第13話 7月1日

 友達と遊ぶ日に必ず抱く悩みがある。それは集合時間までの時間が暇という事だ。


 今日は蒼依と約束していた通り、私の家でテスト勉強をする事になっている。前日に予め話し合って、十時前に私の家の最寄り駅に待ち合わせになったのだが、二度寝をしたにも拘わらず時刻は午前七時。集合時間まで後三時間。駅まで歩く時間を多めに見積もっても家を出るまで後まだ二時間半もある。どれだけゆっくり準備をしても暇ができてしまう。


 そこで私は暇潰し且つ蒼依に早く会える素晴らしい方法を思い付いた。わざわざ十時まで蒼依が来るのを待たずに、私が途中まで電車に乗って蒼依を迎えに行けば良いのだ。そうすれば蒼依に早く会えるし、校外学習以来のちょっとした電車旅ができる。


 我ながら天才かもしれない、と自画自賛をしつつ、せっかく買ったのに着る機会のなかった新品同様の服に着替え、傘を持って家を出る。たまには化粧でもしようかと思ったが、汗で流れ落ちて不細工になる未来が見えたのでやめておいた。


 最近は気温が三十度を超える事が普通になってきて、陽の当たらない家の中を裸で過ごしていたとしても汗が滲んでくるくらいに暑い。今日は雨が降っているお蔭で気温自体は少し下がってくれているものの、湿度が高い所為で体感では晴れている日よりもずっと暑く、早く蒼依に会いたいという気持ちすらも少し萎んできてしまう。


 家から出た事を後悔しながら電車に乗り込み、蒼依の場所を把握するため、メッセージを送る。どうせならちょっとしたサプライズにして驚かせてみたいが、その為には打ち合わせ無しで蒼依の乗っている電車に乗らなければならない。


『今どこ?』


 電車が動き出した頃、返信がきた。


『今電車乗ったとこ』

『早く来て』

『無理』

『会いたい』

『今向かってるんだから待ってて』


 文字だけで見ると素っ気ない返事をされているように感じるが、このメッセージを蒼依が言っていると想像してみると、蒼依はいつもの無表情なようで若干口角を上げて微笑み、私の頭を撫でてくれるのが見えて、思わずにやけてしまう。周りから変な人だと思われてしまいそうだと、唇を締めて抑えようとするが、頬が上がるのは止められそうになかった。


 気を取り直し、どうすれば蒼依の乗っている車輌が分かるか考え、一つ思い付いた案を実行してみる。


『前から二両目に乗っといたら乗り換えも楽やし、出入り口も近いで』

『移動するのめんどくさい』


 良い案だと思ったが、そう上手くはいかないらしい。もう片っ端から探した方が楽なような気がしてきた。


 電車を乗り換え、どこで合流しようか考える。今日の予定を決めた日に蒼依が乗る電車は聞いているので、その電車に乗れるように予め何処かの駅で待機していればいい。電車に乗ったタイミングはほぼ同じなので、真ん中辺りの快速が止まる駅で待っていれば乗れる筈だ。


 適当に雑談をしながら電車に揺られる事二十分。本当に合流できるのか不安になってきて、予定していたよりも手前の駅で降りて、一度改札を出てから反対側のホームに移動して蒼依の乗っている電車を待つ。


 時刻表と時計を何度も見比べ、蒼依が乗っているであろう電車が到着する。効率良く探せるよう一番前の車輌に乗り込むと、向かいの扉の前に蒼依を見つけた。


 蒼依は携帯を見ていてまだこちらに気付いていないようで、私は人の間を抜けて蒼依の前に立ち、蒼依の顔を覗き込む。すると蒼依は「えっ」と声を上げて目を見開いた。


「おはよう、蒼依」

「……おはよう。なんで居るの?」


 それなりに人が多いため、少し声を潜めて話す。


「いや、暇やってん」

「暇だからってわざわざ来たの?」

「うん。驚かそうと思って」

「まぁびっくりはしたけど……」


 電車が動き出し、思わず蹌踉けた私を蒼依は何気無く抱き留めてくれる。


「ごめん、ありがとう」

「紅音はこっちね」


 そう言って蒼依は私と場所を入れ替え、自身は扉の横にある手摺りを持って身体を支える。


「そんなに私貧弱に見える?」

「割と細身だよね」

「着痩せしてるだけやし」

「喧嘩なら買うけど?」

「誰も胸の話はしてへんやろ」

「いやでも本当に細いよね」


 蒼依は徐に手を伸ばし、横腹を触ってくる。ぞくぞくと痺れるような感覚が首の辺りまで上ってきて、手で蒼依の腕を掴みながら身を捩って蒼依の手から逃れる。


「こしょばいからやめて」

「擽りも弱いんだ」

「次やったら怒るからな」

「怒らない癖に」

「じゃあ指折ってあげる」

「それはやめて」


 そうは言うものの、手を掴んでも蒼依は逃げようとはしない。もちろん私も本気で折るつもりはないので、逃げられると傷付くかもしれない。


 爪が綺麗だなぁなんて思いながら蒼依の手を観察していると、蒼依に声を掛けられる。


「ここから紅音の家までどれくらい掛かるの?」

「分かんないけど、後二十分くらいで着くんちゃう?」

「いつも一時間くらい掛けて通ってるんでしょ?」

「うん」

「大変じゃない? 早起きもしないといけないだろうし」

「まぁ、早起きって言っても小学校の時と同じくらいやし、電車で本も読めるから、そんなにしんどい訳じゃないで」

「朝強いんだ」

「蒼依は朝苦手なん?」

「あんまり得意ではないかな。目覚まし掛けてても起きれない時があるくらいには苦手」

「それは私もあるけど、蒼依は単純に寝るのが遅いからちゃうの?」

「遅くは……あるかも」

「やろ? 勉強してるんやろうけど、肌荒れるで」

「でも日は跨いでないから」


 蒼依の顔を見るが、隈は無いし、肌荒れを起こしているようにも見えない。触ってみてもさらさらとしていて手入れをちゃんとしているのが分かる。


 触ったついでに頬を摘まんでやると、手で叩かれてしまった。


「やとしてもそれくらいまで起きてんねやろ? それでよく授業中起きてられるよな」


 以前から気になっていたが、蒼依が授業中に寝ている所を見た事が無い。無駄に起きている振りが上手い可能性もあるが、先生に何か言われている所も見た事が無いので、ちゃんと起きているのだろう。


「紅音はよく寝てるよね」

「だって眠いし。何かコツとか無いん?」

「コーヒー飲むとか?」

「えっ、コーヒー飲んでんの?」

「いや、飲んだ事無いけど」

「じゃあなんで勧めてきてん」

「眠気覚ましと言えばコーヒーでしょ?」

「まぁ確かに」

「後はガム噛むとか?」

「怒られるやん」

「お腹を抓るとか」

「あぁ、痛みでね」

「これはやった事あるけど、意外と効く」

「へぇ」

「最近はやってないけどね」


 それでは意味が無い。私が知りたいのは今の蒼依が授業中に起きていられる理由だ。


「じゃあ最近はどうやって起きてんの?」

「気合い?」


 返ってきたのはただの根性論だった。それでどうにかなるのならこうして悩む事はないだろう。


「せめて参考にできる答えにしてくれへん?」

「だって別に無いし」

「何か無いの?」

「抓るのが一番手っ取り早いんじゃない?」

「それで目が覚める気がしないんよねぇ」

「まぁ、とりあえず一回やってみなよ」

「蒼依が後ろの席やったら起こしてもらえるのになぁ」


 溜め息を吐き、窓の外を見る。そこには見慣れた田園風景が流れており、そこから何となくの現在地を思い浮かべる。しかしその行為自体にあまり意味は無い。ただの暇潰しだ。


「そう言えば席替えってしなかったね」

「あぁ確かに」

「学期毎にするのかな?」

「そうちゃう? さすがにずっと同じ席っていうのも面白くないしな」


 とは言え蒼依と席が離れるのは気が進まない。できる事なら抽選や籤引きなどの運任せではなく自分で選ばせて欲しい。いくつか融通を利かせられたとしても、目が悪いからとか座高が低いからとかそう言った理由で前の方に行くくらいしか受け入れてもらえないだろう。


「今の席ちょっと黒板が見えづらいから、次は後ろの方が良いな」

「じゃあ私はその一個前で」

「横じゃあ駄目なの?」

「横やと起こせへんやん」

「寝る前提なんだ」

「保険よ保険。ずっと起きてられる自信は全く無いけどな」

「駄目じゃん」


 ぐだぐだとくだらない話をしていると、もうすぐ駅に着くというアナウンスが流れる。


「ここで乗り換えやし」

「うん。意外と早かった」

「そうやな。話してたらあっという間」


 私たちが立っていた方とは反対側の扉が開き、人の間を抜けて電車を降りる。乗り換える電車は同じホームの反対側に着くので、地面に描かれた印の辺りに立って電車が来るのを待つ。


 五分もしないうちに電車が到着し、いつもの場所に乗り込む。時間帯の事もあるだろうが、相変わらず終着駅まで行く人は少ないので、何処にでも座る事ができる。


 私がいつも座っている場所に蒼依と並んで座り、電車が動き出す。


「みんな此処で降りるんだ」

「このままこれに乗ってても何も無いしな。絶対奈良に行きたい人の方が多いし」

「そのうち奈良にも行ってみたいなぁ」

「行くなら夏休みやな」

「コンクールが終わったらさすがに休みあるだろうから、そこだね」


 中学の時に吹奏楽部に入っていたから分かるが、吹奏楽コンクールの支部大会、他の部活やスポーツで言うと予選のような物が八月の上旬に行われるため、夏休み中はそれに向けての練習で休みが無いという事もあり得る。そこで終われば何日か休みになってまた次の演奏会に向けての練習になるのだろうが、その予選を通過すると、今度は関西大会が八月の下旬にあり、学校が始まるのは九月の始め辺りだという事を考えると、一週間休みがあるかどうかというくらいだ。更に言えば、関西大会で代表に選ばれると、今度は全国大会に進む事になる。しかしそれ自体は十月の終わり頃なのであまり夏休み期間中の休みの有無には関係無いだろう。


 私たちの通っている高校の吹奏楽部は、私の知っている限りでは京都府の中でも強く、全国大会にも何度か行っている筈だ。それを鑑みると夏休み中に休みが無い可能性も充分にある。とは言え全く無いという事も無い筈だが、どうなのだろう。うちは私立ではないし、学生の本業である勉強をする時間が無いというのは考え物だが。


「さすがにずっと練習って訳でもないんちゃうの?」

「先輩からは毎日あるとは聞いてるけど、どうなんだろう。まぁ休みの日は紅音と遊びに行こうかな」

「家族で旅行に行ったりしないの?」

「忙しいだろうから、多分行かないんじゃないかな」

「勉強は?多分課題いっぱい出るやろ」

「それはまぁ、何とかなるでしょ。最悪休みの日に集まってやろう」

「じゃあ休みの日は一緒に奈良行こ」

「うん。鹿見に行こう」

「駅から地味に遠い奈良公園ね」

「そうなの?」

「バスとか……近鉄使えば早いけど、歩くと意外と掛かる」

「へぇ。紅音はよく行くの?」

「あんまり。用事無いしな」


 そうしている間に電車は終点であり私の家の最寄りでもある駅に到着した。外の熱気に顔を顰めつつ改札を通って外に出ると、蒼依は立ち止まって辺りを見渡した。


「田舎だぁって言おうと思ってたのに、思ってたより普通の住宅街だね」

「うん。都会風の田舎やろ?」

「うん。駅は綺麗。バスロータリーもあっちにある広場も綺麗」

「あんなでっかい広場が作れる時点で田舎やけどな」

「確かに」


 自虐めいた事を言いながら私の家に向けて歩き出す。幸いにも雨は降っていないが、今にも降ってきそうな黒い雲が空を覆っている。だからと言って急ぐ気は全く無い。いざとなれば傘を差せばいいだけの話だ。


「あ、何か飲み物とかいる?」

「もしかして家に無いの?」

「お茶ならあるけど、お菓子とかは何も無いな」

「お昼ご飯は?」

「それはある」

「じゃあ別にいいかな」

「おっけー。じゃあ家行くぞー」

「おー」


 声も張らず、手も挙げず、まるで気合いも何も感じられない掛け声だけを出して、いつも通る道を蒼依と一緒に歩く。


「蒼依ー」

「何ー?」

「暑い」

「私も」

「シャワー浴びる?」

「そこまでではないかな」

「そっかぁ」


 家に着くまでにあった会話はこれだけ。それでも私たち二人の間に気まずい空気は無かった。少なくとも私はそう思っている。


 門扉の中に入り、玄関の鍵を開けようとするが、緊張か何なのか、私の手が無意識に震えていて、鍵が上手く鍵穴に入らない。


 私は何に対して緊張しているのだろう。友達を招いた事くらいなら何度もある。高校生になってからは初めてだが、中学の卒業式が終わった後にうちに集まった事もあった。蒼依が相手だからだろうか。恋人である蒼依を自分の部屋に入れるのが恥ずかしいのだろうか。


 理由が分からないまま鍵を開ける事には成功し、平然を装って蒼依を招き入れる。


「どうぞー」

「お邪魔します」


 その声を聞いた母がリビングからやってきた。


「あら、いらっしゃい」

「あ、初めまして。伊藤蒼依です」

「初めまして。あなたも伊東さん? あっ、確か藤の方の」

「あぁ、そうです。それと、これ良かったら皆さんで召し上がってください」


 蒼依はそう言って鞄から袋を取り出して母に渡した。


「えぇそんな、ええのに。ありがとうね」


 余所行きの母と見慣れない蒼依の会話は先程までの無言よりも遥かに気まずい。どうするのが正解なのか分からず、とりあえず靴を端に揃えて二人の話が終わるのを待つ。


「行かないの?」

「あ、終わったん?」

「うん」

「紅音、暑かったらクーラー付けてええしな」

「はぁい」

「付ける?」

「私はどっちでも」

「付けるかぁ」


 そんな事を話ながら狭い階段を上がると、蒼依が左の部屋を見て訊ねてくる。


「あっちが妹さんの部屋?」

「うん。挨拶してく?」

「どうしよ」

「んー……じゃあちょっと先部屋入ってて」


 妹は私と違って人見知りをするタイプではないので、顔を合わせるのはそれほど問題は無いとは思うが、さすがに何の予告も無く突撃するのは妹に申し訳ない。それに妹が部屋に籠もっているという事は、大抵宿題をやっているか絵を描いているかなので、邪魔をする訳にもいかない。


「紅音の部屋ってここ?」

「うん。適当に寛いどって」

「はぁい」


 部屋に入っていく蒼依を見届けてから、妹の部屋の扉をノックする。少し待ってみるが、返事も無ければ扉が開く気配も無いため、潔く諦めて自分の部屋に戻る。


「あ、おかえり」

「ただいまぁ」

「どうだった?」

「分かんないけど、集中してるか寝てるかやし、帰る時にまたちょっと声掛けるわ」

「イラストレーター目指してるんだっけ?」


 窓が閉まっているのを確認してからエアコンのスイッチを入れ、ベッドに腰掛ける。


「そうそう。よう覚えてたな」

「紅音が妹の話をする時に絶対言ってくるからね」

「そうやっけ?」

「うん。私より妹さんの方が好きなんじゃないかって思うくらいには」

「えぇ、そんなに?」

「冗談冗談。あんまり放っておかれると嫌だけどね」

「気を付けるわ」


 お茶を持ってくるのを忘れたなぁ、と思いながら棚から引っ張り出したタオルで汗を拭う。


 家に入る直前のあの緊張は何だったのかというくらい今は落ち着いている。やはり自室というのは安心するのだろうか。


「とりあえず勉強します?」

「そうねぇ……。その前にお茶持って来ようかな」

「あぁ、そう言えば。手伝おうか?」

「ううん。蒼依は寛いどって」

「了解」


 気怠げに手を振る蒼依を置いて部屋を出る。そしてお茶とグラスをトレイに乗せて戻ってくると、蒼依は私のベッドに上半身を投げ出してぐったりとしていた。


「何してんの? もしかして体調悪い?」

「……うん。ちょっと怠い」

「えっ」


 こういう時はどうすれば良いのだろう。暑さでやられたのだろうか。


 とりあえず水分補給はした方が良いだろうと、グラスにお茶を注ぐ。


「お茶持ってきたんやけど、飲める?」

「うん。ありがとう」


 半分くらいを残し、蒼依からグラスを受け取る。


「ごめん。全然気付かんかった」

「いや、私もなんか、急にしんどくなってきちゃって」

「うん。とりあえずベッド使ってええし、横になり」

「うん」


 蒼依が立ち上がるのを支え、ベッドに座らせると、ゆっくりと横になった。


「どこがどうしんどいとか、ある?」

「……頭が痛いのと、あと多分生理」

「熱中症とかちゃうの?」

「お腹も痛いし多分違う」

「分かった」


 蒼依の症状が何なのかを大体理解した私は急に落ち着きを取り戻し、一先ず蒼依に布団を掛けてタオルを渡す。


「薬って持って来てる?」

「いや、でも市販のやつだから、もしあったら欲しいかな」

「じゃあこれで良い?」


 ポーチから取り出した物を見せると、蒼依は頷いてくれた。私はグラスを持って一階に降り、水を入れて蒼依の元へ戻る。


「はい。飲める?」

「うん。ありがとう」


 蒼依の手に薬を出し、グラスを渡すと、蒼依は難なくそれを飲んだ。


 普段の蒼依からは想像できないくらいに弱っていて、同じように苦しんでいた妹を思い出した。


 あとできる事はあるだろうかと考え、身体を温めないといけない、というとこでクーラーを消して窓を開ける。さすがにそれでは暑すぎるので、壁に掛けてある扇風機を回す。クーラーを消せば身体が冷える事はないだろう。


「勉強どうしよう……」


 不意に蒼依がそんな事を呟いた。


「とりあえず一旦お昼まで寝とき。そんで、大丈夫そうならお昼からがんばろ」

「……うん。ごめん」

「謝らんでええから。ほら、寝転がって」


 ベッドに腰掛け、蒼依をゆっくりと寝転がらせる。


「電気消した方がいい?」

「……なんか言い方がエロい」


 意外と余裕があるのではないだろうか。


「何がやねん。電気は消す?消さへん?」

「消して。一緒に寝よう」

「何で?」

「……寂しいから」

「別に、部屋に居るやん」

「じゃあいい」


 蒼依は拗ねたように壁の方を向いて布団を頭まで被る。本当に拗ねた時の妹の反応と同じだ。最近は妹も甘えてくる事が減ってきたが、少し前まではこんな感じだった。その時の事を思い出すと、嬉しくなってつい気を許してしまう。しかし一緒に寝るとなると汗だくになるのが目に見えているので、手を握るので許してもらおう。


「ここに居るから、許して?」

「嫌」

「体調良くなったら何か一つ言う事聞いたげる」

「許した」

「……付き合ってからプライド無くなってない?」

「恋人には甘える物って習った」

「私それ知らんねんけど」

「我が家の伝統だから」

「碌でもないやつやな」

「失礼な」

「ええから早よ寝ろ」

「キスしてくれたら寝れる」

「……じゃあ目ぇ閉じてて」


 そう言うと、蒼依は素直に目を閉じた。私はその寝顔を眺めながらどうしようか考える。とりあえず蒼依が寝られるように胸の辺りをトン……トン……と一定のリズムで叩き、あわよくばこのまま寝てくれたら良いなと思う。


 しかしそんな事でキスの事は忘れないようで、蒼依はぱっと目を開いた。


「キスは?」

「もう。するから目ぇ閉じて」


 仕方なく、蒼依がもう一度瞼を下ろしたのを確認し、唇を重ねる。一秒程度の短いキスだったが、蒼依は満足そうに口を三日月のように曲げて、ふふふ、と笑い出す。


「早よ寝ろって」

「ごめん。寝る。寝ます」


 そうは言う物の、まだ肩が震えているのが分かる。一応寝る気はあるのだろうと、心臓の鼓動に合わせて胸を軽く叩く。暫くそうしていると、蒼依の身体から力が抜け、規則正しく寝息を立て始めた。


 ここで止めると起きてしまうかもしれないので、まだ暫くは胸を叩き、反対の手で蒼依の手を握る。


 また少し経ち、もう大丈夫だろうと判断し、タオルで蒼依の額に滲む汗を拭き、私も一眠りしようと、学校で寝ているのと同じ姿勢を取り、目を瞑る。しかし暑さの所為で足や背中、胸の下辺りにも汗が滲み、眠れそうになかった。裸なら寝られるような気がしたが、さすがに蒼依の隣で裸になって眠るなんて事はできない。


 テーブルの上に置いていた携帯を取ってみるが、暇潰しができそうな物に心当たりは全く無かった。役立たずの携帯はテーブルに置き直し、本棚からまだ読んでいなかった小説を取り、ベッドに腰掛けてそれを読む。


 シリーズ物で、前回が半年前くらいに発売されて、これはつい一週間前に発売されたばかりの物なのだが、悲しい事に前回の内容が思い出せない。少し先を読んだら思い出せるかもしれないと、二、三回ページを捲ってみたが、残念ながら前回は区切りよく終わっていたらしく、微かな記憶に掠りもせず、思い出せそうになかった。


 前巻を持ってくるのも面倒なので、本はテーブルに置き、読書を諦める。そうするとまたやる事が無くなって暇になる。勉強をする気にもなれない。


 結局私は何もせずただ蒼依の寝顔を眺めて過ごした。時折頭を撫でたり頬を突いたりしていると、段々と好きが溢れてきて、寝ている蒼依にキスをした。二回三回としていると、不意に蒼依に抱き締められて、口の感覚が混ざって無くなるくらい長いキスをする。

 鼻で息をすればいいんだ、と気付いた頃、漸く解放され、私は身体を起こして息を整える。


「おはよう」

「おはよう」

「体調はどう?」

「大分増しかな。時間は?」

「十一時ちょっと過ぎたくらい」


 蒼依に一言断ってから電気を点けると、蒼依は眩しそうに目を細める。


「お腹空いた」

「食べれそう?」

「んー、多分」

「じゃあ用意してくるわ」


 そう言って私は立ち上がり、昼食を取りに一階に降りる。母と少し話をしつつ冷蔵庫に入れてあった昼食を確保して部屋に戻る。


「おまたせー。蒼依はどっちが良い?」

「どっちって……あぁ、そういうね」


 持って来たのはうどんとそばの二つ。食べに行くのも作るのも面倒だという事で、こうなった。


「うどんにしようかな」

「蒼依はうどんの方が好きなんや」

「よく食べるのはうどんかも。そばも嫌いではないんだけど、今は気分じゃないからいいかなって」

「なるほどね」

「紅音はうどんじゃなくて良いの?」

「うん。私はそばの方が好きやし」


 薬が効いたのか、蒼依の顔色はすっかり良くなっているように見えた。うどんを食べても特に異常は無いようで、あっという間に完食し、蒼依は再びベッドに寝転がった。


「紅音」

「何?」

「ちょっとこっち来て」


 何だろうと思いながら立ち上がり、ベッドに腰掛けると、蒼依は起き上がって私の隣に座る。


「私たちって恋人でしょ?」

「そうやな」


 ただの雑談のつもりで平然とそう答えると、蒼依は身体を寄せてきて、私の太ももに手を置いた。その瞬間、擽ったさを感じたのと同時に心臓の鼓動が早くなる。


「恋人と部屋に二人きりになったら何すると思う?」

「……知らん。少なくとも今日は勉強やろ」


 ぱっと浮かんだ考えを消し去り、真面目な答えを出すと、頬に手を当てられ、強引に蒼依の方を向かされる。


「そうだよね。キスくらいするよね」

「なぁ、聞いてる?っていうかさっきも散々したやん」

「嫌だったら言ってね」

「蒼依?」

「嫌じゃないんだ」

「……その聞き方は狡いと思うん──」


 言い切る前に口が蒼依の口で塞がれる。良いのか悪いのか、息の仕方を覚えたため、長いキスをしていても苦しくならない。


 口が離れ、またくっつく。頭を撫でられながら啄むようなキスを何度かされているうちに頭の中が蒼依でいっぱいになり、また長いキスをされて風邪を引いた時のように頭がぼうっとしてくる。


 いつの間にかベッドに押し倒されていた私は、口の中に侵入してくる柔らかく温かい何かに気付き、咄嗟に蒼依を手で押して、睨み付ける。


「何すんねん」

「何って……キスだけど」


 蒼依は一瞬目を見開き、驚いたような反応を見せたが、すぐにいつもの真剣な表情に戻し、冷静に私の質問に答えた。


「舐めんでもええやん」

「あぁ……そういえば紅音ってネットとか見ないんだっけ……」


 意味不明な事を呟く蒼依を無視して、蒼依ごと身体を起こす。


「とりあえず終わり。勉強しなアカンやろ」

「えっ、ここまでさせといて?」

「ここまでって……キスはいっぱいしたやん。まだ足らんの?」

「いや……うん。まぁいいか」


 蒼依は自分だけ何かに納得したように笑い、私の頭を撫でる。


 確かに私ももうちょっと蒼依に触れていたかったような気もするが、舌を入れられた事に驚き、心地よさも全て吹き飛んでいってしまい、そういう気分では無くなった。


 あのまま拒否しなければ、所謂セックスのような事をしていたのだろうか。きっとそうなのだろう。私は正直そういった知識に詳しいとは言えないので、女性同士でどうするのかは全く知らないが、男性とのセックスの事なら授業でも習った事もあり、漫画や小説でもそれらしい描写を見た事があるので何となく分かっているつもりだ。


 その行為を蒼依とするというのは嫌という訳ではないが、まだ心の準備ができていない。少なくとも今日そういう雰囲気になるとは全く思っていなかった。


「蒼依」

「何?」


 傷付いているようには見えないが、万が一にでも嫌われたくないので、ちゃんと言っておこう。


 私は蒼依の手を握り、目を見る。


「蒼依がその……私とそういう事したいっていうのは分かったし、私も次までにちゃんと勉強してくるから、ちょっと待っててな?」


 いざ口に出してみるとなかなか恥ずかしいが、こういう事はちゃんと言っておくべきだろう。


「分かった。楽しみにしてる」

「いつになるか分からんけどな」

「学校でしてくれてもいいけど」

「帰るか?」

「ごめんって。冗談じゃん」

「ほら、勉強するで」

「はぁい」


 私はあまり切り替えが得意ではないので、始めは蒼依の事が気になりすぎてあまり集中できなかったが、やっているうちに集中できるようになり、それなりに満足のいく勉強ができたように思う。


 期末考査は科目数が多く、覚えなくてはならない単語も中間考査の倍くらい多いため、蒼依と即興で問題を出し合うという形で協力してもらい、妥協できるくらいには覚えられた。


 おやつを食べる事も忘れて勉強に取り組み、気付けば五時前。帰る予定の時間だ。


「あっ、涼音に挨拶してく?」

「ううん。さっきした」

「嘘ぉ。いつの間に……?」

「さっきトイレ借りた時に鉢合わせした」

「なるほどね。じゃあいっか」

「うん」


 空になった容器とグラスをトレイに乗せてキッチンに持っていき、蒼依を駅まで送り届ける事を母に伝えて外に出る。


「まだ暑いなぁ」

「ここがピークだと助かるんだけど」

「絶対まだ上がるやろ」

「だよね」

「そう言えば、体調はもう大丈夫?」

「うん。おかげさまで」

「ほんまにびっくりしたわぁ」

「ごめんごめん。そろそろかなぁとは思ってて準備もしてたんだけど、あんなにしんどくなるとは思ってなくて」

「まぁ別にええけどな。これからもしんどくなったりしたら頼ってくれてええからな?」

「うん。ありがとう。紅音ももししんどくなったりしたら頼ってよ?」

「任せろ」


 私から見てもすっかり顔色が良くなり笑顔を見せる蒼依を見ていると、不思議と私まで嬉しくなる。


 勉強の話をしながら歩く事十分。乗る予定だった電車が走り出すのをフェンス越しに見送り、階段を上る。


「二十分に一本やからまだもうちょい掛かるやろうけどどうする?」

「また逃しても嫌だから降りとこうかな」

「そっか」

「紅音も暑いでしょ」

「うん。暑い」

「さっさと帰って勉強しなさいな」

「今回は蒼依に勝つから」

「負けたら罰ゲームね」

「……それはやめとこう?」

「もう決定したから」

「えぇ……軽いのにしてや?」

「負けないようにがんばったら良い話でしょ」

「それはそうやけどね」

「じゃあまたね」


 ふと、キスがしたくなり、周りを見て人がいない事を確認した私は、蒼依の顔を両手で挟み、キスをする。そして仕返しとばかりに舌を入れてやり、すぐに離れる。


「じゃあ気を付けて帰ってや」


 蒼依は狙い通り驚いたという表情をしており、私は勝ち誇ったような顔を浮かべる。


「……結構大胆な事するのね」

「じゃあまた通話しよな」

「うん。またね」


 手を振り、顔が熱くなっているのを誤魔化すように蒼依から離れてその場を去る。周りに人がいなかったとは言え公共の場でまさか自分があんな事をするとは、自分からやっておきながら自分で驚いていた。


 蒼依の彼女になってから自分でも驚くような事を自分でやる事が多く、まるで自分が自分でないような、そんな感覚があった。もしかするとこれが本当の私なのかもしれないし、今だけ壊れてしまっているのかもしれないが、楽しいからいいか、と気にしない事にした。

 

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