第8話 5月26日

 聞き慣れたチャイムの音が黒板の上に取り付けられたスピーカーから大音量で流れる。


 最後の音が鳴り、完全に消えてしまうその瞬間までの間にクラス番号や氏名を書き忘れていないかどうか確認し、鉛筆をそっと机に置いた。


 答案用紙が回収され、先生の号令によって中間試験が終わった事を告げられる。


 両手を前に伸ばして凝り固まった身体を解すと、緊張も一緒に解けて全身から力が抜ける。そのまま机に突っ伏して前に座る蒼依の背中に触れると、同じく伸びをしていたらしい蒼依がゆっくりとこちらに振り向いて手を握ってくる。


「へーい、お疲れー」

「お疲れ様」


 疲れの色が混じった声で私が労いの言葉を掛けると、蒼依は力が抜けたような笑みを浮かべて同じ言葉を返してくれる。


 午前だけとは言え三日間で合計十科目の試験を終えて、普段の授業とは違う疲労感があった。しかしそれと同時に確かな達成感を得ていた。


 さっさと家に帰りたい気持ちを抑え、蒼依と今日の試験について振り返りながら割り当てられた清掃場所である視聴覚室に向かう。その途中で合流してきた同じ班である桃子も加わって試験についての愚痴のような感想を言い合いつつ箒でゴミを集め、忘れ物などがないかを確認して教室に戻る。


 教室に戻ると既に掃除が終わっていて、彩綾と夕夏が当たり前のように私の席で弁当を広げて待っていた。夕夏に至っては私の席に我が物顔で座っている。


「二人ともお疲れー」


 彩綾が試験勉強から解放された事への喜びが滲み出る笑顔を向けてくる。


「お疲れ様。しれっと私の机使ってるけど、私帰るからな?」

「もう帰るの?」

「残ってもやる事ないしな」

「私らが昼食べ終わるまで居ったら?」

「いや、私も早よ帰らなお昼ご飯がおやつになるし」


 机の横に掛けていた鞄を取り、占領されている私の机の代わりとして蒼依の机の上に鞄を置く。


「あ、提出物ある? 何なら帰るついでに出してくるけど」

「あぁほんまや。忘れてた。頼んでもいい?」

「紅音。私のもお願い」

「おっけー」


 夕夏も無言で流れに乗ってノートを差し出してくる。


 三人分のノートを受け取り、それらを鞄に入れて肩から提げる。


「じゃあみんな部活頑張ってな」

「うん。ありがとー。またね」


 三人に見送られ、託された提出物を忘れずにしっかりと職員室前のボックスに入れる。もちろん自分の分も忘れずに入れておく。


 せっかく試験勉強を頑張って本番も手応えを感じたというのに、提出物を忘れた事によって成績が下がってしまっては勿体ない。高校デビューをすると決めたからにはこういうところもしっかりとやっていきたい。


 階段を降りて薄暗い昇降口に向かう。上履きを脱いで簀の子の上に立ち、ローファーを地面に気持ち丁寧に投げ捨てて、靴箱には代わりに上履きを入れる。トントンと地面を蹴って踵を入れ、さっさと家に帰ろうと、雨の降りそうな薄黒い雲の下に出る。


 このまま雨が降ってこない限りはさらさらとした風が心地良い最高の天気だ。雨が降ってきたとしても日光の降り注ぐ快晴よりは何倍もマシだろう。汗をかく暑さよりも着込めば何とかなる寒さの方がずっと良い。


 好きな天気になった事と中間試験が終わった開放感で鼻歌でも歌ってしまいそうな程の上機嫌になった私は軽い足取りで門に向かう。


 偶然か必然か、そこには自転車に乗って誰かを待っているらしい浩二がいた。


「あ、来た来た。お疲れ、紅音」


 どうやら必然だったらしい。


 私ではない誰かの可能性も考慮していたが、名前を呼ばれた時点でそれはなくなってしまった。


 仕方なく浩二の側に寄り、足を止めて声を掛ける。


「何してんの?」

「紅音を待ってた」

「何で?」

「何でって……一緒に帰ろうかなって」

「何で?」

「まぁええやん。帰ろ」


 それ以上の理由はないらしい。


「別にいいんやけどね」


 そう言って私は再び歩き出し、浩二が自転車から降りて隣を歩く。


「何か久々な感じするわ」

「テスト期間中は蒼依とかと一緒に帰ってたからな」

「おかげで寂しかったわ」

「一緒に帰る友達居らんの?」

「いや、居るで」

「じゃあええやん」


 こうして一緒に帰る中で気付いた事だが、こういった日常会話で浩二の口から出る言葉の半分くらいは嘘と誇張で構成されている。


 その大半はこちらには何も関係がなく、何の害もない戯言なので、あまり真面目に聞く必要も無ければ嫌う必要もない。お笑い芸人のボケだとでも思って聞いていれば腹が立つ事も無く普通に会話はできる。


 真面目な話し合いの場で今と同じような調子で来た時は、思い切り殴り飛ばしてしまえばいい。


「いや、居るには居るんやけど、あんまり話についていけへんねんなぁ」

「そうなん?」

「俺がいっつも一緒に居る奴等って、何かこう……『ザ・陽キャ』って感じやん?」

「いや、知らんけど」

「ほら、谷口とか遠山とか」

「分からん」


 名字を言われたところで、授業や清掃などで何度か会話をした事もある同じ班の男子ですらまだ覚えていないのに、全く関わりの無い男子の事など覚えているわけがない。ついでに言えば名簿の後ろの方の女子も全く関わりが無いので覚えていない。


「んー……まぁそういう奴等が居んねんけど、そいつらと俺とじゃ好きな物が違うから話が全く分からへんねん」

「へぇ、そうなんや」

「そう。俺はアルバイトして家帰ったら家事手伝って、空いた時間にゲームやってんねんけど、他の奴等はゲームとかやってないっぽいし、アルバイトもしてへんやん。で、あいつらは何の話してるかって言うと、やっぱ部活の話とか昨日やってたテレビとかの話してるんよな。でも俺テレビそんな興味ないから共感できる話が全然ないんよな」


 家事は嘘っぽいな、と少々失礼な事を思いながら浩二の愚痴のような話を聞いて、疑問に思った事をそのまま訊いてみる。


「何でその人らと連んでんの?」

「いや、何か流れで」


 はは、と浩二は乾いた笑い声を漏らし、言い訳を重ねる。


「何かそういうなんない? 席近いから仲良くなったけど全然共通の話題がなくてどうしよー、みたいな」

「分からんでもないけど……」


 静寂を埋めるように浩二が話を進める。


「そういえば紅音とはそういう話してへんな」

「うん」

「紅音は普段家で何してんの?」

「普段って?」

「じゃあこれから家帰って何するん?」


 訊かれて、軽く頭の中でシミュレーションを行う。


 家に帰ると恐らく妹が既に帰っていて、試験勉強も一段落したため、妹とゲームをするか、部屋に籠もって次の授業の予習をするか、のんびりと昼寝をするかのどれかだ。


「多分妹と遊ぶ……かな」

「へぇ、妹居るんや」

「うん」

「妹と何すんの?」

「多分ゲーム」

「ゲーム好きなんや」


 浩二の声が少し高くなった。


「妹がな」

「ゲームって何すんの?」

「何かスポーツ系のやつが何個か入ってるやつやと思う」

「それ一緒にやんねや」

「うん。あとは対戦できるパズルゲームとか」

「あー、俺パズル苦手やねんなぁ」

「私も苦手やし、妹にも負ける」


 画面上部から落ちてくるブロックを綺麗に横一列に並べて消していくという単純なパズルゲームだが、対戦となるとより早いスピードが求められて、私はすぐにパニックになって負けてしまう。妹もそれほど得意ではないようだが、私よりは確実に上手い。


「紅音自身はゲームやらんの?」

「うん。妹がやってるの見るか、たまに一緒にやるくらい」

「じゃあゲーム以外なら何やんの?」


 次々に投げかけられる質問を少々面倒に思いながらも答える。


「それ以外なら勉強やな」

「テスト終わったのに?」

「うん。私そんなに頭良くないから予習とかもしっかりやらなすぐ置いてかれる」

「そうなんや。てっきり勉強はできるもんやと思ってたけど」

「浩二は勉強できんの?」

「俺はまぁそこそこやな」


 そうやって謙遜して言う人程こちらが想像する以上にできるものと決まっている。


「それで私より点数上やったら殴らせろ」

「何でそうなんねん」

「何か勉強のコツとかない?」

「勉強のコツ? そんなん普段からやってる紅音の方が知ってるんちゃうの?」

「何かあるんやったら訊いときたいやん」

「あー……でも俺ほんまに普通に書いて覚えてるだけやからコツも何もないで?」

「そっか」


 初めからあまり期待していなかったが、面白さの欠片もない答えに落胆する。


 それからまたゲームの話に戻り、浩二が家でやっている事などの話を聞いていると、あっという間に駅に着いた。


「ほんじゃあまた来週」

「うん。バイト頑張ってな」

「おう」


 ひらひらと小さく手を振ると、浩二も同じようにして手を振ってから自転車に乗って走り去って行った。


 すぐに姿が見えなくなり、改札を通り、ホームで電車を待つ。


 五分も経たないうちに電車が到着し、昼過ぎの微妙に人が多い車輌に乗り込む。


 学校に向かう時は時間を潰すために小説を読むが、学校帰りは色々と疲労が溜まっていてあまり小説を読む気にはなれないため、ぼうっと外の景色を眺めて過ごす。


 住宅街を通り、林を抜けると田園風景に変わる。また少し古ぼけたような住宅街があり、一級河川とは思えぬほど水の少ない川を渡り、電車を乗り換える。


 そしてまた森と田園を抜けると、都会風の田舎に着き、人のいない電車から降りる。


 田舎の有り余る土地を使った贅沢な広場を通り、家に向かってほぼ真っ直ぐに進む事十分。テストが終わってから一時間とちょっと。漸く家に帰ってきた。


「ただいまー」


 玄関で靴を脱ぎ、洗面所で手を洗ってからリビングの扉を開けると、バタバタと足音が階段を下りてくる。


「お姉ちゃんおかえりー!」

「ただいま、涼音」


 階段を降りてきた勢いのまま抱き付いてくる涼音をしっかりと受け止め、頭を優しくなでてやる。


「お腹空いたー」

「先着替えてくるから手ぇ洗って待ってて」

「はぁい」


 階段を一段ずつゆっくりと上り、部屋に入って中身が殆ど入っていない鞄をベッドに放り投げる。ブレザーとスカートをハンガーに掛け、服をまとめて入れてある籠の上から取った物に着替えて、シャツを洗濯籠に出してから妹の元に戻る。


「今日何すんの?」

「何でも……は無理やけど、何がいい?」

「うーん……オムライスとか?」

「じゃあオムライスで」


 妹のリクエストに応え、早速冷蔵庫から卵やケチャップなどを取り出す。ご飯は朝から炊いてあるため問題ない筈だが、念のため確認しておく。


 あまり凝った事はしない。ただケチャップライスに適当な具材を混ぜて卵で包むだけだ。


 妹に何を入れたいか訊ねると、ウィンナーさえ入っていれば後はいらないと言われたが、せめて野菜は一つくらい入れようと、妹に玉ねぎの皮を剥いて貰い、その間にフライパンに油を入れて温めておく。


 玉ねぎを細かく切ってフライパンに流し入れる。ウィンナーも小さく切って一緒に炒めた後、塩こしょうで味付けをして、ケチャップと、少しだけ残っていたトマトピューレを加えて混ぜ合わせる。


 その後温かいご飯を入れて混ぜ合わせ、塩こしょうをまた少し掛けて軽く炒める。


 出来上がったケチャップライスをボールに移し、フライパンを洗い、水気を取ってからまた油を入れて熱しておく。


 この辺りはもうすっかり慣れた作業だ。


 私と妹だけでご飯を食べる時は大抵オムライスがリクエストされるため、今回も何となく分かっていて朝からご飯を炊いていた。


 妹は私がオムライスしかできないとでも思っているのか、それともただオムライスが好きなのか。私の作るオムライスが好きでリクエストしてくれているのなら喜ばしい事だが、実際のところはどうなのかとわざわざ聞くつもりはない。


 隣でじっと見つめる妹の視線を気にしないよう努め、半熟になった卵生地の上にケチャップライスを三日月の形で乗せて、卵生地で包む。


「おぉ~さすが」


 目を輝かせてパチパチと拍手をされ、居た堪れなくなって手に持っている物を投げ捨てたくなる気持ちをぐっと抑えながら皿に移す。


「我ながら天才では……?」


 まるで見本のように綺麗な形に出来上がったオムライスを見て思わず自画自賛する。


「うんうん。お姉ちゃん天才!」

「ね! お姉ちゃんだってやればできるんやから!」


 気分を良くした私は先程と同じようにケチャップライスを作り、慣れた手付きでオムライスを作る。


 妹に作った物が会心の出来だとすれば、これは及第点だろうか。


 卵を焼き過ぎたのか何なのか、所々虫食いができてしまい、包むのもあまり上手くできなかったが、一応オムライスには見える。


「まぁ自分のやし」


 自分の分は美味しければ何でも良い。特にこれといってこだわりもないのだから。


「あ、お茶も用意してくれてたんや」

「お姉ちゃんもこれでよかった?」

「うん。ありがと」


 妹の隣に座り、コップにお茶を注ぐ。手を合わせ、声を揃えて「いただきます」と言って食べ始める。


 妹は普通にケチャップで文字を書いて食べ始めたが、私はこの崩れたオムライスを普通に食べる気分にはならなくて、冷蔵庫から胡麻ダレを持ってきてそれをケチャップの代わりに掛けて食べる。


「お姉ちゃんまた変な食べ方してる……」


 妹は口を尖らせて、動かなくなった虫でも見ているかのような目で私のオムライスを見る。


「食べる?」


 美味しいからと勧めてみると、誰かに似て好奇心旺盛な妹はスプーンで胡麻ダレの掛かった所を切り取り、変だと言っていた割には少しも躊躇わずに口に入れた。


 妹は首を傾げて何度かそれを噛み、そしてうんうんと頷き飲み込んだ。


「うん。美味しい」

「うんうん。やってみるもんよなぁ」


 それからお互いのオムライスを分け合いつつ綺麗に完食し、食器を軽く水で洗って食洗機に入れておく。


 テーブルを除菌シートで拭いていると、妹が予想していた通りの提案をしてくる。


「お姉ちゃんゲームやろー」

「うん。ちょっと待っててな」


 これから眠たくなる可能性はあるが、その時は妹も誘ってしまえばいい。せっかくテストが終わったばかりなのだから、勉強も夜にやればいい。


 私がテーブルの上を片付けている間、妹は私とやるゲームの準備をしていた。


「今日は何すんの?」

「今日はこれやるから、はい」


 渡されたのは、父が子どもの頃によくやっていたというゲーム機のコントローラーだった。


 家にあるのは知っていたが、実際に触るのは初めてだ。


「そういえば昨日何か話しとったな」

「そう。パパに言ったら用意してくれてん」

「なるほどねぇ」


 私はそう言いながら眼鏡ケースを平べったくしたようなコントローラーをくるくると手の中で回して観察する。


 そうしている間に妹がゲームを起動し、如何にも昔らしいゲーム画面が表示される。


 一応ストーリーはあるらしいが、今日やるのはプレイヤー同士で対戦するミニゲームのようなもの。


「私これ何も操作分からんけどええの?」


 説明書はないのだろうかと、辺りを探すが、ゲームが入っていたと思しき箱の中は空で、妹の周りにもそれらしいものはない。


「こういうのは実際にやって確かめるのがいいねんて」

「そう?」

「うん」


 確かに今まで妹が新しいゲームを始める時に説明書を読んでいるところを見た事がない。


「私が白でお姉ちゃんが右下の黒い方やからね」

「うんうん」


 周囲をブロックで囲まれており、それを爆弾で壊すと中からアイテムが出てくる事があるらしい。


 操作を一つずつ確認しながらブロックを壊していくと、ブロックと爆弾に挟まれて動けなくなってしまった。


「あっ」

「あっ、お姉ちゃん死んだー!」

「ごめん待って。もっかいやらせて」

「まだコンピューターいるしちょっと待ってー」

「うん。涼音応援してるわ」


 妹の操作する白い頭のキャラクターを見ている限り、妹は既に操作に慣れ始めている事が分かる。私の操作していた黒い頭のキャラクターとは違って動きに無駄がないように見える。


 やがてコンピューターとの爆撃戦に勝利し、二回戦が開始される。


 このゲームの操作は最近のゲームと比べるとすごく簡単で、ゲーム慣れしていない私でも妹を倒す事ができた。


「珍しくお姉ちゃんが強い……」

「私多分このゲーム上手いわ」


 そう調子に乗っていると、三回戦では自滅し、その次も妹の置いた爆弾に挟まれて倒されてしまい、最終的にはいつも通り妹の優勝が決まってしまった。


「何でそんな上手いん?」

「お姉ちゃんがゲームやらなさすぎなんやって」


 私もそれほど悪いプレイはしていないつもりだったが、やはりコントローラーの扱いに慣れていない私では妹に勝つのはなかなか難しい。


 そんな私でも妹に勝てるゲームと言えば謎解き系のものになるのだが、今日はそれをやる気分ではないらしい。


「次ステージ変えてやろう」

「うん」


 地面が凍っていて滑るステージやブロックがきのこになっていて壊してもまた生えてくるステージなど、いくつかのステージを遊んでいると、いつの間にか結構な時間が経ってしまっていて、玄関から母の声が聞こえてきた。


「ただいまー」

「あ、おかえり」


 仕事から帰ってくる途中で買い物もしてきてくれた母が疲れた様子で食堂のテーブルに荷物をゴトゴトと音を立てて置いた。


 いつも父が飲んでいるコーヒーだろうか。何か重いものがいくつか入っているらしい。


「また懐かしいゲームやってんなぁ」

「涼音にボコボコにされてるわ」

「紅音はこういうゲームは全然せぇへんもんな」

「でもお姉ちゃん強いよ」

「まぁ他のよりはね」


 喋りながらやるとただでさえ下手な操作が更に下手になり、会話とゲームのどちらにも集中できず、私は自分の爆弾でやられてしまい、妹が当然のように勝ち残った。


「そろそろ終わろっか」

「うん。楽しかった!」

「そりゃよかった」


 妹の頭を撫で、一緒にゲーム機をテレビの横に設置されている棚の中に片付ける。


 そこには、今遊んでいたような古いゲーム機から最近出たばかりのものまでたくさんのゲーム機が収納されていて、古い物は全て父が子どもの頃に遊んでいた物で、妹はどうか分からないが、私はまだ遊んだ事のない物もいくつか置いてある。


 次はこのうちのどれかを遊んでみても良いかもしれないと思ったが、恐らく明日には忘れて結局やらないのだろうなと思う。昔からゲームにはあまり興味がないのだ。


「ママ今日夕飯何すんの?」


 キッチンに移動し、母が買ってきてくれた食材を冷蔵庫に入れる。


「今日はカレーでもしようかなって」

「いいね。じゃあご飯炊いとくで」

「うん、お願い」


 ご飯が炊けるのを待つ間、カレーに入れる具材を切ろうと人参や玉葱を並べていると、トイレに行っていた妹が戻ってくる。手伝うと言ってくれたため、昼とは反対に私が皮を剥いて、妹に切るのを任せる。


「そういえば紅音、テストどうやった?」


 不意に母がそんな事を訊いてきた。


「まだ返ってきてへんで?」

「そんなん分かっとるわ」

「思ってたよりはできたと思うけど……どうやろ」

「九十点以上一つにつき五百円やな」

「今それ言う?」

「別に先に言うても変わらんやろ」

「いや、先に言うてくれてたらもっと頑張れたかもしれんやん」


 眉を顰め、にやにやと笑う母に文句を言っていると、ザクザクと力を込めて食材を切っていた妹が手を止めて羨ましそうにこちらを見ていた。


「いいなぁ」

「涼音も中学生になったらそうするから」


 母が宥めるように優しい口調で言う。


「お姉ちゃんもそうやったん?」

「うん。全然取れへんかったけどな」


 中学生の時も勉強は頑張っていて、ゲームなどに時間を使っていない代わりに周りのどの子よりも勉強していた自信はあるが、それでも七十点辺りをうろうろとしていて、九十点は一つ取れていたらラッキーという程度だった。


 友人たちが勉強会でも遊んでいたりして如何にも勉強は充分にできていなさそうなのに、余裕で私よりも高い点数を取っていたのは今でも納得していない。


 授業態度などのおかげで成績だけはいつも私の方が良かったのが救いだろうか。もし友達の方が高かったなら私は挫けて不登校にでもなっていたかもしれない。


「涼音やったら全部九十点以上取ってきそう」


 話しながら妹が切った玉葱と人参を鍋に入れて炒めた後、水を加えて煮込む。


「さすがにそれはないんちゃう?」

「だって涼音、小学校のテストいっつも満点に近いやん」

「だって覚えるだけやもん」


 小学校のテストとは言え、科目数はそれほど変わりないだろうし、以前見せてもらった時も妹が丸をもらっている問題でも分からないところがいくつもあった。決して簡単な問題というわけでもない筈なのだが、妹は当然の事のように満点を取ったりする。


 妹だったらきっと何だってできるのだろうと思う。


「涼音は将来何かやりたい事ってある?」


 ふと気になった事を訊いてみる。


「うーん……」


 妹は俯き気味に首を傾げて目線を下にやって悩み始める。


 私は自分で質問しておきながら、それを見て少し意外だと思った。絵を描くのが好きで部屋を覗くと大体絵の練習をしているため、てっきりそれに関連する事を即答するものだと思っていた。


「絵は描かへんの?」


 悩む妹を待ちきれずに訊ねる。


「絵を描くのは好きやし上手くなりたいけど、働くなら何か別のもやってみたい」


 どうやら私なんかよりも妹の方がずっと将来の事について考えがしっかりしているらしい。


 適当な返事をして、鍋に豚肉を入れる。色が赤から白になったあたりで市販のカレールーを溶かし、とろっとするまで煮込む。


 そうしている間に再び玄関のドアが開く音が聞こえてきた。


「ただいまー」

「パパおかえりー」


 母と妹が声を揃えて父を出迎え、私も遅れて「おかえり」と顔を覗かせる。


「おっ、今日はカレーか」


 キッチンに水筒と弁当箱を置きにきた父が鍋を覗き込み、香りを嗅いだ後、私の頭に手を乗せる。蒼依の手よりも大きな手で雑に撫でられ、頭が揺れる。


 鬱陶しいような嬉しいような微妙な気分で髪を整える。


 父が着替えを済ませた頃、ご飯も炊きあがり、昼食にも使ったものと同じ種類の皿にご飯とカレーを盛り付ける。それを妹が食卓に運び、お茶や醤油なども持っていく。


「いただきます」


 家族で声を揃え、食べ始める。


 食べている間は誰も何も喋らない。コロナが流行っていた時期に学校でやっていたような黙食は私の家族にとっては普通の事だ。


 テレビも何も付けずカチャカチャと食器がぶつかる音だけが部屋に響く。


 そうして静かに全員が食べ終わり、「ごちそうさま」と儀式的に言って片付ける。


 食器洗いは両親に任せ、妹が最初に風呂に入り、私はその間部屋でのんびりと過ごす。


 私の部屋は蒼依の部屋よりも広い筈だが、本棚やベッドを置いている所為であまりそうは見えない。


 期末試験の時は蒼依を呼ぶ約束をしていた事を思い出し、勉強するスペースがない事に気付く。


 思えば中学生の時も勉強会をしたのは私の家ではなく毎回相手の家だった。その子の家が学校のすぐ近くで、集まるメンバーの丁度中間地点にあって便利だったため、他の人の家にしようという事にはならなかった。


 部屋を出て階段を降りる。両親は色違いの座椅子に座ってテレビを見ているようだった。


「ママ、何かちっちゃいテーブルとかない?」

「テーブル?」

「うん。期末試験の時に友達が家に来るから、そんときに使いたいんやけど」

「キャンプの時に使ってたテーブルやったらあるけど……」

「あれは高すぎるやろ」

「キャンプの椅子も出すか?」

「部屋の中で?」

「ええやん。夏やし」

「嫌やわ。外でやるとしても嫌やし」

「じゃあどうしよ。明日にでも買いに行くか?」

「うん。急ぎで欲しいわけじゃないからいつでもいいけど」

「はいはい。分かった」


 用事を終えて部屋に戻ろうかと思ったが、そろそろ妹が上がってくるだろうと、空いている座椅子に腰を下ろして待つ事にした。


 それから五分程テレビを見ていると、妹が少し髪を濡らしたままリビングに来て抱き付いてくる。


 テーブルに置かれているお茶を一杯飲み干して風呂に向かう。のんびりと服を脱ぎ、かけ湯をして軽く全身を洗い流し、湯船に浸かる。


 世の中には二時間かそれ以上の時間風呂に入るという人がいると聞くが、きっとその人たちは湯船の温度を低めに設定しているのだろう。


 私も妹も低めの温度が好きで、初めは私たち姉妹に合わせて三十八度くらいに設定してあり、私が上がる時に温度を上げるボタンを押してから上がる事で、熱めの風呂が好きな両親も気持ちよく使える。


 温かいお湯に肩まで沈め、湯船の縁を枕のようにして凭れかかって目を瞑る。そうしていると徐々に意識が薄れてくるので、体勢を変えて湯船の縁に腕を置き、それを枕にして眠る。


 これをやる注意点としては、下手をすると溺れかねないという事と、湯船から出たときに目眩がするという事くらいだろうか。


 何度か怒られた記憶があるが、やめるつもりはない。


 ふと目を覚まし、ゆっくり湯船から出て身体を丁寧に洗う。妹も好きだと言ってくれた髪を綺麗に保つために特に丁寧に扱う。それは風呂から出た後も同じだ。


 バスタオルで全身の水気を取り、高校の入学式の前に行った美容室で教えてもらった手入れの方法に従って髪を乾かし、ケアをする。


 歯磨きを忘れずに行い、最後に鏡を見て満足し、リビングに戻る。


 少しだけ母と話した後、コップ一杯のお茶を一気に飲み干し、自室に向かう。その途中で妹の部屋に立ち寄る事にする。


 コンコン、と軽くノックをすると、はぁい、と気の抜けた声が返ってきて、ゆっくりと扉を開ける。


 妹はベッドに座って漫画を読んでいた。


「どうしたん?」

「寝る前にちょっと寄っただけ」

「そう」


 私は妹の元へ行き、妹の頬に頬を重ね合わせる。


「おやすみ、涼音」

「うん。おやすみ」


 それだけ言って、私は妹の部屋を出て自室のベッドに寝転がった。


 思い返すと今日は何もしていない。


 朝起きて学校に向かうまでの間は本を読む代わりに勉強していたが、午後からはずっと遊んでばかりだった。


 ここ最近はずっと勉強ばかりだったため、たまにはこんな日があってもいいのかもしれないが、少しだけ罪悪感のような物を抱いていた。


 溜め息を一つ吐き、体を起こして扇風機を付け、机の上に置いてある携帯を取る。


 電源を入れるが、メッセージも通知も、何も届いていない。


 忘れないようにと設定した蒼依の生年月日を入力し、動画サイトを開いてみるが、どれも見る気が起きず、結局何もせず携帯を放り出してベッドに寝転んだ。


 もう今日は早く寝てしまおう。


 いつもより一時間程早いが、眠れない事はないだろう。


 こんなつまらない一日は早く終わらせてしまった方が良い。

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