第11話 6月12日
今日も相変わらず空は灰色で、空気は湿気を含んで気持ち悪い。
ただ箒で教室を掃除しているだけでも汗が滲んでくる。
「あっつ……」
思わず口から溢れた。
首筋を伝う汗を首に掛けたフェイスタオルで拭う。
六月になり制服も夏用に替えた。ブレザーやカーディガンは脱ぎ、ブラウスは半袖に、スカートは生地の薄い物になったが、それでも暑いのは変わらない。
教室の角に集めた芥を塵取に入れ、纏めて芥箱に捨てる。
それから自分の席に座って清掃時間終了のチャイムが鳴るまで適当に時間を潰していると、他の掃除場所を担当していた人たちが教室に戻ってくる。
彩綾と夕夏が戻ってきたのはチャイムが鳴っている途中だった。
「お疲れ~」
「お疲れ。えらい涼しそうやな」
彩綾が見ているのは私の持つ扇子だ。
「ええやろ」
扇いでいた手を止めて、扇面に描かれた蝶の絵が良く見えるように顔の前で広げてみせる。
「ええなぁ。私も何か買おうかなぁ」
「紙のやつやったら百均でも売ってるで」
画用紙のような硬さの紙が貼られた如何にも安そうな物だったが、いくら百均とは言えすぐに壊れるなんて事もないだろうし、扇ぐのには充分だろう。
「そうなんや。でもどうせ買うならちゃんとしたやつ欲しいなぁ。それはなんぼしたん?」
「四千円くらい……やったかな」
「たっか。そんなすんの?」
「綿やけど安い方やで。布の高いやつやと普通に一万超えるし」
私が持っているのは去年の夏頃、家族で旅行に行った際に偶々見つけて衝動買いをした物だ。その時持っていたお金の殆どを使ってしまったが、後悔はしていない。
「まじか」
「うん。まぁでももっと安いのもあるし」
「何か探すかぁ」
ふと、もうすぐ妹の誕生日だった事を思い出した。
今日は十二日。妹の誕生日は二十日なので、来週の火曜日が妹の誕生日だ。
今年は何をあげようかと悩んでいると、彩綾と夕夏の誕生日も知らない事に気付く。
「そう言えば、彩綾と夕夏の誕生日っていつ?」
「え、何? 何かくれるの?」
帰る用意をしていた彩綾が目を輝かせて私を見る。
「お菓子でいい?」
蒼依が気怠げな声で訊ねる。
「全然ええよ。アイスでもええし」
「溶けるからダメ」
「じゃあチョコ」
「話聞いてた?」
「保冷バッグに入れてきてくれたらええやん」
「じゃあクッキーでいい?」
「私の誕生日なのに私の案が採用されないのは良くないと思うんやけど」
「ていうかいつ?」
蒼依が本題に戻し、彩綾も今度はふざけず素直に答える。
「二十日。来週の火曜日ね」
「えっ、妹と一緒やん」
驚きのあまり、つい声が大きくなってしまった。
「あ、そうなん? ていうか紅音って妹居るんや」
「うん。あ、夕夏はいつ?」
「十月やからまだまだ先」
「十月のいつ? メモしとくわ」
「別にええのに」
夕夏はそう言いながらも二十二日だと教えてくれた。
携帯を取り出し、以前浩二の誕生日をメモしたところの下に彩綾と夕夏の誕生日も書き加えながら、何をあげようか考える。
彩綾にあげる物はすぐに思い付いた。
「彩綾には扇子あげるか」
「えっ、ほんま?」
「何色が良い?」
「何でもええよ。強いて言うなら緑が好き」
「おっけー」
メモを付け足し、携帯を鞄に仕舞う。
「じゃあまた明日」
「うん。ばいばーい」
相変わらず仲の良い彩綾と夕夏を見送ると、教室がしんと静まり返る。気付けば蒼依と二人だけになっていた。
部活もなく、アルバイトもない。早く帰ってもやる事がないため、月曜日はこうして蒼依と二人、教室に残って過ごしている。
たわいないただの雑談を先生に注意されるまでしている事もあれば、学生らしく勉強をしている事もあるが、今日はちゃんとしたトークテーマがある。
何と切り出そうかと数秒悩み、ここ数日考えていた疑問をそのまま蒼依に投げ掛ける。
「恋人と友達って何がちゃうと思う?」
「恋人と友達?」
訊き返されて頷くと、蒼依は俯き、唇に人差し指を当てて考え込む。
この仕草はやはり蒼依の癖なのだろうなと思いながら蒼依を見つめ、答えを待つ。
「……待って。意外と難しい」
まさかこんなに考え込むとは思っていなかった。てっきり在り来りな答えが返ってくる物だとばかり思っていた。
しかし蒼依が悩むのは意外ではあったが、分からない事もない。
私は浩二に返事をした日からこの事について考えていた。家族に訊くのは少々どころか大分面倒な事になりそうな気がしたため避けたが、インターネットというとても便利な物があるため、この数日間何度も調べた。
同じような悩みを持つ人が多いのか、私の悩みを解決してくれそうなタイトルが書かれた記事は幾つも存在していたのだが、どれを読んでも理解はできるが納得はできなかった。
恐らく蒼依が考え込んでいるのも、ネットで調べていた時の私と同じような理由だろう。
俯く蒼依をじっと見つめていると、彼女が何処を見ているのか気になり、視界に入りそうなところに手を伸ばす。蟹みたいに指を動かしながら彼女の視界を探していると、蒼依がくすりと笑った。
「人がせっかく考えてあげてるのに邪魔しないでよ」
「えっ、ごめん。何処見てんのかなぁって思って」
ゆっくりと腕を引っ込めて膝の上に戻す。
少しして、蒼依の中で答えが定まったらしく、顔を上げて私を見る。
「恋人と友達の違いでしょ?」
「うん」
想像以上に真剣に悩んでくれていたため、少し緊張する。
「やっぱり恋人の方が特別というか、将来結婚するかもしれない相手だから、それを前提として付き合う事にはなりそうよね」
「結婚」
「そう。婚約者とまでは行かないだろうけど、恋人と過ごしている間に、その人と一緒に暮らしていけるかとか、子どもが欲しいかとか、そういうのを考えるのが恋人かな」
「なるほど」
「友達相手に子どもが欲しいとか思わないでしょ?」
私がした質問の答えとしてはほぼ完璧と言えるような回答だった。
しかしそれはこの数日間のネットサーフィンで私も見つけた物で、それに対する別の疑問があった。
「でも子どもが要らないって言う夫婦もいるやん」
「それはその人たちの自由だから良いんじゃないの?」
「いや、子どもが目的じゃないんやったら結婚する意味ないやん」
「……それはまぁ、あれじゃない? 遺産相続とかそういうの」
「えぇ……、そんな夢の欠片もない話せんといてよ」
「紅音が子どもが要らないなら結婚する意味ないとか言うからでしょ」
「だって……」
反論しようとしたが、そうすると蒼依の言った夢の欠片もない話を肯定する事になってしまうため、続きを濁した。
「ていうか紅音が知りたいのは恋人と友達の違いでしょ?」
「うん。だからその恋人になる理由を考えてるんやん」
「あぁ、なるほどね」
「先週から色々調べたりしとって、それっぽい記事は何個もあったんやけど、どれも同じような内容やし、よう分からんくなったから、蒼依に訊こうと思っててん」
「例えばどういうの見てたの?」
「ちょっと待ってな」
鞄から携帯を取り出し、昨日も見ていたサイトを開いて蒼依にも見えるよう机の上に置いて画面をスクロールする。
私がまず開いたのは恋人と友達の違いについて検索した時に一番上に出てきたサイトだ。
その記事の中から納得できなかった物を蒼依に見せる。
「そうそう、これ。相手が何をしているか気になるってやつ」
「これの何が分からないの?」
「いや、これ別に恋人じゃなくても思うやん。休みの日とか蒼依今何してんねやろ、とか思うし」
「因みにそれ鈴木には思うの?」
「いや、全然」
「……」
わざわざ答えたのに何の反応もなく、気になって蒼依を見ると、眉間に皺を寄せ、まるで汚い物を見るような目で私を見ていた。
「なに?」
「いや……、鈴木が可哀想だなって」
「だから浩二とはまだ付き合ってへんやん」
「いやまぁ、そうなんだけどね」
蒼依の言いたい事が今一理解できなかったが、気にしない事にして画面をスクロールする。
「で、次。相手のために尽くしたいかってやつ」
「これも友達にも思うって?」
「そう。何なら妹にもそう思ってる」
自信満々に言ってやると、蒼依は呆れたように小さく溜め息を吐いた。
「妹は家族だからでしょ」
「でも恋人ちゃうやん」
「愛情的な意味なら一緒でしょ」
「え、蒼依ってそんな事言うんや……」
「帰っても良い?」
「ごめんって」
立ち上がろうとした蒼依の腕を掴んで引き留める。
「で、次が、ボディタッチをされてキュンとする」
「これは……そもそもキュンとしないとか?」
「残念。これは物にも因るけどキュンとはするな。でも蒼依に触られてもするんよ」
そう言うと、携帯がずれないよう抑えていた左手に蒼依の右手が重ねられる。
「これは?」
「ちょっとするかも」
「本当にしてるか怪しいんだけど」
「してるって。心臓がいつもの二倍くらい動いてる……は流石に言い過ぎやけど緊張するからやめて」
しかし蒼依は手を重ねたまま指をゆっくりと動かし、私の手の甲を撫でてくる。逃げたくなる程ではないが、擽ったい。
「じゃあこれを彩綾とか夕夏にやられたら?」
「多分同じ反応すると思う」
「触られるのが苦手……って訳じゃないよね。普段紅音から抱き付いて来てるんだから」
「うん。自分から触るのは全然良いんやけどね」
そう言いながら私は左手を一度引き、蒼依がやったように、今度は私が蒼依の右手の上に重ね、軽く握る。
「……これはキュンとしないの?」
「これはそんなに」
手の平にはあまり蒼依の手の温もりが伝わって来なくて、少し寂しさを感じる。
「あれじゃない? 触れるかどうかっていうより、そのシチュエーション自体にキュンとしてるんじゃない?」
「え、でも妹とかにやられても別に擽ったいだけでキュンとはせぇへんのちゃうかなぁ」
「鈴木は?」
「浩二は……多分緊張する」
「なるほどねぇ」
蒼依は何かに納得したように何度か頷いた。
「蒼依はキュンとせぇへんの?」
「……私も別にしないかな」
「抱き付いたりしても?」
「そう言えば最近抱き付いて来ないよね」
「暑いやん」
「あ、そういう事ね……」
「そういう事。蒼依も嫌やったら言うてや」
「うん。大丈夫」
蒼依がそう言った瞬間、教室の扉がガラガラと音を立てて開き、蒼依と同時にそちらへ顔を向ける。
「あら、まだ残ってたん?」
入ってきたのは担任の先生だ。他の先生に比べて結構若く見えるが、生徒と比べるとやはり大人に見える。
「先生は何をしに来たんですか?」
蒼依が訊ねた。
「ちょっと忘れ物を取りに来ただけやけど。この前も言うた気がするけど、あんまり残ってたらアカンねんで?」
「はぁい。ところで先生は今恋人とかいます?」
蒼依には恐れる物などないのだろうか。
「何? 恋バナしてたん?」
先生の声が少し高くなった。どうやら興味があるらしい。
「恋バナというか、紅音が恋人と友達の違いが分からないとか言ってて」
「へぇ、そういえば最近鈴木と仲ええらしいな」
「この前紅音が鈴木に告白されたんですよ」
「ちょっと」
制止を促す意味で蒼依の腕を突くが、特に気にした様子はなく、微かに口角が上がっているのが分かる。
「なるほどねぇ。それでオッケーしたん?」
「いや、今保留中ですね」
「何で蒼依が全部答えんの?」
「だって紅音は絶対言わないでしょ」
「そらそうやろ」
蒼依に知られるのもそこそこ恥ずかしさがあるのに、全く関係の無い先生にまで詳しい事情を知られるのは喜ばしい事ではない。
「その保留の理由がさっき言うてた恋人と友達の違いが分からんってやつ?」
「そうです」
「そんな難しい事考えた事ないわ」
「先生は彼氏いないんですか?」
半ば自棄になりながら訊ねる。
「おるで」
「えっ」
まさかいるとは思っておらず、思わず声を上げてしまった。
「何? もしかして先生がモテないとでも思ってたんかぁ?」
「いやいや、ただ教師に恋人がいるイメージがなかっただけで……」
慌てて言い訳をすると、先生はくすくすと笑う。
「まぁ確かに出会う機会は少ないけどね。ていうか私の話はええねん。それより恋人と友達の違いやろ?」
先生はそう言いながら教卓に入っていたらしい書類を持って私の隣、彩綾の席に座った。
「感情的な話で言うなら、相手の人が自分以外の女の人と仲良くしてて、応援できるのが友達で、嫉妬するのが恋人とか言ったりするよな」
「なるほど?」
試しに浩二の事を思い浮かべてみたが、嫉妬はしなさそうだった。
首を傾げていると、先生が蒼依を指差して言う。
「じゃあ例えばやけど、鈴木が蒼依ちゃんと仲良くしてたらどう思う?」
「え、嫌や」
反射的にそう答えた。
「いやでも別に浩二が普段別の人と話してても気にならんし……」
「じゃあ鈴木のために尽くしたいみたいなのはある?」
「いや、別に……」
「じゃあ触りたくなるとか」
「ないですね」
淡々と答えると、少しの沈黙の後、先生が困ったような笑みを浮かべた。
「なるほどね。今は普通に友達って感じか」
いつの間にか先生に恋愛相談をしてしまっている事に疑問を持ちつつ、そうですね、と頷く。
「さっき言うた尽くしたいとか触りたいとか思うようになったら好きって事やな」
「え、でもそれ友達にも思いません?」
「……はぁ、なるほど。それで恋人と友達の違いが分からんって言うてんのか」
そういう事ね、と先生は勝手に自分の中だけで納得し、机に肘を突いて明後日の方向を見る。
蒼依と同じ答えが返ってきそうだな、と思いながら暫く待っていると、先生はゆっくりと顔を上げ、一瞬蒼依の方に視線を向けた後、私を見る。
「分からん。お手上げ」
「は?」
「仕事まだちょっと残ってるし、時間もええ感じやから帰ろうかな」
先生はそう言って立ち上がると、書類を持って黒板の前を通り、扉の方へ歩いて行く。
予想外の展開に呆気に取られていると、先生が振り返って手招きをする。
「蒼依ちゃん。ちょっといい?」
蒼依は黙って先生の元へ向かい、二人は私に聞こえないくらいの声量で話し出す。
何を話しているのか気になるが、わざわざ呼び出して話すくらいなのだから、何か個人的な話なのだろう。だとすれば盗み聞きをする訳にもいかない。
それでもやはりこそこそと見えるところで内緒話をされるのは気分が悪い。
私は意識を逸らすために携帯を開き、妹にあげる誕生日プレゼントを考える。
そして五分もしないうちに蒼依は戻ってきて、先生はいつの間にかいなくなっていた。
「終わった?」
「うん」
「じゃあ帰るかぁ」
机の横に掛けてあった鞄を持って教室を出る。
誰もいない校舎はとても静かで、蒼依と二人で何処か別の世界に迷い込んだような、そんなちょっとした特別感がある。
外は相変わらず曇っていて薄暗いが、夕方にしては随分と明るく、もう夏になっているのだと少し憂鬱な気分にさせられる。
じめじめとした嫌な熱気の籠もった玄関で上履きからローファーに履き替えていると、蒼依が声を掛けてくる。
「ねぇ、紅音」
「んー?」
いつもの調子で返事をしながら上履きを靴箱に入れ、そっと扉を閉める。
「本当に鈴木と付き合うの?」
「いや、だからまだ決まってへんって」
蒼依の肩に左手を置き、蒼依を支えにして靴に踵を入れる。
「でも付き合うつもりでいるんでしょ?」
「付き合うつもりというか、断るにも理由がないと断れないというか……」
「理由があれば断るの?」
「そりゃあねぇ。さすがに暴力的な人と付き合おうとは思わんしな」
今まで何度もしたような質問をされて面倒に思い、少し投げ遣りになりつつも答える。
ここ最近ずっと曇っている所為か、御蔭か、外の空気はひんやりとしていて、風が吹くとじめじめとした嫌な空気を吹き飛ばしてくれる。
学校を出て、すっかり見慣れた住宅街を通り、相変わらず狭い道をそこそこの速度を出して走る車に怯えながら狭い歩道を歩く。
いつもと同じようで、何かが違う。何となく、蒼依の様子がおかしい気がしていた。
体調でも悪いのだろうかと顔を覗くが、顔色が悪い訳でもなさそうだ。
じっと見ていると目が合い、どうしたの、と言葉にはせずに首を傾げてみると、蒼依はほんの少し口角を上げて微笑み、何でも無いよ、と首を振った。
何となく寂しくなって、蒼依の温かい左手を捕まえて指を絡ませる。
手の大きさが同じくらいだからか、蒼依とこうして手を繋いでいると、不思議と安心する。相変わらず蒼依は何か考えに耽っているようだが、手に少し力を入れてぎゅっと握ると、返事をするように蒼依の手に力が入る。
そうして遊んでいると、不意に蒼依が口を開く。
「ちょっと公園寄っても良い?」
「え、うん。別にええけど……」
何をするのだろうと思いながら、蒼依と手を繋いだまま、普段は通り過ぎるだけの大きな公園の中に入る。
野球をするには狭いが、サッカーくらいならできそうなくらいの広場があり、その端の方に設置されているベンチに腰掛ける。
幸いにも濡れたり汚れたりはしていないようだが、裏側に虫がいそうな気がして、少し居心地が悪い。
この辺りには誰もいないようで、代わりにどこからか鶯や烏などの鳥の鳴き声が聞こえてくる。
「ほんで、何しに来たん?」
「ちょっと話そうと思って」
「ほう?」
何か言いづらい事なのだろうか。
蒼依は地面に視線を彷徨わせるだけでなかなか話そうとしないので、思い切って気になっていた事を訊ねてみる。
「それってさっき先生と話してた事?」
「……うん。いや、うん。そう」
「……訊いといてなんやけど、別に言いづらい事なんやったら言わんでもええで?」
あまりに蒼依の歯切れが悪いので、心配になってそう言ったが、蒼依は首を横に振った。
「いや、言うからちょっと待って」
「うん」
何となく嫌な予感がして、心臓の鼓動が大きくなるのを感じる。
他の生徒には秘密で先生と話す事とは何なのだろうか。
成績の事なら別に隠さず冗談交じりに話すだろう。相当悪ければ隠して注意する事もあるだろうが、蒼依に限ってそんな事はないだろう。
なら家庭の事情だろうか。それならば隠す理由は分かる。
しかしそれなら蒼依が私に今から言おうとしている事は何なのだろう。
真っ先に思い浮かぶのは引っ越しだが、今年引っ越してきたばかりで半年もしないうちにまた引っ越すなんて事はあるのだろうか。いや、もしかしたらあるのかもしれないが、可能性は低いだろう。
本当にそうだとすれば私の学校での楽しみの大半が無くなってしまうな、と勝手な想像をしていると、蒼依から声が掛かる。
「紅音」
呼ばれて、顔を蒼依の方へ向けると、蒼依もこちらを向いていて、咄嗟に視線をずらす。
「なに?」
「私の彼女になってくれる?」
思わず顔を上げて蒼依を見る。そこにはいつになく真剣な表情で私を見つめる蒼依がいた。
冗談という風には見えなかった。
「えっ……と、それは恋人になるって事?」
「うん。鈴木じゃなくて、私にして」
「でも私女やで?」
それが問題ではない事くらい分かっていた。
「私、紅音の事が好きなの」
「……」
何かを言おうとしたが、言葉が出てこなかった。
「紅音とずっと一緒にいたい。鈴木に取られたくない」
それは私が蒼依に対して思っていた事と同じように思えた。
「だから、私の彼女になって」
どうしよう、どうしようと悩んでいると、頷いてしまいそうになる。
嫌という訳では当然ない。けれど、ここで頷いても良い物かどうか、分からなかった。
蒼依に見つめられ、考えている事をそのまま口にする。
「あの、私、今まで蒼依の事そうやって考えた事なくって、ええと……」
上手く言葉が続かない。頭が回っていない。どうしよう、どうしよう、とただ困惑を表す言葉が延々と頭の中をぐるぐると回り続けている。
「え、と、……私も蒼依とずっと一緒にいたいし、……私も蒼依が好きやけど……、蒼依が私の事を好きって言ってくれて……」
自分が何を言っているのか分からない。
顔が熱い。目に熱が溜まり、涙が溢れ出す。
泣きたい訳ではないのに、今は泣くような場面ではない筈なのに、涙が止まらない。
蒼依から顔を隠すようにして俯き、頬に伝う涙をブラウスの袖で拭いながら、何とか蒼依に思っている事を伝えようと口を動かす。
「でも、浩二も好きって言ってくれて、もっと仲良くなってからって約束したのに……」
そこまで言うと、俯く私の頭の上に柔らかい何かが乗せられ、髪に沿って動く。蒼依に撫でられているのだと気付き、止まりかけていた涙が勢いを増した。
「ねぇ、紅音」
蒼依は私の頭を優しく撫でながら言葉を続ける。
「私と鈴木が仲良くしてたら嫌って言ったでしょ?」
顔を見られたくはないので、俯いたまま頷く。
想像すると、何となくではあるが、良い気分にはならない。
「私に触られると嬉しいんでしょ?」
曖昧に頷く。
嬉しいかどうかは分からないが、今撫でられているのも、決して嫌ではない。
「多分それって、私が紅音に感じている事と同じだと思う。ちょっと自分で言うのは恥ずかしいんだけど、紅音は多分私の事が好きなんだと思う。友達としてっていう以上に……なんて言うんだろう……恋人として……?」
そうなのだろうか。
本当にそうだという確証はない。けれど、妙に納得ができてしまった。
「紅音。こっち向いて?」
散々泣き腫らした顔を見られたくはなかったが、渋々顔を上げて、蒼依を見ると、蒼依は撫でていた手を私の頬に当て、親指で涙を拭った。
恥ずかしさを誤魔化してか、蒼依の言う通り嬉しいからか、うへへ、と変な笑い声が溢れた。それに釣られるように蒼依が微笑む。
相変わらず美人だなぁ、なんて思っていると、蒼依が身を乗り出してきて、蒼依の手によって強制的に顔を上げさせられる。
咄嗟に目をぎゅっと瞑る。
次の瞬間、唇に何か柔らかい物が触れた。
少しして、触れていた物が離れ、私はゆっくりと目を開けるのと同時に、いつの間にか止まっていた呼吸を再開する。
「今日から紅音は私の彼女ね」
蒼依は勝ち誇ったような笑顔でそう宣言した。
どうやら先程のが分かれ道だったらしい。
「随分と強引やな」
「嬉しいくせに」
蒼依の言う通り、今までで一番と言って良い程に幸せな気分で、それが表情に出てしまっている。
このままこの幸せな気分に浸っていたいが、悩みの種でもあった浩二の事が頭に浮かんだ。
「なぁ、浩二に何て言ったらええと思う……?」
浩二に対する決して小さくはない罪悪感が私の中にあった。
一週間待たせて、漸く返事をしたかと思えば保留にすると言って、ただでさえ申し訳ない気持ちがあったのに、その保留期間中に恋人ができたからと断るのはあまりにも酷い事のように思える。
「それは私が鈴木に言うから」
「何て言うつもりなん?」
「紅音は私のだからって」
「ほんまに言うてる?」
「だって、どうするにしても鈴木とは付き合わないって言うんだから、仕方ないでしょ」
「……そっか」
確かに、何をどう伝えたところで、浩二と付き合わないという事には変わりない。それはつまり、どう伝えても浩二を悲しませる事になるという事だ。
「何かせめて少しでも傷付けへんように伝えたりできひんかなぁ」
「だからって嘘を吐く訳にはいかないでしょ?」
「そうやけど……」
「まぁ、伝えるなら早めの方がいいだろうし、明日の放課後にでも一緒に行こっか」
「えぇ……?」
「早く楽にしてあげよう」
「そんな介錯みたいな」
「似たようなもんでしょ」
蒼依は立ち上がり、私に手を差し伸べてくる。
私はその手を取って立ち上がり、ふぅ、と一息吐く。
「目が真っ赤」
「誰の所為やと思ってんねん」
「紅音って結構泣き虫よね」
「そんな事ないし」
「テストの時泣いてなかった?」
「気のせいやろ」
「可愛かった」
「……」
からかってくる蒼依を無視して先に行く。
「紅音」
つい立ち止まってしまった。次の瞬間。
「大好きだよ」
耳元で蒼依の低い声が響き、頭を撫でられた時のような何とも言えない擽ったさを感じた。
そのまま私を追い越していった蒼依の背中を睨み付け、いつかやり返してやろうと心に決める。
上機嫌で歩く蒼依に早足で追いつき、歩調に合わせて揺られる腕を捕まえて、いつもと同じように指を絡ませる。
いつもと同じ事をしているのに、蒼依が恋人だと思うと、心臓の鼓動が大きくなる。
しかしそれ以上に心が満たされ、多幸感で自然と頬が緩む。
今なら中学生の時にうんざりする程彼氏とした事を報告してきた友達の気持ちが分かるような気がした。
そこでふと思った。
恋人って何をすればいいのだろう。
ついこの間も持った疑問。いつの間にか話題が逸れて忘れてしまっていた事だった。
「なぁ、蒼依。ちょっと訊いてもいい?」
「何?」
「恋人になったけど、何したらええの?」
「えっと……、それはどういう意味で訊いてるの?」
「どういうって……そのまんまの意味やけど?」
蒼依はいつものように唇に指を当てて、少しの間考え込む。
「まぁ、紅音はいつも通りでいてくれたらええよ。あ、でも鈴木と二人で帰るのはやめてほしい」
「あ、うん。それはそうやな」
確かに、いつも通りに過ごすとすれば下校時に浩二と一緒に帰る事になるが、それは浮気という事になってしまう。恋人や恋愛について何も分からない私でもそれくらいは理解できる。
「部活っていっつもどれくらいに終わってんの?」
「部活は……六時とか過ぎるし、別に待ってなくてもいいよ」
「そっか……」
少しくらい帰るのが遅くなっても問題はないし、どうせなら一緒に帰ろうと思ったのだが、蒼依は蒼依で普段から部活の友達や先輩たちと帰っているのだから、あまりそれを邪魔したくはない。
ほぼ毎日会っているからいいか、と微かに感じた蟠りを見ない振りして強引に納得する。
駅に着き、改札を抜けて、いつも通り手を振って別れる。
その時、いつもより強く寂しさを感じた。
友達から恋人になっただけでこんなにも変わる物なのかと自分の事ながら笑えてくる。
ネットで調べていた中に、その人なしで生きるのは辛い、と書いてあり、さすがにそれは大袈裟だろうと思っていたが、今なら理解できる気がした。
階段を降り、既に到着していた電車に乗り込む。
空いている席に座り、窓の外を見ると、蒼依と目が合い、手を振る。
何度もやっていた事なのに、嘗て無い程に幸せな気分で胸が満たされている。
電車が動き出し、蒼依の姿が遠く離れていく。
住宅街を抜け、窓から見える景色は田んぼや山ばかりの田舎に変わる。
鞄に入っている殺伐とした小説なんて、今は読む気にはならなかった。
つい数分前に別れたばかりなのに、もう蒼依と会いたくなってしまっていた。
一瞬、浩二の事が頭に浮かび、気分が沈むが、蒼依がいれば大丈夫なような気がした。
蒼依がずっと一緒に居てくれるなら、私はきっと何でもできる。
そんな気がした。
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