第12話 6月20日
サイドテーブルに置かれている筈の眼鏡を手探りで探し当て、重い瞼を閉じたままそれを掛ける。
このまま目を瞑っていればすぐにでももう一度寝る事はできるが、残念ながら今日は平日。下手に二度寝をすると遅刻しかねない。
ゆっくりと身体を起こし、暫くの間目を瞑ってぼうっとする。そうしていると大きな欠伸が出る。それから目を開いて暗闇の中で光るデジタル時計を見た。
目覚ましを設定すると、設定した時間よりも早く起きてしまうのはどうしてなのだろうか。
いつもより少し早い時間。けれども二度寝をするには時間が足りない。
仕方なく枕元に置いていた携帯の目覚まし機能をオフにする。ベッドに腰掛けた状態で腕を天井に伸ばし、欠伸混じりの深呼吸ついでに伸びをする。
「あっつ……」
窓は開けたまま寝た筈だが、カーテンを閉めている所為だろうか。
滲む汗をタオルで拭き、立ち上がってカーテンを開ける。外の景色も空の様子も見ないまま寝惚けた頭で部屋を出て、いつも通り妹を起こそうとして、足を止める。
今日は妹の誕生日だ。
ふとその事を思い出した私は部屋に戻り、学校に持って行っているのとは違う外出用の鞄の中から袋を取り出し、中身がちゃんと入っている事を確認してから改めて妹の部屋に向かう。
コンコン、と二回優しくノックをすると、はぁい、と如何にも眠そうな声が返ってきた。
そっと扉を開けて部屋に入る。机に袋を置き、カーテンを開けて部屋の中に光を入れると、横から呻くような声が聞こえる。
「涼音」
ベッドの横にしゃがみ、髪をそっと撫でながら呼び掛けると、薄らと目が開くのが見えた。
「おはよう」
「……ぉう」
殆ど声になっておらず、口だけが微かに動いた。
いつもなら少し強引に起こすのだが、幸いにも今日は時間がある。
そう思って再び目を閉じて眠りに就こうとする妹を眺めていると、突然ぱちっと目が開かれ、妹は勢いよく身体を起こす。
何事かと思いつつ見ていると、妹は身体の力を抜いて再び寝転がる。
「まだ六時なってへんやん……」
「うん。まだやね」
「お姉ちゃん一緒に寝よう?」
「さすがに今から二度寝は無理やなぁ」
「寝転がるだけ」
「それやって前寝坊しかけたやろ」
「今日は寝ぇへんもん」
「今起きたらええもんあげるで」
そう言うと、妹は再びのそのそと身体を起こす。
「起きた」
「じゃあこれあげる」
手渡したのは先程部屋から持って来た袋。
買ったお店の袋をそのままだが、誰もそんな事は気にしないだろうし、妹は絶対に気にしないという確信めいた自信を持ってそのままの状態で渡す事にした。
誕生日だという事以外特別な事もないので、これくらいで良い。
「涼音。誕生日おめでとう」
「えっ」
起きたばかりで頭に無かったらしい。
妹はガサガサと袋の口を両手で広げて中身を覗き、それから中の物を取り出した。
「あっ、これって……」
「前欲しいって言ってたペンケース。私が今使ってるやつと色違いのやつやけど」
「お姉ちゃんありがとう!」
妹は飛び切りの笑顔を浮かべて抱き付いてくる。私はその身体を抱き締め、さらさらの髪を撫でる。
これだけ喜んで貰えたら苦労して探した甲斐があったというものだ。
「大事にしてや」
「うん!」
妹は元気よく返事をしてベッドから降りると、机の横に掛けてあるランリュックから筆箱を取り出し、早速中身を移し替えるのかと思いきや、筆箱を開けた手を止めて固まる。
「どうしたん?」
「いや、学校に持ってったら汚れちゃうなぁって思って」
「そら使ってたら汚れるやろ」
大事にしてくれるのは嬉しいが、保管されるのは少し寂しい。既に妹にあげた物なので、妹がどう扱おうが構わないのだが、どうせなら汚れても良いから使って欲しいという気持ちはある。
妹は悩んだ末に鉛筆以外のボールペンや消しゴム、定規などの頻繁には使わない物を入れておく用にするらしい。
「じゃあそろそろ下降りるか」
「うん」
蹴飛ばされて足下でぐしゃぐしゃになっていた布団を畳み、部屋を出て階段を降りる。
自分の部屋の布団を畳んでいない事を思い出したが、どうせ後でまた部屋に行くからと後回しにする。
「あらおはよう」
「おはようございまーす」
「おはよう」
リビングでテレビを見て寛いでいた母に挨拶をして、いつものように歯磨きをして、ご飯を食べる。
父は私が起きたちょうどその頃に仕事に出たらしい。相変わらず早い出勤だ。今度何かしら労わるべきかもしれない。そういえば一昨日は父の日だったな、と今更ながら思い出し、考えるのをやめた。
妹の髪を整え、部屋に戻って制服に着替える。
そうしている内に気付けば家を出なければならない時間。少し余裕を持って出ているので、本当はもう少しのんびりできるが、遅刻はしたくない。
「じゃあ気を付けてな」
「うん。行ってきます」
「行ってらっしゃーい」
妹と至近距離で手を振り合い、トントン、と床を蹴って靴に踵を入れる。
玄関の扉を開けて日向に出ると、ちくちくと刺すような日差しが照り付けてくる。
青空を見るのは数週間振りのような気がしたが、よく考えると昨日も一昨日も晴れていた。その前の日も晴れていたような気がするが、あまり覚えていない。昨日の夕飯を覚えていないくらいには記憶力が悪いのだ。
気圧が高いとか低いとかで、大陸の方からやってきたらしい強く冷たい北風が顔を叩く。
先週のように太陽を隠してくれていた分厚い雲は無く、洗濯物が午前中に乾いてしまう程の日差しが容赦無く肌を焼く。けれども肌に纏わり付くような嫌な暑さでは無く、気温の割には汗を搔かずに済んでいた。
このまま北風さんには頑張って欲しい所だ。
日傘を差し、日陰を転々としながら駅に向かう。
その足取りは先週とは違い、とても軽い物だった。
蒼依の彼女になった翌日、その日は前日の上機嫌が夢だったかのように、朝から胃が引っ繰り返ってしまいそうな程の吐き気に襲われていた。
母にも妹にも心配されてしまったが、原因は明白で、学校に行かない訳にはいかなかった。
私としてはできる限り体調が悪いのを隠していたつもりだったが、蒼依には顔を合わせた瞬間にばれた上に、謝られてしまった。
しかし私は蒼依と付き合うという選択をして後悔はしていないし、浩二への説明は私が責任を持ってやるべき事だ。それを言うと蒼依に頭を撫でられ、少しだけ吐き気が治まったような気がしたが、学校に近づくに連れて吐き気は大きくなり、Uターンして帰ってしまいたい衝動を必死に抑え込んだ。
薄情者と言うべきか、授業中はそれを忘れて集中する事ができた。
しかし休み時間になるとすぐにそれが頭に浮かび、内臓を直接握られているような苦しさに襲われる。
それを繰り返す事七時間。蒼依を連れて浩二の元へ行き、浩二に蒼依を連れてきた理由を話した。泣いてしまいそうになっていたが、振る側である私が泣くのは違うと思い、必死に我慢した。
最悪怒られる事も覚悟していたのだが、浩二は案外あっさりと理解し、お礼まで言われてしまった。
一つ想定外だった事は、浩二がそのまま諦めるのでは無く、諦めないから、と宣戦布告のような物をした事だろう。その直前に私の彼女だからと態々挑発するような事をした蒼依の所為でもあるかもしれない。
私が蒼依と別れた時にまた告白するつもりらしいが、それはそれでずっと好きでいてくれた事に対する嬉しさ半分罪悪感半分くらいなので、正直言えば止めて欲しい。さっさと私の事は諦めて、より相性の良い人を探して付き合ってくれれば、私としてはとても気が楽になる。しかし実際どうするのかはその時の浩二にしか分からないだろう。
今思うとあれは、別れるな、という浩二なりの脅しという名の応援メッセージだと受け取れなくも無い。怒るでも無く応援してくれるとは、彼は私が思っていた何倍も良い人らしい。あれが良い人止まりというやつだろうか。私から見てだが容姿も整っているし、モテそうだとは思う。
何はともあれ浩二とは特にこれと言った問題にもならず、本当にこれまで通り接する事ができるかどうかはさておき、これまで通り友達という関係になり、ここ最近の個人的な悩みは殆ど解消できたと言って良い。
清々しい気持ちで改札を抜け、忘れていた日焼け止めのクリームを塗りつつ、相変わらず人気の少ない駅に止まっている人気の少ない電車に乗り、次の駅でそこそこ人が乗っている電車に乗り換える。
運良く空いていた席に座り、小説を取り出す。栞が一番初めのページに挟んであるのを見て、既に一度読んだ物だった事を思い出し、仕方なく初めから読み直す。
そうすると、意外と碌に読んでいなかったのだと思い知る。この数日で読んでいた物なのに、初めの方の展開すらもまるで初めて読んだ時のように読める。
世の中の所謂読書家と呼ばれる人たちはきっともっと真面目に読んでいるのだろう。私ももしかしたら趣味の欄に読書と書く事はできるかもしれないが、読書家と名乗れる程では無い。だからと言ってこれから一つ一つの文を国語の授業のように詳しく読み解こうとは思わない。
私にとって読書はただの暇潰しだ。趣味と言える程没頭できる物でも無い。
既に一度読んだ文章を飛ばし飛ばしで読み進め、好きな場面を何度か繰り返して読む。
そうしているうちに電車は何事も無く進み、私はまた電車を乗り換える。
快速電車から普通電車に乗り換え、一駅。
電車を降りて、人の波に乗って歩き、改札を抜ける。そのまま駅を出てすぐ、木陰で涼んでいる蒼依の姿を見つけた。
人の列から抜け、蒼依の元に駆け寄り声を掛ける。
「蒼依、おはよう」
「おはよう、紅音」
暑そうな表情で俯いていた蒼依は私が呼び掛けるのと同時に顔を上げて笑顔を浮かべた。
花が咲いたように笑うとはこういう笑顔の事だろうか。
抱き付きたい衝動を抑えて他の人と同じように並んで学校へ向かう。
まだ梅雨の時期だと言うのに、蝉が鳴いていないのが不思議に思えてくる程の暑さに体力が削られていく。
「あっつい」
思わず呟くと、吐息混じりに蒼依も同意する。
「ね、本当に。三十度近くなるらしいし」
「夏やん」
「六月だからね。夏だよ」
そんな他愛ない話をしながら隣を歩く蒼依を見る。暫く見ていると、視線に気付いた蒼依がこちらを見て目が合い、微笑んでくれる。たったそれだけで暑さを忘れるくらいに気持ちが弾む。
手を繋いだら怒られるだろうか。
そんな事を考える。
蒼依と恋人になった日の夜、私たちはこれからの事を話し合った。浩二の事に始まり、周りの人への説明はどうするのか、家族には話すのかなど、不安に思った事を話し合った。
話し合った結果、一先ず彩綾や夕夏など、仲の良い人且つ理解してくれそうな人には口止め込みで話すが、基本的には私たち二人が恋人であるという事は隠す事に決めた。
最近では同性間での恋愛に対する偏見も少なくなってきてはいるようだが、それでもやはりからかわれたり煙たがられたりする事も多いと聞く。
それに加えて私と浩二が付き合っているのでは無いかという噂が広まっていた事を考えると、蒼依と恋人であると知られればどうなるか、想像するだけでも憂鬱な気分になる。
ならば極力言わない方が私たちにとっても、周りの人にとってもこれまで通り平和に過ごせる。
私たちもいつも通り過ごしていれば何の問題も無い。
汗を搔きながらも無事に学校に着き、靴を履き替え、今日の体育の予定を確認してから教室に向かう。
教室に入り、隣の席で談笑している二人に声を掛ける。
「おはよー」
「あ、おはよう」
自分の席に荷物を置き、鞄から袋を取り出して彩綾に手渡す。
「彩綾、誕生日おめでとう」
「わぁ、ありがとう!」
中身は以前話していた扇子だ。休日に家族で出掛けた際に彩綾に似合いそうな物でそれ程高くは無い物があったため、買っておいたのだ。
袋から中身を出そうとする彩綾を待たずに蒼依が綺麗に包装された箱のような物を渡した。
「はい、私からも」
「おぉ、ありがとう。まさか蒼依もくれると思わんかった」
彩綾が目を見開いて蒼依を見ると、反対に蒼依は目を細めて彩綾を睨む。
「そんな薄情な人間に見える?」
「いや、てっきり紅音と一緒やと思ってたから」
「あぁ、そういう事ね」
「だって、これそこそこ値段するんちゃうん?」
彩綾は私があげた小さな袋を持ち上げて私を見る。
どうやら私と蒼依が割り勘で扇子を買うと思っていたらしい。
「いや、プレゼントとしては常識的な値段の筈」
「えっ、ほんまに大丈夫やんな?」
「うん。ちょっと良い化粧品一個分くらい」
「そこそこするやん」
「まぁ、私の時楽しみにしてるわ」
「紅音の誕生日っていつやっけ?」
「猫の日」
「二月二十二日って事?」
相変わらずこの言い方をすると、少ない文字数なのに一発で伝わるから楽で良い。
「そう」
「おっけー。任せて」
彩綾はそう言いながら携帯を取り出し、何かを入力する。恐らく私のようにメモをしてくれているのだろう。
「夕夏は何をあげたの?」
「シャーペン」
「そうこれ」
彩綾が嬉しそうにペンケースから橙色のシャーペンを取り出して見せてくれる。
因みに蒼依があげたのは嫌いな人は殆どいないであろうチョコのお菓子だった。三人の中では一番安い物ではあったが、友達にあげるプレゼントならそれくらいが丁度良いのかもしれない。彩綾も「紅音も次はこんなんでええからね?」と嬉しそうに笑いながら言っていた。来年も祝う事は確定しているらしい。
予鈴が鳴り、授業の準備を何もしていなかった事を思い出し、自分の席に座って教科書を机に移す。
「あ、そうだ」
何かを思い出したように蒼依が声を上げる。
「もうちょっとで期末テストだけど、勉強会いつにする?」
「えっ、もうそんな経ってたっけ?」
「うん。来週から部活も無いし、一緒に帰れる」
「いや、それは良いんやけど……」
ここ暫くの間勉強とは関係の無い事に頭を働かせていた所為で、自宅での勉強は捗っていたとは言えず、授業にもあまり集中できていなかった。漸くその問題が解決して、勉強に集中できるようになったのが先週だ。
期末考査は中間考査に比べて試験までの日数は短い癖に、試験範囲は中間考査よりも広い。習う内容だけで言えば難易度はそれ程変わっていないというのが不幸中の幸いと言えるだろう。
「勉強会するでしょ?」
「うん」
「今回は紅音の家だから」
「そう言えばそんな話しとったなぁ」
「彩綾とかは……呼ぶ?」
「……」
喉まで上がってきた言葉を押し止め、視線を彷徨わせる。
彩綾たちと友達として一緒に勉強をするというのは構わない。勉強会と称しているのだから、人数が多くなるのは何の問題も無い。
「せっかく二人きりだもんね」
私が何を言おうとしたのか分かったかのように蒼依がそんな事を言い、私は思わず顔を上げて蒼依を見る。
「私は紅音と二人が良い」
「……じゃあそれで」
どうしてこんなに可愛げの無い言い方をしてしまうのか、自分でもよく分からない。素直に喜べば良いのに、と他人事のように思う。
「勉強会、また土曜日でも良い?」
「うん。土日は別に何も用事無いし、どっちでも」
「じゃあ土曜日で」
俯き、そのまま机の中から英語の教科書を取り出し、机の横に掛けてある鞄から英語のノートを取り出して、意味も無く机の角に合わせるようにして重ねて置く。
する事が無くなって机の上に視線を泳がせていると、突然前から手が伸びてきて、机に垂れた私の髪を一束掬った。何をするのかと思い顔を上げようとすると、今度は頭を撫でられる。
「何?」
「いや、可愛いなって思って」
蒼依の手が私の髪に触れる度に心地良い擽ったさが伝播して、頬が緩む。
恋人になってから蒼依からのスキンシップが増えたような気がする。それは確かに嬉しい事ではあるのだが、人前でやられるのは少し恥ずかしい。
チャイムが鳴り、いつの間にか教室に入ってきていた先生が号令を掛ける。
私はそれを合図に緩んだ気を引き締めて授業に集中する。
今日は苦手な科目ばかりだ。得意な科目を訊かれると困るのだが、少なくとも英語は苦手な部類だ。
小学生の頃は簡単な単語ばかりだったため、特に苦手意識も無かったのだが、中学生になってまず文法がよく分からなくなった。暗記が苦手なので、単語を覚えるのも苦労したし、覚える努力はしたものの、文法が分からない所為で成績は伸びなかった。先生は単語さえ覚えていれば何とかなると言っていたが、それはきっと文法ができている人に限っての話だったのだ。
そしてその苦手意識は今になっても持っており、未だに文法は間違うし、単語は覚えられない。後二週間でどうにか詰め込まなくてはならない。
期末考査では合計十三科目が受験科目になっており、中間考査から芸術以外の三科目が増えているため、その分一つの教科に割ける時間が減ってしまう。
私の得意科目は数学だけ。それ以外は基本的に暗記になるので、英語と同様に苦手意識が強い。特に古文や漢文は英語よりも苦手と言ってもいい。
基本的に知らない事を学ぶのは好きなのだが、歴史に興味が無い。それに関連して古文と漢文にも興味が湧かず、苦手な英語と興味の無い歴史を同時にやっているような気分になるため、他のどの教科よりも苦手意識が強い。そしてそれは点数にも表れていて、中間考査の古文と漢文を含む古典のテストの点数は五十点台と、学年でも恐らく下から数えた方が早いくらいに低い点数だった。
この特に苦手な古典を重点的にやるべきなのかもしれないが、やはりやる気が出るのはこれ以外の教科だ。
どうやったら暗記できるようになるのだろうか。何から勉強しようか。
そんな事を考えている時点で英語の授業に集中できていないのは明白だが、三十分も集中できていたのなら上出来では無いだろうか。
人の集中力は十五分が限界という話もあるくらいだ。ちょっと集中が途切れる事は誰にでもあるだろう。
完全に集中力を失い、早く終われと時計を見ていると、残り二十分が妙に長く感じる。一分はすぐなのに、と思うが、数えてみると意外と長い。それを二十回繰り返すのだから、二十分は長い。
そうしている間にも先生はずっと喋り続けている。雑談ではなくちゃんと教科書の英文の解説だ。台本のような物があったとしても五十分間ずっと喋り続けるなんて大変な事だろう。それに先生はぼそぼそと籠もった声ではなく、教室にいる生徒全員がしっかりと聞き取れるようにそれなりの声量を出している。
私には教師という仕事はできなさそうだなと思う。
こうして実際に仕事内容の一部を見ているだけでも大変そうだと思うのに、見えていない所の話を聞く限りでも残業だとかパワハラだとか、大変そうな話ばかりが耳に入ってくる。
最近テレビやネットでも教師が生徒に手を出して捕まったというニュースをよく見かけるが、きっとそうやって理性が保てなくなるくらい疲れる職業なのだろうなと思うと、なりたい職業ランキングからは外さざるを得ない。
そんな風に先生を眺めていると、授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、切りの良い所まで話し終えた先生が号令をして教室を去って行く。
先程長いと感じていた時間の半分が過ぎると休憩時間が終わり、次の授業が始まる。それを繰り返してお昼になれば昼食を食べ、体育で身体を動かし、清掃をして、疲れ果てた状態で七時間目の授業を受ける。
意外と眠たくならない七時間目の授業が終わり、帰る用意をする。
「二人とも頑張ってな」
「うん。また明日」
「またね」
違う部活の筈なのに、相変わらず仲の良い彩綾と夕夏は一緒に教室を出て行った。
彼女たちが実は付き合っていると言っても意外性はゼロに等しい。本当の所はどうか知らないが、仲が良いのなら別に態々訊く必要はない。
「蒼依ももう行くやろ?」
「うん」
鞄を肩に提げ、蒼依と教室を出る。何となくこのまま別れるのは寂しくて、音楽室まで付いていく事にした。
「今って何の練習してんの?」
「今はコンクールの曲一曲と、依頼演奏が夏休みの始めにあるらしいから、それに使う曲四曲くらい」
「へぇ。それって私も聴きに行けるやつ?」
「依頼演奏の方は無理だと思う」
「じゃあ蒼依の演奏が聴けるんはコンクールだけかぁ」
「まぁ、楽しみにしておいて」
「うん」
特に話す間も無く音楽室に着いてしまった。
名残惜しいがあまり蒼依の時間を奪う訳にはいかない。
「じゃあ頑張ってな」
「うん。ありがとう」
蒼依はそう言うと、一瞬廊下の方を見て、私の頬に触れる。
そして次の瞬間、唇が重ねられる。
一秒にも満たない程短い、けれども蒼依の優しさと想いが確かに伝わってくる。
ただでさえ遅い私の思考は蒼依によって溶かされ、真っ白になる。そうして固まっている間に、今度は左手を取られ、指の辺りに唇が触れた。
「じゃあまた。紅音も気を付けて帰ってね」
「……うん」
心なしか顔を赤く染めた蒼依は私の頭を撫で、何事も無かったかのように様々な楽器の音の飛び交う音楽室に入っていった。
すぐ近くの階段を使って一階に降りて、徐々に正常に戻り始めた頭を動かして思い返す。
あれは一体何だったのだろう。
蒼依にキスをされた左手を見て、唇を指でなぞる。
運動をした訳でもないのに顔が火照っているのを感じる。
キスをされたのはこれで二度目。しかし今度は指にも口づけを受けた。
まるで騎士や王子様がお姫様にするような、そんな物語の中でしか見た事の無いようなキス。
私は今最高の気分だ。今までの人生で一番幸せと言っても過言ではないかもしれない。
蒼依への好きという気持ちが大きくなっている気がする。
今まで恋人と友達の違いが分からないとか言っていた癖に、今は蒼依に対して抱いているこの気持ちが他の誰とも違う特別な物だとはっきりと分かる。
私は蒼依が好きだ。
この気持ちを早く蒼依に伝えたい。
この幸せな気分を蒼依にも感じて欲しい。
この幸せな時間がずっと続けば良い。そう願った。
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