第14話 7月7日
チャイムが鳴り、解答用紙が回収される。まだ完全には終えていないうちに生徒はあれこれテストの感想を言い始め、この教室だけでなく、壁を挟んだ別の教室も騒がしくなっているのが聞こえてくる。まだ終わっていないから静かに座っていろと先生からの注意が入るが、それでも少し声量が落ちた程度で、話をしている人はいた。
全ての解答用紙を回収し、氏名欄の記入漏れが無いかなどの確認が終わり、先生が号令を掛ける。そして漸く短いようで長い期末考査が終わった。
「疲れたぁ……」
張り詰めていた緊張の糸が解れるのと同時に前進の力が抜けたように机に上半身を投げ出し、伸ばした右腕で蒼依の腕に触れる。
「蒼依お疲れぇ」
ペシペシと制服が半袖になった事で露わになった蒼依の素肌を叩いたり擦ったりしていると、手を掴まれ、ゆっくりと蒼依が振り向いた。
「紅音もお疲れ。勉強の成果は出た?」
「んー……微妙」
「ごめんね?」
「別に蒼依の所為……かもしれん。許さん」
睨み付けると、蒼依は口を横に引き延ばして笑う。
「キスしたの思い出してたんだ」
「……」
否定できないのが悔しくて何か言い返してやろうとは思ったが、蒼依にダメージを与えられるような事が何も浮かんでこなくて沈黙する。
「……キスしてもいい?」
「アカンに決まっとるやろ。学校やで?」
「分かってるけど……」
「二人ともお疲れー」
拗ねた子どものように口を尖らせる蒼依の言葉を遮って声を掛けてきたのは彩綾だ。その横には当たり前のように夕夏も居た。その手には弁当箱の入った袋があり、相変わらず私の机に集まって食べる気のようだ。
「彩綾もお疲れ。夕夏も」
「うん。お疲れ様」
「みんなこれから部活やんな?」
「うん」
席を立つと、待ってましたと言わんばかりに夕夏が座る。鞄を肩に掛けて忘れ物が無いか再度確認する。
蒼依も椅子を私の机の方に向け、彩綾も自分の椅子を持って来て机の横に座り、弁当を広げる。いつもなら私も此処に混じっている筈だが、今日のように授業が午前で終わる日は此処に混ざる事はできない。
「夕夏、美術部って毎日やってるの?」
布の結び目を解きながら蒼依が訊ねた。
「月曜はみんなと一緒で休みやけど、後は火曜日と木曜日と土曜日が活動日で、それ以外は基本的に自由参加」
「そうなんだ。じゃあ今日はその自由参加の日?」
「うん」
「この時期って何かコンテストがあったりするの?」
「あるにはあるで」
「じゃあ今はそれに向けて描いてる感じ?」
「いや、今は文化祭の時に展示する絵を描いてる」
「へぇ。そういうのがあるんだ」
「それも別に描いても描かんでもええんやけどね」
帰るタイミングを失い、窓の縁に凭れて三人が楽しそうに話しているのを眺める。蒼依はまるで私の事など忘れたかのように夕夏と彩綾の方ばかり見て楽しそうにしている。
きっとそんな事は無いとは思うが、一度その考えが過ぎると、不安が大きくなり、自分は此処に居てはいけないような気がしてくる。
胸の奥底でぐつぐつと黒い何かが湧き出してくるのを感じる。嫉妬心と疎外感が入り交じり、吐き気を催すような不快感となったそれは、彼女らの笑い声が耳に入る度に大きくなっていく。
やがて蒼依と一緒に居たい気持ちより、ここから逃げ出したいという気持ちが大きくなり、何も言わずに腰を上げ、静かに帰ろうとする。どうせ私が居なくなった所で誰も何も困らない。
「あっ、紅音。帰るの?」
真っ先に声を掛けてくれたのは彩綾だった。
「うん。部活がんばってな」
努めて笑顔を作り、手を振る。
「おう。またな」
蒼依と夕夏は手を振ってくるだけだった。
教室を出て、玄関に向かっていると、罪悪感に似た何かが胸に纏わり付いてきて、肺が重くなって胃が押し潰されるような感覚に襲われる。
突然何も言わずに立ち去った私が悪いのは分かっているし、彩綾のように声を張るタイプではない二人が声を掛けてくれなかったのも、私がさっさと教室を出ようとしていたのが悪いという事は分かっている。
どうしてこんな事で不機嫌になっているのか。我ながら子どもみたいだと思う。別に前の時だって私が帰った後は三人で仲良く話していただろうし、蒼依だってずっと私と一緒にいる訳ではないのだから、部活の人と話す事もクラスの人と話す事も普通にあるだろう。それでも蒼依の恋人は私で、私が蒼依の一番である筈なのだから、何の心配もいらない。
分かっている筈なのに、胸が苦しい。涙が溢れそうになる。今すぐにでも蒼依を誰もいない所に連れ出して抱き締めたい。あの日のようにキスをしたい。温かい手で撫でて欲しい。触って欲しい。そうすればきっとこの胸の靄が晴れるに違いない。しかしそうすると、私は蒼依に嫌われてしまう。嫉妬深い女は嫌われるのだと色んな物語を読む中で学んだ。
溜め息を吐きながら靴を履き替え、薄い雲の掛かった真っ白な空の下に出る。
「あっつ……」
あまりの暑さに思わず呟く。ずっと湯船に浸かっているような気分だ。
玄関を出て門を潜るまでにも汗が滲み、シャツを濡らす。日傘を差した所で遮る日差しは元から存在していないため、大して意味が無い。こうなったら急いで歩こうがのんびり歩こうが搔く汗の量は誤差と言えるだろう。だからと言って走って帰ろうとは思わないが、いつもより早く足を動かし、駅を目指す。
少しして後ろから自転車の走る音が聞こえてきて、私の横で地面とタイヤが擦れる音がして止まった。
「あれ、紅音やん」
そう声を掛けてきたのは浩二だ。
「まだ居ったんや」
いつも浩二は友達と何かを話す事もなく誰よりも先に教室を出て行くので、今日もとっくに帰ったと思っていた。
「うん。トイレ行って提出物出してってしてたらちょっと遅くなった」
それを聞いて私は足を止める。
「どうしたん?」
「提出物忘れてた……」
「えっ、やばいやん」
「どうしよ……」
「今から出しに行く? まださすがに回収はしてはらへんやろうし」
正直な所今からまた坂を上って学校に戻るのは面倒なので、このままこの坂を下って帰ってしまいたい。
黙って俯く私に、浩二は言う。
「それか俺が出しに行ってこよか? 職員室の前の箱に入れるだけやしな」
とても有難い申し出ではあるが、さすがに良心が痛んだ。
「いや、自分で行くわ」
そう言って私は下ってきた坂を上り始める。そして何故か浩二も自転車を降りて引き返してきた。
「なんで一緒に来るん?」
「いや、何となく?」
彼は首を傾げながらそう言った。
別に彼が一緒に来る事に不快感も何も無いので、彼が何となくという理由で来るというのなら、私に断る理由は無い。
「紅音はテストどうやった?」
「微妙。思ってたより分からんかった」
「そんな事言っといて実はめっちゃ点数高かったりするんちゃうの?」
「そやったらええけどな」
頑張って勉強をしてきたつもりでいたが、思っていたよりも分かる問題が少なかった事を思い出して溜め息が出る。山が外れたというより、思い出せない問題ばかりだったため、完全に私の記憶力の問題だ。それ故にショックは大きい。
「前回は結構点数良かったやんな?」
「まぁ悪くは無かったけど……」
「目標高ない?」
「満点取りたいなぁとは思うけど、七十点とかあったし」
「いやいや、それで言うたら俺赤点ギリギリやったで?」
「勉強してなさそうやもんな」
「今回はちゃんと勉強したから」
「じゃあ前回はしてへんかったんや」
「いやぁ、バイトしてたら疲れて勉強する気にならへんかってんなぁ」
「アカンやん」
「そう。そやから今回は結構頑張ったで」
「補習にならんとええな」
「普段の何倍も頑張ったのにそうなったら泣く」
五分前に潜ったばかりの門を潜り、浩二には待っていてもらい、玄関には入らず職員室横の階段を上がる。まだ提出物回収用の箱が片付けられていない事にほっと息を吐き、靴を脱いで廊下に上がり、鞄から指定されているノートやファイルなどを取り出し、それぞれの場所に重ねて入れる。
他に出し忘れが無いかを二度三度と確認し、先生に出会して面倒な事になる前に靴を履いて階段を降りる。
「お待たせ」
「ちゃんと全部出した?」
「うん。ありがとう。助かったわ」
「たまたまやけどな」
浩二はいつものへらへらとした様子で自転車を押して私の隣を歩く。
先に帰ってくれていても何も問題は無いのだが、何故か彼は待っていてくれ、今も自転車に乗ってさっさと帰ろうとはせずに私の歩く速度に合わせて自転車を押して歩いている。これもやはり私の事が好きだからこういう事をしているのだろうか。彼なら訊けば答えてくれそうな気もするが、それで肯定されたとしても私が困る羽目になるため、疑問のまま心の中に止めておく。
「浩二はこれからバイト?」
視線を彷徨わせて、行き着いた先にあったくるくると回る自転車のタイヤを見ながら訊ねる。
「そうやな。帰って、お昼食べて、ちょっとゆっくりしたらバイトやな」
浩二は溜め息交じりにそう言った。
「バイトってやっぱり大変?」
「大変っちゃ大変やけど、慣れたら楽しいな」
「飲食店やっけ?」
「そうそう。覚えなアカン事はいっぱいあるけど、お蔭で飽きずにできるし、お客さんが居はらへんかったら仕事しながら普通に喋ったりもしてるしな」
「ふぅん」
自分にはできそうにないな、とアルバイトの候補から飲食店を外す。具体的にどんな仕事があるのかは知らないが、メニューや接客方法、レジなど、今思い付く物だけでもできる気がしない。それ以外の仕事は当然あるだろうし、物覚えの悪い私がそんな所でアルバイトをしてもパニックになって迷惑を掛けるだけだろう。
「紅音はアルバイトせぇへんの?」
「夏休み入ったらやろうかなぁとは思ってるけど……」
「そうなんや。何すんの?」
「まだどこにするかとかは考えてへん」
「夏休みの間だけやったら短期やろ? プールの監視員とかありそう」
「暑いの嫌」
「いや、プールやから屋内やし、水着着てたりするんちゃうの?」
「確かに」
「やる時教えて。行くから」
「誰が教えるか」
「ですよねぇ」
ふと蒼依の事が頭に浮かぶ。一瞬感じた不快感を塗り潰すように蒼依の事だけを考える。
蒼依は私がプールに行こうと誘ったら来てくれるだろうか。海が良いと言うなら海でも良いが、暑さを考えるとやはり屋内のプールが望ましい。そこは蒼依次第だ。もしかしたら実は泳ぐのが苦手でプールも海も嫌がるかもしれない。水着を着たくないという可能性もある。
彩綾と夕夏も誘った方が良いだろうか。いつも一緒にいるメンバーではあるが、四人で遊んだ事はない。せっかくみんな時間があるであろう夏休みなのだから、集まらなければ損をしたような気分になる。けれども、蒼依と二人で居たい気持ちもある。こちらから誘っておきながら二人を放っておく訳にもいかないだろう。そうするくらいなら始めから誘わない方が良い。
「何か悩み事?」
不意に浩二が話しかけてきた。
「何?」
「いや、何かいつも以上に暗いし、悩みでもあるんかって」
「あー……悩みと言えば悩みやけど……」
浩二に言うような事ではないような気がして言葉が詰まる。
「家の事?」
「いや、うーん……」
今の悩みは私と蒼依の、更に言えば私だけの問題であり、浩二は全くと言っていい程関係が無い。私の事を好いてくれている人に私が好きな人に対して抱いている感情について話すのはなかなか酷な事ではないだろうか。
どうしよう、どうしよう、と出来の悪い頭は同じ事を何度も繰り返し考え、一向に先に進まない。風に吹かれて鳴る葉擦れの音や自転車の車輪がカラカラと回る音、すぐ近くを走る車の音など、耳に入ってくる全ての音が私の思考を妨げる。
「言い辛い事やったら別に言わんでもええけどな」
「……うん」
微かに聞こえた浩二の言葉に辛うじて返事をする。
「まぁ、連絡先も交換してるし、言いたくなったらいつでも言ってや。愚痴でも何でも聞くし」
「うん。分かった」
「じゃあ今日の所は帰ろうかな」
顔を上げると、いつの間にか駅前の大通りまで下りてきていた事に気付く。
「じゃあまたな」
「うん」
横断歩道の信号が青になり、車が来ていないか確認してから渡り始める。渡りきった所で振り返ると、浩二と目が合った。手を振ると、浩二は優しく微笑みながら振り返してくれた。
車が視線を遮ったタイミングで逃げるように顔を正面に戻し、駅に向かう。駅のホームに下りて間もなく到着した電車に乗り、空いた席に座って一息吐く。車内は冷房が効いており、汗で濡れた身体が冷やされて、軽く身震いをした。
電車が動き出し、景色を眺めている間、頭にあったのはやはり蒼依との事だった。
携帯を鞄から取り出し、蒼依のメッセージ画面を開く。そこに『さっきはごめん』と打ち込み、一瞬躊躇った後、意を決して送信する。
暫く待ってみるが、既読は付かない。考えてみれば当然の事だ。学校を出てから既に三十分以上経過している。この時間ならもう昼食は食べ終わり、部活を始めていてもおかしくはない時間だ。
溜め息を吐き、携帯を鞄に仕舞う。気分を入れ替えるために本を開き、そこに書かれた文字を読む。しかし脳が疲れているのか、ただ私がそういう気分でないだけなのか分からないが、今一内容が頭に入ってこない。文字を心の中で一文字ずつ読み上げてみても読み上げるだけでどんな事が書かれているのか理解できない。
今までどうやって本を読んでいたのか分からなくなった。今日は駄目な日だ。どうも調子が悪い。嫉妬していたのも私がどこかおかしかったからだ。こんな調子じゃあきっとテストも散々な結果になっていそうだ。
何度目かの溜め息を吐き、窓の外を眺め、ゆっくりと瞼を閉じる。眠気は無い。けれど今は何も考えず眠ってしまいたい気分だった。
蒼依の事を考え、浩二の事が過ぎり、帰ったら何をするか考え始める。眠れない。ふと今日が七夕だという事を思い出したが、だからといって何かしなければならない事がある訳でもない。ただ眠りを妨げるだけだった。
連想ゲームをするようにして七夕祭りの事が頭に浮かび、全くやってくる気配の無い眠気の事など忘れて携帯を開き、京都の祭りを調べる。
貴船で七夕祭りをやっているらしいが、今から行けるような場所ではないし、一緒に行く相手もいない。蒼依と行くなら八月後半でなくてはならない。もしかすると夜なら行けるかもしれないが、それならなるべく近い場所の方が良いだろう。
一番上に出てきた京都の祭りをまとめてくれているサイトを開き、上から順に目を通す。
気になる物はあるが日程が問題で行けない物ばかり。念のため他府県も調べてみたが、やはり気になる物はあっても日程の問題で難しい。開催日に問題が無くても個人的にあまり興味の惹かれる物ではなかった。
地元で小さいお祭りでもやっていれば誘う事もできるのだが、残念ながら日程が合わないどころか、そもそもやってすらいない。私が知らないだけ、もしくは覚えていないだけという可能性もあるが、やっているなら妹の付き添いで行っているだろうし、覚えていない方がおかしい。
結局蒼依と行けそうな祭りは見つけられないまま電車を降りて、向かい側に止まっている電車に乗る。探すのは諦め、景色を眺めて過ごす。
電車を降りて、掲示板に貼られたチラシを一通り見てみるが、時期が早いからなのか、私の記憶通り存在しないのか、祭りの情報は無かった。
微かな期待を裏切られ、溜め息を吐く。
サウナにでも入っているような気分で白い空の下を歩き、途中でスーパーに寄って涼むついでに夕飯の買い物を済まし、家に帰る。
「ただいまー」
玄関の扉を開け、靴を脱ぎながら誰もいない廊下に声を掛ける。それからすぐにこの時間はまだ誰も帰っていない事を思い出して、胸が締め付けられたように痛んだ。
鞄は床に置いておいて、買い物袋をキッチンのカウンターに置き、洗面所に行って湿気でベタ付いた顔や手を洗う。買った物を冷蔵庫に入れ、鞄を持って自室に向かう。制服を脱ぎ、タオルで汗を拭ってから薄い生地のシャツとスウェットのショートパンツに着替えて、扇風機のスイッチを押し、ベッドに腰掛けて冷たい風に当たる。
段々と座っているのがしんどくなってきて、後ろに倒れて目を閉じる。もうとっくの昔に一時を過ぎているが、お腹は空いていない。電車の中で欲していた眠気が今になって訪れ、私の瞼を重くする。
「お姉ちゃん」
突然妹の声が聞こえて、落ちていた意識が戻ってくる。目を開き、身体を起こすと、隣に妹が座っている事に気付いた。
「あれ、なんで居るん?」
寝起きの掠れた声で訊ねる。
「何でって、学校終わったからやけど」
妹の言葉を理解した途端、私は飛び跳ねるように立ち上がる。
「やばっ、洗濯物入れてない」
「手伝う」
「うん。お願い」
扇風機の電源を切り、階段を下りて庭に干してある洗濯物を妹と協力して部屋に取り込む。幸いにも雨は降っておらず、洗濯物は確認した限りちゃんと乾いているようだった。
「寝過ぎた……」
「しんどいの?」
「ううん。ちょっと疲れてただけやから大丈夫」
少しお腹が空いてきたのを感じながら洗濯物を一つ一つ丁寧に畳み、種類や用途別に重ねていく。妹は服を畳むのが少し苦手らしく、畳むのが簡単なタオルを中心に畳んでくれている。苦手というよりは、恐らく私と同じように慣れていないだけだとは思うが、態々無理にやらせるような事でもないので、私が服を中心に畳む。
二人でやれば家族四人分の洗濯物は十分程度で片付いた。時間は夕方の四時。夕飯を作り始めるにはまだ早い時間だが、昼食を食べずに昼寝をしていた私のお腹は先程からずっと空腹を訴えかけてきていた。
「お姉ちゃんゲームするー?」
「やっててええよー」
ゲーム機を棚から引きずり出して絡まったコードに悪戦苦闘している妹を余所に、私は冷蔵庫を開けて昼食に食べる予定だった弁当を取り出し、テーブルに箸と一緒に置く。
「あれ、お姉ちゃんまだお昼食べてへんかったん?」
「うん。だから先ゲームやってて。私は見とくし」
「じゃあ今日はこれやろう」
「涼音もお茶飲む?」
「飲むー」
「おっけー」
二人分のグラスとほうじ茶をテーブルに置いて、妹の隣に座って弁当を開け、妹のゲームプレイを観戦しながら箸を進める。
「食べる?」
「……いらない」
「そう」
あまり食べると夕飯が入らなくなるので、妹に食べさせてやろうと思ったのだが、妹も同じ考えをしたのか、一瞬私の手元を見て悩んだ様子を見せたが、すぐに視線をテレビ画面に戻した。
人間と言うにはあまりにも身体能力の高いキャラクターが妹の指によって超人的な動きをしながら次々に現れる敵を薙ぎ倒していく。ダメージを喰らう度に妹の眉間に皺が増えていく。
妹がいくつかのステージをクリアして小難しいストーリーが進んで、私も目の前の弁当を食べ終わり、ミスをして唸りながら皺を増やす妹と、始めに比べて敵が増えて騒がしくなったテレビを眺める事に専念する。
また暫くして妹の集中力が落ちてきてミスが増え始めた頃、玄関の鍵が開く音がして肩が跳ねる。ガサガサと袋を擦る音と共に聞こえてくる足音で帰ってきたのが母だと判断する。
「ただいま~」
リビングの扉を開けて入ってきたのはやはり母だった。
「「おかえりー」」
妹と声を揃えて出迎え、空になった弁当をゴミ箱に捨てる。
「今日のご飯何するんやっけ?」
「今日は生姜焼きと茄子の焚いたんと、あと何か適当に野菜を周りにばーっと……」
「野菜ばっかりやん」
妹がゲーム機を片付けながら文句を言ってくる。
「あんまり文句言うと涼音のお皿の上の野菜が増えるで」
「文句なんか言うてへんやん」
「いや、今のは文句やろ」
「ツッコミって言うねんで」
「はいはい紅音もさっさとお茶冷蔵庫入れとき。温くなるで」
母からお叱りの言葉が入った所で言い返すのはやめてテーブルの上を片付ける。その流れで冷蔵庫から今日使う食材を出し、カウンターに並べる。その間に母がお米を炊飯器にセットして、音楽が流れる。それからはいつも通りの分担で調理する。その間に父が帰ってきて、頭を撫でられた妹が父に汗臭いと言って父が落ち込んで風呂に向かった。
父が風呂から上がってくるだろうというタイミングで料理を完成させて食卓に並べる。全員が揃った所で食べ始め、相変わらず静かな空間で誰も殆ど何も話さずに食べ終わり、妹から順番に風呂に入る。
私は自室に戻り、携帯を開くと、蒼依からメッセージが届いていた。
『ごめん。何の話?』
案の定あれだけでは伝わらなかったらしい。
どう説明しようか悩み、何度か文字を打ち直し、送る前にもう一度確認してから送信する。
『私が帰る時感じ悪かったやろ?』
きっとすぐには帰ってこないだろうと、携帯を閉じてローテーブルにノートと教科書を広げ、妹が上がってくるまでに少しだけでもやっておこうとシャーペンを持った所で携帯が明るくなったのが視界の端に見えて、つい手が伸びる。
見ると、蒼依からの返信が来ていた。
『そうだっけ?』
何となく予想はしていたが、蒼依は気にしていなかったらしい。いや、よく考えるとこれは私の事なんて見ていなかったと言っているのだろうか。
さすがにそれは勘繰り過ぎだろうと、考えを振り払い、返事を送る。
『気にしてないならいいや』
すると今度は閉じる前に既読が付いた。少し待っていると、画面がスクロールされて、蒼依のメッセージが表示される。
『そっか。何か言いたい事があったら遠慮無く言って』
脳内でメッセージが蒼依の撫でるような優しい声で再生されて、自分でも分かるくらいに口角が上がる。別に誰かに見られている訳でもないのだが、何となく隠さないといけないような気がして、唇を締め、手で口を覆うようにして頬を抑える。
『ありがとう。大好き』
面と向かっては恥ずかしくて言えない事を伝えてみる。またすぐに既読が付いて、画面がスクロールする。
『後で電話するからその時にまた言って』
一秒もしないうちに文字を打ち始め、五秒経たずに送信する。
『それは無理』
『どうして?』
『これからお風呂やし』
『後でって言ってるじゃん』
『じゃあまた後で』
そう打ち込んでから逃げようとアプリを閉じると、すぐに通知が来て、『私もお風呂入ってくる』というメッセージが見えたので、『行ってらっしゃい』とだけ送って携帯の画面が見えないようにして少し離れた所に置いておく。
蒼依と話して気分が良くなった私は気合いを入れ直し、ノートと教科書を開くと、扉がノックされる。
「お姉ちゃんどうぞー」
「はぁい」
涼音の明るい呼び掛けに返事をして、ふぅ、と入れた気合いが空気となって抜けていく。良いタイミングと言えば良いタイミングなのだが、どうせなら一ページでも進めてから入りたい欲が残っていて、私は渋々シャーペンを置いて立ち上がる。
風呂上がりに涼めるように冷房を付け、冷気が逃げないよう扉を閉めて風呂場へ向かう。
蒼依との約束はあるものの、急ぐ必要はないので、のんびりと湯船に浸かり、軽く汗を搔いてきたら湯船から出て、何となくいつもよりも丁寧に身体を洗う。それから身体を拭いて、髪を乾かし、歯を磨いて、パジャマを着たらリビングに戻って母に呼び掛ける。コップ一杯のお茶を飲んで水分補給をして階段を上がると、私の部屋から漏れ出した冷気が足を冷やす。
部屋に入るなり携帯を確認し、ベッドに腰掛けて蒼依にメッセージを送る。
『いつでもどうぞ~』
それだけ送っておいて、先程やろうとしていた予習を今度こそ始めようとシャーペンを持つ。しかし二度あることは三度あるとはよく言った物で、蒼依から電話が掛かってきた。
「どうもー」
『どうも。今大丈夫だった?』
「まぁ、大丈夫ではある」
『何? 何かやってたの?』
「いや、蒼依から電話掛かってくるまで予習しとこうって思った瞬間に掛かってきただけ」
わざと責めるような口調で言ってみると、蒼依は戸惑いながらも『えっと……ごめん?』ととりあえずの謝罪の言葉をくれた。
「別にええけどな」
音声をスピーカーに設定し、携帯をテーブルに置く。
「蒼依は何すんの?」
『私は今日は早めに寝ようかなぁって』
「えっ、何か用があったんちゃうの?」
『あっ、そうそう。紅音。さっきの言ってよ』
「さっきの?」
反射的に聞き返しつつ、蒼依との会話を思い返すと、思い当たる事があった。
『まぁもうちょっと後でもいいんだけど』
「じゃあもうちょっと後でな。どうせまだ寝ぇへんのやろ?」
『うん。さっき上がったばっかりやから』
「そっか」
自分が訊いた事に対する答えに何と返事をしていいのか分からず、在り来たりな返事をする。こうして出来た沈黙は少し気まずい。何か話す内容を考えていると手が進まないので、一旦気にしない事にして手を動かす。
『──ね。紅音』
「えっ、何?」
『あっ、反応した』
「ごめん。集中してた」
携帯の画面を見ると、タイマーが一時間を過ぎていた。随分と長い間蒼依を放ったらかしにしてしまっていたらしい。ついでに休憩にしようとシャーペンを置く。
『ううん。大丈夫。ただ名前呼んでただけやから』
「何か関西弁移ってない?」
『えっ……』
「前から思ってたけど、イントネーションも段々釣られてきとるよな」
『いやいや、そんな事ないでしょ』
「ほら、何か似非関西弁みたいになってるやん」
『そんな事ないって』
「その釣られないっていうこだわり何なん?」
『ほら、関西弁って釣られやすいって言うでしょ? それを聞いたら反発したくなったというか』
「なるほどね?」
言い訳を並べる蒼依は普段見せるクールな雰囲気は無く、とても可愛らしく感じた。微かな加虐心と共に好きという気持ちが膨らんでくる。
「蒼依。大好き」
『んぐっ、今言う?』
「うん。言いたくなったし」
『基準が分からないんだけど』
「分からんでええの。もうそろそろ寝るんちゃうの?」
『そうね。ちょっと眠たくなってきたし』
「部活の方は順調?」
『うん。特に問題はないし、順調かな』
「明日も部活あるんやろ?」
『うん』
「頑張ってね」
『ありがと。大好きだよ。紅音』
「私も。じゃあおやすみ」
『おやすみ』
携帯から電子音が鳴り、通話が切れた。
相変わらずあっさりと切られる電話にくすりと思わず笑みが溢れる。
好きだと言い合うだけの、周りから見ればくだらないやり取り。それがどうしようもなく幸せで胸が満たされる。蒼依も同じ気持ちになっているのだろうか。昼間の事などもうどうでも良くなっていた。
この気持ちを切り替えて勉強しようなんて気にはならず、私は休憩を止めてノートを閉じ、ベッドに寝転がった。
次に蒼依と会えるのは三日後だと思うと、少し胸が痛んだ。
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