いた。
「びみょー……」
私の通っている学校は一クラス三十七、八人の一学年八クラス。それでようやく九百人に届くかどうかというくらいだ。つまり一学年六クラスだという知香と里菜の通う学校は一クラス五十人は居なければ到底千人近いとは言えない。
「絶対千人も居らんやん」
「いや、確かにちょっと盛ったけど、ちゃんと他の高校と同じくらいは居るって。少なくとも私らが通ってた中学よりは多いで」
「そらそうやろ」
「うちは小学校が潰れるレベルで人居らんからなぁ」
「いつの話やねん」
里菜に突っ込まれ、いつの話だったか記憶の片隅から引っ張り出してくる。
「私らが二歳か三歳くらいの時?」
「そんな物心付く前の話知らんわ」
「まぁでも私らの時もそれくらい少なかったもんなぁ」
「隣の小学校とか一クラス十人くらいやったって聞いてびっくりしたもんな」
「そうそう。中学生になって人の多さに興奮してたら自分らよりもっと少ないとこがあったっていうね」
思い出話に花を咲かせている間に、普段なら乗り換えのために降りている駅に電車が到着した。
ここから奈良へ行くためにはこのままこの電車に乗っていれば良いのだが、長らく利用していなかったからか、降りなければならないような、乗り換えをしない事に不安を覚える。
「いっつもここで降りてるから新鮮やわぁ」
ぞろぞろと乗り込んでくる乗客をぼんやりと眺めながら呟くと、里菜が含み笑いをしながら頷いた。
「分かる。私らもここで降りてるから今も降りそうになったもん」
「このまま乗っとったらええんやんな?」
「うん。その筈やで」
鉄の扉が閉まり、蝉の声が聞こえなくなる。
車内の人が増えると何となく話しづらく感じて、私も二人も黙って窓の外を眺める。時折暇を持て余した知香が私の足を自分の足で挟んできたり、指で膝を突いてきたりして、擽ったいからやめてと口パクをしながら睨み付けると、今度は横から頬をそこそこの強さで突かれる。
「何?」
私が控えめの声量で問うと、里菜は先程までと変わらない声で言う。
「え、二人のいちゃいちゃを邪魔しようと思って」
「地味に痛かってんけど」
「あ、それはごめん」
にやにやと笑いながら謝る里菜に、仕返しとして踵で足を軽く踏ん付けてやると、里菜の笑顔が一瞬崩れ、私はそれを鼻で笑ってやった。
そうこうしている間に電車は奈良に着き、私たちは人の波に乗って降りる。
県の名を持つ駅というだけあって駅自体とても大きく、たくさんの利用客が歩き回っていても然程窮屈に感じない。柱や天井に見える鮮やかな木が京都駅よりも更に和の色が強く、都会らしさもありながらどこか落ち着く雰囲気がある。
エスカレーターを降りて駅の外、バスターミナルに出ると一気に都会感が増した。
「都会だぁ」
「何かめっちゃ久々に来た気がする」
「ね。卒業前にも一回来てるんやけどねぇ」
日陰に沿って歩き、駅前のコンビニでそれぞれ昼食に食べる物を買い、奈良駅の旧駅舎前の交差点を渡って、車道よりも歩道の幅が広い不思議な道へ入る。
通りの名前は三条通り。京都ならば嵐山の渡月橋に繋がる大きな通りで、ここ奈良の三条通りも春日大社へと繋がる通りなのだが、車道が狭い所為もあってか、あまり重要そうな道には見えない。
一つ隣にある東大寺へ繋がる二条通りという大きな道がある所為で余計に小さく見えているような気がしないでもない。
歴史的価値がどうとかは私には分からない。歴史なんてそれほど興味も無いし、苦手中の苦手だ。そんな私にそんな事が分かる訳が無い。
美味しそうな料理の誘惑に抗って通りを進むとすぐに目的の店が見えた。
「空いてるかなぁ」
「さすがに空いてるやろ」
既に開店時間は過ぎていて、どれだけの人が入っているのか分からないが、夏休みの土曜日という通常よりも値段が高くなっている日にわざわざ来ようという物好きは少ないだろう。それこそ私たちのように土曜日にしか集まれなかったという人たちくらいだろう。
幸い店に入った時には列はできておらず、すぐに受付をする事ができそうだった。
「フリータイムの……ドリンクバー付きで……」
今日を一番楽しみにしていたらしい知香が率先して機械のタッチパネルを操作し、料金プランを決めていく。
「別にええけど、何も話し合わずに進めるやん」
「えっ、どうせいつも一緒やん」
「まぁな」
言っている間に機械からレシートのような、部屋番号の書かれた紙が出てきて、知香がそれを回収する。
「部屋どこ?」
「二一五。二階の左奥かな?」
番号だけ訊ねたつもりが、何故かその部屋の位置まで教えてくれた。
「そうなん?」
「確かその筈」
「……もしかして何回も来てる?」
訊きながら階段を上る。ちらっと視線を後ろにやると、里菜もちゃんと後ろから付いてきていた。
「うん。何なら期末テスト期間中も来たで」
知香が自慢気に答える。
「一人で?」
軽い冗談のつもりで訊くと、知香の大きな目が細められ、私を睨み付ける。
「ヒトカラの何が悪いねん」
「あ、ほんまに一人やったんや」
「誘ってくれたら行くのに」
「いや、里菜は部活やってるし、バイトしてへんやん」
「あぁ、そういう事?」
どうやら知香はアルバイトをしている人しか誘う気がないらしい。確かに学割があるとは言え、カラオケも無料ではないし、何度も何度もカラオケに行っているとあっという間にお金が無くなってしまう。知香はそれを分かっているからこそ、アルバイトをしていない里菜や他の友人を誘わないのだろう。とは言え月に一度かテスト期間中などの時間がある時に少し行くくらいならアルバイトをしていなくても大体の人は問題無いように思うのだが。
「知香って友達居るやんな?」
知香と同じ学校に通っている里菜に近付き、わざとらしく内緒話をするかのように口元を手で隠して訊ねると、里菜も同じようにして、ちらちらと知香の方を見ながら答える。
「うん。イマジナリーフレンドでは無い筈」
「虐められてたりとか?」
「弄られてはいるけど、虐められてはないと思う。本人も自分から弄られに行ってるし」
「聞こえとるからな?」
知香が扉を開けながらこちらに顔を向けて目を細めていた。
私は部屋の前で立ち止まり、知香の名前を呼ぶ。
「知香」
「何?」
「私らは友達やからな」
「……」
「あぁちょっと、閉めんといてよぉ」
知香が部屋の扉を閉めようとするのを慌てて体当たりをするように身体を押しつけて阻止する。
部屋に入り、コの字型になっている座席の奥に座る。最後に入ってきた里菜が壁に掛けられていたパネルを操作してエアコンを付けてくれる。
「部屋の温度何度が良い?」
「今なんぼになってんの?」
「二十七」
「二十五にしよう」
「おっけー」
「えー、そのまんまでええやん」
私と里菜の意見に反対を出したのは、今日一番薄着をしている寒がりの知香だった。
「寒かったら上げたらええやん」
「そうそう。始めだけやって」
「なんか今日二人とも私に厳しくない?」
「気のせい気のせい。ほら、いつも通りトップバッターお願いしますよ」
不満そうな知香を無視して温度設定を二十五度にした里菜は、マイクと曲を選ぶためのタッチパネルを知香の方に向けて押しやる。
「まぁええけど」
知香が溜め息を吐きつつ慣れた様子でタッチパネルを操作し、一分待たずにテレビの画面が切り替わり、スピーカーから聴き馴染みのある曲が流れ始めた。
知香はその小柄な見た目と小動物のような仕草からは想像が付かないような曲を好んでいて、歌い方も知香が好きだというロック歌手のようなかっこいい歌い方をする。普段は明るく女の子らしい声をしているが、歌う時になるとまた見た目からは想像の付かない太く力強い歌声がその華奢な身体から出てきて、知香の歌う曲とも相性が良い。
今流れている曲はその歌手の代表的な曲だ。男性歌手の曲ではあるが、女性である私からしても高く感じるくらいに高く、男性歌手であるが故に音域が広いため、上もきつければ下もきついという素人には難しい曲だ。
それをいとも簡単そうに歌い上げる知香はやはり上手い。だからこそいつもトップバッターを任せているのだが、この後に歌うのもなかなかに緊張する。私自身歌う事自体はとても好きで、自分でもそれなりに上手いとは思っているが、それとこれとは別の話だ。
他人が歌っている間何をすればいいのか分からず、知香が歌うのに合わせて小さく口遊みながら曲を選ぶ。
トップバッターではないが、自分が歌う一発目の曲というのもなかなかに悩み所だ。
知香は私たちの中では定番となった曲を歌い、里菜は恐らく定番のアニメソングを歌うだろう。別に気にせず歌えば良いのだが、何となく流れのような物に乗っておきたい。
知香の歌う曲がラスサビに入り、私はホーム画面に戻ってランキングを見る。これでいいか、とその中から私が知っている曲且つ二人も知っているであろう曲を選ぶ。
テレビの画面上の端に私が入れた曲のタイトルが表示され、ちゃんと入れられた事を確認し、里菜にタッチパネルを渡す。
知香が歌い終わり、後奏が流れている最中にマイクを渡される。曲が終わったタイミングでマイクを握った左手の甲と右手の平でパチパチと拍手をしつつ、見事に歌い上げた知香を褒め称える。
テレビの画面が切り替わり、テクニックや抑揚などのグラフと共に九十二点というさすがとしか言いようがない点数が表示される。
「普通に九十点越えるやん」
「これが学校のテストでも出せたらええのにな」
あからさまに知香を馬鹿にするような口振りで里菜が冗談を言った。
「里菜は要らん事言わんでええねん」
「テスト期間中もカラオケ来てるから当たり前やろ」
「あぁほらもう……紅音まで褒めてくれへんようになったやんか」
「知香ちゃんてんさーい」
「棒読みやめろ」
相も変わらず言い争いをする二人を余所に私の入れた曲が始まる。
私が入れたのは最近流行っているボーカロイドの曲だ。ボーカロイドというジャンルの曲は人間がパソコンを使って機械に歌わせているため、常人には歌えないような曲も少なくないのだが、中にはちゃんと常識的な範囲内に収まる曲もある。寧ろカラオケのランキングに載っているのはそう言った曲の方が多い。
ただ流行の曲というだけで入れたため、曖昧な部分も多いが、画面に映る音程グラフを頼りに歌う。曲が進むに連れて段々と声の調子が上がってきて、声量も上がる。
無事に歌い終えると、画面には八十七点という微妙な点数が表示された。
「よし、打倒知香やな」
「仇を討ってくれ」
「はっ、やれるもんならやってみろや」
そうして里菜が歌い出したのはやはり定番のアニメソング。恐らくアニメを見ないという人でも一度は聴いた事があるだろうというくらいには有名で、カラオケに来ればこれを入れなければならないという謎の義務感すらある。
知香が力強くかっこいい歌声で、私が明るく可愛い歌声だとするならば、里菜は綺麗で澄んだ歌声だ。裏声中心に歌っているようだが、運動部に所属しているのが関係しているのか、声量が無い訳でもない。音程も安定していて、聴き心地が抜群に良い。曲の雰囲気が随分と優しくなっている事には気にしない事にする。
ふと蒼依の事が頭に浮かんだ。
蒼依とカラオケに行った事はまだないが、音楽の授業で何度も聴いた事がある。蒼依はあまり歌に自信がないらしいが、音痴の人に怒られそうなくらいには上手かった。歌声はハスキーな低音がとても印象的だった。少なくとも私の好みのど真ん中である事には間違いなかった。
いつか蒼依ともカラオケに来ようと頷いている内に里菜の歌が終わり、里菜はテーブルにそっとマイクを置いた。
「似合わんなぁ」
私が思っていたが口にはしなかった事を知香が躊躇無く口に出した。
「私も歌ってて思ったわ」
「どっちかと言えば知香に似合いそうやもんな」
画面が切り替わり、九十という数字が表示された。
「うわっ、負けたし」
「二人とも上手過ぎん?」
「言うて紅音もめっちゃ上手いやん」
知香がフォローしてくれるが、そういうつもりで言った訳ではなかったため、何と言って良いか分からなくなる。
「とりあえず飲み物入れに行かん? 喉渇いた」
里菜がコップを持って立ち上がる。何故かその手には私の分のコップもあった。
「そういえば入れてへんかったな」
「ついでにお昼食べるかぁ」
「そうやね」
「紅音何飲む?」
「あ、入れてきてくれんの?」
「うん。代わりに荷物見といて」
「了解。飲み物は里菜に任せるわ」
「任せろ」
「お前には言ってへんやろ」
「じゃあ行ってくるわ」
「はぁい」
二人が部屋から退出し、部屋から音が無くなったような錯覚を起こす。テレビにはカラオケの宣伝映像が流れており、耳を澄ますと他の部屋からも見知らぬ誰かが歌っている音が聞こえてくるのだが、私一人だけになったこの部屋には妙な静けさがあった。
鞄から来る途中に買ったコンビニの袋を取り出し、二人が来るまでの間に携帯で蒼依にメッセージを送ると、部屋の扉が勢いよく開かれる。
「ただいまぁ」
「おかえりぃ。里菜ありがとー」
携帯をテーブルに置き、里菜から薄い緑色の液体が入ったコップを受け取る。
「どういたしまして」
里菜が隣に座り、鞄を入り口の方へ移動させて私の方へ身体を寄せた。
「何か変な物入れた?」
「知香が入れようとはしてたけど阻止した」
「ナイス。因みにこれは何?」
「なんかマスカットのやつ。マスカット好きやったやんな?」
「うん。ありがと」
マスカットのジュースを一口飲み、コンビニ弁当の蓋を開け、割り箸を机に突き立てて袋から取り出す。
割り箸が綺麗に割れなかった事に舌打ちをすると、里菜がくすりと笑った。
「そういえば紅音」
おにぎり二つをさっさと食べ終わって暇になってしまったらしく、知香も私の方へ身体を寄せてくる。
「何?」
「彼女居るんやんな?」
「うん」
いきなりどうしたのかと、知香の次の言葉を待つ。
「付き合ったきっかけって何なん?」
「あ、私も聞きたいかも」
里菜が手で口を覆い、サンドイッチで頬を膨らませながら言った。
「何で?」
「いや、だって中学の時は恋愛なんて知りませーんって感じやったやん? それやのに高校生になって半年も経たずに恋人できたー、なんて言われたら気になるやろ」
「うーん……確かに……?」
何となく、自分が里菜の立場にいたとしたら、同じように根掘り葉掘り聞こうとするような気がして、否定できなかった。
「んで、きっかけは? 告白はどっちからやったん?」
目を輝かせながら知香が急かしてくる。
「きっかけ……は分からんけど、向こうから告白してきた……かな」
「やっぱり迷ったん?」
「何を?」
「普通は男女で付き合うもんやん?」
「あぁ、そういう事ね。それやったら迷ってへん……あれ、迷ったっけ? 多分そんなに迷ってへん……というかその、告白された時に別の人からも告白されてたんよね」
「えっ、そうなん?」
ステレオのスピーカーのように、知香と里菜の声が同時に聞こえた。
「相手は男子? 女子?」
「男子。クラスの仲の良い人やってんけど、何か急に告白されて、好きかどうか分からん状態で付き合いたくなかったから一旦保留にさせてもらって、その悩み相談を蒼依にしたら告白されて、そのまま付き合う事になった」
「えぇー、その男子可哀想やなぁ」
知香は嬉しそうに笑いながら言った。
「その……蒼依ちゃん? とはすぐ付き合ったって事は、紅音も前から蒼依ちゃんの事が好きやったって事?」
「あ、名前言うてなかったっけ?」
「うん。さっき初めて聞いた気がする」
「そっか。ごめん。まぁ、蒼依って言うんやけど、多分、私も前から好きやったん……かな? 分からん」
「でもすぐ付き合ったんやからそういう事やろ」
「そうなんかなぁ。なんで付き合い始めたんやっけ……?」
私がそう呟くと、里菜の目が細められる。
「それ忘れんのやばない?」
「あ、じゃあ紅音はその彼女のどこが好きなん?」
「好きなとこ?」
知香の問いに私は首を傾げて蒼依の事を思い浮かべる。そして真っ先に思い浮かんだ物をそのまま口にする。
「……声?」
「声?」
知香の頭が傾く。
「あと可愛くてかっこいい」
「どういう事?」
知香の頭が更に傾いた。
「写真とかないの?」
「写真はないなぁ」
「そう言うて見せたくないだけちゃうの?」
「うん」
「わぁ正直者」
「大丈夫やって。私は彼氏居るし、知香は……この前別れたとこやし」
何かを察した里菜がそう言うと、知香がテーブルに肘を突いて頭を抱えだした。
「あれ? 何か急に心が痛くなってきたな」
「知香って彼氏居ったんや……」
「そうやで。私らに隠れて付き合って密かに振られてはってん」
里菜が知香に哀れみの視線を向けると、知香が突然マイクを持って立ち上がった。
「よーし、歌うぞー!」
「私らまだ食べ終わってへんねんけど」
「ごゆっくりどうぞー!」
知香の大声がマイクを通して部屋を埋め尽くし、反響して消えていく。
知香はほんの数秒で選曲し、一曲目よりも更に激しい曲を歌い出した。自棄になっているように見せかけて、その癖ちゃんと上手いのが腹立たしい。
「高音伸びるねぇ」
「さすが週一回でカラオケ来てるだけあるわ」
「あ、そんなに来てんねや」
「うん。この前言うとったし」
「歌手とか目指したいよねぇ」
曲が間奏に入り、知香が会話に割り込んでくる。
「歌手目指してんの?」
「歌手というか、配信者というか」
「もしかしてブイチューバー?」
「それもありよねぇ」
二番が始まり、知香の歌を聴きながら里菜と話を続ける。
「知香もそういうなん考えてるんやなぁ。里菜は何かそういうのある?」
「私は別に今のところ何も考えてへんかなぁ」
「良かった、仲間が居った」
「みんな意外とちゃんと考えてて焦るよなぁ」
「ね。ほんまに。私も全然考えてへんかったからびっくりしたわ」
同年代の人たちか自分よりも歳下の人たちが明確な目標を持っているのだと知る度に、何も考えずに生きている自分が情けなくなる。私の知っている人がたまたましっかりした人が多いというだけなのかもしれないが、それでもやはり置いてけぼりにされてしまったような、そんな不安が胸に積もっていく。
「先生も進路考えとけって言うけど、やりたい事とか無くない?」
「うん。とりあえず大学行って公務員でも目指すかぁみたいな感じやわ」
「そうそう。子ども好きやし保育士とかええなぁって思うけど、大変やって話もいっぱい聞くしさぁ」
里菜は不満を垂れ流しながら食べ終えたサンドイッチの袋を勝手に開かないようにして小さく畳み、知香と同じようにコンビニ袋に入れる。
「事故がどうとかって話も多いもんな」
「そうなんよぉ。あれ気ぃ付けてても絶対自分もやる気がして……保育士止めとこうかなぁって」
私は弁当の最後の一口を口に放り込み、咀嚼しながら里菜の話に相槌を打つ。
「二人して何を真面目な話してんの?」
まだ曲は流れているが、歌う部分は終わったらしく、知香はマイクを置いてまた私の方へ身体を寄せて座った。
「いやぁ、知香はすごいなって」
割り箸を圧し折りながら適当に答える。
「いやいや、ちょっと聞いてたけど私の話なんかしてへんかったやん」
「いやでもきっかけは知香やからな。歌手目指してんねやろ?」
半分に折れた割り箸を箱に乗せ、下に引っ繰り返して重ねていた透明な蓋を閉め、コンビニ袋に詰め込む。
「そうやね。今はアルバイトでお金稼いで、ネット活動とかしつつどっかオーディション受けたりとかして、あわよくばって感じ。結構ふわっとしとるで」
マスカットのジュースで口直しをして、ほう、と一息吐く。
「アルバイトしてるんも偉いよなぁ」
「あれ、紅音ってアルバイトしてへんの?」
携帯で何かをしていた里菜が訊ねてくる。
「うん」
「部活は?」
「入ってない。遠いし」
「あぁ、そっか。学校が遠いからそんなに時間が無いんか」
知香がテーブルに頬杖を突いて何かを考えるような仕草をする。
「うん。まぁ、作ろうと思えば作れるんやけどね。夏休み中もバイトしようかなぁって考えてたし」
「あ、それやったらうち来る? 確かバイト募集してたと思うで」
知香が良い事を思い付いたと言わんばかりにテーブルに左手を叩き下ろし、バン、と重い音が響いた。
「バイトって何してんの?」
「薬局。私らが通ってる高校の近くやから、紅音も行けなくはないと思うんやけど」
「そこって短期で行けるん?」
「あ、短期は無理かも」
「ですよねぇ」
「普通にやったらアカンの?」
「アカン訳じゃないけど、単純に勉強する時間が減るのが痛い」
「なるほどねぇ……」
「紅音の学校ってやっぱり授業進むの早かったりするん?」
里菜がいつの間にかマイクを持って曲も入れ、歌う準備をしていた。
「いや、今のところ私でもついて行けてるし、他とそんなに変わらんのちゃう? というかいつの間に曲入れてたん」
「いや、歌いたいなぁって」
言いながら画面の方を向いてマイクを構える。
「それはそう。いつの間にこんな真面目な話になったん?」
「知香がミュージシャンになるとか言うから」
「何か違う気がするけど間違ってはないな」
「じゃあ知香の所為やな」
「広げたんは絶対二人の方やろ」
「あ、ごめんね。歌始まるから」
最早恒例行事となった知香弄りをして、里菜がまたアニメの曲を歌う。
里菜が歌っている間に今度は私が曲を入れ、里菜が歌い終わるまでに知香がもう一曲入れた。
そこからは殆ど休み無しに曲が流れ続け、時折デュエット曲も挟みながら他の人が歌っている間にお手洗いに行ったり飲み物をおかわりしたりして、あっという間に時間は過ぎていった。
時間終了を報せる電話が鳴り響き、近くに座っていた里菜の肩が跳ねた。二つほど咳払いをして、里菜が余所行きの声で電話に出る。
「十分前ですって」
「切りもええしもう終わるかぁ」
「そうね」
五時間ほど交代で歌い続けた私たちの声は少し枯れてしまっていたが、皆それぞれすっきりした表情をしていた。
部屋を片付け、忘れ物が無いかをしっかりと三人で確認し、部屋を退出する。受付カウンターの横に置かれていた機械で会計を済まし、外に出て腕を空に向かって伸ばし、凝り固まった身体を解す。
「曇ってるけど、全然明るいなぁ」
「ほんまに」
「いやぁ、夏だねぇ」
私たち三人が黙ると、どこかから蝉の声が聞こえてくる。
「どうしよ、何か食べて帰る?」
「いや、暑いしええわ」
「暑いからアイス、じゃないんや」
「アイスよりお茶と冷房」
「じゃあ帰るかぁ」
長時間歌い続けた疲労と外気の暑さにぐったりとしながら駅まで歩き、改札を通ってホームのベンチに腰掛ける。
里菜が欠伸をすると、私と知香がそれに釣られて欠伸をして、三人で笑い合う。
「仲良しかよ」
「眠いんやからしゃあない」
そう言いながら私はまた一つ欠伸をした。
「久々にこんな歌ったわ」
「知香はいっつも来てるんちゃうの?」
「さすがに一人で七時間も歌おうとは思わんわ。三人で来てこんなに声枯れてんのに」
「紅音は明日風邪引いてそう」
「いつものやつね。ちゃんと喉のケアしてから寝ぇや」
「めんどい」
「だから風邪引くんやろ」
「どうせ夏休みやし」
「紅音が明日風邪を引くに一票」
「私も」
「引きませーん」
フラグという物はしっかりと立てられていたようで、私は翌日から熱に苦しまされる事になった。
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