第16話 7月21日

「あっつ……」


 夕飯の買い物を終えて透明な自動扉が開かれた途端、アブラゼミの声がそこら中から聞こえてくる。今週に入ってから蝉が一斉に鳴き始め、朝から晩まで、太陽が昇っている間は引っ切り無しに泣き続けている。


 既に気温は四十度近くまで上がっており、至る所で様々な種類の虫を見かけるようになった。妹は三日前から夏休みに入っていて、私も明日から夏休みに入るという時期ではあるが、彼らが鳴き始める事で漸く梅雨が明け、遂に私の大嫌いな夏が始まったのだと実感する。


 日傘を差し、飲み物を買って重たくなってしまった買い物袋を腕に提げて太陽の下に出る。


 日陰に居ればいくらかは増しだが、体感ではもうずっと湯船に浸かっているのと変わらない。唯一救いがあるとすれば、梅雨が明けた事によって湿気が下がり、噎せ返るような暑さでは無くなった事だろう。しかしそれでも風の一つでも吹いてくれなければ地獄のような暑さである事には変わりない。


 全身から吹き出すように流れ出る汗が制服に染み、すれ違った車の後を追いかけるようにして吹き込んできた風が濡れた身体を冷やす。しかしそれはほんの一瞬の事で、すぐに周囲の熱気によって身体は熱される。


 早く帰りたいと願う程、不思議と道のりは長くなっているように感じる。道を間違っているのではないかと自らの正気を疑い、周りの景色と記憶にある景色を比較して、自らがまだ正気である事を確認する。


 横断歩道を渡り、少し歩く速度を上げる。ここを真っ直ぐ行けば家に着く。妹が冷房を付けてくれているかどうかは分からないが、後もう少しでこの火傷しそうな暑さから逃れられる。私は最後の気力を振り絞るような気持ちで足を動かす。


 門扉が閉まっている事にすら溜め息を吐きつつ、鞄から鍵を取り出し、地獄から天国へ繋がる扉を潜った。


「ただいまぁ」


 恐らく冷房は付いていない。いつもなら暑いと文句を言って扇風機を付けて涼んでいる室温の筈だが、先程までいた空間と比べると、快適とすら言えた。


 壁に踵を合わせて靴を脱ぎ捨て、リビングの扉を荷物を持っていない左手で開ける。予想通り冷房も電気も付いていなかった。どうやら妹は自分の部屋にいるらしい。


 荷物を一旦ダイニングテーブルに置き、洗面所で手と顔を冷たい水で洗う。タオルを床に敷き、靴下を脱いで浴室のシャワーで足を軽く洗い、タオルで水気を取ってリビングに戻る。


「あ、お姉ちゃんおかえり」


 もう午後になったというのに昨夜見た時と同じパジャマ姿の妹がちょうど階段を降りてきて、ペタペタと足音を立てながら寄ってきて、私が汗を搔いているだろう事を察して立ち止まる。


「ただいま。イラスト描いてたん?」

「ううん。夏休みの宿題やってた」

「相変わらず偉いなぁ」


 妹の頭に手を置き、ぽふぽふと優しく叩いてやってから買い物袋をキッチンに運ぶ。


「また今度手伝って」


 妹が付いてきて袋から野菜を取り出しながら言った。その態度はとても人に頼み事をするような物ではない。もしもっと真面に頼まれていたとしても、当然私が妹の宿題を手伝う事など無いし、恐らく妹もそれを分かっているからこそこの態度なのだろう。


「一緒にやるのはええけど、手伝うのはアカンかなぁ」

「けち」

「手伝わんでもできるやろ?」

「めんどくさい」

「私は自分ので精一杯やから」

「お姉ちゃんは勉強好きなんやからええやん」

「まぁ嫌いではないけど……」


 どちらかと言えば好きな部類にはなるのだが、好き嫌い以前にできないからやっているという面が強い。要するに苦手という事だ。当然その分他の人よりも問題を解く時間も遅く、それに比例して課題一つに掛かる時間は長くなる。


 蒼依と付き合うようになってからというもの、学校から駅までの長い道のりを一人で帰るのがあまりに寂しく、部活に入る事も何度か考えたが、そうするときっと私は課題を期限内に終わらせる事ができなくなってしまう。それどころか普段行っている予習と復習もできなくなって授業に付いていく事すらできなくなってしまうだろう。今の段階でギリギリなのだから、部活やアルバイトで時間を削ればどうなるか考えるだけで恐ろしい。


「とにかく、自分の分の宿題は自分でやり」

「はぁい」


 妹は聞いているのかいないのか、気の抜けた返事をして、空になった買い物袋を四つ折りにして他の鞄が重ねられている所に乗せた。そして早くお昼ご飯を作ろうと言わんばかりに手を洗い、食洗機に入れたままにしていた包丁を取り出した。


「お昼ご飯何すんの?」

「焼きそば」

「麺類多くない?」

「美味しいからええやん」

「カレーとか無いん?」

「今から買ってくる?」

「焼きそばでいい」


 確かに昨日は夕飯にパスタを出していたし、妹は飽きてきたのかもしれないが、安売りしているこの焼きそばが目に入ったのだから仕方が無い。


 昼食というのはなかなか難しい。夕食であれば天ぷらが食べたい、肉が食べたい、魚が食べたいなど、言ってしまえば何でも良い。多少手間が掛かる物であっても夕食なら普通に作るのだが、昼食にはそこまで手間を掛ける気になれず、食材を切るくらいはしても、炒めるだけだったり焼くだけだったり、そういう簡単な物しか作る気になれない。日中にハンバーグを作ろうとか肉じゃがを作ろうだなんて気には到底ならないのだ。


「みんなお昼ご飯ってどうしてるんやろうなぁ」

「何?」

「いや、他の人ってお昼ご飯とかにもちゃんと料理してんのかなぁって」

「カレーとか?」

「いや、うん。まぁ、カレーもそうか。玉葱とか人参とかやらなアカンし」

「やってる人はやってるんちゃう?」

「ようやらはるわ、ほんまに」

「それは面倒くさくないん?」


 そう言って妹が顎で差したのは、まな板の上に置かれたキャベツと人参、それと今野菜室から取り出したシメジだ。


「切って焼くだけやしな」

「でも切ってあるのも売ってるやん」

「丸ごと買った方が安いし」

「ふぅん」


 自分から訊いておきながら投遣りな返事をする妹から包丁を借りてキャベツを使う分だけ切り出し、一口サイズに切り分けるのは妹に任せる。その間に私は人参の皮をピーラーで剥いていく。


 自分の指を巻き込まないように気を付けながら横目で妹の様子を見守る。手伝い始めた頃は危なっかしくて包丁を持たせる事すらも怖かったが、小学校の授業で習うようにもなって、今では安心して任せられるようになった。それでも万が一の事を考えると目を離す訳にはいかないが、妹のおかげで面倒な作業が減ってとても助かっている。


 一仕事終えた妹の頭を撫でてやると、妹は不思議そうに私を見て、それから照れ臭そうに笑った。


 調味料を間違えたとか焼きすぎたとかそんな初歩的なミスをやらかす訳もなく、出来上がった焼きそばはいつも通りの味だった。


「毎日焼きそばでも良い気がしてきた」

「お姉ちゃん絶対三日くらいで飽きたーって言うやろ」

「言いそう」


 食器を片付け、一息吐いた所で何をしようか考える。


 学校から帰ってきて食事も終えたが、一日が終わるまでにまだ時間はたっぷりとある。今日までに配られた大量の課題というやらなければならない事はあるが、暑さの所為か、ただの私の怠け癖の所為か、課題をやる気力が湧いてこない。


 トイレに行っていた妹が戻ってきて、そのまま二階へ上がっていくのを見届け、大きな欠伸をする。


「寝るかぁ」


 普段からこの時間は強烈な眠気に抗えず眠っているが、それは大抵学校で起きていなければならない時の話だ。今のように家で気兼ねなく眠る事ができる時間というのはなかなか貴重だ。


 自室に戻るために階段を上るのが面倒で、先程座っていた場所の座椅子を枕にして寝転ぶ。ベッドに比べるとやはり寝心地は良いとは言えないが、寝られない事もないだろう。


 腕を曲げて頭の下に敷き、枕の高さを調整する。目を瞑り、何度か体勢を変えて気持ちの良い体勢を見つけると、考え事をする間も無く私は眠りに就いた。


 昼寝をすると、数時間が一瞬で過ぎ去ったような感覚になる。


 私は重たい上半身を腕で床を押して起こし、ティッシュを一組取って濡れた口元を拭う。それから時計を見て、二時間も寝ていた事を知って達成感のような物を感じた。


 掃除をしたり勉強をしたりしていれば良かったかもしれないが、無駄になったとも言えるこの二時間で得た幸福感は決して他では得られなかっただろう。


 宙にふわふわと浮かんでいた意識が身体に戻ってきて、ぐぅっと腕を上げて伸びをする。堰き止めていた息を吐き出し、脱力する。


 二時間の昼寝は長いように思うが、時刻はまだ十五時。外も真昼のように明るい。今から勉強や掃除をしたって問題は無いだろう。


 せっかくこれだけ自由な時間があるのだから普段なら面倒臭くて掃除をしていない所を掃除してみてもいいかもしれない。


 そう思って気合いを入れるついでに勢いよく立ち上がったが、いざやろうと思うと掃除機を出してくる事すらも面倒に思えてきてしまい、掃除機を出す事と階段を上る事を天秤に掛け、結果私は扇風機を消し、鞄を持って自室に戻った。


 部屋に入り、ローテーブルの横に鞄を置こうとしたところに、部屋の角に置いてある姿見が目に入る。それを見てまだ制服のままだった事に気付き、一先ず鞄を置いて、それから制服を脱ぎ、半袖のTシャツとショートパンツに着替える。


 やはり制服というのはいくら夏用に薄くなっていると言っても涼しくはない。女子は大体スカートを穿いているので幾分か増しではあるだろうが、男子はこの風通しの悪い生地で足全体を覆うズボンしか穿く事が許されていないため、この季節は私以上に地獄を味わっているのだろう。


 しかしそれはそれとしてスカートを穿いていても暑いという事実は変わらない。何とかしろと言った所でこれ以上薄くもならないだろうし、なった所でそれは誤差だろう。ただ夏が過ぎ去ってくれるのを待つしかない。


 脱いだスカートをいつものようにハンガーに吊るそうとクローゼットの扉を半分ほど開けた辺りで動きを止める。


 今日は終業式で、明日から夏休みになる。私は部活に所属していないし、夏季講習なども無い。それはつまりこれから一ヶ月と少しの間、この制服に用は無いという事だ。洗濯をするには良い機会だ。どうせならクリーニングに出しても良いかもしれない。


 スカートとシャツを持って部屋を出る。洗面所の邪魔にならない所にスカートを放り、シャツは洗濯籠に放り込む。一階に降りてきたついでにキッチンでお茶を飲み、何か食べる物はなかっただろうかと冷蔵庫を開けて、何も無い事を確認してから自室に戻る。


 鞄から携帯を取り出し、ベッドに身を投げ出して携帯の電源を入れてみるが、特にこれといってやりたい事があった訳でも、やらなければならない事があった訳でもなく、通知が届いていない事だけを確認して画面を消した。


 寝返りを打つように転がってうつ伏せになると下半身がベッドから落ちて、引き摺られるように床に座り込む。


 課題というやるべき事があるので暇だとは言えないのだが、何をやる気にもなれず暇だと感じる。


 蒼依は今頃何をしているだろうか。コンクールまで後一週間ほどで、時間も休日と同じくらいあるから合奏でもしているのかもしれない。


 自分が中学生だった頃の失敗を思い出しそうになり、溜め息を吐いてベッドに顔を埋める。息苦しくなって顔を上げ、そのまま身体を起こし、足をうねうねと動かしてテーブルの方へ身体を向き直る。


 携帯を開き、蒼依に『今から課題やる』と、何となく報告だけして、携帯をベッドの上に放り投げ、見えないように布団を被せておく。


 テーブルの上に積み上げておいた課題の山に手を伸ばし、一番上にあった数学の問題集を手にとって一番始めのページを開いてみる。そこに書かれている文章と数字を見ていると、顔をほんの少し出していたやる気がまた引っ込んでしまいそうになる。そうなる前にベッドの横に置いた鞄からペンケースを出し、とりあえずシャーペンを持って形だけでもやる気をみせる。


 いつもの二倍くらい遅く文章を読み、問題文の下のスペースに式を書く。左手で頬杖を突きながらだらだらと右手で数字と記号を書き連ねていると、いつの間にかそれらしい答えに辿り着き、一問目を終えた。


 その勢いのまま二問目に取り掛かると、二問目も呆気なく解き終わり、三問目、四問目と取り組んでいくに連れて手を動かすのが早くなる。普段からやっている復習とそれほどやっている内容は変わらないお蔭ですらすらと解く事ができていた。


 何度かページを捲った頃、後ろから微かに携帯の通知音が聞こえてきて、休憩ついでにと手を止めて携帯を布団の中から救出する。


 メッセージを開くと、『頑張って』という応援メッセージと共に写真が送られてきていた。写真には蒼依の薄らと血管の透けた綺麗な手と音楽室の風景が映っている。楽器を吹いている人もいるが、席は疎らに空いている。どうやら今は休憩時間らしい。


 どう返信すれば良いか迷った末に『蒼依も頑張ってね』と無難な返事を送る。


 立ち上がろうとすると膝が軋む。微かな痛みに耐えながら立ち上がり、水分補給をしに一階に降りると、リビングの電気が点いていて、妹がゲームをしようとちょうどテレビの電源を入れた所だった。


「あ、お姉ちゃんもやるー?」

「何すんの?」


 キッチンから少し声を張って訊ね、冷蔵庫からお茶のポットを出し、リビングのローテーブルに持っていく。


「前の続き」


 テレビ画面に映し出されたゲームを見ると、協力プレイもできるアクションゲームだった。基本的に妹が一人でやっているようだが、たまに私や母が一緒にやっている。


「あぁ、それか。せっかくやしやろうかな。涼音はお茶飲む?」

「飲むー」

「じゃあコントローラー用意しといて」

「うん」


 食洗機から透明なガラスのコップを二つ持ってテレビの正面、妹の隣に腰を下ろす。自分のコップにお茶を注ぎ、それから妹のコップにもお茶を注いで薄汚れたコースターの上に置く。


 涼音からコントローラーを受け取り、ゲームに参加する。


 世界的な有名なゲームで、子どもにも大人気という事もあって難易度は簡単。かと思いきやアクションゲームが苦手な私一人では絶対にクリアできないであろう難易度で、毎回妹の足を引っ張ってしまっていて申し訳ないのだが、妹はあまりそれを気にしていないようで、敵にやられたり穴に落ちて何度も死んで残機を減らしまくる私のプレイにケラケラとこの上なく楽しそうに笑っている。それを見ていると申し訳なさなど吹き飛んで妹も巻き込んでやろうかと思うのだが、妹は妹で笑っている所為で何度かミスをして残機を減らしている。


 足を引っ張り合いながらステージを順調にクリアしていき、中ボスらしきキャラクターも撃破した。それからまた少しステージを進めていると、いつの間にか帰ってきた母がリビングに入ってくる。


「ただいまー」

「あ、おかえり」

「おかえりー」


 敵のいない安全な所でキャラクターを立ち止まらせて、母の方へ振り返ると、隣にいる妹から体当たりを喰らう。


「お姉ちゃん死んじゃうで」

「え、嘘やん」


 すぐに視線をテレビに戻すが、キャラクターは妹に担がれていて、咄嗟にどうすれば良いのか分からずカチャカチャと色んなボタンを押していると、妹によって私の操作しているキャラクターは奈落の底に放り投げられ、情けない悲鳴が響き渡った。


「味方に裏切り者が居るんやけど」

「運んであげようと思ったら間違って投げちゃった」

「絶対今のはわざとやろ」

「うん」


 画面外から泡の中に入って現れた私のキャラクターは妹の操作しているキャラクターに近づき、ステージに降り立ち、すぐに妹のキャラクターを追いかける。


「ちょっと待って。私にもやらせて」

「絶対嫌やし」


 妹の方が上手いのだから当然私に捕まえられる訳もなく、今度は自ら奈落の底に消えていった。


「あ、残機無くなった」


 妹が呟き、画面の左上を見ると、そこにははっきりと数字のゼロが表示されており、私のキャラクターアイコンにも影が掛かっていた。


「涼音が投げるから……」

「さっきのはお姉ちゃんが勝手に落ちたんやん」

「それはいつもの事やろ?」

「じゃあお姉ちゃんの所為やん」


 そう言いながら妹は淡々と敵を倒し、難しそうなギミックをいとも簡単そうに乗り越え、ステージをクリアした。


 時計を見ると、いつもならもう夕飯を作り始めている時間になっていた。


「今日は終わっとこうか」

「はぁい」


 妹も終わろうと思っていたようで、満足そうに返事をして素直にゲームの電源を消し、テレビのチャンネルを切り替え、天気予報が流れる。


 コントローラーを片付け、最後にお茶を一口飲んでキッチンに持っていき、妹に夕飯のメニューを訊かれる前に答える。


「今日の夕飯は鰤の照り焼きとおぼろ豆腐でーす」

「おぼろ豆腐って何?」

「何って訊かれると……困るな」


 言葉を詰まらせると、母が代わりに答えてくれる。


「木綿豆腐とか絹ごし豆腐とかを作る途中で出来た豆腐か何かやったと思うで」

「「へぇー」」


 姉妹で揃って感嘆の声を漏らす。


「普通の豆腐よりも柔らかい豆腐やな」

「ふぅん」

「紅音が食べたいって言った癖に知らんかったんや」

「うん。だってぱっと目に入ったから買ったってだけやし。美味しそうやん?」

「どうやって食べんの?」

「これは普通に冷や奴というか、そのまま食べるやつ」

「ふぅん」


 喋りながらも手は動かし、父が帰ってくるまでに味噌汁と野菜炒めが完成し、メインとなる鰤の照り焼きを皿に盛り付けている時に玄関が開く音が聞こえた。


「ただいまー」

「おかえりー」

「タイミングばっちりやな」


 全ての料理を食卓に並べ終え、帰ってきたばかりでまだ隣の和室で着替えている最中の父を待ち、全員が揃った所で食べ始める。


 珍しく流れているバラエティ番組の笑い声にBGMに私たち家族は黙々と食べる。喋る事があってもそれは口に何も入っていない時に手を止めて少しだけ。マナーがどうとか、そういう物とは関係なく、ただの習慣のような物だった。


 全員が食べ終わり、食卓の上を片付けていると、不意に母が声を掛けてくる。


「そういえば紅音。成績はどうやった?」

「あぁ、そういえば」


 課題の事ばかり頭にあったが、今日は通知表を貰ってきたのだった。私は早足に階段を上り、自室の鞄から通知表を回収して母に渡す。


「はい」


 母は折り畳まれたそれを開き、左から右へ視線を動かす。


「相変わらず四と五ばっかりやなぁ」

「うん」


 褒められているのか何なのか分からないまま返事をする。


 提出物は忘れた事は今のところ無く、テストの点数はそれほど悪くはない。問題があるとすれば授業中に指名されたときに答えられなかったり、授業中に眠っていたり、教科書を忘れたりといった授業態度で、その分の点数が引かれた結果の四や三という数字だろう。


「テストの順位とかも出るんやな」

「ね。中学の時はなかったのに」

「遅刻も欠席も無いし、順位も半分より全然上やし、よう頑張ったな」

「……」


 何と答えればよいのか分からず、曖昧な笑顔を貼り付け、通知表を返して貰う。


 改めて自分でも見てみるが、中学の時とあまり変わらない、悪くはない成績。しかしテストの点だけで言えば決して良いとは思えない。


「学年で十位以内に入りたいよなぁ」

「えらい高い目標やな」

「蒼依はもっと高かったし、それより上に行きたい」

「へぇ。蒼依ちゃんそんなに賢いんや」

「……うん」


 蒼依は部活で忙しいというのに、勉強をするために部活に入らなかった私よりもずっと上の順位だった。別にそれが嫌という訳ではない。嫉妬なのだろうか。自分でもこの胸に纏わり付くもやもやが何なのか分からない。


「紅音は夏休み何か予定ある?」

「分からん」

「蒼依ちゃんと遊びに行ったりはせぇへんの?」

「八月の後半にもしかしたら遊びに行くかも」

「あぁ、そっか。部活があるんか」

「うん」

「文化祭の準備とかは無いの?」

「あぁー……」


 視線を弧を描くようにして床に落とす。


「何も聞いてない感じか?」

「うん。そうね」

「文化祭って見に行けるん?」

「確か無理やったと思う」

「そうなんや」

「人が多いからとか防犯がどうとか言ってたで」

「まぁしゃあないか。因みに何やるん?」

「うちのクラスは全員でダンスやるらしい」

「店とかやらんの?」

「外から誰も来ぉへんのに?」

「それもそうか」

「でも何か学生用にちょっとしたお店はあるとは聞いてる」

「ふぅん。じゃあ夏休み期間中に学校行ったりはせぇへんねんな?」

「うん。今の所は。だから制服も一回洗濯かクリーニングかしようかなぁって思って」

「洗面所置いとったやつやろ?」

「うん」

「うん。分かった」


 カレンダーに私の予定は何も書き込まれないまま、話を切る。妹が風呂から上がってくるまでの間に携帯を開き、蒼依のメッセージを開く。


『部活終わった。紅音は課題進んだ?』


 今回は特に悩む事なく文字を打ち、送信する。


『お疲れ様。数学ちょっとだけやった』


 当然ながらすぐに既読が付く事はなく、返事は待たず、風呂から上がってきた妹と入れ替わりで風呂に入る。


 今日のように外に出て汗を搔いた日は湯船に入る時間は短く、殆どシャワーだけで済ませる。シャワーの音だけ聞こえるのが少し寂しくて、頭に浮かんだメロディーを囁くように小さな声で歌う。家族に聞かれるのは恥ずかしいので、シャワーを止めている間は歌うのを止めて、水を流す時にまた小さな声で歌う。


 風呂から上がり、全身の水気を取ったらパジャマを着てドライヤーで髪を乾かす。乾かし終えたら手櫛で髪を整え、歯磨きをする。空いている左手で携帯を操作して蒼依のメッセージ画面を開く。


『ありがとう。紅音もお疲れ様』


 その数分後に連続で、『寝る前に電話してもいい?』と送られてきていた。私は迷わず返事をする。


『今お風呂上がった所やし、いつでもええよ』


 それだけ送り、コップ一杯のお茶を飲んでから自室に向かう。


 部屋に入って静かに扉を閉め、窓を閉めてクーラーを付けると、カタカタと音を鳴らしてクーラーが口を開いた。広げたままにしていた課題は無視してベッドに寝転がり、膝を抱えるようにして横向きに丸まり、じっと蒼依からの連絡を待つ。


 携帯の電源を入れて、消えて、また入れて、消えて。意味の無い事を何度か繰り返し、部屋の明かりの所為で目が痛いような気がしてきて、リモコンを操作して部屋を暗くする。


 それから暫くして通知音が鳴り、眩い光に眉間に皺を寄せながら携帯の画面をスライドして蒼依のメッセージを開く。


『いい?』


 それを見て私は電話を掛ける。すると一秒もしないうちに蒼依の声が聞こえた。


『もしもし』

「……待ってた」

『うん。お待たせ。今何やってるの?』

「ベッドで寝転んでる」

『もう寝るの?』

「ううん。蒼依と話す」

『課題は?』

「今日はもういい」

『まだ九時前だけど』

「蒼依は今からやんの?」

『そうね。できるときにやっておかないと、絶対間に合わないし。紅音もやらない?』

「……やる」


 渋々身体を起き上がらせ、リモコンを手探りで探し当て、部屋の明かりを点ける。


『紅音って数学やったんだよね?』

「うん。十ページくらい」

『結構やってるじゃん』

「うん」

『……眠い』

「ううん?」

『そう? 眠たかったら寝てくれて良いからね?』

「うん。大丈夫」


 正直少しだけ眠い。しかしせっかく蒼依と話せるのに眠ってしまうのは勿体ない。課題もやらなければならないのは事実で、寝るにはまだ早いというのもまた事実だ。


 携帯をテーブルの端に置き、シャーペンを右手に持つ。


 何かを話すために通話を始めた筈なのに、お互い無言になってひたすら手を動かし、問題集に数字を書き込んでいく。


 行き詰まった所で集中が途切れ、一つ大きな欠伸をする。すると電話の向こうからくすりと笑い声が聞こえた。


「何?」

『いや、眠そうだから』

「うん。ちょっと眠たい」

『まぁもう十時過ぎたからね。良い子は寝る時間』

「蒼依は眠たくないん?」


 訊きながらまた一つ欠伸をする。


『私もちょっと眠たいかなぁ』

「じゃあ一緒に寝よ」

『……十一時までは頑張りたいかな』

「そう」

『紅音は寝てもいいからね?』

「ううん。起きてる。ところで、何か用事があったんちゃうの?」


 欠伸を噛み殺し、訊ねる。


『何で?』

「電話したいって言ったの蒼依やん」

『あぁ、別に……ただ声が聞きたくなっただけだから』

「……ふぅん」

『ふぅんって……』

「勉強ふぁいとー」

『うん。寝るならベッドに行きなよ?』

「いや、私も十一時まではやる」

『まぁ、無理はしないようにね』


 時計に視線をやり、長針が右上にあるのを見て、少しばかりやる気が削がれた。


 頬杖を突き、欠伸をしながら右手を動かして数字を書き込む。式を一列書く毎に眠気が大きくなる。


 先程の二倍くらいの時間を掛けて一問解き終え、時計を見る。長針はまだ右上にあった。当然短針は殆ど動いていない。


 シャーペンをペンケースに仕舞い、携帯を持ってベッドによじ登る。


『寝るの?』

「何でバレたん?」

『ガサガサしてるからベッドに行ったのかと思って』

「せいかぁい」

『紅音』

「何?」

『おやすみ』

「まだ寝ぇへんって」


 答えながら、段々と意識が薄れていくのが分かる。


『でも寝る体勢入ってるでしょ?』

「寝転んだだけやし」


 完全に寝てしまう前にエアコンを消し、部屋の明かりも消しておく。


 黙っていると、微かに蒼依が何かを書いている音が聞こえる。それが耳に心地良く、瞼が自然に閉じていく。


『おやすみ』


 微かに蒼依の声が聞こえ、口を動かし、私の意識は落ちていった。

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