第15話 7月10日

 七月に入ってもまだ梅雨が明けたという情報はなく、今日も相変わらず空は灰色の分厚い雲に覆われている。所々に見える雲の隙間から降り注ぐ光はまるで神様か天使でも降臨しているかのような神々しさを持って地上を照らしていた。


 もちろん神様も天使もそんな気軽に姿を現す訳も無く、テストの点数も私の願いに反して散々な物だった。


 この日帰ってきた六科目分のテスト用紙を机の上に広げて溜め息を吐く。


「そんな溜め息吐く程悪くないじゃん」


 肘を突いて俯く私の頭に蒼依の声が掛かる。


「うん……」


 蒼依の言う通り、今日返ってきたテストはどれも公表された平均点よりは高い。しかし詳しく見てみると、どうしてそんな所を間違えたのか分からないミスが多く、今考えても分かるような問題ですら間違えて点数を落としてしまっている。所謂ケアレスミスというやつだ。


「それで落ち込まれたら私は何なん?」


 横から覗き込んできた彩綾が自分の解答用紙と見比べて呟くように言った。


 彩綾も別に勉強が苦手だった印象はなかったのだが、先程返ってきた生物基礎のテストを見せてもらうと、記憶にある点数より明らかに低かった。


「……体調悪かったん?」


 そう思うくらいには低い。中間考査ではこの二倍近くあった筈だ。これを見ると私の点数で落ち込むのは申し訳なくなる。


「いや、全然?」

「途中で寝てたんちゃうの?」


 後ろから覗き見ていた夕夏が小馬鹿にするように言う。


「寝てへんわ。真面目に解いてこれやっちゅうねん」

「それはそれでどうなの?」

「いや、もっと取れてた筈なんやけどなぁ」


 そう言って彩綾はわざとらしく溜め息を吐いてみせるが、それほど落ち込んでいるようには見えなかった。


「夕夏はどうやった?」

「別に悪くはなかったで。彩綾よりは余裕で上」

「わざわざそれは言わんでよくない?」


 彩綾が俯いた姿勢のまま夕夏を睨み付ける。


「あんたに負けてると思われるのは嫌やんか」


 夕夏は気にした様子もなく平然と言ってのける。


「中間の時は私の方が上やったやん」

「まぁ、今回は私の勝ちやから」


 仲良しコンビが痴話喧嘩を始めた所で、肩をとんとんと突かれて蒼依の方へ顔を向ける。


「紅音、この後時間ある?」


 視線を黒板の上に掛けられた時計に向ける。


 期末考査が終わり、夏休みに向けて授業は四十分授業になったため、授業が全て終わってもまだ十四時にもなってない。


「うん。別に用事はないし」


 頷くと、人形のような蒼依の口角が微かに上がった。


「じゃあどこか遊びに行かない? 前に言ってた平等院とか」


 そう提案する蒼依の声色は先程よりも明るかった。


「あぁ……」


 私は空を見て、蒼依に視線を戻し、頷く。


「うん。行こう」


 そう答えて、机の上に広げたままにしていたテスト用紙を一つ一つ折り畳んでクリアファイルに挟んでいく。


「どうしてちょっと迷ったの?」

「いや、だって暑いやん? 雨も降りそうやし」

「まぁ、確かに」

「でも今日逃したらまた暫く行けへんもんな」

「そうね。来週は月曜日も部活だから」

「せっかくの祝日やのにな」


 クリアファイルを鞄に仕舞い、忘れ物をしていないかどうか、机の引き出しの中に右手を突っ込み、右から左に動かして確認する。指先に触れたざらざらとした砂か埃のような物を、彩綾の居ない窓側で手を鳴らして払う。


「ね。本当に。まぁもうすぐコンクールだから仕方ないと言えば仕方ないんだけどね」

「応援行くから頑張ってや。そう言えば出番っていつ? もう分かってるっけ?」

「うん。六月に抽選あったし。ちょっと待ってね」

「そんな早かったっけ……?」


 蒼依が携帯から目的の物を見つけ出すまでの数十秒の間に、私は鞄を持って蒼依の隣に移動し、窓台に半ば腰掛けるような形で凭れかかる。 


「八日の十時半から」

「結構良い時間ちゃう? 早過ぎず遅過ぎずで」

「これトップバッターなのよね」

「え、そうなん?」

「うん。割と最悪」


 トップバッター。つまりはその日一番始めに演奏するという事だが、何が最悪かと言えば、本番前に練習する時間が殆ど取れないという事と、朝起きてすぐは声が出にくいのと同じで、楽器の音も鳴り辛い。全く鳴らないという訳ではないが、通常よりも音の響きが悪かったり、音程が安定しなかったりと、デメリットが多い。


 出番が午後だったならば、午前中に学校で軽く練習してから行く事もできる上に、楽器の調子も整えられる。


 そんなに変わる物なのかと疑問に思われるかもしれないが、金賞を取れる実力のある学校が代表に選ばれるどころか銅賞になるなんて事もあるくらいには変わる。


 どんな状況でも百点に近い演奏ができてこそという物かもしれないが、ただの高校生にそこまでを求めるのは酷だろう。


「まぁ、何とかなるやろ。コンサートホールやんな?」


 訊きながら蒼依が立ち上がったのを見て、彩綾と夕夏に声を掛けてから教室を出る。


「うん。紅音は行った事ある?」

「うん、あるで。去年と一昨年もそこやったし」

「そうなんだ。どんな感じだった?」

「どんな感じって言われても……。そういうなんは先輩とか先生が知ってるやろ」

「聞いてはいるけど、一応ね」

「そんな期待されてもそもそも全然覚えてへんしやな……」


 去年の事を思い出してみるが、出てくるのは楽器をトラックに積み込んでいる時の事や行き帰りのバスで酔った事くらいで、蒼依のためになりそうな事は何も思い出せない。


 上がり症の私は三年生でありながら本番前日からずっと後輩以上に緊張していて、当日も景色を見たり楽しんだりする余裕などなく、忙しさで目が回りそうになりながら必死に動いていたらいつの間にか写真撮影をしていた。演奏中の記憶やホールの様子などの記憶は全くと言っていい程無い。


「うん。全く覚えてへんわ」

「まぁ、別にいいんだけどね」


 階段の最後の一段を飛ばして少し前にいる蒼依の隣に並んで歩く。


 今日はいつもよりも早く授業が終わったためか、心なしか周りを話ながら歩く生徒たちの雰囲気がいつにも増して明るいように感じる。


 授業が早く終わった開放感もあるだろう。学校が早く終わった事によってできたこの時間でゲームをしたり、友達や恋人と遊びに行ったり、家でのんびりと昼寝をしたり、普段ならできない事ができると浮かれているのかもしれない。


 そんな事を想像しながら熱気の籠もった玄関で靴を履き替えようとして、右足の踵が上手く入らず、思わずふらついた所を咄嗟に左手を靴箱に突いて支えにする。その私の肩に蒼依は右手を置き、私を支えにしてシューズに踵を入れ、仕上げにトントンと爪先で地面を蹴った。


「ありがと」

「……」


 お礼を言われたら何と返すのがいいのだろう。どういたしまして、は少々堅苦しい言い方のような気がするが、それ以外の軽い言い方という物を知らない。


 疑問に思ったが、わざわざ調べる気にもならず、私の意識は背中に滲む汗と、立っているだけでも体力が削られてしまいそうなこの暑さに移った。


「ほんまに今日歩いて行くん?」

「いや、さすがに宇治までは電車に乗るつもりだけど……歩く?」

「いや、いい。電車で行く。私は定期の範囲やし」

「暑いからね」

「うんうん。楽できる所は楽して行かなな」


 校門の前に立って生徒を見送っている先生に挨拶をして、坂を下る。ゆっくり歩いても早く歩いても結局汗を搔く事には変わりないので、それなら早く涼しい所に行ける方が良いだろうと、いつもより少し早めに歩くよう意識すると、蒼依もそれに合わせて速度を上げた。


 暑い暑いと心の中で文句を言いながら歩き、駅に入っても変わらない暑さにうんざりしながら改札を通ると、間もなく電車が来るというアナウンスが流れた。


「あっ、もう電車来るんや」

「早く歩いた甲斐があったね」

「うん。これで逃してたら泣いてた」

「私も行く気力無くなってたかも」

「その時は蒼依の家に行っとったかなぁ」


 タオルで首元の汗を拭いながら言うと、蒼依は一瞬驚いたような顔をした後、にやりと笑って私を見る。


「あり。今から行く?」


 誘惑するような、何かを企んでいるようにどこか楽しそうな声で蒼依は言った。


「今日は平等院行くんやろ?」

「暑いじゃん」

「そうやけど……」

「うちならクーラーあるし」


 魅力的な誘いではあるが、残念ながら今の私は以前から蒼依と行きたいと思っていた宇治にようやく行けるという事で、完全にそちらに行く気分になっていた。それに、蒼依の家に行くには一つだけ嫌な事がある。


「でも蒼依の家行こうと思ったら山登らなアカンやん。それやったら手前のショッピングモール行くわ」

「確かに」

「まっ、今日はこっちやなぁ」

「そうね」


 嫌になったのかと思ったが、蒼依の表情を見る限りそういう訳でもないらしい。


 不思議に思いつつ到着した電車に乗り、冷房によって汗が止まる前に電車を降りて、外の暑さにまた気力を削がれる。


 階段を上り、改札を抜けて駅の外に出ると、蒼依はきょろきょろと辺りを見渡した。


「思ったより普通の所だね」

「どんなん想像してたん?」

「やっぱり宇治と言えば平等院とか源氏物語とかでしょ?」

「まぁ、そうやな」

「じゃあぱっと思い浮かぶのはやっぱりこう……和風というか、古風というか、そういう町並みじゃない?」

「あぁ、なるほどね。ここはあれちゃう? 駅の周辺やからこんな感じになってるってだけちゃう? ほら、京都駅とかもそうやったやん。京都の中心やからって古の日本を想像して行ったらそこらの駅よりもよっぽど近代的やし、周りにはビルがいっぱい生えてるしでちょっとがっかりしたやん?」

「うん。確かに」

「でもちょっと離れると私らが想像する京都って感じの町並みがあったやん。そんな感じでここら辺も、あっちの……宇治橋の方行ったらそれっぽい感じになってたと思う」


 以前浩二に連れられて来た時の事を思い出しながら、蒼依の求める町並みがあったであろう方向を指差す。


「紅音はこの辺来た事あるんだっけ?」

「いや、通った事があるくらいやな。何があるとかは全然知らん。なので案内は無理です」

「じゃあ今日は色々探索しようか」

「おっけー」


 返事をすると、不意に右手を蒼依に取られ、指が絡められる。無意識的に周りに視線をやり、近くに同じ制服を着ている人が居ないのをほんの数秒の間で確認してから蒼依の手を握り返す。蒼依の顔を見上げると、ちょうど同じくらいのタイミングで蒼依もこちらに振り向き、目が合うと、蒼依は人形のような表情を崩して微笑みかけてくる。私もそれに釣られるように笑みを浮かべ、照れ臭くなって顔を正面に戻した。


「あっ、あっち行かない?」


 蒼依が指差す方を見ると、突き当たりに蒼依が求めていたような雰囲気を持つ建物が見えた。


「お茶屋さんかな?」

「ねっ、ちょっと行ってみよう」


 蒼依に手を引かれ、ちょうど青に変わった目の前の横断歩道を渡り、そのままその道に入る。


 始めに目を付けたのは右手側にあるお茶屋さんの黒い看板。そこに書かれているいくつかのメニューの中で、私たちは同じ物を指差した。


「抹茶うどんだって」

「ね、私も今同じの見てたわ」


 スープの色が森のような深い緑色で、入っている具材は通常のうどんとそれほど変わりはないようだったが、それでもやはり緑色のうどんが看板の上半分を占領していると他に何があってもそれを見てしまうだろう。


「結構値段するなぁ」

「観光地のうどんとか蕎麦って大体これくらいじゃない?」

「まぁ、そう言われればそうなんやけども」

「まぁ、今日は別に食べに来た訳じゃないし」


 そう言いながらその場を離れ、道を進む。去り際に看板の横にあった食品サンプルのパフェを見て食欲がそそられる。


「でも何かアイスとかあったら食べたいかも」

「確かに。抹茶がいいなぁ」

「桜餅がいい」


 いつの日か食べたソフトクリームを思い出して呟く。


「アイスの話じゃないの?」

「そういう味のアイスがあんねんて」

「あったとしても時期が違わない?」

「そうなんよねぇ。残念ながら」


 蒼依の言う通り時期が違うというのもあるが、家族で旅行に行った時に食べて以来見た事も無い。どうしてもそれが食べたいという訳でもなく、わざわざそれを食べるためだけにまた旅行に行きたいとも思わないので、どこにあるのか調べてすらいない。


「紅音は和菓子だったら何が好き?」

「んー……水無月かなぁ」

「何それ?」

「なんか……餡子が乗った三角形の……あれ何やろ。お餅? お餅ちゃうな」


 蒼依の手ごと手を胸の前に持って来て、三角形の形を描くように腕を動かしながら水無月の形と味や食感などを記憶の中から引っ張り出してくる。


「そういうのがあるんだ?」

「うん。あっ、ういろうって分かる?」

「うん。ういろうは分かる。羊羹みたいなやつでしょ?」

「そうそう。それの上に餡子が乗ってる三角形のやつが水無月」

「へぇ。この辺に売ってるかな?」

「どうやろ。時期的に売ってないかも」

「もしかして六月にしか売ってないとか?」

「そうねぇ。基本的に六月に食べるやつやから……。でもまだ七月の初めやしもしかしたら売ってるかもしれん」

「見かけたら買って帰ろうかなぁ」

「うんうん。個人的にはあれが一番好き。後は八つ橋も好き」

「あぁ、八つ橋は私も食べた事あるかも。それも餅みたいなやつでしょ?」

「そうそう。あれなんやっけ? ハッカかニッキか何かの……」

「ハッカはミントでしょ。ニッキね」

「あっ、そうなんや。ハッカとかニッキとかメッキとかややこしくていっつも分からんくなる」

「メッキはもはや食べ物ですらないし」

「それはさすがに分かるけどね。蒼依は一番好きな和菓子何かあるん?」

「私はみたらし団子が好きかな」

「そっか、あれも和菓子か」

「あれはどう考えても和菓子でしょ」

「いや、そうなんやけど、年中見かけるから逆に存在を忘れてたわ」

「確かにスーパーとかコンビニにも普通に置いてるし。京都に来てびっくりした事の一つね」

「神奈川には無いの?」

「私は見た事無い。私が知らないだけの可能性はあるけど」


「へぇ」と返事をするのと殆ど同時に蒼依が立ち止まり、慌てて私も足を止める。どうしたのかと訊ねる前に蒼依が口を開く。


「このお店の名前聞いた事ある気がする」

「あぁ、抹茶と言えばここやな。入る?」

「せっかくだから入ろうか」

「やってるんやんな?」

「営業中って出てるし大丈夫でしょ」


 蒼依はそう言って何の躊躇も無く木製の格子戸を開けた。その瞬間、店内の温かい橙色の灯りが広がり、微かに感じていたお茶の香りが強くなる。


 私一人なら絶対に入らないであろう高級感漂う雰囲気のお店だが、蒼依に手を引かれるままに店内に足を踏み入れる。


「あ、涼しい」

「このお店に入って一言目がそれでええの?」

「外が暑いんだから仕方無いでしょ」


 ふぅ、と一息吐いて、蒼依はタオルで汗を拭う。手が解放されたついでに私も汗を拭いつつ店内を見渡す。


「あ、見て紅音。八つ橋とかもある」


 いつの間にかカウンターの前にいる蒼依に手招きされて、蒼依の見ているショーケースを覗いてみると、抹茶のわらび餅やバウムクーヘン、ほうじ茶のロールケーキやラスクなど、普段見かける事のない美味しそうな物がいくつも並べられていた。


「へぇ。お茶ばっかりやと思ってたけど、こういうのもあるんやな」

「せっかくやし何か食べていく?」

「ここに並んでるやつ食べれんの?」

「どうだろう?」


 そんな話をしていると、店員さんが丁寧にメニュー表を手渡してくれる。礼を言って受け取り、身を寄せ合ってメニューを見る。


「同じのが食べられる訳じゃないんだ」

「でもこの抹茶ぜんざいとか美味しそうちゃう?」

「食べるか」

「うん。おやつには丁度良いやろ。ちょっと高いけど」


 先程メニューを手渡してくれた店員さんに蒼依が声を掛け、店の奥にある窓際の席に案内される。


 今日は祝日でも何でも無い月曜日というだけあって、私たちの他に客は誰もいないようだった。人が多ければ暑苦しい外の座席に案内されていた事を考えると、とても運が良かったように思える。


「庭というか、外も綺麗だね」


 蒼依に言われて後ろを振り向き、窓の外を見ると、日本の庭園と聞いてイメージするような景色があった。


「ほんまやなぁ」


 ただの相槌しか打てない自分が不意に嫌になった。


 こういった綺麗に作られた景色や作品などを見て綺麗だと感じられる感性が私には備わっていないのではないかと思うくらいに何の感想も浮かばない。ただ他人の意見に同意するか、幼稚園児でも言えるような在り来たりな言葉しか出てこない。


「紅音」

「ん?」


 ぼうっと窓の外を眺めていると、蒼依に名前を呼ばれ、蒼依の方へ顔を向ける。


「疲れた?」

「ううん。何で?」

「いや、元気無さそうだったから」

「あぁ、ごめん。考え事してた」


 誤魔化すように笑ってみせる。


「今度は何悩んでんの?」


 テーブルに置いた手が蒼依の手に包まれ、上目遣いで蒼依を見ると、蒼依の目がじっとこちらを向いていて、咄嗟に視線を手元に戻したが、またすぐに顔を上げて笑って誤魔化す。


「別にそんな深刻な悩みちゃうって」

「本当に?」

「うん。わざわざ蒼依に相談する内容ちゃうし」

「試しに言ってみたり?」

「え、嫌」

「隠し事するんだ」

「蒼依ってたまにそういう狡い言い方する時あるよな」


 首に伝う汗を拭いたくて手を引こうとするが、存外蒼依の握る力が強く、諦めて空いている左手で鞄からタオルを引っ張り出して汗を拭う。


「頼ってくれないんだ」

「ほらそれ。絶対確信犯やろ」

「バレたか」

「そらそうやろ」


 漸く解放された右手を引っ込めて汗で濡れたタオルを丁寧に畳んで膝の上に置く。


 そうしている間に頼んだ抹茶ぜんざいと焙じ茶が運ばれてくる。


「美味しそう」

「ね。抹茶の色もすごい綺麗」

「写真とか撮る?」

「せっかくだから撮ろうかな」


 蒼依は鞄から携帯を取り出し、少しの間撮る角度を細かく調整し、何枚か撮った後、私の名前を呼んだ。名前を呼ばれたらそちらに顔を向けるのは至極当然の事で、私は特に構える事も無く間抜けな顔をして蒼依の方へ顔を向ける。その瞬間、カシャ、と先程から何度も聞こえてきていた音が鳴り、何が起きたか瞬時に把握した私は眉を顰めて蒼依を睨み付ける。


「何してんの?」

「いや、写真撮ろうとしたら逃げるでしょ?」

「消してや、それ」

「別にいいでしょ。誰に見せる訳でもないんだから」

「蒼依が見るやん」

「そりゃそうでしょ」

「消して」

「ぜんざい奢ってあげるから」

「消してくれたら奢らせてあげるわ」

「私にメリット一つも無くない?」

「奢らせてあげるやん」

「いや、別に奢りたい訳じゃないんだけど」

「とにかく消して」

「あっ、ほら。アイス溶けるから早く食べよう」


 これ以上無いくらいに下手な誤魔化し方をしてお茶を飲む蒼依を仕方なく許し、溜め息を一つ吐いてから私も焙じ茶で喉を潤し、焙じ茶の想像以上の美味しさに驚きつつ、冷たいぜんざいに乗せられている抹茶アイスをスプーンの先に少しだけ乗せて口に入れる。


「おいし」

「思ったより苦い……」


 微かに聞こえる程度に呟いた蒼依の方へ視線を向けると、蒼依は眉間に皺を寄せてぜんざいを見下ろしていた。


「そんな苦い?」

「いや、美味しいんだけど、もっと甘いのを想像してたから」

「あぁ、なるほどね。でも美味しいのは美味しいやろ?」

「うん。来た甲斐がある」


 いつも食べているご飯の器よりも小さいこのぜんざい一つで一千円する事を考えると少し頭が痛くなるような気がするが、値段の事は一度気にしない事にして、ゆっくりと抹茶と焙じ茶を楽しむ事に集中する。


 いつも通り黙々と食べてしまうといくら味わおうと思っていてもこの量では早く食べ終わってしまうので、何か合間に話をしてゆっくりと楽しみたい気持ちはあるのだが、何か話題があるのかと言われれば全くそんな事は無いため、結局食べる時以外に口を開く事はなく、十分程で器は空っぽになってしまった。


「おかわりする?」

「いや、さすがに破産する」


 ただでさえバイトもしておらず、月に数千円のお小遣いしかないというのに、ここで散財する訳にはいかない。まだ七月は始まったばかりで、欲しい本だってあるのだ。


「やっぱり奢ろうか?」

「そこまでではないから大丈夫」


 残りの焙じ茶も飲み干し、鞄を持って、トレイはそのままにレジへ向かう。さり気なく全額払った蒼依に店を出てから自分の分のお金を押しつけるようにして渡す。


「意外と頑固よね」


 蒼依は呆れたように溜め息を吐きながら財布に私から受け取ったお金を入れる。


「蒼依も別にかっこつけんでええねんて」

「別にかっこつけた訳じゃないけど」

「どっちでもええけど、私とデートする時は絶対割り勘な」


 そうでなくてはならない。


「えぇ……」

「文句あるならさっき撮った写真消すから携帯貸して」


 怒ったような口調でそう言って右手を差し出すと、蒼依はそこに左手を置き、軽く握ってそのまま腕を下ろして指を絡ませた。


「根に持ち過ぎじゃない?」

「写真嫌いやもん」

「何でそんな嫌いなの?」

「魂取られるやん」

「さすがにそれは嘘でしょ」

「うん。嘘」


 そう言った瞬間、蒼依と繋がっている右手の甲に冷たい何かが当たり、空を見上げる。そこには来た時には無かった筈の、今にも雨が降ってきそうな黒い雲があった。


「雨降ってきたかも」

「えっ、傘持ってる?」

「折り畳みやったらあるけど、蒼依は?」


 答えながら鞄の底の方を漁り、紺色の折り畳み傘を取り出す。


「持って来てない」

「よくこんな如何にも雨が降りそうな天気の日に傘持たずに外出れたな」

「流れるように嫌味を言うのやめてくれる?」

「冗談やん……。んで、どうする? 今日の所は帰る?」

「通り雨だったりしない?」

「可能性はあるけど、分からん」


 私は専門家でも何でもないので、空を見た所でただ雨が降りそうかそうでないかという素人丸出しの予想しかできない。


「でも確かに結構満足した感じはある」

「うん。時間も良い感じやろ?」

「うん。今四時過ぎだから、今から帰ったら……」

「私は五時半とかかな」

「買い物も途中でして帰るんでしょ?」

「うん」

「じゃあ今日は帰ろうか」

「おっけー」

「来ようと思えばいつでも来られるしね」


 手を繋いだまま蒼依が歩き出し、それに引っ張られるようにしてほんの少し小走りをして蒼依の隣に並ぶ。


「蒼依が部活サボればね」

「あっ、じゃあ無理かも」

「ええよ別に。蒼依は私より部活の方が大事なんやもんなぁ?」


 嫌味ったらしく蒼依の顔を覗き込むようにして言うと、蒼依は目を細めて私と目を合わせた。


「紅音も大概狡い言い方するよね」

「私のは冗談やん」

「私のも冗談だからね?」

「知ってる」


 そうやってじゃれ合っている間にもどんどん雨は強くなる。


「今光った?」

「えっ、嘘」


 蒼依がそう言った途端、ゴロゴロと遠くから雷の音が聞こえてきた。


「これは結構降るかもね」

「ね。さっさと駅行こ」

「うん」


 学校から駅に向かっていた時のように、今度は雨から逃れるために少し早足になって来た道を戻る。


 ちらほらと周りには傘を差している人が見られるが、ここまで来たら駅に着くまで差したくないような、そんな無駄な意地が顔を覗かせてきてしまい、駅に着いた頃には汗なのか雨なのか分からない濡れ具合になってしまった。


「結構濡れたなぁ」

「紅音が傘を差してくれたらもうちょっと増しだったとは思うけどね」

「いや、だってもうちょっとやったやん」

「横断歩道に引っ掛かった時点で差せば良かったんじゃない?」

「そもそも持って来てない人が文句言うなや」

「それは確かに。ごめん」

「謝ったら私が悪いみたいになるやん」

「えぇ……むずかし……」

「冗談やって。ごめんな。傘差せば良かったわ」

「まぁ、私も多分あそこだったら差してないけどね」

「は? 私の謝罪返してくれる?」

「まぁまぁ、そう怒らないの」

「腹立つわそれ」


 笑いながら文句を言い、改札を通って別れようとすると、蒼依は然も当然のような顔をして私についてきた。


「何でこっち来んの?」

「いいからいいから」


 何かを企んでいる事は察しながらも、何かしたい事があるのだろうと気にしない事にしてホームに下りる。


 ちょうど私が乗る予定の電車が到着する所だったようで、乗り込む前に蒼依がどうするつもりなのか訊ねようとすると、蒼依に手を引かれて階段の裏側に連れて行かれる。


「私この電車に乗りたいんやけど……」

「一本くらい遅れても大丈夫でしょ?」

「まぁ、そうやけど」


 何となく、蒼依のしたい事が分かったような気がして、心臓の鼓動が大きくなる。


 お互いに黙り込んだまま電車が到着し、たくさんの人が降りて、たくさんの人が電車に乗り、電車が走り出す。


「蒼依」

「何?」

「緊張してる?」

「……何で?」


 蒼依の手に少し力が入ったのが掴まれている右手に伝わってきた。


 どうやら図星だったらしい。


 私は堪えきれずに笑いが漏れてしまい、咄嗟に左手で口元を隠した。


「緊張したら悪い?」

「いや、こんなとこでそんな緊張するような事するのが悪いやろ」

「……うん」


 決まり悪そうに顔を逸らした蒼依がどうしようもなく愛おしく思えて、私は蒼依の名前を呼ぶ。


「蒼依」


 それに反応してこちらを向いた蒼依の顔を捕まえて、私はぐっと背伸びをして蒼依に口付けをした。


「大好きやで」


 衝動的な行動で、自分で自分が取った行動に戸惑う。


 顔が熱い。肌に触れるじめじめとした嫌な空気が気にならなくなるくらいに顔に熱が集中して、この場から逃げ出してしまいたい衝動に駆られる。


 けれども、それ以上に繋がれた手と唇に残る感覚が与えてくれる多幸感を手放したくなかった。


 不意に横から人影が出てきて、咄嗟に蒼依と少し距離を取る。


 薄暗くてよく分からないが、蒼依はまだ緊張しているのか、照れているのか、呆然と私を見ていた。


 それから次の電車が来るまで蒼依は何も話さず、辛うじて別れの挨拶だけは返してくれた。


 その様子がまた私の中にある蒼依への気持ちを大きくさせる。


 携帯を開き、先程伝えた言葉を、今度はメッセージで送り、ついでに気を付けて帰るように注意しておく。


 少しして蒼依からいくつもメッセージが送られてきて、暫く上がった頬が下がらなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る