第17話 7月29日

 街中の喧騒よりも騒がしいラジオのノイズのような蝉の大合唱に起こされ、眠い目を擦りながら一階に下りて顔を洗い、興味の無いスポーツや芸能のニュースを聞き流しながら朝食を食べる。


 夏休みだという事以外何も変わらない土曜日。時間に余裕があり、怠惰になってしまいそうな心を、部活に向かう蒼依との会話で何とか奮い立たせる。


 自分の部屋に籠もっていつもと同じように課題をやろうかと思ったが、どうにもやる気になれず、本来なら通学時間に読む予定だった小説を手に取り、栞が挟まっているページを開く。しかし暑さの所為か、煩い蝉の所為か、書いてある文字が殆ど頭に入って来ない。


 溜め息を吐き、栞を元の場所に戻して本を置き、やはりいつも通り課題をやろうとペンケースからシャーペンを取り出して、形だけでも課題に取り掛かる。


 頬杖を突きながら文字を眺めていると、コンコン、と突然扉がノックされ、肩がびくりと跳ねる。不機嫌気味に返事をすると、風も起きない程にゆっくりと開かれた扉から母が顔を覗かせた。


「ちょっと出掛けませんか?」


 何となく分かっていた事だが、唐突な母からの誘いに私は顔を顰める。


「……どこ行くん?」


 まだ何も書かれていないプリントから目を背け、両肘をテーブルに突き、シャーペンを両手でくるくると回しながら訊ねた。


「いつものとこやねんけど、どうかなぁって」


 いつものとこ、というのは恐らく休日によく両親が妹を連れて行っているショッピングセンターの事だろう。住宅街の端にあるそれは、この辺りでは一番大きな建物で、田舎ならではの有り余る土地の自然を代償に生まれた大きな物だ。近くに大きな公園もいくつかあり、暇潰しに出掛けるにはもってこいの場所だ。


「ずっと勉強してても疲れるやろ?」

「うぅん……」


 頬杖を突いて、唇を甘く噛み、芯の出ていないシャーペンの先をプリントの空白に円を描くように擦り付けながら唸る。


「お昼もそこで食べようかなぁって思ってるんやけど」


 少し遠慮がちにそう言う母に良心が痛み、私は手を止めて小さく口を開く。


「……何時に出んの?」

「お昼ご飯も食べるから、用意が出来たら行こか」

「ん」


 頷き、短く返事をすると、母はまたゆっくりと音を立てずに扉を閉じて階段を下りて行った。


 私は溜め息を吐きながらベッドを支えにして立ち上がり、パジャマを上下共脱ぎ捨ててクローゼットの右端にあったフレアブラウスを手に取る。袖に腕を通し、首を曲げて顔を出す。仕上げに軽く裾を引っ張って整え、それからクローゼットから何となく目に付いたスカートを引っ張り出して、姿見の前で軽く合わせてからそれを穿く。


 ただ家族とショッピングに行くだけ。そのために何を着て行こうかと悩むなんて事はしたくないし、わざわざ時間を掛けて化粧をしようとも思わない。たまには化粧をしないと下手になってしまいそうだが、今日は肌荒れしている様子もないため、リップクリームだけで済ませておく。アルバイトもしていないただの高校生にとって化粧品は安くない。気合いを入れたい時にやるくらいで丁度良い。


 靴下も箪笥から適当な物を選び、携帯とポーチをいつも出掛ける時に使っている鞄に放り込み、洗濯物と一緒に持って部屋を出る。


 一階に降り、いつでも出られる状態でそれぞれの定位置に座って寛いでいる三人に声を掛ける。


「行けるよー」

「よし。じゃあ行こか」


 父は気合いを入れるように勢いよく立ち上がり、テーブルの上に置かれていた物がガタガタと音を立てた。それに釣られるようにして妹と母も立ち上がり、テレビと扇風機を消し、窓を閉めて玄関に向かう。


「因みに何しに行くん?」


 通りがけに洗濯物を出し、母に訊ねた。


「お昼ご飯食べるのと、何か適当に見て回ろうかなぁって」

「何か欲しい物があるとかそういうなんちゃうんや」

「紅音は何か欲しい物ある?」

「いや、別に」


 素っ気なく返事をしつつ、指をシューズに引っ掛けて踵を入れ、仕上げにトントンと地面を蹴る。


 母に続いてドアを潜った瞬間、生温い空気が全身を包み込み、私を家の中へ閉じ込めておこうとする。


「あっつ……」

「あっついなぁ」


 私の口から思わず出た言葉に母が同意しながら鍵を閉めた。


「まだ暑くなるんやろ?」

「まぁ、今日は屋内やし。電気代節約しなな」


 母のお気に入りだという雪のように白いトールワゴンのドアハンドルを引き、スライドドアを開けて後部座席に座り、シートベルトをする。


 私は車に対してそれほど強い興味がないのでよく分かっていないのだが、母曰く、軽自動車の中では車内の空間が広い物らしく、確かに身長がそこそこある私でも窮屈に感じる事はなく快適ではある。しかし今はそんな事よりもただ暑いという事が問題だった。


「あつーい」


 隣に座る妹が座席に凭れかかり、どこか楽しそうに言った。


 茹だるような暑さ、とはこういう事なのだろうなと、妹と同じように座席に凭れかかりながら思う。


「二人ともシートベルトした?」


 母が前を向いたまま訊ねる。


「してるよー」

「うん。してるー」


 私たちがそれぞれほぼ同時に答えると、父が好きなロックバンドの曲をBGMに車が動き出し、開けられた窓から生温い風が入り込んできて、雑に整えた前髪が乱れる。口の中に侵入してきた髪を耳に掛けるついでに前髪を整えるが、風が吹き込んでくる限りはどうにもならず、諦めてぼんやりと窓の外を眺める。


 自宅を出発して五分もしないうちに周りの景色は緑に染まる。


 ちょっとそこまで、という乗りで母に誘われたが、目的地は京都府と奈良県の境にある。自宅もいくら奈良県に近いとは言え、さすがに歩いて行けるような距離ではないし、電車に乗って行くにも少々面倒な場所にある。車を使ってもキャンプ場に行くよりも時間が掛かるため、仮眠程度の時間なら充分にありそうだ。


 私は頬杖を突きながら一つ欠伸をして目を閉じる。今すぐに、とはいかずとも、ゆっくりと深呼吸をしていると意識が徐々に沈んでいき、耳に入る音が小さくなっていく。


 そしていつの間にか歌っているかのようなギターの音や叫ぶような力強い歌声が聞こえていた事も忘れた頃、身体が前に引っ張られるような感覚に目を覚まし、目的地に丁度着いた事に気付く。


「お姉ちゃんおはよう」


 ゆっくりと左に顔を向けると、妹の手が膝の上に投げ出されていた私の左手に重ねられる。


「……おはよう」


 乾いた声で返す。


「着いたで」

「うん」


 ふわふわとぼやけた頭で状況を何となく把握すると、シートベルトを外し、ドアハンドルを引いてスライドドアを開ける。


 家から出た瞬間よりも不快感の強い熱気にうんざりとしながら店の自動ドアを通ると、冷蔵庫を開けた時のようなひんやりとした空気が肌に触れる。


「涼しー」


 深呼吸をして冷たい空気を体内に取り込むと、頭に残っていた霧が晴れて目が覚める。


「紅音は何か見たい物ある?」

「無い」


 エスカレーターに乗って待機している所に訊ねられ、即答する。


 突然連れてこられた私には欲しい物も今は無く、これといって用事は無い。強いて言うならば本屋さんに行きたいくらいだが、わざわざ言わなくても結局は全部見て回る事にはなるので、とりあえず今はいつもより少しテンションの高い妹の傍について歩く。


 吹き抜けのある広い通路の右側を中心に見て歩く中で、良さげな服を見つけては値札を見て諦め、可愛い鞄を見つけて値札を見て予想通りの高値に商品を棚に戻す。


 妹は小学五年生になって身長も随分伸びてきているが、まだ見た目は小学生らしさがあり、この辺りに売っている服は似合いそうに無い。無難な物であれば充分に着こなせるだろうが、それなら似たようなデザインを量販店やセール品で買った方が良い。


 それはそれとして、本人はイラストの参考にもしているのか、服を見る事自体を楽しんでいるようで、自分が着る訳でもない癖して私よりもしっかりと服を選んでいる。


「なぁなぁお姉ちゃん。こんなんどう?」


 ふと目が合うと、妹は丁度手に持っていた服を引っ張り出して自分の身体に合わせた。


 私はそれを見て「うん。ええやん」と予め用意していた言葉を返す。


 決して嘘ではないのだが、他に何と言えば良いのか分からないので、良いと思ったらそれらしい言葉をそのまま伝えるようにしている。何度も同じ言葉を使うと、いくら妹が相手と言えどもさすがに定型文である事がバレるので、たまには真面目に何処が良いのか考えてはいるが、今日はこういった買い物も久しぶりなので問題はないだろう。


「何かええのあった?」


 別の所にいた母がやってきて、私と妹に訊ねる。これは次に行こうという合図のような物だった。


「いや。私は別に。最近私服をそんなに着てへんから」

「それもそうか」


 着てみたい服はあるが、衝動買いができる程お金を持っていないし、持っていたとしてもそれをするには少し躊躇する値段だったため、ここで服を買うのも諦め、妹を呼んで店を出る。


 それから順番にウィンドウショッピングをして県境を越え、今度は飲食店と食品売り場のあるエリアに入る。


「二人ともお腹空いてる?」


 母が携帯で時間を確認して訊ねてくるが、車の中で寝ていた私はあまり空腹を感じていない。寧ろ何か軽食を食べた後のような感覚だった。


「もう食べんの?」

「いや、今やったら空いてるから」

「あぁ」


 フロアマップの傍で四人固まって立ち止まり、私は妹の方を見る。


「ちょっとお腹空いた」

「じゃあ食べるか。何か食べたいのある?」


 そう言いながら母はフロアマップを指差し、私と涼音はそれに近づいて何があるのか確認する。


「フードコートは四階か」

「そうやな。フードコートにするか?」

「私は何でもええけど……。涼音は何か食べたいのある?」


 妹は一頻りマップと睨めっこをした後、やはりと言うべきか、「じゃあここで」と指差したのはオムライスの売っている店だった。


「昨日の夕飯オムライスやなかったっけ?」


 私がそう呟くと、隣にいた妹に睨まれる。


「美味しいからええやん」

「いや、別にええんやけどね。私もこの店好きやし」


 笑顔を貼り付け、頭を優しく撫でて誤魔化す。


「紅音もそこでええか?」

「うん。全然、どこでも」


 さっさと歩き出した父に続いて店に向かう。


 正直な所四階にあるフードコートでなければ何でも良かった。エスカレーターがあるとは言っても四階まで上がるのは面倒な上に、そこに行くまでの間に席がいっぱいになっていたら最悪だ。それなら同じ階層にある店に早く行って席が空くのを待つ方が良い。食べる物は本当に何でも良かった。


 幸いにも私たち四人が座れる席が空いていて、待ち時間も何もなく席に案内され、それぞれいつも家で座っている位置に座る。


 メニュー表をテーブルの中心に、妹の方へ向けて広げる。


「私これする」


 いつも通り、真っ先に決めたのは妹だった。


 妹は期間限定で何か気になる物が無い限りはいつも同じ物を食べる。そうでなくても稀に違う物を頼む事はあるが、数十回に一回というレベルだ。


 今日はその稀なパターンではなく、少々高い目ではあるが、普段家では絶対に食べる事のできない、お気に入りの海老が入っているオムライスに決めたらしい。一番小さいサイズでも千円近いので、私なら申し訳なくて避ける所だが、妹はあまりそういうのを気にしない。実際は気にしているのかもしれないが、少なくとも私の目にはそうは見えない。


 私がどれにしようか悩んでいる間に、父は明太子のスパゲティを、母はきのことほうれん草の和風オムライスを選び、注文用紙に書き込んだ。


「お姉ちゃんまだー?」

「うん。まだ」


 もう必要ないだろうとメニューをこちらに向けて順番に見ていくが、特に食べたいと思うような物が無い。二千円を超えるのは論外として、できる限り値段は控えめにしたい所だ。


 安さで言えば何も乗っていないシンプルなオムライスか母が選んだきのこのオムライスだが、家でも食べられるような物はわざわざここで食べる必要はないし、もう一方は以前に食べた記憶がある上に、同じメニューは何となく避けたい。


 パタパタと正面に座る妹がテーブルを指で叩いて急かすようにリズムを刻む。


「んー……じゃあ、これでいいや」


 私が指差したのはこの店で何故か一番安く、けれどもちゃんと美味しそうな大根おろしの乗った和風オムライスだ。前に食べた事があるような気もするが、安くて美味しいのだから別に構わない。


 父が店員を呼び、注文用紙を渡して、確認された後、十分もしないうちに全員分の料理が届いた。


 届いたのはいいものの、私と妹は料理が熱い所為でなかなか食べ始める事ができず、父がもうすぐ完食するという段階になって漸く少しずつ口に運んでいく。


 どうして店の料理はこんなにも熱い状態で提供されるのだろうか。猫舌の私が悪いと言われればそんな気もするが、これだけ熱ければ、ただ熱さだけが伝わってきてしまい、料理の味が殆ど分からない。冷ませばいいと言われればその通りなのだが、この待ち時間がやはり勿体ないように思う。火傷しそうな温度で提供されるのは罰ゲームやお笑い用のおでんやたこ焼きくらいでいいだろう。


 そんな事を店の中で堂々と言う訳にはいかないので、今は私の心の中で止めておく。


 父が食べ終えてから数分後、全員が食べ終わり、会計を母に任せて店の外に出る。


 お昼時という事もあって、私たちが入っていた店の前にも何人か席が空くのを待っている人たちがいた。


「ちょうどええ時に入ったなぁ」

「そうやなぁ」


 感心するように言う父に頷き、同意する。


 会計を済ませた母が合流し、ウィンドウショッピングの続きに戻る。


「夕飯はどうすんの?」


 隣にいる母に訊ねる。


「もう夕飯の話?」

「食べて帰るん?」

「さすがに夜までここに居らんやろ?」

「居ようと思えば全然いけると思うけど」

「何か用事あるん?」

「無い」

「じゃあ夕飯は家やな」


 食品売り場前のエスカレーターで三階に行き、量販店の方へ向かう。


 このエリアに売っている物はシンプルで値段も安いが、案外可愛い物も売っている。そんな所で服を買うと周りと被ると思いきや、周りの人はこういう所では買っていないようで、意外と被らない。後は安物ではないとバレないように組み合わせるだけだ。


 そんな事を言いつつ今着ている物はそこそこ値段がした物で、以前ここで買った物は部屋着として使っている。


「紅音は何も買わんでええんか?」

「まぁ、去年いっぱい買ったしなぁ」

「そう言えばそうやな」


 妹もあまりこの辺りには興味が無いようなので、エリアを離れて今度はまた専門店の方へ向かう。


 三階の専門店街は携帯ショップや眼鏡屋、語学教室などがあり、二階にあったようなファッションや雑貨店は少ない。有名ブランドもいくつか並んでいるが、私の興味が惹かれるのは一番奥にある本屋だけだ。


 他の店は素通りして、ほぼ真っ直ぐに本屋に辿り着いた。


 店に入った瞬間からそれぞれが興味のあるジャンルの本が置いてある所に向かう。とは言っても別れるのは漫画にそれほど興味の無い父だけで、妹は漫画コーナーへ、母と私はそれについていくついでに自分が気になっている物を見る。


 妹がイラスト関連の書籍が置いてある棚に移動し、母がそれについていった事で私は一人になった。


 そこへ突然私の肩をトントンと指先で叩く者がいた。


「紅音」


 振り向くと、そこにはよく見知った顔があった。


「里菜?」


 名前を呼ぶと、長い髪の彼女は花が咲くように笑った。


「久しぶりやなぁ」


 彼女は中学生の時三年間ずっと同じクラスだった人で、名前は井上里菜。名簿も近かった事もあってすぐに仲良くなり、一緒に居る時間も長かった。親友と言っても差し支えないくらいには仲が良かった。私にファッションや化粧を教えてくれた人が彼女だ。


「何で居るん?」

「何でって別に遊びに来てるだけやけど」

「一人?」

「ううん。高校の友達と来てるんやけど、ちょっと今お手洗い行ってはんねん」

「なるほどね」

「紅音は家族で来てる感じ?」

「うん」

「さっき一緒に居ったん見たわ」

「そうなんや」

「あっ、そうや。連絡先教えて」

「あぁ、うん。ええよ」


 返事をして、鞄から携帯を取り出す。


「良かった。携帯持ってるんやな」

「さすがにね」


 中学生の時の私を知っているからこその彼女の言葉に眉を下げて笑う。


 携帯を操作してメッセージアプリのコードを表示して彼女に見せると、彼女はそのコードを携帯で読み取り、数秒後に私の画面に彼女と同じ『りな』という名前が表示され、友達に追加する。


「よしよし、これでやっと紅音とも連絡が取れるようになったわ」


 里菜は満足そうに頷き、携帯を鞄に仕舞う。


「別に家に電話してくれたらええやん」

「いや、家電知らんし」


 何を言っているんだとばかりに吐き捨てる。


「じゃあしゃあない」

「そういえば知香が紅音に会いたーいって嘆いてたで」

「あぁ……」


 知香は吹奏楽部で同じトロンボーンを担当していた人で、よく一緒に遊んでいたが、私が携帯を持っていなかった所為で中学を卒業してからは一度も話していない。それを言えば中学生の時の知り合いとは誰一人として私の連絡先を知らない状態だったため、誰とも会話をしていないのだが、ずっと一緒に居た知香と里菜がいない春休みはとても寂しかったのを覚えている。


「知香に連絡先教えてもいい?」

「うん。別にええよ」

「じゃあ今教えといたろ」


 そういうと里菜は再び携帯を取り出し、素早くパスワードを入力すると、十秒かそこらで作業を完了する。


「里菜は彼氏と上手くやっとる?」

「うん。相変わらずいちゃいちゃさせてもらってるわ」

「同じ高校入ったんやっけ?」

「うん。どっちか落ちてたら面白かってんけどなぁ」

「落ちる方が難しいとか言うてなかったっけ?」

「そうなんやけどね。紅音はどう? 彼氏できた?」

「うん。彼氏じゃないけど」


 そう言うと、すぐに察した里菜は目を見開き、肩に提げていた鞄がずり落ちた。


「びっくりしすぎて鞄落としたやん」


 言いながら鞄を肩に掛け直す。


「それは知らんけど」

「えっ、彼女って事?」

「うん」

「さすがに恋人はまだ居らんやろって思ってたらまさかの彼女?」

「うん」

「待って。これ浮気にならへんやんな?」


 里菜はわざとらしく口に手を当て、大袈裟に私から離れる。


「さすがに話してるだけで浮気にはならんやろ」

「めちゃくちゃ嫉妬深くて紅音に近づいた人は男女問わず殺されたりせん?」

「そんな物騒な人ちゃうし」

「因みにどんな人? 写真とかあったりせぇへんの?」


 そう言いながら今度は身を寄せてきて、里菜の肩が私の二の腕に触れる。


「何でわざわざ見せなアカンねん」

「いや、私の可愛い親友の初の恋人やで? チェックしなアカンやろ」

「写真なんて撮ってへんし」


 本当は何枚かあるが、何となく見せたくなくて嘘を吐く。


「そうなん?」

「うん。そんな撮る機会なんてなかったし」

「付きあい始めたんて結構最近なん?」

「うん。六月くらいやったと思うし」

「あ、記念日とか覚えてへんタイプや」

「えっ、うん」


 言われて一瞬息が詰まった。


「もしかしてやばい?」

「何が?」

「いや、記念日。多分……というか絶対一ヶ月は過ぎてるんやけど……」

「そういうの気にする人なん?」

「知らん……」


 世の中のカップルが一ヶ月や半年付き合ったという記念に何かをするという曖昧な情報は聞いた事がある。しかし蒼依と付き合ってから、浮かれていたのか何なのか、記念日の存在を完全に忘れてしまっていて、いつから付き合い始めたのかすら分からない。


 蒼依から何かそういう事を言われた覚えもないが、何も言ってこないだけで実は気にしていたりするのだろうか。


 そう思い始めると、重大な間違いを犯してしまったかのように罪悪感のような何かが胸を圧迫し、息が苦しくなる。


「言われてないなら大丈夫ちゃう? あぁ、でも向こうも女の子なんか……。同級生やんな?」

「うん……」


 里菜は少し悩む様子を見せたが、すぐに元の明るい表情に戻った。


「いや、やっぱり大丈夫ちゃう? 分からんけど」


 ただ考えるのを止めただけだったらしい。


「心配なら今からでも何かお祝いしたらええやろ。言うて私もそんな一ヶ月記念とかそんなん全然やった事ないし」

「そうなん?」

「うん。いや、一ヶ月やなぁ、みたいな話はするけど、そんなプレゼント交換したりとかそんなんは無いなぁ」

「そうなんや……」

「うん。ていうかさぁ、紅音がこの時期にこんなとこ居るって事は部活はやってへん感じ?」


 胸に残る不安感を吹き飛ばす勢いで切り替わる話に困惑しつつも、答える。


「そうやなぁ。学校も遠いし、勉強で精一杯やしな。里菜も部活はやってへんの?」


 里菜は中学生の時はバスケットボール部に所属していて、大会でも活躍していたと聞いた記憶がある。


「いや、やってるで。ただ今日が休みってだけ」

「土曜日が休みなんやな」

「そう。珍しいやろ? 配慮してくれてんのか何なのか分からんけどな。学校がある日は普通に土日も部活あるし」

「へぇ」


 あまり興味のある話題でもなく、話を広げようともせずに雑な返事をすると、会話が途切れて少しの間店内のBGMに耳を傾けるが、すぐに里菜が口を開いた。


「そういえば今日は何買いに来たん?」

「私はついてきただけやし、別に買う物は何も無いで」

「そうなんや。何気に外で偶然会うって初めてちゃう?」

「そうやっけ?」


 思い返してみるが、確かに里菜と約束をしていた時以外で出会ったのは初めてかもしれない。それどころか外で知り合いに出会ったという記憶がないような気がする。


「うん。多分初めてやで? 私があんまり外に出ぇへんっていうのもあるかもしれんけど」

「駅前のスーパーに買い物行ってたりしたらもしかしたら出会うかもしれんけど……」

「行かへんから無理やな」

「そもそも普段部活やってたら出掛ける時間もそんなにないやろ」

「確かにそれもあるわ。もっと休みくれてもええと思うんやけどなぁ」


 溜め息を吐くように言った。


「バスケ好きなんちゃうの?」

「好きやけど、うちの高校は中学の時ほどそんなに真面目じゃないねんなぁ」

「そうなんや」

「そうそう。どうせなら私もバスケ強いとこ行けばよかったってちょっと後悔してる」

「でもそれやったら彼氏さんと同じ高校行けへんかったんちゃうん?」

「うん」


 里菜ははっきりとした確信を持って頷いた。


「彼氏さん可哀想に……。そういえば今日一緒に来てるん彼氏さんじゃないんや」

「うん。部活の友達。クラスも一緒の子。あ、言うてたら来たわ」


 里菜の視線を追って顔を向けると、こちらに向けて一直線に歩いてくる女性が見え、次の瞬間に目が合った。視線の先にいる彼女は首を傾げ、里菜の方を向いて手を振る。


「お待たせー」

「おかえり」

「結構混んでたわ」

「あぁ、それで遅くなったのね」

「そうそう。んで、彼女は里菜の友達?」


 暫く見守っていようと思ったが、彼女の方から早々に私の事について触れた。


「うん。中学の時一緒やった伊東紅音ちゃん」

「どうもー。なんでちゃん付けなん?」


 どう言えば良いのか分からず勢いだけで乗り切ろうとしたが、恥ずかしくなってすぐに里菜に泣きつく。


「いや、ごめん。何となく勢いで」

「同い年なんやんな?」


 訊かれて頷く。


「うん。だからタメ口で全然ええよ」

「おっけー。私は高井雛子。『ひな』でも『ひなこ』でも好きに呼んでくれたらええし。あ、因みに里菜と同じ部活に入ってるんやけど、聞いた?」

「うん。ついさっき聞いたとこ」

「そっかそっか。あっ、連絡先交換しとこ」

「おっけー」


 一瞬、里菜から教えてもらえば良いのではないかと思ったが、せっかくの厚意を無碍にしたくもないので、ここは面倒臭がらず、素直に携帯を鞄から取り出す。


 先程里菜とやったように私がコードを表示して、それを彼女が読み取った。


「紅音ってこんな字書くんやな」

「何やと思ったん?」

「あの……草冠のやつ」

「あぁ、一文字のね」

「そうそうそれそれ。そっちの方がよく見るやん? まぁ書く事はないやろうから何でもええんやけど」


 彼女がそう言った辺りで向こうから歩いてくる妹の姿が見えて、そろそろ話を切り上げようとそれらしい言葉を探す。


「二人はこれからどうすんの?」


 どちらかという訳でもなく問い掛けると、里菜が答え、雛子を覗き込むように見る。


「これからご飯食べて、映画見に行くんやんな?」

「うん」

「映画見に来たんや」

「そうそう。最近映画観るのに嵌ってて、でも一人で観るんはやっぱ寂しいやん? で、里菜を誘ったんよ」

「暇やろって言って引っ張り出された」

「ええやん。休みの日暇って言うたん里菜やん」

「まぁね」


 二人が言い合いを始めて、妹が居た方を見ると、妹は棚を一つ挟んでこちらの様子を窺っていた。


「何か妹が待ってるし、いい?」

「あ、そうなん? ごめんな、長々と」

「いやいや、久々に話せて良かったわ」

「うん。また遊ぼな」

「私も遠慮無く誘って。仲良くなりたいし」

「おっけー。気が向いたら誘うわ」

「それ絶対誘わんやつやん」


 雛子は不満そうに口を尖らせる。


「じゃあ、近いうちに」

「あっ、知香とも話したってな」

「あぁ、うん。連絡って待ってたら来る?」

「うん。来る筈」

「おっけー。じゃあ……」

「うん。ごめんな引き留めて」

「ううん。映画楽しんできて」

「感想言うわ」

「うん。待ってる。じゃあまた」

「うん。またねー」


 手を振り、仲良さげに話ながら去って行く二人を見送ると、妹と母が近付いてくる。


「お姉ちゃんの友達?」

「うん。髪長い方の人が中学の時の友達で、もう一人がその友達の友達」

「吹奏楽部?」

「ううん。あの二人はバスケ部」

「ふぅん」


 何を思っているのか、妹は二人が消えていった方を見ていた。


「紅音は何か欲しいのあった?」

「いや、あるけどない」

「じゃあそろそろ行こか」


 旅行雑誌を見ていた父に合流し、本屋を後にする。


 私の主な目的が達成され、微かな眠気を感じながら他三人の後に付いて歩く。


 先程通ってきた通路の吹き抜けを挟んで反対側にある店を順番に見ていき、特に気になる物もなく量販店の前まで戻ってきて、エスカレーターに乗ってフードコートのある四階へ上がる。


 何の意識もしていなかったつもりだったが、少し離れた所に先程別れた二人と目が合い、また会ったね、と口には出さず笑い合い、手を振って別れる。


 フードコートには用事が無いので素通りし、量販店の方へ行って家具や電化製品を軽く見て回る。それ以外にも子供服などが置いてあるが、もうそれが必要な人がうちには居ないので、そちらは見ずに専門店街の方へ移動する。


 四階にはフードコートと映画館がある所為で小さい店が少なく、その殆どが雑貨店になっている。


 ファッション店よりは興味の惹かれる物が多かったが、買いたい物はないのでやはり基本は素通りする事になる。


 父がお手洗いに行っている間にどんな映画がやっているのか見てみたが、面白そうだと思う物はなかった。テレビの宣伝やネットニュースなどで知った題名もあったが、やはり見ようという気にはならない。


 映画嫌いという訳ではない。強いて言うなら映画館嫌いだろうか。三十分のアニメですら途中で飽きてしまう私が映画館という閉鎖的な空間で二時間もじっとしていて飽きない訳がない。小学生の頃に私が自分から見たいと言って観た映画ですら序盤で眠ってしまっていた。恐らく今の私が映画館に入っても同じような事になるだろう。


 父が戻ってきて、まだ見ていない店を見て、特に誰も買いたい物はないという事で、夕飯の買い出しをして帰る事になった。


 二階までエスカレーターで下りて、人の多さにうんざりしながら少し急ぎ目に買い物籠に必要な物を入れていく。


 長い列の出来たレジに並びながら買い忘れがないか確認し、無事に会計を済ませて、父と合流して車に戻る。


 駐車場は相も変わらずの熱気で包まれており、車の中にまでその熱気が浸食していた。


 意地でも冷房は付けたくないという父によって車は窓を開けて走り出す。


 ふと隣に座る妹の方へ顔を向けると、妹は倒れるか倒れないかという絶妙な体勢で眠っていた。


 今日はゲームセンターで遊んでもいないので、あまり疲れていないと思っていたが、日頃からの疲れが溜まっているのか、寝息を立ててよく眠っている。


 私はそのさらさらの髪を軽く撫でて、家に着くまでの暇潰しに携帯を開く。


 すると知香という名前のアカウントから友達の申請が届いていたため、それを許可して女の子がお辞儀をしているスタンプを送る。


 蒼依からもお昼頃にメッセージが届いていたようで、悩み、文字を打ち、消して、また悩んでは打ち込んで消す、というのを何度か繰り返し、結局『頑張って』とだけ送った。


 そうしている間に今度は知香からメッセージが届く。


『来週遊ぼ!』


 久しぶりだとかそんな挨拶も無しに、まるで頻繁に会っていたかのような言葉に思わず笑みが溢れる。


『いつでもええよ』


 送信するとすぐに既読が付いた。


『じゃあ来週の土曜日! 里菜も誘ってカラオケ行こう!』


 私と里菜と知香の三人。中学の時ずっと一緒に居た三人だ。知香もそう思っているのか、ただ連絡先を教えてくれたからついでなのか分からないが、どうせ遊ぶなら私も三人が良い。それに、二人きりで遊ぶとなるとどうしても蒼依の事が浮かび、少なからず罪悪感に苛まれる事になるだろう。


『おっけー。いつもの時間?』

『うん! いつものとこね!』

『了解』


 またすぐに既読が付いたが、このまま開いていると一生話す事になりそうな予感がして、すぐさま画面を閉じ、身を乗り出すようにして母に声を掛ける。


「ママ。来週の土曜日友達と遊びに行ってもいい?」

「友達ってさっきの子?」

「うん。あと知香も」

「いつもの三人ね。分かった」


 雛子も誘った方が良かっただろうかと一瞬思ったが、すぐに雛子に謝罪の念を飛ばしておく。


 彼女とはまだ今日知り合ったばかりだ。申し訳ないが、久しぶりに会う三人で遊ぶのを邪魔されたくはなかった。


 彼女とはまた別の日に遊べば良い。機会ならいくらでもあるだろう。


 白紙の可能性もあったカレンダーに彩りが増えた事に、私は密かに胸を高鳴らせていた。

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